虹の彼方に

 病院の廊下は夜ともなると不気味なばかり。人を生き延びさせる場所のはずだが、生きているものの気配の方が少ない。
 暗い廊下を忍び足で進み、ドアを開く。俺の図体は人一倍でかいが、身ごなしの軽やかさには自信がある。体を滑りこませてすぐに閉じる。誰にも見られていないはずだ。
「……誰……?」
 薄暗い中、か細い声が訊ねた。応えるまでもなく、
「……せんせい!」
 声のトーンが喜びに満ちて一段跳ね上がった。
「しいっ。……」
 指を立ててそう言いつつも、こちらも笑顔になっていた。
 ぽつんと一つ置かれたベッドの上で、佐々原未来(みく)が布団をはねのけて起き上がる。枕元のスタンド電球を点けた、その光に照らされた笑顔が、文字通り輝くようだ。
「最近来れなくってごめんな。ちょっと忙しくなっちゃってな……」
「いいの! うれしい!」
「元気にしてたか?」
 ベッド横の車椅子をどけ、壁際から椅子を持ってきて置く。腰を下ろすとぎしりといった。一脚800円の安物パイプスツール。前にも壊したことがある。もう少し頑丈なやつにしてほしいものだ。少し前屈みになり、体重を全部乗せないように気をつけた。
「気分はどうだ? ちゃんと勉強してるか?」
 訊かれて未来は唇を尖らせた。
「べんきょう、きらい」
「でもな、勉強はしておかないと、学校に行けるようになった時に、みんなについていけなくなっちゃうぞ」
「みく、ちゃんとやってるよ。今日は、七の段全部おぼえたんだからね。しちいちがしち、しちにじゅうよん、しちさんにじゅういち……」
 順番に九九を暗唱し、“しちは”でつまずいた。
「んんんん……」
「七七は四十九だろう。それに七を足すんだ。四十九から、五十、五十一、五十二、五十三、五十四、五十五……」
「ごじゅうろく!」
 未来は七本指を折り畳んだ両手を高々とさし上げた。それから、しちはごじゅうろく、しちくろくじゅうさんと残りを早口で言い終えた。
「ちゃんと言えたよ!」
「ああ、そうだな。偉いぞ」
「へへへ」
 頭をなでてやると、未来はこれ以上ないくらい嬉しそうにした。
「ねえ、せんせい。だっこ」
 腕を伸ばし、動かない下半身を引きずるようにしてしがみついてくる。
 温かい。やわらかく、どこか甘酸っぱいようなにおいがする。パジャマのボタンをきちんと止めていないので、開いた襟元から豊かなふくらみがのぞいていた。
 ――――この未来は、今年で十九歳になる。
 両親が幸せな未来を願ってつけたであろう名前とは裏腹に、彼女の人生には一切の光がなかった。
 七歳までは普通の、いや普通以上に可愛らしい子だった。
 高熱を出して入院した。筋組織が変質し次第に萎縮してゆく、筋肉癌とでも言うしかない奇病だった。最初の発熱が治まった後には両足が完全に麻痺していた。回復の見込みは立たなかった。未来の人生は車椅子の上で終わることが決まった。
 やがて、脳にも障害が出ていたことがわかった。
 初潮を迎え、胸がふくらみ、大人びた体つきと涼やかな美貌の持ち主となっても、未来の知能は七歳のままで止まっていた。
「せんせい、おひげじょりじょり。きゃはは」
 頬をすりつけてくる。本人は父親にじゃれついているようなつもりなのだろうが、成熟した女体にしがみつかれているこちらはそれどころではない。
 何とか引き剥がし、元通りに寝かせた。
「熱はないかい?」
「だいじょうぶ!」
 注射をいやがっていることがみえみえの顔で強がる。実際はしょっちゅう発熱しているのだが。
 その眉がわずかにひそめられた。
「せんせい。……みく、いつになったら学校に行けるのかなあ。マーくんやみかちゃんと遊びたいなあ」
「……大丈夫、もうすぐ行けるよ」
「学校で、いじめられないかなあ」
「未来みたいな可愛い子を、誰もいじめないよ。もしそんなやつがいたら、先生がおこってやる」
「ほんとう?」
「ああ、本当だ」
 未来は笑った。黒目がちの目が、子供そのままに明るくきらめく。その無邪気さが痛ましい。未来は何もわかっていない。自分が二度と友達と机を並べられないことも、その友達がすでに小さな“マーくん”でも“みかちゃん”でもなくなっており、未来のことなど記憶の片隅にとどめるだけになってしまっていることも――――そして、自分が同じ言葉をもう何年も繰り返し言い続けていることも。
「……おとうさんもおかあさんも、どうして来てくれないのかな。みくの足がいつまでも治らないから、きらいになっちゃったのかな」
 未来は寂しそうにつぶやいた。忙しいだけだよ、とまた嘘をついてその頬をなでてやる。こちらを見て安心したように笑ってくれた。胸がつまるような心地がした。嘘をつくのが下手だと、部長にも同僚にも看護婦にも、患者みんなにまで言われている。見破られないようにと天に祈った。親のことに関して、未来に決して知られてはならない秘密がこちらの心の中にある。
 未来はこの話題にはこれ以上触れるつもりはないらしかった。ありがたい。明るく言ってきた。
「ね、こんどまた、“ゴオオオオ”やってね」
 前に未来の担当だったとき、肩車した未来を外に連れだし、思い切り走り回ったことがあった。よほど楽しかったらしい。もっとも、こちらはそのせいで大目玉をくらい、担当を外される羽目に陥ったのだが。……まあ、小一時間も駆け回っていれば仕方がないか。だが、何と言われようとも、あれが悪かったとは思っていない。
「林堂先生、やってくれないんだ」
「そりゃそうさ」
 もしその気があっても、細いとはいえ人ひとりかかえて延々と走り回る真似は他のやつにはまず無理だ。
「天気のいい日に、チャンスがあったらやってみようか」
「雨のあと」
 珍しく未来が強く言ってきた。
「このあいだ、雨のあとに、虹が出たの。見たら、あそこの森の向こうに虹がおりてたの。だからあそこに行くの。どんなになってるのかな。きっと、ぜんぶ七色なんだよ。お空もお日様もお花も虫さんも、ぜんぶぜんぶ虹みたいにきらきらしてるんだよ」
 未来は枕元に置かれたペン立て、そこに挿してある風車を手に取った。今時珍しいそれは、担当だった時に俺がふと通りかかった縁日で買ってきてやったものだ。四枚の白い羽根にピンク色の花の絵が描かれている。未来はこれが大のお気に入りだった。そこら中に転がっている他のおもちゃとは違う扱いをしている。窓から入りこんでくる風を受けてこれが回る時、未来は外の世界とつながっている感じをおぼえている。口に出してそう言ったわけではない。未来にそれほどの語彙はない。だが風の強い日など、窓を開け放って風車を手に何時間もじっとしている姿を見ればわかる。外を見つめるその寂しげな瞳を見れば。
 ふうと息を吹きかける。淡い色合いの羽根がくるくると回る。
 それを見つめる未来の目は憧れをいっぱいにたたえている。虹の向こうへ、息をきらせながら一生懸命走ってゆくところを思い描いているのだろうか。
 絶対にかなわない夢を。

