Tomorrow is another 第三話 入館

第三話 入館

 意識が浮上していく感覚。
 まだ目覚ましも鳴る前の時間。瞼も閉じているにも関わらず、意識がはっきりと覚醒していくのが手に取るようにわかった。
 昨日は色々あって、結局布団に入ったのは日付変更してからだ。それよりも早く寝ている普段ですら、目覚ましが鳴らないと自力で起きれなかったのに、今日はどうしたっていうんだ。
 閉じている瞼越しに、部屋の中が明るいことに気付いた。これくらい明るいとなると……七時か、八時か。
 ――寝坊だ。
「しまったぁっ!」
 毛布を跳ね飛ばして身体を起こしつつ、寝巻きを脱ごうとして――
「…………」
 俺の動きは止まった。
「ここは、どこだ……?」
 俺は、見たこともない部屋にいた。
 下を見る。と、やはり見たこともないベッドがあった。
 床は柔らかそうな茶色のカーペット、大きな窓には赤いカーテンがかかっており、強すぎる陽光を透かしている。
 上を見上げて、自分が寝ていたベッドが天蓋付きということに気付いた。天井には細かい装飾が施されており、小さな、だけど立派なシャンデリアがぶら下がっていた。
 とにかく一言で言うならば、立派な部屋だった。
「どこだ、ここは」
 呟いた瞬間、

 ジャッ

「っ!」
 勢い良くカーテンが引かれ、俺は驚きに目を見張りながらも窓を注視した。
 そこにいたのは――
「おはようございます。既に起床の時刻はとうに過ぎております。早々にお目覚め下さい」
 カーテンを纏めながら、淡々と告げる雪美ちゃんがいた。
 雪美ちゃんの様子が普段と少し違うのだが、着ている服が少しどころではなく違っていた。
 長袖の真っ黒なブラウスを着ており、フレアのスカートも墨を落としたような漆黒で、裾は足の脛ほどまでを覆っている。ここからでは良く見えないが、ブラウスには何やら細かい刺繍がなされているようだ。エプロンは白で、肩や前掛け部分にフリルがついている。頭にも白いカチューシャをしており、手には白い手袋。
 これでもか、というくらいのメイド服だった。
「雪美ちゃん?」
「はい、なんでしょうか」
 やはり無表情で応対する雪美ちゃん。とてもあの人懐っこい笑みを浮かべていた娘と同一人物とは思えない。
「え……と」
 聞きたいことがありすぎて、言葉が出て来ない。
「用件が無いのでしたら、無闇に呼び止めないようにお願いします。それと、私のことは雪美、と呼び捨ててお呼び下さい。親しげに振る舞っていては、他の者に示しがつきませんので」
 ぴしゃり、と有無を言わさぬ口調で言われ、俺は頷くしかなかった。
 ……雪美ちゃんがとてつもなく大人びている。実際、立ち居振舞いなど俺なんかよりも全然年上に見える。一体どうなっているんだ?
 俺が見てい中で、雪美ちゃんはベッドの正面にあったクローゼットから、黒いスーツの上下、ワイシャツ、ネクタイ、靴下に革靴に果ては下着まで、次々と取りだし、ベッドの上に並べていく。
「着替えはご用意しておきましたので、お着替え下さい。では、私は失礼させていただきます」
 雪美ちゃんは一礼すると歩き出し、ドアの前でもう一礼して部屋から出ていってしまった。
 取り残される俺。
 あー……。
 一番重要な疑問点、ここがどこなのか、尋ねるのを忘れていた。
 まあ、着替えろと言われたのだし、着替えるか。というか、他にどうすればいいのかが思いつかない。
 とりあえず寝巻きを脱ぎ、下着を着替える。サイズはピッタリだ。次いで靴下、その後にワイシャツ、ズボン。やはり計ったようにピッタリである。そしてネクタイに手を伸ばして、その動きを止めた。
「……うーん」
 そういえば、俺、ネクタイって締めたことねえんだよな。どうしよ――って、ネクタイの下にループタイも置いてあった。これなら簡単だ。なかなか気が利いてるな。
 ループタイを襟に通し、最後にスーツを羽織って着替え完了。クローゼットの中にあった姿見で、服装をチェック。スーツなんて初めて着たけど、着心地はまあまあ悪くない。ただ、似合っているかどうかは別問題なわけで。
 さて問題です。見知らぬ人が俺を見たら、どんな職業に就いていると思うでしょうか?
 1番、ヤクザ。
 2番、葬儀屋。
 3番、シークレットサービス。
 ……あからさまに1だな。贔屓目に見てガラが悪い。正当な評価は……したくないなあ。
 それに、1の選択肢もあながち的外れでもない辺りに、救いがないというかなんというか。
 さて。着替えたけど、これからどうすればいいんだ?

 コンコン

 まるで計ったようなタイミングでノックがした。……ドアの外で聞き耳立てていたいたんじゃないだろうな。
「どうぞ」
 部屋に入ってきたのは、およそ人とは言える代物ではなかった。
 人型の黒い靄だ。向こうが透けて見えている。
「あんたか」
 ……にも関わらず、俺は全く動揺していない。まるで知り合いを部屋に招き入れたような気分で、平然として受け止めている。黒い靄がノックしてドアを開けて入ってくるなんて異常だ、と思っているにも関わらず、だ。異常を異常としてまるで認識できなくなっている。
「用意させた部屋は気に入ったか?」
 黒い靄が口をきいた。その声は、頭に直接響くような声だった。年老いた女性のようであり、少年のようでもあり――年齢はおろか、性別すら判別できない不思議な声だ。
「あんまし。派手っつーか、豪華すぎて落ちつかない」
 声に関しても、俺はすんなり受け入れられていた。疑問は浮かぶのだが、それは夕飯を何にしようか決めかねている程度の、とても些細なものだった。
「そうか。だが、館長候補ともあろう人間の部屋を、質素にするわけにもいけないからな。許せ。……部屋を替えてくれ、という命令であるというならば、私としても早急に対応するが?」
 横柄な口調だったが、俺にとってはそれが逆に気安くてよかった。
「んな大袈裟な」
 俺は手を振って否定した。それでは二度手間で、余計に迷惑をかけることになる。
 ……で、俺はどうしてこんな世間話をしていられるんだ?
「なあ、あんたは俺のことを知っているのか?」
「当然だよ、山崎拓真殿」
 黒い靄が慇懃にお礼している。つくづく奇妙な光景なのだが、相変わらず俺の心は落ちつきっぱなしだ。
「だったら、ここは何処だ? まさか、夢……なのか?」
 自分で言っておいて、俺はこれが夢だとは信じられなかった。だが、現実とも思えない。
「そういえば、さっき俺を館長候補とか言ったよな? どういうことだ?」
 次から次へと投げかける疑問に対し、「まあ待て」と黒い靄が制止した。
「そういった諸々の説明をするために、私はやってきた。それでは、順番に説明致しようか」
 黒い靄は両腕を広げ、歌うように告げる。
「ここは、放浪大図書館。この大図書館が生まれてから今現在までの、あらゆる記録を保存している知識の宝庫だ。あらゆる記録なのだよ。地球の歴史、人類の歴史、国の歴史、都市の、町の、村の、一家の、一人の歴史。それらを地球規模で残している場、と考えてもらって結構だろう」
「地球規模って……そんな馬鹿な」
 あまりにも壮大な話すぎて、想像力が追いつかない。
「もちろん、山崎殿個人の記録もあるが――」
 いつのまにか、黒い靄は手に分厚い本を持っていた。
「――納得するまで朗読してもよいが?」
「いや、そこまでしなくてもいい」
 信じてはいない。信じてはいないが――俺が今置かれている現状は常軌を逸しているのは間違い無い。どんな不可解な事実があっても、俺は受け入れるしかない。第一、俺の当面の問題はそういうことではない。
「それで、ここは何処だ?」
「ここは放浪大図書館と申しているだろう」
「そうじゃなくてだな、住所というか、とにかく建っているのは何処だって話だよ」
「なるほど、そのような質問か」
 合点がいったというように、黒い靄が頷いた。
 どうでもいい話なんだが……お前の首はどの部分だ。
「放浪大図書館は、現実に存在している建造物ではない」
「やっぱり……」
 なんとなく予想がついていた俺は、ショックは受けたものの取り乱すほどではなかった。
「だが、この放浪大図書館が夢の産物、というわけでもない。現実からは決して到達することは出来ず、されど確かに存在する。それが放浪大図書館なのだ」
 次第の不安になってきたので、早々に最重要問題について訊ねる。
「それで、ここから元の場所に帰ることは出来るのか?」
「なにか勘違いをしているな。山崎殿本人は身動き一つしてはおらんよ。ちなみに今現在は――」
 持っていた本をパラパラと捲り、
「――自室のベッドで就寝中の様子だ」
「は? いや、俺はここにいるだろ?」
「混乱させると思い説明を省いていたのだが……、放浪大図書館にいる山崎殿は、厳密に言えば山崎殿本人ではない。そうだな……精神の存在と申せばよいか」
「俺が……この身体が精神だって? こんなに現実感があるのにか?」
 俺は自分の腕を触り、さすった。皮膚をつまんでみたり、つねってみたりするが、どれも現実としか思えない感触だ。
 俺の様子に黒い靄が、やれやれ、といった風に肩を竦めた。……なんかムカツく。
「現実の尺度で計っていては、いつまでたっても理解はできんよ。こうなると思ったので、説明を省いていたのだが」
 納得いかないが、事実なので言い返すことができない。
「だったら、現実の俺が意識を取り戻すにはどうすればいいんだよ」
「そのベッドで就寝すれば、現実世界への帰還となる」
 しごくあっさりと、黒い靄は告げた。
「はーっ……なんだ、簡単なんだな」
 俺は緊張と脱力をため息と共に吐き出した。
 そんな俺の様子に、黒い靄は咳払いを一つ。
「話が随分とそれたな。説明に戻らせてもらう。山崎殿が放浪大図書館を訪れた時点より、山崎殿の身分は館長代理となっている。これより放浪大図書館で活動している期間、山崎殿は真に放浪大図書館の館長と相応しいかどうかの試験期間ということになる。みごと館長になったあかつきには、この放浪大図書館他、全ての施設、人員は館長の所有物となり、言わば山崎殿は放浪大図書館の王となる。試験期間は、不合格になるまで。試験内容、合格基準などは一切説明することはできない。それでは、館長の座を目指して頑張ってくれ。説明は以上だ」
 話は大体理解できた。理解できたが、実感が全く伴わない。それも無理のないことだと思う。起きてみれば知らない場所で、俺の心の準備もクソも無いままに常識の外側にやってきてしまったわけだ。そして今度は館長試験を受けろ、と言う。
「そうか。わかった」
 俺は気のない返事をした。
 俺の最大の関心が『どうすれば元に戻れるか』だったわけで、館長だなんだという話は、なりたい以前の問題なのだ。今はとにかく元の場所に戻りたい。それだけなのだ。
「……それだけか?」
 黒い靄はどことなく不服そうだが、実際、俺にとってはあまり興味の無い話なのだから仕方がない。
「俺は館長とかそういうのには向いていないんだよ。いい。ギブアップ。試験降りる。とっとと不合格にしてくれ。つーか寝るわ。明日も朝早いし」
 俺はベッドに身体を倒すと、そのまま布団の中に潜りこむ。
「試験を拒否することは出来ないぞ。不合格が決まるまでは、山崎殿は毎晩放浪大図書館を訪れることになるのだ」
「こんなことを毎晩かよ……勘弁してくれ」
 頭まで布団の中に潜りこませて、げんなりと呟いた。
「別にいいって。いや、マジでさ、俺やる気ないんだって。他の奴を選んだ方が早いぞ、絶対」
「それは不可能だ。山崎殿は選んだのだ。自らの意思で、館長となる試験を受けることを。誰も、何者も、候補者選択に介入することはできず、誰もが自らの意思で試験を受ける道を選ぶ。それは、最初にして最後の館長が定めた、永遠不変の不文律なのだ」
 布団から頭を出し、うんざりした目で黒い靄を見た。
「俺が、自分で選んだって? んなわけあるかよ。俺はこんな図書館があるなんて、今まで知りもしなかったんだぞ。今も夢じゃないか疑ってるくらいだってのに」
 一瞬、黒い靄が大きく膨らんだ。すぐに元に戻ったものの、靄の輪郭が認識しずらくなっており、ゆらゆらと揺れている。不愉快という感情を全身で表わしながら、吐き捨てるように言った。
「……それは、偶然と必然、運命という名の忌々しい二本の鎖の仕業。知る知らないなど二の次以下の問題。山崎殿は自ら選び、この場にきた。偶然か、必然か、それは誰にも判別のつかないこと。全ては、大宇宙の意思が書いた筋書きをなぞっているだけなのかもしれないがな……」
 しばらくして、黒い靄は落ちついたようで、元の形に戻り、輪郭も戻った。
「しかしながら、館長と突然言われても魅力を感じられないのはもっとものところ。まずは放浪大図書館の素晴らしい施設を見学してみてはどうだ? 館長代理である今の山崎殿も、館長とほぼ同等の権限は持っているのだから、それを試してから考えてもよいのではないか?」
「んー……まあ、な」
 正直、この場所に興味が無いといえば嘘になる。初めての奇跡体験に、戸惑いやら混乱から立ち直った後には、強い好奇心が胸に渦巻いていた。
「それでは、まず――」
 黒い靄は、やはりどこから取り出したのか、掌に収まるほどの小さな銀色のベルを手にしていた。
軽く揺らす。

