降魔ヶ刻 第一話

第一話

「痛てぇ……」

 たったそれだけの言葉を呟いただけで、全身に激痛が走る。息をするのも辛いのに、バカなことをしたものだと、坂下章司はぼんやりとした意識の中で苦笑いした。

(これは、やっぱりマズイんだろうなあ)

 ほんの数分前まで、彼はバイクで山道を走っていた。車の通行がほどんどない、山間部の新しい道路。多額の税金を無駄遣いしたと不評が絶えないが、少年にとっては、ツーリングに最適な素晴らしい道だった。
 気持ちよく飛ばしまくり、コーナーを抜けようとしたところで、車体がコントロールを失った。何か、道路の真ん中に落ちていた物を踏んだのだ。はっきりと確認する余裕など無かったが、多分、動物の死体。

 浮遊感の後――意識が飛んだ。

 気が付けば全身に身動きできぬほどの激痛を抱えながら、木々の間に転がっている。なんとか動く目を空の方に向ければ、遙か崖の上方に、ひしゃげたガードレールが確認できた。

(あそこから、落ちたのか)

 それは、よくぞ即死しなかったものだ。まったく、運がいい。このうえ、誰かが病院に運んでくれれば、もっと運がいいのだが。

『……無理ね、それは』

 不意に、耳元で声が聞こえた。

『このままでは、貴方、もうすぐ死んじゃうもの。内臓、はみ出してるわよ? 腰から上と下も、なんだか変な方を向いてるし』

 勘弁してくれ――若い女のものと思われる声にそう言い返したかったが、喋るのはどうにも無理そうだ。

 しかし、そうか。もうすぐ、死ぬのか。

 まだ高校生だし、病気とかもなかった。突然そんなことを言われても、全然実感が湧かない。けれど、死にかけているのは間違いなさそうだし。こんなことなら、春休みと夏休み、オートバイを買うためのバイトなんかで潰さないで、もっと遊んどけばよかった……。

『でも、運はいいわ。貴方の言う通り』

 現実か、幻聴か。クスクスと、鈴が転がるような可愛らしい笑い声が、耳をくすぐる。楽しそうな、からかうような口調が、語り続ける。

『わたしが、貴方を助けてあげるから』

 それは、ありがたい。だけど、どうやって?

『貴方は、わたしを封じていた石塔を壊してくれたの。おかげで、背骨も折れちゃったみたいだけれど』

 封じていた?

『ええ。わたしは、人間じゃないわ。人を操り、精を吸って生きる、妖魔』

 ――なるほど。どうやらこれは、やっぱり幻聴らしい。それなら、何でもアリだ。

『まじめに聞きなさい。貴方の、命だってかかっているんだから』

 イエス、マム。

『契約を結びましょう。まずは、貴方にこの場を切り抜ける最低限の力をあげる。その後は、適当なエサを入手して、力を蓄える』

 エサって、なんだ?

『女、ね。貴方が抱きたくなるような、つまり性交をしたくなるような女。さっきも言ったとおり、わたしは人間の精を吸って力を得るの』

 女って……

『別に、貴方がそっちの方がいいって言うなら、男でもかまわないけれど』

 男は、嫌だなあ。ホモには、なりたくないし。

『じゃあ、女で決まりね。その後は、わたしの為に“形”をくれないと』

 ああ、分かった。何だろうと言う通りにするから、とにかく、助けてくれ。そろそろ、ヤバイ気がしてきた。

“ひゅ……ゥ、……ゴボっ”

 口の中と気管とが、血でいっぱいだ。息が出来ない。せき込んで吐き出そうとしても、とてもじゃないが、もうその力が無い。鉄臭い味と、喉がごぼごぼと鳴るのが、すごい気持ち悪い。

『そう。じゃあ、契約よ? わたしは貴方の命を助けて、力をあげる。貴方は、わたしが現世に存在し生きる為に糧を得る、その助けをしてくれる』

 …………

『返事をなさい。頭の中で、答えるだけでいいんだから。喜びなさい。貴方には、快楽で満たされた未来が待っているんだから』

 ……わかった。契約だ。だから、助け……て……

「がはっ、……げほっ、げほっ!」

 咳と共に、鼻孔と口から、血と唾液が混ざった汚い液体が吹き出る。同時に、章司の肺に新鮮な空気が流れ込んできた。

「はあっ、ひぁっ……はぁぁぁ」

 ただの空気が、こんなに美味しい物だとは。
 ゆっくりと四肢を動かして、立ち上がる。痛みは、無い。着ていた衣服は血と泥で汚れ、ボロボロに裂けてしまっているが、その下からのぞく肌に傷は見あたらなかった。

『油断しないでね。傷は全部治したけれど、それは外観だけ。流れ出した命の分は、“栄養”を取って、補充してあげないと』

「ああ、わかったよ」

 足元に目をやると、バイクの残骸と、そして古くて小さな、苔むした仏塔が倒れている。
 苦労の末に入手した、掛け替えのない愛車。スクラップ化したそれを寂しそうに一瞥した後、章司は道路に上がれそうな坂を求めて、歩み去った。

< つづく >

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