幻市 第一章

[編集部注]

 本稿はKなる人物により当編集部に持ち込まれた音声テープを文字起こししたものである。Kは自称フリーターであり、このテープはKにより仕掛けられた盗聴器により盗聴された物との事である。
 当編集部はKが行った盗聴行為を決して肯ずる立場をとるものではないが、一方で本テープの内容の異常性、犯罪性に鑑み、本テープの確保、保管、そして公表の立場をとるに至ったものである。
 本テープの公表にあたり、当該テープの声の主と思われる人物、及びその会話の相手とされるべき人物にテープの内容の真偽の確認を行ったが、1ヶ月を経た今も回答を得ていない。
そこで本テープの信憑性を確信する当編集部は、告発の意を持って本テープの内容を公表することとしたものである。
 文中において表記される固有名詞は全て当編集部が賦した仮称であり、実テープ中に語られる名称とは異なるものである。しかしながら賢明なる本誌読者諸氏は、文中にて「東信一」「高嶋美紀」と表記される2名が誰を指しているのかを容易に察せられる事と思う。
 
 尚、当編集部は本誌当号の発行に合わせ、本テープを関係当局に提出することを決定している事を申し添える。当該事件(あえて事件と申し上げる)に関し情報をお持ちの方は「編集後記」に表記してある連絡先にご連絡下さい。

編集長

第一章

 
 美紀ちゃん、君に話したことがあっただろうか。僕が君と同じあの町に住んでいたことがあったことを・・・。

 僕が金沢市にある父方の祖父の家に引き取られたのは中学2年の時だった。ああ、その時には父はまだ生きてた。母が死んで暫くしてからの事だ。

 僕の母親は小学校6年の時に心臓の発作で死んだ。元々あまり身体の丈夫でなかった母は風邪気味だと言って早寝した翌朝に僕が眼を覚ますと既に冷たくなっていた。

 土木技術者の父は東北のダム工事現場に行っていてその時も留守だった。布団の中で死んでいる母を・・・苦痛に顔を歪め空を掴むように腕を伸ばしたまま冷たくなっている母を・・・発見した僕は、いつものように顔を洗い服を着替えランドセルを背負い学校に行って・・・それから担任の教師に母親が死んだことを報告したのだそうだ、まるで宿題を忘れたのを報告するような口調で・・・。

 その日のことは余り良く覚えていない。
大人達は何ら動揺を見せない僕を気味悪がったようだけど、恐らく母の死によって僕の頭の中の何かが外れてしまったのだろう。頭の中に薄い靄(もや)がかかったように現実感のない空間に僕は身を置いていた。イヤ正確に言うと、僕はその日以来3年余り、ずっと靄(もや)の中の現実感のない世界で暮らしていた。

 だからあの町で起きたこと・・・そう、僕が中学2年と3年の2年間に金沢の生活で体験したあの不思議な出来事が果たして本当にあったことなのか、それとも靄の中に見た幻なのか、今でもはっきりとは判別できないでいる。

 靄(もや)の中・・・今となっては僕自身にすら現実感がないのだからその感覚を君に説明するのは難しい。靄の中と言ってもモノが霞んで見えるわけではない・・・でも音は遠い・・・イヤ、よく聞こえてはいるのだけれど心にまでは響いてこない。当時の僕の耳元で突然誰かが爆竹をならしても僕は表情を変えないでいることもできたに違いない。

 ごく普通に生活は出来る。学校でも友人と話をして笑うことだって出来る。「アイツがおもしろいことを言ったので僕は今笑っている」と感じながら僕は笑っていた。同じように「転んで膝から血が出てるから僕は痛がっている」「突然突き飛ばされたから僕は怒っている」・・・そう、頭の中にハードディスクが二つあってHD1の動作をHD2が監視しているように僕は僕自身を靄のカーテン越しに眺めている。それが靄の中の生活だ。理解して貰えるだろうか。