 ――――いけない。顔に出てしまう。
 始めよう。

「そうだ、未来。先生な、この間、友達に新しい遊び教わったんだ。ちょっとやってみないか?」
 水を向けると何かも聞かずにすぐにのってきた。好奇心にきらめく純粋な瞳を見ると罪悪感をおぼえた。だがやめるわけにはいかない。今日は特別だ。
「まず横になって、目を閉じて」
 スタンドを消す。
「息をできるだけ沢山吸ってごらん。それからゆっくりと吐いて。そう、いっぱい吸って……全部吐きだして、空っぽにして。もう一回、吸って、吸って…………吐きだす時に、一緒に体中の力が抜ける。吸って……吐いて……。ほら、だらあんとなってきた……いい気持ちだろう? もう少し続けて。もっと力が抜けて、もっといい気持ちになってくる……」
 ペンライトを取り出す。光をしぼり、未来の額を照らす。
「目を開けて。この光を見て。この光をじいっと見て。もうこれから目を離せない。とってもまぶしいね。まぶしくて、まぶしくて、頭の中が真っ白になってくる。頭の中が光でいっぱいになって、ほうら、もう何も考えられない。いい気持ちだね。だんだん目が閉じてくるぞ。まぶたが重くなって……重くなって…………ほうら、だんだん閉じてくる……閉じてくる……閉じる…………閉じる……」
 未来の目は半眼になり、糸のようになり、完全に閉じた。
「目を閉じても、まだ光がぴかあっとして、まぶしい……」
 未来の額を指の腹で軽く叩く。一定のテンポで続ける。
「光が、どんどんまぶしくなってくる……」
 ゆっくり四つ叩いた所で、
「今度は光が小さくなってくる…………小さくなって、しぼんで、しぼんで、暗あくなる……」
 四つ叩くごとに明るくなる、暗くなると繰り返した。
 少ししてから、
「今度は、光がもっともっと小さくなって、小さくなって、消える……消える…………消えた。すごく暗くて、何も見えない、でもとてもいい気持ち。深い、深あいところへ沈んでいくような感じがする。何も怖いことはない。とってもいい気持ちのまま、どんどん深あいところへ入っていく。……」
 あっさりするほど簡単に、未来は深い催眠状態になった。
 背中に手を入れ、起こす。未来の首はだらんと後ろに傾いた。口が半開きになり、白い歯がのぞく。気持ちよさそうだ。鼻をつまんでみる。何も反応しない。
 ベッドの縁に座らせた。
 パジャマの裾からのぞく足は、色ばかり白くて肉がほとんどついていない、つくりものめいた感じだった。右の方が少し斜めに歪んでいる。中国で昔女性に施されたという纏足(てんそく)の写真を見たことがあるのだが、あれに似ている。
「じゃあいいかい、これから未来を色々な所へ連れていくぞ」
 未来は本を読むのが好きだ。童話とか物語とか、そういう内容のあるものではなくて、世界のあちこちの風景写真が載っているものを特に好む。平仮名をたどるのが精一杯なので、紹介文など読んではいない。写真だけをひたすらに見つめている。
「まず海から行こうか。海のことを考えてごらん。そうすると、ほうら、波の音が、ざぶうん、ざぶうんと聞こえてくる……。熱いね、おひさまがとても熱い。風が吹く、どこかしょっぱいにおいのする風が吹いてきて……ほうら、未来の汗がすううっと引いていく……とても気持ちいい」
 未来がまだ普通に歩けた頃、海に連れていってもらったことがあるのは何度も聞かされていた。その時の事がよみがえってきているのだろう、未来は目を閉じたまま「うわあ……」と大口を開けて喜びの顔をつくった。
「ゆっくりと目を開けてごらん。いきなり開けるとものすごくまぶしいから、そっとだよ。そっと、そっと、目を開けると、ほうら、未来は海にいるよ」
 未来は両腕を水平に広げて思い切り息を吸った。焦点を遠くに合わせた目を天井に向けた。右から左へ。きっとカモメでも見ているのだろう。
 次は山に連れていった。蝉の声がやかましいと未来は笑いながら耳をふさいだ。山道を登る。未来は握り拳をつくり両腕を元気よく前後に振り回した。足はぴくりとも動かないが、懸命に登っているつもりなのだ。額に汗が浮かんできた。拭いてやる。
 雪景色も見せてやった。未来はこわごわシーツに手を伸ばし、触れるなり冷たいと悲鳴を上げた。
 野原に行った。色とりどりの花が咲き乱れている。未来はこれまでで一番喜んだ。外に聞こえないか心配になるくらいに大きな声を張り上げ、腕をぶんぶん振り回した。駆け回っているのだ。どこまでもどこまでも走っている。――――だが、やはりその足は少しも動かない。
「……残念だけど、もう時間だ。病院に帰らないと」
「えー、もう……?」
 ふくれっ面をする未来をなだめる。
「気持ちはわかるけど、仕方ないんだ。でも、またすぐに遊びに来られるから、大丈夫だ。ほうら、目を閉じるんだ。頭の中がだんだん薄暗あくなって、暗くなって、ぼんやりした、いい気持ちになってくる……」
 未来のまぶたがすっと降り、首ががくんと前に垂れた。
「これから元に戻るけど、またこんな風に遊びに行きたいだろう? そのための魔法の言葉を教えてあげよう」
 少し考えた。そう言えば、こういう歌があったな……。
「“虹の彼方に”。知ってるかな?」
「…………うん」
 未来はうなずき、ん~ん~と口ずさんだ。結構昔の歌だが、テレビか何かで耳にしたのだろう。
「そうだ。その歌は好きかい」
「好き」
「じゃあ、それを合い言葉にしよう。いいかい、“虹の彼方に”って先生が言うと、未来はいつでも、どんな時でも、すぐにこの気持ちいい感じになることができるんだ。わかるね」
「……うん」
「いい子だ。じゃあ、一回目を覚ましてみよう。今から数をゆっくりと一から十まで数えていくぞ。十数えると、とてもいい気持ちで目が覚める。いいね。ひとつ。ふたつ……」
 十で未来はまぶたを上げた。まだぼんやりしている。
「気分はどうだい」
 声をかけるとびっくりして目を丸くした。
「あれえっ?」
 周囲を見回す。自分が病室にいるのが不思議らしい。
「今、何をしてたかおぼえているかい」
「…………あれ?」
 首をひねった。深い催眠に入ると、表層意識が眠りこみ、記憶がなくなる。うまくかかってくれたようだ。
「頭痛いとか、気分悪いとか、そういうのはないか?」
「うん…………いい気分だよ……」
 まだ釈然としない様子だ。
「君に今、催眠術をかけたんだ」
「さいみんじゅつ?」
「知ってるかい」
「……よくわかんない」
「催眠術にかかると、未来の好きな夢を見られるんだぞ」
「本当!?」
「ああ、本当さ。じゃあもう一回やってみようか」
 未来の前にかがみこみ、目をのぞきこむ。
 澄み切った、こちらを心から信頼している目だ。これからしようとしていることを思うと、黒眸に映る自分の姿が醜い怪物のように見える。胸が痛む。
 だが……。
 肩に手を置き、虹の彼方に、と言った。
 途端に未来の目がうつろに変わり、幕が下りるようにまぶたが閉じていった。そのまま脱力させ、後ろに倒してゆく。

