マリオネット 後編

後編

「うえっ………ぐすっ………」
 俺の部屋に響き渡る幼い泣き声。
「あか……茜……ちゃん………」
 俺のベッドに横たわり、もはや動かなくなった茜の身体にすがり付いて泣く、葵の声。
「いやだぁ………いやだぁ…っ」
 そんな茜と葵を、今、俺と景子はただ立ちつくしながら見下ろしている。
 俺はあれから家についた後、景子を家に呼び出した。
 少なくとも、葵の他に、景子ぐらいは事の経緯を知る権利があると思ったからだ。
「………」
 ……いや、方便だな
 単純に、この事実を知る人間を増やしたかっただけかもしれない。
 俺と……この幼い葵だけで抱えるには大きすぎる事だから。
 茜の死―――
 ははっと俺は笑う。
 どうやら自分自身で壊れている事は自覚していたが……この事態を平然と流せるほど壊れてはいなかったようだ。
 所詮は俺も人の子って事か。
 ……まあいいさ、そこまで俺も壊れたいとは思わねえよ
「えっぐ……えっぐ……」
 俺が茜を連れて帰ってきてから、葵は片時も茜のそばを離れようとはしない。
 どうせ当分葵はこのままだろう。
 好きなだけ泣けばいい、とがめるつもりもない。
 俺はそう思うと、葵の泣き声を避けるようにして部屋から出た。
「あ……」
 それに気づいた景子が、俺の後についてくる。
 パタンと景子が、俺が出た後の茜の眠る部屋のドアを閉めた。
 遠ざかる葵の泣き声。
 俺はそのまま後ろを振り向かず、ダイニングの方まで歩いていく。
 景子が後ろに続いてきているのが足音でわかった。
 俺は壁際を窓のそばまで歩いていくと、その前で立ち止まり、外を見ながらあの時の事を思い出す。
 茜が俺を庇い、身代わりとなって光の糸に打ちぬかれた時の事を。
 あの糸は確実に俺を狙っていた、茜が俺を突き飛ばすその前までは。
 いや―――
 ギリッっと俺は歯を食いしばる。
 もしも、あれが俺の糸と同じ種類の物ならば、例え俺が突き飛ばされて目標の位置から外れたとしても、その後に簡単に軌道を修正して、俺を狙えたはずだ。
 あいつは………
 俺の脳裏に、年不相応な漆黒の皮の衣類に身を包んだ少年の姿が浮かび上がる。
 握ったこぶしに自然と力がこもる。
 まったく関係ねえ茜を、蟻でも踏み潰すように殺しやがった―――
『ガシャァン』
 透明な破壊音がダイニングに響き渡る。
 俺が、握った左こぶしを、すぐ脇にあったガラス戸製の棚に叩きつけたのだ。
 カシャンカシャンとフローリングにガラス破片が落ちてゆく。
 そして、それに続くように床を染めていく俺の血―――
「ご、ご主人様っ!?」
 それを見た景子が血相を変えて俺に近づいてくる。
 俺はそんな景子に、見せつけるようにしてガラスで切った左手を突き出した。
「え?」
 あっけにとられたような顔をする景子、突き出された腕と俺の顔を交互に見比べている。
 俺の突き出した左手、それは噴き出した鮮血で真っ赤に染まっているものの、その噴き出し口となるガラスでの裂傷はもうどこにも見かけられなかったからだ。
 そう、俺は青い糸の力を使い、腕が刻まれたその瞬間、傷をふさいでしまったのだ。
 ……そうだ、普通なら俺はこうやって即死でもない限り瞬時にその傷をふさぐ事が出来る。
 なのにあいつは―――
 俺は再び左腕を叩きつける。
 今度はすでに割れて、切辺を尖らせたガラス破片に向かって。
 肉を切り刻む音が響く、先ほどとは比べ物にならないほどの傷が俺の手首に刻まれ、鮮血が飛び散った。
「やめてっ、ご主人様、やめてくださいっ!」
 景子が必死に俺の腕にしがみついてくる。
 だが、それでも俺は景子の身体を引きずるようにして、その左腕を2度3度とガラス破片に叩きつけた。
 俺の脳裏に浮かび上がる最後の茜。
 茜の身体は、薄い光のオーラのようなもので包まれていた。
 あれは、俺の糸の力をすべてかき消してしまうあいつの力。
 ご丁寧にそこまでして、俺が茜を救えないようにしたのだ。
 あいつ―――
『パンッ』
 突然の事に俺は、はっとする。
 両の頬を、平手で叩かれたからだ。
 ふと視線を下げてみると、いつのまにか俺の前にまわりこんだ景子が、俺の顔を挟むように両手を俺の頬にあてた状態で、俺の事を見上げていた。
 真っ白だったはずのセーターが俺の血で真っ赤に染まっている。
 そんな景子がぽつりとつぶやいた。
「私は……」
 怒ったような顔をする景子。
「茜さんが……うらやましいです」
「なっ」
 思わす俺は声を上げてしまう。
 うらやましい? お前は死ぬ事がうらやましいって言うのか?
 そして、これ以上なく、悲しげに笑う景子。
「ご主人様は……私が茜さんのようになっても……こんなに取り乱してくれますか……?」
 無理に作り出したような微笑の瞳から一筋の涙がこぼれる。
 ……お前が? 茜のように?
 何を馬鹿な事を―――
 俺はそう言おうとした、しかし。
「………」
 あまりにも景子の表情が真剣だった為、毒気にあてられたように、俺はため息をついた。
 俺は両手で景子の手首をつかむと、俺の頬から手を離す、そしてその場できびすを返し、ソファーに向かって歩き出した。
「あ………」
 景子がそんな声を漏らす。
 俺はそのまま乱暴にソファーに腰かけると、背もたれに背中を大きく預けてのけぞり、ため息をついた。
「あ、あの………ご主人様?」
 景子の少し不安そうな声。
 出すぎた事をしてしまったとでも思ってるんだろうか。
 そんな景子に俺は言う。
「いい、景子………少しは冷静になった」
 安心したような景子のため息が聞こえる。
 俺はそのままの姿勢で右手を顔に当て目を覆った。
 そしてひとつ息をつく。
 ……そうだ……冷静になれ
 俺は簡易的に作った闇の中で考える。
 ……俺がすべき事は、すでに終わった事を悔いてヤケになる事じゃない
 いつまでもそこに立ち止まり、思考を止めてしまうのは愚か者のする事だ。
 俺がすべき事、それは―――
 俺は顔を覆っていた手を放す、目の前に光が開けた。
 バッとソファーから勢いよく、俺は立ち上がる。
「えっ?」
 突然の俺の行動で、驚いたように声を上げる景子。
 だが、俺はそんな景子を無視して、茜と葵がいる部屋に向かう。
 ……あいつは…自分の事を『統べる者』と言った
 統べる者というのが、特定の立場を示す言葉なのかどうかはわからない。
 だが俺の持つこの能力をすべて統一し、己の物にするのを目的にしている事には間違い無いだろう。
 つまりはあいつの狙いは俺ひとり、俺の中に眠るこの糸の能力という事。
 茜は……あくまで『俺を狙うついで』に殺されたに過ぎない。
 能力を使いこなす力を持った者をしらみつぶしに殺しているという事も考えられなくも無いが、この時点までで、俺が茜や葵からその手の脅威を露ひとつも感じてなかった事を考えると、その可能性もほとんど無いだろう。
 だったら、俺のする事は―――
 がちゃり、と俺は茜の眠る部屋のドアを開ける。
 あれほど響いていた、葵の泣き声はすでにもう聞こえなくなっていた。
 横たわる茜にしがみついたまま、動かなくなっている葵。
 どうやら泣き疲れて寝てしまったらしい。
 俺はそんな葵の後ろから、脇の下に手を入れるようにして持ち上げると、そのままこちらに向かせ抱きかかえる。
 その頬には、とどまる事を知らないように流れた涙の後が、くっきりと残っていた。
 俺はそのまま部屋の外に向かって歩き出す。
 しかし―――
「ん?」
 ぐんと葵の身体が後ろに引っ張られた。
 何事かと思い、後ろに振り返ってみると、幼い葵の手がしっかりと茜のスカーフを握り締めていた。
 例え泣き疲れ眠っていても、茜と離れる事を拒絶するとでもいうのだろうか。
 俺はその手を開かせようとするが、がっちりとつかんでいるのでなかなかうまくいかない。
 ……赤子じゃあるまいし
 俺は仕方がないので、スカーフの方を茜の胸から外し、それを握らせたままの葵を抱きかかえて部屋を出た。
「あ………」
 ドアを開けると、様子をうかがおうとしていた景子が少し驚いたように身体を逸らした。
 俺は景子を見下ろしながらつぶやく。
「景子、お前もこい」
「え?」
 戸惑う景子をそのままに、俺は葵を抱きかかえたまま歩き始める。
 それに遅れるように、景子が俺の後についてきた。
 俺はそのままソファーのそばまで行くと、そこに葵を座らせた。
 そして、親指でぐいっと涙の後を拭いてやり、耳元で小さくつぶやく。
「悪かったな………お前の大事な姉貴………奪っちまって」
 俺はそう言うと、その手で葵の着ていたワンピースをつかみ、それを脱がす。
 葵を下着だけの姿にすると、俺はそのまま2,3歩後ろに下がった。
 そうしながら俺は考える。
 俺が今、1番にやらなければいけない事……
 俺はすうっと葵に向けて、右手中指を向ける。
 それは……残ったこいつらを、元に戻してやる事。
 力を発動させる、紫色に染まる俺の視界。
 例え―――
 その中にぽつんと浮かび上がる、葵の額の糸を打ち込むポイント。
 この俺が、2度とこいつらの前に姿を見せられなくなったとしてもいいように!
 ひゅんとひるがえる紫の糸。
 それは寸分たがわず、葵の額のポイントを打ち抜いた。
 眠りながらもビクンと身体を震えさせる葵、ハラリと握り締めていたスカーフが落ちる。
 次の瞬間ビキッという音が葵の身体から響いた。
 それと同時に、がくがくと振るえながら、葵の身体が大きくなり始める。
「え……あ………」
 その様子を呆然と見つめる景子。
 俺のこの能力を知っていたとはいえ、目の前で見せつけられてさすがに面食らったらしい。
 ピキッピキッと音を立てながら変形していく葵の身体。
 短かった手足はすらりと伸び。
 おうとつのなかった胴体はくびれを取り戻し、胸も丸みをおびてきた。
 そして、その特徴的な美しい黒髪もさわさわと、身体の変化に合わせるように伸びてゆく。
 やがて葵は、俺が肉体を幼児化させる前の美しいその身体を取り戻した。
 俺は続けて葵の精神も干渉する。
 すべてを……俺に囚われる前の状態にするように。
 そう、茜に対して持っていたコンプレックスも含めて、俺は葵に行ったすべての精神干渉を取り除き、元のままの葵に戻した。
 ただ……ここに来てからのすべての事は、そのまま記憶に残すようにした。
 それは、俺の意地のようなものかもしれない。
 俺はそこまですると、葵から糸を引き抜く。
 葵はそのままどさっとソファーに倒れこんだ。
 そして俺は、糸を手元まで呼び寄せると、今度は後ろを振り向き、景子に対して指を向けた。
 しかし―――
「………」
 景子は両手で額を隠し、俺の糸が打ち込まれないように防御していた。
 景子は……俺がどんな能力を持っているかは知っていても、それをどうやって使うかまで知らなかったはずだ。
 例えば糸を額に打ち込む事とか―――
 ふんと俺は笑う。
 茜に……聞いたか。
 そんな俺をじっと見つめながら、景子はつぶやく。
「いや……ですよ」
 俺は指先を景子に向けたまま、微動だにせずに、景子を見つめる。
「私も……ご主人様と会う前の状態にされちゃうんですか……?」
 さすがに3人の中で一番付き合いが長い分だけ、俺のした事が、これから景子にする事がどんな事か理解したらしい。
 景子はその体勢を崩さずに、俺をキッと見つめる。
「いやですよ……絶対にいやです」
 俺は指を景子に向けたまま、微動だにせずに景子を見下ろす。
 真剣な景子の目。
「私は……ご主人様の事を、ご主人様にしてもらった事を、絶対に忘れたくありません」
 それを見つめながら、俺は景子に行った精神干渉を思い出してみた。
 景子に行った精神干渉、それは俺とのセックスが、景子にとってこの世に2つとない快楽であり、その快楽を手に入れるためなら景子はどんな事でもする、というものだったはずだ。
 主人だの奴隷だのは、それをするために景子に突きつけた条件だけのようだった気がする。
 だったら………
 俺は、景子に向けてかざしていた右手を下ろす。
「え?」
 意外そうな顔をする景子。
 いまさらそれを取り除いたところで……無意味か。
 俺はそう思うと、景子を無視するように、クローゼットの方へ向かって歩き出す。
「あ……ご主人様?」
 俺はクローゼットの扉を開けると、その中にかけられていた制服を手に取る。
 それは、葵を初めてここに連れ込んだときに、葵が身にまとっていた物だ。
 俺はその制服を持ったまま振り返ると、それを景子に向けて投げつけた。
「あっ」
 慌てたように額から手を離す景子、自分の身についた俺の血を制服につけないよう、手を大きく前の方に出してそれを受け取った。
 受け取った制服を見つめる景子。
「ご主人様、これ―――」
 そして俺の方を見ようとして顔を上げた景子の顔面に向けて、俺はもうひとつの衣服を投げつけた。
「きゃっ」
 バフッと景子の頭に、俺の投げた柔らかい生地の服がかかる。
 それは俺の私服、黒の毛糸のセーターだった。
 葵の制服を持ちながらも、その頭にかかったセーターをはがす景子。
「あの、ご主人様……」
「とりあえずそれを着ろ、そんな血まみれの格好じゃ外を歩けないだろう」
「………外?」
 俺はクローゼットを閉じると、その扉に背中を預けて、ポケットに手を突っ込む。
 そして、景子と目を合わせないようにして俺は言った。
「景子、おまえに命令する、そいつを葵に着せたら、葵を自宅まで届けろ、そして―――」
 ふんと俺はつぶやく。
「俺が言いというまで、この家には近づくな」
「えっ」
 景子の顔を見ないようにしているのでその表情はわからない。
 ……でもまあ……大体想像はつくがな
「美佐子……葵の母親がなにかごちゃごちゃ言うような事があったら俺の名前を出せ、それでおとなしくなるはずだ」
「でも、だって……ご主人様、それって……」
 そう、それが……景子を呼び出す事がいつになるかはわからない、ひょっとしたらもう2度と―――
 ふらふらと景子が俺に近づいてくるのがわかる。
 そんな景子に俺はピシャリと言う。
「景子!」
 ビクンと震える景子。
 そして俺は、ゆっくりと話し始める。
「1番最初に言わなかったっけか? ここの家の敷居は、俺の言う事に絶対服従する奴隷じゃなければまたいじゃいけないんだぜ」
「あ………」
 そんなこともあったっけな、と俺自身思い出しながら続ける。
「それとも奴隷をやめるか? あ、そうなるとあなたと俺は、教師と生徒って事になりますよね、まずいんじゃないんですか? こんな夜遅くに1人暮しの男子生徒宅に若い女教師が訪問するってのは」
 俺はそんな繕った口調で言った。
「いや……やめて、そんな言い方するのはやめてください……」
 景子の声が涙声になってくる。
 ……まったく、茜といい葵といい景子といい……俺の奴隷はよく泣きやがる
 もっとも泣かしているのは俺自身なのだが。
 俺と景子の間柄を生徒と教師に戻す、それはすなわち俺と景子の関係すべて無くしてしまうという事だ、景子にとってはなによりもつらい事だろう。
「だったら―――」
 俺はそこまで言うと、天井を見上げた。
 景子なら、その先を言わなくてもちゃんと俺の望むとおりの事をするだろう。
 グスッという鼻をすする音が聞こえる。
「わかり……ました……」
 うつむきながら、それだけ言うのが精一杯というように、かすれるようにそうつぶやいた景子。
 フローリングの床に、涙の雫が落ちた。
「ああ、それでこそ俺の奴隷だ……」
 
 
 
