マリオネット 第6話

第6話

 痛みを感じる。

 本当は存在するのに空虚のような。

 空虚なのに確実に存在するような。

 そんな痛み。

 へし折られた指からの痛みでも、生爪を剥がされた指先からくる痛みでもない。

 この全身で感じているそれは―――

―――空気。

 極限の緊張感によって、震えるほどに張り詰めた空気が、ビリビリと俺の全身を突き刺していた。

 俺は動けない。

 両腕は押さえつけられ、背中には体重100キロをゆうに越えるであろう男がのしかかっている。

 満足に呼吸もできなし、目も霞んでくる。

 だが、俺はそんな状態からでも、決して目の前の敵、北条葵から目を逸らさなかった。

 葵は、そんな俺の状態がたまらないといった感じで俺を見下ろしている。

「ふふ、すごい目で私を睨んでますね、そんなに橘先生が大事なんですか?」

 そう言って、葵は景子の方を見る、葵の能力によって操られている景子の方を。

 景子はうつろな表情をしながら、右手にカッターナイフを持ちその場で立ち尽くしていた。

 そんな葵を睨みながら、はんと俺は笑う。

 そして、薄ら笑いを浮かべながら、俺は葵に言った。

「葵……大事だとか大事じゃないとか……その前にお前に教えてやる事がある」

 葵が景子から俺の方に視線を戻す。

「俺は……どうしても許せねえ事ってのが2つあるんだ」

 じっと俺の言葉に聞き入る葵。

 その顔から笑いは消えている。

「……ひとつは他人に舐められること」

 ドクンという激しく脈打つ心臓が俺を突き動かす。

「そしてもうひとつは……」

 ギリッと押さえつけられている首を無理矢理上げる。

 そして俺は毒づくようにして葵に言った。

「俺の所有物を、他人に好き勝手にいじくられるってことだ!」

 葵は、ピクリとも動かない、ただじっとして俺の言葉を聞いている。

「大事かって?ああ、大事さ、そいつは俺の貴重な『道具』だからな、景子も、茜も、大事な大事な『俺のモノ』さ」

 俺がそう言った瞬間―――

 葵が変わった。

 表情は変わっていない、変わったのは気配。

 俺だけに向けられているものでは無く、葵のそばにいるものなら誰でも無関係に貫くような気配。

 これをひとことで表すなら。

 殺気―――

 ぽたり、と俺の顎から汗がひとしずく落ちる、正直ここまで他人に気圧された事は記憶に無かった。

「そう…ですか……」

 まったくといっていいほど感情の感じられない、つぶやくような葵の声。

 どうやら、葵が俺の触れてはいけないところに触れたように、俺の今の言葉も、葵の触れてはいけないところに触れたようだ。

 葵が笑った、その笑いは、先ほどまでのどこか人を食ったような、心ここにあらずといった感じの笑いでは無い。

 明らかにそれは、狂気に取りつかれたような―――

 はは……

 この葵を見た時、俺も心の底から笑った。

 そうか、葵、俺も触れちまったか、お前にとっての禁句ってやつに

 おもしれぇよ……だったら、ぶち切れた者同士、とことん潰しあおうぜ。

 先に動いたのは葵。

 俺は葵の操る、俺の背中にのしかかっていたやつに、強引に立ち上がらせられる。

 そしてそいつに片手で、後ろから頭を強い力で鷲づかみにされた。

「ぐっ……」

 メキッと俺の頭蓋がきしむ。

 葵は続けて残りの2人も操る。

 先ほどと同じように、俺はその2人に腕をねじ上げられ、動かないように固定された。

 俺の身体は、まるで十字架にでも貼りつけられたような体勢になる。

 そんな俺を、葵は先ほどの狂気に染まった笑い顔を崩さずに見つめた。

「そうですか……そんなに大事なんですか、だったら感謝してくださいね」

 カチカチカチ、と俺の右側の耳が、音を捉えた。

 操られた景子が、カッターナイフの刃を出す音。

「橘先生は、その子達と違って、身体は何もいじってないし、頭も壊したりはしていません、私が身体の伝達神経を乗っ取って、無理矢理動かしているだけです」

 クスクスと葵は笑う。

