共振 第1話

第1話

 カランコロンカラン。

 Cafe Diningグラス&ウールという名のお店は、木でできたドアを開くと、赤茶けたベルが、乾いた金属音を立てる。その音はどこか、牧場で飼育されている牛の首についた鈴の音を、芽衣に思い起こさせた。グラス&ウール。「牧草と羊毛」という店名のせいだろうか? そのお店は、駅前の商店街と住宅街とが混ざり合う路地裏にあって、どことなく、人目を引きたいのか隠れたいのか、よくわからない印象の店構えだった。深い赤色の大きな鉄看板が掲げられている。それなのに、道からは微妙に見えにくい角度に掲げられているというのが、その印象の原因かもしれない。

「どう? 普通でしょ?」

 里奈さんは扉が閉じないように体を入れて、芽衣と雪乃を通してくれる。まるで自分のお店を紹介しているかのように、少し照れくさそうに笑っている。

「わぁ、お洒落―。やっぱり、里奈さんはセンス抜群ですねぇっ」

 芽衣の友達、雪乃は、ちょっと大げさと思えるくらいに声を上げる。とても素直な子なのだ。芽衣もお店の中を見回した。南欧風(?)のインテリアは、確かになかなか良い雰囲気を醸し出していた。暖かな日差しの降り注ぐ、ヨーロッパの田舎風………、といったところだろうか? カウンターがあって、壁のあちこちに絵が飾られている。小人の置き物や観葉植物を避けるように、小さなテーブルと椅子が並ぶ。そして一番広い場所には、8人くらいで使うような、大きな円卓が置かれていた。

 芽衣には、いつも大人しい雪乃が、あえて大きな声を出して楽しそうに話す理由が良くわかる。これから初めて会う、「サークルの人たち」に対して、少し不安を感じているのだ。

「いらっしゃい。………里奈のお友達だね。お待ちしてましたー」

 髭を伸ばしたスマートな男性が、慣れた笑顔を見せる。雪乃と芽衣はその顔を思わずガン見してしまう。この人が………。里奈さんが「ずいぶん長いこと」、気になっている、喫茶店の格好いいマスター………。ピタッとしたハイネックの黒いシャツと、腰にモスグリーンのエプロン。その人は、喫茶店の店長というよりも、ジャズピアニストと言われたほうがしっくりくるような、細身の美男だった。

。。。

 吉住芽衣はこの喫茶店から3つ駅をまたいだところにある、私立青蘭学園の高等部に通う、3年生。この高校の生徒たちは半数以上が青蘭学院大学にエレベーター式に上がるため、高3とはいっても、ずいぶんノンビリと、女子高生ライフを過ごしていられた。先月の夏休みは、子ども用の遊戯施設での、短期アルバイトに勤しんだ。オットリしたブルジョア学校である青蘭学園では、高3の夏休み限定で、一定の職種でのアルバイトを認めている。社会勉強という目的で………だ。芽衣も、同学年の雪乃も、その遊戯施設で初めて、仕事をしてお金を頂くという経験を得た。そしてその、バイト先で知り合ったのが、田宮里奈さんだ。デザインの専門学校に通いながら、バイトを掛け持ちしているという、エネルギッシュで格好いい、バイトの先輩だった。

 田宮里奈、松藤雪乃、吉住芽衣は、バイト先で子供たちを集めてお遊戯やゲームを指揮するという「レクリエーション担当」に指名されて、チームを組んだ。里奈さんはとても子供の扱いに手慣れていたし、雪乃は恥ずかしがり屋だけれどエレクトーンがとても上手。芽衣は、画用紙を使った工作やバルーンアートの上達が早かったので、3人のチームはとてもうまくいった。チーフや先輩たちからは勝手に、「レク担の美人三姉妹」と呼ばれていたそうだ。

 ショートカットの芽衣。ストレートでロングの髪が良く似合う、お嬢様タイプの雪乃。そしてウェーブのかかった髪に、ハーフのようにハッキリとした顔立ちの里奈さん。3人はそれぞれタイプも個性も違うのに、バイトの先輩たちは一括りに「美人姉妹」と呼んでいたらしい。芽衣はそのことを考えると、少しだけ居心地が悪いものを感じた。雪乃のような美少女と一緒にカテゴライズされてしまうと、かえって自分の平均的な風貌が悪目立ちしてしまうような気がしたからだ。芽衣はたまに他人様から「美人だ、美少女だ」とお世辞を頂くことはあるが、自分自身では「雰囲気美人。実は顔の作りは地味目」と思っている。

 それでも、3人でいる時は、とても楽しかった。レクリエーションの時間以外は、他の担当を手伝ったり、控室にこもって、次のレクリエーションの準備をした。折り紙や風船の犬を作っている間、3人で沢山、お喋りをした。芽衣が松藤雪乃とこれほど仲良くなったのも、このバイトで偶然一緒になったからだった。中高一貫で私立校に通っている芽衣や雪乃にとって、2つ年上でアルバイト経験も豊富な里奈さんの話は、いつも面白くて刺激的だった。雪乃は聞いているうちに、いつも折り紙のクマや風船のイヌを、作りすぎてしまっていた。

 そんな里奈が、ふとした会話の流れで教えてくれたのが、『NASC』という、サークルというか、同好会のような集まりの話だった。

「NASC武蔵野っていう、社会人サークルがあってね。………ニューエイジ、スピリチュアル・コミュニケーション………だったかな。名前はなんかアヤシイんだけど、ぜんぜん普通の、リラクゼーションとか、デトックスとか、お互いの人間力アップみたいなことしてる集まりがあるの。ここから駅1つだから、歩いても行けるくらいのとこにある、喫茶店で、やっててね………。週2回とか集まって、色々教えてもらったり、試したりするの………。なんか、説明が難しいんだけどね。ははっ………」

「そうなんですかぁ。リラクゼーション? ………ヨガみたいなものですか?」

 雪乃がつぶらな目をパチパチさせながら、質問する。

「ん~。別にそんなに、体動かすとかでも、ないんだけどね」

 言葉を選びながら、返事する里奈さん。目は手元のティッシュペーパーで作ったバラから離さない。いつものハキハキした里奈さんの様子とは、少し違って、照れくさそうに、困ったように話す。

「人間力アップ…………。自己啓発セミナーみたいなものですか?」

 芽衣が聞いてみると、里奈さんは大げさに手を振って否定した。

「いや、そんな怪しげなものじゃないよ。…………って、言っても、こうして話して説明しようとすると、どうしても怪しいか………。ま、別に私もそこで話されてること全部信じてるとか、興味があって、とかっていう訳じゃないの。どっちかっていうと、ちょっと気になる奴がいて。………それで通ってる………ていうようなとこかな? ………アハハ」

「えっ、里奈さん。好きな人いるんですかっ?」

 雪乃の声が大きくなる。雪乃ってば………。思った芽衣だったが、気がつくと自分の両手も里奈さんの手首を掴んでいた。恋バナはお嬢様女子高生たちがいつも熱中する話題だった。ましてや、専門学校に通う格好いいお姉さんの恋バナだ。中高一貫の伝統校に通う、うぶでオットリとした芽衣や雪乃にとっては、羨望の、オトナな話が聞けそうだった。

「はぁ…………。なんか………。説明難しいんだよね………。………2人とも来月くらい、一緒に行ってみる?」

 迷いながら、里奈さんはそう問いかけてくれた。芽衣と雪乃は目を合わせて、ニッコリと微笑んだ。雪乃が首をブンブンと縦に振る。芽衣も里奈さんを見て、ゆっくりと頷いた。

 夏休みの短期バイトが終わってからも、こうして里奈さんと仲良く出来ることが嬉しかった。しかし、社会人サークルというものに参加するのも初めてなら、芽衣にとって知らない男の人が何人もくる集まりに入るというのも初めてのこと。ましてや、会の活動内容が、どれだけ説明を聞いても、雲をつかむようで良くわからない。里奈さんは説明がうまくいかなくなると、「参加すればわかる」と何回も言っていた。芽衣の不安は解消されることはなかった。それでも、モデルのように颯爽とした美人のお姉さん、その里奈さんが好きだという人に会えるというチャンスは、見逃したくなかった。そして、学校外で親戚や幼馴染でもない人たちの集まりに参加するというのは、オトナの世界を除くようで、芽衣にとってはスリリングな冒険のようでもあった。

 そんななかで、実際に芽衣と雪乃を出迎えたのは、スラリと背の高い、細身の優しそうな男性。髭を伸ばして髪も若干長めにした、アーティスティックな雰囲気の美男子だった。鵜沢大雅さん。フルネームを教えてくれた。

 日当たりの良いテーブルに案内された3人。簡単な紹介が済んで、マスターが水を取りに行くと、雪乃と芽衣は色めき立って里奈に話しかけた。

「ちょっと、里奈さん。大雅さん、オトナの色気が凄い。………フェロモン出まくりじゃないですか」

 雪乃がはしゃぐ。この子は自分のこととなると、奥手なくせに、人の恋バナにはとことんハシャぐ、ロマンティストだった。

「髭のマスターって聞いてたから、もっと歳上の方をイメージしていたら、ずいぶん若いんですね。里奈さんとそんなに歳も離れてないんじゃないですか? ………なんか、お似合いって思いました」