 父が会社に事情を話して配慮して貰ったのだろう、母が死んでしばらくは父は東京勤務となり僕の家は父子家庭になった。

 傍から見ると普通の少年だったが僕は靄の中の生活者だった。外界とのアクセスを担当するのはHD1、僕自身の自我を形成するのはHD2、その間を靄のように拡散した僕の意識が結んでいた。外界との接触による感情はHD1の担当だからHD1が感じている恐怖とか喜び悲しみはHD2は無視することが出来た。気持ちの悪い少年だったと思う。

 それと度々「てんかん」様の発作を起こすようになった。授業中、瘧(おこり)のように全身の筋肉に力が入って体が震え硬直して意識を失うんだ。小学校の内に一回、中学一年の時は三回意識を失った。

 残酷な世代だから友人達は僕のことを「てんかん小僧」と呼んだ。もっぱら《てん》て呼ばれたけどね。《てん》と呼ばれることを僕は大して気にしてはいなかった、そういった事を気にするのはHD1の仕事だからね。でも当時社宅が一緒だった父の同僚、僕の同級生の父親なんだけど、から僕のあだ名を聞かされて父が怒ったんだ。それが金沢への転校の理由。

 金沢市の南西部にあるN山という小さな山のふもとに祖父の家はあった。農家なんだけど近隣の宅地開発に合わせて畑を売っていってしまって老人一人で手を入れられる程度の農地しか残っていない。土地を売った金で建て替えた瀟洒な家に祖父と、叔母・・・離婚して戻ってきた父の妹と、僕より三つ上の従姉が住んでいた。実質的な生計は農協病院で事務員をやっていた叔母に頼っていたのだろうと思う。

 祖父の家から30分ほどかけて市立の中学校に通った。HD2の思いとは別にHD1は如才なかったから、思いの外、容易に新たな環境にとけ込めた。
 発作のせいで水泳は禁じられていたけど、水の中で発作が起きたら確かに困るからね、他に身体上の欠陥はなかったのでクラブ活動が必修のその中学では僕は陸上部員として活躍した。苦痛を無視できるHD2のコントロール下で走る陸上部員は長距離走で驚異的な記録を叩き出した。

 それと新たに加わった日課が精神病院通いだ。勿論、僕は精神を病んでいたわけではなかったけれど、祖父の家の近くにある精神病院の脳神経外科に一月に一回通院して脳波の検査と発作を抑える薬を処方して貰うのが僕の日課になった。

 祖父の家の裏手のN山の中腹にあるその病院は、恐らく精神病に偏見を抱く人達がイメージした物がそのまま実体化したらこういう病院になるだろうというような病院だった。砂利引きの坂道に沿って続く平屋建ての病棟の暗い窓には鉄格子が入っていて、時々、動物の声のような叫び声が聞こえてくる。正気の人間でも三日も入院したら精神を病んでしまいそうなその病院は北陸の重い空の下にひっそりと佇んでいた。

 僕が意識的にHD1とHD2を切り替える技術、そしてそれに伴う副作用・・・というか能力、を身につけたのはその病院でだった。

 処方された薬が体質に合ったのだろう、春に転校して秋になるまで、秋の市民総体で僕が3000m走と5000m走の記録を驚異的な数値で塗り替えるまで、一度も発作は起きなかった。

 病院の担当医の名前は野杖あかね・・・若い患者が珍しい中で、病院がナイーブな少年に気を遣って若い女医を担当させたのだと思う。今思い返せば野心的ではあったのだと思うけれど感じの良い美人でHD1は彼女に好感を抱いていた、そんなHD1の感情をHD2にある僕の自我は冷静に観察していたような気がする。

 10月も終わるある日、いつものように脳波の検査・・・当時は今と違い脳波を取るための電極は本当の針を頭皮に刺すもので毎回HD1は恐怖に震えていた・・・を終えて問診を受けていると野杖医師が妙なことを言い出した。

