BLACK DESIRE #15-3

6.

 翌日の昼休み、校舎の西側の桜通りから少し外れた場所にあるベンチに、1人の少女と1匹の黒猫の姿があった。

「上出来じゃないか」

 ベンチに座った少女の膝の上で丸くなった黒猫は、背中を撫でられながら上機嫌で言った。喉がごろごろ鳴っている。少女――哉潟七魅はその言葉に眉を寄せた。この黒猫、つまり悪魔猫のメッシュの言葉が、決して七魅が現在の状況に納得してはいない事を承知の上で発せられたとわかっていたからだ。

「気付かれませんか?」

 七魅は自分の口下手を理解していたし、お喋りを楽しむ質でもない。それに無用に口を開けば文句しか出てこない事がわかっていたから、率直に、直接的な質問を手元に投げかけた。黒猫はぴくりと耳を動かして肯定の意を伝えてくる。

「気付くさ。いや、もう気付いている。しかし、小僧に協力者がいる事なんか向こうも最初から承知していたさ。むしろその炙り出しの為に小僧を隠したんだと思うね、俺は」
「なら、こんなところで暢気にしていていいのですか」

 七魅達の周囲は木立と建物の壁と、植え込みに隠されて校内を移動する生徒達には見え辛く、また遠くから見られたとしても仲の良い少女と猫の微笑ましい組み合わせにカモフラージュされていた。しかし、だからといって隠密性に優れた場所でもない。黒猫は尻尾をくるりと回した。

「奴らは動けんよ。昼間は夢魔の力は極端に落ちるし、俺が嬢ちゃんの力で学園内に入り込んでいる事は気配でわかっているだろうからな。悪魔ってのは無闇やたらにその能力の幅と懐が広い存在だ。よほど有利な状況でなければ、こっちの手を知らない内に仕掛けてきたりはしない。むしろ危ない橋を渡っているのはお嬢ちゃん、あんただよ」

 むくりと顔を上げて黒猫は七魅を見上げた。目が細まり、面白がっているような表情を形作る。

「ご心配、どうも」
「まあ、それも俺が見張っている限り手出しはしないだろうがな」
「ナイトのつもりですか?」
「昼間だけな。洒落じゃないぜ?」

 そう言って黒猫はくっくっくと笑った。面白くもない。七魅は憮然とした表情で黒猫の背中を撫でる手を止めた。

 夜になったら夢魔は力を取り戻す。だから、七魅は日が陰ったら出来るだけ早く星漣学園を離れるようにしていた。今現在、学園の敷地を自由に行き来できる味方は七魅しかいないのだ。彼女がもしも敵に捕らわれたら、あるいはこの学園から排除されたら、もはや打つ手は無い。だから、七魅は登校時からメッシュを引き連れて学園に入り、そして下校時には一緒に出て、その後一度高原別邸に寄ってあの片目のメイドも入れた作戦会議をするようにしていた。

 「トイレのイチタロウ」作戦は十分な成果を上げていた。郁太と契約している悪魔メイドは学園内に発生した混沌が十分な魔力に変換されている事を確認している。魔力が枯渇しなければ契約は無効になることは無く、しばらくは郁太の心臓は無事であると思われた。それだけに、1週間経っても敵方が沈黙を保っているのが不気味であった。

「どうしても、本を完全な形で手に入れたいんだろうよ」

 黒猫はいつの間にか自分達のスペースに入り込んで来たもう一匹の茶色いトラ縞の猫を横目で見ながら、七魅の疑問に答えた。

「契約者を魔力の枯渇以外の方法で抹殺したら、幎との契約が残ったままになっちまう。そうしたら、夢魔が本と契約することは出来なくなるし、奴らの協力者と幎が別に契約することもあり得ないからな」
「どうしてです?」
「悪魔は契約にうるさいからだ」

 茶トラは黒猫の眼差しもものともせず、人なつっこくベンチに近寄ってきていた。七魅の足下に寄り、体をすり付けるように少女の靴の周りをくるくると回る。

「本が小僧の物である内にその契約を無効にするような契約は出来ない。そういう決まりなんだ。それに違えば、契約によってこの世界に形を保っている悪魔は即座に消滅する。そして悪魔の消滅と共に、本もまた姿を消す。本と幎は対なんだよ……」

 七魅の足下に目を向けていたメッシュは、突然立ち上がって口をくわっと開くと、「かっ」と威嚇した。茶トラはその勢いに弾き飛ばされたように逃げていく。黒猫は尻尾を立てて得意そうに鼻を鳴らした。しかし、その頭を少女の指2本がぺしっと叩く。

「いてっ」
「可哀想でしょう」
「アイツ、お前の膝を狙ってたんだぞ」
「あなたの場所でもないです」

 黒猫は七魅の膝の上で再度丸くなり、「やなこった」と呟いた。

「ここ最近でこれほど心地良い場所は記憶に無いね」
「だからって、他の猫を虐める事は無いはずです」
「気味の悪いことを言うな。自分の益を守る為に実力の行使を行う。自然の摂理だ」
「なら私は、私の益を守ることにします」

 七魅はひょいっと黒猫を持ち上げて横にどかした。これ見よがしに膝の上をぱんぱんと払ってやると、黒猫は尻尾を不機嫌に振り回して唸り声を上げた。素知らぬ顔で少女は居住まいを正し、話題を変える。

