Tomorrow is another 第六話 朝日

第六話 朝日

 誰かが部屋をノックする音で、俺は眠りから覚醒させられた。
「う……」
 顔を顰めなから上半身を起こす。カーテンが朝日を遮っており、室内全体は薄暗い。乱暴に頭をがしがしと掻いて、しばらくそのままの姿勢でぼーっとしているとドアが開いた。
「失礼します」
 誰かの声、室内に入ってくる足音、ドアが閉まっても残っている衣擦れの音。
 自然と音の発生源に目を向けると、その人物と目が合った。
「お目覚めでしたか。おはようございます、山崎様」
 立ち止まると、腹の辺りで手を重ねて、一礼する雪美ちゃん。薄暗い部屋の中では、白い部分――エプロンとカチューシャと手袋、それに顔がぼんやりと浮き上がって見えた。
「……おはよ」
 まだ頭がはっきりしていない俺は、それだけ言って口をつぐむ。
 雪美ちゃんはドアの正面にある大きな窓まで歩いていくと、カーテンを一気に引いた。

 ジャッ

 部屋に陽光が差し込み、室内を照らした。
 明るくなって、雪美ちゃんが黒いメイド服に身を包んでいるのがわかった。黒いブラウスに、フレアのスカート。スカートは闇と同じくらい暗い色。
 壁には細かい模様、天井にはシャンデリア、床には毛足の長い絨毯、ベッドは身体がうずまる錯覚が起きるくらいふかふかで、天蓋がついている。
 どこの金持ちの屋敷か、というような立派な部屋である。
 雪美ちゃんはカーテンを纏めると、クローゼットに歩み寄った。開けて、中から手際良くハンガーにかかったスーツやらワイシャツやら取り出している。
 それらを持ってベッドの横に来ると、それらをベッドの上に並べていく。
「服をご用意しましたので、お着替え下さい。では、私は失礼させていただきます」
「あ、ああ」
 雪美ちゃんが一礼して、退室する。なんとなく雪美ちゃんの仕事振りに見入ってしまっていた。
 俺はのそりとベッドから降りると、雪美ちゃんに言われたとおりスーツに着替えはじめた。洗いたての下着に、真っ白いノリの効いているワイシャツ。黒いスーツの上下にループタイを首にして、着替えは終わった。
「さて」
 ようやく脳の回転を上げる準備ができてきた。
 首を軽くまわして、気を引き締める。
 状況は理解できた。
 いや、理解できていない俺がいる、ということが理解できたというか。ああ、日本語って難しい。
 脳が回転をはじめる。
 忍び寄っていた困惑が、一気に全身を駆け巡り、俺は思わず絶叫してしまう。
「ここはどこだ!?」
 この部屋はなんだ!
 さっきの雪美ちゃんの普段との違いはなんなんだ!
 なんで俺は素直にスーツに着替えているんだ!
 俺は寝つきは良い方だが、いくらなんでも身体を抱えられたりすれば目は覚める。にもかかわらず、俺はどうしてこんな知らない場所に連れてこられてるんだ!?
 なにもかもがわからない。
 なにが一体どうなって、こんなことになっている?
 ――あ、なんか既視感。
 前にもこんなことがあったような気がするのだが、こんなインパクトのある事件、以前もあったのなら絶対に忘れているはずはない。

 コンコン

 ノック音に、俺は思わずドアを見る。雪美ちゃんが戻ってきたのか? だったら丁度いい。色々と説明してもらわなくては。
「入ってくれ」
 部屋に入ってきたのは、見知らぬ少女だった。雪美ちゃんよりは年上だろうが、俺よりは間違い無く年下に見える。
 ウェーブのかかったくすんだ色の赤毛は背中で広がっており、白い肌に瞳は碧眼で、目の光りが強いのが印象的だ。黒いズボンに黒いベスト、それに白いワイシャツを着て、男物のネクタイを締めている。
「おはよう、山崎殿。気分はどうだ?」
「……悪くはない、けど」
 尋ねられたことに対して、反射的に応えてしまう。
「そうか、それは良いことだ。本日はなにか予定を入れているか? なければ館内の見学を勧める。ここ、放浪大図書館の設備は一見の価値があるぞ」
 容姿とはちぐはぐな大人びた言動に少々意表を突かれ、しばし少女の言葉に耳を傾けてしまった。
「いや、ちょっと待ってくれ」
 少女がなおも言葉を続けようとしたのを遮る。
「どうかしたのか?」
「俺じゃない。どうかしているのはこの状況だ」
「……ふむ?」
 少女が訝しげに俺を見つめてきた。
「何も憶えていないのか? そのようなミスはしていないはずだ」
 少女はよくわからないことを言う。
 こんなことが以前に一度でもあったなら、絶対に忘れているはずがない。そもそも、お前がなにか失敗したら俺が忘れるシステムでもあるのか? と疑問を覚えていると。
「そうだな。では、私の名前はなんだ?」
「は? 初対面の人間の名前を知ってるわけが――」
 ――あるはずないのに。
 俺は、こいつの名前を知っているような気がしてきた。
 頭に浮かんだ言葉を口にしてみる。
「……リトラルか?」
「正解だ。では、ここは何処だ?」
「放浪大図書館……?」
 俺の言葉に頷きながら、次々と質問を投げかけてくる。
「では、放浪大図書館での山崎殿の立場は?」
「……館長候補」
「館長候補となった山崎殿には、現実にはない力を持った。それは何か?」
「誰かに命令できる」
「それはどのような命令だ?」
「どんな命令でも。言葉通りありとあらゆる命令を、相手に実行させることができる」
 そこまで言って、少女――リトラルは満足気に頷いた。
「どうやら表層からは少々見つかりにくい部分に記憶が埋まってしまっていたようだな。外的な刺激によって思い出せるのなら、問題ない」
「ちょっと待て! どうして俺はこんなことを知ってるんだ!?」
 いつ知ったのか、どうしてそのことをリトラルが知っているのか、何もかもがさっぱりだ。俺自身のことなのに全然把握できていないことが、とても不気味に感じられた。
「そういうものだ。悩むことで解決する問題ではない」
「……そうなのか?」
 そうなのか。そうだな――あっさり納得している自分に頭を抱えた。
 リトラルと少し会話をしただけで、あれだけあった違和感や混乱がほとんど消えてしまっているのだ。相変わらず常識を置いてけぼりにした目の前の現実は、驚くものの危険は感じられない。むしろ好奇心が刺激されるくらいだ。
 なんとなく、リトラルは信用できる気がする。信用できる誰かが1人でもいると、随分と安心感が違う。
 俺は腕組みし、考える。
 わからないことが多すぎる。だが、俺のこういう勘は良く当たるのだ。きっとこいつは信用できる。
「ここは安全なのか?」
「立ち入りを禁止しなければならないような、危険な施設はない。山崎殿に危害を加えるような不躾者はここの職員にはいない。安心してくれ」
 なら、きっと大丈夫だ。俺はリトラルの言葉を信じた。
 身に迫った危険があるわけでもないようだし、ここは現状を楽しむことにするか。悩んでなんとかなるわけでもない。
 前向きに行こう、前向きに。問題が起きたときはその時に考えればいい。
「よし。じゃあここはリトラルの言う通り、館内の見学でもしてみるか」
「それがいい。忠告しておくが、見学の際には誰か案内を呼べ。館内は広い。一度迷えば自力では戻って来れなくなるだろう。時間が空いた時にでも私自ら案内してもいいかもしれないが、そろそろ業務に就かねばならん時間だ。では、また後で会おう」」
「ん? あ、ああ。じゃあな」
 そう言い残して、リトラルは部屋から出ていってしまった。
「なんだ。リトラルが案内してくれるわけじゃないのか」
 そこで、どうやって案内を呼べばいいのか、という疑問が思い立った。
 とりあえずは廊下に出て、人を探すことにする。
「…………うお」
 人っ子一人見当たらない。
 そんなことよりも、驚いたのが廊下の広さとその豪華さだ。
 廊下の幅は広く、天井はジャンプしたぐらいじゃ到底届きそうもない高さ。壁にはクリーム色の地に金色の細かい模様が施されており、まるで実用的ではない大きな窓が一定間隔に配置されていた。部屋にいたときも思っていたことだったが、この建物自体が一つの大きなアンティークではないか。ドアと同じ材質であろう光沢のある黒い木が壁や天井を走っており、床は高級そうな赤いカーペットが延々続いている。
 延々と。
「…………」
 どこまでも。
「……………………」
 とりあえず、廊下の端が見えない。後ろを振り返ってみるが、やはり突き当たりは見えなかった。一定間隔に大きな窓、同じ形のドア、暗くなってから用をなすであろう壁にかけられているランプ。
 今はドアが開いているから自室に戻ることもできるが、ドアを閉めて10メートルも歩いてしまえば、方向感覚に不自由していない俺でも今の部屋に戻れる自信はない。
「どんな広さをしてんだよ……」
 途方に暮れて、俺は部屋に戻った。
 ……そうだ、思い出したぞ。ここは現実ではなかったのだ。こんな非常識な広さがあったとしても、非現実のうちとくくってしまえば納得するしかない。
「誰かを呼ばないと何もできないな」
 そう思ってなにかないかと部屋を見まわしたとき、ベッド横のサイドボードに目がとまった。サイドボードの上にある小さな銀のハンドベルに意識が集中する。
 ……思い出した。これを使えば誰でも呼べるんだ。
 ハンドベルを手に取り、誰を呼ぼうかと考える。確か、名前の知ってる奴しか呼べないんだが、放浪大図書館に来てから出会っているのはリトラルと雪美ちゃんしかいない。
「――いや」
 もう1人、名前を思い出した。新藤香住。たしかそんな名前だ。
 名前を思い出すと同時に、なんとも嫌な気分になった。自己嫌悪というか罪悪感というか、とにかく「合わせる顔が無い」のだ。一度も顔を合わせたことすらないはずなのに、おかしな話である。
 リトラルは用があるといって出ていったのだから、候補は1人しか残っていない。

