ドールメイカー・カンパニー3 第2幕(6)

(6)美咲の奸計(前編)

 暗い県道を1台のランクルが疾走していた。
 運転しているのは美咲の部下、川瀬である。
 尾行を気にしながら進路を小刻みに変えている。
 しかしミラーに映るヘッドライトが完全に消え去ると、やがて車を人気の無い河原へと入れた。
 硬いサスペンションを通して小石の上を走る振動が伝わる。
 そして結局河原への入り口が見えない所まで走らせて漸く車を止めたのだった。
 エンジンは切らずにヘッドライトをだけを消す。
 すると、辺りは真の闇に包まれた。

「どうやら尾行は無さそうだね」

 助手席の木之下は暗闇に浮かぶ光がない事を確認してそう言った。

「あぁ・・・取り敢えず逃げ切ったんだろうな」

 川瀬も緊張に凝った肩を自分で揉みながら溜息を吐く。
 そして、後部座席を振り向いて、もう一度溜息を吐いた。
 そこには素っ裸に薄いタオルケットを巻いただけの美咲が転がされていたのである。
 しかし眠っている訳ではない。
 目は開き、ときおり瞬きもしている。
 けれどその視線は虚ろで、声を掛けようが体を叩こうが、何の反応もなかった。

「おい、どうするよ、これっ」

 途方に暮れた川瀬は、苛ついたように後ろを顎で指して木之下に訊く。

「どうもこうも、とにかく正気づかせないと話にならないよ」

 木之下はそう答えて後部座席に移動すると、もう一度美咲の体を揺すった。

「チーフッ、雪野さんっ!もう、いい加減目を覚ましてくださいっ」

 タオルケット越しに美咲の肩を掴み強く揺する。
 けれどまるで反応が無い。
 そこで今度は上体を引き起こそうとした。
 しかしまるで泥酔しているように、首が据わらない。
 美咲の頭は後ろに仰け反り、木之下からは美咲の形のいい鼻腔だけしか見えなかった。

「チーフッ!ったくよぉ、何なんだよっチクショウッ」

 結局木之下も途方にくれて川瀬を振り返るしかなかった。
 けれどその川瀬は、縋るような木之下の視線にも気付かぬようにジッと美咲を見詰めている。
 木之下は無意識にその視線を追った。
 するとその視線の先にはタオルケットの隙間から美咲の乳房が顔を出していたのである。

「おっ、おい、拙いぜ」
「何がだよっ」

 木之下に言われようやく視線を外した川瀬は、しかしふて腐れたように言い返した。

「敵の手中に落ちた仲間を奪還してきたんだぜ、俺達はっ。しかもその仲間は意識不明だっ。まず怪我をしてないか、それを確認する必要が有るじゃねぇかっ」
「別に何も怪我なんかしてなかったろっ」
「そんなこと判るかよっ!咄嗟に掻っ攫ってきたんだ。出血はねぇみたいだが、意外と骨折してるかもしれねぇだろっ」
「してねぇよっ、骨折もっ」
「何で判るっ」
「何でって・・・そりゃぁ・・・」

 一瞬言葉に詰まった木之下を、川瀬が無言で押し退けた。

「ったくよぉ、仲間の状態確認だろがっ!なに躊躇ってやがるっ」

 そう言うと川瀬は後部座席に移り、シートを倒してフラットにした。
 そして仰向けに寝ている美咲に手を伸ばすと、その体から巻きついているタオルケットを剥ぎ取ってしまったのだった。
 ダッシュボードの淡い光に照らされた美咲は、成熟した乳房も、引き締まったウェストも、そして意外に張りだしているヒップも何一つ隠すことなく二人の部下にその全てを晒していた。
 見下ろす川瀬の唇が、口笛を吹くような形に窄まる。

「へぇ、チーフさん、思ったよりいい体してんじゃん」

 そう呟くと両手を伸ばして美咲の首筋を探った。
 頚動脈に指をあて鼓動を計っているのだ。
 けれどすぐに両手の位置をずらすと肩から腕へと滑らせて行く。
 それは怪我を探っていると言うよりは、明らかに肌の感触を楽しんでいる様子だった。