「いいかい、これから数を逆に数える。すると、君はだんだん昔に戻っていく。十九。十八。ほら、君は十八歳になった。……」
 未来は自分が十九歳であることは知っている。ただ、普通の十九歳の女性と自分との違いが理解できていないのだ。
 さっさと七まで戻した。未来にとって、七歳から今日までは病院で過ごした、何一つ変わることのない日々だった。未来の人生と言えるものはその前の数年だけだ。
 両親のこと、近所の友達と遊んで楽しかったことを思い出させつつ、さらに退行させてゆく。最後は何も考えずにすむ赤ん坊に変えてやった。未来は親指をしゃぶりながらあどけなく微笑んだ。
「じゃあ今度は、数をだんだん増やしていく。数えると、君はだんだんと大きくなっていくんだ」
 六つまで数えた。
「七つ。……君は、熱を出さなかった。何も起こらないまま、楽しく学校に通い続け、三年生に進級した」
 ここから先は別の人生を送らせてやることにする。未来の目元に考えこむようなしわがあらわれた。混乱している。だがやがてそのイメージを受け入れた。目こそ閉じたままだが、小鼻がふくらみ、唇が興奮気味につり上がる。あれほど夢見ていた学校生活を、今心の中で満喫しているのだろう。楽しんでくれたら幸いだ。
 四年生、五年生、六年生。心なしか、弛緩していた未来の表情が若干お姉さん然となってきたように見えた。
 いじめ、仲間はずれといった嫌なことも経験しつつ、未来は元気に成長してゆく。
 中学生。制服を着ている暗示に、未来ははにかんで袖口や襟元を見回した。
「似合うぞ。可愛いな」
「えへへ……」
 好きな男の子ができた。淡い恋心を抱いたまま、告白する勇気が出せずに卒業を迎えてしまった。
 十六、十七。高校に入ると、勉強が難しくなってきた。その中で、
「未来には本当に好きな人ができた。好きで好きでたまらない男の人ができた。体が大きくて、強そうな、学校の先生だよ。
 ……目を開けてごらん。その人が、目の前にいる」
 未来はこちらを見るなり、ほわんととろけるような顔つきになった。
「……未来。先生のこと、どう思う? 言ってごらん」
「…………みく、せんせいのことね、……だいすきだよ」
 未来は、“七歳”の頭脳で演じられる限り精一杯の大人びた表情をつくり、真摯に告白してくれた。
 ときめいた。年甲斐もなく。
「先生も、未来のことが大好きだよ」
 こわれものを扱うようにそっと腕を回し、お尻の下に手を入れて持ち上げ、抱きかかえてやった。充実している上半身とは正反対に、麻痺している下半身の肉づきは薄い、いやほとんど骨と皮ばかりだ。軽い。
 未来も腕を回してきた。
 見つめ合う。未来は静かに目を閉じた。上向けられた唇に、唇を重ねる。舌を送りこむと、そんなことをするなんて思ってもいなかったのだろう、音がするほどぱちりと目を開いた。だがすぐに歯茎や舌をこすられる快感に目覚め、うっとりとなった。
 たっぷり味わってから口を離した。未来の舌がこちらの舌を追って突き出されてきた。唾液が糸を引いた。未来は熱に浮かされたように深く息をついた。
「じゃあ、もう一度目を閉じて。また時間が進むよ。はい、君は十八になった。春が来て、高校は卒業だ。友達とも別れなくちゃいけない。寂しいね。だけど、いいこともある。これで、好きな人と結婚できるんだよ。お嫁さんになれるんだ」
「およめ……さん…………」
 未来は限りない憧憬と共に口にした。お父さんのおよめさんになる、と見舞いに来た父親によく言っていた。先生のおよめさんになってあげるね、と言われたこともある。大抵の子供にとってそうであるように、幸せな未来を示す大事な言葉なのだ。
「お嫁さんになりたいかい」
「はい!」
 大人のつもりの声で、即答した。
 ……では、やるか。
 深呼吸して、言った。
「……じゃあ、未来。……先生と結婚してくれるかい」
「はい!」
 これ以上ないくらいに未来の顔は輝いた。
「はい! はい!」
 夢中になって繰り返した。開いた瞳にはいっぱいに涙がうかんでいた。うれし泣きしながら固く抱きついてきた。
 催眠でこうなるように誘導されていなかったら、未来はどのように反応するのだろうか。これと同じであってほしいと心から願った。たとえ現実には誰からもプロポーズされることがないとしても。
「来年になったら結婚式だ。いいね」
「はい!」
「早くその時が来てほしいだろう? じゃあ、時間を進めよう。……十九!」
 未来を抱いたまま立ち上がった。
 結婚式の暗示を与える。未来は純白のウェディングドレス姿で、みんなからの祝福を浴びた。薄暗い部屋の中で、力一杯ブーケを放り投げる格好をする。横抱きにしたままあっちへこっちへ未来を振り回してやった。きゃあきゃあ笑いながら首にすがりついてくる。幸せそうだった。
「……この後、何をするか知っているかい」
「?」
 未来はきょとんとした。
「先生と未来は結婚したんだから、一緒に寝るんだ」
「そうなの? いいよ」
 何もわかっていない未来は無邪気に言った。
 ベッドに寝かせ、パジャマのボタンを外す。
「え…………何するの?」
「結婚したら、こうやって裸になって、体をくっつけて寝るんだ」
「え……でも……」
「いやかい」
「………………せんせいなら……いいよ……」
 甘く口にすると、自分から残りのボタンを外して前を開いた。
 椀を伏せたような見事な乳房。肌は抜けるように白い。
 こちらも上着を脱いだ。未来は胸を隠そうともせずにぽかんと口を開けた。多分、こんなにがっしりした男の体は見たことがないだろう。テレビでプロレスでも見れば別だが、未来がそんなものを見るとは思えない。
 ベッドに上がりこみ、体重をかけないようにして覆い被さる。体格が全然違うので、未来の体は完全に隠れてしまう。
「きゃあ」
「はは」
 少し間を空けて安心させ、肘をついて体を支えつつ手を乳房に伸ばす。
「!」
「大丈夫。先生のこと、好きだろう? だったら、何も心配しなくていい。まかせてくれ」
「……うん……」
 戸惑いは隠せないものの、未来は黙ってこちらのなすがままにさせた。
 一度体を起こしてパジャマの上を全部脱がせる。
 細い肩、細い腕。何もかもが華奢で、白い。
 横にして、乳房に手をかけた。
 びくっとなる。
「未来のおっぱいはきれいだな。触りたい。いいかい?」
「きれい?」
「ああ、とってもきれいだ。男だったらみんな触りたがる」
「せんせいもさわりたいの?」
「もちろん」
 未来は少し黙りこみ、それから静かに顎をあげ、胸を突き出すようにした。愛撫させてくれるのだ。嬉しかった。
 そっと包みこみ、揉みほぐした。生硬だが、手に吸いついてくるようだ。
「くすぐったいよ……」
「それだけかい。よく感じてごらん。だんだんと、体があったかいような、おかしな感じになってくるぞ」
 未来は素直にくすぐったさを我慢した。その頬に、次第になまめかしい血の気がのぼってきた。
「せ、せんせい…………みく、何か、変だよ…………あっ……」
「気持ちいいだろう? その感じが、どんどん強くなってくる。何にも怖いことはない。深く息を吸って……吐き出すと、怖い気持ちもすうううっと消えていく…………ほら、もう全然怖くない」
 尖って突き出してきた乳首を口に含む。
「せんせい、赤ちゃんみたい…………」
 未来は笑ったが、舌で乳首を転がしはじめると、たちまちあえぎ声をあふれさせるようになった。
「……あっ! あんっ! せん、せんせい、これ、き、気持ちいい、いいよお!」
 未来の手を取り、股間を触らせる。ズボンを突き破りそうなくらいに怒張しているものに、未来は悶えるのも忘れてぎょっとなった。
「うわあ…………これ、おちんちん……?」
「そうだよ。未来のことが好きだと思うと、こんな風になるんだ」
「好き……?」
「そう。未来のことが大好きだから、こんなになってるんだ」
 胸を近づけ、体を円を描くように動かした。両の乳首をそろって肌でこすられ、未来はさらに甘ったるいあえぎ声を上げた。肌をくっつけ、抱きしめてキス。未来は夢中になって舌を絡めてきた。
 下を脱がせた。
 未来の下半身は見られたものではない。肌こそまだつややかさを保ってはいるが、使うことがないので筋肉はまったく発達しておらず、やせ細り、老人の脚のようだ。薄暗いからわかりにくいが、膝の辺りに黒ずんだ斑点が浮いている。そこで筋がおかしな風に歪んでしまっており、膝から下は斜めに歪んで固まっている。何度も手術した、その傷跡がいくつも醜く残っていた。
 ――――前に診察した時より、斑点がまた少し大きくなっている……。
「うわあ! やだあ!」
 可愛らしいウサギのプリントがついた白いパンティ。ぐしょぐしょになっていた。おもらしをしたのと勘違いして泣きそうになるのを、これはおしっこじゃないよと教えてやる。
「女の子はね、おちんちんはないけれど、代わりにこんな風になるんだ。ちっとも恥ずかしいことじゃないんだぞ。いいことなんだ」
 脱がせ、膝を折り畳ませて太腿を大きく開く。未来の脚は神経も麻痺してしまっており、どのようにしても痛みをおぼえることがない。
「きれいにしなくちゃな」
「きゃっ、せんせい、そこ、きたないよお」
「大丈夫、未来なら汚くないよ。ほら、こうやって膝を持って。ずっと押さえているんだぞ」
 少し茂り気味のヘアをかきわけ、襞に指を添えた。流れ出した愛液がお尻の穴の方へ流れ出す。充血してぷっくりふくらんでいるそこに口をつけた。跳ねる未来の体を押さえ、やわらかくした舌で丁寧に舐めてやる。
「あんっ! ああっ! あっ、なに、いやあ! せんせい、せ、せん、これ、変、ああっ、みく、お、おかしく、おかしくなるよお! せんせいっ!」
 そんなものがあることも知らないだろう肉芽を刺激されると、未来は甲高い悲鳴を上げ、涙を流しながら体を突っ張らせた。熱い液が新たにあふれてきてシーツを濡らした。
 ぐったりしてしまった未来の頭の後ろにクッションを入れ、ズボンを下ろした。
 膝立ちになって未来をまたぎ、赤黒く反り返ったものを半開きの口先につきつける。
「……?」
「今度は、これを舐めるんだ。とても気持ちよくなるぞ。三つ数えて指をこんな風に鳴らすと、口に入れてみたくてたまらなくなる。ひとつ、ふたつ、三つ!」
「………………」
 未来はぼんやりした目で俺のものを見ると、おずおずと手を伸ばし、大きく口を開けて先端を飲みこんだ。
 やり方など当然知らないので、たっぷり唾をつけて丁寧に舐めしゃぶるよう教えてやる。次第に陶酔の顔つきになってきた。ゆっくりと腰を前後に動かすと、それに合わせて手の方も動かすようになった。
「もういいぞ。ありがとう。気持ちよかった。……さあ、じゃあいよいよ本番だ」
「?」
「目を閉じるんだ」
 下腹部をなでながら、痛みを感じないように暗示を与える。
「ここがじんと痺れたようになって、何も感じなくなる。ちょっとじんじんするかもしれないけれど、全然いやじゃない」
 ――――目を開けた未来は、何をするのか聞かされて不安そうな顔をした。無理もない。
「いいかい、未来は先生と結婚したんだ。わかるな」
「うん……」
「結婚したひとは、こういうことをするんだぞ。ちょっと怖いのはわかる。でも、今、とても気持ちいいだろう? それがもっと気持ちよくなるんだ。何も心配することはない」
「…………うん、わかった…………」
 心を決めると、自分の秘所に近づいてくる肉棒を見る目が好奇のそれに変わった。
 先に指を差しこんでみる。筋肉が発達していないので、それほどきつくない。指先に抵抗がある。
「きゃあ!」
「痛むか? 何か感じるかい?」
「……全然…………」
 そこにものが入るということが信じられないのだろう。
「な、大丈夫だろう。じゃあ、行くぞ……」
 こちらのものも分泌したものと未来の唾液で濡れているし、未来のそこはとうにどろどろだ。先端は難なく肉襞の間に埋まった。
 体重を乗せてゆく。無理矢理に押しこんで裂けてしまうことのないよう、我ながらじれったくなるくらいにじわじわと。
「あ、あ、はいって、入ってきた……」
 未来は震える。痛がっている様子はない。先端が突起に出会った。いよいよだ。こちらの方が緊張している。
「あ…………」
 さすがに何か違うものを感じたか、未来が声を上げてお腹を押さえた。
 熱かった。か細い生命力が全部そこに集まり、中のものを包みこんで溶かそうとしてくるようだった。
 ゆっくりと動かす。かすかに血のにおいがした。
「だんだんと、気持ちよくなってくる。気持ちいい、未来の頭の中はそれだけになる。他のことは何も考えられない」
「あはあ…………」
 それまでは緊張して真剣になっており、そうすると年齢相応に見えていた未来の表情が、みるみる炎にあぶられた蝋細工のようにとろけていった。
「ああっ、あっ、あっ、あっ、あんっ、いいっ、いい、いいよ!」
 深いところから突き上げてくる快感の大波が未来を襲う。
 しがみついてきた。こちらの髪をつかみ、背中をひっかき、のたうち回る。腰骨のあたりが奇妙に波打っている。動かぬ足を無意識のうちに動かそうとしているのだ。
「すごくいい気持ちだろう。もっともっとよくなるぞ。でも全然疲れないし、怖くもない。ただ気持ちいい、それしか頭になくなる」
 未来は生まれてはじめての感覚に、狂乱としかいいようのない悶え方をした。あまりの悲鳴の激しさに、途中で声が出なくなるような暗示を与えないとならなくなった。
「せ、せんせい、せんせいっ、なに、何か、なんか、あ、あ、ああ、ああ、ああああああっっっ!!」
“その時”だけ声が出せる。未来は叫んだ。柔襞が痛いくらいに締めつけてきた。奥の方に向かって、こちらのものの中身を一滴残さずしぼりとろうと収縮する。あらかじめここは耐えることに決めておかなかったら、何もかも放出してしまっていただろう。
 未来は体中を突っ張らせ、がく、がくんと痙攣し、脱力した。