「東くん」
 脳波検査をするといつも僕は大汗をかいた。僕の額の汗を優しく拭き取ってくれながら野杖医師が切り出した。HD1はこの問診の時間を愛している。
「金沢に来て一度も発作は起きていないでしょう?」
「はい」
「薬が合ったみたいね」
 野杖医師は立ち上がってさっき電極を刺した僕の頭皮をアルコールで拭いてくれている。24カ所も針を刺したのだ。スポーツ刈りにした僕の短い髪の毛をかき分けるようにして小さな傷跡を消毒してくれる。野杖医師の白衣の胸が目の前で動き、消毒液の臭いで麻痺した僕の鼻を女性らしい甘い香りがくすぐる。HD1の動作レベルが緩慢になる。

「発作が起きないのは良いことだけど、このままじゃあ原因がどこにあるのか判らないわ」
「はあ」
 HD1は少し上の空だ。
「この薬で今までの所ほぼ完全に発作を抑えられる事は判ったけど、いつまでも薬を飲み続けるのもネエ?」
「はあ」
「相談があるんだけど良い?」
「はあ?」
 野杖医師は僕の正面に腰掛けると僕の眼を覗き込んで質問した。
「一度、発作を起こしてみたいの。・・・ああ、心配しなくてもいいのよ。病院で、しかも医師のコントロール下での発作だから・・・その時の脳波を取ればどこに問題があるか判るわ」
 HD1が恐怖する。僕は、HD2は、冷静にHD1の恐怖を観察している。
「あなたもいつまでも発作を抱えながら薬を飲み続けるのはイヤでしょう?」
「でも先生、大人になったら自然に治るって前に言ったじゃないですか?」
「ええ、言ったわ。事実、大半の人は治るの。多分、あなたの発作も成人前には治ると思う」
「じゃあ何で?」
 野杖医師は小さく溜息をつき僕の頭に手を伸ばす。僕のスポーツ刈りの頭を優しく撫でる。
「東くん、20歳まで薬を飲み続ける?・・・脳波の検査をずうっと続ける?」
 僕の頭を撫でていた彼女の手が優しく側頭部から耳に向かって降りてきて僕の頬で止まる。手のひらが暖かい。HD1の活動レベルが一段下がる。
「イヤでしょう?」
 僕は小さくうなずいた。彼女が優しく微笑む。でも僕は、HD2は、彼女の目が実験者の野心で輝いたことを見逃しはしなかった。

 検査は日曜日の朝から行われることになった。「おじいさまを心配させるといけないから・・・」と野杖医師が言うので検査の内容は祖父には伝えずに僕は一人で病院に行った。

 大きな病院ではあるが平日でも決して外来があふれている病院ではない。それが休日と言うこともあり廊下にも人の姿が見えない。この地方には珍しく思いっきり晴れた日で、鉄格子の中にうずくまる悪意を感じ取る能力のない人であれば陽光に満ちた休日の学校を思い浮かべるかも知れない。

 いつものように野杖医師の研究室に向かった。いつもは白衣の襟元から決まって白いブラウスの襟を覗かせている彼女だけど、今日は休日だからだろう、白衣のボタンを留めずにコートのように着ているので光沢のある水色のブラウスと紺色のスカートが見えている。緊張していたHD1がその姿を見て少し興奮した。

 普段は脳波の検査は脳波検査室で行うのだけれど、今日は野末医師の研究室の隅に黒い皮の表面を持つ幅の狭いベッドがおかれ、小型の脳波計測器らしい器具がベッドの片方の端にセットされている。いつもの大柄な看護婦(確か佐伯という名だった)も今朝はいない。
「心配することは何もないのよ」
 促されてベッドに仰向けになる。いつもの通り手首に冷たい電極を固定し、皮の枕で僕の頭を浮かせると頭に細いコードのついた小さな針を刺していく。HD1が顔をしかめて痛みに耐えている間、HD2の僕は彼女の香りを楽しむ。いつもの脳波の検査では目の前で照明を明滅させて脳波への影響を見るのだけれど今日は照明なしでやるみたいだ。