 チリチリチリチリィ――――――

 ハンドベルから高く澄んだ音が響いていく。その余韻に浸る間もなく、俺は名前を呼んだ。
「牧原雪美」
 一拍置いて、ドアがノックされる。
「早っ!」
 ベルがこういうものであることを思い出したが、ともすれば今を現実と錯覚しているため、こういう非現実な現象にはいちいち驚いてしまう。
「どうぞ」
「失礼します」
 ドアを開けた雪美ちゃんが、一礼して室内に入ってきた。
「何かご用でしょうか」
 やっぱりポーカーフェイスで告げる雪美ちゃんにじっと見つめられる。何を考えているのだろうか。いや、それ以前に雪美ちゃんはどうして一度も笑わないのだろう。
 ひょっとして、俺って嫌われてるのか?
 特別好かれようと思ったことはないが、それでもあの人懐っこい笑みが愛想笑いのたぐいだなんて考えたくはない。
 ん? いや待てよ。
 そもそも彼女が雪美ちゃん本人であるわけがない。何度も忘れているが、ここは現実ではないのだ。だが、彼女は外見や声に限っていえば間違いなく雪美ちゃんだ。
 だったら俺は? 俺は俺だと思っているが、ひょっとしたら俺は俺ではなくて、俺だと思っている別の誰かなのかもしれない。
 ……なにがなんだかわからなくなってきた。
 考えるだけ時間の無駄だ。疑問は横に置いておき、普段通り接していいものか少々気後れしながら告げる。
「館内を案内してくれる人を探してるんだけど……雪美ちゃんに頼めるか?」
「私に、ですか」
「他に頼める人がいなくてさ。雪美ちゃんにしかお願いできないんだけど」
 彼女は床に視線を落として何か考えているようだったが、顔を上げると俺を見て頷いた。
「わかりました。そういうことでしたら、ご案内します」
 彼女の言葉に俺はほっとした。これで一日中部屋に閉じこもらなくてもすみそうだ。
「こちらです」
 言うや否や、ドアから出ていってしまう。
「お、おい、ちょっと待ってくれよ」
 俺は慌てて雪美ちゃんを追った。

 果ての見えない廊下を歩いていく。
 窓から見えるのは、手前に広がる林と、奥に見える白い砂浜やエメラルドグリーンの海。真っ赤な鳥が数羽、林から飛び立つのが見えた。
 波の音も、動物の声も、真夏の熱気も、窓ガラス一枚を隔てた館内には入ってこない。まるでブラウン管の向こう側に見える風景のように感じられる。
 十一月にこんな風景を見られるとは。ああ、確か南半球の季節は夏頃だろうから、海外に行けば似たような風景も見られるかもしれない。気持ち良さそうな外の熱気を想像していると、季節外れの海水浴というのはいいかもしれない、と考えてしまう。
「山崎さま、次の角を左に曲がります」
 窓の外にばかり気を向けていた俺は、言われてT字路にさしかかっていたことに気付く。角を曲がると窓がなくなり、廊下の両側の壁には同じドアが続いていく。風景が見えなくなるだけで、廊下が殺風景になったように感じられる。
 と、雪美ちゃんが足を止めた。
「こちらです」
「え?」
 廊下にいくつも並んでいるドアの一つ。ドアノブに手をかけ、押し開く。促されるままに入ると、そこは簡素な部屋だった。廊下と同じ絨毯に同じ壁紙、窓はなく、四方にある壁にはそれぞれ一つずつドアがあり、それぞれのドアの両脇についているランプが部屋を照らしていた。
 俺の後ろから入ってきた雪美ちゃんは、ドアを閉めるとそのまま俺を追い越して正面のドアの前に立った。
「一番最初に見てもらうのは、この放浪大図書館の名前の要因となった場所――書庫です」
 そう言ってドアを開く。
 ドアの向こうにあったのは、巨大な塔だった。

「――――」
 あまりのスケールの大きさに、俺は言葉を発することができなかった。
 まず、空間の広さ。
 向かい側に見える壁が霞むほどに遠く、天井はそれ以上に高い。特大の窓がそこかしこに備えつけられているが、室内全体を照らすには少々明かりが足りないようで部屋全体は薄暗く、差しこむ光の筋がいくつも窓から伸びているのが見えた。
 部屋の中央には、天へ届かんとするいくつもの黒い柱がそびえ立っている。
広大な書庫と呼ばれる空間の、端から中心部につれて折り重なるように高く伸びる柱の集合体は、一見すると一つの建造物にも見える。俺が塔と感じたのは柱の集合体だったのだ。
「すげえ……」
 その空間の持つ迫力に圧倒された。
 現実では考えられない非常識。非現実だからこそ叶う常識。
 胸が高鳴る。この壮大な風景に、俺は素直に感動していた。すごい、という言葉だけが数限りなく湧き出してくる。
 俺はその空間に誘われるように足を踏み出した。
「お待ちください」
 書庫に入ろうとした俺を、きつい口調で雪美ちゃんが止める。
「え、なんだ?」
「足元をご覧ください」
「足元?」
 言われて、下を見る。
 ドアを境に、床が消えていた。
「お――おああああああああああああっ!?」
 思わず後ろに飛びのいてしまう。
 床が遠かった。10階や20階どころの高さではない。
 次の一歩で、俺は紐無しバンジーに身を投じるところだった。もしくはパラシュート無しスカイダイビング。
「しゃ、洒落になんねぇ……」
 足が震え、思わずその場にしゃがみ込んでしまう。落ちたら最後、死、以外の結末なんて考えられないほどの絶壁に立っていたことに、今ごろになって恐怖に襲われていた。
 確かに、見えていたのは俯瞰の景色だったのだろうが、部屋のあまりの広大さに自分の位置が認識できていなかったようだ。
「まずは室内が一望して頂いて、書庫の広さを身近に体感してもらおうと思いました。入り口はこちらになります」
 雪美ちゃんは変わらぬ調子でドアを閉め、左手のドアへと歩いて行く。
「そういうことは先に言っといてくれ……」
 気がつけば冷や汗が出ていた額を拭い、立ち上がる。
 開かれたドアの向こう側にきちんと床が続いているのを確認して、足を踏み出した。