「……気分はどうだい?」
 まだ激しく胸を起伏させている未来の体を抱き寄せ、訊ねる。
 未来は焦点の合わない目を何とかこちらに向け、ぜいぜい息をしている口を微笑みの形にした。それだけで十分だ。
「すごく幸せな気分だ。今までこんなにいい気持ちになったことはないだろう? 先生の言うことを聞いていれば、いつでもこんな気持ちになることができるんだぞ」
 未来の頭をなでながら、暗示を重ねる。今度はこちらが満足する番だ。
「さあ、今から数を五つ数えると、また体が熱くなって、今のことをもう一回してほしくなる。してほしくてしてほしくて、どうしても我慢できなくなる……」
 未来はもじもじと腰を揺すりはじめた。切なげな目を投げかけてくる。唇が動くが言葉は出ない。先ほどの暗示がまだ効いている。
「してほしいだろう?」
 顔を興奮で赤くしながら首を縦に振った。
「よし。……」
 未来の上に覆いかぶさる。
 未来は何も言っていないのに、自分から指で襞を左右に開いた。よほど待ち遠しいのか、白濁した蜜があふれてきた。
 入れただけで未来はあごを大きくのけぞらせ、感極まったように唇をひくつかせた。
 未来を抱えて身を起こし、ベッドの端に座る。
 緩やかに腰を動かすだけでも未来は十分満足そうにしたが、あえて動きを止める。
「?」
「いいかい、未来。今未来のここは、おもらししたみたいになってるだろう。でもおしっこじゃなくて、とても気持ちがいい。そうだな」
 未来は不満げながらもうなずく。
「女の子はそういう風になる。
 男も同じように、気持ちよくなると、特別なものが出るんだ。
 ……先生も、未来とこうしているととってもいい気持ちだ。だから、このままでいるとその特別なものが出てしまう。
 これは、未来のことが好きだから出るんだ。他の女のひとでは、絶対に出ない。渡辺のおねえちゃんでも」
 一番美人の看護婦を引き合いに出す。実際、彼女には食指が動かない。向こうはいつでもOKと目で言ってきているが、興味はない。
「だから、それは未来が大好きというしるしなんだ。わかるな。もう少ししたら、出る。そのとき、先生はすごく気持ちいいんだ。未来も一緒に気持ちよくなってくれたら嬉しい」
「………………」
 未来は眉を寄せた。未来の頭でどこまで理解できるのかはわからない。だがすぐに、受け入れてくれる証のゆるやかな笑顔を見せた。未来の中のものがさらに大きく怒張した。
 動きはじめた。未来に快感を送りこむ。未来はほんの数分とたたないうちに声を上げ、後ろに倒れこみそうになった。
「イッたな。それが、イクっていう感じなんだ。最高の気分だろう? でも全然疲れない。もっともっとして欲しい。そう思えば、まだまだ、何度でもイクことができるからな」
 中身はともかく、十分に成熟している十九歳の肉体は、与えられる快感を貪欲にむさぼった。しまいには突かれるたびに絶頂を迎えるほどになった。締めつけはものすごく、悶えぶりを見ているとこちらもたまらなく昂ってきて、さほども保たずに頂点に達した。
「だ、出すぞ……!」
「好き、せんせい、大好きいいい!」
「お、俺もだ! 未来!」
 未来の体を抱きしめながら、思い切り放出した。
「あああああああっ!」
 熱いたぎりを子宮に浴びた未来は、かつてない強烈な刺激に絶叫し、白目をむいて悶絶してしまった。