 芽衣が言うと、里奈さんは顔を赤くして前髪に指を通す。

「ちょっと、気が早いってば。…………まだそんな…………、……………ね」

 里奈さんはバイト中のシャキッとした雰囲気よりも、可愛らしい表情になっていた。

「もう20分くらいでメンバーも集まってくると思うから、コーヒー飲んで、待っていよう。………アイツ呼ぶね」

 里奈さんがテーブルにのせている細い手を、手首の力だけで上げる。その小さなシグナルで、カウンターにいた大雅さんが頷く。背の高くてスタイルの良い2人は、芽衣にも、最高のカップルに思えた。

。。。

「では、新しく参加してくれた人たちの自己紹介も終わったところで、この会の主旨を改めて説明しますね。NASC武蔵野は、ニューエイジ・スピリチュアル・コミュニケーション学会の武蔵野支部が開く、楽しく学べるスピリチュアルコミュニケーションの自主研究サークルです。目的はスピリチュアル・レゾナンス・メソッドを使った自己の拡張です。お互いの気持ちを尊重しあいながら、心地良く、新しい世界の体験を楽しみましょう。忘れてはならないことは、このコミュニケーション法開発の最終的な目標は、人類を次の次元に進化させるということです。だから皆さんはニューエイジのリーダーになるんですよ」

 講師役の、藤代隼人さんという茶髪に丸眼鏡のお兄さんが、優しい口調で説明をしてくれる。けれど芽衣には何一つ、理解出来なかった。参加メンバーの人たちはみんな、笑顔でウンウンと頷いているので、質問のために話を止めるという気にもなれなかった。

 里奈さんの「気になる人」、鵜沢大雅さんがマスターをしている喫茶ダイニング「グラス&ウール」は、夕方の4時で一度お店を閉める。そして6時から、お酒も出す、ダイナーとしてまた開店する。その間の休み時間を使って、週に2回、このNASCというサークルが開かれるらしい。少人数用のテーブルや椅子は店の端に寄せられて、フロアの真ん中に人が集まるスペースが作られた。そして大人数用の大きな円卓が、壁に立てかけられる。樫の木で出来た円卓は、重さを減らすためか、裏側が円錐型に削りこまれていた。

 参加メンバーは毎回増えたり減ったり。数か月に1度参加するという人もいるようだが、今日来ているのは、講師役の藤代隼人さん。大学院生といっていた平野学さん。そして予備校生の川辺伊吹さん。会社員の村山圭吾さん。そして田宮里奈さんに、松藤雪乃と吉住芽衣。

「いつもは女性の参加者も、もっと多いんだけどね」

 大雅マスターはにこやかにそう言った。芽衣たちを安心させようとしているようだった。

「スピリチュアル・レゾナンス・メソッドと言っても、今日初めて参加してくれてる子たちには、何のことか、サッパリだよね? ………というか、そうとう怪しい響きに聞こえるかな?」

「あ………、はぁ………。すみません」

 急に話を振られて、我に返った芽衣は、答えに困って小さく頷く。

「そうだよね。ゴメンね、急にオジサンたちが突っ走っちゃって。ちゃんと君たちにもわかってもらって、安心してもらえるようにするから、ちょっと前に出てもらってもいいかな?」

 講師役の隼人さんは、自分のことを「メンター」と説明していた。そのメンターが芽衣を、車座になって立っている皆の、中心に出てこさせる。緊張で、芽衣の右手と右足を同時に前に出してしまった。

「芽衣ちゃん。僕が後ろに立って、手を開いて、手のひらを芽衣ちゃんの頭の後ろに近づけていきます。こちらを見ないまま、手が近づいて来たかもって感じた時に、『今だ』って、教えてくれますか? 間違っても全然いいので」

 今日初めて会った、大人の男の人に、芽衣ちゃんと名前で呼ばれるのは、珍しいことだった。そのことを考える暇もなく、芽衣には課題が与えられていた。後頭部に近づいてくる、隼人さんの手のひらを、後ろを見ないで感じとる………。無理難題に思われたが、隼人メンターが優しく、大真面目に手ほどきしてくれているので、芽衣も一応従ってみた。

「えっと……………今………ですか? …………あ、全然違います?」

「おぉぉーーーー」

 男の人たちの低い感嘆の声が響いて、拍手が巻き起こる。芽衣が振り返ると、隼人さんの手のひらが、自分の頭のすぐ近くで止まっていた。大人たちに拍手されているのが照れくさくて、芽衣は無意識のうちに自分の髪を触っていた。

「芽衣ちゃん。初めてなのに、とっても筋がいいと思います。でも、今起きたことは別に不思議なことじゃないんです。人間は自分の目だけじゃなくて、精神のセンサーがちゃんと働いているんですよね。後ろから人の視線を感じたり、知り合いと偶然すれ違う直前にその人のことを考えていたり、お腹が痛い時に手を当てると少し治ったり。人間の精神は脳の中にある電気信号の働きだけじゃない。見えていないけれど、体の中や周りにも全体として存在していて、弱い作用を普段から与えあっているんです。世間の人はそれを科学的に説明出来ていないだけのことで、昔から何となく理解しているんです」

「んー。確かに。………ニューエイジとかスピリチュアルとか言うと、科学と対立してるみたいに受け取る人がいるけど、その時点の科学で整理出来ていなくても、後から解釈が成立することなんて、いくらでもあるからね。むしろ、科学の歴史って、そう言うことだよね」

 隼人さんの説明を聞いていた大雅マスターが、納得の声を出して頷いている。芽衣がチラっと里奈さんを見ると、彼女も大雅さんを見ながら頷いていた。

「芽衣ちゃんは、僕の手のひらが近づいてくるのを後ろからでも感じることが出来た。今度は前から近づけてみようか。肌の近くまでくると、ちょっと温かいというか、静電気のようなものを感じない?」

 横に立った隼人さんが、手のひらを芽衣のおでこの近くへかざす。近づいてくる手のひら。少しドキドキした。

「…………あ…………今ちょっとだけ………、あったかいというか………痺れてきたような感じ………かも………。………しれません」

 芽衣が、少しあやふやな回答をする。確かに、言われてみると、ピリピリというかシュワシュワというか、静電気のような感触と、熱を感じるようにも思える。

「今度はこっち」

 芽衣の手の甲の近くに、隼人さんの手が迫る。

「あっ…………はい」

 芽衣が隼人さんと目を合わせて、2回頷いた。

「こうすると、お腹の下の方から、ジワーっと温かくなる」

 隼人さんが手のひらを芽衣のおヘソの下あたりにかざす。さっきよりもハッキリと、温かみを感じた。お腹がポカポカと温かくなると、緊張していた体がほぐれてくる気がする。

「心臓の近くを温めると、血と一緒に、熱が体中をめぐるよ。体温が上がると、風邪を引きにくくなる。健康で元気になるって言うでしょ? それがもっと進む。ほら………。ね? ………面白いでしょう?」

 芽衣の胸元、服から3センチくらい。うっかりすると触れそうなほどの距離に手を当てられて、少し芽衣が恥ずかしい思いを感じるが、それ以上に、ジワーっと熱が芽衣の胸から上半身へと伝播していく。まるでカイロを当てられているようだ。

「さっきまで、気のせいだと思ってた? ほら、僕が止まると言うまで、どんどん芽衣ちゃんの体は温かくなる。暑すぎるくらいになっていくからね。しっかり実感して。僕らのメソッドが、インチキじゃないって、心と体で、しっかり理解してほしい。出来るよね?」

 芽衣は手で自分の顔を仰いだ。体が熱い。炎天下の外にいるような感じでもあるが、それ以上に、自分の体の芯から火照ってくるという感覚が強い。汗のせいで、服が体に貼りついてくる。芽衣はブラウスの布地を引っ張って、肌から離した。

「雪乃ちゃんは、芽衣ちゃんの様子を見て、びっくりしてるかな? ………でも、自分で体感してみないことには、納得できないよね?」

「………あの………、えっと…………。はい。…………芽衣ちゃんは素直だから、………そんな気になってるだけかもって………ちょっと」

 芽衣は雪乃の言葉を聞いて、(なぬっ?)と思った。素直で影響されやすいのは、どちらかというと雪乃の方ではないか。額を垂れていく汗を手で拭いながら、芽衣は雪乃をジトッと見た。その雪乃は、芽衣の視線に気づかないほど、真っすぐに隼人さんを見ていた。いつの間にか、彼女は、隼人さんに釘付けになっている。芽衣の横に立つ隼人さんが右手をユラーっと左に流した。2メートルも離れたところに立っている雪乃の体が、シンクロするようにユラーっと、向かって左に揺れる。隼人さんが手を返して右に傾ける。雪乃は体を、向かって右側に傾けていくと、その場で、バランスを失って、よろけてしまった。隣にいる里奈さんが、雪乃の体を支えてくれる。雪乃は完全に自分の体重を里奈さんに委ねて、倒れ込んでしまった。