 チリチリチリチリィ――――――

「新藤香住」
 細く高い音色が響き渡る中で、誰かの名を呼んだ。
 ベルの余韻が耳の中から消え去って、すぐ。

 コンコン

「入れ」
 ノックに黒い靄が応えると、ドアが静かに開かれた。
「失礼します。お呼びでしょうか」
 入ってきた少女、彼女がおそらく新藤香住なのだろう。雪美ちゃんが着ていたのと同じメイド服を着ており、前髪も後ろ髪も切り揃えられたおかっぱで、肩の上で揺れている。目がぱっちりとしており、にこにこと笑っている。楽しそうな、というか華やかなオーラを纏っていて、見た感じでは良い娘そうだ、と思ってしまう。 黒い靄が近づいてきて、手に持っていたベルを俺に渡した。
「持っていろ。このベルが鳴っている間に名前を呼んだ者は、どこにいようともすぐにベルの持ち主の元にやってくる。放浪大図書館は広大だ、探して歩くのは時間の浪費にしかならない」
「こいつは便利だな……」
 しげしげとベルを見つめながら、俺はベルをポケットにしまった。そして布団の中から出て、ベッドに腰かける姿勢をとる。初対面の人間を前にして、このまま横になっているわけにもいかないだろう。
「彼女で説明するから、しっかりと聞いていておけ」
 黒い靄の言葉に、新藤は不安げな顔になる。
 ……何かはじまるのか?
 俺の疑問をよそに、説明がはじまった。
「従業員は、館長代理の命令には絶対服従する。命令は、どんなことでも可能。本人の意思とは関係なく、強制的に従わせることが可能となっている」
「は?」
 言っている言葉の意味がよくわからない。強制的に? どういう意味だ。
「どんな命令でもというのは、まさしくその通りの意味で、だ。出来る出来ないではなく、命令通りに命令対象が変化する、と考えた方が理解は早いだろうか。命令の効果は、命令対象の想像力に委ねられる。命令の範疇内ならば、命令対象によって結果は様々に変化することも多い。望み通りの結果を引き出したいのであれば、仔細に命令するのが確実だ――では、実践しながら説明しよう」
 おそらく、困惑が顔に出ていたのであろう。黒い靄がそう言って、新藤に向き直った。そうすると、彼女は顔を青ざめさせて、ふるふると小刻みに震え始めた。
 俺は命令云々よりも、彼女の尋常ではない怯え方の方が気になっていた。
「おい、何をするつもりだ?」
 俺の言葉を無視する形で、黒い靄は命令を下した。
「接続――新藤香住」
 彼女の震えが止まった。
 止まったのはそれだけではない。瞬きも、呼吸も、なにもかもだ。彼女の全てが止まっている。静止ボタンを押した瞬間を目の当たりにして、俺は息を呑んだ。
「接続、という言葉のあと、命令したい対象の名前を呼べ。そうすれば対象の動きが止まり、この間に命令した内容は全て実行される。……そうだな、山崎殿、好きな動物はなんだ?」
「え……猫、かな」
 新藤の変化に呆然としていた俺は、反射的に黒い靄の問いに答えていた。
「では、新藤香住、猫になれ。切断――新藤香住」
 黒い靄の言葉が終わった瞬間。それこそ瞬きの間に少女は猫の姿へと変化していた。
 一匹の茶トラが、行儀良くおすわりの姿勢で俺を見上げてくる。
 にゃー、と猫が鳴いた。
「嘘、だろ……?」
 驚きのあまり、言葉が喉でつっかえて、うまく喋ることができない。動悸が早まり、呼吸が荒くなる。
 なんでも命令できる、という言葉の大きさに、寒気が走った。
 なんて……恐ろしい。
「命令が終わり次第、切断という言葉のあとに対象の名前を呼べ。その直後に命令は実行に移される。五感や肉体の一部、もしくは全部を変えることは可能だし、もちろん仕事や動作の命令もできる。感情も記憶も、どのようにでも命令できる。ただし――命令も万能ではない」
 と、前置きして続ける。
「命令には有効期間というのがある。命令者が退館すると、命令は全て無効となる。そして、私に命令することは不可能。もちろん、私も山崎殿には命令できない。私たちの立場は対等だからだ。もう一つ。命令対象の記憶は決して消えない、ということだ。命令をすれば一時的に忘れさせることも可能だが、記憶を消去する、という命令はできない。全て、命令された側は記憶する。そのことを踏まえた上で、放浪大図書館での生活を、試験の日々を、過ごしていけばいい」
「…………」
 目が覚めてから、今のが一番驚いた。現実ではない、という言葉がこれほど分かり易い形で証明されたのだ。
 息苦しい。口を開けて、深呼吸をする。
 落ちつけ。
 落ちつけ。
 落ちつけ。
 心の中で繰り返し呟く。
 にゃー、と猫が鳴いた。
 その声にはっとする。衝撃の大きさに、新藤のことを忘れていた。
「おい、そいつ――新藤を元に戻してやれよ!」
「そう思うのなら、山崎殿が元に戻せばいいだろう」
「俺に!? 本当に、そんなことが出来るのかよ……」
「それを試すためにも、命令すればいいではないか」
 確かに。いや、だがしかし――
 俺は、命令するのが怖い。なんでもできる力なんて、俺は持っていたくはない。命令すれば、力があることをはっきりと自覚してしまうことになる。
 果たして、自制できるだろうか?
 暴走してしまいそうで、そうなってしまったら、と考えるとどうしようもなく怖い。
 にゃー、と猫が鳴いた。
 鳴き声に目を向けると、猫の瞳とが合った。哀しそうに目を細めたのは、果たして目の錯覚か、思い違いか。
「くそったれ」
 自分の置かれている現状に対して毒づき、覚悟を決める。
「接続、新藤香住」
 猫の動きが止まった。
 俺は、本当に、大丈夫なんだろうか……?
 一抹の不安を残したまま、命令を下す。
「元に戻れ――切断、新藤香住!」
 猫の姿が消え、代わりに人の姿が現れる。
「あ……」
 新藤が、自分の腕を見て、肩を触り、胸を叩いた。そうして、心底ほっとしたような顔になる。そうして俺に向き直り、深深とお辞儀をした。
「ありがとうございました」
「やめてくれ」
 俺は手を振ってお辞儀をやめさせる。こんなことで礼を言われるのはおかしい。そもそも悪いのは、この黒い靄なのだ。
 命令で、本人の意思など関係なく従わせる――
 命令されるのも、するのも、俺は好きじゃない。
 俺の意思とは無関係に従わせられる、というのが気に食わないし、自分の気に食わないことをするなんて、まっぴらごめんだ。
 なんだ? こいつは。どうして平気で人にあんなことが出来る。
 なんなんだ? ここは。上に立った奴はまさに好き勝手に従わせられることができるなんて。それこそ王様なのか? 王様なら、こんなことが平然と許されるのか?
 酷く、イラついた。
 俺の好きじゃない諸々を容認してしまう、この世界が気に入らない。
 黒い靄を睨みつけ、低い声音で呟いた。
「お前……どういうつもりだ?」
「どう、とは?」
「こんなことをして、いいとでも思ってんのか?」
 俺は立ちあがり、黒い靄に詰め寄っていく。だが、俺の怒りなど、黒い靄は全く意に介さない。
 黒い靄が人型を崩し、俺の体にまとわりついてきた。
「それは、館長が決めること。正義も、悪も、罪も、救済も、全ては館長の意思のまま。我々は、館長の召使。我々は、放浪大図書館の備品。我々は、記録の奴隷――」
「くそ、離れろっ!」
 俺が腕で払うと、靄はその場で拡散した。拡散して広がってゆき、隙間だらけな出来損ないの繭のように俺を包み込んだ。
「――なにを恐れている?」
 瞬間、俺は無意識に手を出していた。
「なっ!?」
 再び黒い靄を払おうと腕を振ったが、腕が靄に絡まり、抜けなくなってしまった。
 絡まった部位から、黒い靄が全身を飲みこんでいく。肘、肩、胴、そして全身へ。感触は何も無い。だが、黒い靄に捕らわれた部分から感覚が無くなり、動かすことも出来なくなっていく様は、俺の恐怖心を煽り、容易く恐慌させた。
「くそっ、くそっ!」
 全身に力を入れる。腕を、足を、頭を、力任せに動かした。
 俺の抵抗を無意味とあざ笑うかのように、靄の侵食は一定のスピードで広がっていく。
 頭を残して、全身を覆われるのには、さほど時間は必要なかった。
「なにを恐れている」
 身体の内から響いてきた声が、俺に身体の主導権を奪われた事実を改めて突き付ける。
「っ……」
 首が動かなくなった。靄が、とうとう首に達したということだ。瞳を動かして、なんとか靄を見ようと必至になる。見たところでどうにか出来るわけではないのに。
 先ほどの立ち位置から一歩も動かず、新藤が俺を申し訳なさそうに見ているのに気付いた。
 お前が悪いわけじゃない。気にするな。
 そう言おうとして、唇の感触すら無くなっていることに気付き、ぞっとする。
「なにを恐れている」
 俺の眼前に、黒い靄の塊があった。これは、頭だろうか。瞳から頭の中を覗き見られているような錯覚に陥り、俺は心を緊張させて、頭の中を駆け巡る怖気が表面に出ないようにこらえた。
「……自分に恐れているな?」
 違う。恐れているのはこの現状。
「……自分の内面に、恐れているな?」
 それも違う。この全身の感覚を奪われ、自分の身体を自由に動かせられないこの事実。
「……欲望。それも性欲か。命令で女性を意のままに操り、性欲をぶつけてしまうことを、恐れているのか」
 全然違う! そんなことはない!
 否定したくても俺は言葉を発せず、拳で判らせることもできない。
 このままでは駄目だ。
 俺は目を逸ら――
「――――!」
 俺は心の中で悲鳴をあげた。
 逸らせない。瞳が動かない。それどころか、瞬きすらできない。
 既に俺の身体に、動かせられる部位など残っていなかったのだ。
 黒い靄が、独白のように、語りかけるように、言葉を続ける。
「山崎殿は忘れたふりを、気付かないふりをしているな。自分の中に眠る巨大な欲望を、悔恨という箱に詰め、意地という鍵をかけ、溢れ出さないように自ら封じこめた。それは性欲を押さえこむため。だが、言い替えるならば、そうまでしなければ自分では押さえつけられないほどの欲望を、内に秘めているということになる」
 黙れ!