 あれからドアを三回ほどくぐったが、階段なんて一度も使わなかった。にも関わらず、俺は書庫の床を歩いていた。さすが非現実、と俺は唸るしかない。
 赤い絨毯の広がる場所に、等間隔に並ぶ暗褐色の本棚が延々と続いている。
 非常識な高さを除けば、さほど気になるものでもない。
 ただ、上の棚にある本はどうやって取るのかは不明だが。
「手の届かない場所にある本は、各本棚に備えつけられているゴンドラを使います」
 疑問が顔に出ていたのだろうか、何も言っていないのに雪美ちゃんが答えてくれた。
「書庫では、来館者が自ら本を探すことが出来ます。ですが、受付で探している本を検索、リストアップし、職員に探してもらうのが一般的です。あちらをご覧ください」
 少し離れた場所には、絶え間なく行き交う馬車と詰まれた本が小山のように連なっており、それを囲むようにカウンターが設置されてあった。
 やはりアンティークという言葉がピッタリな豪華な馬車は、必ず本の山の手前で停止し、数人の係員が馬車の周囲でなにやら作業をしていた。……どうやら本の積み下ろしをしているようだ。
 屋内を馬車で移動とは、なんとも奇妙な光景だ。書庫の広さを考えれば頷けるのだが、やはり現実とはスケールが違いすぎる。
「歩きながら説明いたします。こちらへどうぞ」
「ああ」
 頷き、雪美ちゃんと並んでカウンターへ向かう。
「放浪大図書館で保管している書籍は大量にあります。今までに出版された全ての書籍。放浪大図書館独自に集めた情報、個人のメモから果ては子供のらくがきノートまで、あらゆる情報を紙媒体で保存してあります。……中には羊皮紙やパピルス、木簡といった物もありますから、一概に紙とは言えないのですが」
 荷台に本を満載した馬車が、空の馬車が、本棚の森へ書庫の外へと走っている。
「馬車で御者をしている者やカウンター内で働いているのは、全員司書です。本の整理や保管、持ち出しを管理確認することが仕事なのですが、あのように本の流れを制御しなければ本来の仕事もままならないほどの本が動いているのです」
 小山のごとく詰まれていた本が、十数人の手によって馬車へと詰まれ、あっという間に消えてしまった。と思ったら、馬車から十数人の手によって運び込まれた本があっという間に別の小山を作っている。
 御者役の司書がカウンター内の司書と書類のやりとりをしている。
 大判を一心不乱に書類へ押している司書がいれば、小山の本を見分している司書がいる。
 女性は雪美ちゃんと同じようなメイド服姿で、男性は黒いズボンに白いワイシャツにベスト、ネクタイという姿だ。
「へえ……凄いな」
 俺の感想に、雪美ちゃんが「そうですか?」と否定的な口調で答えた。
「結局は計画性が足りなかった結果だと思います。そうでなければ、図書室の一角でこのような集積所まがいのものを作る必要もなかったと思います」
「……なかなか厳しいことを言うんだな」
「率直な意見です」
 しばらく集積所の様子を眺めた後、雪美ちゃんが告げた。
「それでは、次の場所へご案内します。どうぞ、こちらへ」

 先ほどと同じような四方を扉に囲まれた部屋と扉が壁に延々と並ぶ廊下を歩き続け、そこに辿りついた。
「ここが放浪大図書館に訪れた方が最初に辿りつく場所、エントランスホールです」
 今まで感じてた古い洋館のイメージが、ここに来て間違っていなかったことを確信した。
 目の前に大きな階段があり、踊り場から二階へと二股に伸びている。その中央には草原を描いた大きな絵画が飾られている。天井には巨大なシャンデリア。床や壁は廊下と同じく赤い絨毯に白地に金の模様。
 床は大理石らしい白い床に、階段から中央の大きなドアまで赤い絨毯が続いていた。
「エントランスホールは全ての場所に通じている場所です。これから放浪大図書館を利用する場合は、最も慣れ親しむこととなる空間となるでしょう」
 言い終えて、雪美ちゃんは何か思い出したのか「注意しておかねばならないことがありました」と言い出した。
「私とはぐれてしまった場合などは、不用意に動かずその場に留まるようにして下さい。山崎さまの場合、あまり不用意に動きまわりますと手遅れになる可能性があります」
「俺の場合? 他の奴らは絶対に迷わないってことなのか?」
「はい。私たち従業員はもちろん、来館者の方も心得ていることです。そういう意味では、山崎さまは少々特殊だと思われます」
 おいおい、それじゃまるで俺が致命的な方向オンチみたいじゃないか。パウじゃあるまいし、地図さえあればなんとかできる自信はある。
「館内の案内板とか見れば迷ったりはしないって」
 少し自尊心が傷つけられた俺は、そう反論したのだが。
「案内板……ですか。いえ、そういう意味で言ったのではないんです――」
 雪美ちゃんはそう言って口篭もり、床を見て何かを考えはじめた。そして顔を上げるなり、
「では山崎さま。あの扉の向こうはどこに繋がっているかわかりますか?」
 中央階段の左下にあるドアを指差した。ちなみに、ここに来るときに使ったのは右下にあるドアだ。
 言うまでもなく、分からない。というよりも、初めてやって来た建物内の構造が分かる奴の方がおかしいと思うが。
「わかるわけないだろ」
「そこが、違いです」
「は?」
 雪美ちゃんの言葉の意味がさっぱりだ。
 そこに、放浪大図書館の奇妙な常識を説明される。
「山崎さまを除いた来館者が百人いたとして、その百人がわかることなのです。来館者の皆様も、案内を必要としたことはありません。誰もが知っていて当然のことを、山崎さまは知らないとおっしゃいます。ですから、山崎さまは特殊だと申し上げたのです」
「……そうか」
 納得はできないが、そういうものと理解するしかないんだろう。そこに畳みかけるように絶望的な事実た添えられる。
「付け加えておきますと、移動に使用するドアはその都度違っております。あのドアは現在ブラウジングコーナーへと続いておりますが、次はどこへ通じているかは扉を見ない限りわかりません」
「…………」
 俺は絶句してしまう。
 つまり、放浪大図書館の中っていうのは常時道が変わっていく迷路みたいなものってことで、俺以外は全員その迷路の解き方を知っているが俺だけは知らない。
「だったら、俺が出歩こうと思ったら絶対に誰か案内をつけないと駄目ってことか!?」
「駄目、というわけではありません。ですが、そうなると確実に迷ってしまうことになります」
「同じことだろうが……」
 俺がげんなりとした表情で告げる。
「いえ、案内をつけるつけないは山崎さまの自由です。同じではありません」
 淡々と俺の間違いを指摘する雪美ちゃん。
 とりあえず、俺のやり場のないもどかしさがさっぱり通じていないことだけを理解して、俺は深くため息を吐いた。
 起きてから何度目だろうか。現実との激しいギャップにやられてしまったのは。
 とにかく、どこかへ行こうと思ったなら必ず案内を呼ばなきゃ駄目ってことだ。
 まあ、迷ったところで例のベルがあれば何処でも人を呼べる――
 …………。
 ……そういえば俺、ベルは部屋に置いてきてたな。
 …………。
 …………。
 …………。
 絶対に雪美ちゃんから離れないようにしよう。
「それでは、次はブラウジングコーナーへご案内します」
 不必要な緊迫感に襲われながら、俺は雪美ちゃんの後をついて歩いた。