「ちょっと………雪乃、大丈夫?」

 言いながら、芽衣はシャツの第2ボタンを外していた。とにかく暑すぎた。

「あ………芽衣ちゃん。ゴメンね。ちょっと効きすぎみたいだ。ほら、この手の動きを見て」

 手のひらを下に向けた隼人メンターが、水平にした右手をゆっくりと下げていく。サウナの中にいるようだった芽衣の体温が、スーッと下がっていくのを感じた。

「…………あ………はい………。どうも………、大丈夫です」

 隼人さんの手の動きだけで、辛いほどの暑さが引いていった。起こったことをそのまま伝えるのが、少しだけシャクだった、というか、抵抗を感じた芽衣は、微妙に表現をボヤかして伝えた。

「雪乃ちゃんも、今はどんな感じだった?」

「あの、なんか、急にこっちに引っ張られたような気がして………」

 雪乃はまだ、夢から覚めたばかりといった顔をしていた。

「これくらいのことは、芽衣ちゃんにも出来るよ」

 耳もとで、隼人さんが囁く。気がつかないうちに、隼人メンターはずいぶん芽衣に接近していた。少しだけドキッとしたけれど、それは嫌な驚きではなかった。ポンと隼人さんの右手が芽衣の肩に置かれる。もう片方の手を、雪乃に向けてかざした。

「芽衣ちゃん。体を動かさずに、雪乃ちゃんをグーっと、こっちに引っ張ろうとしてみて」

「え? ………はぁ………」

 不安げに、芽衣が念じてみる。雪乃、こっち来なさい。ヨイショ………。ヨイショ………。オーエス、オーエス………。

 ボンヤリと立ちすくんでいる雪乃。まじまじと見るとやっぱり可愛い。目がクリクリとして、お人形さんみたいに整った顔立ちだ。そこらのアイドルにも負けやしない。その雪乃の頭が、ちょっとだけ、前後に揺れたような気がした。

「ここから、僕が手伝うよ。でも共振の原点は芽衣ちゃんの精神体だ。もうちょっとゆっくり、深く念じてみて。お腹に力を入れて、胸から頭までお腹の熱を伝播させるようなイメージ。熱とは、振動だ。その振動を、僕を通して増幅するんだ。………ま、最初だから、あんまり考えすぎずに………ね」

(色々難しいこと言っておいて、…………最後はあんまり考えずに………ですか。)

 芽衣が無意識のうちに心の中で突っ込む。隼人さんがクスっと笑った。

(雪乃………。………オー、エス。)

 芽衣がイメージの中で雪乃の体をグッと引き寄せてみる。つまずいて、よろけながら、雪乃が芽衣と隼人さんの方へ3歩進んだ。

「わっ。…………危ない。…………キャッ…………」

 転ばないように両手をブンブン回して、辛うじてバランスを保ちながら、松藤雪乃の体がトトトッと引き寄せられた。最後はオデコを隼人さんの左の手のひらにペタッとつけてしまう。その間、隼人さんは1ミリも左手を動かしていなかった。

『こんどは、雪乃ちゃんに、向こうの壁に引っ張られるって伝えてみて。』

「はい」

 芽衣は雪乃を見たあとで、左側のレンガ柄の壁を見る。壁が雪乃をグーっと吸い寄せているとイメージしてみた。

(雪乃。ほら、あっちの壁が、引っ張ってくるよ。強いよ。)

「あーん………。こわいこわい、こわい」

 弱々しい声を上げながら、芽衣の友達は、誰も押してもいないのに、1人で壁へと駆け寄っていく。最後、壁に激突しそうになった瞬間、隼人さんが気持ち、左手を手前に引っ張って指を閉じる。すると、雪乃の体の勢いがゆっくりになって、最後はまるで壁に着地するかのように、オデコを壁にペタッとくっつけた。

「雪乃ちゃんの頭と壁が、強力な接着剤でくっついちゃった。もう芽衣ちゃんが念じるまで、離れない。そう伝えてみて。さっきの要領で」

「はぁ………」

 少し鼻にかかるような隼人さんの声。その声を聞いて、芽衣は考え込んだ。さっき、雪乃がすぐそばにいた時、隼人さんは芽衣に、雪乃に気づかれないように語りかけていた。はたしてその時、彼の声は、芽衣の耳に聞こえていただろうか? よく思い出せなくて、芽衣は少し考え込んだ。

『いいから。接着剤のこと、雪乃ちゃんに声を出さずに伝えてあげて。』

(うーん………。ゴメン、雪乃。………貴方のオデコは強力な接着剤で、壁にくっついちゃって、離れません。でも、お肌を痛めたりはしない、植物由来の優しい接着剤だよ………。だから遠慮なく、グリグリグリって、くっつけさせてもらうね。)

 気のせいか、芽衣の心の声に合わせて、雪乃の頭がグリグリグリっと、捻るようにして壁により押しつけられる動きをした。雪乃には申し訳ないが、芽衣は驚きと面白さに、小さく笑ってしまった。

「どういうことですか? これ……凄い」

「面白いでしょ? ………不思議でしょ? …………これがNASCの超入門編。精神体の作用について、ちゃんと自覚してもらうっていうことだよ。ほら、今の体験をちゃんと復習して、実感に昇華させよう」

 右手を芽衣の肩に当てたまま、左手を彼女の背中に添えて、芽衣の体の向きを変えさせた隼人さん。サークルの参加メンバーたちの笑顔と向き合うかたちになった。

「皆さんも、初歩から復習してみましょうか。各自、近くの人とペアを作って、お互いの体を精神体の作用で引っ張ったり押したりしてみてください。怪我をしないように、気をつけてね。5分たったら、ペアを組む相手を変えましょう」

 体育の授業を進めるかのように、講師役の隼人さんが指示を出す。メンバーたちが隣同士向き合う。芽衣が目で里奈さんを追ったが、里奈さんは当たり前のような表情で、大雅さんの隣に立っていた。振り返って雪乃に声をかけようと思った芽衣の肩を、隼人さんがもう一度、ポンと叩く。

「伊吹君。こっちにきて、芽衣ちゃんとペアを組んで」

 手招きされた、ヒョロッとした予備校生。川辺伊吹さんがこちらを見る。少し躊躇しているようだった。芽衣も隼人メンターに訴えてみる。

「あの、私、出来れば雪乃と………」

「芽衣ちゃん。どうせペアの相手はどんどん交代するから、最初はあの伊吹君でお願い。ほら、彼もシャイだから、君が躊躇ってるのを見ると、遠慮しちゃうと思うんだ」

 丸眼鏡の隼人さんが、芽衣の目をジッと見据えて、優しく諭すように話しかける。芽衣は隼人メンターの目を覗きこむ。

 ………黒目に少し茶色が混ざっている。

 芽衣がボンヤリとした頭で、隼人さんの目についての観察結果を反芻していた。途切れた集中力が戻ると、芽衣はいつの間にか、川辺伊吹さんと向かい合って、立っていた。隼人さんはもう、他の参加者ペアを指導していた。

「………あの………、じゃ………、僕から行きますね」

「………はぁ………。よろしくお願いします」

 申し訳程度に芽衣も頭をペコリと下げる。遠慮がちに、予備校生の伊吹さんが、芽衣の手の甲に触れる。

(温かい手ですな………。手が温かい人は、心が………、いや迷信か………。)

 芽衣はあえて、余計なことを、オジサン口調で考えてしまう。自分が今日知り合ったばかりの男性に手を触れられているという恥ずかしさ、照れくささを忘れようとしていた。あれこれ考えているうちに、耳元にシュワシュワと炭酸の弾けるような音が聞こえてきた気がする。手の甲に、静電気のような痺れがある。温かい、痺れだ。隼人さんは振動と言っていただろうか?

 伊吹さんがフワリと右手を引っ張り上げる。5センチほど離れて、芽衣の左手もついていく。引っ張り上げられる感触がある。でも不快ではない。不思議な体験は、芽衣の心の奥底にスリリングな、くすぐりを与えてくる。

 伊吹さんの、5センチ離れたところから芽衣の手を引っ張る力は、それほど強いものではなかった。ついていった方が楽な気もして、ほんの少し、芽衣の方で、迎えにいっているような感覚もある。ただ、優しく誘導するような力が重力に逆らって発生していることは、確かだと思えた。その感じが面白くて、芽衣はクスっと笑う。伊吹さんはチラチラと、芽衣の笑顔と手の動きとを交互に目で追っていた。

「………じゃ………、あの………。私、次、やってみますね」

 芽衣が少し戸惑って緊張しながらも、今度は伊吹さんの手を引っ張る役を務める。手と手を近づけて、さっきの隼人メンターの指導を思い出しながら、自分の「精神体」の手が震えていくことを想像してみる。おヘソのあたりに震源があって、その振動がブルブルと体中、手の先まで伝わっていく。そして3センチ下にある、伊吹さんの手の精神体にまで、振動を伝えていく。そんなイメージだ。フッと手を上に上げる。全く抵抗する様子もなく、伊吹さんの手がついてきた。