「だって、そうじゃないと意味が無いじゃないですか、橘先生に、正気のまま……自らの手で先輩を傷付けさせるんです、一生後悔するように―――」

 そして、操られた景子がゆっくりと動き出す。

 片手に持っていたカッターナイフを両手に持ちかえて。

 じりじりと俺の方に歩いてくる景子、その動きはどこかぎこちない。

 そうして景子は俺の前に立ちふさがる。

 その目は本当に脳を破壊されていないのか疑いたくなるぐらいに、意思の光が見えなかった。

 葵が糸を操る指先を振る、それにあわせて景子のカッターナイフを持つ手がゆっくりと持ち上がった。

 ヒヤリとした感触が、全身に伝わる。

 景子の持つその刃が、そっと俺の首筋に当てられたのだ。

 俺は動く事ができない。

 身体を押さえつけられている事もあるが、それ以上に今無理に動けば景子の持つカッターナイフで頚動脈をばっさりと切られてしまう事になりかねない。

 そんな様子を見て、葵がくすりと笑った。

「だめですよ、橘先生、そんなところ切ったら先輩が死んじゃいます」

 つ、と俺の首筋から生あたたかい物が流れる感触。

 景子の持つカッターナイフが、俺の首を薄皮1枚切り裂いたようだ。

「先生、やるなら手足の腱です、先輩を動けないような……お人形さんにしてあげるんです」

 よく見ると景子の手が震えている、その振動で俺の首は切れたのかもしれない。

………そうか、景子……お前も必死に抵抗しているのか

 俺はその震える指先を見て、屋上での景子とのやり取りを思い出す。

 俺は景子に対して、自分の身に何かあったらそれ以降は好きなように勝手にしろと言った。

 はっ、笑わせやがる、なにが、勝手にしろ、だ

 俺は心の中で自嘲する。

 こんな負い目を負わせてやったんじゃ勝手にするもんも勝手にできねえじゃねえか、自己満足も大概にしろってか。

 俺は葵を睨みつける。

……待ってろよ、もうすぐおまえのその余裕の表情、恐怖に引きつったもんに変えてやるから!

 だが葵はそんな俺の視線などさらりと流すようにして、景子を操る。

 す、と葵が指先を下げる、するとそれに合わせるように、景子の持つカッターナイフも俺の首筋を離れゆっくりと下がっていった。

 そして、景子はぎこちなく刃を半回転させると、そのまま刃を上に向け、カッターナイフを俺の右脇の下に潜り込ませた。

「ふふ……たしかそこって腕の神経郡が集中してるんですよね、そこをスパッとやればもう2度と先輩は右手を動かせなくなるはずです」

 ぐ、と景子の持つカッターナイフの刃が俺の脇の下に食い込む。

 確かにそのままナイフの刃を引けば、葵の言うように俺の右腕はもう動かせなくなるだろう。

 下手をすれば上腕動脈すら切り裂いて命に関わるような事になるかもしれないが。

 チリ、と脇の下に痛みが走る。

 葵がゆっくりと指を突き出す、まるで俺を指差すように。

 そしてその顔からは、いつのまにかあの、狂気に染まった笑い顔は消え去っていた。

 これ以上無く、真摯で、迷いの無い目で俺を見る葵―――

「先輩……」

 穏やかに響く葵の声。

 周りのすべての音が消えていく、茜の声だけが俺の中に伝わってくる。

「ずっとあなただけを見ていました……」

 吸い込まれるような葵の目。

「初めて見たときから……あなたが好きでした……」

 神秘的な美しさを取り戻した葵の顔。

 見る者すべてを魅了する、非の打ち所のない葵の顔。

「私だけのモノに……なってください……」

 だが、その顔がどう見ても泣いているようにしか見えないのは、俺の目の錯覚なんだろうか。

 ゆっくりと、葵の糸が光を増していく。

 それに合わせ、景子の腕に力が入っていった。

 俺を手に入れたかった葵―――

 俺をひとり占めしたかった葵―――

 そのために……俺を倒すために……徹底的な下準備をして俺に臨んだ葵―――

 だが―――

 あえて、お前の敗因をいうなら。

 その必要以上の用意周到さ。

 景子を俺とお前の戦いに引きこんでしまったって事だろうな!