 ブラウジングコーナー。
 聞いただけではさっぱり想像できなかったが、雑誌や新聞が置いてある閲覧コーナーだということを、実際に見てようやく理解できた。
 そうか、あの場所はそういう名前だったのか。
 マンションから自転車で五分ほどの距離にある図書館にも雑誌や新聞が置いてあるコーナーがあったが、いちいちその場所の名前を気にしたことはなかったので、今まで正式名称なんて知りもしなかった。
 部屋は広々としており、部屋の二面がガラス張りで外の風景が一望できる。
 外は地面一面に雪が覆い、目の前にある小高い丘にはちらほらと岩や常緑樹が見つけられたが、それらも雪化粧をしている。空は快晴、真っ青な空に輝く太陽が雪面に反射して目が痛くなるような眩しさだ。
 ついさっき、部屋の前にある廊下から南国常夏の風景を見たのはなんだったのだろう。たかが風景と割りきってしまえばそれまでだ。というわけで、そうする。
 こう立て続けに理解不能な現象が出てくれば、対応の仕方も学習できてくるというものだ。というか、早々に学習しないと精神的に疲れてしまってたまらない。
 部屋の中心に雑誌や新聞が選びやすいようにラックに整理してあり、そこをグルッと囲むように長椅子が設置されていた。窓際にはいくつか丸テーブルがあって、椅子が四脚ずつ置いてある。
窓際周辺は吹き抜けになっており、見晴らしも開放感も最高だ。
 置いてある雑誌には日本の物もちらほら見つかったが、それ以上に多くある見知らぬ雑誌と読めない文字。新聞も同様で、アラビア語らしき文字で書かれた新聞を興味本意で手にとってみたものの、読むこともできないのですぐ元の場所に戻した。
 窓際から吹き抜けを見上げると、上の階の様子がよくわかった。どうやらここは6階ほどあるようで、どの階でも見晴らしの良い風景を楽しめるよう窓際のスペースには上の階に視界が遮られないようになっており、階段状に見える。天井もガラス張りで、空の青がよく見えた。
「それにしても、制服着た奴ばっかだな」
 階段を昇っていく男を見ながら呟く。
 先ほどから見かけるのは黒いメイド服かスーツばかりで、来館者らしき服装にはお目にかかっていない。ひょっとしたら俺のように来館者は全員服を着替えさせられているのだとしたら、見分けることなど不可能になる。
「放浪大図書館を訪れることの出来る方はとても少ないのです。それに対して館内の広大な敷地を考えますと、業務員以外と出会える可能性は僅かしかありません。山崎様は館長候補ですので特別に着替えを用意させていただきましたが、一般の来館者様は私服で来館されています――」
 説明を終えたところで、雪美ちゃんは天井を見上げた。
「なにかあったのか?」
 俺もつられて天井に目を向けるが、特に変わった物は見えなかった。
「失礼しました。館長代理の呼び出しを受けていました」
「……いつ?」
 声どころか、音、それらしい合図すらなかったはずだ。
 すると雪美ちゃんが「仮説でよろしければ」と断ってから説明をはじめた。
「おそらく、山崎さまが館長候補であることが原因ではないかと思われます。ドアとドアとの繋がりや館長代理の呼び出しが知覚できないように、様々な放浪大図書館独自の法則が山崎さまには適用されていないのでしょう」
 仮説の話をすること自体、雪美ちゃんも放浪大図書館のすべてを知っているわけではない証拠だろう。
 放浪大図書館って、一体なんなんだ?
「だったら、雪美ちゃんはその法則の中にいるっていうのか?」
「その通りです。私は、放浪大図書館の住人ですから」
 途端に、疑問が湧き出してきた。
「俺と雪美ちゃんのどこが違うっていうんだ? だったら、雪美ちゃんだって初めてここに来たときは慣れない場所だったわけだろ? どういう風にその『放浪大図書館の住人』ってやつになったんだ?」
「私はここに来たというわけではありません、放浪大図書館の住人として存在し、過ごしてきました」
「……どういうことだ?」
「山崎さま。山崎さまは大きな考え違いをしています。山崎さまが『館長候補』として放浪大図書館に足を踏み入れたのに対し、私は『従業員』として放浪大図書館に存在することを定められていたのです。私は牧原雪美という姿をして、牧原雪美の記憶を持ち、牧原雪美の想念によって『私』という人格を作っているのです。牧原雪美の全てを知っているのは、牧原雪美本人と『私』の2人ですが、私のことを誰よりも知るのは、私以外にはいないのです」
 雪美ちゃんの言葉は、あまりにも不可解な内容だった。
 俺の目の前にいる雪美ちゃんは、雪美ちゃんに極めて近い存在ではあるが雪美ちゃん本人ではない、ということらしい。
 だったら、お前は誰なんだ――そう言葉が出かかったところをぐっと堪える。この言葉は言ってはならない気がした。まるで目の前にいる雪美ちゃんを否定しているみたいに思えるからだ。わざわざ不快にさせる必要はないだろう。
 雪美ちゃんが深深とお辞儀をした。
「申し訳ありません。館長代理の元へ向かわなければなりませんので、山崎さまの案内をこれ以上続けることはできそうにありません」
「そうか?」
「え?」
 俺の言葉に、不思議そうに見返してくる雪美ちゃん。
「だってそうだろ? 俺は放浪大図書館の中を見学している最中なんだぜ。だったら、雪美ちゃんの行く先を見てまわったっていいだろ?」

 数多くあるドアと、そのドアとは大きく違うことがあった。
 何故なら、唯一そのドアにのみどこへ通じているのかはっきりと示す物がついていたからだ。

 『館長室』

 黒地に銀色の文字で書かれたプレートの貼られたドアを雪美ちゃんがノックすると、部屋の奥から「入れ」という声がした。
「失礼します」
 ドアを開けてから一礼し、雪美ちゃんが館長室の奥へと進んでいく。
 館長室は広かったが、それもおそらく一般的な部屋と比べての話で、放浪大図書館にしては充分現実的な広さだった。
 基本的には建物全体の雰囲気に沿っているのだが、全体的に茶系の色でまとめられている。床はカーキ色の毛足の短い絨毯で、壁紙は飾り気のないベージュ一色。絵画や陶器などが煩わしくない程度に飾られてはいるものの、部屋全体の印象としては、素っ気無い、というのが強い。
 入って正面にはおそらく館長席であろう大きな机、その左側にあるその半分ほどの大きさの机は秘書用といったところか。左側には3人はかけられる応接用のソファーが向かい合わせに二つあり、出入り口とは別のドアが右側の壁に一つあった。
 その秘書用の机に座っているのは、リトラルだった。先ほど会ったときにはしていなかった小さな丸眼鏡をかけ、なにか書き物をしながら告げてきた。
「少し遅かったな」
「申し訳ありません」
 雪美ちゃんが頭を下げ、頭を上げ終るのをまるで見ているかのような丁度のタイミングで声をかける。
「いや、いい。私も急ぎの仕事が入った。少し待て」
 書類をさっと目を通しただけでサインをして大判を押し、書類を横に積む。次の書類を手に取るとやはりさっと目を通しただけで、今度は書類の端に何やら書きこみを入れてから先ほどの書類とは別の書類の山に積む。
 興味本位でリトラルへと近づき、机前に立って仕事風景を観察する。
「……ん?」
 リトラルが怪訝な顔で顔を上げた。
 俺の姿を認めた途端、
「うあわあっ!」
「おおっ!?」
 椅子から飛びあがらんばかりの勢いで、リトラルが万歳の姿勢で硬直した。
 リトラルの驚きに驚いた俺は、胸を押さえながら息を吐く。
「な、なんだよ……驚かすな」
 あ、ちょっとドキドキしてる。
「ああ、いや、すまない。山崎殿がいるとは気付かなかったものでな」
 軽く咳払いをして居住まいを正す。
「何か用でもあるのか? 私は業務中なのであまり相手をしている時間はないが」
 言いながら再び書類に視線を落とし、サインや判子を押す作業を再開する。
「見学だよ、見学。雪美ちゃんに案内してもらって、館内を見て歩いているとこなんだよ」
「そうか。しかし、牧原雪美はこれから別の仕事についてもらわねばならない。案内ならば他の者を――」
「いや、だからそれも含めて見学しようかなー、とか思ってるんだわ」
 ピタリ、とサインをしていたペンの動きが止まる。
「…………」
 書類に視線を落とした姿勢のまま、リトラルが動かなくなった。
 なんだ? 仕事を見学するのはなんかまずいのか?
「……業務に興味があるのか?」
 ペンの動きを再開させながら、リトラルが訊いてきた。
「まあな。何やってんのかなー、ぐらいのもんだけど」
 一旦停止されたサインは、後半からはヘニャヘニャで見るも無残な形となっている。
「そうか。興味があるのか」
 あーあー、書類に押された大判が擦れて汚くなってしまった。
「だって気になるだろ? 新しい場所に行くたびに疑問が増えていくんだ。なにがどうなっているのか、知りたいことが山ほどある」
 ……書類に、小さな花丸がいくつも書かれていく。いいのか? そんなの書いていいのか?
「ふむ、そうか。それは良いことだ。まずは放浪大図書館に慣れてもらわなければ何も始められないと思い、館内見学を進めたのだが……興味を持つというのは良い兆候だ」
 リトラルは丸眼鏡を机に置くと、ペンを置いて立ちあがった。
「では、さっそく次の業務を見ていってもらおう。山崎殿はついている。次の業務では放浪大図書館で製本された最高傑作が見られるぞ」
 機嫌良さそうに、リトラルは部屋の横にあるドアから1人でずんずん歩いていってしまう。
「山崎さま、参りましょう」
「あ、ああ」
 いつもニコニコしている雪美ちゃんがポーカーフェイスをしていると戸惑うが、普段から無表情のリトラルが微笑しているというのも慣れないもんだな。
 いや、リトラルの場合は無表情というわけでもないか。変化の度合いが少ないだけで、喜怒哀楽はちゃんと顔に出ている。
 館長室から出ると、リトラルは大分先に歩いていってしまっているのが見えた。急ぐ必要もないのか、雪美ちゃんはこれまでと同じペースで歩いている。俺も雪美ちゃんの歩調に合わせ、やはり端の見えない廊下歩いていると。
「ふう……」
 雪美ちゃんが気落ちしたような嘆息をした。
「どうかしたか?」
「館長代理がはりきっているので、次の業務に影響されることを案じていました」
 表情にはそんな様子は微塵も感じられないが、本人が言うのだからそうなのだろう。
「そういえば、次の業務ってなんだ? 馬車の御者でもやらされるのか?」
「訓練です」
「訓練?」
 なんだ? ホテルマンが接客について学ぶように、司書もなにか覚えなければならないことでもあるのだろうか。
「書籍の取り扱いについての訓練です」
「へえ。そんな訓練なんてあるのか」
「はい」
 頷いて、再び嘆息する雪美ちゃん。
 雪美ちゃんの落ち込み具合からいって、普段からそうとう厳しいものなのだろう。
 それが、俺も見学するということでやる気になっているリトラルは、更なる試練を雪見ちゃんに与えるだろう、と。
 ……俺にも責任あるよな。
「ごめん、雪美ちゃん。なんか俺のせいで――」
「いえ、山崎さまに問題があるわけではありません。心配されると、私の方こそ申し訳なくなってしまいますので、お気になさらないで下さい」
 その言葉を最後に、2人の会話が途切れてしまった。
 うーん、そう言われても心配になるものは仕方がないだろう。
 なんか雪美ちゃんが可哀想だな。
「問題は、私の迷いですから」
「え?」
 唐突に理由を言われても、俺は間抜けに聞き返すしかできなかった。
「山崎さま。冷たい方程式というものをご存知でしょうか」
「なんだそれ?」
 方程式に温度差なんて関係ないだろう。
「……例え話をします。山崎さまの手には二本のロープが握られています。それぞれのロープの先には崖に落ちそうな子供が一人ずつ掴まっているのですが、山崎さまは子供二人分の体重を支えることはできません。このまま二本のロープを持っていたら、山崎さま共々三人は崖に落ちてしまいます。ですが、どちらか一本のロープを放せば、子供一人と山崎さまの命は助かります。この場合、どちらのロープを手放すのが正解だと思われますか?」
「難しい話だな」
 それは、どちらを選んでも正解ではないんじゃない気がする。
 というよりも、いくら考えても答えは出ないだろ。
 俺は正直に思っていることを答えた。
「どっちのロープを放すかは、本当にそういう状況になってみないとわからない。本心は、両方とも手放したくないけどな。俺はギリギリまで三人が助かる方法を探していると思う。最後の最後、崖に落ちる寸前まで悪あがきを続ける」
 俺は諦めが悪い方だからな。最善を選べるまで、俺はロープを手放さない。それだけは確信できる。
「……そうですね。私も山崎さまと同じ気持ちです」
「そうか」
 だが、正解ではない。
 答えがわからなくて「わかりません」と言うよりも上等、っていうだけのことでしかない。望む正解は三人が助かる道で、助かる手段は見つからないのだから。
 それっきりお互いに口を開かないまま、目的の場所に到着した。