 さっきから何が言いたいんだお前は!
「その欲望、解放してやろう」
 ……なんだって……?
「説明したとおり、山崎殿は仮初めの王となった。ここでは、山崎殿の思い通りになされる。全てが、山崎殿の為に。全てを、山崎殿の為に。全ては、山崎殿の為に。放浪大図書館は、全ての欲を受け止められる。性欲、食欲、睡眠欲、知識欲、物欲、財欲、支配欲、独占欲、生存欲、名誉欲、自己顕示欲。山崎殿が望むようにすればいい。思うが侭に出来るという誘惑を、跳ね除けられる者など――いない」
 そんな事知ったことか!
 俺は、そんなことをしたくないんだ!
 くそっ、いいから離せこの野郎!
「遅かれ早かれ、山崎殿は欲望を解き放つことになるだろう。それならば、終わりの無い辛く孤独な葛藤との闘いなどせず、今すぐに心も身体も存分に満たせばいい」
 お前に決められる筋合いなんてねえ!
 俺の事を決められるのは、俺だけだ! 
 お前の言いなりになんて、絶対にならねえぞ。
「接続――新藤香住」
 新藤が硬直した。
 ……まずい。
 嫌な予感がみるみる膨れ上がってくる。
 駄目だ。絶対に、駄目だ。
 放浪大図書館にいる人間を、誰でも、言いなりにできる。なんでも、できる。だから、俺は恐い。
 悔しいが、黒い靄の言う通りだ。
 一度でも欲望に流されてしまえば、おそらく、二度と、俺は放浪大図書館でこの欲望を自制することなどできなくなるだろう。
 俺が欲望をぶつけるのは、恋人でなければならないと決めていた。それはつまるところ、彼女さえ作らなければいいという、安全装置のようなものだ。
 これは制約だ。
 この制約を破れば、俺は二度と自分を許すことが出来なくなる。
 この制約を破れば、俺は二度と戦う意思が持てなくなる。
 この制約を破れば、俺は二度と自分が好きになれなくなる。
 先に待っているのは、堕落だ。一度でも落ちれば終わりと決めた。
 決して引くことのできない背水の陣。だからこそ、俺は俺を強く持てる。
 これは俺の意地であり、そして、俺の親父に対して唯一できる当てこすり。
 どうだ、見たか親父。俺はお前の世話になんかならない方が、よっぽど立派な人間になれるぜ。
 そう言い続けるための、意地なのだ。
 そして、嫌な予感は現実となってしまった。
「新藤香住、山崎殿に性的な奉仕をしろ。唇を吸い、性器を愛撫し、お前の全身を使って山崎殿に快楽を与えろ。そうだな……」
 言葉を切り、何か考え込むように黙した後、とんでもないことを言い出した。
「山崎殿に奉仕をすればするほど、お前の心は歓喜に包まれる。この歓喜を一度でも味わえば、お前は飢える。次々に歓喜が欲しくなり、歓喜を与えてくれる山崎殿が愛しくなる。愛しい人の為、お前は山崎殿の為に更なる奉仕を続ける――切断、新藤香住」
 新藤の瞳に意思が戻った。
「あ……」
 新藤は俺を見て、辛そうに目を伏せ、
「ごめんなさい……」
 謝りながら、一歩、踏み出した。
 マズい。
 マズいマズいマズい。
 一番マズいのは、これからの展開に期待し始めている俺自身だ。
 身体は相変わらず動かない。抵抗することもできない。
「悪いのは、私ですから……、山崎さんは、悪くないですから……」
 ゆっくりと、一歩一歩をしっかりと踏みしめるようにして、新藤が近づいてくる。
 違うだろ。悪いのは全部この黒い靄だろ。さっきからどうして新藤が謝っているんだ。そう言いたかったが、もはや人形と化している俺に意思の疎通をする手段はなかった。
 とうとう、新藤が目の前に立った。ちょうど俺の唇くらいの高さに、彼女の額がある。
 彼女はそっと俺の身体にもたれかかった。頭を俺の肩に預け、じっとしている。新藤の髪からはいい匂いがした。シャンプーの匂いだろうか。呼吸は少し荒い。
 やがて身体を離すと、恥ずかしさと緊張とすまなさが入り混じった複雑な表情で俺を見た。
「あの、目を閉じてもらえませんか……?」
 そうしたいのはやまやまだが、俺の身体はもはや俺のものではないのだ。
 俺が微動だにしないのに狼狽した様子だったが、やがて意を決した様子で表情を引き締めた。
「……いきます」
 瞼を閉じ、背を伸ばして爪先立ちになりながら、彼女が唇を近づけてくる。
 俺の肩に手を添えて、彼女は俺にキスをした。
 唇に当たる、柔らかい感触。
 ……感覚が戻っている!?
 くそ、余計なことをしやがって。
 ゆっくりと、彼女は顔を離した。顔を真っ赤にさせて俯く仕草がなんとも可愛らしい。
 だが、今の俺にとっては彼女の可愛らしさ、愛らしさ全てが禍禍しい凶器のようだった。理性の皮を一枚一枚剥いでいく、まるで鋭利な刃物だ。
「……あの、次はどうすればいいんですか?」
 彼女が、少し身体を縮こまらせながら、恥ずかしそうに訊いてきた。
 ……何も知らないのか?
 本当に?
 今時希少な……いやいや、この場合は好都合だ。命令は当人の思考に委ねられるようだから、彼女が何も知らないのならば、新藤にできるのはキスだけだ。これくらいなら、耐えきれる自信がある。
「ならば、私の言う通りに動け」
 黒い靄が、余計なことを言ってくれた。っつーか、こいつはさっきから余計なことしかしていない。
 状況は悪くなるばかりだ。
「もう一度、キスをしろ」
「は、はい」
 新藤は顔を赤らめながらも、今度は俺の目を見つめたまま顔を近づけてくる。
 触れ合う唇。
「そうしておいて、山崎殿の口の中に舌を入れろ」
「!」
 唇を割って、彼女の舌がゆっくりと差し込まれてきた。おずおずと、様子を見るかのように俺の舌に触れ、引っ込んだ。そしてまた差し込まれ、今度は舌に触れたまま止まる。
 なんだか不思議な感覚だ。唇と舌に当たる柔らかくて、温かい物。
 とにかく、女の子の舌を口に含んでいる、というシチュエーションだけでも興奮してくるのを止められない。
「止まるな。相手の口の中で舌を動かせ。口の中を、舌を、歯や歯茎を舐め上げろ。舌や唇を吸え。山崎殿の唾を飲め。自分の唾を流しこめ。自分で考え、工夫しろ」
 黒い靄の命令通りに、彼女の動きが見る間に多彩になってしまった。
 俺の舌に彼女の舌が絡みついてくる。執拗に舌をいじった後、下を吸う。上唇を舐め上げ、軽く吸う。
「ちゅぅぅぅぅっ……ふむっ……んううっ……ぷあっ。ふう、ふう……んんっ」
 呼吸が苦しいのか、時々唇を離して息継ぎをし、それまでよりも強く唇を吸う。
 微かな声。小さな水音。普段よりもはっきりと聞こえる吐息。
「ちゅっ……ん、ちゅ……ふうぅぅ……んむっ」
 俺の口も彼女の口にも唾液が貯まり、いやらしい音を奏で出す。
 舌に舌を絡ませ、口の裏を舐め上げる。歯茎や歯の一本一本を丁寧に舐めると、俺の顔を傾けて、口から垂れる唾液を舐め取ることに夢中になった。
「ぺろ……んん……ぺろ……れろ……んんっ、ぴちゃっ、んん~~~~っ」
 舐め取るだけじゃ満足できなかったらしく、唇を塞いで俺の口内から舌で唾液を掻き出してきた。
「んむぅ、んむっ、ううん……んくっ……んくっ……んくっ」
 唾液をゆっくりと嚥下する。こくり、こくりと喉が動き、俺の唾液が新藤の身体に取り込まれる。
「ふう……」
 口を離すと新藤は蕩けた顔で、俺を見上げてきた。
 頬は上気し、唇は半開き。俺とキスすることに何のためらいもない、喜悦に満ちた顔。
「山崎さん……どうですか……? あたし、ちゃんと出来てますか……?」
 俺の胸に頭を預け、ほお擦りしてくる。甘えているようだった。
 その仕草に、俺の頭の芯は痺れた。可愛過ぎるのだ。
 今となっては、身体の自由を奪われていることを感謝しなくてはならないだろう。もし俺が自由になっていたら、現時点までで既に3回ほど彼女を抱きしめ、押し倒していただろう。
「山崎さん……山崎さん……。ああ……」
 俺の名前を口にするだけで、彼女はうっとりと幸せそうに目蓋を閉じる。
 あの「奉仕をすればするほど、歓喜に包まれる」という命令が効いているのだろう。新藤は奉仕することに対する嫌悪感も拒絶もない。受け入れ、むしろ奉仕することが好きで好きで仕方がない、といった様子だ。
 彼女の心は、既に彼女の物ではなくなっていた。
 命令によってそうなるべく操作されて、それでも今の彼女が本心から従ってこんな顔をしていると言えるだろうか。
 ……くそっ!
 俺は内心で何もできない自分を呪った。
 俺も、自分の欲望を押さえつけるのに必死なのだ。
 頭の隅で、キキキキ、ギギギギと金属が擦れ合う耳障りな音が鳴っている。一つは欲望、もう一つは理性。欲望は暴れだそうともがいているが、理性が全力で押さえつけているのだ。だが、ブレーキは既に外れかかっている。音が鳴っているのがその証拠だ。
 こういう状態の時、決まって黒い靄は余計な事を言い出すのだ。
「では、次は性器の愛撫だ」
 最悪な状況が、次の瞬間には更にその下を行く。
 黒い靄の言葉に期待してしまっている自分がいて、俺は愕然とする。頭の隅で、擦れ合う金属音がやかましさを増した。
「え……と」
「まずはズボンの上から性器に触れてみろ」
 黒い靄に言われるまま、新藤は掌を俺の股間へと伸ばす。ディープキスも知らないほどのウブな新藤が、もう男の股間に触れることに何らためらいを感じていないようだ。いや、男のではなく、俺の股間だからこそ、彼女はためらうどころか喜びを感じているのだろう。
 くっ!
 唐突に復帰した股間の感触に加え、掌の感触に痺れるような快感が広がる。
 それだけで、俺の理性は深く抉れてしまった。
 キスだけで充分に勃起していたソレを、新藤が優しく撫でる。
「どうですか……? これでいいんですか?」
 少し不安げに、彼女は訊いてきた。だが、質問しているのは俺なのか、それとも黒い靄なのか。
 やわやわと掌全体で送られてくる快感は、もどかしいほどに弱く、じれったい。だが、必ず今以上があるからこそ、その拙い愛撫に焦れる俺をますます興奮させる。
「チャックを開けて、下着の中から山崎殿の性器を取り出せ」
「はい」
 彼女はその場で立ち膝をつくと、