 俺は景子を真っ直ぐに見下ろす、そして、抑制の無い、まるで、日常の会話でもするような落ち着いた声でつぶやいた。

「景子」

 この場で、初めて俺が口にした景子の名前。

 その瞬間―――

『ビクン』と景子の身体が大きく震えた。

「あ…あ……」

 ぶるぶると身体を震わせる景子。

 その姿を見た葵が、えっ、という声を上げた。

 そんな葵を無視し、俺は景子に話しかける。

「景子……お前は俺のなんだ」

 景子の手が震える。

 そのせいでナイフが俺の脇の下に食い込み肉を引き裂いた。

 鮮血が走る。

「う…あ……」

 カッターナイフを伝った俺の血が、景子の手に流れ落ちる。

 その瞬間景子の瞳からボロボロと涙がこぼれてきた。

「た…す……」

 景子の喉の奥から、かすれるような声が出てくる。

 青い糸の能力を振りきり、自力で動こうとする景子、そんな景子の様子を、葵は呆然と見ている。

 そして、そんな葵を無視するように、俺は景子に話しつづけた。

「なんだ景子、俺にお願いがあるのか?だったらちゃんと言ってみろ」

 俺は、押さえつけられている身体を、それでも景子に近づけようと、強引に身体を前にせり出した。

 傷が深くなり、流れる血の量が多くなる。

 景子の手が俺の血で染まっていく。

「た……す、け…」

 そして俺は、わざとイライラしたように、大きな声で叫んだ。

「お前も自分自身で言ってたはずだ、おねだりをする時は、はっきり大きな声でと!」 

「助けて!」

 喉の奥から、血を吐き出すように叫んだ景子の声。

 その声が響き渡ったその瞬間、音楽室内の空気が変わる。

 それは逆上の色。

 癇癪を起こしたような、葵の声が響き渡った。

「いやああっ、だめなのっ、あなたは先輩を傷付けなきゃいけないの、あなたは先輩に嫌われなきゃいけないのっ!」

 ブンと右腕を振りまわす葵。

 その瞬間景子の身体が大きく震える。

「ああっ」

 身悶える景子。

 その景子へとつながる青い糸が、今までに無いぐらいの強い光を放っていた。

 そう、まるで―――

 それ以外の糸の事など、すべて忘れてしまっているかのように!