「っおいっ!」

 木之下は思わず川瀬を止めようと手を差し出していた。
 しかし逆にその手を掴まれると、強制的に美咲の乳房に持っていかれたのだった。

「しょうがねぇなぁ、半分貸してやるよ。チーフの怪我を念入りに調べるんだぜ」

 川瀬はそう言ってウィンクした。
 そして意識の戻らぬ美咲の乳首を弄ぶ。
 一方、木之下はその柔らかな膨らみを掌に感じながら、凍りついたような視線で美咲の表情を凝視していたのだった。
 今にも目覚めるのではないかという怖れが木之下を縛ってるのだ。
 大胆に美咲の体を弄り回している川瀬とは対照的である。
 既に胸から腹、そして下腹部までその肉の感触を確かめるように撫でまわしている。
 そして今度は無防備に投げ出されている片足を掴むと何の躊躇いも無く持ち上げたのだった。

「へぇ、締まった良い足してるぜ。特にほらっ、この内股の白いこと。へへへ、たまんねぇなぁ」

 川瀬はその足を肩に担ぐと、両手で美咲の太ももの感触を楽しんでいる。
 そして、視線は勿論その足のつけ根、薄いヘアに覆われた肉のスリットに向けられていた。

「おい木之下っ、ボケッとしてねぇでそっちの足を持てよっ」

 声を掛けると同時に川瀬は残る右足も掴み上げ、それを木之下に押し付ける。
 そして反射的にそれを受け取ってしまった木之下は、ギョッとした表情のまま美咲の股間に視線を釘付けにされていた。
 まさか川瀬がここまでするとは思ってなかったのである。
 チームリーダであり準Aエージェントの雪野美咲が、あの自信満々のプライド高い美咲が、全く無防備に両足を広げさせられ、隠されるべき肉のスリットを部下の男2人に観察されているのだ。

「へへへっ、さすがは人妻さまだっ。よく練れてるねぇ。ま、もっとも俺たちが救出するまでヤリ狂ってたみたいだし、無理もねぇか?」

 川瀬はなんと美咲の性器に指を突っ込み、その中の濡れ具合まで確認していた。
 しかし川瀬がここまでするのを見て、木之下はようやく我に返った。

「やめろっ、バカッ!お前ヤりすぎだっ」

 そして川瀬の手首を掴み、指を抜かせる。
 一方、川瀬もさすがにこれ以上する気は無かったようで、小さく苦笑いするとあっさりと引き下がった。

「ま、威張り屋の陰険上司もこうなっちまうと只の可愛い女になっちまうんだな。やっぱ人間見た目だけじゃねぇよな」

 ここ数日の鬱憤を晴らすように川瀬はそう言って口の端を上げる。
 しかし木之下は逆に、益々ストレスを溜め込んだような口調で喚いた。

「そんなこたぁどうでもいいっ!とにかくチーフを目覚めさせるんだっ。もしもこのまま正気にもどらなかってみろっ、俺らはもう一生このクラスレスのままなんだぜっ」
「あ?何でだよ、関係ねぇじゃねぇか。チーフが勝手に単独行動してその結果敵にやられちまったんだぜ」

 川瀬は正論を口にするが、木之下は無言で首を振っていた。

「そんな理屈は主任には通用しないんだよ」
「主任?誰だそれ」
「チーフの旦那だよ、雪野主任。ついでに言うと俺の元上司。第4開発班の班長にして抗催眠試薬の開発責任者だよ」
「嘘っ!こいつら夫婦でお前の上司なのかっ」
「あぁ、もうホントうんざりだよ。何ていうのか、似た者夫婦ってやつでよ、陰険で威張りやで気分やで、そのうえプライド高くて・・・。もしもこのことが奴の耳に入ってみろよ、理屈より先に癇癪を爆発させちまうんだ。罵詈雑言を浴びせられた揚句、確実に降格だ。しかも他部署への転籍願いなんか奴は絶対に通すわけないしっ。俺らは飼い殺し決定ってわけ」

 木之下の説明に川瀬もようやく事態を飲み込んだ。

「冗談じゃねぇぞっ、木之下ぁっ!早く何とかしろっ、お前もその試薬の開発グループなんだろがっ」
「無理言うなっ!俺は単なる雑用係にこき使われてるだけなんだからよっ」
「お前っ、この前催眠術使えるって言ってたじゃねぇかっ」
「つ、使えるって・・・」

