セイレーン 序章

序章

- 1 -

───13年前、秋

 星空に、月が輝いている。美しい夜空から降り注ぐ月光が、北海道の雄大な大地を照らしている。この辺りには人家も無く、野生動物達だけのテリトリーだ。恐らくは、日本でもっとも”自然”が溢れる場所。そこに住まう生き物が、ただ”生きる”事だけに、情熱を注ぐ事ができる場所。

「はっ・・・はぁっ・・・」

 しん・・・とした空気を切り裂く様に、傷付いた獣のような荒々しい呼吸音が、冷たい空気を震わせた。獣・・・そう呼ぶにはその呼気は、美しい響きを伴っていたが。

「だめ・・・はぅ・・・もう、この身体を・・・維持でき・・・ない・・・」

 喘ぎに強引に割り込ませるように、苦しげな女性の声がした。苦しそうでありながら・・・それとも苦しそうだからか、聞く者を陶然とさせる、魅力的な美しい声。誰もが手を差し伸べたくなるような、儚く震える声。
 その声の主は、月明かりの下に幻想的な美貌を晒していた。頬にこびり付いた血や、玉のような汗、表情を歪ませる苦痛すらも、その美貌を醜く犯す事は出来はしない。その美しさは、表面だけの美しさではなかったから。

「大丈夫!もう少し・・・もう少し行けば、逃げ切れる!子供達の為にも、諦めちゃだめだ!」

 女性を支える男性・・・青年が、気遣わしげに口にした。今にも消えてしまいそうな女性を、必死に励ましている。
 背が高く、筋肉は少ないその青年は、荒事にはまったく向いてない優しげな顔立ちなのに、守るべきものを持った人間特有の力強さに満ちていた。
 二人は、何かから逃げるように、北の大地を歩いていた。いや、実際に逃げているのだろう。青年は女性に肩を貸しながら、時々後を振り返っていた。何も遮る物の無い大地は、かなり遠くまで見通すことが出来る。それは、追手の追跡が容易であるという事でもあるのだが。
 女性が押さえている自身の脇腹からは、大量の血液が流されていた。白いセーターに、鮮やかな赤がその領土を広げていく。血が流れる原因は、鋭利な刃物で切り裂かれた傷痕だった。ただし、例え熊だろうと、これほど鋭い傷は付けられないだろう。

「・・・うぁっ・・・お、お願いがあるの・・・」

 どれ位歩いてからか、女性が苦しげに言葉を放った。

「・・・いやだよ・・・」

 青年は女性に目を向けずに、切り捨てるように言った。その顔は、今にも泣きそうに歪んでいる。相手が何を言いたいか、何となく判る・・・結婚してから数年、二人はそういう間柄だった。

「うふふ・・・わたし、あなたのそう言う所、好きよ・・・」

 でもね・・・そう続けようとした女性の言葉を遮るように、遠くから鳥の羽ばたく音が聞こえてきた。ゆっくりと音が大きくなってくる・・・まるで、逃げ切れない二人を嬲るように。

「でも、お別れね。・・・ねぇ、最後に”キスして”・・・」
「あ・・・」

 青年は立ち止まると、優しく女性にキスをした。相手の唇の形をなぞるように、永遠に記憶しようとするように。
 苦しげに歪んだ女性の顔が、柔らかく微笑んだ。
 もう、思い残す事は無いのだと、和やかに。

「愛してる・・・だから、”あの子たちのためにも・・・生きて”・・・。・・・ごめんなさい・・・これが・・・私の、最後の我侭だから・・・」

 青年の頬を、涙が伝う。自分では逆らう事の出来ない、それは究極の魔法。青年は愛する女性から手を離した。女性は、よろけながらも一人で立つと、青年と見詰め合った。
 全ての想いを瞳に込めて、女性は静かに微笑んだ。青年の記憶に、微笑んでいる自分を残しておきたかったから。

「僕も、愛してる。だから、死なないで・・・きっと、助けに戻るから」

 女性の目に真珠よりも美しい涙が溜まり、溢れ出した。

 私の事、愛してくれたのに、もう・・・一緒に生きていけないの。私ではぜったいに勝てないから。でも、足止めしてみせるから。あなたと・・・こどもたちの為に・・・。だから、ほんとうに・・・。