 まったく、思い通りにならなかったら、逆上して、癇癪を起こし我を忘れる……

 だから―――

 俺は、景子越しに葵を見据える。

「お前は、ガキだっていうんだよ!」

 俺の大きな叫び声にビクンと身体を震わせる葵。

「思い出してみろ!お前の手駒は何人で―――」

 俺は笑う、今のこの瞬間、形勢が一気に逆転するのを心から楽しむように。

「俺の手駒は何人だった!」

 あっ、とつぶやく葵。

 だがもう遅い、その瞬間、2つの物体が宙を舞った。

 高速に、俺へと向かう2つの飛行物体。

 それは人間。

 異常なまでに身体の筋肉が隆起した人間。

 そう、それは―――

 俺が操る同級生の男1体、それを黒板へと押さえつけていた葵が操る2人の男だった。

 葵の力が、すべて景子ひとりに注がれた瞬間、残りの5人はカカシ同然の状態になった。

 俺は、そんなチャンスを見逃すような男じゃない。

 俺はその機会を逃さず、自分が操る男にイメージを送った。

 そしてそいつの身体を押さえつけていた2人を振りほどかせると、その2人を、俺の腕を押さえている2人めがけて投げ飛ばさせたのだ。

 ドム、という重量のある硬質ゴム同士がぶつかるような音が響く。

 俺が操る男が投げ飛ばした2人が、寸分の狂いも無く、俺の腕を押さえつけていた2人にぶち当たった。

 俺の腕を抑えていたそいつらは後方へと吹っ飛ぶ、そしてそのまま4人まとまるようにして音楽室の壁に激しく激突した。

 教室全体が揺れるような衝撃が走る。

 次の瞬間ドサッ、という音が響き、4人が床に落ちた。

 4人は積み重なるように倒れたままピクリとも動かなくなる。

 だが俺はそんな顛末には目もくれず、開放された右腕を動かし、景子に切りつけられた傷の具合を確かめた。

……よし、腕を動かすのに支障はない

 俺はそう心の中でつぶやくと、残りの1人、後ろから俺の頭を掴んでいた男の腕を掴んだ。

 左手は指を折られているため使う事はできない、だがコイツもカカシ同然、俺の頭を鷲づかみにしているその手に力はまるで入っていない、片手だけで簡単に振りほどける。

 俺はそいつの指を2、3本まとめて右手で握り締めると、その手を強引に俺の頭から引き剥がした。

 そして俺は、その手を放すと、そのまま腕を前方に伸ばし、俺の目の前にいる景子の頭を掴み、強引に屈み込ませるようにぐいと俺の方に引き寄せた。

 俺も合わせるように身体を屈み込ませる。

 次の瞬間。

 最後の物体が俺の頭上を通過した。

 それは俺が操る男本人。

 俺はそいつを、俺の後ろで棒立ちになっている男に向かって体当たりさせた。

 ドンという鈍い音が響く。

 俺はその男の通過際に、そいつに打ち込んでいた糸を引き抜く。

……ありがとよ、結構役に立ったぜ、おまえ

 2人はそのまま、絡み合うように宙を舞うと、激しい音を立てて壁に激突した。

 どさり、と音がして男達は崩れ落ちる。

 そこにはもはやピクリとも身体を動かさない、6体の人間の山ができあがった。

 俺は、葵が操る男、すべてにカタがつくと、景子を引き剥がし、無理やり立たせる。

 そして、そのまま景子の頭をつかんでいる手を放すと、今度はその手で景子の喉笛を鷲づかみにした。

 ギリッと俺はその腕に力を込める。

 まだ、葵の支配化から抜け出せ切れない景子、それでも苦しそうなうめき声をあげた。

 ふわり、と俺の目の前に糸が舞いあがる。

 それは、葵が景子に打ち込んだ青い糸。

 俺は右手で景子の喉笛を鷲づかみにしながら、左手でその糸を掴んだ。

 握り締めた瞬間、折られた小指から激痛が走る。

 だが、そんなものは関係無い。

……いつまで…人のモンにこんなもの打ち込んでるんだよ!

 俺はそう心の中で叫ぶと、強引にその糸を、景子の首筋から引きぬいた。

 その瞬間、景子の身体が震える。

 そして、完全に自由になった身体で、必死に俺の事を叫んだ。

「ご主人様、ご主人様あっ」

 ボロボロと涙をこぼし、今まで呼べなかった分を取り戻すかのように俺を呼びつづける景子。

 だが、この景子の声が、今まで呆然と事の成り行きを見ていた葵を正気に戻らせたようだ。

 ゆらり、と糸を出している人差し指を上げる葵。

 その身体は怒りのオーラのようなものを纏っているようにすら見えた。

「許さない……絶対に許さないから!」

 葵の糸が光を取り戻す、糸はまだ、5人につながったままだ。

 俺の後方から、なにか物体が動く気配がした。

 だが、それよりも早く俺は動く。

 馬鹿野郎、俺が一度来た流れをそう簡単に手放すようなヤツだと思ってんのかよ!

 俺は、景子を掴んでいる右腕を振り払う。

 どさっと景子が床に倒れこんだ。

 だが俺はそんな景子に目もくれず、葵に向かって一直線に突進する。

 そして目の前に散らばっているもの。

 先ほど葵が操っていた男達が蹴散らし、無造作に散らばっていた、この音楽室の椅子を、渾身の力を込めて、何のためらいも無く蹴り上げた。

 足に激痛が走る。

 木と鉄パイプの塊の椅子を、薄い上履きだけを履いただけの足で蹴り上げたんだ、足の爪のひとつやふたつ、割れたかもしれない。

 だがそんな事はかまわない、これでケリをつけてやる!

 俺が蹴り上げた椅子、それは宙を舞い。

 葵の頭上、その真上の天井にぶち当たり、そこにあった蛍光灯を打ち砕いた。

 椅子は、そのまま反射し、葵の後方へと落ちていく。

 だが、粉々に砕かれた蛍光灯は、そのまま真っ直ぐに葵へと降り注いだ。

「きゃあああっ」

 頭を抱えしゃがみ込む葵。

 そして、自分に振りかかった蛍光灯の破片を手で振り払おうとした。

 はっ、馬鹿め、そんな事をすれば―――

「いっ―――」

 葵に振りかかった蛍光灯2本分のガラス破片、それは、それを振り払おうとした葵の手のひらをザックリと切り裂いた。

 その瞬間消える。

 今まで散々俺を苦しませていた。

 他人の肉体に干渉し、自由自在に操る事のできる、葵の青い糸が!

……脆いよ葵……

……指を折られ、生爪剥がされても俺は糸を消さなかったんだぞ……

……それに比べれば……

―――お前は脆すぎる!