「吉住さん、………力が凄い強い」

 川辺伊吹さんが、驚いたように声を出す。芽衣が手を上げ下げしたり、今度は左右に揺らすと、あっさりと川辺さんの手がついてくる。他の人たちを指導していた藤代隼人さんが、芽衣たちの近くに戻って来た。

「伊吹君、前にも言ったでしょ。相手に心理的な距離を感じさせると、共振しづらくなるよ。芽衣ちゃん、伊吹君、って、下の名前で呼び合うようにしよう」

 隼人メンターに言われて、伊吹も芽衣も少し頬を赤くした。2人とも、あまり異性を下の名前で呼び合うのは、慣れていなかった。

「それにしても芽衣ちゃんは、なかなか筋が良いね。伊吹君が君と共振することに抵抗感を持っていないというのもあるけれど、初めてでここまで出来るのは、なかなかイイ感じだよ」

「でも………、これ………その、い………伊吹………君が、………手伝ってくれているのかも、しれないと思います」

 芽衣は、伊吹君……と、1歳年上の男の子に対して親し気に呼ぶことに対する照れくささを振り払うように、真面目な疑問を隼人メンターにぶつけてみた。伊吹が意図的に芽衣の動きに合わせているのでなくても、これは例えば、伊吹が暗示と言うか、思いこみみたいなもので芽衣の手に引っ張られているのか、本当に精神体の作用なのか、よくわからない。そう思ったからだ。それを聞いて、隼人メンターはクスっと笑った。

「君は勘も良いね。………じゃ、ちょっと先のステップもいきなり試してみよっか。ほら、こっちに立って。肩に手を置いてみて。伊吹君はそのまま」

 左右の二の腕を掴まれて、芽衣が隼人メンターの誘導のままに、伊吹の後ろに立たされる。伊吹の背は芽衣よりも10センチほど高かった。芽衣が157センチだから、160センチ代後半といった背丈だろうか? 背中からみると、肩が少し撫肩気味なことがわかった。伊吹の右肩の上に、右手を置く。

『このまま伊吹君に誘導する方向を見せずに、両手を上に上げさせたり、左右に開かせたり、閉じさせたりって、やってみて。』

「はい」

 芽衣が、戸惑いながら、躊躇いながらも、伊吹の両手に対して、上………、下…………、開いて…………、閉じて………と、指示を出していく。伊吹の腕は面白いほど素直に、見えても聞こえてもいない誘導に従って動く。まるでロボットの玩具を操縦しているような感じだった。

『芽衣ちゃん、今度は伊吹に、すっごく面白くて笑えてくる、って、伝えてみて。精神体の振動を意識しながらだよ。』

(はい………。)

 自分の耳に、隼人メンターの声は実際に聞こえていただろうか? そう疑問を感じたが、その疑問にこだわっている間も与えずに、メンターさんが次々と課題を出してくる。芽衣は口を開かないまま返事をして、従っていた。

「………ふっ…………ふっ…………」

 伊吹の肩が震える。腹筋が痙攣するようにビクビクッと動いていることが、背中を見ても伝わってくる。

『今度は、悲しい。泣きたい。って伝えてみて。振動は静かに強く。伊吹の精神体に震えを大きく伝播させることを意識して。』

 隼人の『言葉』に従いながら、芽衣が頑張ってイメージをする。伊吹の肩がまだ震えている。

「ふっ………ふっ………ふふふっ……………」

 芽衣が悲しいイメージを伝えていても、前に立っている伊吹は、笑ったままだ。芽衣は眉をしかめて、『駄目でした』という顔を作って隼人メンターを見た。

「芽衣ちゃん。こっち側に回ってごらん」

 久しぶりに、隼人メンターの肉声を聞いた気がする。芽衣がパートナーの前に回りこんで見て、思わず両手で口を覆ってしまった。

「伊吹君? ………ゴメンなさいっ」

 思わず、芽衣が謝ってしまう。彼女より1歳年上の予備校生は、笑っているような呼吸音と肩の震えを見せていたはずだが、顔を見ると涙をポロポロ流していた。芽衣は、伊吹が泣きじゃくっているのを、笑い続けている、と勘違いしていたのだった。

 ポケットから水色のハンカチを出して、伊吹の涙を拭いてあげる。伊吹は恥ずかしそうに小さくお礼を言った。

「芽衣ちゃんの振動を伝える才能は、なかなかのモノだよ。あとは、対象となる人の精神体の振動から、相手の心の動きも読み取るように意識した方がいいね。上手に振動をシンクロさせられる人が、よりダイナミックな共振も生み出すことが出来るんだ」

「はい…………。気をつけます」

 芽衣は若干ションボリして、隼人メンターにペコリと頭を下げる。目の前で歳上の男性をボロボロ泣かせてしまったのがショックで、申し訳ない気持ちになっていたのだ。しかし内心ではすぐに、考え直してもいた。

(なにゆえ、私が謝ってる? ………これって、私のせいかな?)

「芽衣ちゃんは、才能あると思う。すぐにNASCの力を使いこなして、他の人の気持ちを理解したり、片思いを実らせたり、出来るようになると思うよ」

 隼人メンターはクスリと笑って、芽衣の肩をポンポンと優しく叩くと、他のペアたちの指導に移っていった。

(…………なぬ………? …………いま、あの人。何って言った?)

 芽衣は振り返って、隼人メンターの背中を追おうとする。それでも、まだ伊吹が鼻をススっているのに気がついて、彼の相手をしなければ、と気持ちを切り替えた。

 パートナーと向かい合って、手を触れ合わずに上下させたり、左右に揺らしたりと動きを誘導しあう。次に背中越しに同じことをする。今度は手や腕だけではなく、体全体を引っ張ったり、押したりしてみる。相手の気持ちを楽しくさせたり、笑わせたり、スッキリさせたりする。最後は握手をして、お互いに無言で感謝を伝え合う。このルーティーンを、パートナーを変えて繰り返した。芽衣は相手がどの男性になっても、さっきの伊吹ほどではないが、精神体を共振させることが出来た。人によって、引っ張る力が強かったり、作用が突然力強くなったりと、共振の仕方には個人差があった。芽衣が体を引っ張られる番になった時は、何度か、引っ張られ過ぎてつまずいて、パートナーの男の人に、抱きつくようにして胸元に飛び込んでしまうこともあった。お互い照れ笑いを浮かべて、最後は握手で別れる。

「私も見たい~。どうなってるんですか?」

 笑い声やお喋りの声が大きくなると、壁に頭をくっつけたままだった雪乃が、足をドタドタさせて悔しがった。それでも彼女のオデコは壁から1ミリでも離れそうな予感もしない。

「ゴメンゴメン。………ちょっと雪乃ちゃんのこと、忘れちゃってた。………ほら、頭が自然に壁から離れるよ。…………大丈夫でしょ? ………じゃ、まずは雪乃ちゃんのパートナーは僕がするから、見逃してたところを、急いでキャッチアップしよっか?」

 少しだけムクレた顔をした雪乃は、隼人メンターの誘導のままに、芽衣たちが繰り返したルーティーンを、教えてもらっていく。芽衣はその様子をチラチラと見ていた。普段は大人しくて控えめな雪乃。その彼女のいつものイメージよりも少しだけ積極的に、隼人メンターの説明を聞いて、頷いている。「精神体の共振」や「両手の誘導」は芽衣よりも効果が小さいようだが、雪乃は何回も繰り返して練習していた。

 もしかしたら、さっきの隼人メンターが何気なく言った一言。「ちょっと忘れちゃってた」という言葉が、松藤雪乃のハートに小さな火を点けたのかもしれない。芽衣はそう思いながら、親友の様子を伺っていた。雪乃はいつもオットリとして、優しい性格、物腰の女の子だ。けれどそのつぶらな瞳、白い肌、綺麗な黒髪とポテっとした唇。誰が見ても文句のない美少女だ。どれだけノンビリしていても、少し天然気味の行動をしていても、周りに放っておかれたり、忘れられたりした経験は、これまでにほとんどないはずだ。引っ込み思案の彼女に、一言で秘かなヤル気を着火したのだとしたら、藤代隼人メンターは、相当なヤリ手だ。芽衣はそう思った。

「うぉっとっと………。………ゴメンなさい………、また………」

 芽衣は雪乃と隼人メンター・ペアの様子を気にしていたがあまり、体を引っ張られた時にバランスを崩して、また平野学さんの胸元に寄りかかってしまう。抱き上げるような体勢で、学さんは笑った。これで2回目だ。

「いやいや……、全然平気。………芽衣ちゃん軽いし…………。細いよね」

「………はぁ………どうも………」

 モッサリとした学さんは、大学院生だそうなのだが、見た目は伊吹君よりも予備校生っぽい。そして芽衣が抱きかかえられたくなるようなタイプでは、全くなかった。ましてや、軽いとか細いとか、コメントされたくもない…………。芽衣は静かに心を閉じた。

「さて、そろそろ時間ですね。今日は基本的なルーティーンの復習で終わりそうだけど、こういうのも大事です。そろそろ皆、輪になって手を繋ぎましょう」

(ん?)