 長方形の狭い部屋だった。
 長辺部分にそれぞれドアが3つずつの系6個あり、短辺にあるドアの1つが俺が入ってくるのに使ったドアで、向かい側のドアの前にはカウンターが設けられていた。
 そこにメイド服の若い女性が立ちあがり、俺達――というよりもリトラルに頭を下げた。
「リトラルさん、いらっしゃい」
「今日は再現室中ホールを使う。前回用意するように指示した書籍は?」
「はい、用意出来てあります」
 手をあげて応じながら、リトラルはカウンターで何やら聴き慣れない単語をつかっている。
 横にいる雪美ちゃんに、さっそく尋ねることにした。
「再現室ってなんだ?」
「言葉の通り、あらゆる現象を再現することの出来る部屋です。再現するには、その現象の情報が必要ですが、情報源には放浪大図書館にて保管している書籍がありますので、再現できる現象はほぼ皆無と言えます」
「へえ、なんか凄そうだな」
 凄さは伝わってくるのだが、いまいちピンとこない。
 ま、これから使おうっていうんだから、すぐにわかることか。
 リトラルがカウンターの女性から3冊の分厚い本を受け取って振り返った。
「こっちだ」
 リトラルが右側にある真ん中のドアに入っていく。
 続いて俺達も中に入ると、そこは真っ白い空間だった。
 広さ的にどれくらいあるのかさっぱりわからない。何せ全面が白一色で、遠近感を掴む目印が何もない場所なのだ。ドアも裏側から白く塗られており、閉められている今、どこにドアがあったのかすら見つけられない。どこまでも続いているようで、一歩進んだだけでぶつかってしまいそうな、まるで視覚に頼ることが出来ない空間だ。
「山崎殿は危険なので二階に上がっておく方がいいだろう」
「おいおい、雪美ちゃん相手に危ないことをしようってのか?」
「ああ。だが、牧原雪美は毎日やっていることだ。それにこれは必要なことでもある。いくら山崎殿でもやめさせることは不可能だ」
「私は大丈夫です。ご心配なく」
 二人にそう言われては、俺からはもう何も言えなかった。
「……で、二階はどこにあって、どうやって上がればいいんだ」
 一見しただけでは、どこに二階があるのかすらわからない。
「そこに梯子がある」
 指を指された方角には、やはり何も見えない。半信半疑で歩み寄り、手探りで探してようやく壁と梯子のような出っ張りを見つけた。
「そうか。山崎殿には少々辛いか」
 俺が梯子を見つけるだけで四苦八苦しているのを見ていたのだろう、そう言って指を鳴らすと、目の前の梯子に色がついた。その色が広がっていき、2階部分も姿を現した。2階といっても人が横に3人ギリギリ並べるか、といった程度の幅しかない小さなスタンド席のようなものだった。
「……へえ、中ホールったって、かなり広いな」
 白い空間に目印となるものが出来たことによって、空間の広さも大体把握できた。学校の体育館など楽に入ってしまう広さだ。
 梯子を使って2階部分へ上がり、手すりにもたれながら下を見下ろす。丁度2人が再現室の真ん中辺りに辿りついたところで、俺も一番近い場所まで二階を歩いて行く。
「では、今日の訓練を始める」
「はい」
 リトラルの言葉に頷き、雪美ちゃんが両手を上げて空の何かへ訴えかけるような姿勢をとる。
「夜明けを!」
 雪美ちゃんが叫ぶと、両手の中に大きな辞典のような本が出現した。暗い青色の本の装丁には銀色の金属が使われており、本を綴じる金具と錠も同じく銀色の金属が使われている。その上からやはり銀色の鎖がぐるぐる巻きにしてあった。辞典は真新しく、金属部分がピカピカに輝いているのが俺の位置からでもよくわかった。
 雪美ちゃんが鎖の端を持って、思いきり引っ張った。本が勢い良く回転しながら鎖の束縛から解かれて行く。鎖の擦れるジャララララッという音が小気味良い。
 鎖の先端を、束縛から解放された辞典の鍵穴に近づけていく。鎖の端についていた小さなキーホルダーらしきものが辞典の鍵だったようだ。
「開錠!」

 ガチャリ

 小さいにも関わらず、深く耳に残る音を残して鍵は開いた。
 雪美ちゃんは辞典に巻きついていた鎖を左腕に巻き取り、右手に辞典を持った。
 それを見ていたリトラルは、小さく頷く。
「よし」
 リトラルは持っていた本を床に置くと、本が床に沈みこみ、消えてしまう。その瞬間、白い空間が一変した。
「は!? な、なんだよ、おい!」
 俺は、歩道橋の上に立っていた。下には片側三車線の道路があり、乗用車やトラックが行き交っている。歩道にも当然通行人の姿がある。道路の両脇には背の高い商社ビルが立ち並び、いくつも看板を掲げている。
 街路樹の植えられた中央分離帯では、リトラルと雪美ちゃんが平然と向かい合っていた。
 一瞬現実に戻ったのかと思ったが、すぐに否定した。背後に手を伸ばし、壁があるはずの空間に手を伸ばすと――ちゃんと壁に触れられた。視覚的には壁の奥にも風景が続いている。見えない壁に阻まれているようだった。
「こ、これが再現できる現象の1つ、ってことなのか……?」
 雪美ちゃんの言った通りだ。なんでもありという意味がようやく理解できた。
 今日一番の驚きだ。
 だが、次の瞬間には更に驚くべきことが起きた。