 木之下は目を剥いて川瀬を見た。

「お前っ、これ見て判らねぇのかっ!全然違うんだよ、レベルがっっ!そりゃ毎日のように催眠実験に付き合ってるんだ、真似事くらいはできるさ。しかしな、これは異常だっ。こんな催眠、見た事ねぇ。年に100日以上も実験に付き合って、30人以上も催眠術師に会ってるこの俺が、まるで見たこともねぇレベルなんだよっ」

 怒鳴るような木之下の声だったが、しかしその表情は紅潮していない。
 むしろ蒼ざめているといったほうが近かった。
 喋っているうちに、その内容を自分で実感してしまったのだ。

「お前・・・見た事ねぇのか。専門家のお前が」

 驚いたような声で川瀬が呟く。

「ねぇよっ」

 吐き捨てるような木之下の声に、しかし川瀬が意外なことを口にした。

「俺は、あるぜ・・・」
「何ぃっ!」

 心底驚いたような口調で木之下が訊き返す。

「半年くらい前だ。例の洗脳集団の武器密輸事件があったろ?俺はちょうど夜勤でな、拘束した奴等の幹部の見張り番してたんだ。そいつがすげぇ洗脳のプロみたいな奴でよ、もう俺らの取調べテクニックなんか完全に見透かしてやがった。3日も尋問してるのにアジトどころか名前さえ謳わねぇんだ。それがよ・・・」

 川瀬は脳裏に刻んだ情景に心奪われているような表情で言葉を続けた。

「その晩、1人の女が来たんだ。2室長とその取り巻きも一緒に。俺ら下っ端はもう完全に直立不動で敬礼よ。したら、2室長から女をその男の部屋に連れてけときた。勿論、理由なんか訊けねぇが言われりゃ連れてくしかないわな。すげぇベッピンな女でよ、奴といったいどんな関係だか気になったぜ」

 思い出し笑いのように川瀬の口の端が上がった。

「で、鍵を開けてまず俺が入った。奴はベッドに横になったまま俺を見て笑いやがった。『おや、今度は夜の部ですか。いいですねぇ、基本に忠実で』って。それがよ、俺の陰からその女が姿を現すと不思議そうな顔つきになったんだ。『どなたですか?そのお嬢さんは』って。奴の関係者じゃなかったんだ。俺が戸惑ってると、その隙に女は勝手にその男の前まで進んでった。そんでベッドの横に置いてあった丸い椅子にちょこんと腰掛けると、背筋をピンと伸ばした姿勢で奴を見詰めたんだ・・・」

『なんだ、お前はっ』

 男は訝しげに誰何した。
 既に嘲るような丁寧な口調ではなくなっている。
 けれど女は答えない。
 代わりに、まるで深い泉のような静かな瞳でジッと男の瞳を覗き込んでいた。
 その間、およそ10秒・・・
 しかし男が焦れてもう一度喚こうとしたそのタイミングで、女がスッと立ち上がった。

『もういいのよ。全部、おしまい。お疲れ様』

 するとその言葉を待っていたように、2人の尋問官が駆け寄ってくる。

『あ、あの・・・どうでしょうか・・・』
『あら、聞こえなかった?もう出来上がりよ。好きなこと訊いちゃって』

 まるでインタビューを許可するタレントのマネージャのようなセリフである。
 2人の尋問官は顔を見合わせ、そして男に訊いた。

『お前の名前を言いなさい』

 すると女と尋問官の会話を聞いていた男は肩を竦めてソッポを向く。
 完全に馬鹿にしきった態度である。
 けれど、その動作とシンクロするようなタイミングで男の声が漏れたのだ。

『西田・・洋蔵・・』

 一番驚いた顔をしたのは当の本人だった。
 慌てて口を押さえた仕草がその動揺を物語っていた。
 そして女はもうそんな男を振り返りもせずに部屋を後にしたのだった。

「驚いたぜ。おれは催眠術ってのはホントにすげぇと思ったよ。あれが『催眠術』なんだと初めて判った。テレビでやってるのは単なる演技だと思ってた」

 遠い目をして語る川瀬に、木之下は呻くような声で呟いた。

「蘭子だ・・・『魔眼』の蘭子だ・・・」
「あぁ、そうだよ。確かにあの女は蘭子といった。確かに『魔眼』だった。だからよ・・・だから驚いたんじゃねぇかっ、お前たちがあの蘭子の催眠を解いたって言った時にはよっ」