 しばらく抱き合ったままでいた。
 頭や汗に濡れた背中をさすってやる。脈拍は速いが正常。普段は触診が難しいくらいに弱いのだが、今ばかりは力強い。もっとも、それでもやっと安静にしている普通の子なみだ。
 まだ時折腰をひくつかせている。細い肩。丸い頬。どこもかしこも小振りで、頼りない。抱く腕に力をこめれば泡沫のように割れて消えてしまうだろう。
 このまま一晩中でもこうしていたかった。
 だがそうはしていられない。身を切られるような思いで起き上がる。せめて後一度と、胸にそっと手を置いた。我ながら未練なことだ。服を着る。
 タオルを湯で絞り、全身を拭いてやった。未来は夢うつつなまま気持ちよさそうにした。
 ベッド横の引き出しから替えのパンティを取り出す。パジャマを元通りに着せる。未来を車椅子に移し、血のしみのついたシーツをあらかじめ用意しておいたものと交換した。
 落ちついてきた未来に、最後の暗示をかける。
「さあ、また深い所に入っていこう。頭が真っ白になって、何もわからなくなる。ほうら、触っている頭のここから、何もかも流れ出していって、全部なくなって、どこで何をしているのかもうわからない。そんなことはどうでもいい。頭の中は真っ白だ。真っ白。ぼやっとして、ふわふわ浮かんでいるみたいな、とてもいい気持ちだ……」
 このままだと本当に眠ってしまうだろう。その前に、この後の指示を与えておかないといけない。
「未来は今日、催眠術にかかって、とてもいい気持ちになった。催眠術にかかるというのは、すごく気持ちのいいことなんだ。わかるな。またいつでも、何度でもこんな風に気持ちよくしてほしい。それは簡単、先生があの合い言葉を言えばすぐにこうなれる」
「……」
「でも、そのことは誰にも言ってはいけない。もし言ったら、林堂先生とか他の人にひどく怒られて、もう二度とこの楽しい気持ちになれなくなってしまう。そんなのは嫌だろう? だから催眠術のことは誰にも言ってはいけない。これは先生と未来だけの秘密の遊びなんだ。いいね」
「…………はい……」
「どんなに言いたくても、他の人には絶対に言えない。おとうさんやおかあさんにも秘密だ」
「はい……」
 わずかに笑った。子供は秘密を持ちたがるものだ。この“新しい遊び”にわくわくしている。
「約束だ。手を出して」
 さしのべられた手を取る。
「今から三つ数えると、未来は先生ともっと仲良しになって、他の人には言わないっていう約束を、どんなことがあっても守れるようになる。わかるな。じゃあ数えるぞ。ひとつ、ふたつ、みっつ!」
 手を強めにぎゅっと握った。
 記憶を封印した後は、眠らせるだけだ。
 布団をかけてやり、額に手を置いた。
「さあ、今日はこれでおしまいだ。もう眠いだろう? 明日また遊んであげるから、今日はもうおやすみ。気持ちよかったことのほかは何もかも忘れて、深く、深く眠るんだ。明日の朝には、いつもよりさっぱりとした、すごくいい気分で目が覚める。約束と、合い言葉を忘れてはいけないぞ。先生、未来のことが大好きなんだからな」
 未来は安らかな表情で眠りに落ちていった。