 キシャオォォン

 甲高い動物の鳴き声に顔を上げると、ビルの屋上の影から飛び出した化物が3匹、急降下してこちらに向かってきているところだった。
「はあ!?」
 化物は空想上の生物――ドラゴンに見えた。ドラゴンにしては体が小さく、前足は翼と一体化しているようだった。進吾の家の漫画で見た、飛竜というやつに近い。
 なんだっただろうか。進吾のうんちく話でなにか聞いた記憶がある。西洋竜と東洋龍ってのがいて――
「って、んなこと考えてる場合じゃねえっ!」
 真っ直ぐこっちに向かってきてるっつーのに、逃げないと死ぬ!
 慌てて走り出そうとしたところに、
「ご安心を」
 横から雪美ちゃんの声がした。
「え?」
 声のした方向へ振り向き、呆然とした。
「山崎さまに危険が迫るようなことはありません」
 歩道橋の柵の向こう側に浮いている雪美ちゃんが、これまでと同じ調子で告げている。
「……え? ええ?」
「それでは失礼します」
 一礼すると、急上昇。飛竜も追い抜いて空高く飛んでいく。それを見た飛竜3匹も急降下をやめ、翼を大きくはばたかせて雪美ちゃんを追っていく。
 飛竜が炎を吐いた。空中を伸びていく炎の舌を、軽やかにかわす雪美ちゃん。
 随分と空高く飛びあがったな。なにをしているのか詳しくは見えない。せいぜい炎の帯が広がっているとか、氷の塊が飛び散っているとか、ぐらいか。ただ、飛竜が跡形もなく消滅している様はここからでもはっきりと見てとれた。
 上昇してから、互いに空中ですれ違った際に飛竜が一匹真っ黒になって消え去り、そこから飛竜は二手に分かれて雪美ちゃんへと炎を吐きかけたのだが、避けることなく2匹に向かって氷の塊を雨あられと叩きつけ、氷漬けになった2匹に雷を幾本も落として粉々に粉砕してしまったのだ。
 あっという間の出来事に、俺はぽかんと口を開けて見上げているだけだった。
「あれが、放浪大図書館で製本された唯一にして最高の書物『朝日を呼ぶ書』の力だ」
 足音ひとつ立てずに俺の隣まで近づいていたリトラルが、雪美の戦果に満足げに頷きながら説明してくれた。
「『朝日を呼ぶ書』?」
 言っている間に、新たな化物が現れた。路上に現れたその姿は、一見人間のようだが、頭が犬の形をしている全身毛むくじゃらの化物だった。そいつらが、通行人に襲いかかる。
「人は、何をもって明日を実感するだろうか。日付が変わったら? 確かに。目が覚めたら? それもそうだ。だが、人類全てが明日の到来を知る完全確実な証というものがある――それは、朝日だ」
 上がる悲鳴。犬人間が通行人に噛み付こうとした瞬間、歩道に植えられていた街路樹から枝が伸び、犬人間の手足や胴を貫いてアスファルトに縫いつけた。
 路上のあちこちから悲鳴があがる。そこかしこから出てきた犬人間が、無差別に路上の歩行者に襲いかかっているのだ。平凡な街の風景が一転、混乱が支配する悲鳴と怒号の世界に変わった。
 だが、犬人間の牙も爪も、犠牲者の血に染まることはなかった。街路樹の枝が、アスファルトを割って突き出した石の槍が、空から降り落ちる氷塊が、次々に犬人間を仕留めていくからだ。
 俺はリトラルの言葉を理解するのと現状の把握に思考処理を全て使ってしまっていて、今起きている事態を受け止めるだけで精一杯だ。
「例え今日が絶望に満ちていようとも、明日さえあれば希望を取り戻せるかもしれない。例え明日に絶望が待っていようとも、今日の希望があれば戦っていけるかもしれない。だが、明日がなければ、明日が来なければ……終わりだ。今日が終われば何もない。絶望など生易しい。明日を失った虚無を知れば、永遠に続く絶望の道ですら愛しくなる」
 倒しても倒しても、犬人間は路地から出て来る。倒した分だけ増えていく。
 車道に飛び出してきた犬人間に驚いたのか、一台の乗用者がガードレールに衝突。その後に数台が玉突き事故を起こした。
 雪美ちゃんが事故を起こした車へと文字通り飛んで行く。どうやら運転手の中には重傷者はいないらしく、動かなくなった車から飛び出した運転手が自分の足で逃げていた。
 その間にも雪美ちゃんは攻撃の手は全く緩めない。それどころか激しさを増している。
 だが、とうとう被害者の絶叫が響いた。
 背広姿の中年男性が、背中をどす黒い赤に染めて倒れこむ。そこに犬人間が止めを刺そうと、返り血に赤くなった爪を振り上げた。
 その瞬間、銀色の閃光が狼男の上半身を通りぬけた。
 ずるり、と腰から上が滑り落ちていく。犬人間の上半身は、下半身と離れ離れになって地面に落ちた。銀の閃光は、雪美ちゃんの左腕から伸びていた。持っていた鎖が長く伸び、途中から刃物のように変化しているのが見える。
 雪美ちゃんが物凄い勢いで傷ついた男性の元へと降り立つ。男性の傍らにしゃがみこむと、持っている辞典から金色の光が放ち、そのまま飛び立つ。その間にも犬人間は次々に倒れている。
 少しして、傷ついていた男性が立ちあがった。不思議そうに背中に手をあてながら、その場から逃げ出していた。どうやらあの辞典には傷を癒す力もあるようだ。
「明日を滅ぼす虚無の具現を倒す力。明日を守る世界最強の力。明日のために生まれた力には、朝日の名こそ相応しい。あれが『朝日を呼ぶ書』だ。放浪大図書館が集めた力の結晶にして、今日と明日とを繋ぐために出した結論の1つだ」
 犬人間達の半数近くは、路上にいては狙い撃ちにされることを悟ったのか、それぞれ手近な建物に飛び込みはじめた。
 すると、雪美ちゃんは路上に降り立ち、『朝日を呼ぶ書』のページを開いて鎖の先端にある鍵をカッターのように使って数ページ切り取った。
 切り取られたページを宙に投げるとそこから光が溢れ、中から火の玉がいくつも飛び出してきた。よく見ると火の玉は炎を纏った蜥蜴で、火蜥蜴はその場から様々な方向に散り、犬人間を追って建物内へ消えていく。
 雪美ちゃんは新たなページをめくり、鍵でページを切り取り、投げる。すると次は背の低いずんぐりむっくりとした人影が現れた。どれも顎鬚をたくわえたいかつい顔で、斧やら鎚やら、物騒な獲物を持ち、皮製らしき土に塗れた鎧をまとっていた。騒々しい足音を立てながら、やはり建物内へと走り込んでいく。
 その後、書からは軽装の女性が2人出てきて、犬人間に攻撃をはじめた。1人は透き通るような青い衣を身に纏った女性で、掌から大量の水をほとばしらせる。もう1人は小柄な少女が若草色のチョッキに短パンという姿。踊るように駆け抜けるたび、近くにいた犬人間が無数の切傷を作って倒れていった。
 雪美ちゃん自身も、氷の散弾を、街路樹の枝を使って犬人間を仕留めていく。
 怪我を負った人に駆けよっては傷を癒し、時には鎖を剣に変え盾に変え、逃げ惑う人々を守る。
 見ているとよく分かった。雪美ちゃんは全ての人を守ろうとしている。誰一人として死なせまいと、無事に逃がすために全力を尽くして戦っている。
 雪美ちゃんの必死な形相。誰かが傷つくたびに見せる悔しげな表情。助けられたことを喜ぶ一瞬の微笑み。
 俺の希望の体現が、そこにあった。
 馬鹿げた話かもしれないが、俺は本気で彼女のことを正義の味方だと思ってしまった。
 いつか信じた正義の味方。
 誰をも助ける正義の味方。
 親父に殴られて泣きながら布団の中でうずくまっている時の夢想。いつか俺を助けにやって来てくれる正義の味方の存在を信じていた、幼い頃の記憶が蘇ってくる。
 その正義の味方が、ようやく俺の目の前に現れたのだ。
 ――俺よりもよっぽど弱そうな、少女として。
「すげえよ……。ほんと、すげえ……」
 自然と感情が言葉になって出ていた。
 嬉しいはずだ。
 それなのに、どうしてこんなに情けない気持ちになるんだろう。こんなにも敗北感を味わってしまうんだろう。
 俺が雪美ちゃんと同じくらいの年頃の時、何をしていた?
 親父を憎み、義母を嫌い、どうにもならない周囲の環境に苛立ち、それらを拳に乗せて周囲に当り散らしていた。
「すげえよな……。雪美ちゃん、すげえよ……」
 正義の味方になりたいなんて思ったことはない。憧れたことだってない。それなのに、どうしてこんなに雪美ちゃんが羨ましいんだろう。
 俺が『朝日を呼ぶ書』を手にしたら、雪美ちゃんと同じことが出来るだろうか。力の大きさに怯え、誰も使えないよう書を封印してしまうかもしれない。それとも、欲に溺れて力で世界の頂点に立ってやろう、とでも考えるのだろうか。
 どちらにしても、雪美ちゃんに自分の姿を重ねることができない。雪美ちゃんの戦う姿は、それだけ真っ直ぐで、俺が手を伸ばしたくらいでは届かないほどの高みにあるように感じられた。
 歩道橋の柵を握り、俺はその場にしゃがみ込んで下を向いた。
 情けない顔をリトラルに見られたくなかったし、これ以上、雪美ちゃんが戦う姿を見ていられなかった。