「それより、私からも質問が有ります」
「何だ」

 黒猫が再度七魅の膝に上ろうと前足を乗せると少女がそれを横に退け、という不毛なことを何度か繰り返す。

「那由美さんの事です。前に、あなたは言いました。彼女は夢の様な存在であると。しかし、今のあの人は誰も記憶に残っていないような仕草や言動を行い、あまつさえ彼女の本来いなかった筈の時間の記憶すら持っているように思えます。何故ですか?」
「嬢ちゃんの膝を貸してくれたら答えるよ」

 根負けしたメッシュが降参の意を唱えたので、七魅はまた黒猫を抱き上げて膝に招待してやった。即座にメッシュはぴたりと低く伏せて、今度こそ引き剥がされないぞという態度を見せる。七魅がため息をついて背中を撫でるために手を置くと、満足そうに口を開いた。

「そいつの答えだが……誰かが覚えてたんじゃなくて、『世界』の記憶に残ってたんだろ」
「『世界』?」
「人間が物を記憶するように、動物、植物、物質、それによって構成される空間、あるいは世界そのものが現象を記憶することがある。特に歴史上重要な事件が起こったようなものについては皆一斉に記憶を行うから、記憶に残りやすい。世界レベルのトラウマや、愛情だ」
「しかし、それならなおのこと彼女が存在しなかった4月から現在までの間の記憶が有るのはおかしいのでは?」
「その反動は出ているだろ? お嬢ちゃん達のいう夏服をあの娘が着られないのはそのせいだと思う。最後に目撃されたときから、あの娘の時間は進んでいないのさ」
「外観に関しては那由美さんの歴史は止まっている、と」
「改竄されたこの学園の歴史にしても、ある程度はお嬢ちゃんと小僧が体験した事柄を辿っているはずだ。たかだか人間が1人入れ替わったところで大まかな流れがそんなに変わるはずも無い。オリジナルの記憶があるから、模倣する事もできるのさ」

 黒猫はしばらく黙って思案気に尻尾を振っていた。しばらく沈黙が訪れる。やがて、膝の上から七魅を見上げながら再度口を開いた。

「遙か遠方や、記録も無い様な時代に現代の物によく似た物や人、現象が起こることがある。シンクロニシティって言ったか。空間や時間を飛び越えた同調が起こるって奴だ」
「オーパーツの話ですか?」
「別に何でもいいよ。全く違う文化の間に同じ様な発音の言葉が有ったり、似た習慣があったり、そっくりな逸話が残ったりしている。それぞれがどう考えても文化交流が有ったとは考えられないほど隔絶されていてもな」
「それもまた、世界の記憶だと?」

 黒猫は「その通り」と耳をぴくぴくと動かした。

「魔術師達はこいつを『回帰現象(サイクル・ファクター)』とか、『再帰現象(リフレクシブ・ファクター)』と呼んで研究対象にしてたな」

 例えば、西欧発祥の伝承と東方の島国の歴史に同じように馬屋で誕生した聖人・偉人の逸話が残っていたり。遙か昔の遺跡から現代の飛行機や機械のオブジェが見つかったり。海で隔たれた2つの島の猿達が同時に道具の使い方を覚えたり。そういった、知識の伝達という通常の理屈では考えられないような同期がこの世には無数に存在している。

「人間だってデジャブとか、どこで見たかわからないような記憶の錯誤が起こったりするだろう? 記憶ってのは曖昧で、ふっと時間や場所に関係なくなんでもないきっかけで目を覚ますもんだ。それが世界レベルで起こったとき、人間の目にはさっき言ったみたいな奇妙な同期現象が起こったように見えるのさ」
「……つまり、那由美さんをきっかけとして、かつて起きた歴史、起こりうる歴史、そういった物事が脈絡もなく世界の記憶から蘇って現実になっていると?」
「そういうことだ。夢魔の本来の性質、夢から現実に可能性を取り出す力ってのは、そういう意味の能力なんだよ。きっかけが無くとも、強引に夢をほじくり出して現実をだまくらかすんだ。元はと言えば魔法もそういう、可能性の外の存在を……」

 黒猫は急に言葉を止め、起きあがった。「どうしました?」と七魅が訝しがるのも無視し、きょときょとと首を左右に振って、耳をそばだてている。
 やにわに、メッシュは七魅の膝を蹴ると地面に飛び降りた。そのまま少女を振り返ることも無く先ほどの茶トラ猫のように一目散にダッシュしてその場から姿を消す。唖然とした七魅はそれを見送ることしかできなかった。取り残され、ぽつりと呟く。

「……いったい何が……」
「逃げられちゃったね」

 突然の背後からの声に、ばっと首を振って振り向いた。

「……それとも、私が嫌われているのかしら?」

 そこには、トラ縞の猫を胸に抱いた星漣の冬服姿の少女――高原那由美が、微笑みながら立っていた。

 どうして。それが七魅の最初の感想であった。那由美の出現には必ず認識の壁が破壊される轟音が鳴るはずであった。何故、全く気付くこと無くここまで接近されたのだ。

 七魅の視線は那由美の胸の中に収まり、額の辺りを指先でかかれて気持ちよさそうにしている茶色い毛むくじゃらに向いた。

(……猫)

 なるほど。人ではない物にも那由美を蘇らせる記憶が有るならば、猫にだって可能な筈だ。偶然にも那由美がこの猫を連れて来たために認識のジャンプが起こらず、七魅の感覚に察知されなかったのだろう。

「失礼」

 那由美は七魅の訝しげな上目遣いも気にせず、猫を抱いたままその隣に1人半程度のスペースを空けて座った。目を細めてその猫の背を撫でてやると、猫の方は気持ちよさそうに両前足を少女の肩に乗せて体を預けた。ごろごろと喉を鳴らしている。
 那由美は首を傾け、笑みを浮かべながら、どう? と言った表情で七魅を見た。別に、猫の扱いに手慣れていたところで何が、どう? なのだろう。