 ヂッ、ヂヂヂヂヂッ

 ゆっくりと、チャックが降ろされた。
 ファスナーの隙間から、指をパンツの中に入れられる。
 くうっ!?
「きゃっ」
 指が直接触れただけで、俺のソレがびくんっと跳ねた。
「凄い……、男の人のって、こんなに動くものなんだ……」
 一瞬ためらいはしたものの、すぐにソレを取り出す作業に移る。
 パンツの中で起立しているソレを優しく掴まれただけで、びくんっと跳ねる。だが、今度は彼女も手を離さず、ソレを外へ出そうとする。
 新藤は、大きくなっている男のソレをパンツの隙間から外に出す、なんてことは初めてなんだろう。手間取って、なかなか外に出せないでいる。
 うあっ!「えーと……、あれ?」
 痛ぇ!
「おかしいなあ……」
 ちょっと待て、無理すんな!
「んー……よいしょっ」
 痛い痛い痛たたたたたたたたたっ!?
 強引に外に出そうとされて、パンツに引っ掛かった亀頭にとんでもない圧力がかかる。刺激が強すぎて、痺れるような快感が痛みになって脳髄を焼く。
 パンツをずらして、どうにかモノを出した頃には、俺の精神はすっかり擦り切れてしまっていた。
「これが、男の人の……。山崎さんの……」
 彼女にまじまじと観察されて、俺は恥ずかしくなって身じろぎしようとした。相変わらず身体は動かず、俺は目を逸らすことすら出来ないまま、恥ずかしさに耐えるしかなかった。
 新藤が、両手でそっと俺のモノを包み込んだ。
 柔らかい手の感触が、俺の理性を切り刻む。
 うわあああ……。
 こんな感触なのか……女の子の手って……。気持ち良すぎる……。
「これを、どうすればいいんですか?」
「手で擦ったり、舐めたりしろ」
「……これを、舐めるんですか?」
 信じられない、といった様子で新藤が聞き返した。
 そりゃそうだ。さすがにいきなりでフェラチオなんて、無理な話だろう。「舐めた方が、山崎殿は喜ぶぞ。キスとは比べ物にならないほど、だ」
「……私、舐めたいです」
 黒い靄の一言で、新藤の決意は固まったようだ。
 俺への奉仕を第一に考えてくれるのは、正直とても嬉しい。男冥利に尽きると言える。
 こんな状況ではなく、彼女が俺の恋人になっていれば、の話だが。
「性器を咥えれば、山崎殿はもっと喜ぶ。歯は立てるな。咥えたまま舐めたり、顔を前後に大きく動かしたりしろ。強く吸ったり、横から咥えたり、頬の裏で擦ってやるのもいい。もちろん動きが短調になっては駄目だ。咥えているばかりでなく、亀頭や竿を舐めるのも忘れるな。手が開いているのなら玉袋を揉め。そうだな、玉袋も口に咥えて転がしてみろ」
 新藤が黒い靄の言葉に頷く。
 立ち膝をついた姿勢のまま、新藤は口を開いて舌をゆっくりと亀頭へ近づけていく。
 くっ!
 ぺたり、という温かくのぬめった感触に、快感が脳を突きぬけた。
「えぅー……」
 舌は一度離れ、今度は裏筋から亀頭までを舐め上げた。
 刺激が背筋を通って後頭部で炸裂。ぞくぞくぞくっ、と快感が身体全体に駆け巡る感覚。
「はむっ」
 亀頭部分を咥え、舌を押し付けてくる。
「んー……、んー……」
 ゆっくりと唇を上下させる。出たり入ったりする竿の様子のいやらしさと、顔を揺らす度に綺麗に切 り揃えられた髪が揺れる色っぽさ。それに竿を走る鈍い刺激。
「んっ、んんっ、ちゅっ、ちゅちゅーーーーーっ、ちゅっ。はぁっ、はぁっ……あむっ、んーっ、んんーっ……くちゅっ、あえっ、ぺちゃ、ぴちゃ……」
 新藤は言われた通りに頬の裏側に擦りつけたり、強く吸ったりしてくる。たまに歯がひっかかったりもするが、いいアクセントになっている。痛みよりも快楽が勝っていた。
 もう……駄目だ。
 気持ちいい。
 気持ち良すぎる。
 こんなの、我慢できるはずがない。
 なにより、懸命に、執拗に、一生懸命に俺のために奉仕してくれている新藤の姿を見て、心が動かない奴は男じゃない。
 頭の中で、金属音が鳴り止んだ。
 ――諦めてどうする!
 消えかかっていた金属音を再び呼び覚まし、気力を振り絞って叱咤しようとした時、黒い靄が囁きかけてきた。
「まだ諦めないのか。意地を張ることはない」
 うるさい! 気が散るから余計なことは囁くな!
「もう諦めてしまえ」
 黙れ! 全部お前が悪いんだろうが!
「もしここで諦めても、それはお前のせいではない。全ての責任は、私にある。悪いのは私だ。お前は悪くない」
 分かってるんだったら、とっとと俺を解放しろ!
「悪いのは私だ。だから、お前が気に病む必要は無い」
 いいから、離せ……!
「ここで新藤香住に手を出したとしても、それは私の責任だ。自由を奪われていては、山崎殿には抵抗する手は無い。そうだろう? 山崎殿はよくやった」
 くそ……、うるさい、黙れ……。
「しょうがない。しょうがないんだ。悪いのは私で、山崎殿には何の問題はない。頑張ったが、山崎殿はもう限界だ。自分でも限界が近づいているのは気付いているだろう?」
 うう……。
「もし、今ここで諦めても、悪いのは私だ。でも、もし私が黙った後に諦めてしまったら……誰の責任になるんだろうな?」
 うああ……。
 うう……。
 ああ……。
 ああああああああ……。

 あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――

 頭の中で、金属音が鳴り止んだ。
「さあ、どうする?」
 黒い靄の問いを、俺は聞き流していた。
 もう、いい。
 どうでもいい。
 もっと、もっと気持ち良くなりたい。
 悪いのはあいつだ。あいつなんだ。俺は悪くない。
 新藤を使って、もっと快楽を得たい。もっと気持ち良くなって、新藤の愉悦に満ちた表情に、更に喜びを足していってやる。
「ぺちゃぺちゃ……んんーっ、ちゅっ、ちゅちゅっ、んんんーっ、れろれろ」
 竿の根本から先までを舐め上げ、尿道にキスをして軽く吸う。そこからまた根本まで舐める。顔が根本までいくと、玉袋を口に含み、口内で転がす。
 ああ、もっとだ!
 もっと気持ち良くしろ!
 お前は俺の物だ、新藤! 俺の物にしてやる! 一生、お前を幸福の中で飼ってやる!
 だから、だからもっとだ!
 くそっ、もっと強くしろ! 
 口だけではなくて、手も使え! 
 服を脱いで奉仕しろ!
 頭を押さえつけて、激しく腰を動かしたい。新藤の服を脱がし、胸を揉みたい。頭に、頬に、胸に俺のモノを擦りつけたい。新藤のアソコの俺のモノをぶちこみたい。
 命令したい。
 動きたい。
 くそっ! くそっ! 俺を自由にしろ!
「山崎殿。そろそろ自分に正直になったか?」
 黒い靄がそう言うと同時に、首から上が解放された。
 途端に、俺は荒々しく呼吸をしながら、何度も首を縦に振った。
「なった! 正直になった! だから、早く自由にしてくれ! 早く! 頼む、俺を自由にしてくれ! もう我慢できねえんだっ!」
 恥も外聞も無い。自由にさえなれば、もう俺は新藤を好きなように出来るのだ。そのためならば、プライドなんて丸めてくずかごに捨てられる。ひざまずいて靴にキスしろと言われても、喜んで出来る。
「そうか」
 全身から、黒い靄が離れていくのが見えた。感覚が、感触が戻る。
 ようやく、全身が俺に返されたのだ。
「ふ、ふはははは! あはははははは!」
 俺は大声で哄笑した。これが笑わずにいられるか。もう俺は自由なんだ。もう焦らされることもない。
「山崎さん? どうしました?」
 新藤が驚いた様子で俺を見上げている。
「ふ、ふふっ。いいや、なんでもないさ」
 笑いを噛み殺しながら、俺はベッドに座った。新藤が立ち膝のまま、俺に近づいて来る。
「可愛いなあ、新藤は」
「は、ええ? あ、あの、ありがとう、ございます……」
 照れたような、それでいて嬉しそうに、彼女は小さくお辞儀した。
 ふっ、俺のモノを散々舐めまわしておいて、今更なにを照れることがあるんだ。
「気持ち良かったぞ。お前の奉仕は献身的で、とてもいい」
 頭を撫でながら、俺は新藤を褒めてやる。
 彼女は恐縮しながらも、喜びに頬を染める。
「さあ、奉仕を続けてくれ。今度からは俺が言う通りに動けよ……舐めろ」
 股間のソレを軽く揺らしてやると、新藤が手を伸ばしてきた。
「違う違う。手は使うな。……そうだ、手は床についたまま、俺のモノを舐めろ。動物のように、口しか使うな。いいな?」
「はい……」
 屈辱的な命令をされているにも関わらず、新藤は嬉しそうにしたがった。おそらく、俺に命令されること事態が既に彼女にとって喜びに変わっているのだろう。
 彼女は手を床について、俺のモノに顔を近づけてくる。俺は悪戯心から、近づいてきた顔からソレを離す。
「あ……」
 右へ左へと逃げるソレを、口を開けたままで彼女が追う。
「……ん」
 顔を近づけてきて、逃げていたモノを顔全体で押さえつける。
「もう。山崎さん、いじわるしないで下さい」
 顔でソレを押さえつけたまま、新藤は俺を見上げて困ったように笑った。
「うっ」
「あ……ビクビクしてる……」
 その表情が可愛かった。その顔を俺のモノを押さえつけながらするのだ。かなりクラッときた。
「はぁ……あったかぁい。山崎さんの……あったかいです……」
 俺のモノに、新藤が頬擦りしてきた。唾液と先走り液でドロドロになっている俺のソレを、幸せそうに、愛しそうに、目を閉じて俺のモノに頬擦りする。
 新藤は何も知らないみたいだったが、それは本当なのか? こんなの、いやらしすぎる。こうも俺を興奮させることばかりされては、俺の方が我慢できなくなってくる。
「くっ……新藤、口を開けろ!」
 俺は言うやいなや新藤の頭を両手で押さえつけ、俺のモノを突っ込んだ。
「んんう!?」
 驚いた新藤が目を白黒させているが、俺は構わずに力任せに腰を振る。
「ん! んむっ! うぅ!」
 辛そうに顔を顰めながらも、新藤は俺のモノに懸命に舌を絡ませてくる。
 歯がカリの部分を掠める。口腔全体で俺のモノを閉めつけてくる。

ジュチュッ、ジュチュッ、ジュポッ、ジュポッ

 分泌された唾液がモノや唇を濡らし、擦れる度に淫靡な音をたて、俺の興奮を煽る。
 快感が高まってきた。
「もうすぐイクぞ! 全部飲めよ!」
「んん! んん! んぁ! ぁい!」
 モノを含みながら、新藤はなんとか返事をする。
「くっ、出る!」
 もう、限界だ。
 新藤の喉の奥までソレを突っ込み、両手で頭を股間に押さえつけたまま、俺は動きを止めた。