 川瀬は目を剥いて木之下を見詰めた。

「ホントに蘭子の催眠を解いたのなら、チーフの催眠だって解けるだろっ!それとも何かっ、あの“きつね”とかいう男の催眠は蘭子の更に上を行ってるって事かっ」

 信じられないといった表情で川瀬は訊く。
 けれど木之下は頭を振ると大きく溜息を吐いた。

「違うんだ。チーフの催眠が蘭子より上かどうかなんて俺には判らない。レベルが桁違いでとても優劣の判断なんかできやしねぇよ。そうじゃなくて、問題は結局俺が最初に言ったことなんだ。つまり、下っ端の俺には最新の抗催眠薬のサンプルなんか回ってこねぇんだよ。持ってねぇのっ!」

 木之下は両手を広げてカラッポの掌を川瀬に晒した。
 その手をまじまじと見詰めた川瀬は、しかしまるで木之下の真似をするように頭を振って溜息を吐いた。

「お前・・・もしかして、マジで頭悪い?」
「あ?」

 訳が判らぬ木之下は、眉を寄せる。

「あのなぁ・・・俺も下っ端のお前が持ってるなんてコレッポッチも考えてねぇよ。でもよぉ、チーフは敵の奴隷になってる女の催眠を解きに行ったんだぜ。しかも旦那は抗催眠薬の開発主任なんだろ?最新かどうかは判らねぇが、何か持ってるんじゃねぇのかぁ?」
「あ・・・」

 木之下はビックリしたような顔で川瀬を見返すと、右手で拳を作り左手の掌をポンと叩いたのだった。

「お前・・・冴えてるなぁ」

 そして川瀬が何かを口にする前に、サッと背をむけ美咲の鞄をあさりだしたのだった。

「あったっ、これだっ!」

 美咲のハンドバッグを逆さにして中身をシートの上にぶちまけた木之下は、すぐに小さなアンプルが入ったケースを抓みあげた。
 そして弱いルームライトの明りに翳して刻まれてるナンバーを確認する。

「どうだっ、使えそうかっ?」
「あぁっ、使える・・・っていうか、これホントの最新版だ。サフィックスがCになってるのは俺も見た事ねぇ。多分、まだ正式申請前の奴だこれ」
「大丈夫なのか、そんなもの使って」
「多分、OKなんだろう。ほらこのアンプル使用済みだ。きっとあのマンションで試してみたんだ」
 木之下はそう言って空のアンプルを手に取った。
 他のアンプルには皆琥珀色の液体が充填されている。
 川瀬もそれを見て小さく肯いた。
 けれどケースを覗きこんで少しだけ不思議そうな顔をした。

「おい、これは何だ?この二つだけ色が違う」

 指差した先には、確かに他と異なる緑色のカプセルが混じっていた。

「あぁ、これは阻害薬のほうだな、覚醒薬でなく。つまり、催眠に掛かりにくくする薬」
「掛かりにくく?目覚めさせるんじゃなく?」
「そう。被暗示性を低下させるのが目的。一応理論的にはかなり有望な薬なんだけどね」

 木之下はそこで言葉を切って、チラッと美咲に視線を送った。

「ま、理論と実践が必ずしも一致する訳ではないみたいだね」

 しかし川瀬は木之下のその言葉に思いっきり眉を顰めた。

「おいっ、本っ当に効くんだろうな、その覚醒薬の方はっ」
「大丈夫っ・・・・な、筈なんだが。実験では抜群の効果だった。それに何より蘭子の部下に試したんだぜ、4室長の前で」
「上手くいった・・・ってことだな?」
「あぁ、そう聞いてる。蘭子の配下なら言うはずの無いことを全部証言したって言ってた。後催眠も含めて根こそぎだ」
「そうか・・・これがあの『魔眼』を超えたっていう奴なんだ」

 川瀬は感嘆の視線でそのアンプルを見つめた。

「じゃ、もう迷う事はねぇな。さっさと飲ましちまってお目覚めタイムとしようぜ」
「あぁ、そうしたいんだが・・・その前にすることが残ってるだろ?」

 その言葉に不思議そうな顔を向けた川瀬は、しかし木之下が再び美咲のタオルケットを取り去るのをみて目を輝かせた。

「おっ、おいっ。この隙にやっちまうのかっ」
「バカヤロ、反対だっ」

 木之下は荷物室からバッグを取り出すと、そこからくしゃくしゃになった服と下着を引っ張り出した。
 諒子のマンションから美咲を奪還する際に、散乱していた服も咄嗟に掻き集めたのである。
 そして美咲の両足を抱えると、木之下は苦労してショーツを穿かせていった。
 意識のない女に衣服を着せるのは、これは暴れる女から服を剥ぐよりよっぽど大変である。
 狭い車の室内で、2人は体を折り曲げるようにしながら、この難事業をこなしていった。