 芽衣が雪乃と顔を合わせる。少し戸惑った顔を里奈さんに向けると、いつも格好いいお姉さんは、可愛らしい笑顔。もうニッコニコの笑顔で当たり前のように大雅マスターと手を繋いでいた。もう片方の手は社会人の啓吾さんと繋いでいるが、体は明らかに左側の大雅マスターに接近している。左の肘までマスターにくっついていた。

『恥ずかしがらないで、輪を作ろうね~。』

 隼人メンターの声が頭に響いた気がする。この響き方が特殊というか、脳天からお腹の下の辺りまで揺さぶられるような感覚がある。甘い痺れのような感覚が引いていくと、やっと芽衣の意識は周囲の状況を理解出来るようになる。そして芽衣が理解した状況とは、自分が左手を雪乃と、右手を伊吹と握り合って、立っているというものだった。つまり気がついたらメンターに言われた通りに、輪を作っていた。

「じゃ、みんなで共振を強めてみようか。心を解放していくよ」

 自分も輪の中に入った隼人メンターが穏やかに語り掛けると、メンバーたちは当たり前のように目を閉じていく。その姿は、自分も含めて、さすがにシュールな光景だろうと芽衣には思えた。

(ぅわお…………。これは、スピリチュアル…………。UFOとか、来ちゃったりして………。)

 芽衣が自分の心の中で秘かにツッコミを入れていたが、すぐにその思いは押し寄せてきた波に流されて消えてしまった。振動というか、波が、本当にうねって、押し寄せて来るのだ。芽衣の体が揺れて、思わず両隣の手を離しそうになる。そこを伊吹がギュッと強く握って、押しとどめてくれた。

(なにこれ、なにこれ…………。す………ご……………。)

 目を閉じた芽衣が、いつの間にか口を開けて、深い呼吸を繰り返す。体の前後左右への揺れが、自分の力では止められない。そして心の中は、痺れるような、手繰り寄せられるような、押し出されるような、大きな力に翻弄されているのだった。芽衣はしばらくジタバタした後で、心の中で抵抗するのを諦めてみた。ドラム式の洗濯機の中でグルグルまわりながら、自分の心だけ押しとどめようと抵抗していると、かえって苦しい。………それが、力をフッと抜いて、身を任せてみると、思いのほか心地良くなってきた。そんな気分だ。体の隅から隅まで波が洗い流していく。それはとても新鮮で綺麗な波だ。まるで閉め切られていた家の窓を全部開け放った後に、清涼な風が吹き抜けるような爽快感があった。心が体が、まさにお洗濯をされているような気持ちだった。

「はぁああっ………。駄目……………」

 ギュッと握られた左手が、不意に軽くなる。芽衣が目を開けると、手を離した雪乃が、卒倒するように後ろに倒れ込んでいくところだった。床に激突しそうなところで、雪乃の左側にいた隼人が、美少女の体をすくい上げるようにして受け止めた。

「はい………。みんな、ここまでにしましょう」

 芽衣は心配で雪乃の体を起こそうと屈みかけて、右手を引っ張ってしまっている自分に気がつく。右側を見ると、まだ自分の右手が伊吹の左手を握ったままになっていることに気がついた。ゆっくり手を離す。ボンヤリと芽衣の姿をとらえているようだった伊吹の目が焦点が合ってきて、正気に戻ったようになる。慌てて自分の左手をズボンのポケットに入れて、上気したような顔をさらに少し赤くした。

「雪乃ちゃんは大丈夫。芽衣ちゃんほど上手に心を任せることが出来なかったみたいだね。でも2人とも、初めてにしては、上出来だよ」

 雪乃の体を抱きかかえてソファーに移しながら、隼人メンターが言った。雪乃が寝そべったソファーの前にあるローテーブルに、大雅マスターがミネラルウォーターの入ったペットボトルを置いてくれた。

。。。

 帰り道、芽衣と雪乃はしばらく無言で歩いた。お互いに、自分の身に起こったことを何度も頭の中で反芻していた。それはついさっき起こったことでありながら、どことなく白昼夢のように現実味を失っていた。妙にリアルで、匂いや音が脳裏を刺激するような、白昼夢。2人とも、何度反芻しても、咀嚼までは出来そうにない記憶の繋がりだった。

 参加メンバーで手を繋いで輪を作った。隼人メンターが皆の精神体を共振させた。一人ずつの意志が加わって、共振は大きくなる。メンターはそう、後から解説した。雪乃がうまくシンクロ出来なくて、気を失った。ソファーでしばらく寝かしていると、気がついて、皆を安心させた。大雅マスターがジュースやベーグル、お菓子を出してくれたので、お店の中は軽食パーティーのような空気になった。芽衣は自分の身に起きたことがまだ信じられずに、自分自身で整理するかのように、誰かれ構わずに思ったこと、驚いたこと、何か自分が開かれたような気がするということを繰り返し話し続けた。自分でも止められないような、感情の噴出だった。雪乃はまだボンヤリした顔で、メンバーたちの肩を借りて、寝そべるように話を聞いていた。人見知りしやすい雪乃にしては、ずいぶん短時間で距離を縮めたように見えた。

 お喋りは楽しかった。店内はキラキラして見えた。芽衣や里奈さんの笑い声が、いつもよりもクリアで綺麗に響いていた気がした。芽衣にとって、見える世界が彩度と精度を増したように思えた30分間だった。ダイニングの夜シフトの時間が近づいていた。マスターがアルコールを出す準備をする。そろそろ芽衣と雪乃にとっては、家に帰るべき時間になっていた。マスターのケータリングを、ごく自然な素振りで手伝っている里奈さんに、ドア越しにガッツポーズを見せた。そして今、薄暗くなっていく道を、駅まで2人で歩いている。

「………ね………。芽衣ちゃん。………あの、今日のこと………。家族に話す?」

 雪乃が、隣を歩く芽衣の顔を覗き込むようにして、質問する。

「………まだ…………。ちょっと、早いかな…………。なんか………、情報が少なくて、まだちょっと混乱していて、………家族に言っても、うまく分かってくれなさそうだよね」

 言葉を選びながら、芽衣が答える。真っすぐ進行方向を見ながら、雪乃に正直に話していた。

(ちょっと遅くなったけど、心配しないで。………大人の人たちの集まりに参加して、精神体を共振させてきたの。触れずに体を引っ張ったり揺らしたりしてただけだから………って伝えて、「あぁ良かった」って安心してくれる親だったら、かえってこっちが心配になりますよ………。)

「芽衣ちゃん………。また、今のお店、行くでしょ?」

 雪乃はオットリとした話し方をするけれど、鈍い子ではない。親友の反応を伺いながら、的確に本論に突っ込んできた。

「里奈さんの恋愛が気になるから?」

「うんん…………、芽衣ちゃんが…………、好きな人いるでしょ? 隼人さんに指導してもらうと、…………恋が実りそうだから………」

 雪乃はやはり、芽衣がさっきからずっと頭の中でグルグルと待っている疑問の中心を、察知していた。『片思いを実らせたり、出来るようになる』と、隼人メンターは確かに言った。

 つい40分ほど前、芽衣はメンターの指導の下で、初めて体感した力を使って、伊吹さんという男の人の感情を揺さぶることが出来た。笑わせたり、泣かせたり………。そしてあのお店にいる間、何度も隼人メンターの言葉を、声を聞くことなく理解することが出来た。このこと事態、芽衣の人生の中で滅多にないような、非日常。ミラクルな体験だった。けれどサラサラヘアーで丸眼鏡のお兄さんは、その先があるということを、いとも軽々しく、口にした。もしそこに、思春期で片思い中の女の子がいたら、簡単に引っかかるような、撒き餌を投げていったのだ。

 そして吉住芽衣は、片思い中の女の子だった。

 。。。

「雪乃………。ヤバい。…………過去の記録を塗り替えて、ぶっちぎりで最多回数を記録した。まだ4限目が終わったばかりなのに」

 休み時間に、芽衣は雪乃のクラスに立ち寄って、廊下から窓越しに、事実だけを伝える。

「過去最多記録って、4回だった?」

「………ん………。でもあれは、振り返ると私の願望的な判断も含まれていると思うから、公式記録にはカウントしてないの。だから、3回が公式最多記録。………それが今日は、今までで8回」

「キャーッ。8回? ………もう付き合ってるのと同じじゃん~」

 芽衣の両手を握った雪乃は、窓枠越しに身を乗り出して、芽衣のオデコに自分のオデコをつける。芽衣は自分の体温が普段より上昇しているのが雪乃に伝わらないかと、秘かに心配した。

「………いや………。8回、授業中に目が合ったからって、付き合ってると同じは………、言い過ぎでしょ。さすがに」

「でも今までの非公式最多記録の、2倍だぞ! ………2倍っ、2倍っ」

「痛いって………」

 興奮した雪乃は、オデコをゴチゴチと芽衣にぶつけてくる。はしゃいでいるあまり、最後の方は頭突きのような強さになっている。

「白川君の席って、芽衣ちゃんの席より右前の方なんでしょ? わざわざ振りからないと、目が合わないじゃん。………それってやっぱり、芽衣ちゃんのことが気になって来てるんだよ。ニューエイジ・スピリタスの威力だよ」