 俺は景子が葵を背負うのを手伝ってやると、先行して景子の行く先のドアを開けてやる。
 葵は景子よりもやや身長が高い、景子にとって葵を背負うのはかなりの重労働でドアを開ける余裕すらないと思ったからだ。
 ドアを開ける俺の後をついてくる景子。
 しかし、葵の身体が重いのか、それともまだ未練が残るのか、極端に景子の歩みは遅かった。
 そんな景子を置き去りにするように、俺は前へと進む。
 そして、ガチャリとひときわ大きな音を立てて、俺はドアのノブを回した。
 それは最後のドア……玄関の扉だ。
 俺はギィと扉を明けると、玄関に立ちながら景子の方を向く。
 そして静かに景子に言った。
「ここから先はひとりで行け」
 ビクンと身体を震わせる景子。
 うつむいたまま俺と目を合わせようとしない。
「どうした」
 だが、俺はそんな景子を無視するように冷たい声を発する。
 しばらくその場でうつむいたままでたたずむ景子。
 だが、やがて怒ったように声を発した。
「わかって……ます…っ」
 そして玄関に降りると、置いてあったパンプスをふらつきながらも履き、そのままカツカツと外に向かって景子は歩き始める。
 しかし、扉をくぐる寸前。
 俺の真横まで来た時、ピタリとその足取りを止めた。
「………」
 その場で止まったまま何も言わない景子。
 俺もそんな景子を見下ろしながら、何も言わない。
 しかし、やがて意を決めたように景子がしゃべり始めた。
「あ、あの―――」
 うつむいたまま、口調を落とす景子。
「ご、ご主人様……これから危険な目にあうんですよね……」
「………」
「死んじゃうぐらい……危険な目にあうんですよね……」
 そう言いながらゆっくりと俺のことを見上げた。
 ……死んじゃうぐらい危険―――か
 俺は心の中でははっと笑う。
 改めて言葉にすると、妙にこっけいだな。
 俺は両目にあふれんばかりの涙をためた景子を見下ろしながら、自虐的な笑みを浮かべてつぶやく。
「そうだ―――な」
「だ、だったら……」
 そこまで言うと、景子は葵を背負ったまま、右手を離す。
 そしてふらつくのもお構いなしに、その手をスカートのポケットに突っ込むと、そこからあるものを取り出した。
 景子はそれを握り締めながらぐいとそのこぶしを俺の前に突き出す。
「ご主人様、これ……」
 俺は誘われるように、左手を広げ、景子のこぶしの下に差し出す。
 景子が手を広げると、握られていたものがポトリと俺の手のひらの上に落ちた。
 俺の手の上に落ちた物、それは、古ぼけたブローチ。
 金縁の楕円、赤い土台の上に白磁でできた女性の横顔が貼り付けられていた。
 これはと俺が聞く前に景子が話す。
「これ……私のお守りなんです……いつでも肌身離さず持ってたんです」
 その割にはこのブローチを景子が身に付けていたところを見た時がない。
 おまけにどう見ても安物、せいぜい路肩の出店で500円と言ったところか。
 しかし、それでも景子は続ける。
「あの……これはお守りで、私が私のお母さんからもらった……お母さんは私のおばあちゃんからもらった……だから、大切なお守りで……それで……」
 このままほうっておくと、いつまでもわけのわからない事を言いそうなので、俺はぴしゃりと景子に言う。
「景子、結論をさっさと言え」
 うっと黙り込む景子。
 しかし、すぐさま続きを口にする。
「だから……だから………」
 俺を見上げながらポロポロと涙をこぼす景子。
「絶対に……返してくださいね……」
「………」
「ご主人様が、今度私を呼んでくださる時に……絶対に……」
 俺はこの景子の言葉を聞いて、心の中でため息をつく。
 ……なんだ景子、この俺にそんな事をしろって言うのか?
 景子の言いたい事はわかる。
 要は、こいつを直接景子に手渡せるように無事に戻って来いと言っているのだ。
 返せと言うのはそのための方便。
 馬鹿らしい、この俺に1番似合わないシチュエーションだ。
 こんな時、俺が言う言葉ひとつ。
『そんなに大切な物なら自分で持ってろ』
 そう言って景子にこれをつき返す。
 しかし……
 手に持つブローチを見つめながら俺が口にした言葉は―――
「……わかった」
 そう言って俺はブローチを握り締めた。
 こんな安っぽいブローチなのに、妙に重さを感じる。
「約束…してくれますよね」
 しつこく言いよってくる景子。
 俺はあきれたようにため息をついた。
「わかったわかった、約束してやる」
 俺がそう言うと、景子はにこっと笑う。
「ご主人様は、人をだましたり陥れたり、嘘をついたりしますけど、約束は守る人ですよね」
 そう言われて俺は思わず苦虫を噛み潰したような顔をした。
 ……誉められてんだかけなされてんだか
「約束してやるから、さっさと行け」
 俺がそう言うと、景子はクスリと笑った。
「わかりました」
 そして、そう言うとしっかりと前を見て景子は歩き出す。
 俺の言った事を、心底信じるようにして。
 そんな景子に俺は言う。
「景子」
 えっ、と景子が立ち止まり、俺の方を向く。
 俺はピンと親指でブローチを真上にはじき、その行方を目で追う。
 頂点で一度止まり、そこから自由落下をはじめるブローチ。
「おまえに貸したそのセーターも……ちゃんと返せよな」
 パシッと俺は落ちてきたブローチを手で受け止めた。
 あっけにとられたような景子の顔。
 まさか俺がこんな事を言うとは思ってなかったんだろう。
 だが、言葉の意味を理解すると、景子の顔が笑顔へと変わる。
 おそらく、今日一番の笑顔―――
「はいっ」
 その返事を確認すると、俺は扉を押さえていた手を離す。
 キィと音を立てて傾いてくる扉。
『バタン』
 俺と景子をつないでいた空間が、今遮断された―――
 
 
 景子と葵がいなくなった俺の家。
 思えばあの幼児化した葵がいるだけでずいぶんと家の中の雰囲気が変わってたものだ。
 いつでもはしゃぎ声や叫び声や静かな寝息が聞こえていた。
 しかし、今俺の耳に入ってくるのは、耳鳴りを伴うほどの静寂のみ。
 糸を手に入れた前の状態に戻っただけと言うのに、妙に部屋の気温を低く感じる。
 いまやここには俺ひとり―――
 ……いや、ちがうか
 ふんと俺は笑う。
 俺の部屋で眠る、茜がいる。
 あいつにも、やるべき事をやってやらないとな。
 俺はそう思うと、短い廊下を抜けダイニングに行く。
 そしてそのまま、茜のいる部屋には行かず、俺はキッチンの方へ向かった。
 普通の家族向けの、ひとり暮しの男には広すぎるキッチン。
 俺は、そこに入ると、これまたひとり暮しをするには過ぎた大きさの冷蔵庫の前まで行き、その扉を開ける。
 中から流れてきた冷気が、俺の頬をなでた。
 俺は、その冷蔵庫の端をつかむと―――
 思いっきり全体を傾け、中に入っていた物をすべて床にぶちまけた。
 引出しもすべて開け、徹底的に中身を空っぽにする。
 そしてコンセントを引き抜くと、その冷蔵庫を担ぎ上げた。
 かなりの重さだ、ほんの少し歩くだけでも相当こたえる。
 糸の力を使って、自分の肉体を強化すれば他愛もない作業だったかもしれない。
 しかしなぜか、そんな力を使わず、自分だけの力でやりたい気分だった。
 俺は冷蔵庫を担ぎながら、一歩一歩茜の眠る部屋に向かう。
 キッチンと茜の部屋は、距離にして10メートルもなかったのだが、それだけで俺の身体は汗だくになった。
 ドンと俺は冷蔵庫をドアの前に下ろすと、近くの電源を探し、コンセントを差し込む。
 そして部屋のドアを開けると、冷蔵庫の扉もすべて開け、設定を最大にしてその鼻っ面を部屋の中に突っ込んだ。
 最大にした冷気が部屋の中に流れ込んでいく。
 こんな事をしても、何の意味もない事はわかっていた、それは物理的にも証明されている。
 ……だからって、氷漬けやドライアイス漬けにするのもな……
 俺はそのままずるずると床にへたり込んだ。
 ふうと俺は冷蔵庫に背中を預け、ため息をつく。
 ……悪いな茜、今はちょっと事を騒ぎ立てられたくないんだ、決着がつくまでそのままで待っててくれ
 俺はそのままの体勢で天井を見上げる。
 背中越しに冷蔵庫の小さな振動が伝わってきた。
 ……さて、これでこいつらにやるべき事はすべてやってやった、後は―――
 俺は、手のひらを自分の方に向けながら、右手をかかげる。
 ……俺があいつに一泡ふかしてやるために、やるべき事をやるだけだ
 そう心の中でつぶやくと、俺は強くその右手を握った。
 
 
 
 カチカチという時計の音が響く。
 それは俺が破壊した戸棚の上に設置される、アンティーク調の置時計が刻む音。
 置時計の置き場所としてはかなり異様な位置だが、あれはすこし前、葵がイタズラをして時計を壊しかけた際、俺が手の届かない高いあの場所へ置いたのだ。
 それ以来、あそこがあの時計の定位置になっている。
 音のリズムは絶えず一定。
 例え止まれと願っても、早く進めと願っても、それは永久不変、この世界が滅びようとも変わらない時の摂理。
 俺はそんな世界に身を置きながら、ソファーにのけぞり、プリンターで打ち出した書類に目を通している。
 1枚1枚、光にすかすようにして、読み落としのないように、1字1字を目で追っていく。
 俺はその書類に最後まで目を通すと、ばさりと床の上に放り投げた。
 床の上に広がる、英語と日本語がごちゃ混ぜになった書類。
 俺は身体を起こし、その床に広がった書類を見下ろした。
 ………ふん
 そして俺はそのまま視線を横にずらす。
 そこには唸り声にも似た異音を立てている冷蔵庫。
 あれから少々、目的に合わせるように手を加えさせてもらった。
 ドアとの隙間もすべて、丸めた衣類で塞いでいる。
 だがそれでも……そろそろ限界に近いだろう。
 これ以上待つのもなんだ、いっその事こっちから―――
 俺がそう思い立ち上がろうとした時。
『プルルルル……』
 突然部屋の電話が鳴りはじめた。
 俺はソファーに座りながら、鳴る電話を見つめる。
 ……まさか―――な
 俺はそう思いながら、立ち上がると、電話に向かう。
 そして、鳴り続ける電話の前まで来ると、その電話を見下ろした。
 確かにあいつはこういったふざけた演出を好みそうな感じもするが、本当にここまでするかどうか。
 だとしたら景子か?
 いや景子だって、あれだけ念を押したなら、向こうから連絡を入れてくる事もないだろう、なによりあいつからの連絡だったら携帯に入るはずだ。
 そしてその景子の手ほどきで、どんなに休もうとも学校からも連絡が入ることはない。
 だったら―――
 俺はそう思いながら受話器を取った。
「……御影ですが」
 俺は、やや警戒したように受話器にしゃべる。
 しかし、その受話器から聞こえてきた声は、俺の予想以外の人物だった。
『先輩……ですか?』
 あまり聞き覚えの無いおとなしい声。
 だが、この声の主はわかる。
 ああ、そう言えばこいつには釘を刺しておくのを忘れていたな。
「葵か」
 俺がそう言うと、少し笑ったような吐息が受話器から聞こえてきた。
『先輩、お久しぶり……本当にお久しぶりな気がします』
 確かにこの葵とはずいぶんと久しぶりな気がする。
 もっともそれ以前に、この正気ともいえる葵と話した事があるのは、過去に1度だけなのだが。
「なんの用だ?」
 俺がそっけなくそう言うと、少し戸惑ったような間が生まれる。
 しかし、おどけたような口調で葵が続けた。
『ずるいですよ先輩……私、最後のお話させてもらってません』
 最後―――か。
 自分で自虐的に言う分にはどうってことないが、改めて他人にそう言われるとなんだな。
 俺はそんな事を思うと、からかうように葵に言ってやる。
「そうか、それじゃあこれで満足だな、切るぞ」
 そして受話器を耳元から離す。
『やっ、ちょ、ちょっとまっ……先輩っ』
 心底慌てたような葵の声。
 俺は離した受話器を再び耳に近づける。
「気取るな、さっさと言いたい事を言え」
 ふうというため息が受話器から聞こえてきた。
 そして、またしばらくの間が生まれる。
 しかし、息を呑んだような音が聞こえると、葵の控えめな声が聞こえてきた。
『私の家に……来てもらえませんか?』
「おまえの家?」
『はい』
 やれやれと俺はため息をつく。
「俺に対して、ずいぶんな我侭を言うじゃないか」
 俺がそう言うと、葵のくすりという笑い声が聞こえてきた。
『先輩知らなかったんですか? 私はずっと我侭な子でしたよ』
 ふんと俺は笑うと、そういやそうだったな、と心の中でつぶやいた。
「わかった、今から行ってやる、そのかわり俺が行くまで家から出るなよ」
 万が一と言うこともある。
『わかりました、お待ちしています』
 その葵の言葉を聞くと、俺はガチャリと受話器を置いた。
 ……予定外の用件ができちまったな
 俺はくるりと振り返り、クローゼットに向かって歩く。
 そしてジャケットを取り出すと、それを羽織い、床に散らばっていた書類を拾い内ポケットにねじ込んだ。
 ……まあいい、ついでだ
 俺はそう思い、ジャケットのファスナーを上げ、そのままダイニングを玄関に向かって出ようとした。
 しかしその時。
 カタ……
 かすかな物音が聞こえた気がした。
 ………ん?
 俺は立ち止まり、振り返る。
 それは、茜の眠る部屋の方向。
 ……気のせいか?
 ひょっとしたら冷気の影響で、木材か何かがきしんだのかもしれない。
 俺はそう思い、再び玄関に向かおうとする、しかし。
 カタ……
 再び音が聞こえる。
 いや、それは確かに聞こえたような気もするし、思えば気のせいだったようにも思えるそんな音。
 俺はその場に立ち尽くしてその方向を見つめた。
 しかし、その場で立っているだけではその音は聞こえてこない。
 聞こえてくるのは時計の音と冷蔵庫の唸り声だけ。
 俺は少し顔を伏せて、チッと舌打ちをする。
 そしてくしゃっと頭をかくと、ため息混じりにつぶやいた。
「わかったよ、ちゃんと面倒見てきてやるよ」
 俺はそう言うと、ジャケットをひるがえして今度こそ玄関に向かう。
 あの不思議な音は、もう聞こえてこなかった。
 
 
 