 ビュッ、ビュッ、ビュクッ

「んうううう!?」
 新藤のくぐもった悲鳴が聞こえた。俺のモノは新藤の口内に残されたままだ。微妙な振動が緩やかな快感となり、残っている精液を吐き出させる。

 ビュッ、ビクッ、ビクッ

「……ふー」
 がっくりと脱力した俺は、ようやく新藤の頭を解放した。
 新藤がゆっくりと俺のモノから口を離したが、唇は閉じたままで、一言も発しない。
「…………」
 なんだか辛そうに口の中をもごもごとさせていたが、
「んく、んくっ、んく」
 喉を動かして、口の中に残っていた精液を飲みこんでいく。
 舌を動かして、最後の一滴までも飲みこんだ後、ようやく口を開いた。
「けほっ、……んっ、かはっ! けほ、んっく……けほけほ」
 胸を押さえてむせている。
 射精し終わってからの一連の彼女の様子をぼんやりと眺めながら、俺は全く萎えていない自分のモノを眺めていた。
 ……おかしい。
 出すものを出してしまえば、普段ならスッキリしてしまうところなのに、俺の欲望は解消しきれていない。未だ、胸の中でぐるぐると渦を巻いている。
 もっと。
 もっと、彼女を汚したい。
 もっと、彼女を俺の好きにしていたい。
 欲望が解消されるどころか、貪欲になってきている。
「あの……」
 新藤が、俺の顔色をうかがうように声をかけてきた。
「なんだ?」
「気持ち良くなってもらえました?」
 その問いに、衰えていない欲望が、ぐらりと首をもたげてきた。
 俺は口の端を歪めて、笑って見せてやる。
「ああ。気持ち良かったぞ。褒めてやる」
 頭を撫でてやると、新藤は嬉しそうに目を細めた。
「だが、後始末がまだだな。俺のモノを口で綺麗にしろ」
「はい」
 彼女は素直に返事をし、俺のモノに口付けをしてから、口に含んだ。
 射精してから間もないソレに、鈍い刺激が生まれる。出したばかりで気だるい俺の気分を察しているのか、ゆっくりとした舌の動きは敏感になっているモノには丁度良かった。
 亀頭を中心に、汚れをこそぎ取るように舌が這いまわる。裏筋、からエラを一周して、尿道口に口付けをする。ストローのように残っていた精液を吸い出し、飲みこんでしまう。丁寧に、執拗に、何度も何度も俺のモノを舐める。
「ちゅ……。はい、綺麗になりました」
 最後に裏筋にキスをして、新藤は顔を離した。
 すでに準備万端だった俺のモノに誘われるまま、新藤を見た。
 彼女は俺の瞳に何を見出したのだろう。なにかを期待するように、俺の言葉を待っている。
 ……ははあ、なるほどね。
 彼女を見ていて、すぐに理解できた。
 新藤は、スカートの中で足をしきりに動かしているようだった。
 俺は素早くスカートの裾を掴むと、思いきり捲り上げた。
「きゃあっ!?」
 彼女が反射的にスカートを押さえつけるが、遅い。俺の推測を確信に変えた後だった。
「……見ました?」
 俺から目を逸らし、羞恥に顔を真っ赤にさせながら、新藤が訊いてきた。
「そりゃあもう、ばっちりと」
 俺の言葉に、彼女の赤かった顔が更に赤くなる。
 新藤の股間はびっしょりと濡れていて、愛液がカーペットにまで染みを作っていた。俺はニヤニヤしながら、彼女を苛める。
「うわー、いやらしいな、お前。俺のを舐めていただけであんなに濡れたの? 凄いな。新藤って淫乱だったんだな」
「うう……」
 耳まで真っ赤にして、新藤はとうとう俯いてしまった。
「…………っ、うっ、ぐすっ、うええぇぇ……」
「……え?」
 俯いていた新藤は、嗚咽をもらした途端、ポロポロと涙を零しはじめた。
「え? ええ?」
 まさかこんなことで泣くとは思っていなかった俺は、どうしていいかわからず、おたおたしてしまう。
「ごめんなさい……ごめんなさいぃぃ……」
「いや、お前は悪くないって」
 なんとかそう言ってなだめるが、彼女は首を振って「ごめんなさい」と繰り返す。
 ひとしきり泣いた後、彼女は泣き腫らした顔を上げた。
「お願いです……嫌わないでください、一緒にいさせてくださいぃ……」
 うわあ。
 まさか新藤がそんな風に考えているとは気付かなかった。
 俺の足にすがりつくと、再び泣き出してしまった。頬を伝った涙がズボンを濡らす。
 純粋な愛おしさと、欲に塗れた期待。俺の心の内で二つの心が交じり合う。
「大丈夫だ」
 俺は、彼女を慰める言葉を口にする。
「お前は、俺の大切な――」
 どちらの言葉で慰める。愛情か、欲望か。
 悩んだのは、ほんの刹那。
「――所有物だ。絶対に誰にも渡さない。永遠に、俺がお前を飼ってやる。犯して、犯して、犯しぬいて、俺の無しじゃいられない身体にしてやる」
 欲望が勝った。
 そうだ。何も悩むことはない。もう後には戻れないのだから。
 本能の赴くままに、彼女を俺の欲望で汚してやろう。
 ……もう、親父には何も言えないな。
 あの性欲の権化を、一時は本気で殺してやろうとも考えたこともあったが、さすがは血の繋がった親子とでも言おうか、俺もしっかり性欲の権化であった。
 自虐的な笑みが広がるが、全部黒い靄の責任だ、と頭を振って笑みを消す。
 あいつが悪いんだ。だから、こんな気持ちの良いことを我慢しなくてもいいんだ。
「ほら、立て。俺の物にしてやる。ベッドの上で、お前の身体全てに俺の所有物であるという証拠を刻みつけてやる」
 彼女に手を差し伸べる。
「は……はい! ありがとうございます!」
 彼女は泣きながら、嬉しそうに俺の手を取った。
 俺の言っている言葉の意味がわからないはずも無いだろうに。命令に侵された新藤は、本心から俺の所有物に、性的な奴隷になることを望んでいる。
 ふふっ、便利なものだ。なんの苦労もせずに、女を俺の虜にできるんだからな。
「ほら、ベッドに横になれ」
 立ちあがった彼女を、ベッドへと軽く押す。彼女は靴を脱いでベッドに上がると、真ん中で手を胸の辺りで握った姿勢で横になった。
「この姿勢だと、ご奉仕がし辛いんですが……」
 横になった姿勢のまま、彼女は困ったように訊いてきた。
「いいさ。ここからは俺の好きにさせてもらう」
「そうですか? ……ところで、これから何をするんでしょう?」
「……分からないか?」
 彼女は本気で訊いているのだろうか。
 ベッドの上で男女が横になろうというのなら、やることは一つしかないと思うが。
「私、こういう知識に乏しくて……。友達は私が知らないって言っても笑うだけで、詳しく教えてくれないんです」
 完全にその友達って奴らのおもちゃになってるな。多分だけど。確かに素直そうな娘だし、からかい甲斐もありそうだからな。
 そんな娘にディープキスをして、フェラチオに精液を飲ませ、これからセックスするのか。ふふ、何も知らない娘をまさに俺色に染められるってわけだ。彼女に何も教えなかったその友達とやらには感謝だな。
「いいか、これから俺達はセックスをするんだ。性交するんだよ。これから俺のペニスをお前のヴァギナに突っ込んで、お前の処女膜を破るんだ。そうして、晴れてお前は俺の物になる」
 わざとあからさまな単語を使って説明してやると、新藤は頬を染めた。
「そうですか……そうすれば、私は山崎さんの物になれるんですね……」
 恥ずかしがっている様子ではない。うっとりとした顔つきで俺の顔を見ている。
 ……なにやら想像していたのと反応が違うが、まあいい。殊勝で結構なことだ。
「それじゃ、そろそろ犯るとするか」
 俺は手早く着ている服を全て脱ぐと、彼女の上に覆い被さった。
 俺が全裸なのを見て、彼女は慌てて自分の服を脱ごうとするが、その手を掴んで止めさせる。まずは服を着たまま犯して、服は後で破いて、その隙間からあれこれやってみようと思いついたからだ。
「俺が全部脱がす。お前は横になっていればいい。動くのは命令したときだけだ。いいな?」
「はい。……よろしくお願いします」
 彼女が目蓋を閉じ、身体から力を抜いた。
 目蓋を震わせ、新藤は目の端から涙を流す。
「嬉しいです……山崎さんのものになれるなんて……。私、本当に、本当に嬉しいです」
「ああ。俺の物にしてやるぞ。たっぷりと時間をかけて、俺が満足するまで、な」
 俺は彼女の胸を両手で掴むと、乱暴にこね回し

 少女の頬を伝う涙。
 仰向けの少女に覆い被さっている俺。
 少女の胸に伸ばされた俺の腕。
『ひどいよ……。むりやりなんて……』

「――――!!」
 弾けるように俺は新藤から離れた。勢いがありすぎて、ベッドから落ちてしまって頭を強く打つ。だが、床のカーペットは思いの他柔らかく、思ったほどの痛みもなかった。

 ギキィィィィィィィィィィィィィィィィィィィ――

 急ブレーキ。金属同士が激しく擦れ合う。その音は小さくなっていく。
 が、完全に止まったわけではない。微かな音が、今も聞こえている。急がなければ、すぐに欲望に支配されてしまう。
「接続、新藤香住!」
 叫ぶ。
「今までの命令を全消去! そして今すぐ部屋から出てこの部屋に近づくな! 切断、新藤香住!」
 ベッドの上で、新藤が身体を起こした。
「あ、ああっ!?」
 彼女がドアへ駆け出しながら、戸惑った声を漏らす。「今すぐ」という命令が効いたのか、それこそ靴を履く間も惜しんで部屋から出ていってしまった。
「あ、あの――」
 何か言おうとした時、ドアが閉まった。何か言っているようだったが、その間にも部屋から遠ざかっているのだ。既に言葉としては認識できなくなっている。
 俺が正気に返ってから、ほんの30秒ほどの出来事だった。
「く……」
 俺は胸を押さえて、その場に横になった。
 苦しい。
 胸の内側が締め付けられているようだ。
 欲望が、俺の中で出口を求めて荒れ狂っている。
 こんな大きな欲求を持ちながら、異性に愛撫されたのでは、理性も一瞬で吹き飛ぼうというものだ。
 それにしたって、性欲を押さえきれないなんてことがあるか?
 苦しい。今すぐ女を抱きたい。抱かないと苦しみを止められないなんて、なにかの中毒にかかったようなこの欲求はなんだ?
 こんなこと、初めてだ。
 今の俺は、何もかもがおかしすぎる……!

 パチパチパチパチパチ!