 雪乃は大きな目をキラキラさせながら、両手を組んで上の方を見つめている。帰ってきてくれるまで、しばらくかかりそうだった。

(スピリタスじゃなくて、ニューエイジ・スピリチュアル・コミュニケーション。………いや、サラッと覚えてる私の方が怪しいわな………こりゃ。)

 ウットリと妄想に浸っている雪乃から視線を外して、芽衣は考えこむ。

 白川陸都。芽衣が片思い中の男子。

 そう。今日の芽衣は、授業中に集中が途切れるたびに、ふと一昨日、『NASC武蔵野』の藤代隼人メンターに教わった手法で、自分の精神体を振動させるという、よくわからないテクニックに何度もチャレンジしていた。駄目で元々。何回に一度でも、成功して、陸都と目が合うようなことがあれば、芽衣の胸は高鳴り、体温が3℃上がり、時間が一瞬止まる。それくらい、陸都とのアイコンタクトは、芽衣をドキドキさせるものだった。

 おヘソの下から、自分の体が静電気のような震えを、いや、最初は痺れのような微弱な動きを、自分自身の「精神体」が作り出すところを想像する。その振動が体全体を満たしていく。そしてその小刻みな揺れが、2メートルも先にいる、白川陸都の後ろ姿、背中から僅かに浮き上がってくる精神体を、同じように揺らすところを強く想像する。芽衣のこめかみに力が入る。拳をつくった手の指が白くなる。そして彼女の集中力が限界を迎える頃に、芽衣のクラスにいる王子様が、クルリと後ろを振り返る。不意に吉住芽衣と目が合う。その間、0.5秒程だろうか? 芽衣の世界から音が無くなる。耐えられなくなった芽衣が、顔を沈めて教科書で隠す。バスが発車する前の、プシューという音が聞こえる気がする。空気が抜けたかのように脱力した芽衣が机に突っ伏する。

 気がついたら、昨日までの最多アイコンタクト回数を、2倍も更新してしまっていた。アスリートだったら、逆にこれまで何をしていたのだろうかと、落ちこむべき成績かもしれない。

「雪乃~。もうすぐチャイム鳴るよ」

 教室の中から、松藤雪乃を呼ぶ声がする。雪乃はどこにいても、面倒を見てもらえる、末っ子体質だ。手を組んで上を見上げながら陶酔していた彼女が、ふと我に返る。それより1秒早く、芽衣は素の表情に戻っている。親友よりも素早く現実路線に復帰する。それが吉住芽衣の矜持だった。

「じゃ、雪乃。帰りに」

「芽衣ちゃん、ガンバッ」

 雪乃のエールを背中に受けて、芽衣は急いで教室に戻る。勉強はあまり頭に入ってきていないが、今日は忙しい日だった。

。。。

「結局、15回も目が合ったの? 普段は1日に2、3回、あるかないかくらいなんでしょ? それってもう、陸都君、芽衣ちゃんに気があるじゃんっ。凄いよ。………この勢いで、デートしちゃえっ」

 学校から一緒に帰る間も、雪乃は興奮して喋る。自分の恋愛にはとことん奥手なくせに、友人の恋バナに対しては、ずいぶんとテンションが上がる。「恋に恋する」タイプなようだ。

「いや、………迷惑かもしれないでしょ。授業中に何回も振り返らせちゃったのだって、白川君、最後は先生に注意されてたんだよ」

「でも、好きな子とデートするのは、全然迷惑じゃないでしょ? 嫌いだったら、何度も目があったり、しないと思うよ。芽衣ちゃん可愛いし、性格良いし、陸都君ともお似合いだと思うよ。陸都君と芽衣ちゃんの身長差とか、私がすっごい憧れるシルエットなんだよね~。ベストカップルな感じ」

 興奮している雪乃の声が大きくて、芽衣は周りを歩いている同じ高校の生徒たちを気にしながら、階段を登る。お喋りに興じる女子たち、イヤホンをつけて音楽を聴いている男子。スマホを弄りながら器用に駅の階段を上っていく生徒。みんな、自分たちのことに精一杯のようだ。時々、すれ違う、サラリーマンのお兄さんが、チラリと周囲を見回す途中で、雪乃と芽衣に目を止めていく。雪乃の美貌に見とれているのだろう。よくあることだ。

 身長………。雪乃に言われて、頭に浮かぶ。多分、175センチ以上ある、白川陸都はクラスの男子の中でも背が高い。髪の毛は黒髪でストレートなサラサラヘアー。全体的に短めのヘアスタイルだけど、前髪で遊んでたりする感じは、かなりオシャレ。一言で言うと、これまで芽衣が好きになるタイプと全然違っていた。

 こう見えても吉住芽衣は、映画とか漫画のキャラに恋をしてきた、「恋愛のベテラン(但し創作物に限る)。そしてキャラクターたちの中でも、常に渋いチョイスを追ってきた。一度、雪乃とは別の友人に、モーガン・フリーマンというベテラン俳優の演じていた役柄が好きだと言って画像を見せたら、「サザエさんに出てくるアナゴさんみたい」と言われ、ショックを受けたことがある。以来、自分の好みのタイプが周りの女子高生たちとは違うということをずっと意識してきた。

 それなのに、いざ、実在する身近な人物に恋をしたと思ったら、「ド定番」なハンサム、モテ男子だったのだ。

「白川君とデートなんて、………全然現実味がわかないなぁ………。何話していいか、わかんないし………」

「そんなこと言ってる間に卒業しちゃうよ。芽衣ちゃん、ガンバッ」

 改札口に向かおうとしたところで、芽衣はハッと息を飲む。今、そこに、わずか3メートル先に、例の長身の小顔ボーイが立っていた。友人の男子をわざわざ待たせて、目の前を通り過ぎていく生徒たちをキョロキョロと見ていた。誰かを待っているのだろうか、探しているのだろうか? 壁にもたれかかって、長い脚をクロスさせて、両手をズボンのポケットに入れたその立ち姿は、そのまま雑誌のモデルになれるような、格好良さだった。白川陸都の顔が、こちらを向いたところでピタリと止まる。

(16回目………。)

 芽衣が、陸都と目が合った記録を、心の中で更新している間に、陸都はもたれかかっていた体を起こして、芽衣の方へ一歩、一歩と近づいてくる。まるで映画のワンシーンのようだった。隣で雪乃がハァッと息を飲む音がする。隣から伸ばされた柔らかくて温かい手が、芽衣の手を一瞬握って、離れた。

 そして今、目の前に白川陸都が立っている。

「吉住…………」

「…………え? …………あ……………、うん」

 陸都は童顔だけど声が低い。芽衣は顔を赤くしながら前髪を指でいじって、陸都の顔を見上げた。何を言って良いのか、困ったような顔をした陸都が、ポリポリとこめかみを掻いている。

「あのさ………吉住…………」

「………うん…………」

「…………今日って………………」

 と言ったところで、陸都が止まる。横から芽衣の腕を、雪乃の肘がつつく。芽衣は、雪乃に押し出されるように頷く。唾を飲みこんで、全身の勇気を振り絞った。

「………空いてるよ、私」 「何曜日だっけ?」

 芽衣と陸都の声が同時に重なった。しばらくの間、お互いが何を口にしたのか、よく理解出来なくて、2人は止まる。5秒くらいたって、その静寂を掻き消すように、芽衣が震える声で、まくし立てた。

「か……火曜日だよ。火曜。……ほら、火曜休みのお店以外は、全部開いてるよね。開いてる。開いてる。………あはは」

「あ………、うん。そうだった………。火曜日……か。………サンキュ」

 少し戸惑ったような顔をした陸都は、芽衣にお礼を言って、くるりとターン。友達の男子のところに戻っていく。芽衣は自分の鼻息の熱さで、全身が真っ赤に茹で上がってることに気がついた。隣の雪乃を見る。芽衣から顔を隠すようにしてむこうを向いている雪乃は、肩を震わせながら、何かを我慢していた。

「べふっっ」

 妙な破裂音をさせた雪乃が、「ホントごめん~」と謝りながら、うずくまって肩を上下に震わせる。

 雪乃に悪気がないのはわかる。むしろ、笑ってくれて、ありがたいくらいだ。ここで、痛々しそうに慰められたりしたら、ミジメすぎる。笑い転げてくれて、ありがとうだ。けれど芽衣は速足で改札口へ向かった。追いすがる友人を突き放して一人で帰りたいくらいの気分だった。一生分の恥をかいた気がした。

。。。

「藤代さんっ。私に、もっとスピリチュアル・コミュニケーションのことを教えてくださいっ。人の気持ちを変えられますか? 無理だったら、最悪、記憶を消したいです。私の恥ずかしい大失敗のこと、みんなに忘れてもらいたいです。他人の記憶を消すのが無理なら、せめて私の記憶だけでも消してください。トラウマなんです、ハッキリ言って」

 喫茶ダイニング「グラス&ウール」に入ってすぐ、吉住芽衣は藤代メンターに詰め寄った。昨日の激しい勘違いからヤラカシた、あの大失態を挽回しようと思うと、ニューエイジだのスピリチュアルだのといった怪しさにも、かまってはいられなかった。ある意味で、吉住芽衣は吹っ切れていた。