 穏やかなピアノの調べが流れる。
 この、妙な出土品で飾られた応接間には似つかない、洗練された透明感のある音。
 静かな……静かな、落ち着いた音色。
 そんなピアノの旋律に耳を傾けながら、俺は扉に背中を預け、目を閉じている。
 乱れる事の無い安定したリズム。
 そんなピアノを弾けるほどに、葵はもう茜の事に整理をつけたと言うのだろうか。
「………」
 ……いや、違うな
 やがて演奏が終焉を迎える。
 空間に溶けていくように消えるピアノの音。
 防音処理がなされているのだろうか、ピアノ演奏のため、時計すら置いていないこの応接間に、耳が痛くなるほどの静寂がおとずれた。
 そんな静寂の中に、くすりという小さな笑い声。
「今回は……拍手はしてくれないんですか?」
 少しおどけたようなそんな声。
 俺は閉じていた目を開け、顔を上げると葵に向かって答えてやる。
「楽譜を、ただなぞってるだけの曲を聴かされてもな」
 そう、透明感があるのも、落ち着いているのもすべてはそれゆえ。
 演奏者の魂がこもっていない、言ってみればただ『薄い、軽い』だけなのだ。
 それは今の葵そのもの。
 俺は軽いため息をひとつつく。
 ……やれやれ、どうやら葵の状態は、茜が思っていた通りみたいだな
 ガキ時分の葵だったら泣くだけ泣けば気が済むだろうが、今の葵はそうするわけにはいかない。
 もともと抑圧されたものを解放する事が下手なやつだ、さて、どうしたもんか。
 俺がそんな事を考えていると、葵がポーンと鍵盤をひとつ叩いた。
「先輩……知ってますか? このピアノって茜ちゃんが小学校の頃、私に買ってくれたんですよ」
 その話を聞いて、俺は眉をひそめる。
 小学校だろうが今時分だろうが、茜にそれほどの経済力があるとは思えない。
 俺がそんな顔をしていると、葵がくすっと笑う。
「買ったって言っても、別に茜ちゃんがお金をだしてくれたわけじゃないです、私に代わってお父さんに買ってもらうように頼んでくれたんです」
 葵が2回、3回と鍵盤を叩く。
「その頃は……今のこの家みたいに大きい家じゃなく、ピアノ……ましてやこんなグランドピアノなんて置く場所無くて……だから無理だってお父さんは言ったんです、そしたら茜ちゃんなんて言ったと思います?」
「………」
「自分の部屋を無くしていいから……なんだったら自分が家を出ていって親戚の家に住んでももいいから、私にピアノを買ってあげてって……」
 ポロロと茜の指が曲を奏ではじめる。
 ひどく単純なバイエルン、話の流れからして間違いなく、その買ってもらったピアノで一番最初に覚えた曲だろう。
「茜ちゃんらしいですよね……先輩ならもう知ってますよね、私がどうしてピアノをやりたいって思ったか」
 これ以上なく悲しげなものに聞こる葵の声。
 その言葉を聞いて、ああ、と俺はうなずく。
 葵にとってのピアノ、それは間違いなく、茜の呪縛から逃げようともがくための手段として選んだもの。
 極論を言えば、茜に対して優越感をもてるもの、茜をさげすむために選んだ道。
「でも……茜ちゃん喜ぶんですよ、私が課題曲を弾けたり、コンクールでいい成績とったりすると、自分の事みたいに……」
 葵の奏でる曲が乱れ、震えてくる。
 それは、葵の本当の心が曲に流れ込んだ証拠。
「ずっと……一緒だったんですよ、いつでもそばにいてくれたんですよ」
 たまりかねたように曲が止まる。
 鍵盤を離れた手が葵の顔を覆う。
 その指の隙間から、ポロポロと涙が落ちていく。
「いや……茜ちゃんがいないなんて、絶対にいや……」
 流れる涙が次々に床へと落ちる。
「返して…返してください、先輩、私の茜ちゃんを返して……」
 ピアノの音が消えた防音室、残る音は葵の嗚咽だけ。
 そんな葵を見て、俺はちっと舌打ちをした。
「言いたい事はそれだけか?」
 俺の冷たい言葉に、葵ははっと顔を上げる。
 ……結局…元に戻せばこんなもんか
 変わってない、相変わらず全然変わってないな。
 俺が欲しいと無茶をやらかした葵、茜を返せと駄々をこねる葵。
 俺はもう一度ため息をついてから、ジャケットのポケットに手を突っ込み、いっそう扉に体重を預ける。
 そしてため息をひとつ混ぜ、葵に言った。
「なあ、葵、俺に責任をとれって言われても、そんなもん取れねえだろうし、さらさら取る気もねえよ」
 えっと言う声を上げる葵。
「だけど―――」
 そんな葵を見ながら、俺はふんと自虐的に笑う。
「ケジメだけはつけてくるつもりだ、しっかり筋は通してくる」
 そういいながら、俺はあいつの顔を思い浮かべる。
 ヘラヘラと笑いながら、俺達をもてあそんだあのガキの面を。
 ギリッと俺は歯を食いしばる。
 ……その顔…苦痛にゆがませてやる…
 俺がそんな事を思っていると、立ちあがった葵がふらふらと俺の方に近づいてきた。
「先輩まで……私の前からいなくなっちゃうんですか……?」
 まるで夢遊病者のような葵の動き。
 今にも転びそうな、いや……
「あっ」
 小さな声を上げると、葵がソファーの背もたれに膝をぶつけて、床に倒れた。
 それを期に、葵の鳴き声がいっそう大きくなる。
「いや! 先輩どこにもいかないで、これ以上私をひとりにしないで!」
 床に敷かれた絨毯が、葵の涙を吸っていく。
「先輩の言うことなら何でも聞きます、どんな事でもします、だからっ」
 床かにひざまずきながら俺に哀願してくる葵。
 それははまさにすがりつく、という表現にふさわしい姿だろう。
「みんな……私をおいていなくなっちゃう……お母さんも、茜ちゃんも…先輩も……」
 しかし、そんな葵を見下ろしながら、俺は抑制した声で、静かに葵に言った。
「おまえはまだ……ひとりで立つ事もできないのか?」
「えっ?」
 少し、驚いたような顔をする葵。
 俺は、葵を見下ろす視線を一時も外さずに、葵に言う。
「おまえはまだ……茜や俺が手をかしてやらないと、ひとりで立つ事すらできない人間なのかと聞いている」
「……っ」
 ぎゅっと絨毯をむしるように、葵が床につけた両手を握った。
 そんな葵の姿を見ながら、自虐的に笑うと、俺は葵に言う。
「なあ、葵……茜が、最後になんて言ったか教えてやろうか」
「!」
「息も絶え絶えになり、もう、しゃべれる言葉もひとことふたこととか、そんな状態であいつが選んだ言葉だ」
 葵が身体を硬直させる。
 まるで、それ自身の心臓が止まったかのように。
 これを葵に伝える事は茜の本意ではないだろう。
 だが俺は、あまりにも醜態を目の前でさらす葵に対し、軽口を叩くようにして、言ってやった。
「葵を……、おまえを、俺にとっての一番の存在にしてやってくれだとよ」
「―――っ!」
 俺のその言葉を聞いて、葵の顔色が変わる。
 俺は、茜のその言葉が、葵にとってどんな意味があるかなんて事まではわからない。
 しかし、それは確実に葵の心の奥底を揺さぶったようだ。
 俺はポケットから手を出し、胸の前で腕を組む。
「どうした葵、おまえはここまで……死んだ人間にここまで世話されなきゃ立てないような人間なのか?」
 俺の目の前で、四つん這いのまま、顔を伏せて身体を細かく震えさせている葵。
 だが―――
「立て―――ます」
 そう言うと葵は片膝を立て、手をあてる。
 そしてその手に、膝に爪が食い込むほど強く力を込めると、ふらふらとよろけながらも立ちあがった。
 そのまま俺をまっすぐ見つめる葵。
「これで、いいですか?」
 流れようとする涙をぐっとこらえているのがよくわかる。
 そんな葵を見ると、俺はゆっくり目を伏せる、そして一言だけぽつりと言った。
「………よし」
 そして、俺はポケットに入れておいたあるものを取り出す。
 もともとこれは、最初から葵に渡そうと思って持ってきたものだ。
「褒美だ、受け取れ」
 俺はそれを丸めて葵に向けて放り投げる。
「え?」
 慌てたように手を前に出す葵。
 だが、俺の投げたものはかなり軽いものだったので途中で失速するように落ちる。
 それを追おうとした葵はそのまま前のめりにぺたんと床に膝をついた。
「あ……っ」
 そして……それを握り締めた葵の目から、再びじわりと涙がこぼれそうになる。
 葵が握り締める物。
 それは、スカーフ。
 あの時、幼い姿の葵が意識を失った状態でも放そうとしなかった、茜が最後に身に付けていた制服のスカーフだった。
 葵はそれをぎゅっと胸に抱きしめる。
「おまえが持ってろ……」
 ……その方が、茜も納得するだろう
「は……い……」
 かすれるような葵の声。
 ……さてと
 その葵の姿を見届けて、俺は顔を上げる。
「これで、もう全部すんだな」
 そして、そうつぶやくとドアのノブを握った。
「あっ」
 俺を呼び止めるような葵の声。
 だが、その声を無視するように俺はノブを回し、ドアを開ける。
「まって、先輩最後にっ」
 そしてドアをくぐったところで、葵の方へ振り返る。
 ドアを閉めるために外側のノブを握ったまま。
「なんだ?」
 それは、自分自身でも驚くほど、軽い、軽快な声だった。
 これでやるだけの事はやった、そんな気分が俺を満たしていたからだろう。
 だが、それとは対照的に悲痛な葵の表情。
「戻って……来てくれますよね」
 葵は知っている、なまじ、自分自身が糸の使い手だったから、俺と戦ったから。
 この俺がなす術もなく、茜を守ることもできずに、赤子の手をひねるようにやり込められたその相手の実力を。
 そんな葵に俺は答える、もう、何一つ偽る必要も無い。
「さあな」
 そうさ、結局のところやってみなければ何もわからない、それが結論だ。
 ピクンとスカーフを握り締めたままの葵が震える。
 続けて俺は言う、相変わらず軽い声で。
「まあ……気楽なもんさ、事が終わってこっちに戻ってこようとも……」
 ふんと俺は笑う。
「あの世に行こうとも、どっちにも俺の女はいる」
 ざあっと葵の表情が青くなる。
「いやっ、先―――」
『バタンッ!』
 俺は葵が立ちあがろうとする前に、ドアを思いっきり閉める。
 握り締めるドアノブからは、向こう側から葵が叫びながらドアを叩いている衝撃が伝わってくる。
 だが、防音処理をしているのか、その叫んでいる内容を聞き取ることはできなかった。
 ドアが開かないように、強くドアノブを握り締めながら俺は心の中でつぶやく。
 ……悪いな葵、タイムオーバーだ、本当を言うとさっきから……
 チリチリ……チリチリと……
 遠くから俺を呼ぶように、頭の中に響くあいつの力。
 やがて、内側からのドアを叩く衝撃が無くなる。
 俺はゆっくりとノブから手を放す。
 ……さて、行くか
 俺はジャケットのポケットに手を突っ込むと、この家の廊下を、外へ向けてと歩き始める。
 ……生きるか死ぬか―――
 外に出るともう、日は沈みかけていた。
 
 
 
 日が沈み、もはや街燈が照らすだけとなった道を登りつづける。
 切り立った山を削るようにして作られた、うねるような道。
 ここは、俺の住む町からしばらく離れたところにある、隣の県へと続く山越えの道だ。
 数年前までは、いわゆる『峠族』とかいわれる車乗りの集団と、そのギャラリーたちで週末などに賑わいを見せていたが、暴走防止の段差ができてからというもの、特に施設も無い山の頂上に行こうと言う奇特な人間ぐらいしか使用しない、交通量のほとんど無い寂れた道となっていた。
 ちりちりと、俺を導くように頭の中に響いてくる力。
 間違いなく、この道を登りつづけた先にあいつはいる。
 俺は山の上を見据えながら、道を登り続けた。
 そして、俺はそうしながら葵に言った自分の言葉を思い出す。
 ケジメだけはつけてくる―――
 はんと俺は笑う。
「ガラじゃ……ねえよな」
 そして、さらに俺はジャケットのポケットに突っ込んであった、景子から預かったブローチを握り締める。
 ……本当に…ガラじゃねぇや
 俺は、ヘアピンにも似たカーブを曲がりながらそう心の中でつぶやく。
 まああいいさ、要は、俺のやりたいようにやるってだけだ。
 あいつに……ビビッちまてからどうしても取れない、このモヤモヤを払拭するために。
 俺は、ぐしゃっと上着の胸の部分を鷲づかみにする。
 このままじゃ―――絶対に終わらせない。
 そして―――
 それから3つほど、折り返しのカーブを登り切ったところだろうか。
 見上げる山の斜面約20メートル先、そこを削り取るように作られた道のガードレールの上、ぽつんと腰をかけている少年の姿が見えた。
 全身を黒の皮衣類で包み、赤いキャップをかぶった少年。
 茜を葬り去り、己を『統べる者』と称する人間。
 ……いや、人間とも呼べるかどうか
 のん気に星空など見上げていた。
 俺はそんなそいつに向かって声をかける。
「よー、いいかげん疲れちまったから、ここぐらいおまえの方から下りてこいよ」
 俺がそういうと、そいつは、ん? という表情をして俺を見下ろす。
 そして、少し考えるようなそぶりをすると、ひょいとそのガードレールから俺の方に向かって飛び降りた。
 20メートルと言う高さを、完全に物理法則を無視した速度でゆっくりと下りてくる少年。
 ……消えたり飛んだり……とことん常識から外れてやがるな……
 トンと地面に着地すると、そいつは俺の方には向かず、そのままの体勢でそいつが下りてきた方向の反対側にある谷底の方を見つめた。
 さわさわと、キャップの後ろから垂れた、ひとつにまとめた髪がゆれる。
 そしてジャケットのポケットに手を突っ込んだ姿勢のまま、不満そうに俺に言った。
「遅かったじゃないか」
 しかし、その口調は特段いらだっているようなそんな感じは見うけられない。
 そんなそいつに俺は言い返す。
「ふん、待つのが嫌ならこんな山奥になんか呼び出さなきゃよかっただろう」
 くすりと笑う少年。
「まあ……ここを選んだのはちょっと個人的な都合でね、それにべつに嫌じゃなかったよ」
 ぎゅっとさらにポケットの奥まで手を突っ込み、前かがみになる。
「だってすべての力が、持つべき者のところに、あるべき場所へと帰って来るのを待つんだ、こんな楽しみな時間はないよ」
 くすくすと少年は笑う、心底楽しそうに。
 だが、今度は俺がそいつのその言葉を笑ってやる。
「へぇ、持つべき者、あるべき場所、ね」
 いかにもコイツを小馬鹿にするような口調。
 ぴくりと少年が俺のその言葉に反応した。
 ……そいつは…『統べる者』とかいう者の立場としての言葉か? だったら―――
 俺はそう思いながら懐から、内ポケットにねじ込んでいた紙の束を取り出し、それをそいつの足元に放り投げた。
 ぱさっと落ちた紙が、ぱたぱたと風でゆれる。
 そいつは興味無さそうにその紙を見下ろした。
 だが、そんなそいつの態度に関係なく、俺は話す。
「俺の親父は……S.ハイマー研究所ってとこに勤めてるんだ」
 俺がそういった瞬間、そいつの眉がピクリと動いた。
 俺はくすりと笑って続ける。
「なんだ、知ってるのか、目覚めたばっかりとかほざいた割にはずいぶんと世の中の事詳しそうじゃないか」
 俺は不敵な笑みを浮かべ、あざ笑うように言ってやる。
「そうさ、アメリカにある……遺伝子、ヒトゲノムの解析で世界最先端を行っている研究所のひとつさ」
 俺はペシペシと自分の首を叩く。
「こないだ……おまえと戦ったとき、おまえの首からでた血が俺の爪に付着したよな、そいつを送って調べさせたんだ」
「………」
「時間が無いとかサンプルの損傷が激しいとかいろいろ文句を言われたが、結果はそこに書いてある通り」
 俺の放り投げた紙に一瞥をくれると、少年は俺の方を見つめる。
「………」
 相変わらず感情の起伏は見られないが、その瞳からは、確実に遊びがなくなってきている。
「読まないのか? だったら俺が代わりに読んでやるよ」
 俺は、そいつに対抗するようにジャケットのポケットに両手を突っ込む。
 そして、からかうように言ってやった。
「『検査の結果、この血液の持ち主は83%の確率で10代~20代の日本人男子であり、また、極東アジアに範囲を広めるなら、その確率は95%を越える』だそうだ、残念ながら目覚めたとか古代遺跡から発掘された物の持ち主とか言い張れるような存在じゃないみたいだな」
 俺がそう言った瞬間―――
 ゴウと谷底から突風が吹く。
 その風がそいつの足元に散らばっていた紙を吹き飛ばした。
 遥か高くまで舞い上がるこいつの正体が書き綴られた書類。
 風はその一瞬でやむ。
 ぱらぱらと、一緒に吹き上げられた砂が落ちてきた。
 俺は何事も無かったように、肩についたその砂埃を払う。
 そしてそいつを見下ろしながら俺は言った。
「はったりかますんなら、それが通じる相手かどうかをちゃんと考えてやるべきだったな」
「………」
 無表情にじいっと俺の事を見つめる少年。
「それとも……『自分の力があれば、そんな事だって自在に操作できる』とでも言うか? ああ、それだけの力だ、おまえがそう言い張るんなら信じてやってもいいぞ」
 実際、今の検査結果ぐらいなら、俺の肉体干渉の力でもごまかせる事ができる、コイツの得体の知れない常識外れの能力を持ってすれば同じような事ができるかも知れない。
 しかしそいつはぷいっとつまらなそうに俺から顔をそらすと、そのままトコトコと道路の中央まで歩いていく。
 そして立ち止まると、その道路に染み込んでいた車のオイルのような汚れを靴底でこすりながら話し始めた。
「今から約1ヶ月半前……とある遺跡発掘グループに所属していた研究員が、そのグループによって発見された鉱石の不思議な力にいち早く気づき、それを我が物にしようと盗み出した……」
「………」
「でも……器じゃなかったんだろうね、その研究員は、別にその力に魅入られたわけでも、飲み込まれたわけでもないのに、車で逃亡中、あせってハンドルを切り間違え、峠道を転落……炎上、爆発、消しズミとなって死亡した」
 ……ああ…そんな話を確か茜から聞いた記憶があるな
「そんな馬鹿な研究員の名前は『三上秀晶(みかみ ひであき)』」
 ガッとアスファルトを踵で強く蹴る。
「ボクの……まぬけな兄貴さ」
 少年は俺の方を向く、そしてニイと笑った。
 それは間違いなく、茜を虫でも殺すように葬ったこいつの、子供ならではの狂気に取りつかれた笑い。
 俺の背中に冷たいものが走る―――
「はじめまして『三上 晶(みかみ あきら)』と申します」
 