(あの黒猫は厳密には猫じゃないし、その猫は誰にでも懐くじゃない……)

 自然にいつもの様に眉根が寄っていたのだろう。那由美は「ふふ」と余裕の笑い声を上げると茶色い猫を足下に下ろしてやった。そのまま猫はベンチの下に入り込み、那由美の靴の踵側で丸くなる。

「哉潟七魅さん、ですよね?」

 那由美は片手をベンチに付き、乗り出すようにして問いかけた。長い髪が肩からひとすじ、はらりと誘うように七魅の側に落ちる。

「双子の、妹さん」
「……ええ」

 ベンチの上に乱れて投げ出された髪を目で追い、そして七魅は視線を上げて答えた。切れ長の瞳が真っ直ぐに自分を見つめ、少し気後れする。

「この間は、どうも」

 その視線に魂から押し出されたかの様に言葉が出た。やりにくい。何を考えているのか全く読めない。あるいは、敵側からの何かの仕掛けかもしれない。だから、慎重に七魅は相手との対話の距離を測る。

「この間というと?」
「1週間くらい前に、しおりを拾ってもらいましたよね」
「そうだったかしら?」

 忘れた訳ではなさそうだ。目が笑っている。とぼける理由は何だろう?

「どこで会いました?」
「テラスで。昼休みでした」
「そうね」

 ぐぐっと那由美は上体を近づけた。そして、笑いながら言う。

「あの後、何か見つかった?」

 漆黒の瞳が七魅の内部を覗き込む。それを見つめ返した七魅は、その瞳の奥にどこか茶目っ気のある興味の光を見つけた。はっと息を呑む。その光に思い当たるものが有ったのだ。

 達巳郁太だ。郁太が時々七魅に見せる表情に良く似ている。それは、決まって彼が軽口を叩く前後に見せる表情。つまり……。

 【からかわれている。】

 最近の黒猫とのやり取りで特に強く感じることが有った。その口から軽口が飛び出す度に眉を寄せ、小さな獣を睨みつける。しかし、メッシュは七魅の苛立ちなど意に返さない。それどころか、得意げに尻尾を立てて少女を煽り立てる。そういった行動を見る度に七魅は、郁太ならば、と考えるのだ。

 郁太なら、自分の苛立ちもすぐに察知してくれるのに。

 メッシュも不遜な態度を取るが、それは郁太のものとは大分違う。その行為は種族の違い、価値観の違いから一方的に自分の嗜好を押しつけるだけの言うなれば「威嚇」に近いものである。

 郁太はあくまで、こちらを怒らせてその反応を楽しむ為に七魅をからかう。それは幼児が駄々をこねて自分に興味を持たせる行為とさほどの違いはない。稚拙だが、それは郁太なりの後ろ向きなコミュニケーション手段なのだ。
 七魅もそれを了解しているから、殊更に郁太に対してふて腐れて見せる。すると、郁太は自分の言動が七魅に届いたことを確信し、即座に謝ってくる。七魅もまたその謝罪で自分の意志が伝わったことを知り、郁太を許す。
 子猫がじゃれついて甘咬みするようなものだ。代わりに2人は言葉と感情を繰り出してお互いの意志をすり合わせるという違いがあるだけ。

 七魅は、郁太がこの様な捨て身の対等なコミュニケーションを取れる相手が他にいない事を承知している。
 源川ハルは郁太に対する思い入れが強すぎて感情をストレートに放ち過ぎる。それに対して郁太が苦手意識を持っている事にも気付いていない。
 姉の三繰はこの様な剥き出しの感情のやりとりを好まない。何時でも必ず一歩上に立ちたがる。だから、郁太は必ず下手に出る。これでは対等ではない。
 優御川紫鶴に対しては、郁太の側が少し入れ込みすぎな面がある。よって、自分から踏み込むことは出来ない。生徒会長・安芸島宮子はたぶん一番対等の関係に近いが、宮子の側に強固な壁が有る。おそらく、郁太から歩み寄っても弾き返されるのが関の山だ。
 他のクラスメイトや後輩達には、郁太は常におどけた態度を取るがそれはからかい目的ではない。あくまで、親しみやすいお調子者の男子生徒、コミックキャラクターを演じているだけだ。
 別邸のメイドは論外だろう。どう見ても、主従以外の感情があの少女に生まれる可能性は見あたらない。

 自分だけが普段から郁太と素の感情をやり取りしていると自負してきた。きっかけは恐らく、5月にお互いの秘密を交換し、共有した事だ。共犯者の親しみとでも言うのかもしれない。それが、いつの間にか軽口をやり取りし、そこに心地よさを感じるような関係になった。

 これは恋では無いのだろうと七魅は思う。恋は、もっと一方的で衝動的な物なのだろうと七魅は考えている。だから、これは本当に、単なる幼稚な甘えなのだ。
 お互いがお互いの心の中に余分のスペースを見つけ、そこに自分の感情をちょっとだけ置かせてもらい、同時に相手の肩代わりをする。郁太はからかい、七魅は拗ね、そして謝り、許す。
 七魅もまた、この様に心地よい感情を他者に抱いたことは、これまでの人生でもほとんど無かった。姉は少し自分を溺愛し過ぎ、その他の者は異能の双子を恐れているからだ。

 だから、七魅は知っている。電話などしなくても、夏休みの間中アピールしたから、わかっている。郁太が、きっと次に会ったなら自分に謝ってくれるだろう事を。きっとあの鈍感な少年は自分のどの言動が少女を拗ねさせているかわかっていないだろうけど。