 長く続いていた戦闘音が途絶えて少し経つ。
 ようやく落ちついた俺は、立ち上がって周囲を見まわした。まるで廃墟のような周囲の惨状に、少なからず驚いた。道路のあちこちに転がっている犬人間の死体の数々。ビルのほとんどの窓ガラスは割れ、アスファルトは穴だらけ。人の気配はどこにも見当たらない。
 リトラルを見た。その顔には苦渋が満ちている。
「これからが本番だ」
「なんだって? だったら今までのはなんだったんだよ」
「ただのイレギュラーだ。この訓練では実戦を想定している。あらゆる不確定要素に対応した上で、『朝日を呼ぶ書』を本来の用途に使えなければならない。これまで使われていた力は、『朝日を呼ぶ書』にとっては、ほんの僅かなものでしかない」
 あれだけの力ですら、僅かというのか。俺が見ていただけでも、とんでもないものだった。あの本一冊だけで、軍隊とも渡り合えそうなもんだぞ。
「さあ、見ていてくれ山崎殿。これが放浪大図書館の生まれた原因だ。放浪大図書館が生まれねばならなかった理由だ。明日を砕く世界の害悪、世界に終末を運ぶ、神と悪魔と人の敵を!」
 リトラルが指差した方角には、何かが浮いていた。ここからでは遠くてよく見えないが、どうやら霧か雲のようにも見える。
「……あれが敵か?」
 白い霧は風に流されふわふわと、電線にひっかかってしまった。
 あれだけ脅かすから、どれだけ凄い怪物が出て来るのかと思っていたが、肩透かしもいいとこだ。
「なんだ。吹いただけで消えてなくなりそうじゃねえか」
 俺は笑いながらリトラルに話しかけたが、霧を睨む顔に浮かぶ憤怒と全身から湧きあがる拒絶の雰囲気に、口を閉ざすしかなかった。
 じっと観察していると、電線に引っ掛かっていた霧が、次第に膨らんでいるのがわかった。ゆっくりと、確実に、霧は広がっていく。
「雪美ちゃんはなんで攻撃しないんだよ?」
 言いながら、雪美ちゃんの姿を探す。
 ……いた。
 霧からおよそ10メートルほど離れた場所で、地面にへたり込んでいる雪美ちゃんの姿があった。
「雪美ちゃん――!?」
 見ていなかった間に重傷でも負ったのだろうか。反射的に駆けだそうとしていた俺を、リトラルが押し止める。
「牧原雪美は過度の疲労にあらがえなくなっているだけだ。命に別状はない」
「……じゃあ、怪我をしたってわけじゃないんだな」
 ほっと胸を撫で下ろしたが、今の雪美ちゃんは立っているのも辛いほど疲れているということになる。あまり安心できる状態でもないだろう。
「書の力を発動させすぎた。書の力は、使えば使うだけ使用者に極度の疲労を与える。これは、目的を見失った牧原雪美のミスだ」
 その言葉に、カチンときた。
「ミス? 人を守るのが間違いだったってのか?」
「そうだ」
 相変わらずしかめっ面で雪美ちゃんを見つめながら、リトラルは平然と頷いた。
「『明日を呼ぶ書』の力は無限に等しい。それは神にも匹敵する力を内在している。だが、力に対してそれを使うだけの能力が牧原雪美には足りていない。力の使用量を抑えなければならないにも関わらず、牧原雪美は目先の敵に惑わされ、書の力を乱発した。ワイバーン、ワーウルフ、あの程度の存在から身を守るだけならば『夢幻連鎖』――書の封印の要であるあの鎖1つで事足りた」
「それだと大勢の人が犠牲になるんじゃないのか?」
 俺の言葉に、リトラルが嘆息した。
「牧原雪美もそう言う。そう言って、皆助けようとする。……山崎殿、負ければ明日が終わる戦いの中で、目の前の数十人を助けるために余力を割き、そのせいで負けてしまったらどうなる? それでは助けた数十人も死ぬことになる。ならば、数十人は最初から切り捨てるべきだ」
「そうじゃねえだろ? 雪美ちゃんは、全ての人を守るつもりで戦っていはずだ。でなけりゃ、あんな立派には戦えねえよ。例え理想論だって、俺は雪美ちゃんが正しいと思うぜ。第一、守れないかどうかはやってみなけりゃ分からないだろ」
 リトラルは小さく首を振る。
「幾回と繰り返された訓練の中で、牧原雪美が訓練終了まで自らの両足で立っていた回数を知っているか?」
 その表情から、その回数というのが絶望的なまでに少ないということは簡単に知れた。
「山崎殿。牧原雪美の行動が正しいかどうか、訓練の結果を見ていればはっきりする」
 会話を続けている間も、霧は膨らみ続け、雪美ちゃんはぐったりしたままだった。
 しばらくして、アスファルトに座りこんだままだった雪美ちゃんが左腕をふるった。鎖が伸び、霧が引っ掛かっていた電線の両側を切断する。すると霧が震えたかと思うと、途絶えた電線の向こうへ移る。そこを更に鎖で斬る。
 それを数回繰り返して、霧が次の電線へ向かうのをやめた。目標を雪美ちゃんに切り替えたのだ。
 それを見て、おぼつかない足取りで立ちあがった雪美ちゃんは、書の新たなページを開き、霧に向かってかざした。
「……ん?」
 『朝日を呼ぶ書』の開かれたページから放たれた光が、霧を照らしている。
 それだけだった。
 霧は変わらず雪美ちゃんに近づいているし、大きさも変わらないままだ。
「あれが何の攻撃になっているんだ?」
「……攻撃ではない。ただの光を照射しているだけだ。本来なら有効な攻撃となる力だが、牧原雪美の体力、精神力、集中力、その他の能力が『朝日を呼ぶ書』の力を引き出す水準を下回ってしまったのだろう。自然現象を操る程度ならまだなんとかなるだろうが、奴に物理的な攻撃は効果がない。このままでは、負ける」
 そんな。
 雪美ちゃんが負けるのか?
 見ると、霧の接近に雪美ちゃんがじりじりと後退をはじめていた。効果が出ていないのは一目瞭然だが、まだ諦めていないのだろう。光で照らすことをやめようとはしない。
 ……くそっ、俺には何もできないのか?
 これは訓練だ。分かっている。それでも、こうして見ていることしか出来ない自分が許せなかった。
 なんでもいいから、雪美ちゃんの力になりたい。
 ようやくわかった。ここに来るまでにした雪美ちゃんの質問の意味。二本のロープと子供の話。
 雪美ちゃんは、毎回子供を二人とも助けようとしているんだ。訓練でも、目の前で人が死んでいくのが見ていられないんだ。だから両方のロープを握ったまま、毎回今のような戦いをしているに違いない。
 飛び出したところで、何が出来るわけでもない。ただ、雪美ちゃんには負けて欲しくなかった。勝って、雪美ちゃんが正しいということをリトラルに見せつけてやってくれ。
 俺は雪美ちゃんが間違っているとは思わない。雪美ちゃんは今のままでいい。あの戦いぶりを見たからこそ断言できる。雪美ちゃんこそ、力を持つに相応しい人間だ。
 自分の選んだ行動を証明するためにも、雪美ちゃんは勝たなければならない。
 なんとかしたい。なんとかしてやりたい。何ができる? 何もしないでいるのは御免だ。なんでもいい、何かないか、何か――
「雪美ちゃんっ! 頑張れぇぇぇ!」
 思いついたのは、とても簡単なことだった。
 それは、応援すること。
「そんなもんに負けんじゃねえ! 根性見せろ! 最後まで諦めるなっ!」
「……山崎殿?」
 突然大声を出したことに、リトラルが驚いていた。目を丸くして、絶叫を続ける俺を見つめている。
 ああ、くそっ。俺が叫んだくらいでどうにかなるわけでもないだろうに。何もしない方がまだ雪美ちゃんの邪魔にならないだけマシなんじゃないか?
 何もできない無力感に、俺は声を上げる気力が萎えてくるのを感じる。それでも、俺は叫び続けた。
「頑張れぇぇぇ! 雪美ちゃん! 頑張れぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
 俺の絶叫は果たして雪美ちゃんに届いているのだろうか。
 不安にかられながらも声をからしていると。
 雪美ちゃんが振り向いた。
 放浪大図書館に来てから――初めて雪美ちゃんが俺に笑いかけてくれた。
 霧に向き直ると、本から放たれる光が強くなる。
 すると、霧がみるみるしぼんでいくのが見ていてわかった。
 光が強くなってから霧が消えてなくなるまで、10秒とかからなかった。
「ぃよしっ!」
 俺は思わずその場でガッツポーズをしてしまう。それぐらいに嬉しかった。
「どうだリトラル! これで雪美ちゃんが間違ってなかったってことが証明されたろ!」
 まるで我が身のことのように喜びながら、リトラルの肩を力強く叩いた。
「山崎殿」
 だが、リトラルは笑っていなかった。悔しそうでもなかった。
 ただ、悲しそうな瞳を俺に向けていた。