「ごめんなさい・・・」

 そっと、吐息のように女性の唇から言葉が洩れた。
 青年が、声に押されたように、後に一歩下がる。
 涙が止まらない。
 どんなに心が望んでも、身体は青年の自由になってくれない。自分の身体なのに。
 女性が、ふわりと・・・あどけなく微笑んだ。涙は止められなかったけど。

「”ばいばい”・・・」

 青年は女性に背を向けると、走り出した。生き延びる為に。

「ばいばい・・・」

 女性は祈りを込めて、もう一度呟いた。遠ざかって行く青年の背中を、涙で歪む瞳で見詰め続けながら。
 鳥の羽ばたきは、すぐそこまで近付いていた。

- 2 -

───10年前、秋

 血の滴るような、真っ赤な夕日。
 泣いている女の子。
 夕焼けに黒くシルエットを映す、幼い影。
 微妙にいびつな、影。
 どこかヒトと違う、違和感を感じさせる、影。

「泣かないで。わたしがいるから」

 いつの間にか、寄り添うように、もう一つの影が立っている。泣いている影と、それほど変わらない年齢に見える。
 小さい。
 小さいのに、どこか強いものを感じさせる”何か”があった。

「もう、だいじょうぶだよ」
「ひぐ・・・ひっ・・・だって、だって・・・」

 泣いていた影が、嗚咽混じりに言葉を押し出す。

「だって、ゆうじくんが・・・わたしの・・・うっ・・・こと・・・っ」
「うん・・・」

 新しい影は、せめて涙だけでも拭おうと、ポケットからハンカチを取り出した。俯いて、両手で目を隠すように泣いている影の頬に、そっと触れる。

「ゆうじくん・・・きもち・・・わる・・・っ・・・わるいって・・・」

 泣いている影は、手を顔から離さなかった。だからその影は、ハンカチを手に持ったまま、泣いている影を抱き締めた。暮れなずむ夕日の中、二つの影が一つに重なる。

「だいじょうぶ、わたしはそんなこと、思わないよ。おとうさんだって・・・ね?」

 影は、泣き止まなかった。
 いつまでも。

- 3 -

───2年前、夏

 昼間蓄えた熱を、アスファルトは今頃になって放出していた。それでも、火傷するほどでは無い。せいぜい、むわっとする熱気を発散する程度だ。
 そのアスファルトの上に、男子高校生が数人倒れている。中には、ジャックナイフやスタンガンを手にしたまま、倒れているものもいる。その容貌は、いかにも自分は不良ですと、安易に自己主張していた。

「まだ、やるの?」

 そう言ったのは、まるで遊びに来たとでもいうようにのどかな雰囲気をまとった少年だった。高校生・・・そうでなければ中学生といったところか。
 その声は、この状況にそぐわない、穏やかな響きを伴っていた。まるで、相手の事を思いやっているのではないかという声。少なくとも、喧嘩をしている相手に掛けるべきでは無い声。やはり、それは相手に対して逆効果だったようだ。

「てめぇ一人にやられたとあっちゃあ、オレ達のメンツが丸潰れなんだよっ!」

 そうがなった男は、回りに転がっている高校生の仲間らしい。野卑な顔で、口から泡を吹かんばかりに怒っている。
 少年は、小さく肩をすくめた。バタフライナイフを向けられているというのに、臆する様子も無い。まるで、歯牙にもかけていないという態度に感じられて、不良がキレる。

「いっぺん死ねや、おらぁっ!!」

 勢い付けに怒鳴ると、ナイフで切り付けた。右上から袈裟懸けに、返す手で水平に、肘を引き付けるようにして体重の乗せた突き。
 もはや、不良の頭の中には、相手を切り付ける事しか無くなっていた。もし、それで相手が死んだら・・・などと言う事は、まったく考えない。考える事が出来ない。ただひたすらにナイフを振るう。

「困ったなぁ」

 少年は、その全てを避けた。両手をポケットに仕舞ったまま、軽やかなステップを刻む。死屍累々と倒れている不良達を、足元に目をやる事すらしないのに、踏みつける事も無く、この状況に飽きたとでもいうのか、時々あくびを噛み殺して。