 
 
 じりじりと俺を取り巻く緊張感。
 コイツ……いや、三上晶から放出される俺への敵意が針のように刺さってくる。
 しかし、俺はそんな晶からの圧力を振り払い、ジャケットのポケットに手を突っ込みながら冷静につぶやいた。
「つまり……茜のオヤジの研究室から盗まれた石は、2つだったって事か」
 きゅっと晶は右手でキャップの鍔を持ち、深くかぶる。
 俺を貫いていた視線が遮られた。
「そうだね……ひとつはキミが拾った、人の精神を自在に操る機能を持つ紫の糸、そして……」
 晶はそのまま右手を、中指を突き出すようにして俺に向ける。
 ほんの少し上がったキャップの下からのぞく鋭い眼光が、再び指越しに俺を射抜いた。
 カッと指先が輝く。
「ボクが受け取った、この糸だよ」
 ズウと晶の指先から光の糸が伸びた。
 俺は、ほんの少し片足を後ろに引いて構える。
 ゆらりと伸びた光の糸は、鎌首を持ち上げるようにして、真正面から俺を見下ろした。
 その糸から放たれるあまりの威圧感に、俺の頬を冷たい汗が流れる。
「さて……そろそろはじめよっか」
 そんな緊張感の伴う言葉には似つかわない晶のリラックスした表情。
 俺はゆっくりとポケットから手を出し、いつでも飛び出せるように身を低く構えた。
 しかし、ゆらゆらと、まるで俺の動きを監視しているように揺らめく光の糸のため、俺はうかつな行動を取れない。
 糸と晶、俺は交互に視線を移し牽制する。
 ぽたりとあごの先からアスファルトに汗が落ちる。
 そんな俺を見て、晶がくすりと笑った。
「その前に―――」
 まるで俺を馬鹿にでもするかのように、晶は糸を出している指先をくるくると回した。
「当然キミは、このまま突っ立てるだけじゃボクに殺されるだけだから反撃にでなきゃならないんだけど……そんなキミが考えている事を当ててあげようか?」
 ふふんと鼻歌でも歌いそうな晶の表情。
「ボクが思うに……キミにとっての最大の脅威は、コンクリートの電柱すら切断するこの糸の攻撃力じゃない」
 握り締めていた俺のこぶしがピクリと震える。
 そんな俺をあざ笑うように晶は続けた。
「キミにとって1番厄介なのは、キミの持つ糸の能力をすべて封じてしまう、ボクの防御力の方さ」
 得意げに言う晶。
 その言葉を聞いて、俺はちっと舌打ちをした。
 ……ああそうさ、その通りさ
 こいつの攻撃力がいくら強かろうとも、それに対抗できる武器があるならばいくらでもやりようがある。
 しかしそれがなく、一方的に攻められるだけなら……
 ぎりっと俺は歯軋りをする。
 文字通りジリ貧、一方的に嬲られて、俺はコイツの前に倒れるだろう。
 だが―――
 ふっと俺は力を抜くように、コブシを開く。
「ちょっと待ってよ、キミの考えてる事を当てるって言ってるでしょ」
 行動を起こそうとする俺を、晶は威嚇するように光の糸を操った。
 しかし、俺はそんな晶の行為を無視するように糸の力を使う。
 俺は、糸を自らの体内に張り巡らさせた。
 そう、肉体干渉の力を持つ青い糸を。
 俺の持つこの糸はあいつに対する直接的な武器として間違いなく使う事はできない、ならば―――
 いくつにも、数え切れないほどに分裂し体内の隅々まで行き渡る青い糸の能力。
 コイツを使って、まったく別の武器を用意すればいい!
 唯一コイツに通じた攻撃。
 肉体干渉の力を用いて強化した身体を使って、直接コイツの身体を破壊してやる。
 俺は行き渡った糸の力を使い、自らの肉体を強化しようとした。
 しかしその瞬間―――
「やれやれ」
 そんなのん気な晶の声と共に、ピシッという衝撃が左の二の腕あたりに響いた。
 な―――
 俺は自分の左腕を見下ろす。
 俺の衝撃の走った左腕からは、ピイッとひと筋の血が勢いよく噴出していた。
 俺は左腕をかばうように後ろに下げ、血が噴出している場所を右手で押さえる。
 ……なんだ? 今コイツは何をした?
 強く押さえても血は止まらない、じわりと右手の指の間から血が漏れてくる。
 コイツにやられた事には間違いない、なぜなら肉体干渉の力を使って治そうとしても、いっこうに傷がふさがらないからだ。
 明らかに俺の能力を無効にしてしまう、コイツの能力で付けられた傷―――
 そんな動揺する俺の耳に、晶の小さな笑い声が届く。
 はっとして俺は晶の方を向く。
 晶は、自らが放つ光の糸を愛でるように見上げていた、まるで、その力に倒錯するかのように。
「!」
 そして次の瞬間、その晶が見上げていた光の糸が形状を変える。
 ピッピッピッという音をたてて、糸が数センチ単位の短い糸にちぎれたのだ。
 その数、十数本。
 それはくるりと丸くなると、小さな光の玉へと姿を変える。
 糸を見上げていた晶が俺の方を向く。
 俺にとって、あまりにも快くない薄ら笑いを浮かべたその表情。
 次の瞬間『ボッ』という音とともに十数個の光の玉が俺の全身を貫いた。
 
 
 
「あ………っ」
 ぐらりと身体が傾く。
 冬の乾燥していた気候で、カサカサになっていた服が、俺の身体から噴出す血を吸ってあっという間に重くなった。
 血とともに力が俺の全身から抜けていく。
 ……やら……れた
 だらりと下がる俺の腕、その指先から滴るように血が落ちていく。
 この先制攻撃を受けてしまった事によって、俺の目論見はすべて水泡と化した。
 俺がコイツの攻撃によって受けた傷、確かにこれ自体も致命傷とも言えるかもしれない。
 しかし、それ以上に俺にとってもっと致命的な事、それはコイツの、俺の能力を無効化する力を全身に受けてしまったと言う事。
 コイツの糸で攻撃された個所には俺の糸の力を使う事ができない、すなわちそれは肉体を強化する事もできないと言うことだ。
 もし、このまま無理にでも肉体を強化しコイツを攻撃しようものなら、強化した場所とできなかった場所の筋力の歪で、それだけで俺の身体がズタズタになってしまうだろう。
 出血により目が霞んでいく。
 駄目か?
 晶にとってはこんなものは撫でるに等しい攻撃に過ぎないだろう。
 そんなんで俺はコイツの前に屈してしまうのか?
 いや―――
 ドッと俺はそのまま地面にひざまずいた。
 今まで見下ろしていたはずの晶の顔が俺の上にくる。
 だが、俺はその体勢すらも維持できず、がくりと手を地面に付き、四つん這いに近い状態になった。
 そんな俺に安心しきったのか、晶がトコトコと近づいてくる。
 そしていかにも余裕を見せつけるような声で言った。
「もう降参? 案外あっけなかったね」
 うつむく俺の目に映る晶の足、手を出せば届く距離だ。
 それを見ながら俺はぼそりとつぶやいた。
「まさか」
 えっと晶がつぶやくより早く俺は、バンと左腕を地面に叩きつける。
 青い糸の力で強化され、通常の2倍までに膨張した左腕を。
 確かに全身を強化しようものなら歪が起きるだろう。
 だがここは……左腕、肘から先だけは、1番最初に攻撃を受けた際、かばうような体勢をとっていたため、第2段の攻撃を避ける事ができた。
 ここだけを強化するなら、部分的な歪は起こらない!
 俺は手首を返すだけの力で身体を跳ね上げる、そしてそのままその腕を、近づいていた晶に突き出した。
 がっと俺は手のひらを開く。
 この強化した腕の握力で、コイツの喉笛を握りつぶす!
 しかし―――
 その突き上げた腕は、晶の喉笛を捕らえる事はできなかった。
 ピッと晶のかぶっているキャップの鍔の先をかすめ、弾き飛ばしたただけだった。
 慌てる事なく、晶はほんの少し上体を引いただけで俺の攻撃をよけたのだ。
―――読まれた!?
 交錯際に俺の視界に入る、晶の歪んだ笑い。
 俺を心底馬鹿にしたような。
 いや―――
 晶がぽそりとつぶやく。
「逃げ道を用意してあげて追いこんだ人間はね……みんな同じ行動をとるんだよ」
 逃げ道……左手肘から先は無傷だったって事か……
 そんな晶の顔が光で霞む。
 俺の目の前に現れる、先ほどの変わらぬ量の光の玉。
 ……ざまねぇや……読まれたんじゃねぇ…俺が、コイツの誘導通りに動いちまっただけだ……
 次の瞬間、ボッと先ほどと変わらぬ衝撃が俺を貫く。
「―――っ」
 俺の身体は、自らが飛びあがった勢いと、晶の、下から突き上げるような攻撃により宙に浮いたような形となった。
 だがそれも一瞬、そのまま重力の枷により俺の身体は自由落下を開始する。
 しかしもう俺の足には、自分の体重を支えるだけの力は無かった。
 膝を付き、そのまま崩れるように前のめりに倒れる。
 バシャッと言う音が耳元で聞こえた。
 それは、俺の服に染み込んでいた血がアスファルトの上に飛び散る音。
 もう俺は…その体勢から指ひとつ動かす事ができなかった。
「が…は……」
 呼吸をしようにも、吐き出されるのは空気ではなく血の塊。
 目が霞み、意識も薄れてくる。
 そんな俺の頭に、ゴリッとなにか硬いものが押し付けられた。
 おそらく晶の靴底。
 ふんという晶の笑い声。
「せっかく身体が温まってきたのにな、これでおしまいか」
 そんな晶の声と同時にジャケットのファスナーをおろす音と、それを脱ぎ去り、放り投げる音が聞こえてきた。
 だが、もはや俺はその晶の行為を屈辱と思う余裕すらなかった。
 ……だめ……だ
 とてもじゃないがかなわない。
 それに……なによりこれだけ戦っても俺にはわからなかった。
 コイツの……三上晶が持つ、光の糸の本当の能力が。
 物を切断するとか、空を飛ぶとか、俺の能力を無効化するとか、そんな終端的なものではなく、俺の持つ『精神干渉』『感覚干渉』『肉体干渉』のような、いわゆるその糸の核(コア)ともいえるような能力。
 あるはずなんだ、例えどれほどその能力の実力に差があろうとも、同じ種類の力なら必ず。
 それさえわかれば―――
 ガッという衝撃が俺の頭に走る、晶が俺の頭を蹴り飛ばしたのだ。
「さて……それじゃあそろそろキミの持つ力をもらう事にするよ、とどめは刺さなくてもその状態に糸を奪われる衝撃が加われば、間違いなく絶命するでしょ」
 ……それと……コイツはなぜここまで、俺の力にこだわる?
 これほどの能力に比べたら、俺の糸の能力なんておもちゃに毛が生えたようなもんだろう。
 しかし、晶はそんな俺の思考など意にも返さず、そのままのペースでしゃべり続ける。
「あ、そうだ、せっかくだから……いわゆる『冥土のみやげ』ってやつにボクの本当の能力を教えてあげようか」
 ピクッと俺の指先が震える。
 ……な……に?
「ひょっとしたらもう、あたりぐらいつけてるかもしれないけどさ」
 ……つけて…ねえよ……
 ふんと興奮したように鼻を鳴らす晶。
「ボクの持つ、この力の本当の能力、それは『消滅させる力』―――さ」
 消……滅……?
「そう、一見すると、糸によって物を切断したり打ち抜いたりしてるようにも見えるけど……それは違うんだ、この糸に触れている部分を消滅させているんだよ」
 ちょっと…待てよ……
「当然キミの能力を無効化させてるのだって、この力を使ってキミの力を消滅させてるんだ」
 おまえの持つ糸の能力が『消滅させる力』だと? だったら…それから考えたら………
「そして―――」
 トンという音がうつぶせている俺の耳に届く、それは晶が地面を蹴って飛びあがった音。
 しかし、その音はその1回しか聞こえてこなかった。
 つまり晶は今、宙に浮いているのだ。
 ……その現象は…もしかして……
「察しのいいキミならもうわかるかも知れないけど……これは何を消滅させてるかわかるかい?」
 クスクスという楽しそうな晶の笑い声。
「ボクに働く『重力』を消滅させてるのさ」
 トンという晶が着地する音が聞こえた。
「そう、ボクが消滅させられるのは、実際に目に見えている『物』だけじゃない、重力とか、そう言った物理的エネルギーや法則、果ては摂理までも自在に消せる事ができるんだ」
 は…は……
 俺は自嘲気味に笑おうとする。
 端っから……かなうわけ無かったんじゃねぇかよ……
 しかし口からこぼれるのは赤い血だけ。
 その気になれば……俺の能力も、俺の身体その物も一瞬で消滅させる事ができるんじゃねぇか……
 もてあそばれてた……だけか……
 段々と、俺の意識とともに晶の声が遠くなっていく。
 なんだか…眠い……な………
 絶望的な力の差を見せつけられ、朽ちていく……これが最後ってやつか……
 しかしそんな俺の状態をよそに、晶の自慢話は終わらない。
「でもね……こないだボク、キミに言ったよね、ボクはまだこの力を使いこなせてないって、あれは嘘じゃないんだ、この力はまだ、別の力を秘めている」
 ……もういいよ……少し黙っててくれ……うるさくて、眠れねぇじゃねえか……
 身体が冷たくなっていくのがわかる。
「それは、この消滅させる力とは対極的な―――『創造する力』」
 …………
「そうさ、この力をすべて使いこなせれば、この世のすべてを消滅させ、すべてを創造できる神のような存在になれるのさ!」
 ピクリ―――と
 その言葉を聞いた俺の手が動く。
 すべてを……創造できる?
 うっすらとまぶたをあける。
 目の前にあるものはアスファルトに滴る赤黒い俺の血。
 すでに古いものは固まりかけている。
 なあ…晶……ひとつだけ教えてくれよ……
 すべてを作り出す事ができるんだろ?
 それは………
 
『命も――――― か?』
 
 ガリッと俺の爪がアスファルトを引っかく。
 よこ……せよ……
 固まりかけた血によって地面に張りついていた顔をパリッとはがす。
 その力が……俺には必要なんだよ……
 普段より、10倍は強く感じる重力を振りきり、俺は上体を起こす。
 俺の…この力が欲しいならくれてやる……だから…
 身体を支えるように、爪が食いこむほど強く膝を握り締める。
 その力だけ……その力だけ、俺によこしやがれ!
 俺は再び立ち上がった。
 そして見上げる晶の顔。
 それは、今まで鼻にかけるような自慢話をしてたヤツとは思えないほど―――
 静かな……表情をしていた。
 すうと晶は手刀をかざすようにして、まっすぐに腕を上げる。
 その指先から伸びる、天を目指すように立ち昇る光の糸。
 ジャケットを脱いだその下も、晶の服は黒だった。
 すべてが暗闇の中にひと筋伸びる光の糸。
「あ……」
 正直……こんな状態だと言うのに、俺はおもわずその光景に見とれてしまった。
 静かな晶の声。
「ありがとう……」
 ふっと晶が笑う、それは、今まで俺がずっと見ていた、俺を馬鹿にするような、見下すような、そんな笑いとまったく違う笑顔だった。
「これでボクは、越えられる」
 ブンと晶が手刀を振り下ろした。
 それに遅れて、しなるように光の糸が俺めがけ落ちてくる。
 
『バンッ』
 
 ピピッと。
 手を伸ばしても届かないような距離にいる晶の身体に、俺の返り血が付着する。
「………」
 触れたもの、すべてを消滅させる光の糸が、俺の胸から胴を袈裟切りに切り裂いた。
 グラリと晶の身体が傾く。
 いや、傾いたのは俺の身体。
 もう俺は、それを理解する事ができなかった。
 地面が俺に向かって突進してくる。
 ドッという固いアスファルトにぶち当たる衝撃が俺の身体に響いた。
 意識はあるんだろうか、ないんだろうか。
 目には何も映らない。
 耳には何も聞こえてこない。
 すべてがすべて何も無い。
 いつも俺が、夢に見ているような無の世界。
 ……でもこの世界って…こんなにも……寒いところだったっけなぁ……
 しかし、そんな世界に俺を閉じ込めている苦しみのひとつから一時開放される。
 それは重力。
 ふわりと俺の身体が宙に浮かんだ。
 晶の、重力を消滅させる力が俺に働いた。
 喉元にほんの少しのあたたかみ。
 晶が宙に浮いている俺の喉笛をつかんだ。
「終わりだね」
 そんな事を言ったんだか言わなかったんだが。
 今の俺に外部からの情報を認識するような力はない。
 ただ、俺はその無の世界で見ていただけ、感じていただけ。
 それは俺が今まで歩んできた道。
 意識する事も無く、次々と記憶にも無かったような俺の過去が、浮かんでは消え、浮かんでは消えていく。
 人はこれを、走馬灯と呼ぶんだろうか。
 そんなものを見ていた俺の口が、ぼそりと動いた。
「いつから……だったっけな……」
 