 七魅は確かに、合宿の最終日の郁太の言動に大きく傷ついた。しかし、本当のところは郁太に、自分が傷ついたことを知って欲しかったのだ。だから、最大限のアピールを行った。ずっと別邸にも行かず、電話にも出ず、ひたすら2学期の始まりを待った。郁太に会う日まで。

 次に会ったら――電話なんかじゃ済まさない。必ず直接会って言ってもらうのだ――きっと、郁太は何が原因かも分かっていないのに、七魅の為に謝るだろう。だから、七魅も快く許すだろう。郁太の為に。

 何故那由美が郁太と同じ、「からかう」という手法で七魅とコミュニケーションを取ろうとしたのかは分からない。もしかしたら、これもまた先ほど黒猫が言っていたなんとか現象というものなのかもしれない。4月のあの日、目の前の少女が姿を消さず、そして1月後にあの少年が現れなかったら、郁太の位置にもしかしたら那由美がいたのかもしれなかった。

「……大変参考になりました」

 数秒の沈黙の後、七魅は答えた。仕方が無い、那由美の側がそういう心積もりなら、こちらも少しだけガードを緩めるしかない。

「誰かに会いましたか?」
「お手伝いさんと、猫が1匹」
「そうですか」

 那由美は体を引いて、背筋を伸ばした。いつの間にか七魅との距離は狭まり、2人の間の距離は人1人分くらいの空間しか空いていなかった。

「何故、あの様な事を?」

 七魅は那由美が別邸の事を記したしおりを手渡した意図を聞いてみた。那由美は、先ほどとは違い、静かな微笑みを浮かべた。

「私には、タツミという名前から思い浮かぶものは、あの屋敷しか有りませんでしたから」

 なるほど、それがつまりは那由美からの茶目っ気、七魅に自分に興味を持たせる為のアプローチだった訳だ。初めて七魅は、目の前の少女に好感を抱いた。何とも、(郁太に似て)不器用で回りくどい事をする。

「差し支えなければ、理由をお聞きしてもいいですか?」
「もちろんです。あなたに聞いていただきたくて、ここに来たんですもの」

 そう言って、那由美は正面を向き、微笑を浮かべたまま語りだした。

 那由美の記憶にある最も古い男性は、父親ではない。と言うか、那由美には戸籍上には父親という存在がいない。その代わりにそのスペースに居座るのは、祖父にあたる高原家当主の厳つい姿と、もう一人、名前も知らない年輩男性のシルエットである。

 その男性と母親が、どうやら強く惹かれ合っていたのだと気が付いたのは、ほんの数年前の事である。時には、その人物こそ自分の本当の父親なのではないかと考えることもある。しかし、それを口にすることは許されないし、その機会も失われて久しい。何故なら、母親はすでにその頃の記憶を喪っているのだから。

 那由美が子供だった頃……恐らく、10年以上前の話だ。那由美の母は、幼い娘とお付きの侍従である百形(ももなり)を連れて年に数回、別邸で過ごす事があった。そして、そこでいつも待っていた男性――その屋敷の管理人か何かと最初は思っていた――それが、先ほどのシルエットの男性であった。名は詳しくは分からない。ただ、周囲からは「タツミ」と呼ばれていた。だから、自然と那由美もその男性を「タツミ」あるいは「タツミのおじさん」と呼んだ。

 別邸で過ごす日々は楽しかった。実家に居る時のように口やかましい習い事に真面目に取り組むフリをする必要も無いし、母も百形も、そしてタツミのおじさんも優しかった。別邸の周囲は広い庭があり、危ないことをしなければそこで自由に遊んでいいともタツミに言われた。
 その辺りは猫が多く、しかも人に慣れていた。餌を持って近寄ると猫達は一斉に那由美に甘えた声をあげ、しばし那由美は猫の女王になった気分を味わった。

 そこには、遊び相手も居たような気がする。同じ年頃の子供がいたかもしれない。その辺りの記憶は定かではない。もしかすると、百形やタツミや猫達が遊んでくれたのを勘違いしているだけかもしれない。

 母とタツミは2人きりで居る事が多かった。そんな時、那由美が小さな用事で訪れると、百形はいつもより優しい顔をして、あやすように那由美を余所へ連れていった。その様なことがあったので、那由美は母達が2人で居る時はそこに近寄ってはいけないのだと理解した。

 いったい、どれくらいの回数そんな風に別邸を訪れたのか分からない。那由美がごく小さい頃の数年間だから、10回くらいだろうか。覚えているのは、那由美は家に帰る時には決まってそれを嫌がって百形を困らせた事、そして帰ったら帰ったで、「次は何時行くの?」と母親にねだった事ぐらいだった。

 しかし、別邸の幸せな記憶は1つの悲劇によって幕を閉じた。ある時、屋敷が火事になったのだ。

 夜中だった事を覚えている。何者かに起こされた那由美は、夜中なのに空気が熱く、何かが焦げる臭いが充満し、そして呼吸を阻害する喉に張り付く何かが周囲を覆い尽くしている事を知った。そして、手を引く誰かに励まされながら歩き、泣きべそをかき、母を呼び、へたり込んだら強引に抱き抱えられ、そして最終的に2人で立ち尽くした。どこを見ても火の海だった。取り残されてしまったのだった。

 その後の記憶は定かではない。どこか、石造りの場所に押し込まれた事を微かに覚えている。その中で、一人になって震えていた事も覚えている。そして、記憶は途絶え……気が付いたら、布団に横たえられていた。那由美は助かったのだった。