 袖をまくった僕の腕に注射針が刺される。いつもはこんな事はしない。恐らくこれが発作を誘発する薬なのだろう。野杖医師はベッドの脇に丸椅子を持ってくると腰をかけ僕に微笑みかけた。

 すぐにでも発作が起こるのかと思ったのだけれど、何も起きない・・・。注射を見て跳ね上がった僕の鼓動が少しずつ沈静化する。鳥のさえずりが聞こえる。平和な陽光が窓から差し込み逆光になった先生の髪の毛を金色に縁取っている。脳波を記録する記録紙が吐き出される静かな音・・・何も起きない・・・。

 最初の兆候は精神的なモノだった。妙な不安感が・・・胸騒ぎが僕を襲った。その胸騒ぎのせいで脈拍が上がってきているのを僕は感じた。僕は大きな深呼吸をして身体から力を抜く努力をする。眼があって野杖医師が微笑んだ。微笑みの裏に緊張が見て取れる。

 それは突然襲ってきた。
両足がビクンと勝手に跳ね上がると同時に体中の筋肉が痙攣を始める。後はどうなっているのか自分でも判らない。自分の身体の全ての筋肉が猛烈なスピードで収縮と弛緩を繰り返す衝撃で意識が飛びかけている。いつもはこの段階では失神しているはずなのに今回は苦痛から逃げ出せない。
あらぬ方に飛んでいる僕の視界の隅で野杖医師が慌てて僕を押さえつけようとしている姿が見える。
助けてくれ・・・助けて・・・声も出ない、呼吸ができない。
 激しく揺れる視界・・・恐らく思いっきり頭を振っているのだろう。頭蓋骨までも震えている様な気がする。頭の中で何かが共鳴している。叫びたい。全身の筋肉を緊張させたまま僕は大きく叫んだ。
あ゛~あ゛~っ
 息を吐いていないのだから叫び声ではない。頭の中の共鳴を口から波動にして押し出したようなものだ。その一瞬頭の中が鮮明になった。

 恐怖に歪んだ野杖医師の顔が見えた。彼女に向かって僕は叫ぶ。音のない叫び。
あ゛~あ゛~っ
 僕の口から発射された波動が彼女を襲い野杖医師の姿が消える。その瞬間唐突に痙攣が収まり、僕は必死になって空気を吸う。何分くらいそうして空気をむさぼっていただろうか?体中の筋肉が痛い、骨がきしんでいる。僕はゆっくりと体を起こした。頭に付けた電極が引っ張られて抜け落ちる。その痛みすら感じない。

 体を起こした僕はベッドから転げ落ちた。どうしたんだ。身体の制御が効かない。床に両手をついてどうにか上体を持ち上げた僕は突然襲ってきた吐き気のせいで胃の中の物をリノリウムの床にぶちまけた。

 床に腰を下ろしベッドに寄りかかったまま僕は回りを見渡した。何かおかしい。2mほど離れたところに野杖医師が倒れているが助け起こしに行く力も出ない。何かおかしい。さっきまでと見える情景が違っている。そう、現実感。・・・全ての物が現実感を持って僕の脳に飛び込んでくる。・・・靄(もや)が晴れた。母が死んで以来、ずっと靄の中から外界を眺めていた僕の前から靄が消えていた。僕は現実の世界のまぶしさに眼を細めた。

 そう、HD1がどこかに消えていた。勿論、その時はそんなに冷静に情勢を分析できたわけではなかったけれど、HD1が突然消えてしまい今まで間接的にしか外界に接触していなかったHD2の僕が残されている事を僕は本能的に理解した。

 HD2は今まで常に傍観者で自分で身体を動かしたことがない・・・だから身体をうまく制御できない。ゆっくりと立ち上がれるようになるまでどれだけの時間がかかっただろう。僕は少しずつ身体を動かす練習をしながらベッドにつかまり漸く立ち上がった。