 
 
 いつからだったっけな………
 
 もう、ずうっと昔からだったような気がするな……
 
 
 見渡す限りの白い世界。
 果ての無い、初めて見る空虚な世界。
 だが俺はこの世界を知っている。
 上も下も無い、自分が立っているのかもわからない。
 そう、ここは俺がいつも夢の中で見ていた闇の世界だ。
 ただ、黒が白に反転しているだけ。
 その世界に俺は1人存在している。
 結局のところ俺がたどり着くのは、この誰もいない俺だけの世界だって事か。
 ははっ、そりゃそうだな。
 そんな事を思い、俺は足元を見る。
 しかしそこにひとつの人影。
 俺の腰ほどの身長の、この世界に同調するような白い、無表情の仮面をつけた少年がひとり、俺を見上げるようにしてたたずんでいた。
「………」
 じっと俺を見上げる少年。
 仮面を被っているため、その正体を判別するものは何ひとつ無い。
 だが俺にはわかった。
 コイツは――――俺だ。
 そう、少年の頃の俺。
 俺は、この俺を見下ろしながら、自分の幼年期を顧みる。
 それと同時に。
 その白い何も無い世界に、俺の生まれてから今までたどってきた道が映写機のように映し出された。
 俺はその映し出されるものを見上げる。
 ああそうだ……そう言えば、俺はガキの頃からなんでもできるやつだったな……
 まぶしいものでも見るように、俺は目を細める。
 周りの人間が望む事、期待する事、それらすべてを実力の半分も出さなうちにやりこなす事ができた。
 画面には、血のにじむような努力をしている人間と、それをろくに努力もしないで簡単に追いぬいていく俺の姿が映し出される。
 頭脳を使う事も、身体を使う事も、すべてがすべてそうだった。
 俺に敵うやつなんて1人もいなかった。
 周りの人間達は天才と俺を褒め称えた。
 俺は英雄だった。
 だが―――
 …………
 それも、その能力がそいつらの裁量で扱いきれるまで。
 俺の称号はやがて天才から化け物へと名を変える。
 凡人は化け物をどう扱う? そいつが自分達の思惑通りに動かせないとわかったら。
 しかもソレは真正面から相手をできるようなシロモノじゃない。
 ふんと俺は笑う。
 簡単さ、そいつを……自分達に影響の及ぼさないところに排除しようとするのさ。
 俺を……自分達の集団の中から排除しようとする、自己防衛能力だけ発達した俺の足元にも及ばない愚図達。
 映写機によって映し出される孤立した俺、家族にまで及ぶ迫害。
 低能なやつほど、その行動は激しくなる。
 だけど……俺も馬鹿じゃないからさ、わかってたんだよ。
 俺がどんなに優れていようとも。
 俺の周りにいる人間がどんなに愚か者でも。
 
 所詮人間……独りじゃ、生きられないって事を―――
 
 映写機による画像が、ノイズでも入るようにかすんでいく、そこから先の記録など存在しないように。
 だから俺がやった事。
 俺が作り出したもの。
 それが―――
 俺は、視線を下におろし、少年の俺に向かって手を伸ばす。
 少年の俺は、仮面に両手をあて顔から外すと、それを俺に差し出した。
 俺は仮面を受け取る。
 少年の俺は、それで役目を終えたように、白い世界に溶けるように消えていった。
 この……
 俺は仮面をつける。
 偽りの仮面――――
 己を制御し、すべてを潤滑に進めるだけを目的とした拘束具のようなこの仮面。
 仮面にはのぞき穴がない。
 仮面を被った俺の前にはただの闇が広がる。
 そうだ……ずっとこんな感じだった。
 すべての目に映ることも、すべての感じることも、この仮面によって遮って。
 すべてのものに対し、己を殺してきた。
 すべてを本気に考えず。
 すべてに本気で行動しない。
 俺が動けば世界が壊れる。
 だから俺は何もすることができない。
 だから俺は何もしてはいけない。
 そこに本当の俺はいない。
 俺は存在してはいけない。
 そんな事を繰り返して、ふと気づいて周りを見た時には―――
 
 この世の中に―――
 
 心の底から本気で面白いと思えるもんなんて、ひとつもなくなってやがった―――
 
 ………
 もう……いいんじゃねえのか?
 このまま眠っちまっても。
 このまま終わっちまっても。
 そうすれば……
 
 色々と、考えることも―――
 
 何も、考えないことも―――
 
 しないですむ―――――――
 
 
 …………
 …………………
 俺の体が溶け始める、まるで白い世界に同調するように。
 消えゆく俺の意識、俺の身体―――
 
 
 ………あれ………でも……まてよ………
 ふっと頭によぎった記憶。
 ……でも、最近………
 ……それもごく最近、なにかあったような………
 その瞬間―――
『ビキッ』という音を立てて、仮面に亀裂が入る。
 心の奥底からわいてくる感情が止まらなく―――
 どうしようもなく楽しくなった事があったような―――
 2度目の亀裂が仮面に入る。
 それは仮面の目の部分まで届き、それにより俺の視界が広がった。
 そしてその仮面の亀裂から見えたもの。
 それは2人の少女。
 俺が嬲り続けた2人の姉妹。
 だが―――
 その顔に表れる感情は、決してその時俺に見せた、恋慕のものでも哀願のものでもない。
 それは、俺をねじ伏せんとする俺に対する攻撃者としてのもの。
 ……ああ、そうだよ……
 俺はなぜ、あの時笑った?
 あの2人と戦ったとき、なぜ俺はあれほどの高揚感を感じた?
 あいつらを倒した後、あいつらを俺の好きなように蹂躙できる事に対する期待からか?
 違うだろ!
 それをはっきりと自覚した瞬間―――
『ドクン』
 今まで、動いているのか止まっているのかもわからなかった俺の心臓が大きく鳴った。
 たまらなく……楽しかったからだろ?
 例え踏みにじられ、身体をボロボロにされようとも。
 そこから相手を蹴落とす事が……
 己の身体と頭脳をフルに使い、全力であいつらをねじ伏せる事が……
 どうしようもなく楽しかったからだろ!
 仮面を真っ二つにするような亀裂が一気に縦に入る。
 だったら………
 俺の顔から剥がれ落ちる仮面。
 笑え!
 カンと仮面が地面らしきところに落ちると、その衝撃でこの世界中に亀裂が広がった。
 最高の……シチュエーションじゃないか。
 その亀裂から見える外の世界、そこにいるのは三上晶。
 最高の……獲物じゃないか。
 世界が崩れ始める。
 それとともに俺の身体が色を取り戻していく。
 御影広樹、お前がお前でいていいんだ。
 お前のやりたい事をやっていいんだ。
 他人のためではなく、俺自身のために。
 世界を構成していたものが破片となって砕け散る。
 だから………
 崩壊する世界。
 唇の端を吊り上げるようにして………
 俺の身体が光に包まれた。
 
 笑え!
 
 
 
 うっすらと俺は目を開ける。
 そこは俺が戻ってきた現実の世界。
 見下ろす先には、片手で俺の喉笛を捕まえている三上晶の姿があった。
 ……こいつか……
 ……こいつを俺は全力で捻りつぶしていいのか……
 自然と唇の端が吊り上る。
 その瞬間、俺の俺の喉笛をつかむ手がピクッと震えた。
 ……は…は……
 そうだ、その顔だ。
 俺はその顔を、幼いころから見続けてきたんだ。
 それを思い出し、俺は心の中でつぶやく。
 お前、今―――
 俺にビビッたな?
 くっくっく、と俺は笑う。
 変わらない、こいつも同じだ。
 俺に敵わず、ただ遠巻きに俺に対してあがいていた俺の足元にも及ばない連中。
 ただ、そんなやつが……ちょっと強い武器を手に入れたからっていきがってただけだよな。
 そうだ考えろ、そもそもこいつはなんでわざわざ俺に対してはったりなんかかます必要があったんだ。
 余裕?
 いや違うね、こいつは俺が怖かったんだ。
 はったりなんてものは立場が不利なヤツが強者に対して行うものだからな。
 そう、考えてみればこいつに関しては、それ以外にもおかしいところがいくつもありやがる。
 たとえばこいつによって殺された茜―――
 茜はなぜ、俺を庇った?
 いや、なぜ庇えた?
 この糸は……俺達の持つ糸は……
 この糸の能力を持っている者じゃないと見えないはずだろ!
 糸の能力を俺に奪われた茜はこいつの光の糸が見えなかったはず、つまり俺を庇うことなんてできなかったはず。
 なぜだ?
 答えは簡単さ、こいつの能力の本体が、糸じゃないからさ。
 おそらくこいつの糸は、さっき言っていた『創造する力』とやらで生み出されたものだ。
 そいつに『消滅させる力』を乗せていかにも糸そのものがその力を持っていると俺に思わせていたんだ。
 となるとさっきのこいつの言ってた事も嘘になる。
 こいつはさっき、自分は消滅させる力だけを使いこなして創造する力は使いこなせてないみたいな事を言ってたが……
 しっかり使えるんじゃねぇか、言ってみりゃマイナスのはったりか。
 なんでそこまで俺にはったりかます?
 そんなに俺が怖いか?
 くく……わかる、わかるぞ、こいつの事が手に取るようにわかる。
 我ながら自分が馬鹿に思えてくる、なんて事はない、通じないとか言いながら、しっかりと俺はこいつのはったりに引っかかってたわけか。
 そんな俺を見上げながら晶がつまらなそうにつぶやく。
「どうしたの? 血が足りなくなって頭がおかしくなっちゃったかい?」
 血か……そうだな、血は足りなくなってるな。
 だったら作り出せばいい。
 さっきから俺は、こいつの攻撃を受けたところの傷がふさがらず、血が止まらないことばっかりに気をとられていたが……
 発想を変えろ、血が止まらないなら、止まらなくてもいいようにすればいいんだ。
 俺は晶を見下ろしながら、顔にさらに笑みを浮かべる。
 もういいか? 俺に対する優越感をたっぷり楽しんだが?
 だったら―――
 
 そろそろお前を―――捻りつぶすぞ?
 
 俺は再び全身に糸の力をめぐらせる。
 だが、今度は傷をふさぐためでも肉体を強化するためでもない。
 俺は全身の骨、骨髄に糸をめぐらせ、その代謝を活性化させた。
 人の血液は主に骨髄によって作られる、つまりそこを普段の数十倍にも活発化させることにより、失う血液の量より、作り出される血液の量を多くするんだ。
 さらに俺は、動きの鈍くなった心臓を無理やり動かし、作り出された新しい血液を全身に送る。
「なっ」
 俺を見上げていた晶がぎょっとした顔をする。
 それはそうだろう、出血多量で虫の息だった男の身体から、今まで以上の血が噴出してきたんだから。
 だがそれは、俺の生命活動が活発化した証。
「何をしてるんだ、キミは!」
 晶の喉笛の掴む手に力が込められる。
 俺はその瞬間、垂れ下がった腕の指先から、滴り落ちるように流れている血液にまぎれさせ、糸を地面に落とした。
 そしてその糸を、地面の下で数え切れないほどの本数まで分裂させる。
「反撃……開始だ」
 俺はそうつぶやき、晶の気をさらに俺に向かせる。
 えっとつぶやく晶。
 その瞬間、俺は地面の下で分裂させた糸すべてを、俺と晶を取り囲むように地上に飛び出させた。
「!」
 俺と晶の身体が、数十から数百の紫の糸に包まれる。
 だが、晶はそれをぐるりと見渡すと―――
「わかってないね」
 笑いながらそうつぶやいた。
 それと同時に晶の全身が光りだす。
 そしてそれは、爆発するように球状に広がると、一瞬で俺の糸すべてをかき消してしまった。
 俺の糸そのものすら消し去る『消滅させる力』
 得意そうに晶が言う。
「ははっ、何度言ってもわからないのかい? キミがどんな工夫をしようとも無―――」
 しかし、そこまで晶が言った時。
 その人を小馬鹿にしたような顔が苦痛にゆがんだ。
 ……ああ、無駄だろうな、この糸を使う限りは、だが―――
 苦痛に歪む晶の顔。
 確かにその晶の身体には俺の糸は1本たりとも刺さっていない。
 しかし、その晶に苦痛を与えている物。
 俺を持ち上げている、晶の右腕の肘に突き刺さっている物、それは―――
「あぐっ」
 俺の喉笛を掴んでいる晶の腕がビクンと震える。
 それは、俺があの時、景子から受け取ったブローチ!
 晶が俺の糸に気をとられた瞬間、すばやくジャケットのポケットから左手で取り出し、その針を晶の腕めがけて突き刺したのだ。
 晶の俺を捕まえている手が緩む。
 俺はひるんだ晶に向かい、喉の奥に溜まっていた血の塊を吹き付けた。
「うわっ」
 その瞬間俺に働いていた、重力を消滅させる力が消え去った。
 俺の身体は重力に引きずられ自由落下を開始する。
 俺はその勢いを借りて、そのまま自分の額を晶の顔面に叩きつけた。
 ゴシンという鈍い音が響く。
「がっ」
 晶はそのままヨロヨロと後ろにあとずさった。
 ……はは
 俺は地面に着地すると、ガクリと膝をつき、左手に持ったブローチを強く握る。
 景子、お前から預かったブローチが役に立ったぞ。
 俺はそのまま天を見上げる。
 茜、お前に通じなかった肉弾攻撃が、こいつに通じたぞ。
 葵、俺はお前を、ガラスで手を切っただけで力を使うことをやめた弱いやつと罵ったが、こいつなんか針が1本腕に刺さったぐらいで俺を解放したぞ。
 弱い……
 そうだ、こいつは間違いなく弱いんだ。
 俺は再び視線を前に落とす。
 そこにいるのは、顔面を手で押さえ、その隙間から激しい眼光を放ち、俺を睨み付けている晶の姿。
 その右手には、重力を操作して取り寄せたのかそれとも『創造する力』とやらでそのものを作り出したのか、こぶし大ほどの石が握られていた。
 まだ、満足に身体を動かせない俺に晶がゆっくりと近づいてくる。
 そして、俺の前で止まると静かにぶやいた。
「そうかい、わかったよ……」
 ギラついた眼光からは想像のつかないような落ち着いた声。
「キミはどうしても、こういう戦い方をしたいんだね………」
 ゆっくりと、手に持っていた石を横に、水平に振り上げる。
「だったら、とことん付き合ってあげる―――」
 ブンと晶が腕を振るう。
 石を持ったままの晶の右こぶしが、俺の額を横殴りに打ち抜いた。
 ガンという衝撃が走る。
 たまらず俺は後ろに倒れた。
 ドロリと俺の額を流れる血の感触。
 その俺の胴体に新たな衝撃が伝わる、それは晶が俺に馬乗りにまたがった衝撃。
 血に染まった景色に浮かび上がる、狂気に取り憑かれたような晶の顔。
「ははっ、どうだい、キミの思惑通りになってうれしいかい?」
 そう言いながら晶は、石を持った腕を振り上げると、それを何度も何度も俺の額に打ち下ろした。
「ほら、何か言ってみなよ!」
 頭蓋に走る衝撃が、何度も俺の脳を揺らす。
「あはははっ、あはははっ」
 頭の中心に、火花が散るような刺激が流れ込む
 真っ赤に染まる俺の視界。
 それが、俺の霞んだ記憶を呼び覚ます。
 走馬灯にも現れなかった、俺が閉じ込めていた記憶を―――
 
 
『あんたなんか―――生んだ覚えはない―――』
 
 ……おいおい、それの真偽は俺を生んだあんたが1番知ってる事だろ?
 
 
『悪魔―――あなたは悪魔よ―――』
 
 ……そうだな、ガキの頃からずっと身近にいたあんたがそう言うんなら、たぶんそうなんだろうな
 
 周囲からの迫害に耐えきれず、俺を置いて、逃げるように海外へと飛び立った両親。
 俺の周りから人と言うものがいなくなる。
 取り残される俺。
 ふん、かまわないさ……
 すべての人間が俺を拒絶すると言うなら……
 
 俺の方からすべてを拒絶してやるから!
 