 ここに来た痕跡が残っていないか確かめてから病室を出る。
 暗い廊下を足音を立てずに進み、ナースステーションに忍びこむ。
 看護婦が二人、退屈そうにしていた。
「あっ……?」
 目を見開いたところへ、手を叩く。
 パン、パンと二度打ち鳴らすと、二人ともそろって目の焦点を失った。だらりと手が垂れる。
 ――――この二人は、どちらも催眠術にかかったままだ。
 看護婦たちの中でも催眠感受性が高い、いわゆるかかりやすいタイプで、俺が催眠術を練習するときに実験台になってもらった。もっとも当人たちは今では何もおぼえていない。俺の合図ひとつで催眠状態になることも。
 未来の所へ行く前にこの二人に施術しておいた。未来の声は聞こえたかもしれないが、彼女たちには何も意識されない。
 シフト上、詰めているのがこの二人だけになるのは今夜だけだった。だから今夜中に未来を俺のものにしておかなければならなかった。貴重な機会は最高の結果となった。彼女たちには感謝しないとならない。
 考えて、二人を恋人同士にした。まず片方のパンティを脱がせ、広げた秘所にもう一人を吸いつかせた。丹念な舌技により、すぐにイッた。そのまま机につかせ、一人でいる間にオナニーしてしまったように思いこませる。もう片方にも性感度を高める暗示を与え、トイレでオナニーしてくるように命じた。どちらも、相方の顔を見た途端に催眠術から覚めるようにしておいた。そのときには爽快感だけを残して何もかも忘れているはずだ。俺を目撃した記憶も全部消してから、音もなく立ち去る。