 野杖医師はまだ倒れたままだ。どうしたのだろう。僕はベッドに寄りかかったまま「先生っ」と声をかけようとして・・・声が出ない。声の出し方が判らない事に気が付いた。。僕は全身に力を込めて声を出そうとした。力を込めた全身の筋肉が震える。又、頭蓋骨が共鳴を始める。そして僕は口から衝撃波を吐き出した。「あ゛~っ」僕の正面の薬棚のガラスがビリビリと震えパシンと割れた。どうなっているんだ。

 衝撃波以外の声を出せるようになるまで何分かかっただろう。普段の僕の声とは似ても似つかぬ嗄れ声だがどうにか声が出せるようになった。僕は四つん這いになって野杖医師に近づく。

 仰向けに倒れている彼女に近づき、その時初めて彼女が目を開いたままで倒れているのに気が付いた。死んでいる・・・?。さっきの僕の波動砲を正面から受けてしまったようだ。胸に手をやり鼓動があるのを確かめた。生きている。

 彼女の胸の鼓動を確かめながらその身体の柔らかさ暖かさ、手触りの心地よさに身体が震えた。僕はそっとその鼓動のすぐそばにある膨らみに手をやった。その時僕を襲った感覚を君に説明するのは難しい。HD1の感覚を通じてしか外界に接していなかったHD2にとって初めて触れた女体の感覚は・・・身体全体が打ち震えるような衝撃だった。

「う゛っ」
 僕は自分が快感を感じているのか不快感を感じているのかをも理解しないまま濁ったうめき声を上げた。今なら当時の自分を分析できる。あれが僕が感じた最初の「性欲」だったんだ。

 僕が話していることを君は理解できているだろうか?

 学術的な意味で正確かどうかは判らないけれど、一言で説明すれば「二重人格」。HD1とHD2の関係は主人格と従人格の関係にあったのだと思う。母親の死という衝撃的な悲しみから逃れるために、悲しんでいる人格(HD1)とは別にそれを客観的に眺めることの出来る人格(HD2)を僕は心の中に生み出した。HD1が表に常時顕れている主人格、HD2が現実逃避のための従人格という事になるのだろうけれど、さっきからの話で判るように僕の現在の自我と連続性を持っているのはHD2だ。今の僕はHD2が成長した姿なんだ。ああ、そんな眼で僕を見ないでくれ。

 そしてどういう訳かHD1から切り離されてHD2が担当することになった機能がもう一つある。HD1に入れ替わり現実感を持って外界と対峙して初めて判明したのだけれど、HD2は「性欲」を担当している。HD1は異性に対しての憧れ、好奇心、慈しみという感情は持っていたけれどHD2として観察した限りでは性欲を感じたことはない。だから僕は性欲というものの存在すら知らなかった。それがこの時一挙に、僕自身が動揺するほどに、吹き出したのだ。

 HDという呼び方は少し機能的すぎるね。これからHD1の事を《シンイチ》、HD2の事を、そう、《てん》と呼ぼう。《てん》の意識は今の僕と連続性を持っているけど、僕は今なら《シンイチ》と《てん》を客観的に語ることが出来る。《シンイチ》と《てん》の不思議な物語を君に話して聞かせよう。

 さて、《てん》は野杖医師の胸を触って感じた衝動に戸惑っていた。性欲という物の存在を知らなかった《てん》はその衝動にどういう風に対処して良いのか判らなかったんだ。

 手の中の膨らみの柔らかさの気持ちよさに《てん》は手を離せないでいた。強く握ってみる。強い弾力。今思えば情け容赦なく握りしめたものだが野杖医師は眉を寄せ不快そうな顔をするだけで拒否をしない。

 《てん》は、しばらくの間、胸をまさぐっていたが、そうしている内にも身体の中の衝動がどんどん大きくなってきた。もう、我慢が出来ない。いきなり野杖医師の上体を持ち上げると力一杯抱きしめた。胸一杯に野杖医師の香りを吸い込む。「う゛~」と呻きながら柔らかく脱力した重たい体を振り回す。野杖医師の頭がガクガクと揺れる。