 部屋の隅から、拍手がした。
「素晴らしい! あそこまで欲望に流されながら、自意識を立て直すとは!」
 人型をした黒い靄が、一歩前に出ながら偉そうにのたまった。
「お前……。俺に何かしたな?」
 これは勘だが、おそらく俺と奴が対等、というのは違うのではないか。
 確かに俺は命令できる。だが、これは館長を決める試験だとあいつは言っていた。俺は受験者で、あいつは試験官だ。この時点から対等という言葉は齟齬が生じている。
 そもそも。
 新藤がいなくなったにも関わらず、俺の身体は中毒のように性欲を発散することを求めている?
 もしかすると、俺は既になんらかの命令をされているのではないか――?
「概ね正解だ。洞察力もなかなかのものだ。感服したぞ」
 こ、こいつ……!?
 まさか、俺の心を――
「ああ。読んでいる」
 くそっ、やっぱりか!
「だったらあの時、俺の身動きを封じている時に、嫌なタイミングで新藤をけしかけたり、俺を誘惑するような事を言っていたのもそのおかげってわけだ!」
「御名答」
「くそったれがっ!」
 俺は憤りのあまり、床を叩いた。毛足の長い柔らかなカーペットは、拳を優しく受け止め、ほんの小さな音しかしなかった。
 溢れんばかりの性欲を胸の中に押しこめるため、身体を強く緊張させているせいか、呼吸が次第に荒くなってくる。
 黒い靄を睨みつけようとするが、怒っているのか苦しんでいるのか自分でもわからない顔になってしまう。
 欲望を堪えるのに一杯一杯で、黒い靄に怒りを向けるのもままならない。
 こんな、こんなことで女の子に手を出してしまうなんて……!
 ちくしょう!
 死ぬほど悔しかった。
 カーペットを無意識に掴み、力を込める。
 俺の意地が、そんなことで、そんな、妙な力のせいで……!
「ちくしょおぉぉぉぉ……」
 気がつけば、俺は泣いていた。
「泣くことはない。山崎殿は良くやった――」
「黙ってろ!」
 お前に何が分かる! 俺の気持ちが、俺の辛さが、俺の――
「分かるとも。この放浪大図書館には、山崎殿の全ての記録がある」
「心を読んでんじゃねえよっ!」
 泣きながら、俺はわめいた。全裸で、股間をいきり立たせたままで。まったく情けない格好だ。色々な感情が溢れてきて、俺はただただ泣いていた。
「うくっ!? ぐ、うう……」
 胸を焼く巨大な欲望に、俺は胸を押さえて丸くなった。
 もはや性欲などという欲求の問題ではない。これは衝動だ。強い衝動が、発散先もなく俺を蝕んでいく。まさしく薬物中毒者が禁断症状起こしているみたいだな、と俺は力無い笑みを浮かべた。
 心が折れたとき、今度こそ俺は二度と止まることのない性欲の権化となるだろう。
 ふふっ、へへへ……。
「死んでも御免だ」
 俺は小さく呟くと、なんとかベッドに捕まりながらも立ちあがった。
「このままくたばったって構わないがな、なんとかお前に一泡吹かせないと気が済まねえ」
 立っているのもおぼつかない俺に、一体何が出来るだろう?
「その通りだ。山崎殿、大人しくしていろ。今、変わりの女を呼ぶ。山崎殿は私に操作され、欲望を何十倍にも膨れさせられているんだぞ。ただでさえ大きな山崎殿の欲望を、だ。精神力でどうこう出来るレベルではない」
「うるせえ。知ったことか」
 1歩踏み出しただけで大きくバランスを崩した。手をついて、よろめきながらも立ちあがる。
「安心しろ。ここで女に手に出したところで試験で即失格にはならない」
「それこそ、知ったことか」
 2歩目を踏み出して、大きくよろけて壁に持たれかかる。多少遠回りになるが、壁伝いの方が確実に黒い靄のところへ辿り着けそうだ。
 掴まり立ちを出切るようになったばかりの赤ん坊よりも頼りない足取りで、一歩一歩、ゆっくりと歩いて行く。
 部屋の角から対角の角へと行くだけなのに、いったいどれだけの時間を費やしているのだろうか。
 一歩踏み出すのに、平気で1分以上かかっている。足を動かすだけでも気力が根こそぎ持っていかれるような脱力感に襲われるのだ。
 何度もよろめきながらも、決して倒れることなく、ようやく黒い靄に手が届く位置にまで辿り着いた。
「お見事。山崎殿の精神力には驚かされる」
「お前に褒められたくなんかねえな。吐き気がする」
 俺はすっかり疲れ切っていたが、それでも憎まれ口を叩くのだけはやめるつもりはなかった。
「それで、私に一泡吹かすとは、一体どうするつもりだ?」
「……はっ。なるほどな」
 黒い靄の言葉に、俺は気付いた。
「お得意の、心を読めば、訊かなくてもいいだろ?」
「…………」
 無言。これで決まりだ。
「お前……俺が何を考えているか分からなくなってるな?」
「…………」
 沈黙は肯定の証明。
 俺は確信した。どういう理由か知らないが、黒い靄の力が弱まっている。
「教えてやる。別に大したことじゃない。お前を一発ぶん殴ってやるだけさ」
「それは不可能だ。諦めろ」
「できないね。それに、さっきまでは無理だったかもしれないが、今ならかなり自信があるぜ」
「そんな立っているのもやっとの状態で、か?」
「ああ」
 そう言って、俺は黒い靄に目を凝らす。
 おそらく……この靄の姿は仮の姿で、こいつは人間か、人間に近い姿形をしているはずだ。黒い靄という形の無い存在のくせに、そのほとんどを人型でいるのが、その根拠だ。
 おそらく奴が俺の心を読めなくなったであろう頃と同じくして、俺に見えるようになっていた、黒い靄の中に見える二周りほど小さい輪郭。
 さっきは、黒い靄を殴ろうとしても翻弄されっぱなしだった。今度もそうなる可能性は多いにありうる。
 が。
 俺は手を伸ばし、黒い靄の中に手を突っ込んだ。
「無理だと言っているだろう」
 無視して、輪郭を――掴む!
「なにっ!?」
 初めて聴いた黒い靄の動揺した声に、俺は賭けに勝ったことを知った。
「おらぁぁぁぁぁっ!」
 力任せに引き摺り出した。
 黒い靄の中から輪郭が出ると同時に重力が発生したように、急激に重くなった。掴んでいられなくなり、そいつを落としてしまう。黒い靄は、その場で霧散していった。
「そんな……いくら力が弱まっているとはいえ、私の自我迷彩を破るとは信じられん……。山崎殿は本当にただの人間か!?」
 俺に倒された姿勢のまま、驚いた顔で俺を見上げている、少女。雪美ちゃんよりも年上だろうが、明らかに俺よりは年下に見える。
 くすんだ赤毛に碧眼で、ウェーブのかかった長い髪を白いリボンで一括りにしている。服装は、白いワイシャツに黒いズボンを、同じく黒いサスペンダーで吊っている。結んでいるネクタイも黒だが、長さ的に大人用で、長く余っている部分は胸ポケットに突っ込まれている。
「お前が……お前がそうなのか?」
「その通り。それと、私を呼ぶのに『お前』というのはよしてもらおうか」
 少女が立ちあがって、埃を軽く払うと、襟を正した。
「この姿を晒したのであれば、名乗らなければならないな。私の名はリトラル。館長不在の放浪大図書館を管理している館長代理だ。私の自我迷彩を破った山崎殿には、もう一つの館長試験を受ける資格を得た。それは、私の正体を当てること、だ。星の数ほどいた受験者の中で、この試験を受けるのは山崎殿で3人目だ。例え試験に落ちたとしても、胸を張って誇れる結果と言えるだろう」
 朗々と告げるリトラルとやらの口上が終わるのを待って、俺は正したばかりのYシャツの襟首を左手で捻り上げた。
「何をする?」
 Yシャツを掴まれることに関しては全く意に介してはいないようで、平然と訊ねてくる。
「さっきも言ったろ。お前をぶん殴る」
 右手で拳を作りながら渾身の力を込める。
「たとえ見た目が女の子だろうと容赦はしねえ。越えゃあいけない一線を越えたお前を……俺は絶対に許さねえ」
「お前ではない。リトラルだ」
「ああ、そうかよ!」
 俺は思いきり振り上げた拳を、少女の鼻っ面へ――
「あ……?」
 身体が大きく仰け反って、俺は背中から床に倒れてしまった。
 しまった。なんてこった。腕を振った勢いを、支えきる力すら残っていなかったとは。
 怒りで最後まで身体を支えることは出来なかった。
 だが、別の支えとなる力が身体に溢れ出している。俺がさっきから耐えている性欲による衝動だ。
 見てくれだけは上等なこいつの姿に敏感に反応しやがって。この悪食が。
 余裕は全くなくなった。むしろマイナスだ。一泡吹かすどころではない。
 俺は心の内で毒づきながら、ベッドに戻ろうと床を這いだす。
「く……」
 痛い痛い痛い。
 苦しい苦しい苦しい。
 振りかえってあいつに襲いかかる元気は十二分にあるというのに、どうしてベッドまでのわずかな距離を移動するだけの力が出ない?
 いっそのこと、殴る代わりに犯してやろうか――
「うおおおおっ!」
 頭を何度も床に打ち付ける。だが、カーペットがほとんど衝撃を吸収してしまう。痛みで意思を持たせることも出来ない。
 心根が折れかかってくる。身体が悲鳴を上げている。身体は性欲を解放させることを是としているのだ。身体の要望を跳ね除けられる精神力はほとんど残っていない。
 このままでは、本当にあいつに手を出してしまうことになる。
 ふざけんな! 俺はまた欲望に身を任せるのか!?
 そんなことをするくらいなら、死んだ方がマシだ!
「山崎殿、あまり無理をすると精神に弊害が出るぞ。もうやめろ」
「いいからお前もとっとと出て行け! 襲われたいのか!?」
 悔しいことに、俺の身体はこいつすらも性欲のはけ口として認識しているのだ。今にも飛びかかろうとする欲求と闘いながら、俺はようやくベッドにまで辿り着いた。
「はあ……はあ……」
 呼吸すらままならない。重い風邪にかかったときの、身体のだるさや全身の痛みを倍率ドン、更に倍、って感じだ。
 へへへへへ。
 なんか楽しくなってきた。ほんと、笑ってでもいなきゃやってらんねえな。
「いいか、女を呼ぶぞ。山崎殿の為だ」
「絶対に呼ぶな! 今呼ばれたら、俺は絶対に耐えられなくなる」
「耐えるな、と言っている」
「うるせえ! いいからお前、とっとと部屋から出て行け!」
 叫んだ瞬間、眩暈がして目の前が真っ暗になった。
 ああ、いっそのこと気絶でもすればいいかもしれない。
「このままでは、自意識に弊害が出ると言っているんだぞ! 最悪、心が粉々に砕け散って植物人間化する!」
「上等ぉ!」
 息も絶え絶えに、俺は絶叫した。
「意地を張るな! 命を賭けるほどの価値があるとでも思っているのか?」
「お前の評価なんて知ったことか! ……俺が、命を賭けるに値するって判断したんだ。この意地抱えたまま墓まで行ってやるさ」
 これが、命に関わる問題という実感が少ないから、こんな言葉が出たのかもしれないが、この時俺は本気で命を懸けてもいいと思っていた。
 誰かが聞けば、くだらないと一笑に付すかもしれない。俺にしてみれば、それこそくだらない、だ。俺の生き方を、俺自身の問題を、俺が決めたのだ。俺にしか決められないことなのだ。笑いたければ笑えばいい。他人の意見など、あくまでも参考にしかならないのだ。
「…………」
 あいつは黙り込んだまま、何か考えている様子だった。
 俺は呼吸をするのも精一杯で、ぜえぜえと重病人のように喘いでいた。
 もう、早く出て行ってくれ……。
 いい加減、限界だ……。
 せめて、せめて部屋で一人なら、我慢も多少は楽になると思うが……。
 目を閉じて、何も考えないようにする。
 無心で、ただ今を耐え抜く。
 持ってくれよ、俺の根性……。
 …………。
 …………。
 …………。
 …………。
 …………。