 無人駅のホームに降りると、雨だった。
 一両きりの車両が去ってゆく。線路の左右はどちらも原野。一日数本しか走らないローカル線の、鉄道マニアぐらいしか名を知らないだろう、小さな小さな駅。
 どうせここから先は交通機関もない。駅舎で、雨がやむまでのんびり待つことにする。
 携帯が鳴った。こんな所でも使えるのか。折角置いてきた都会の空気に追いつかれた感じがして不快だった。電源を切っておかなかったのは失敗だ。それでも手にしてしまうのは、都会暮らしで身についた悲しい性だ。
 相手は、俺に催眠術を教えてくれた知り合いだった。
『読んだわ』
 教わった際に、何をするつもりなのかは訊かれなかった。だが何をしたのかは必ず教えるようにと念を押されていた。
 全てが終わった昨日、あらかじめ書いておいた手紙を投函した。届いたものを読み、即座に電話してきたのだろう。
『…………読んだけど……………………』
 何からコメントしていいやら迷っている様子だった。
『その未来って子、元からあなたのことが好きだったのよね』
「……多分な」
『あなたも、好きだった。そう書いてあるわね。この気持ちに嘘はないわね』
「…………ああ……」
『ひとつ言わせてもらうわ』
「……」
『馬鹿!!』
 思わず携帯を耳から離した。
『何考えてんの! いい、今すぐその子の保護者の叔父さんに連絡して、許可もらって、婚姻届出してきなさい!』
「叔父、か。それは無理だな」
 自分がまだ笑えることに驚いた。もう二度と笑えないかと思っていたんだが。
『どうして』
「昨日、殴った」
『…………保険金のことで?』
「ああ」
 長い長いため息が聞こえた。

 未来の両親が交通事故で亡くなったのは、四ヶ月前のことだ。
 未来の入院費、治療費を捻出するために無理を重ねてきて、疲労していた。見舞いにくる途中、運転を誤って、あっけないほど簡単にこの世を去ってしまった。
 夫婦は自分たちにもしものことがあったらと考えて、多めに保険をかけていた。
 それを、未来の親権者となった叔父が勝手に投資に回し、失敗して元も子もなくしていた。当人は何も傷つかず、しれっとしていた。
 許せなかったのだ。

『だったらなおのことよ。殴る前に深呼吸して、届け出用紙にハンコもらえばよかったじゃない。経済的にも問題ないわけだし、あなたの迫力で押されれば文句なんて言えなかったはずよ。――――あなた、独身なわけだし』
「…………いや、駄目だ。それはできない……」
『いつまで死んだひとのことぐだぐだ言ってるの! あのひとはね、あなたが自分に縛りつけられるなんてこと望んでなかったわ! 死ぬまであなたのことを心配してたの! あなたが心から誰かを好きになったのなら、喜んでくれるはずよ! そういうひとだったでしょう? 違う!?』
「わかっている。わかっているんだ…………」
 胸に浮かぶ、今は亡き妻の儚い姿。俺なんかにはもったいない女だった。
 一度しか抱いてやらなかった。それで飽きて、他の女に手を出して遊んでいた。
 隠していた病気のことに、医者でありながら俺は気づかなかった。そうとわかった時は手遅れだった。
 すまない、と最期の時に言った。呼吸器の中であいつはわずかに唇を動かし、駄目よと答えてきた。見抜かれていた。……俺がもう一生誰とも結婚しない誓いを立てたことを。
『今どこにいるの? まだ間に合うわ、くだらない誓いなんかゴミ箱に捨てて、さっさと生きているひととの幸せをつかみに行きなさい!』
「違うね。……俺は、知恵遅れの女性を強姦しただけさ。ましてそのまま自分のものにしてしまうなんて、許されることじゃない」
『あのね! ……』
 声音で悟られたか、電話の向こうで息をのむ気配がした。やっぱり俺は嘘をつくのが下手だ。
 腕の中に抱きしめた、ほっそりした体の感触がよみがえってくる。
 あれからもう一月たつが、まだ生々しく思い出す。
 忘れることなどできはしない。
「…………死んだよ、未来は。……昨日」
 そろそろ雨が上がりそうだ。

 見た目に変化はない。だがこの数年なりをひそめているかに見えていた病魔は、いつの間にか未来の全身に深く根を張ってしまっていた。
 心臓が犯されはじめていた。もってあと半年。しなった枝が限界を超えて折れるように、その日は突然来るだろう。どの医師が診ても――――俺の目から見ても、それは動かしがたい事実だった。
 だから両親の死も未来には知らされなかった。――――最期の日まで、少しでも心安らかに過ごせるように。