 あの火災でどれだけの被害が出たのか、那由美には良くわからない。母親は療養の名目で屋敷の一番奥に閉じ込められ、年に数回も外には出てこなくなった。那由美でさえ、月に2、3度くらいしか顔を会わすことが無い。そして、その理由は後年になって百形から明かされた。

 母は、記憶を喪ったのだ。火事そのものの記憶だけでなく、屋敷も、タツミも、それどころか、那由美自身の記憶すら。那由美の母の時間は、那由美を産むその前まで巻き戻り、それ以降の記憶を受け付けなくなっていた。自分の事をどこか余所の家のお嬢さんと信じて対応する母の姿に、那由美は自然とその元から離れるようになった。

 屋敷は、その後すぐに再建されたらしい。世間への見栄えを考慮したのだろう。外観も出来るだけ元あった通りに古びた状態に復元された。しかし、一つだけ足りないものもあった。そこには、あのタツミのおじさんは戻ってこなかった。

 タツミは、あの火事で亡くなっていた。

 それ以来、那由美はあの別邸に足を向けた事は無い。その様子を百形に尋ねたことも無い。母が記憶と共にタツミとの幸せな時間を喪ったのだから、自分もまたあの別邸を捨てなければならないと、そう信じた。

 那由美の目は正面を向いたままだった。しかし、その視線は望洋としており、懐かしむでも無く、悔恨でも無く、ただ自分の過去を粛々と受け止めている様であった。七魅は、少女の整った横顔を見つめながら、呟くように問いかけた。

「何故、その話を私に」
「……どうなのかしら。懐かしい名前だったからかもしれない」
「何かを思い出せたのですか?」
「自分のルーツが、思いがけないところに有ったことに気が付いたのよ」

 七魅を振り返り、那由美は朗らかな笑みを浮かべた。そこにもう先ほどのどこか危うい雰囲気は存在せず、余裕すら伺えた。すっくとベンチから立ち上がる。いつの間にか寝込んでいたのか、足下の茶色い猫はびくっと体を起きあがらせた。

「さあ、これで私のお話はお仕舞い。あなたへの種明かしもこれで終わりです」

 七魅も立ち上がった。目線が合うと、那由美は嬉しそうに微笑んだ。その余裕にふと七魅は、衝動的に口を開いてしまった。邪念が湧いたとしか言いようのない唐突さであった。

「もう1つ、質問させて下さい」
「何かしら」

 那由美は特に驚いた様子もなく促した。あるいは、そうなる様に仕向けられていたのか。一瞬躊躇したが、七魅は思い切って問いを発した。

「もしも……やり直す方法があったら……」
「ええ」
「ええと……仮の話です。もしも、その火事が無くて、お母様も記憶を失われる事もなくて……その方も、タツミさんも生き返る方法が有るとしたら……」

 言いながら、何と馬鹿馬鹿しい、と自分を罵りたくなった。どうしてこんな事を言い出してしまったんだろう。きっと、目の前の少女が似ているせいだ。達巳郁太に、「あなたを取り戻すために命をかけている少年」に、似ているからだと、そう言ってやりたい。

 しかし、那由美は吹き出したり、困惑したりという一般的な反応は示さなかった。至極真面目に、興味深そうに首を傾げ、指を頬に当てた。

「そんな方法があるとしたら?」
「……」
「私が必要とするか……いえ、使いたいかって事ですね?」
「……すみません」
「どうして謝るのかしら? もしかして、そんな方法がある事を知っているの?」

 どきりと心臓が跳ねた。この少女は、先ほどの会話でいったいどこまで自分の心の中を覗き込んだのだろう。那由美はその様子に少しだけ表情を崩しかけ、そして真顔に戻す。そして。

「使わないわ」

 一言で、切って捨てた。

「喪ったもの、特にそれが命であった場合……それを取り戻せる【かも】と考えること自体、今生きている全ての生命にとっては冒涜としか思えない。私はそう考えている」

 七魅の背中に、ぞぉっと涼しいものが吹き抜けた。その口調が、どこか糾弾めいていたからだ。そして同時に、どの口が、と反発も覚える。「郁太や夢魔の力が無ければ口を開くこともない骸の分際で」。必然的に、七魅はその意見に反する言葉を口にしなければならなかった。

「そうですか。そこは、意見の不一致のようです」
「残念ね」

 おどけた様子もなく、嘆息混じりでもなく、ただそう言わなければ話が終わらないから口にした、そういう一言であった。その足下から、いつの間にか猫が姿を消していた。

「……私も、嫌われたみたいね」
「お腹が空いたから貰いにいったんじゃないですか」

 七魅がそう言うと、那由美は髪をかきあげ、背中側に払った。この場を去るのだろう。

「あなたの猫によろしくね」
「ええ」

 そのやり取りの後、那由美はきびすを返して歩いていった。七魅はそれを立ったままじっと見つめ続ける。一度も少女は振り返らなかった。

 姿が見えなくなり、ふと下を見るといつの間にか黒猫が戻ってきていた。

「……ナイトじゃなかったんですか?」
「害は無かったろ。それより、俺が居る方がたぶんまずかった」
「どうしてですか?」
「……あの娘には、監視が付いているかもしれなかっただろ?」

 何故かメッシュは歯切れ悪く答えた。

「ずいぶん話し込んでいたな」
「あの方の過去を、少し」
「へえ?」

 黒猫は髭を震わせ、おどけたように言う。

「あの娘は、ずいぶんと愛されてる様じゃないか」
「そうですか?」
「そうとも。それこそ、この学園の生徒の誰もが知らないような過去の話をしたんだろう? 十分、愛されてる……いや、溺愛だな」