「ったく、いい御身分だよなっ、チーフはよ。部下の男2人を傅(かしず)かせて自分は素知らぬ顔ときてる」
「いいだろっ、散々触りまくったんだ。もとは充分とっただろっ」

 木之下の言葉に川瀬もニヤッと微笑み、それ以上は愚痴を言わなかった。

「では、いよいよ白雪姫のお目覚めだ」

 アンプルを片手に木之下が言う。

「頼むぜ、間違っても魔女の方を起こしちまわないようにしてくれよ」

 横で川瀬が興味津々に覗き込みながら言う。
 そしてその目の前で木之下のアンプルが封を切られ、中の琥珀の液体が美咲の口に滴り落ちていったのだった。
 意識はなくとも口腔に落ちた液体は自然に喉に達し、そして口を閉じてやることで喉がゴクリと動いた。
 無事に体内へと運ばれていったようである。

「どれくらいで効果が現われるんだ?」
「しっ!」

 美咲から目を離さずに訊く川瀬に、しかし木之下は人差指を口の前に立てた。

「静かにっ。もうすぐだからっ」

 そしてその言葉が終わる前に、目の前で美咲の表情に変化が現われたのである。
 まるで魂を抜かれたようにボンヤリと開いていた瞳が閉じられ、頭痛でもするように眉間に深く皺が寄せられた。
 その変化に木之下の目が輝く。
 そして身を乗り出すようにして美咲に近づくと、その耳に語りかけたのだった。

「チーフッ、目覚めです・・・チーフ、もう目を開けられます・・・」

 緊張のため掠れたような声だったが、それは確かに美咲の耳に吸い込まれた。
 すると、途端に美咲の顔に生気が戻る。
 そしてまるで本当の朝の目覚めのように大きく息を吸い込むと、美咲はその場で体を伸ばしたのだった。
 2人の部下はまるで死者が蘇ったような、不思議な感動を覚えて美咲の目覚めを見詰めていた。
 しかし・・・

 伸びをするように頭上に上げていた両手が、その時いきなり川瀬の顔面に叩きつけられた。
 そしてそのまま真後ろに押し退けられる。

「うわっ」

 川瀬は全く予期していなかった攻撃に、車のシートから転げ落ちた。
 そしてそんな川瀬を唖然と見ていた木之下も、ほぼ同時に美咲の蹴りを首に受け川瀬の隣に仲良く尻餅をついたのだった。
 そして見上げる2人の視界に、シートの向うから頭を押さえた美咲がゆっくりと姿を現したのである。
 眉間には深い皺が刻まれている。

「なにっ!何なの一体っ!アンタ達、何をしたのよっ!何処よ、ここはっ!」

 頭痛を我慢してるような顰め面で美咲を2人を睨みつけた。
 自分が居る状況がまるで掴めないのだ。
 能無しと蔑んでる2人の部下が呆れたように見上げているその表情が妙に腹立たしかった。

「何を黙ってるのっ!!チーフに訊かれたらさっさと報告しなさいっ!クラスレスでも報告くらいできるでしょっ!愚図っ」

 きつい言葉がポンポンと跳び出る。
 けれどそれで腹の虫が治まるどころか、益々怒りが湧いてくる。
 腹の奥で熱い怒りが沸騰していた。
 ムッとした表情で睨み返す川瀬も、ご機嫌伺いの苦笑いを浮かべる木之下も同じくらい腹立たしかった。

「ここは、さっきのマンションから15分ほど北上した場所っす。取り敢えず人目につかないように河原に乗り入れました」

 木之下が美咲の機嫌を伺うようにゆっくりとそう報告する。
 けれど美咲はまた顔を顰めた。

「さっきのマンション?・・・」

 その言葉と同時に脳裏にそのマンションの外観が浮かんだ。
 けれどそれが何の案件に関係しているかが浮かばない。
 ただ、思い出しただけで腹の奥の怒りが益々強くなる事は自覚できた。

(何かがあったんだ・・・そのマンションで何かがあったんだっ)