 俺のやったことは、残りわずかな未来の生命力を強引に燃やさせただけなのかもしれない。何もしなければ、未来はまだ生きられたかもしれない。だったら俺は人殺しだ。
 だが、未来をあのまま、親も友達も見舞いに来ないことを寂しがり、風車を手に窓から外を見つめるばかりで人生を終わらせることが、どうしてもできなかった。
 ……幸せにしてやったなんて言えはしない。何が幸せなのかなんて、他人が決めることではない。わかっている。傲慢な考えだ。
 そう、偉そうなことを言ってはいけない。俺が未来を犯したかっただけなのだ。未来を抱きたいから、必ず感じるように催眠術をかけて、未来が俺に寄せてくれていた信頼を悪用して、犯したのだ。
 あいつも、そんな俺が未来と一緒になるなんてことは許さないだろう。
『………………馬鹿』
 その通りだ。

 また携帯が鳴った。別の相手だった。
 未来の担当だった林堂だ。
 呼吸を落ちつけて、出た。
『……おい、辞表って、どういうことだよ!』
「お読みになった通りですよ、先輩」
『大体の事情は聞いた。殴るなんて、お前のやったことは確かによくない。でもな、部長だってわかってくれてるんだ、何も田舎に引っこんじまうことはないだろう』
「すみません」
『辞表は預かっておく。落ちついたら戻ってこい。あの子のことでショックを受けてるのはわかるけどな、医者やってるとこんなことは珍しくない。一々気にしてたらやってられんぞ』
「他の先生方はどうしてますか」
『……ま、みんな慣れてるからな、落ちついてるよ。ここだけの話、財産なくしてるわけだし、かといってあの病状じゃ退院させるわけにもいかなかったし、あのまま生きてたら病院の金食い虫は間違いなかったから、ほっとしてるってのが本音だろうけどな』
 その空気を一口たりとも吸いたくないから、逃げ出したのだ。もし耳にしてしまったら、何をしてしまうかわからない。
『お前あの子に随分気に入られてたもんな。最期まで俺にはなついてくれなかったよ。そう言えばあの時のアレ……』

 その日。
 未来の容態が急変した日。
 集中治療室で、未来は苦しみながら、怖い、怖いと泣き叫んでいた。死にたくない、と。
 未来の手を握り、耳元で『虹の彼方に』だよと言い、小さく歌ってやった。
 未来の苦悶が少し落ちついた。
 長い苦しみの後、俺の方を見て言った。
『おとうさん…………。泣い……てる……の? 変な……かお……』
 笑ってくれた。
 透けるような、穏やかな顔だった。
『おとうさん、あたしね。……うれしかったよ…………あれ……してくれて……』

『今度、いっしょに……にじ…………見に………………ね……』
 そのまま意識を失い、二度と目覚めることはなかった。

『おとうさんなんて、担当してた時にままごとでもつきあってやってたのか? 俺もやってたら少しは仲良くなれたのかな。結構可愛い子だったし、あれでまともだったら絶対口説いてたね。上だけならいい体してたしな。文句言ってくる親もいないことだし、ちょっとくらいいたずらしても……どうせ本人も何されたかわかんなかっただろうし。……なんてな。はは、怒ったか? 冗談に決まってるだろ、こっちも医者だぜ。怒るなよ。まさか俺まで殴ったりしないよな?』
「はは、まさか」
 殴りなんかしない。
 殴る程度じゃすまさない。……辞めて正解だ。
 電話を切ろうとすると、慌てて言ってきた。
『さっき戻ってきたとこなんだけどさ、葬式、寂しいものだったよ。例の叔父さんとやらは当然顔を見せないし、両親の友人とかいうのが数人来ていただけ。無理もないけどな。……で、ちょっと気になったんだけど』
「……」
『かざぐるま。知ってるだろ、あの子の枕元にいつも置いてあったやつ』
「ええ……」
『遺品片づけるときに気になったんだけど、見あたらないんだ。もしかしたらお前が持っていったのかなと思ってさ』
「…………知りませんね」
 これは本当だ。
 片づけた看護婦が捨ててしまったのだろうか。
 そういうものだろう。どんな思いがこもっていようとも、他人にとっては価値がない。俺がどんなに未来を愛おしく思っていようとも、死んでしまったのではもう何の意味もないように。
「わざわざお電話ありがとうございました。お世話になりました」
『おい、待て、俺の話を聞けっての! おい、蜂谷!』
 無視して切った。電源を切り、駅舎のくずかごに放りこむ。
 立ち上がる。
 雨は上がっていた。

 雲の動きはあきれるほどに速かった。
 舗装すらされていない道を、水たまりをよけながら歩く。
 兄貴はよくまあこんな田舎に住んでいられるものだ。もっとも、俺だって医大に入るまではこの辺を走り回っていたわけだし、今から心身を鍛え直しに帰るのだが。
 斜面を登りきると、見渡す限りの野原が広がっていた。
 風が吹く。ススキが揺れる。ノギクの白い花びらからしずくが垂れる。どこにでも咲くタンポポの黄色は心なしか色あせている。もうすっかり秋だ。
 よどんでいた水たまりのおもてが突然、色合いを変えた。
 ――――青。
 なめらかな水面が一面、底なしに深い青に染まった。
 雲が切れ、澄んだ空があらわれていた。
 周囲に小さな影がいくつも動いた。
 子供だ。どこから湧いて出たのか、雨上がりの地面を、笑いながら駆けてゆく。近所の子供たちだろうか。
(言うの、忘れてた)
 耳に風がささやいた。
 一人の少女が足を止め、振り向いた。
 立ちすくむ。
「……み…………」
 花の絵の風車を手にした少女は、にっこり笑って、片手を口元にあてて大きく唇を動かした。
「あ」
「り」
「が」
「と」
 そう読めた。
 呼ばれたのか、向き直って何か叫んだ。
 そのまま水面に波紋も残さず、ススキの茎を突き抜けて、友達の後を追って元気よく野原へ駆けこんでいった。
 一度だけ、こちらを振り向いて手を振った。弾けるような笑顔だった。

 小さな姿が消えていった先に、驚くほどに大きく近い、完全な半円を描く虹が、瞳の奥にいつまでも焼きつくようなまばゆいきらめきを放っていた。

< 了 >

BGM:電気グルーヴ「NIJI」 アルバム『DRAGON』所収

 振り返る こともたまにある
 照れながら 思い出す
 遠くて近い つかめない
 どんな色か わからない
 ゆっくり消える虹見てて
 トリコじかけになる

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