 「誰に」と問うのは的外れだ。それを聞く事に意味など無い。誰も聞いた事も無い話でも、木が、鳥が、大地が、大気が覚えている。それほどの存在。もちろん、愛しているのは……。

「……この学園、さ」

 七魅は頷いた。そして同時に、こうも思った。

(でも……あの人は、裏切られた)

 七魅は歩き始めた。そろそろ教室に戻る時間だった。黒猫もお供をするようにその足下をちょこちょこと付いて来る。七魅は歩調をそのままに、独り言のように呟いた。

「1つ、やってみたい事があります」
「……俺に言ってるのか」

 否定も肯定もしない。ただ、真っ直ぐ前を向いて歩いて行く。

「あなたの言う、もう1つの方法を実現することが出来るかもしれません」
「もう1つって……」

 黒猫が驚いたように尻尾を振り、顔を上げた。七魅は頷く。

「……もう一度、この学園に那由美さんを裏切らせます」

 放課後、七魅は写真部を訪れている。

7.

 その日、起こった出来事を少女は生涯忘れることは無いだろう。

 その少女は夕闇の迫る中、文化部棟へと戻った。探研部の部室に忘れ物をしたせいであった。遠くの方で雷の鳴る音がする。春雷にしては少し時季外れだ。西から黒い雲が急ぎ足で紫の空を染めていく。夜の到来よりもずっと早く、それは闇をこの場所にもたらしそうだった。

 件の部室の鍵は3年椿組の源川春が管理を任されているが、実のところ写真部のメンバーだけはその隠し場所を教えられていた。入り口すぐ脇にある非常口の扉。その外には文化部棟裏手の花壇が有るのだが、そこに古びた百葉箱が在った。既に使用する事も無くなったその白い木製の入れ物の内に、探研部の古びたF字鍵が隠されているのである。

 少女は駆け寄ってその場所から鍵を取り出すと、非常口から文化部棟の中に戻った。そして探研部の扉の鍵を開き、中に入る。人気の無い文化部棟内に扉の閉まるバタンという音が虚ろに響いた。

 それほど長居するつもりも無いため、少女はすぐに忘れ物の捜索に取り掛かった。1階部分の机の上、その下、棚の上等を急ぎ足で覗いて回る。その付近に無いと簡単に見て取ると、隣の司書室に入った。しかし、5分と経たない内にその中も探し終わって、思案気な表情で司書室のドアから出てきた。

 若干の時間思い出すように目を泳がせた少女は、小さく頷くと2階への階段に足をかけた。ギシギシと古い木の歪む音が響く。そして、頂上に着いた時、正面の奥まったところにある机の上に小さな巾着を見つけ、ほっと息をついた。小走りに駆け寄り、その巾着を手に取る。間違いなく少女の探していた物であった。

 その時、激しい光が一瞬部室の中を真昼のように照らし出した。びくっと手に持った袋を抱えて身を竦ませる少女。続いて、天井越しにぽつぽつと大粒の雨粒の落ちる音。それに混じり、遅れてきたドシンと地響きのような落雷音に、再度少女は身を竦ませた。

 窓から外を見れば、外は真夜中のように暗く、そして弾丸のように大きな雨粒が草木をざんざんと揺らしていた。しばし少女は戸惑ったように空を見上げ、そこに一片たりとも空の存在しない事を確認してため息をついた。

 しばらくの間、未練がましく雨足が衰えることを祈って空を見上げ続けたが、その様な気配はまるで訪れない。少女はこれはいよいよ困った事になったと眉根を寄せ、置き傘が無かったかと探研部の棚を再度捜索に向かった。

 そんな時である。
 少女はふと、誰かの声を聞いた気がして棚の中を漁る手を止めた。それは会話と言うより、怒鳴り声の様な、誰かが喧嘩をしていると思われる激しい口調であった。続いて、ドシン、と上の方からの振動音。少女はその音に首を竦ませ、恐る恐る天井部のむき出しの梁を見上げた。誰か、上にいるのだろうか?

 しばらく待っても何も起こらない。少女は気のせいかと首を傾げ、再度棚を調べようと視線を戻したその瞬間、バキッと木の折れる音と共に、2階部分にぼたぼたと水が滴り落ちる音がした。ぎょっとした少女が目をやると、先ほど彼女が巾着を取った机の真上あたりから水道の蛇口の閉め忘れ様に雨水がしたたり落ちている。

 続いて、ドンドンと何かが天井の上で跳ね回る音。荒々しいその音に少女は尋常ならぬ事態を察し、恐怖にしゃがみ込んだ。もしかしたら小さく悲鳴まであげていたかも知れない。

 動き回る音は屋根の上を数回往復し、屋根の端まで来たところで急にぷつりと途切れた。そして、その数秒後に重い物がぬかるんだ地面に落下する、くぐもった水音が後方の壁の向こうから聞こえてきた。

 少女は身を堅くしてその続きを待つ。この奇怪な物音たちの終演を待って、歯をカチカチと震えさせながらじっと部室の中の暗闇で身を縮こまらせて息を潜めていた。

 ……どれほどの時間、そうしていたのだろう。
 外の物音が途絶え、そして雷の音がいつの間にか聞こえなくなり、そうしてたっぷり100は数えた頃になって、ようやく少女はのろのろと動き始めた。暗闇から這い出る様に進み、そして息を凝らして物音が聞こえない事を確認すると、ようやく探研部の扉に手をかけた。