 キシ――

 全身の感覚が鋭敏化しているため、ベッドがたわんだのにもすぐに気付いた。
 なんだ……?
 薄目を開けて横を見ると、いつのまにか全裸になったあいつが、四つんばいになってベッドの上に乗っていた。
「なっ、おい……!?」
「あいつではない。リトラルだ」
 …………!? お前、心が――
「自我迷彩を解いたからな。その分力に余裕が出来た」
「そんなことよりも、その格好は……なんのつもりだ!?」
 理解していたが、それでも言わずにはいられない。
 なんでだよ、くそ、最悪だ……。
「これが、私の『越えてはならない一線』というものだ。……許せ、山崎殿。ここまで追い込んでしまったのは、ひとえに私の到らなさの所業。これが私なりの責任の取り方だ」
「知るか……。俺には関係ねえ……」
 四肢を懸命に動かして、なんとか逃れようと動きだす。動きは緩慢な上、力もほとんど入っていない。あっさり追いつかれて、俺を逃がさないためか両腕を押さえつけられてしまう。俺の眼前にはあいつの顔。
 ちら、と思わず視線を下げてしまう。そこにあるのは、小ぶりな、未発達の乳房とピンク色の乳首。視界に入った瞬間、俺のモノが大きく反応した。
「山崎殿。恋人でなければ性欲をぶつけられないのならば――私を、恋人にしてもらえないだろうか?」
「なっ!?」
 俺は目を見張った。
 彼女の透明な碧色の瞳は真剣で、冗談を言っている雰囲気はなく、冗談を言える状況でもなかった。
「私は山崎殿のような、自分の信念に殉じて生きる人間を好ましく思っている。そんな人間を、私が追い詰め、傷つけ、あげく危険に晒してしまっている。私は放っておくことができない。助けることが出来るのなら、恋仲にでもなるし、身体を差し出すこともいとわない。これは私なりの責任の取り方、というだけではない。貴方の覚悟に敬意を表してのこと。……私を、抱いてはくれないだろうか」
 彼女の瞳の中に、俺の姿が見えた。
 俺は目を見ただけで相手を理解できるほど、人心に長けているわけではない。
 ただ、これは嘘ではないだろう。
 彼女の――リトラルの身体は、震えていた。これは決して寒さからのものではない。
 ……だよな?
「……山崎殿。それはあまりに卑怯な問いだ」
 彼女は視線を逸らして、窓の外へ向けた。
 彼女の気持ちは分かった。
 確かに……恋人同士になれば、俺もリトラルにこの持て余している欲情を全てぶつけることができる。
 だが、そのために恋人となるのでは駄目だ。恋人だからセックスをしたいのではなくて、セックスをしたいから恋人になるなんて、俺は納得できない。
 ここで頷くのなら、俺も彼女を好きになる努力をしなければならない。それは当然だろう。恋人同士になるのであれば。
 恋愛感情がお互いになくとも、真摯な気持ちがここにはあった。

 ズズン……

 どこか遠くで、地響きがした。まるで答えを急かしているようだ。
 ……よし。決めた。
「決めたぞ」
「そうか」
 こればっかりは、きちんと言葉にして答えなければいけないだろう。俺が自分の意思で伝えなければ、彼女の誠意には応えられない、と思うのだ。
 ……まさか、こんな流れで恋愛云々の話になるとはなあ。
 俺は胸の内で嘆息し、リトラルの瞳を覗きこんだ。リトラルも俺の瞳を覗きこんでいる。
 リトラルを抱きしめようと、もはや俺の意思とは関係なく腕が持ちあがってきた。
 もう限界だ。
 早く言わなくては手遅れになってしまう。
「リトラル、俺は――」

 ――――――――――――――――――――――――。

 ―――――――――――――――――――。

 ――――――――――――――。

 ―――――――――。

 ――――。

 ――退館ゲート 検査開始・・・・・・・・――検査終了

 ――識別コード ≪反発する自我≫ を検出
 ――退館ゲートより優先命令『挫けぬ心』確認
 ――識別コード ≪反発する自我≫ は『挫けぬ心』に従い、再設定モードへと移行します

 ――再設定モードへ移行・・・・・・・・――移行完了

 ――接続コード 設定・・・・・・・・――設定完了
 ――精神フォーマット 設定・・・・・・・・――設定完了
 ――識別コード 設定・・・・・・・・――設定完了

 ――優先命令『絶望の後継者』の名称を変更します・・・・・・・・――変更終了
 ――優先命令『絶望の後継者』の名称は『意思を継ぐ者』に変更されました

 ――再設定モードを終了します・・・・・・・・終了完了

 ――館長代理より伝言を確認 伝言を再生します

 今、どうしても伝えておきたくてな。
 これは私の山崎殿に対する謝辞と敬意だ。
 ……例え憶えていなくとも、私は忘れない。私は、長い長い歴史の狭間を放浪する日々の間に失っていた、明日と向き合う覚悟を取り戻した。
 ありがとう、真っ直ぐに明日を見ている人よ。例え館長になれずとも、私は山崎殿のことをより多く記憶しておくだろう。
 貴方なら……。貴方ならば私は――
 ――いや、なんでもない。
 忘れろ。
 ……ああ、憶えていないのだった。今の言葉は取り消す。
 …………。
 …………。
 …………。
 それだけだ。
 それでは、また、明日……な。

 ――伝言は以上です

 ――さようなら、館長候補 山崎拓真様

 ――放浪大図書館は、次の来館をお待ちしております
 ――世界が記憶、蓄積し万物の知識が、世界の為に使われるよう、館長一同、切に願っております

 ――全ては、遥かなる明日の為に

 目が覚めた。
 真っ暗な部屋の中で、俺はベッドから身体を起こす。
 部屋の片隅にあるMDコンポのデジタル時計を見て、時刻を確認。
 午前3時27分。
「…………」
 こんなど深夜に目が覚めるとは。それというのも、今の今まで俺が足を踏み込んでいた夢のせいだ。
 どんな夢を見たのか憶えていないのは、夢の宿命とも言えるだろう。
 漠然としたイメージならある。無闇にスケールがでかくて、不愉快で憤る、それでいて気持ちいい夢だった。……これだけ並べると、まるで支離滅裂だ。いったいどんな夢だったんだか。
 ふと、喉が乾いていることに気付く。それまでは平気だったのにも関わらず、一度気付いてしまうと水を飲まなくては我慢ができないほどの乾きに感じられてしまう。
 頭をガシガシと掻きながら、水を飲みに台所へ行くため、ベッドから降りた。
「……ん?」
 部屋から出るとき、ドアが半開きになっていることに気付いた。
 寝るときに閉め忘れたか?
 気にするほどのことでもないか。
 俺はおぼつかない足取りで廊下を通り、台所まで出る。
 台所の照明を点灯し、強すぎる光に目を細めながら出しっぱなしになっていたコーヒーカップで水を飲んだ。

 ゴジャー

 少し離れた場所で、水の流れる音がした。

 バタン

 続いて、ドアの閉まる音。
「…………」
 廊下から、パウがリビングに入ってきた。暗くて表情までは見えないが、両腕をだらりと下げ、ふらふらとした足取りで、見るからにねぼけているのがわかる。
 おそらくトイレにでも行っていたのだろう。
 トイレの前を通って台所まで来たはずだが、トイレの照明がついていたような記憶はない。
 俺もパウのことは言えないくらいに寝ぼけているな。
「パウ。おやすみ」
「…………」
 反応なし。
 ……寝ぼけてるんだよな? 夢遊病にも見えるぞ。
 まあ、いいか。
 眠いし。
 カップを置き、照明を消し、俺も早々に自室に戻った。
 ベッドに横になると、あっさりと眠りの世界に落ちていった。
 今度は、目覚めるまで何の夢も見なかった。

< 続く >

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