 
「あはははっ」
「ははっ……」
 ピタリと俺を殴りつけていた晶の動きが止まる。
「ははっ……はははっ」
 乾いた俺の笑いが響く。
 血の滴る石を、晶がゆっくりと下していく。
「なにが……おかしいんだい?」
 苛立つ感情を抑制し、ゆっくりとしゃべる晶。
 おかしい? 決まってるじゃないか。
 そんなの―――
「おまえがあんまりも、小ざかしいからさぁ」
 ピシッと晶の眉間にしわが寄る。
「はははははっ」
 おかしい、おかしくてたまらない、笑いが止まらない。
 ぐいっと晶が空いている方の手で胸倉をつかみ、俺の上半身を引き上げる。
「だから……なにがそんなにおかしいんだよ」
 なんだよ、自分で気づかないのかよ、本当にお前は……
「わかんねぇのかよ、だったら教えてやるよ」
 俺は薄ら笑いを浮かべて晶に言う。
「お前1番最初、俺に対してなんて言ったよ」
 困惑の表情を浮かべる晶。
「お前がいかにも得意げに言ってた言葉だよ!」
 くっと歯軋りをする晶。
「ここまで言ってもわかんねぇのか? だったら目に見えてわかるようにしてやるから、その目ン玉見開いてしっかりと見とけ」
 そう言うと、俺はガッと血のこびりついた額をかきむしった。
「あっ……」
 晶がハッとしたような表情をする。
 晶の持つ石によって何度となく打ち据えられた俺の額。
 そこからの出血は、その石を真っ赤に染め、返り血が晶に降りかかるほど大量なものとなった。
 しかし、そこにこびりついた血をふき取れば、出てくるものは……
「あははははっ」
 傷ひとつない、まっさらな俺の額。
「お前、いかにも得意げに言ってたじゃないかよ、俺にとって1番厄介なのは、俺の能力を無効化してしまう力だって」
 そう、それに間違いは何ひとつない。
 だが、逆を言えばそれさえ使われなければ―――
 にいと笑って俺は晶を見上げる。
「何も知らないヤツってのも馬鹿だが……知ってるくせにそれをやるってのはそれ以上の大馬鹿野郎だぜ」
 ぱっと晶が俺の胸倉を放す。
「あははははっ」
 俺は再び仰向けに寝転んだ状態で、これ以上ないぐらいの大声で笑った。
 その俺の脇でゴトッという音。
 晶が持っていた石を手放したのだ。
「もう……いいよ」
 静かな晶の声。
「つまらない、終わりにする」
 だがそれは、苛立つ気持ちを無理やりに押さえ込み、わざと子供っぽい口調で言っているように聞こえた。
 晶は俺に馬乗りになったまま、大きく天を見上げるようにのけぞる。
 おそらく最後の攻撃、俺そのものを消滅させるつもりだろう。
 だが俺は、自分自身で驚くほど落ち着いていた。
 俺は、笑いを止め、ぼんやりと考える。
 ……知ってるくせにやらねぇのは大馬鹿野郎か……だったら俺も人の事言えない大馬鹿野郎だな……
 なにが、コイツの能力の正体がわからないだ。
 俺はもう、ずっと前からコイツの本当の能力をわかってたんじゃないか。
 ずっと前。
 葵と戦ったよりも……
 茜と戦ったよりも……
 景子を奴隷化したよりも……
 それよりずっと前に、俺はこいつの力の正体を、自分自身で解き明かしてたじゃないか。
 俺がはじめてこの糸を手に入れたとき……俺はこの糸の特性についてなんて思った?
 今思えば、最初に手に入れた力なんて、制限だらけだっただろう。
 それが―――茜の持つ赤い糸の特性を取りこむ事により、あらゆる物質を通過する能力を奪う事により、どんな障害物があろうとも、糸を使える事ができるようになった……
 次に―――葵の持つ青い糸の特性を取りこむ事により、無限に分裂する事のできる能力を奪うことにより、対象をひとりから、どんな大人数でもいっぺんに糸を使える事ができるようになった……
 でも………
 あとひとつあっただろう。
 最初に俺が糸を手にした時に、この糸の弱点としてあぶり出したものの中で。
 この力を使ってすべてを支配しようと仮定したときに、足りなかったものがあとひとつだけ。
 それこそが―――三上晶のもつ力の真の能力―――
『キイイイイ』と天を見上げる晶から、まるでプラズマが発生するような甲高い音が聞こえる。
 俺を消滅させるエネルギーを、いっきに溜めているような威圧感のある音。
「ばいばい……」
 晶がぼそりとつぶやく。
「最後はちょっと、ケチがついちゃったけど、なかなか楽しめたよ……」
 ゆっくりと視線を下してくる晶。
 俺と視線があう。
 しかし、その俺を見下ろす目。
 その片側、右の目には――――
 黒いはずの瞳はなく、どこまでも透明に輝く、光の瞳があった。
 その瞳を持った晶が、これ以上なく愉悦に笑う。
「死ぃ―――」
「やっぱり――――」
 ガッとその瞳が閃光を放った。
「ねええっっ!!」
「そこかあっ!!」
 先ほどまで晶が操っていた糸とは比べ物にならないほどの、激しい光を放つ閃光が俺めがけて打ち下ろされる。
 しかし、その攻撃をいち早く読んでいた俺は―――
 上体を起こし、右に捻り、かわす。
 ジャッと晶の閃光が俺の左肩を削った。
 だが、俺はひるまずにそのまま左手を前に突き出す。
 そして、左腕を、外から閃光にかぶせるように、カウンターを打つように突き出し―――
「!!」
 晶の右目を―――深くえぐった。
「うわあああああっ」
 晶が叫ぶ。
 同時に指先を焼かれるような感覚が俺を襲う。
 しかし、俺はさらに、指先を奥へと捻りこんだ。
 俺の指先が、生身でない感触を捕らえる。
「放せ、放せえっ!」
 晶が俺の手首を掴み、もがく。
 ……はは……
 俺は、さらに強く、その晶の右目に埋まっているものを掴む。
 ……そういやそうだったな、お前は…糸を使うときも…俺の能力を消すときも、必ず―――
 にやりと俺は笑う。
 必ずその目で『見て』たもんなぁ!
 そう、俺の今持つ能力に絶対的に足りないもの。
 それは……『目』。
 消滅させる力でも……創造する力でもなく……
 例え、地球の裏側にいるヤツでも、糸の標的とできるよう、万里万物を見渡せるいわば千里眼!!
 俺は、片足を引き寄せると、その足の裏でドカッと晶の腹を蹴り上げる。
「がっ」
 晶の身体が俺から離れる。
 それと同時に、ブチッという音をたてて、晶の右目がちぎれた。
「ああああっ、痛いっ、痛いいっ」
 ゴロゴロとアスファルトの上をのたうちまわる晶。
 俺は、晶から引き千切った無機質なものを見る。
 それは―――義眼。
 少し動かすと、カラカラという乾いた音が響いた。
 ……ははっ
 俺は思わず笑ってしまう。
 ……なんだよ…力を使いこなすとか…こなせないとかそう言う以前に、お前はこれを取りこんですらいなかったのかよ……
 なるほど、これで合点が言った、要はコイツはこれが使いこなせないもんだから、あれほど俺の能力を欲したんだ。
 俺は、血に塗られた義眼を握り締めながら、ゆっくりと立ちあがる。
 惨めにのたうちまわっている晶を見下ろしながら。
 ……さあ、今まで欲求不満だっただろ?
 俺はゆっくりと握り締めている義眼を持ち上げる。
 ……こんなやつに捕らえられて、力を満足に使えないでイライラしてただろ?
 俺は、高く、頭上に義眼を掲げた。
「や……やめろ……」
 晶が、右目を押さえながら、俺を見上げる。
 ……お前の力、俺が十分に使ってやる、だから―――
 ギッと強く、義眼を握り締める。
「やめろおおっ!!」
「その力、俺によこしやがれえっっ!!」
 そう叫ぶと、俺は渾身の力を込めて、義眼を地面に叩きつけた。
 パァンという音をたてて、義眼が砕け散る。
 そして、その砕け散った破片の中から現れたもの。
 それは―――俺が今まで取りこんだ石よりも、ひとまわり小さく、そして比べ物にならないほどの光を放つ、透明な石だった。
 他の石と違い、角がとがった、石英のような形をした石が、ゆっくりと、横にまわりながら、光の屑をこぼし、浮き上がってくる。
「あ…あ……」
 晶が、手に入れられないものを掴むように、手を伸ばしてくる。
 石は、俺の目の高さまで来ると、ゆっくりと動きを止めた。
 そして、強く、弱く、まるで俺に語りかけるように輝く。
 ……俺が、使ってやる
 そんな石に向かい、俺は心の中で語りかける。
 ……その力を、十分に使ってやる、だから―――
 俺は、石に向かって手を伸ばす。
 俺のところに―――来いっ!!
 俺の手が、石に触れようとした瞬間―――
「!」
 ガカッと、あたり一面が真っ白でなにも見えなくなるほどの光を、石は放った。
「うっ」
 俺は思わず手を引っ込めてあとずさる。
 しかし、次の瞬間―――
 あたりを照らしていた光が、一瞬にして収束したかと思うと、それが閃光となって、俺の右目を打ち抜いた。
 ズガンという衝撃と共に、俺は後方に吹っ飛ばされる。
 ……あ……っ
 ふわりと一瞬、俺の身体は宙に舞う。
 まっすぐに見つめる先には夜空。
 だが、そのまますぐに落下すると、俺は激しくガードレールに背中をぶつけた。
「………」
 ガクンと首が後ろに垂れる。
 本当ならもがきたいほどの激痛が俺の身体中を走り回る。
 しかし、俺はそれができなかった、指先ひとつ動かす事ができなかったのだ。
 俺は、いや、俺の身体は、両腕をガードレールにひっかけようにして、そのままずるずるとずり下がる。
 そのせいで、うしろに傾いていた頭が前を向いた。
 そして、その前を向いた俺の視界に入るのは、右目を押さえながら、ヨロヨロと立ちあがる晶の姿。
「あはっ、あはっ」
 晶は苦痛に顔を歪めながらも笑う。
「なにが力をよこせだ、頭をぶち抜かれ、虫の息じゃないか」
 俺はそんな晶を見ながらも、身体が動かない、いや―――
「ボクがとどめを刺してやる、ボクがキミを殺してあげる」
 これは、俺の身体がどうこうなっているわけじゃない。
 おかしくなっているのは俺の脳。
 この目から、新しく取りこんだ力から、ありとあらゆるものの莫大な情報が脳に向かって際限なく入ってくる。
 たとえば自分の身体についても。
 腕を動かそうとすれば、脳から神経を通して発信される電気信号が、それを受け取る何億という細胞がと言うふうに、それらがどういう過程でどうやって機能しているかがすべて情報となって俺の頭に強制的に流れてくる。
 ……これが……すべてが見えるって事なのかよ……
 そう考えるうちにもどんどんと情報は俺の頭に入ってくる。
 だめだ……とてもじゃないが処理が追いつかない、このままじゃ俺の頭がパンクしちまう。
 それどころか、このままではその情報量に、俺の意思すらかき消されてしまうだろう。
 俺の意思が、塗りつぶされていく―――
 消えかける俺の意識。
 だが、その霞んだ意識にある情報が入ってきた。
 それは、俺から逃げるように遠ざかっていく晶の姿。
 それを見た瞬間―――
 
 ……ま……て………よ
 
 ピシッという衝撃が、俺の頭に走った。
 どこへ……行く? お前は俺に……倒されなきゃならないんだぜ……?
 頭の中がクリアになっていく。
 ……ああ、そうか、この力はこうやって使えばいいのか
 情報量によって俺の意識が削られる。
 だが、俺の意思が強くなれば情報はかき消される。
 すなわちそれは、この力と俺の精神力の真っ向勝負。
 ははっと俺は笑った。
 
 そ・ん・な・勝・負・な・ら・・・
 
 俺・は・絶・対・負・け・な・い・ぜ・・・
 
 ビリビリという電撃にも似た衝撃が頭の中を走る。
 それは、外部からの情報を俺の意思によってぶち壊していく衝撃。
 それと共に俺の思考が戻ってくる、俺が俺を取り戻してくる―――
 俺はゆらりと腕を上げると、ガッと寄りかかっていたガードレールをつかんだ。
 そして、腕に力を込めると、そのまま身体を立ちあがらせる。
 まだ身体は満足には動かない、だらりと両腕が垂れ下がる。
 しかし、俺はそんな状態ながらも、力を得た右目越しに晶を見つめた。
 夜中だというのに、これ以上ないぐらいに晶の姿がクリアに見える。
 ……こうか? この力はこうやって使うのか?
 キュゥと何か不思議な力が右目に集中していく―――
 
『逃げるな!』
 
 俺がそう心の中で唱えた瞬間。
 ボコッという音が響き、晶の足元の地面が、すり鉢所に消滅した。
「なっ」
 穴の深さは2メートル弱、晶はその穴にものの見事に転落した。
「な、なんだよ、なんだよこれ!」
 穴の底から晶のそんな声が聞こえる。
 だが、晶は決して穴が開いたこと自体に驚いているわけではない。
 実際この力を俺に奪われる前の晶でも、地面に穴を開けるぐらいの芸当ならできただろう。
 だだ、俺の開けた穴が、晶が想像もできないようなシロモノだっただけだ。
 俺が穴を開けた場所はアスファルトの道路。
 アスファルトの下には砂利、砂が存在する。
 そして、俺の開けた穴は、そんな場所に開けたと言うのに―――
 その内部が、まるで鏡のように滑らかになっていたのだ。
 ………わかるか? 晶、これが消滅させるって事だぜ
「なんでだよ、なんでこいつはこんなにこの力を使いこなす事が出来るんだよ!」
 壁に爪を立て、必死に晶が穴から這い出てくる。
 ……そんなもの決まってるじゃないか、お前と俺では、文字通り器が違うからだよ
 俺はそんな事を心の中でつぶやき、晶に近寄ろうとしたが、まだ身体の自由がきかない、時々ガクンと膝が折れ、壊れた二足歩行ロボットのようにしか歩けなかった。
「はあっ、はあっ」
 晶が穴の淵に手を掛け、穴から飛び出す。
 そして、俺の方を1回見ると、再び俺から遠ざかるように走り出した。
 ……なんだ? こいつは必死になって何を目指している?
 俺は晶の目指す先を見る。
 そこにあったもの、それは先ほど晶が脱ぎ捨てた、黒い皮のジャケット。
 晶が飛びつくようにそのジャケットを手に取る。
 そして、その懐をさぐって、あるものを取り出すと、それを俺に向けた。
 それは、黒と銀の、金属の塊のような―――
 
『パァン』
 
 山々にこだまする様な、大きな爆発音が響いた。
 そしてその音と同時に俺の腹に衝撃が走り、その衝撃によって俺の身体が1メートルほど後方にずれた。
 俺はそのまま倒れそうになったが、かろうじて力の入る両足で踏ん張る。
 そしてふらつきながらその爆発音の元を見た。
 ……ああ…あれはニュースかなんかで見たことあるぞ
 晶の握っている金属の塊からは、煙が立ち昇っている。
 たしか―――
 
『トカレフ』―――とか言ったか?
 
 そう、ひと昔前、中国産だかロシア産だかわからないが、日本に大量に流れ込んで、簡単に手に入る割には、ハンドガン最強クラスの破壊力を誇る凶悪な銃だ。
 ははっ、そんなもんでドテっ腹ぶち抜かれた日にゃぁ腹の1/3ぐらいの肉は吹っ飛ばされるだろうな。
 だけど―――な、晶。
 にたりと俺は笑う。
 お前が1番知ってるだろ?
 今の俺は―――
 
『化け物』 だぜ?
 