 ダンと俺は床を蹴る。

 そして、さらに机の上でもう1度跳躍すると、俺はそのまま葵と俺の間の距離をいっきに縮め着地した。

「―――っ」

 葵がはっとした顔をする、そして、片手で血の流れている手のひらを押さえながら、糸を解き放つように俺に向けてその指をあげた。

 なんだ?

 糸を俺に直接使うか?

 それとも、また後ろのヤツらをつかうのか?

 だが―――

「あ……」

 葵の指先が凍りついたように止まる。

 もう、手遅れだよ!

 今のこの音楽室の、俺を中心としたすべての人間の位置関係。

 俺の、遥か後方には、俺と葵が操っていた6人の男。

 その、少し手前に景子。

 そして前を見れば、目の前に葵。

 それが一直線に並んでいる。

 そして……その俺と葵の間にある物。

 光輝く物。

 それは……

 葵の指先が震える、もうどうしようもできないと。

 葵の…すべての能力を封じる―――

 赤い―――壁!

 俺と、葵を隔てる物。

 それは俺が茜から奪った能力。

 堅固なる、外部からの糸の力を絶対無比に遮る力。

 赤い壁―――

 文字通り、壁のごとく音楽室の空間一面を横断している。

 始めから、糸を使われていた状態では、この能力はまったく意味をなさなかった。

 この壁は、糸を通過させないという事にかけては絶対無比だが、糸そのものを切断するような能力は無かったからだ。

 だが、葵はほんの些細な痛みに負け、糸を解き放ってしまった。

 俺はその瞬間を見逃さなかった。

 すべての人間を俺の後方に位置取らせ、壁を発生させる。

 葵はそのすべての駒と分断され、完全な孤立状態となった。

 もう―――葵にできる事は何もない。

 じりっと俺は1歩前に出る。

 それにあわせて、俺が作り出す赤い壁が葵に向かってせり出した。

「あ……」

 葵はその場にへたり込む、もうこうなってはどうする事もできない。

 カツンと音がする。

 それは、俺の作り出す赤い壁と、葵の身体を包み込んでいる青いベールがはちあった音。

 ぶつかり合う俺の能力と葵の能力。

 だが、その2つの性質はまるで違った。

 例えるなら、俺の作り出す壁は、ぶ厚いアクリル版。

 巨大な、水族館のようなところで使われている、どんな圧力をかけても歪む事すらしない堅固なアクリル版だ。

 それに対して葵のベールは。

 俺は、身体を葵に近づける。

 葵のベールがメキッという音を立てた。

 ハリボテにも満たない……

 触れればへこみ、濡れれば破れてしまう、貧弱な紙風船みたいなものだ。

 ビッと亀裂が広がった。

「いやっ、やめてぇっ」

 怯えるように頭を抱え込んで叫ぶ葵。

 そんな葵に向かって、俺は冷静な声で言った。

「ひとこと、お前に言っておいてやる」

 頭を抱えて震えている葵を見下ろす。

 もはやその顔に、さっきまで俺を気圧していた迫力は微塵も無かった。

「お前なんかより、茜のほうが……よっぽどやりづらかったぜ」

 俺がその言葉を発すると、葵はバッと両手で耳をふさいだ。

「いやあっ、聞きたくない、先輩の口から、茜ちゃんの事なんで聞きたくないっ!」

 発狂したように耳を押さえ、首を振る葵。

 それを見て、ああそうか……と俺は思った。

 そして理解した。

 コイツはもともと………茜に対するコンプレックスの塊みたいなものだったんだ。

 茜の姿が思い出される。

 あの必要以上にこの葵をかばおうとした茜の姿が。

 そうだよな、あれだけの優等生に、あれだけ過保護に付き添われて育ってきたんじゃぁ逆にその存在が疎ましくもなるよな。

 コイツが狂った理由だって……糸の力に魅入られたからじゃないんだ。

 糸の魔力はほんのきっかけ。

 おそらくその最大の理由は―――

 俺が葵よりも、先に茜の方に手を出した事。

 それを葵が目撃してしまったって事―――

 さっきだって……俺が、茜の事が大事、とか言ったからキレちまったんだろ?

 俺は最後の1歩を踏み出す。

 安心しろよ……俺はお前と茜を差別なんかしたりしないぜ……

 同じ、俺の奴隷としてな。

 葵の叫び声が聞こえる。

 その瞬間、葵のベールが、音を立てて砕け散った。

< 続く >

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