 バランスを失って野杖医師を抱いたまま仰向けに倒れた。身体にかかる野杖医師の重さが心地よい。野杖医師の腰骨が股間に当たる。股間への刺激が快感となって《てん》の頭を痺れさせる。野杖医師の腰を股ではさんで大きく揺すり上げる。

 野杖医師の身体を横に投げ捨てるようにして転がす。脱力した頭が床に落ちてゴツッと大きな音を立てた。《てん》は上にのしかかるとタイトスカートに包まれた野杖医師の下半身に股間をすりつけた。ブラウスに手をかけると大きく左右に開く。ブラウスのボタンが飛び布地が裂ける。下に着けていたブラを引きちぎるように外す。こぼれ出た乳房にうめき声をあげながらむしゃぶりつく。
その瞬間背中に電気が走り《てん》は「お゛~っ」と大声を上げた。腰がガクガクと揺れ初めての精がほとばしり・・・・・・《てん》は意識を失った。

 《てん》が意識を取り戻すと、そこはいつもの靄の中だった。性欲は去り《てん》はぼんやりとした居心地の良さを感じながら《シンイチ》の意識を眺める。《てん》が意識を失うと同時に《シンイチ》が目覚めたのだ。

 服を乱したまま仰向けに倒れた野杖医師を前に《シンイチ》は膝を抱えて震えていた。驚き、恐怖、心細さ、動揺、不安・・・激しく揺らぐ《シンイチ》の意識を《てん》は冷静に観察している。

 《てん》が意識を失っていたのは数分ほどだったのだろう。そしてこの時点では判らなかったことだけど《シンイチ》から《てん》は見えていない。《てん》は《シンイチ》を眺めることが出来るけどその逆はないんだ。

 さぞ《シンイチ》はビックリしただろう。突然気が付くと意識を失った野杖医師を組み敷いていて、彼女の服は引きちぎられている。状況を見ると自分がやったようだ。しかも恐らく夢精の後のような射精感が《シンイチ》には残っていてパンツの中はベトベトだ。ヤツが慌てて、そして途方に暮れるのも当然だったろう。

 しばらく泣いていた《シンイチ》だったけど、やがて意を決したように野杖医師に近づき恐る恐る胸に手を伸ばすとシャツの前を合わせて胸を隠してやる。心臓が破裂しそうに鼓動を打ち呼吸が荒くなる。そっと肩に手をかけ身体を揺すりながら声をかける。
「先生、大丈夫ですか?・・・先生」
野杖医師は目を開いたまま動かない。頬を叩くと反応して瞬きをする・・・気絶しているのとは違うようだ。

 普通なら誰かを呼びに行くところだが、状況が状況だ。《シンイチ》自身がどういう形にしろ先生を襲ってしまったみたいな状況の中で、他人を呼びに行くのは恐い。逃げ出したい・・・でも逃げたところでどうなるというのか・・・《シンイチ》は又泣き出した。

「先生、大丈夫ですかぁ?・・・先生、返事をしてよぅ」
 するとどうしたことだろう。野杖医師がはっきりした声で「はい」と返事をしたのだ。

《シンイチ》はびっくりして飛び離れる。
 野杖医師は仰向けのまま動かない。恐る恐るもう一度呼びかける。
「せ、先生?・・・・・・・先生?・・・・・・・」
 反応はない。
「・・・・返事をして下さい」
「・・・・」
「・・・?・・・・・・へ、返事をするんだ」
「はい」
 野杖医師は天井をぼんやりと見たまま、はっきりとした声で返事をする。

《シンイチ》はつばを飲み込んだ。(先生が壊れちゃった。)呼吸が荒くなる。

「先生。・・・・体を起こしなさい」
「・・・・」
「体を起こすんだ」
 野杖医師がゆるゆると体を起こし座る。視線は正面を向いたままだ。
「こっちを向きなさい。・・・こっちを向くんだ」
 野杖医師が《シンイチ》を見る。
「立ってみよう」
「はい」
 思ったより身軽な動作で立ち上がる。シャツが乱れて、又、乳房が剥き出しになる。そのまま《シンイチ》のことを見ている。《シンイチ》が恐る恐る野杖医師に近づく。