 俺はゆっくりと左手を掲げる。
 その手のひらに血がゴボッと泡立った。
 やがてその沸騰するような血の中から肉塊が生まれだす。
 そして、それがこぶしふたつ分ぐらいの大きさまで成長すると、俺はそれを、えぐられた腹に押し付けた。
 グチュグチュと生肉を咀嚼するような音が響き、生まれた肉塊が俺の腹と融合していく。
 最後に腹をなでると、肉どころか、焼け付いたジャケットすらも、着古した観そのままに元の通りに戻った。
 俺はそこまですると、再びだらりと両腕を垂らし、ゆっくりと晶に向かって歩き出す。
「ひっ」
 晶が真っ青な顔をして、再び銃を構える、しかし―――
「あぐっ」
 俺が何をするまでもなく、晶は銃をガシャンと地面に落としてしまった。
『右、有鉤骨(ゆうこうこつ)、骨折―――』
 そんなフレーズが情報として俺の頭に入ってきた。
 ……ああ、そうだろうな、そんな細っこい腕でそんな破壊力のある銃を無理な体勢から撃てば、反動で手首のひとつでも傷めるだろうな。
 俺は、自らが開けた穴の手前でいったん止まる。
 そして1度しゃがむと、そのまま反動をつけて、一気に穴を飛び越えた。
 ダンと晶の目の前に着地する。
「ひいっ」
 晶が腰でも抜けたようにしりもちをつく。
 そんな晶に向けて、俺は右手を突き出すと、そのまま喉笛をつかみ、晶を無理やり立ち上がらせた。
「あ…あ………」
 ガタガタという晶の震えが伝わってくる。
 俺は左手で、ジャケットのポケットから再び景子から預かったブローチを取り出し、その針を晶の喉に突き刺した。
「ひ―――」
「あと1ミリ深く刺せば、お前は死ぬ」
 もがこうとする晶に向かい、俺はその動きを抑制するように言った。
 そして、俺はその針を刺す手にゆっくりと力を加えながら、さらに言う。
「最後に、言っておきたい事はあるか?」
 今の俺の顔に、先ほどまでの笑いはない。
 真剣に、人を殺す時の、冷徹極まりない顔―――
「た、たす………」
 もはや、晶は満足に声も出せない。
 喉がヒューヒューと鳴るような音を出すだけだ。
「ふん……」
 俺は、ゆっくりと針を抜き去ると、そのまま晶の喉笛をつかんでいた手を離した。
 殺す―――価値もないか。
 ぺたんと地面に座る晶。
 その股間は失禁で濡れていた。
 所詮コイツは、この力さえ奪っちまえば、ただの気の小さいガキに過ぎない。
 放っておいたって何もできないだろう。
 俺はその場で振り返り、歩き始める。
 ……終わったな
 俺はそう思いながら、パチンと指を鳴らす。
 すると、えぐられていた地面が、一瞬にして元に戻った。
 ……ははっ、ついでだから新品にしておいてやったぜ、感謝しろよ
 そんな自分自身でも誰に言ってるんだかわからにような事を考え、俺は笑った。
 そして俺は歩きながらゆっくりと目を閉じる。
 段々と、力が俺になじんできている事を俺は実感していた。
 さっきまでは、この力によって入ってくる情報がオンとオフしかなかったが、今では多少の過不足はあるが、それでも俺の望むものだけが頭の中に入ってくるようになった。
 俺の望む事すべての情報が。
 だから今の俺にはわかるんだ。
 この力さえ使えば、茜を生き返らせる事ができるという事も。
 そして……
 ゆっくりと俺は目を開ける。
 俺の後ろにいる晶が、拳銃を左手に持ち替え、俺の後頭部を狙っている事も―――
 …………
 だから―――俺は心の中でつぶやく。
 たったひとことを―――
「死ぃ―――」
 
 
 
 
『消えろ』
 
 
 
 
 ガシャンと重い金属がアスファルトに落ちる音が響く。
 それと、ぱたぱたとジャケットが風にはためく音。
 そして聞こえてくるのはそれだけ。
 そう、そこに存在するのはもうそれだけしかなかった。
 ひゅうと風が俺の耳元を抜ける。
 俺はゆっくりと天を見上げ、欠けかけた月を見た。
 
 ……さて……帰るか
 
 
 
 俺は、乱暴にマンションのドアを開けると、靴を放り投げ中に上がりこむ。
 そして一直線に茜を安置している部屋へと向かった。
 目の前に、大きな唸り声を上げている冷蔵庫が立ちふさがる。
 俺はその冷蔵庫を引き抜こうとしたが、周辺がしっかりと衣類で目張りされていたため、簡単に外す事ができなかった。
 ちっと俺は舌打ちする。
『邪魔だ!』
 俺がそう強く念じると、冷蔵庫はシュンと音を立てて消え去った。
 バサバサと目張りの衣類が落ちてくる。
 俺はそれを乗り越えると、冷気が漂う部屋の中へと入った。
 そして、茜が眠るベッドの脇へ俺は立つ。
 茜の身体は、すでに全身が土気色へと変色し、美しかった赤茶けた髪はツヤを失い、くすんでいた。
 そんな茜を見下ろしながら俺はつぶやく。
「さてと……これが最後の仕事だ」
 そして右目で……力を得た、すべてを知る事ができる目で、俺は茜を走査(サーチ)するようにその全身を見た。
 しかしその瞬間―――
「うっ」
 俺は思わず胃の中の物をすべてぶちまけそうな嘔吐感に襲われた。
 いや、それだけじゃない、身体中に悪寒が走り、全身の震えが止まらなくなった。
「あ…ぐ……」
 右手で口元を押さえながら、がくりと俺は茜の脇に手をく。
 俺の全身に広がる、今まで味わった事の無いような嫌悪感、これは―――
 俺は激しく息を切らせながら、顔を上げて茜の身体を見る。
 これは、この力によって『死』というものの情報が、これ以上なくリアルに、正確に俺に流れてきたせいだ。
 気を抜けば、その瞬間この『死』そのものに俺の精神が飲み込まれてしまいそうになる。
「はっ……」
 それにいまさらだが、精神的な面以上に俺の身体自身がボロボロだった。
 俺はあの後、夜中とはいえ町中を歩く事になるため身体中のすべての傷と、衣服のほころびを治した。
 だが、それは見た目だけのこと。
 傷を治しても抜けきらないダメージは、しっかりと俺の身体に残っている。
 はっきり言って、晶にやられた事よりも、自分自身で身体に無茶をやった事の方がダメージかでかい。
 ……まずいな、これは……
 なんとかベッドに手を付き、身体を支えてはいるものの、今にもぶっ倒れそうだ。
 だけど―――
 俺は口にあてていた手を顔面に持っていき、ガッとこみかみに爪を食いこませた。
 ……ここでやめちまったら、それこそなんのためにここまで身体をボロボロにしたのかわからなくなっちまうじゃないか
 俺は、その手の隙間から右目で茜を見て、続きをはじめる。
 意識を集中させ、そこにいる茜のすべてを俺は見た。
「ぐ……」
 俺は探す、時すらも遡り、本来そこにあったものをこの目で見るために。
 やがて―――
 土気色の茜の身体に、いや。
 その身体の中に、キラキラと輝く光のようなものが見えて来た。
 ……そ…れ……か
 それはいくつにも増え、やがて茜の身体をいっぱいに満たした。
 おそらくこれが茜の命とも魂とも言えるもの。
 ……ならば…そいつを…
 俺は次に、創造する力により今見えている光そのものを作り出す。
 そして作ったものを茜に戻す事ができれば……
「う……」
 だがここで、新たなるダメージが俺を襲う。
 それは先ほどまでの悪寒とはまるで違う、脱力感を極限まで高めたような感覚。
 さっきまでの感覚が引きずり込まれるような感覚ならば、これはまるで俺の命そのものが溶けていくような感覚。
 ……なんだよこれは……別に俺との命と引き換えに作り出してるわけじゃないだろ……?
 だが、そんな事を思いながら、俺はなるほどな、と思う。
 この力がどんなに強力でどんなに万能でも、それは俺の身体を媒体として発揮されるもの。
 しょせんその能力に俺の身体が追いつけなきゃ無理だって事か。
 死んだ人間ひとりを生き返らすって事はどれくらいすごい事なんだろうな。
 意識が遠くなる。
 おそらく、ここでこのままやめてしまっても、俺が死ぬ事はないだろう。
 なぜなら俺は限界を前にあきらめてしまうんだから。
 限界がこなければ、俺が壊れる事はない。
 だけど―――
 ははっと俺は笑う。
『あきらめる』
『あきらめない』
 ―――か
 茜、葵、晶と戦ってきて……最後の敵は自分自身。
 いいんじゃねぇか? 最後の戦いにふさわしいんじゃねぇか?
 せっかくここまで負けないで来たんだからさ……
 ギリッとこめかみに食い込ませる指先に力を込める。
 血がにじんで、ツッと頬をつたうのを感じた。
 最後まで、無敗のままでいこうぜ!
 バチバチと頭の中で火花が散るような感覚。
 しかし、これは決して比喩ではない、実際に俺の脳細胞が壊れているんだろう。
 だが、俺はそれに負けず、俺が見えていた茜の命そのものを作り出して行く。
 右目が焼けるほど熱くなってくる。
 目から流れる粘っこい液体、だがそれは涙ではない。
 ……あと……すこし………
 俺が作り出すもの、それはやがて、先ほど俺が右目で見た物と寸部変わらぬものになった。
 俺はそれを茜の身体の中に固定させる。
 そこまで終わると、俺は顔面を覆っていた手を離し、その指先から糸を打ち出した。
 ……後はこいつで、朽ち果てた、その肉体を元に戻す
 命さえあれば、この糸の力で―――
 ヒュンと俺の意思で自在に動く紫の糸。
 こいつは完全に甦る!
 ピシッと茜の額に糸が打ち込まれた。
 死んでいたはずの茜の身体がピクンと動く。
 俺はすかさず肉体干渉の力で、いや……
 精神干渉、感覚干渉それらすべての力を使い、茜を元に戻していく。
 ドクンと茜の心臓が脈打つ。
 それと同時に土気色だった肌が赤みを、くすんでいた髪がツヤを取り戻してきた。
 ……う
 ぐらっと俺の身体が傾く。
 いよいよ俺の方も限界が近い、だが―――
 ……もうちょっとだ、ここでやめちまったら、茜のヤツは半死半生のゾンビになっちまう
 と、そう考えて、俺は自分自身の思考に笑ってしまった。
 ……ゾンビの茜か……それも見ものかもしれないな
 そんな事を思った俺の鼻先にあたたかい感触。
 それは茜の吐息。
 霞む視界の中で、茜がうっすらとまぶたを開けるのを確認できた。
「よお……戻ってきたか」
 肉体も精神も、どれもこれも限界の状態が逆に俺に軽口を叩かせる。
 そんな俺に向かい、まだ満足に呼吸もできないような茜がかすれるような声でつぶやいた。
「なんでよ……せっかくあきらめたのに……」
 ……葵のために―――か
 がくりと俺の肘が折れる。
 もう俺には身体を支える力は無い。
「何度も……同じ事を言わすな……」
 俺は茜に覆い被さるように倒れる。
「俺は、俺のやりたい事をするだけだ……」
 意識が、ブレーカーでも落としたようにブラックアウトする。
 ……もう…いいだろ……?
 ……俺はもう……
 ……眠いん……
 ………………………だ
 
 
 
 …………
 ………………
 夢を……見ていた気がする。
 いや、夢なのか、それとも過去にあった事実なのか、よく覚えてないや。
 
 夕暮れの校庭、俺はひとりでベンチに座って菓子パンなんぞをかじっていた。
 ぼんやりと空を眺める。
 空には夕日に染まるジャンボジェット機。
 両親はアメリカへと行った……いや逃げた。
 おかしくなったお袋を、親父が支えるようにして。
 菓子パンを手でもてあそびながら、俺はふんとつぶやく。
 ……まあいいさ、人間『衣・食・住』さえそろってりゃ死ぬ事もないだろう
 そんな事を考えながら、俺はパンの残り半分をかじろうとする。
 すると足元に生き物の気配。
 ふと視線を下げると、そこには小さい白い子犬が、物欲しそうな視線で俺を見上げていた。
「…………」
 俺はひょいと菓子パンを右の方に持っていく。
 すると子犬はそれにつられるようにととと、と菓子パンのほうに歩いていく。
 今度はパンを持ち替えて、左の方に持っていく。
 同じく子犬はととと、と歩いてきた。
「……こいつが欲しいのか?」
 俺がそう言うと、子犬はひゅ~んと情けない声を上げて俺を見上げた。
 俺はパンをひと口サイズにちぎると、子犬の頭上に持っていく。
 子犬は身をかがめ、腰をプルプルと振ると、そのまま勢いをつけて、菓子パンめがけてぴょんと飛んだ。
 だが俺は、子犬がパンに届きそうになる直前、ひょいと自分の口の中にパンを放り投げ、パンを食ってしまう。
 ひゅ~んと再び情けない声を上げる子犬。
 俺はもう1度パンをちぎり、子犬の頭上にもっていくが、また子犬がパンを取れそうになる瞬間、ぽいと自分の口の中に放りこみパンを取り上げてしまう。
 これをさらに2回繰り返すと、さしもの子犬も、うーと俺に向かって唸り声を上げるようになってきた。
「ほら」
 そんな子犬に向かって、俺は残り1/3ほどになったパンを投げてやる。
 一瞬きょとんとした顔をした子犬だが、すぐにバクッとパンに食いついた。
 ……さてと
 ぱんと俺は膝を叩き、立ちあがる。
「帰るか」
 ……誰もいない家に―――な
 俺はズボンのポケットに手を突っ込むと歩き始める。
 冬の寒さが身にしみるのは、この北風のせいだけじゃ無いだろう。
 そんな事を考えて歩いていたのだが、ふと妙に歩きづらいのに気が付いた。
 足元を見てみると、さっきの子犬が俺の足にまとわりついていたのだ。
「もうなんにも持ってねぇよ」
 俺はポケットから手を出し、パンパンと叩く。
 だが子犬はそんな俺の態度など意に返さないように、尻尾を振って俺の周りをちょろちょろとするだけだった。
「…………」
 俺は立ち止まり、ポコンと子犬を蹴っ飛ばす。
 キャンと声を上げて子犬が俺から離れた。
 俺は子犬を追っ払うと家に向かって歩き始める。
 しかし少し歩くと、また足元に何かがまとわりつく感覚。
「…………」
 今度はさっきよりも強めに子犬を蹴り飛ばす。
 子犬は再びキャンと声を上げて俺から離れていった。
 そして俺は再び歩き始める。
 だが、ふと立ち止まってその子犬を見てみれば、そいつは俺から一定距離を開けた場所で止まり、ちょこんと座って尻尾を振りながら俺の方を眺めた。
「まったく」
 俺はつぶやく。
「ちょっと満足させたら、そのあとどんなに嬲っても尻尾振ってついてきやがって………どっかの誰か達みたいなやつだな」
 ……………
 ………どっかの誰か達って………誰だ?
 俺がふとそんな事を考えてると子犬がまた、俺の足元でじゃれ始めた。
 俺はひとつため息をつくと再び歩き始める、今度は子犬を追っ払わないで。
 足元に柔らかい感覚を感じながら、俺はポケットに手を突っ込み、空を見上げる。
 空には夕日に染まったうろこ雲。
 しかしそれは、さっきまで見ていた物と違う色をしていた気がした。
 ………俺は今、どんな顔をしてるんだろうな
「ちぇっ」
 
 
 