 ゴガガガンッ

「え?」
 雪美ちゃんの前に突如現れた、腕が四本もある大男。背の高さは雪美ちゃんの倍以上あり、その身長と同じくらいの大きさの大剣をそれぞれの手に持っていた。
 それら全ての切先は、今、雪美ちゃんを押しつぶしていた。
「あれだけを倒せば訓練が終わるわけではない。訓練は、続行している」
 リトラルの声が、とても遠くで聞こえているように感じた。
 俺の意識は、怪物の剣先に集中している。
 怪物は、剣で押しつぶしているのではない。
 倒れている雪美ちゃんの――
 背中を――
 腕を――
 足を――
 突き刺し――
 理解する前に、真っ赤に染まっていく雪美ちゃんの姿が見えた。
「お――」
 感情が、俺の思考を吹き飛ばしてしまった。
「お前えええええええええええええええええええええええええええええええええええ!」
 俺は絶叫して、駆け出した。
 許せねえ!
 許せねえ!!
 ぶっ殺してやる!!
「落ちつけ、山崎殿!」
 歩道橋の階段を降りようとしたところを、俺の腕を取ってリトラルが引き止めてくる。
「落ちついていられるかっ! あの野郎! あの野郎があああああああ!」
 言おうとする言葉が、感情に焼かれて中途半端な形でしか出て来ない。
「大丈夫だ、牧原雪美なら大丈夫だ。『朝日を呼ぶ書』を持っている限り、死ぬことはない。絶対にだ。それは力の使用以前の問題で、所持者を守るべく書が自動的に――」
 うるせえっ!
 そんな事を聴きたいんじゃない!
 俺は、あいつをぶっ飛ばさなきゃ気がすまねえんだよ!
「離せっ!」
 俺はリトラルを強引に引き剥がし、階段を駆け降りていく。
「くっ、山崎殿! 山崎殿がこの場で死ぬということは、現実での死を意味する! その行動に意味は無いと理解しているのか!?」
 知ったことか!
 あいつだけは絶対に許せねえんだよ!
「強情者がっ! こうなれば力づくにでも取り押さえる!」
 リトラルの言葉に呼応したかのように、歩道橋の手すりが捻じ曲がり、階段を駆け降りていた俺の両腕に絡みついてその場に拘束してしまう。
 くそっ! 抜けない!
 その場でもがいているうちに、リトラルがゆっくりとした足取りで階段を降りてきた。
「ほどほどにしろ。安全地帯である歩道橋から降りれば、山崎殿も訓練者の一人として狙われることになる。生身の人間では抵抗らしい抵抗もしない間に殺されるだけだ。奴等にとって、人間とは食料でしかない」
「いいからこれをなんとかしろ! 雪美ちゃんがっ! 雪美ちゃんがあっ!」
 ちくしょう! こんな、こんなのってねえよ!
 雪美ちゃんは何も間違っていない! なのに、なんであんなことにならなきゃならねえんだ!
 4本腕の怪物が、狂ったように剣を雪美ちゃんの身体に叩きつけているのが見える。その度に血飛沫が舞い、赤く染まった切先が俺に現実を突きつける。
 これ以上あいつの好きにさせてたまるか!
 ようやく現れたんだ! やっと見つけたんだ!
 正義の味方ってやつは、絶対に負けたりしねえ!
 絶対に負けない! 俺が勝たせてやる!

 ビキッ

「なんだと!?」
 リトラルが驚きに満ちた声をあげる。
「くおおおおおおおおおおおおお!」
 歯を食いしばり、全身全霊の力を込めて抜け出そうとする。

 バキンッ

 よしっ、両腕が軽くなった!
「そんな馬鹿なっ!」
 自由になった俺は、雪美ちゃんに向かって駆け出す。
「わ、私は知らない……。山崎殿にそんな能力があるなんて、知らなかった……。いや、ありえない! ありえないはずだ! 放浪大図書館に存在しない情報があるなど――」
 呆然としたリトラルの呟きを聞き流しながら、俺は走りつづける。
 一心不乱に剣を振り下ろしていた化物の顔が、俺の方に向いた。四つある真っ赤な眼が、俺を見据える。
「おらああああああああああああああああ!」
 拳を固めて、真正面から突っ込んでいく。四本ある腕が、それぞれ剣を振り上げるのが見えた。
 振り下ろされる――!
 全身のバネを使い、地面を蹴って真横に飛ぶ。
 風がおきた。
 四本の剣が、俺の一瞬前にいた場所に四つの穴を穿つ。
 化物の横を走り抜ける。耳元を猛スピードで何かが通りぬけたがそんなのは無視だ。俺は勢いに任せて雪美ちゃんを抱え上げながら走り続ける。
 真っ赤に染まった雪美ちゃんの身体。手につくべっとりとした感触。足が震える。歯の根が合わない。それでも足を動かすのをやめない。
 ぼろぼろの姿になりながらも、雪美ちゃんの胸は小さいが確かに上下していた。ほっとする。良かった。息はある。血液に汚れた全身を見る限りじゃ重傷としか考えられないのだが、ざっと見た限りじゃ大した外傷も見当たらない。
 気を失っているのだろう、雪美ちゃんはぐったりとしたまま動かない。手にはしっかりと『朝日を呼ぶ書』を抱えたままでいるところに、意思の強さを感じられた。

 ズズン……

 どこか遠くで、地響きがした。
 なんだ? あの化物が何かしたのか?
 肩越しに振りかえると、ちょうど化物が剣をこちらに投げつけた瞬間だった。
 四本を一度に。
 赤い軌跡を残して凶器が四方から迫る。
 やばい。
 逃げ――……いや無理だ、これは逃げられない!
 瞬時に判断し、俺は雪美ちゃんを抱えたままダイビングヘッドよろしく前方へ飛びこんだ。
 雪美ちゃんの頭と身体を抱えて、せめて雪美ちゃんだけは傷つかないよう、全身を使って庇う。
 くそったれ、こんなところで終わってたまるかよ!
 歯を食いしばり、目蓋をぎゅっと閉じて衝撃に備えた。

< 続く >

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