 思い返すと、芽衣の人生の中で、これほど恥ずかしい思いをした失敗は、あと1回あるかないか………。小学校4年生の時に、クラスメイトの前で側転をした。スカートの下にブルマーを穿いていると思っていたのだが、それが勘違いだったことに気がついて、側転後に泣いた。その時を超える程の、恥ずかしさのビッグウェーブ。高校3年にして迎えるとは、思ってもみなかった。

 隣に寄り添う松藤雪乃は今日も、シュンとしている。親友の芽衣に恥をかかせた勘違いを助長させてしまった上に、芽衣がヤラカシたところを笑ってしまった。そのことを雪乃は心の底から申し訳ないと思っているようだった。しまいには芽衣が雪乃のことを慰めて、励ましているほどだ。

(なんで、結局、私の方がが慰めてるの? 辛いのはこっちですぞっ。)

 芽衣のやり場のない、恥ずかしさと憤りは今、理不尽かもしれないが、藤代メンターにぶつけられていた。ガルルルと、喉を鳴らして、メンターに飛び掛からんばかりの剣幕だ。

「どうどう…………。芽衣ちゃん。………今日も、NASCの活動に参加で……いいの? ………ちょっと落ち着いて、そのままにしててくれる?」

 丸眼鏡で、髪の毛にナチュラルに茶色がかっている藤代隼人さんは、落ち着いた様子で芽衣の頭に右手をかざす。両目を閉じた隼人さんはしばらく黙った。時々、ウンウンと頷いている。

「ブフッ…………。ゴメン………」

 一瞬、隼人さんが噴き出して、笑みを噛み殺すように謝る。

 記憶を読まれている? 芽衣は、わざわざトラウマ体験を説明させられる手間が省けることは嬉しかったが、昨日の出来事を洗いざらい知られていくことを思って、また少し顔が赤くなった。

 目を開けたメンターが、手を下ろして、さっきとは違う、穏やかな笑みを顔に浮かべる。

「芽衣ちゃんの、恥ずかしい、恥をかいたって思う気持ちはわかるけど、実はそんな勘違いっていうほどでもないんじゃないかな? 陸都君は、友達と一緒にいたのに、わざわざ芽衣ちゃんを見つけて、芽衣ちゃんに曜日を聞きに来たんでしょ? ………君の想いは、彼の深層意識の深いところに、秘かに伝わってるんだと思うよ」

 芽衣は聞きながら、横髪を指ですくって耳にかける。そう言われてみると、白川君が芽衣に話しかけてきたことなんて、これまでに4回しかない。昨日、わざわざ曜日を聞きに来たというのも、不自然と言えば不自然だ。

 少しだけ、心が軽くなったような気がした。それでもまだ、顔の熱は引いていない。今日で2回目に会う男の人に、ごく平然と、芽衣の好きな人の名前を出されてしまうことには、ちょっとした違和感と恥ずかしさがあった。

 カランカラン。

 お店の重いドアが開く。振り返ると、予備校生の川辺伊吹さんが来ていた。NASC武蔵野の集合時間にはまだ15分ほど早い。お店には鵜沢マスターと藤代メンター、芽衣と雪乃の他に、今来た川辺さんがいるだけだった。

「お………。ちょうど良いところに………。伊吹君。こっちに来てくれる? ………これからちょっと、芽衣ちゃんに教えてあげたいことがあってね」

 キョトンとした表情の川辺さんが芽衣の隣まで歩いてきて、立ち止まる。カウンターの方を向いて横に並んだ2人の後ろ側に回りこんだ藤代メンターは、芽衣と川辺さんの肩に、ごく自然な仕草で手を乗せた。

「芽衣ちゃん。離れた場所から、僕たちの力の作用のことを知らない相手に、少しでも共振させることが出来たのは、凄いことだよ。君は1回、うちの会に参加しただけなのに………。でもね、この状態で出来ることはまだ、相手の気をちょっとひくくらいだけかな? …………だって、君自身が、心の底から受け入れていないでしょ。精神体が共振するという現象を」

「………はぁ………」

「精神体は肉体から浮き上がってくるから、通常は皆の体と同じ形になっている。けれど実はその形は変幻自在だ。そのことにしても、きちんと実感して初めて、自分の自由になるんだ。大きさも力も、自分の肉体のサイズや場所に限定されるものではないということも、頭でわかったところで、体験してみないことには、実感がわかない。人の心に作用するということも、自分で実際に体験してみないと、ちゃんとした理解に結びつかないんだ。………だから、一度、君たちの精神体を結び付けさせてもらうよ。………ほら、君たちの精神体に、尻尾が生えてきた。僕が引っ張ると、伸びてくる」

 芽衣の腰の下が、妙にムズムズする感触を覚える。体の一部を引っ張られるような………。不思議で、くすぐったい感覚だった。

「え………、ちょっと………」

 お尻を両手で隠すようにして、制服のスカートに触れる芽衣。それでも「芽衣の一部」はドンドン引き伸ばされていく。

「ほら、キュッと結ぶと、もう、ほどけない。君たちは、スピリチュアル・パートナーだ。こういうふうにした2人は、安全に、お互いの心の干渉を実体験することが出来るよ」

 芽衣の戸惑いを放ったまま、藤代メンターが笑顔で話す。隣の川辺さんは、困ったような表情で、ソバカスのある顔を赤くしていた。

『困ったな………。こんな可愛い子と…………………。隼人さんってば、先に言ってよ………。』

 川辺さんが喋った気がした。………可愛い子……という言葉が出たところで、
『なぬっ?』

 と芽衣が目を見開いて川辺さんの顔をマジマジと見つめる。

『……あ………ゴメンね…………。その………変な意味じゃ、ないです‥‥。』

 川辺さんが下を向く。芽衣は、自分も川辺さんも、口を動かして声に出して喋っていないのに、会話が出来ていることに気がついた。

「えっ? ………どいういうことですか?」

 芽衣が藤代メンターを見て、はっきり声を出す。

「今日は2人とも、ここじゃなくて、2階で学習した方がいいと思うよ」

 声を出したのは、藤代メンターではなくて、カウンターの裏にいた鵜沢マスターだった。

「ふふっ。そうだね。僕らは時間になったらNASCの体験学習をここで始めてるけど、君たちスピリチュアル・パートナーは、2階でペア学習しておいで」

 芽衣は、鵜沢マスター、藤代メンター、雪乃、そして川辺さんの顔を、順番に見回した。不安そうに、誰かが助け舟を出してくれるのを待っている。芽衣がいない間、雪乃が一人でNASCの学習に参加しなければならなくなるのも可哀想に思えた。それに、あまり知らない男の人と、2階の閉じたスペースで、2人きりになるのは、少し抵抗がある。やはり、何か学習するにしても、みんながいるところで………。そう言おうと思った時に、見透かしたような笑顔で藤代メンターが芽衣と伊吹さんの背中を押した。

『はい、2人とも、何か掴んだと感じたら、降りておいで。それまで、仲良く2階でペア学習。』

「はい」「はい」

 穏やかな響きだけれど、藤代メンターの声は芽衣の心の奥まで染みこんでくるような、絶妙なトーン。気がついたら、芽衣は伊吹さんと同時に返事をしていた。

(今週は、よく男の人と声がカブるな………。)

 そんなとりとめのないことを考えながら、芽衣は階段を上がっていく。ふと気がつくと、隣を歩く伊吹さんと、手を繋いで歩いている自分がいた。慌てて手を離そうかと思ったが、藤代メンターの『仲良く2階でペア学習』という言葉が、もう一度頭に響いたような気がする。なぜか、こうしていることが、とても自然な気がした。結果的に、芽衣と伊吹さんは手を取り合って、素直に2階に上がってドアを閉めた。

 2階は、元々は鵜沢マスターが住むつもりで、住居として設計されていた。小ぢんまりとしたキッチンとシンク。バスルームもついていて、ソファーとベッドがある他は、ガランとしている。お洒落だが、生活感のない部屋だ。住むための設計をしてお店を建てておいて、結局頭から仕事のことが離れたいと言って、わずか数メートル先、この建物の向かいにあるアパートの2階に部屋を借りたというマスターは、相当な変わり者というか、気分屋に思えた。

(生活感ないなぁ…………。いや、生活してないんだから、当たり前か………。)

『………そだね………。』

 頭に川辺さんの言葉が入りこんでくる。芽衣は「うわっ」と声を出してしまった。まだこの状況は慣れない。

「なんか………。緊張しますね。…………川辺さん、何するか、わかってますか?」

 芽衣はジワジワと濃密になってくる、空気の凝縮感を振り払うように、敢えて声を出した。

『伊吹君でいいよ……。隼人さんに、こんな風にされてるんだし。』

 伊吹君は自分の精神体の尻尾を、ピクピクと引っ張る。手も使わずに、器用なものだ。結び付けられている芽衣の尻尾も、それにあわせて引っ張られる。尻尾こそ、半透明でキラキラしていて、現実感がない見た目をしているが、こうされると、お尻の付け根に、しっかりと体の一部が引っ張られているという感触が来る。