 体の中で怒りのマグマが煮えたぎっている。
 背中と後頭部が同時に熱くなった。
 そしてその熱が鈍っていた脳細胞を力づくで動かし始める。
 記憶の断片が一斉に蘇り始めた。
 そして、そんな美咲の内心などまるで気付かずに、木之下は言葉を続けたのだった。

「えぇ、蘭子さんの配下が尾行していた男が入っていったマンションですよ。で、チーフが単独で潜入したんですよね。マインド・サーカスの奴隷にされてる被害者の救出に・・・」

 しかし、そこまで口にしたところで木之下はいきなり言葉を飲み込んだ。
 木之下を睨みつけるように報告を聞いていた美咲の目が、突然大きく見開かれたのだ。
 そして大きく息を吸い込んだと思うと、一瞬にして顔面を蒼白にして叫んだ。

「マインド・サーカスッ!!!」

 両手で頭を抱え、体を凍りつかす。
 目は宙を見詰めていたが何も見てはいない。
 脳裏には、一瞬にして蘇った場面が次々と写し出され、耳には忘れられない言葉がリフレインする。

『お前の催眠など通用しないのだよ。お判り?』
『・・・わたしは・・・催眠に掛かったふりをしています・・・』
『はっ、離れなさいっ、離れるのよぉっ!私のなんだからっ、私の男よっ、盗るんじゃないわよぉっ!』
『あ゛~っ、はやぐっ、はやぐぅ』

 自信たっぷりに宣言した僅か数分後には完全に敵の催眠に嵌っていた自分がいた。
 嘘みたいに簡単に操られ、まるで娼婦のように自ら全裸となったのだ。
 敵の男のペニスを口にし、自ら進んで体を開いた。
 そしてセックスの快感を得るために、何の躊躇いも無く秘密を洩らしていたのである。

「ちっっ!違うぅぅぅぅぅううううううううううううう!!!違うっ、違う、違う、違うっ!!こんなの私じゃないっ!違うっ、絶対に違うっ!!!」

 尻餅をついた2人が見上げるその前で、美咲は狂ったように大声で喚いた。
 両手で耳を押さえ悪夢を振り払うように頭を激しく振る。
 そこには、いつも2人を見下していた自信過剰の女はいなかった。

「ったく、るせぇ女だ」

 川瀬が木之下にだけ聞こえるようにボソッと呟く。
 木之下は目だけを川瀬に向けて、微かに首を横に振った。
 只でさえパニクってるのに、ここで怒りを買ったらそのとばっちりが全部丸ごと纏めて自分たちに降りかかる事は火を見るより明らかである。
 しかし、その木之下の配慮は結局無駄に終わることになった。
 まるで2人の鼓膜の強度を測ろうとしているような物凄い叫び声がその時上がったのだ。

「ああああああああああああああああああっっ!!」

 度肝を抜かれた2人は目を丸くして見上げる。
 すると、まるで幽霊にでも出会ったような蒼白な顔で美咲が2人を見詰めていたのだ。

「っくっ・・・きぃっ・・・」

 言葉なのか呼気なのか判らない声が毀れでる。

「っな、なんスかっ」

 思わず問い掛けた木之下に、しかし美咲は返事もせずに背後に視線を向けた。
 そしてシートの上に散乱している自分の持ち物には目もくれず、隅に転がっていたバッグに飛びつくように手を伸ばしたのである。

「なんだ?いったい・・・」

 一瞬視界から消えた美咲に2人は目を見合わせた。
 けれど、再び現われた美咲の右手に握られているものを見たとき、2人の表情はまるで先程の美咲のモノマネをしているように目を剥いていた。

「出ろっ!表に出るんだっ!」

 そう命令する美咲の手には自動拳銃が握られていたのである。

「うわっ!ちょ、ちょっとっ、なんスかぁっ!!」

 2人同時に腰を浮かす。
 けれど、向けられた拳銃自身より狂気の宿る美咲の目に怖れをなした2人は、言われるまま競うように外に跳び出したのである。
 外はまだ雨が降り続いている。
 真冬の氷のような雨粒が忽ち2人の全身に振り注ぐ。
 けれど今の2人にはそれを気にする余裕はなかった。
 ドアの開く音に振り向いた目に、2人を追うように出てきた美咲の姿が映ったのだ。
 車のスモールライトを反射してキラリと光る拳銃が、まるで死神の振るう鎌のように思えた。

< つづく >

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