 そっと扉を開け、廊下を覗き見る。通路の先は電気が点いていないため、見通すことは出来ないが人の気配は感じられなかった。急いで扉の外に出て、もどかしげに鍵をかける。とにかく一刻も早くこの場所を離れたかった。

 カチリという鍵のかかる音にさえドキリと心臓の鼓動を早くし、少女は足早に非常口から外に出る。通り雨だった様で、雨足は弱まりぱらぱらと冷たい雫が降っていた。少女は急いで百葉箱に駆け寄り、扉を開けていつもの隠し場所に鍵をしまった。そしてふと、扉を閉める瞬間に先ほど重い音がした場所がこの先の花壇の付近である事を思い出した。

 少女の背中にぞくりと悪寒が走る。すぐに逃げ出したい気持ちが胸の中でもたげてくる。だが、同時に一体さっきの音はなんだったのかと興味もまた湧いてくる。

 雨がどんどん小降りになってきているこの状況も少女の興味に味方した。百葉箱を元通りに閉めると、少女はおそるおそる、花壇の方へと歩き始めた。慎重に、何かの気配が無いかと耳をそばだてながらゆっくりと歩を進める。

 そして、建物の角を曲がり、そこから首を出して奥を覗き込んだ時、少女ははっと息を飲んだ。地面に倒れている人物を見つけたからだ。とっさに首を引っ込めて息を凝らす。

 その人物は星漣の生徒のようであった。星漣の黒い制服を身に纏い、長い黒髪と手足を辺りにまき散らした様に投げ出して倒れ伏している。そして、もう一人、その側に黒い人影があった。少女が隠れたのは、その人物がいたからである。

 そうっともう一度首だけ出して様子を伺う。黒い人影の方は、少女に気が付いた様子は無かった。泥が付くこともかまわず膝を付き、倒れた生徒の肩を抱いて助け起こそうとしている様にも見えた。なにか呼びかけているのか、顔は真っ直ぐに腕の中の少女に向けられている。

 黒い人影はコートを着ていた。フード付きの黒いもので、それが邪魔になって顔付きを見ることは出来ない。だが、ぐっしょりと濡れそぼった前髪から水滴が滴っているのだけは見ることが出来た。

 生徒の方は、まるで身体に力が入って無く、ともすれば人形の様にも見えた。(死んでいる……)と直感的に少女は感じ、その考えに身体を震わせた。

 やがて、コートの人物は諦めたのかその生徒を地面に横たえると、立ち上がった。何か呟いているようにも見える。そして、周囲をぐるりと見渡した後、静かに足を踏み出した。ぬかるんだ地面を踏む、くぐもった音が聞こえる。そして、少女の隠れている方とは逆側に歩き始め、闇に溶け込む様に消えていった。

 一部始終を見終え、それから十分に時間を置いてから少女は壁から身を離して地面に倒れた人影に近付いた。十分距離を詰めたところでそっと身を屈めて生徒の顔を覗き込む。そして、囁くように声をかけた。

「……もう良いですよ、姉さん」

 その声に倒れた人物はパチリと目を見開き、「ん」と頷いて身体を起こした。ずるりと長い髪のカツラが外れて服の上に落ちる。

「今ので良かった?」
「ええ、ありがとうございます」

 少女――七魅は黒いコートの人物が消えていった方向を見据えながら頷いた。

 たった今、七魅が姉と協力して行った事。それは、星漣にとって忌まわしき「あの日の夕暮れ」の出来事の再現であった。那由美が死んだその日、その時、まさにその場所の付近に一人の生徒が丁度忘れ物を取りにこの星漣学園文化部棟を訪れていたのだ。

 その少女の名は、一ノ宮榧子(いちのみやかやこ)。写真部所属の2年生であり、同部の部長でもある。

 七魅は那由美の死んだ晩、榧子が丁度文化部棟に残っていた事に気が付いていた。そのため、その再現のために自らの家系が持つ力を使い、催眠状態にして当時の記憶を聞き出したのだ。

 その目的は、「那由美殺し」。

 この星漣学園は夢を見ているとあの黒猫は言っていた。ならば、その夢を覚まさせるには、やはりその夢の主役を終演させた出来事を用意するのが最もふさわしいと七魅は考えた。だから、自分が当時の榧子役、そして姉には那由美役を頼み、再現を試みたのである。

 三繰と七魅の誘導により、榧子は実に詳細にその日の出来事を語ってくれた。その日雨が降ったのに合わせ、天気予報を見て日取りを調整して今日、ついに実行したのである。その再現は、登場人物が役者による演技である事を除けばほぼ榧子の視点から見て満点の筈であった。だが……。

「あーあー、びしょびしょだよー。早くシャワー行こーよー」
「……姉さん、さっき、私が来る前に来た人の顔、見ましたか?」
「え? あー、やっぱりあれナナちゃんじゃなかったんだ。無理無理、だってナナちゃんが声かけるまで死んだフリしてって言ったんじゃん? 雨は鼻に入るしカツラはズレそうだしで見てる余裕なんて無かったよ」
「そうですか……」

 だが……あの黒いコートの人物の登場は予想していなかった。だから、七魅はとっさに隠れてしまったのだ。

 実際には、榧子は鍵を返した後すぐに引き返して那由美の姿を目撃してはいない。ただ、その状況から予想して七魅は三繰の落下地点を指示し、マットを予め敷いておいただけだ。だから、そこには三繰1人が倒れているはずだったのだ。

 だが、実際にその人物は現れた。たまたま通りかかったにしてはあまりにも不自然な状況。状況の再現により、その人影までもが夢の中から再度出現してきたとでも言うのだろうか。
 そして影とコートのせいでよくわからなかったが、どちらかというとその人物は男性の体つきであった様にも思えた。それに、去り際にちらりと見えたその男の横顔が、七魅の良く知る人物に少し似ていた様に思えた。