『………伊吹君………でいいんですよね。出来れば、人の尻尾で、勝手に遊ばないでほしぃです…………。』

『あ、ゴメンね………。失礼しました。』

『あ、いえいえ、こちらこそ………。なんか、考えたことがどんどん伝わっちゃうって、………やりにくいね。』

『そうだよね………。僕が………その、あんまり伝えたくない、不謹慎なこととか、考えただけで………、伝わっちゃう…………。』

 居心地悪そうに、伊吹君が肩をすくめる。焦った芽衣は「わわっ」と声を出して、頭を抱えた。

『そっか………ヤバッ………。男の人って、色々、エッチなこととか、どうしても考えちゃうんだよね…………。どうしよう。パンツ見せてとか、ヤラしいこと色々、聞こえてきたら、気まずい…………。………私だって………、ちょっとは…………変なこと考えることとか………あるし………。それも、伝わっちゃうってこと? ………困る。』

『いや、普通だと思うよ………。そういうのも。………でも、確かに、芽衣ちゃんみたいな可愛い美少女が、どんなパンツ穿いてるのか、気になるな…………。清楚な雰囲気だから、やっぱり白かな。…………ゴメンッ、無意識にアレコレ、考えちゃうっ………。』

 伊吹君の顔の赤みが増す。つられて芽衣の顔も上気してしまう。

『速攻、考えてるし………。白も……………持ってるけど………。美少女だなんて、そんな………。今日は水色のストライプ…………。雪乃に比べたら、全然………って、え? …………私、ショーツの説明とかしてる? …………やだっ………。恥ずかしすぎる。…………伊吹君って、真面目そうに見えて、ムッツリ………。これ、本気で、マズい………。』

 芽衣が息を飲んで後ずさる。伊吹から出来るだけ距離を取る。無意識のうちに、プリーツスカートを押さえていた。うっすらとキラキラ光るように見える芽衣と伊吹の尻尾は、スルスルと伸びて、距離を取る2人の間で結びつけられたままだ。若干、結び目の周辺が細くなったような気もするが、伸び切って切れてしまうような様子は全く無い。

「ご、ゴメン。芽衣ちゃん。………まだ僕も、自分の精神体を上手にコントロール出来るほどのレベルじゃなくて………。………嫌だよね。僕なんかに、気持ちとか秘密とかが伝わっちゃうのって………」

「あーあーあーあー。………はい? …………あ、その………。大丈夫です。…………大丈夫でもないけど」

 両手で耳を押さえたり離したりして、声を張り上げて、自分の頭の中に勝手に伊吹の心の声が入りこんでこないように抵抗してみた芽衣だが、伊吹の申し訳ない思いが伝わってくると、少し可哀想に思えてきて、両手を耳元から下ろす。無意識のうちに一歩、前に踏み出していた。

(………仲良く、学習しないといけないんだよな…………。伊吹君………エッチな人でも、悪い人じゃないみたいなのに………私から、邪険にも出来ない…………。)

『困ってる顔してる、芽衣ちゃんも可愛いな………。顔のつくりが綺麗だと、困り顔も、絵になる………。』

(ちょっと、恥ずかしいから、やめてください。………顔とか褒められると、…………気まずいんですけど…………。雪乃の方が、絶対可愛いよ。)

『……………ゴメンね………。どうしても、色々余計なこと、考えちゃって…………。こういうの、上手にガード出来ないといけないんだけどな…………。』

(…………私も、そうなんですね………。…………これ、思ったより、大変かも…………。………好きな気持ちとかも、伝わっちゃうんだよね?)

 芽衣の思いが伝わったのか、伊吹がウっと、苦しそうな表情を見せた。

『……………まさに………僕、………今……………。芽衣ちゃん………好きかも……………。この思い、‥・隠しておかないと………。』

『ゴメンなさい。私、好きな人、別でいますので。』

 伊吹がガックリと膝をつく。思いが勝手に伝わって、反射的に速攻でフラれてしまったのだ。予備校生の悲しみは大きかった。

『…………そうだよね………。僕なんかじゃ…………駄目だよね。……芽衣ちゃんの美形とか透明感とか、清楚な感じとかに、全然相応しくない、パッとしない奴だもん…………。そもそも、受験生だし。…………いや、今年もどうだか………。本当だったら、ランク落としてでも今年大学生になってた方がマシだったのかもしれないし………。』

 ここまでウジウジしだすのは、伊吹の性格だろうか? いや、男の子も失恋をするとこれほどネガティブになるのだろうか? 一人でアレコレとネガティブなことを考える癖は、実は芽衣にもある。この良く馴染みのある、ネガティブ発想の渦巻きを共有して、芽衣は胸の内側がキュッと絞めつけられるように感じた。

 何かの縁があって、尻尾が結ばれた、スピリチュアル・パートナーのために、芽衣は自然と心を集中させて、励ますための精神体の振動を送っていた。

『伊吹君。………もっと自分のこと、自分の考えに自信を持って………。堂々としていて、良いんだよ。』

 それは、伊吹を通して、まるで芽衣自身が自分に伝えたい言葉でもあった。

 シュワシュワと伸縮する精神体と、送られる波が、あるポイントで、ヒーーンという高音を上げる。その瞬間、伊吹のネガティブな波長が止まって、俯いていた顔が、ゆっくりと上がった。

 前を向いて、芽衣を見据える伊吹の顔には、さっきまでとは違って、生気が満ちている。

『芽衣ちゃん。』

 ありがとうと言われるのだと思って、どういたしまして、という準備を口がしていた芽衣。その芽衣に対して、伊吹は自信に溢れた、男らしい声で、ハッキリと告げた。

「芽衣ちゃん。………パンツを見せてください」

「………おっ。お断りしますっ」

 芽衣は、慌てて頭を下げて、きっぱりお断りした。………つもりだったのだが、耳の奥あたりにシュワシュワと波立つような音が聞こえると、不穏な予感がする。そのシュワシュワが大きくなると、不吉な雰囲気も高まる。そしてあるポイントで、頭の奥に、キーンという、微弱な高音が響く。その瞬間に空気の密度が変わったような感触を得た。

 眉をひそめながら伊吹の顔を見る。目線は合わない。伊吹は芽衣の顔よりも60センチほど下のあたりを、男らしい視線で見つめていた。

 芽衣も目を伏せてみて、ギョッとする。吉住芽衣の手は、制服のプリーツスカートの裾を握って、両手でスカートをめくり上げていたのだった。

<2話につづく>

4件のコメント

  1. 読ませていただきましたでよ~。

    恋する乙女かわいいなぁ。
    意識の共有というか干渉で芽衣ちゃん雪乃ちゃんがいいように操られていくのかと思ったらむしろ芽衣ちゃんの才能が凄い。そのうち芽衣ちゃんが白川くんをゲットするのだろうか、それとも芽衣ちゃんがNASCに捕らわれてしまうのだろうか。

    これから二話を読んできますでよ~。

    ・・・どうでもいいけどNASCとNACS(チームナックス)が似てるなーとか思ってしまいましたでよ(ナックスとか見たことないのにw)

  2. お久しぶりです!
    共振、読ませていただきました!

    のっけから、レトロな喫茶店にダンディなマスター、だと……!(驚愕)
    私の好みのストライクじゃないですかやだー!
    ……いや本当、今回に限らず、永慶さんの作品って全体的に、具体的な描写からありありと雰囲気が想像できて最高です。

    今回のMC手法もそうなのですが、フィクションとリアリティの境界をすごく丁寧に融和させているというか。
    これ、MCのメソッド自体はオカルト的な超能力なのに、それを使って信者を嵌らせていくプロセスは、完全に実在のスピリチュアル系カルト教団とかの手管なんかを想起させるんですよね。
    もちろんリアルでは超能力なんて使えないけれど、恐らくはサクラとかを用意しつつ言葉巧みに誘導して、今回の芽衣ちゃんみたいに持ち上げられて、唆されて、セミナーとかを経験しているうちにどっぷりとカルト教団に染まってしまうんだろうな、みたいな。

    そういうリアリティある描写の中で、時折芽衣ちゃんがパンツ丸見えで側転したりする微笑ましいエピソードが挿入されたりして、つい恋を応援したくなっちゃうくらい可愛い!
    ……ってなったところに、ほかの男の人と組まされて、流されるままに自分の手でスカートを……!

    ……芽衣ちゃん、幸せになれるといいなぁ……(遠い目)

  3. 読ませていただきました。

    人物や心理描写が格調高く、なによりキャラクターがとてもしっかりしていてヒロインがとても魅力的に感じました。
    催眠描写は、読んでいるこっちがいつの間にか催眠にかけられているような空気感がすごいです。
    意思に反して、スカートをめくりあげてしまう最後の引きも完璧です!
    圧巻でした。

  4. 皆様

    感想ありがとうございます。永慶です。
    1話ではパンツしか出なかったので、
    2話までまとめて投稿させて頂きました。
    5回分の投稿(6話分)を計画しております。
    しばしお付き合い願いますー。

    永慶

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