 野杖医師がどういう訳か《シンイチ》の命令に従うという事実に気が付く。気味が悪い。どうしてこうなったのか判らない。《シンイチ》がブラウスの胸元を直してやると《シンイチ》の指先を見ている・・・が、何も理解していないようだ。行動を指示すると従う。

 命令形の指示より「・・・するんだ」「・・・しよう」という呼びかけの方が反応がよい。

 破れたブラウスから乳房を見せたまま命令に従う妙齢の女性・・・こういった状況下で少年はどうすると思うかい?
 《シンイチ》はウブだった。事態収拾に必死だったんだ。部屋のロッカーを探しポロシャツを見つけると野杖医師に着替えさせた。《シンイチ》の目も気にせずに指示に従い上半身裸になって素直に着替える野杖医師を前にして《シンイチ》は一生懸命目をそらしていたくらいだ。

 《シンイチ》は手早く床の掃除を済ませる。自分の嘔吐の後を始末し、《てん》が衝撃波で壊した薬棚のガラスを片づける。検査器から排出された記録紙を始末する。
 
 《シンイチ》は野杖医師の様子から「催眠術」を連想していた。上手くいくかもしれない。事態収拾の可能性が微かに見えて来た。さっきまでの絶望的な気分がちょっと薄らぎ希望が蘇る。掃除をしながらどういう要領で暗示をかけるべきか必死に考えた。

 《シンイチ》は着替え終わった野杖医師の腕を取ると椅子に座らせ、彼女に質問をしながら対策を練った。どうやら今日の検査のことは病院には黙ってやろうとしたらしい。彼女しか知らない。休日に出てきてまでやろうとした作業とそれに関しての記憶を捏造する。今日の《シンイチ》に関しての記憶を思い出させ、そしてそれを除去する。部屋に脳波の検査器具を持ってきた理由を作成する。

 《シンイチ》が満足できるまで野杖医師の記憶をいじくりまくった時には冬の日差しが西に傾きかけていた。野杖医師に命じて居眠りをさせると、そっと部屋を出て家に向かう。病院の門を出ると《シンイチ》は大きく息をついた。

 家に帰れば帰ったで不安はつのる。「あんな事で上手くいくはずがない。きっと今に警察から連絡が入る・・・」と《シンイチ》は胃が痛くなる程の不安に苛まれていた。

「信一、おまい、風邪でもひいたんでねえがけ?」
 食事もろくに取らない《シンイチ》に祖父が心配して声をかける。
「うん、ちょっとお腹が痛いんだ」
「だらぁ、ほいたら早う言わんとあかんがいて」
「信ちゃん、どうしょ、お粥さんでも炊こかいねぇ」
 叔母の香保里が心配して顔を覗き込む。香保里おばさんは僕が東京から金沢にやってきたのを本当に喜んでくれていた。世話好きなおばさんだ。
「粥なんてエエちゃ。腹が痛いときは正露丸飲んでなごうしとるんが一番やちゃ」
「おいね。信一君、そうしまっし」

 強引に寝かされる。布団にはいると一層不安がつのり目がさえてくる。《てん》は《シンイチ》の不安を深い興味もなく観察していた。昼間のあの目くるめく快感の方に興味がある。直接に外界にはタッチしていなかった《てん》だが、知識は《シンイチ》と共有していたので「SEX」「射精」といった単語は観念では理解していた。あの快感がそうなのかと感動していた。あの胸の感触。香り。《てん》は興奮してきた。《てん》の想念に身体が反応する。勃起し始めた。
 《シンイチ》が突然の自分の身体の変化に戸惑って股間に手を伸ばす。自分の股間に手を触れ、その変化に驚きながら快感に身を委ねる。

 《シンイチ》は「う゛っ」と濁ったうなり声を上げた。背を貫く快感・・・射出し、ほとばしる・・・・・・。

< 第二章へ続く >

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