 
 公園のベンチに座りながら、俺はぽかんと空を見上げる。
 耳に流れてくるのは、サラサラという噴水の音。
 俺はカクンと首を下ろし、視線を前に持ってくる。
 その下ろした視線の先には、新品になった水飲み場。
 そう、ここは俺が1番最初に、紫の糸を取りこんだ公園だ。
 ……取り込んだっていうより寄生されたって感じだったけどな
 あの時はとつぶやきながら俺は、再びかっくんと首を上げ、空を見上げる。
 空には、冬を象徴するような、薄く細いすじ状の雲が浮かんでいた。
 あの後―――俺は7日7晩眠り続けた。
 目覚めた時、景子も茜も葵も皆ぴーぴー泣くもんだから、いったい何事かと思っちまった。
 ぐるりと首をまわすと公園に設置されている時計が午前と午後の境目を指しているのが見えた。
 学校は―――サボりだ。
 というか今のままじゃとてもじゃないが学校にはいけない。
 パチンと俺は自分の頬を平手で叩く。
 顔が……思考が、本気モードから戻るんねぇんだよ。
 きゅっとそのまま頬をつねる。
 まあ、あんだけの事をやったんだから当然と言えば当然なんだけどな。
 それと―――
 俺は頬に当てていた手をだらりと垂らす。
「あー……身体のだるいのがとれねぇ」
 そういえば葵に頭と身体壊されて、その後俺が治してやった奴が、同じく身体がだるいだるいって言ってたな。
 あいつもこんな感じだったのか。
 俺はそのままずるずるとだらしなく身体をベンチからずりさげていく。
 ……んー……なんかまだ眠いな
 ま、眠いってのはまだ俺の身体が休養を欲してるって事だ。
 そんな事を考えながら、俺は目を閉じて、そのままうとうととしてしまう。
 しかし、そんな俺の前にひとつの人影が立ちふさがった。
 ……ん?
 俺はうっすらと目を開け、そいつを見上げる。
 そいつは、日本人の平均身長より頭ひとつ抜けた身長で、身体に肉がついてなさそうな割にはがっしりとした体格の、初老に入りかけといった男だった。
 顎鬚をびっちりと生やしていて、もうちょっと顔の彫りが深ければ、奴隷開放宣言をした某大統領にそっくりと言った感じだ。
 ……ああ…そいえば誰かからこんな特徴の人間の事を聞いた事があるな
 とりあえず、リストラされて暇をもてあましているようなオッサンとは違うだろう。
「隣、いいかい?」
 そいつはこの日本の寒さになれていないのか、トレンチコートの襟を立てながら、それでもその体格からは想像もできないような人懐っこい声でそう言った。
 俺はその言葉に答えるわけでもなく、ぽけーっとしていた。
 そのオヤジは俺に尋ねた割には、俺の返事を待たずに俺の隣へ座る、そして胸ポケットをゴソゴソと探ると、そこからライターと外国製のタバコを取り出した。
「君も吸うかい?」
 オヤジがタバコの箱を俺に向ける。
 だが俺はぷるぷると首を横に振った。
「アルコールは少量飲むけど、ニコチンは飲まないようにしてるんだ」
 俺がそう言うと、オヤジはタバコを咥えて、ライターで火をつける。
「そうか、健康的だね」
 ふーっとオヤジはタバコの煙を吐いた。
 ふわふわと紫煙が宙を漂う。
 俺はそれをぼーっと見つめた。
 …………
 しばらくの間の沈黙が訪れる。
 しかし、その沈黙を破り話しかけたのは俺の方だった。
「なあ………」
 ん? とオヤジが俺の方を向く。
「色々と、俺に言いたい事があるんじゃねーの?」
 俺がそう言うと、オヤジは大きくタバコを吸い込み、煙を吐いた。
 そしてトンとタバコの灰を落とす。
「そうだね、いろんな立場から、いろんな事を君には言わなきゃいけないかもね」
 俺は大きくベンチに背をもたれかけさせ、足を組む。
「じゃあ、何から言う?」
 俺がそう言うと、オヤジはうーんと少し考えるポーズを取ってから言った。
「とりあえず……やっぱりあの子達に関してからかな」
 ……あの子達…ね
「で?」
「うん、まあ立場としては、君の事を2、3発殴ってやるべきなんだろうけど―――」
「やんないの?」
 ふーっとオヤジは、すこし空を見上げるようにして煙を吐く。
 その少し開いたままの口元が、微かな哀愁を漂わせた。
「久しぶりに見たあの子達が……今まで見た事も無いような、いい顔をしてたんでね……ま、だったらいいのかなって」
 いい顔……か
 オヤジは続ける。
「君は不思議な人だね、とんでもないひどいやつかと思えば以外にそうでも無い」
 あの子達と呼んだやつらと同じ年代の男を『子』と呼ばないで『人』と読んだのは、まあそれなりのこのオヤジの俺に対する評価なんだろう。
 そんなオヤジに俺は言う。
「だったらこっちからひとつ聞くけど……」
 なんだいとオヤジが俺の方を向く。
 俺はふんと笑い言った。
「世の中に、完璧な悪人、完璧な善人なんているのかよ」
 一瞬ぽかんとするオヤジ。
 だが、ぱんと膝を叩くと、楽しそうに笑った。
「あっはっは、そうだね、その通りだね」
 オヤジは必要以上に納得し、そうだそうだと笑った。
 ……まったく、食えないオヤジだな
 俺がそんな事を考えていると、オヤジは指の間に挟んでいたタバコを再び口につける。
「ところで……話はまったく変わるんだけど……」
 そして、そう切り出した。
「ん?」
「君は―――『賢者の石』って聞いたことあるかい?」
 ぽわんとオヤジが煙を輪っか状に浮かべる。
「………」
「『エリクシール』『ツォハル』他にも『神託の石』とか色々呼び名はあるけど……まあそういった人知超える存在の物さ」
 俺は、このオヤジが何について言っているのかはすぐにわかったが、あえてこのとぼけた口調に合わせて答えてやる。
「まあ……名前だけなら」
 オヤジはタバコを指先でもてあそびながら言う。
「うん、で、私の考えなんだけど……そういった物騒な物は、やっぱりそれをちゃんと使いこなせる人が管理するのが1番だと思うんだけど……君はどう思う?」
「…………」
 俺が何も言わないでいると、オヤジがおどけたように続けた。
「いやー、あれが見つかった時はね、もー本当に自分のクビがなくなるかと思ったよ」
 あっはっはとオヤジは笑う。
 それが……肩書き的な物を言ってるのか、それとも文字通りなのかはあえて聞く事もないだろう。
 だから俺は答えてやる。
「まあ……そうなんじゃねーの」
 俺がそう言うと、そうか、と言ってオヤジはピンと指先でタバコをはじいた。
 コロンと公園の地面に転がるタバコ。
「じゃあ後は……君に全部任せる事にするよ」
 そう言ってオヤジは立ちあがった。
 俺はそんなオヤジを見ずに、カツンと指の爪同士をはじかせて鳴らす。
 すると、タバコがシュンと音を立てて消えた。
 別にポイ捨てどうのこうのと言うつもりはないが、単なるこれはこのオヤジに対するあてつけだ。
「う………」
 オヤジはばつの悪いような顔をする。
 そんなオヤジに向かって、俺は手のひらをすっと差し出した。
 きょとんとするオヤジ。
「なんだい?」
 とぼけ顔のオヤジ、そんなオヤジに俺は言い返す
「全部俺に任せるんだろ?」
 俺がそう言うとオヤジは、ほうと声を上げた。
「どうしてわかったんだい?」
 オヤジのその問いに、俺は、んーと眠気を抑えるために、のけぞりながら答えた。
「この間の石が、他の石に比べて妙に小さいってのと……あとなんであんたがそんなに色々な事に詳しいのかって事を考えると、必然的にね」
 俺がそう言うと、オヤジはやれやれと懐を探り出す。
「本当に……末恐ろしいね、君は」
 いや、今でも十分恐ろしいか、と言ってオヤジは懐から光る物を取り出した。
「はい、これで本当に全部だよ」
 ポトリと俺の手のひらに落ちる小さい透明な石。
 確かに晶から手に入れた石とこれをあわせれば、他の石と同じくらいの質量になるだろう。
「ん」
 俺はそう答えると、ぎゅっと石を握り締めた。
 そして再び手を開くとそこにはもう、石の姿は無かった。
「じゃあ……ひょっとしたらまた会う事もあるかもしれないけど……その時は穏便にたのむよ」
 そう言ってオヤジは、緩んだトレンチコートを再びきゅっと整え、くるりと方向を変えた。
 そして公園の外へと向かい歩き始める。
 どことなく哀愁を漂わせたオヤジの後姿。
 そんな、オヤジの背中に向かって俺は言った。
「なあ………」
 ん? とオヤジが立ち止まり、こちらを向く。
「なんだい?」
「やっぱり、タバコもらう事にするよ」
 一瞬きょとんするオヤジ、だがつかつかと俺のほうに再び近づくと、ポケットからタバコを取り出し、俺に差し出した。
 俺がタバコを箱から取り出し、コンと1回フィルターの部分をベンチで小突いてから咥えると、オヤジがライターに火をつけ、差し出した。
「ん……」
 俺はそれでタバコに火をつけると、口の中でふかす。
 肺まで吸い込まない、ニコチンを味わうだけだ。
 そのまま俺はゆっくりと煙を吐き出す。
 俺とオヤジの間に、奇妙な間合いが生まれた。
 そんな中でぽつりと俺はつぶやく。
「なあ……あんたを年長者と見込んで、ひとつ聞きたいことがあるんだけど」
 俺がそう言うとオヤジは、その割には年長者に対する口の聞き方じゃないね、と少し苦虫を噛み潰したようなような顔をしてつぶやいた。
「なんだい?」
「ん、いや………」
 俺は、ベンチで大きくのけぞり、空を見上げる。
 ゆらゆらとタバコの先から副流煙が立ち昇った。
「あのさ、『何でもやりたい事をする』って事と……『なんでもやりたい事が出来る』って事じゃ……まったく別物だと思わない?」
「………」
 しばらくの沈黙、でもオヤジは少し考えるような顔をして言った。
「そう……だね、でも―――それって言うのはやっぱり、個人の考え方次第じゃないのかな」
「………」
「そしてやっぱり………その答えってのも、その個人じゃないと出せないと思うよ」
 俺はボーっとしながら、オヤジの言った言葉を反芻して考える。
 ……俺次第……か
「そう……だよな、そうなんだよな」
 そして、そう納得したようにつぶやいた。
「で、それがどうしたんだい?」
 オヤジが興味深そうに聞いてくる。
 俺はタバコを口に咥えると、それをピコピコと上下に動かしながら言った。
「いやなに、ただちょっと……それじゃつまんねーんじゃないかな、って思っただけさ」
 くすっと笑う親父。
「まあ……好きにするといいよ、君はもう、すべてを手に入れたんだから」
 すべて……か。
 ぼうっと俺は考える。
 俺は……何を手に入れたかったんだろうな。
 パンとオヤジがコートの裾を払う。
「じゃ、もういいね、私は君の前から姿を消すことにするよ」
 そして、そういって再び公園の外に向かい歩き始めた。
 遠くなるオヤジの姿。
 だが、その足が何かを思い出したように止まった。
 そしてくるりと俺の方を向く。
「あーそうだ、ひとつ言い忘れたんだけど」
 俺は視線だけオヤジの方に向け、言葉の続きを待つ。
「あの……な、アレだけは……アレにだけはちょっと手を出さないでくれるかな、一応アレは私のもんだから」
 そう言うオヤジの顔は今までのどこかひょうひょうとした態度から想像も出来ないほど、照れて真っ赤になっていた。
 このオヤジがアレと呼ぶもの、それはもう、あの人妻以外の何者でもないだろう。
 しかし俺は、ベンチに肘を引っ掛け、オヤジの方を向くと、これ以上ないほどのいやみったらしい顔をして言ってやった。
「なあ、俺がその手の類の事を言われたとき、必ずといっていいほど言い返す言葉があるんだけど……そいつを聞きたいか?」
 うっとオヤジが声を詰まらす。
 そしてそのままぶんぶんと手を振った。
「あー、もういい、わかったわかった」
 そう、俺は言う、たとえ誰になんと言われようとも。
 俺は、俺のやりたい事を―――
「やれやれ、ほんとにおっかないわ……」
 オヤジはそうつぶやきながら、コートのポケットに手を突っ込みながら、とぼとぼと公園を出て行った。
 その姿を見送った後、俺は再びベンチにのけぞり、空を見上げる。
 タバコからの煙がゆっくりと空へと舞い上がる。
 ……俺次第……か
 ぺっと俺はタバコを吐き出した。
「さてと……これからどうすっかね」
 
 
 
 
 昼休み―――
 俺は学校の屋上の、さらにその上で寝転がりながら、空を見上げていた。
 屋上のさらに上、言葉にすると変だが、それはいわゆる屋上に出入りする扉の上の屋根の事だ。
 足を組み、両手を後頭部に当てて俺はぼーっとする。
 気温はまだ寒いものの、朝から日光により暖められたコンクリートに寝転がれば、十分そのまますごせる状態だった。
 そういった意味では、もう冬も終わりに近づいているのかもしれない。
 そんなふうにして、特に何も考えずにすごしていたわけだが、やがてガチャッと、屋上の扉を開ける音が俺の耳に届いた。
 それと同時に聞きなれた女の声。
「あ……あれ?」
 少し困惑している。
 そこにいると思った人間がいなかっただろうか。
 落ち着かないように人を探し回る足音が聞こえてくる。
 俺はひとつため息をつくと、その人物に向かって声をかけた。
「景子、ここだ」
 えっという声が聞こえてくる。
 そしてパタパタとパンプスでコンクリートを踏み鳴らす音が近づいてきたかと思うと、カツカツとここに登るためのはしごを踏みしめる音が聞こえてきた。
「ご主人様、こんなところにいたんですか」
 そんな声とともに、眼鏡をかけた、俺の担任教師であると同時に、俺の牝奴隷でもある橘景子がひょこっと顔を出した。
「別に……俺がどこにいようと勝手だろ?」
 俺がそう言うと、景子は少しおどけたようにして俺に言った。
「ここは、生徒の立ち入りは禁止ですけど……」
「…………」
 俺は景子のその言葉に、あえて何も言わない。
 いわゆる無言のプレッシャーというやつだ。
 つーと景子の額に汗が流れる。
「す……すいませんでした……」
 ふんとひとつつぶやくと、俺は景子に向かって言った。
「で、なんか用か?」
「え、いや……ここにくればご主人様に会えるかと思ったので……」
 景子は少し顔を赤くしてそう言った。
「つまり、用はないわけだな」
 う、と景子は言葉を詰まらす。
「い、いけませんでしたか?」
「いや……だったら俺の方の用を済まそうと思ってな」
 え? とつぶやく景子に俺は言う。
「景子、手を出せ」
 きょとんとする景子。
「いいから早く出せ」
「は、はいっ」
 俺が強くそう言うと、景子はあわてたように両手を俺に差し出した。
「馬鹿」
「え?……きゃっ」
 寝転がっている俺と違い、景子はここに登るはしごにしがみついた状態だった。
 そんな状態で両手を離せば。
「あっ、あっ」
 バランスを崩した景子が、溺れる人間のように手をばたつかせる。
 ふうと俺はため息をつく。
 こんな馬鹿助けるまでもないだろう、落ちるなら勝手に落ちろ。
 そんな事を考えていた俺だが、景子は何とか踏ん張り再びがしっとはしごをつかんだ。
 肩で息をする景子。
「あんまり馬鹿な事をするな」
 俺がそう言うと、景子はしょぼくれたように、すみませんとつぶやいた。
「ほら、早く手を出せ」
 景子は、今度はバランスを崩さないように、片手ではしごをつかんだまま、空いた方の手を俺に差し出す。
 それを確認すると、俺はその手の上に、握ったままの右手を持っていく。
 そして手を開き、ぽとりと手の中に握り締めていたものを景子の手のひらの上に落とした。
「あ……っ」
 それを見た景子の声が詰まる。
 俺は再び右手を頭の後ろに持っていきつぶやいた。
「確かに返したぞ」
 景子が震えながら俺の渡したものを握り締める。
 それは、俺が景子から預かっていたブローチ。
 景子は、それをぎゅっと抱きしめるように胸のところに持っていく。
「は……い………」
 じわりと景子の目尻に涙が浮かんだ。
 だが、次の瞬間、景子はあわてたように声を上げる。
「あっ、ご主人様、私まだご主人様から預かったセーター返してません」
 俺はそんな景子の言葉に、ああ、とつぶやくように答えると続けて言う。
「それはいいから、とりあえずそいつをしまったらもう1回手をこっちに出せ」
「え? あ、はい」
 景子はそう言うと、スカートのポケットにブローチをしまい、再び俺の方に手を出した。
「ん……」
 俺はそれを確かめると、ごそごそと制服の内ポケットを探り、そこにしまってあったものを取り出す。
「これ、お前にやる」
 そして、そう言うと、取り出したものを景子の手のひらの上に落とした。
 カチンカチンと音を立てて景子の手のひらの上に落ちる物体。
「え、ええっ!?」
 それを見た景子が目を丸くする。
 俺が景子の手のひらに落としたもの、それは、紫と、赤と、青と、透明の4つの―――
「ご、ご主人様、これって何ですか、こんな大きな宝石? ええっ!?」
 眼鏡の奥の目を丸くしたままの景子に俺は言う。
「いいから、お前にやる、そのかわりそいつは俺がいいと言ったとき以外絶対持ち出し禁止だ、お前の家で金庫でも買ってそこに保管しておけ」
 はあ、と俺の顔と手のひらの上の鉱石を交互に見つめる景子。
「でも……本当にいいんですか? すごく高そうですよ、これ」
 俺は、そんな景子の言葉を聞きながら、空を見上げる。
 そして、自由に空を流れる雲を見つめながら俺は言った。
 ……ああ、いいんだ
 それは―――
「もう、俺には、必要ないから―――」
 そのまま俺はうとうとと眠るように目を閉じる。
 俺の頬を、ほんの少し、ほんの少し春のにおいがする風が、ゆっくりと撫でて行った。

< マリオネット ―糸使い―  完 >

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