「泣いてるコもいるし、そろそろ・・・終わらせるよ」

 最後の”よ”という音が不良の鼓膜を震わせるよりも早く、不良の身体の芯を、突き抜けるような衝撃が走った。
 え・・・そういう顔で、何が起こったかも理解できないままに、不良は地に崩れ落ちた。少年が怪我をしないように、身体を支えてくれたと気付く間も無く意識を失う。

「さて・・・」

 少年は、道の片隅に目を向けた。そこには不良達に襲われかかった少女が、恐怖に震えている。目を瞑っていれば怖くなくなるとでも思ったのか、ぎゅっと目を閉じて、身体を小さくまるめて座り込んでいる。
 少年は、一瞬だけ痛ましそうな光を目に浮かべると、少女に歩み寄った。

「立てる?」

 少女には何も聞こえていないのか、ぴくりとも反応は無い。自分を閉ざしてしまうほど、不良達が恐ろしかったのだろうか。
 少年は膝を抱えるように、その場にしゃがみ込んだ。少女の顔の高さに、自分の目線を合わせる。怯えさせないように優しく、少女の頭を撫でる。
 びくっとする少女に、少年はもう一度声を掛けた。静かに・・・優しく。

「・・・立てる?もう、怖くないよ」

 おずおずと顔を上げる少女に、少年は優しく微笑みかけた。少し荒削りで、美形という程整ってはいないが、見る者を落ちつかせる顔で。

「・・・あ」

 少女が思わず・・・といった感じで、鈴の音のように涼しげな、小さな声を出した。周囲の状況を忘れたように、呆然と少年を見詰める。
 少年は少女の頭を軽くぽん、と叩くと、立ち上がって少女に手を差し伸べた。少女は少年の顔と手を交互に見比べる。

「さぁ、立って。駅まで送るよ」

 触れる事を畏れるように・・・それでも少しずつ少女の手が持ち上がる。
 少年の掌に触れた指先が、熱いものに触ったようにぴくん、と動く。
 大丈夫。言葉にせずに、少年の目が語りかける。少女の身体から、緊張がほぐれて行った。
 そして・・・少女の手は、少年の手に重なった。

 少女は、いつまでもこの時の事を、忘れる事は無かった。

- 4 -

───そして・・・現在

 美しい満月が、遥か上空から煌々と、穢れた地上を照らしている。人間にも、動物にも、植物にも平等に。
 そして・・・。

「はっ、ははっ!」

 小高い丘の上に立ち、哄笑を上げる女にも。
 美しい、完成されたボディーラインが、月の光に照らされて、絶妙な陰影を浮かび上がらせた。
 女の周りに漂う小さな光の塊が、まるで祝福を与えるように女を照らし続ける。柔らかく風になびく腰まである金髪が光に反射して、まるでそれ自身が光を放っているように見える。一枚の絵画のように、美しく幻想的な光景だった。ただし、与える印象は禍々しいナニカ。
 前方の一点を見詰めたまま、歓喜に美貌を歪ませた女は、心に満ちる悦楽に堪え切れないと、無心に笑い続ける。

「はははっ!はははっ!!」

 女の周りを、小さな光りが纏わりつくように乱舞する。しかし、そんな美しい光景も目に入れないまま、女は笑い続ける。
 女は何かを求めるように右手を伸ばし、ゆっくりと虚空を握り締めた。関節が白く色を変える程、強く。強く。誓うように。

「見付けた!あははっ!見付けたっ!」

 暗い情熱に満ち溢れた歓喜が、おぞましい喜悦が、女に哄笑を上げさせる。美しくも恐ろしい印象を感じさせる、狂気にも似た悦び。

「永かったわ。あはははっ。でも、これで終わらせる!たっぷり時間を掛けて、終わらせてあげる。ははっ。あははははっ」

 女の視線の先には、街がある。女にとって、憎悪の対象が生きている、街。女から、大事なものを奪った・・・奪わせたものが生きている、街。
 女はふいに哄笑を収めると、一歩を踏み出した。全てを終わらせる為に。
 美しい満月が、女を照らしていた。

< 続く >

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