「……達巳君……」

 自分でも気が付かないうちに七魅はその思い浮かんだ人物の名を呼んでいた。それに、驚いたような顔をする三繰。

「えっ? 今の達巳君だったの?」
「……え?」

 七魅もまた驚いて三繰を見つめる。姉妹がしばし、驚きの表情で見つめ合った。

「え? あれ、違った?」
「……今、何て言いました?」
「ん? だから、今のは達巳君だったの、って」

 七魅は顔を伏せる。口元から何か、呟きが漏れた。

「どうしたの? あ、寒い? ほら、早くシャワー行かないから」
「いえ、違うんです……」

 少女は顔を上げて空を見上げる。もう一度「違うんです……」と呟いた。

 空の雨雲は徐々に東に流れ、西には少しずつ星が瞬き始めていた。

8.

 翌日の朝は昨日の夕方に降った雨の影響か、少し肌寒いほどの気温となった。いつも通りの時間に駅に降り立った一ノ宮榧子は、思わぬ冷気に空いている手で肌をさすった。

(朝と夕方は、もうどんどん寒くなるのかな)

 天気予報ではこの寒さは一時的なもので、日が高くなれば元通りに残暑が戻ってくると言っていた。だが、秋に向かうに連れて朝夕の冷え込みは薄い半袖の夏服には厳しくなっていき、それは昼間にも引きずるようになる。そうして、ゆっくりと季節は移り変わっていくのだ。榧子は夏の終わりの到来を感じ、一抹の寂しさを覚えた。

 最近、榧子は新聞部の巾足立華と共に登校することが多くなった。「もう少ししたら、忙しくなるのですが」と言うのは立華の話で、それは新聞部にとってのネタであるイベント時期の到来を意味していた。まずは、ほぼ1週間かけて行われる星漣体育祭。そして、年度行事としては最大規模のイベントとなる星漣祭が待っている。それこそ、取材のためと号外の作成の為に正門が開いている間はずっと(あるいは、それ以外の時間も自主的居残りにて)活動を続けるのだろう。

 2人はいつも通りに駅で待ち合わせ、通学路である坂道を上っていく。いつの間にか、マリア坂にある花壇にコスモスが咲いていた。いつもは気にしていないその光景が目に付いたのは、季節の変化に思考が傾いていたかもしれない。

「綺麗ですね」
「はい」

 しばし足を止め、2人は無数の花々に見惚れた。

 セイレン像の前で並んでお祈りをしていると、隣に誰かが立つ気配がした。お祈りを終えてちらりと見上げると、そこには男子生徒が1人で立って、熱心に手を合わせている。

(……この人……)

 誰だったか、うまく思い出せない。1学期に長い期間休んでいたせいかもしれない。その期間に転入してきたんだっけ?

「榧子さん」

 小さな声と共に立華が袖を引いた。はっとして目を逸らす。お祈りをしている人をじろじろと見るなんて、お行儀が良いとは言えなかった。榧子は立華が引くのに従い、その場をそそくさと離れようとした。

「あのー」

 その時、少年が声をかけてきた。うわ、と榧子は足を止める。今の視線に気が付いていて、咎められるのかと思った。恐る恐る振り返って少年の方を向いた。
 だが、相手の顔を見て榧子は拍子抜けした。少年は居心地の悪そうな奇妙な顔をして、頬のあたりを指でかいていたのだ。急におかしさが湧いてきて、榧子は背筋を伸ばした。

「はい、何ですか?」
「ああ、うん……呼び止めてゴメン」

 少年は確かに済まなそうにそう言った。そして、頬をかいていた手を自分の後頭部の方に持っていき、そこを指さす。

「あの、リボンがね、解けかけてたんで……」
「え? あ、どうも!」

 慌てて手を伸ばすと、確かに指摘通り榧子の後頭部のリボンは緩んで崩れていた。歩いている途中、緩んだのだろう。

 榧子は立華に頼み、リボンを直してもらった。それを少年はぼおっと何をするでもなく、ただ黙って立っている。少し居心地の悪さを感じ、榧子は何気なく口を開いた。

「あの、ありがとうございます。教えてくれて」
「あ、いや……大きくて、かわいいリボンだね」

 少年も何気なく返答し、そしてふと首を捻った。

「あれ? それじゃ逆か」
「え?」
「大きいのがリボンで、かわいいのは……」

 少年は自分の言葉を訂正しようとして、ふと言葉を止めた。自分が何を言おうとしているのか、その内容に気が付いたからだ。頬が少し赤くなり、そしてそれを察した榧子が同じく赤くなったのを見て、ますます赤くなった。

「ごめん。それじゃ、僕はこれで」

 慌てて少年は歩きだし、早足で榧子達を追い越して行く。唖然として立華はそれを見送った。そしてそのまま、「何ですかね」と呟く。逃げるように去っていく少年を立ち止まって見送った。
 ふと、立華は隣の少女が一言も発さずにいる事に気が付き、そちらに顔を向けた。まだ驚いているのかと思ったが、その顔に浮かんだ表情は訝しげというか、何か思い詰めた様なものであった。

「どうしました?」
「あ! いえ……」

 飛び跳ねるように少女の肩が動き、それに合わせてリボンでまとめられた髪が揺れた。そしてたった今夢から覚めたという風に目をぱちくりとして立華を見る。意図せず思っていたことを口走った。

「どうして?」
「は?」
「……」

 今度は立華の方が目を丸くする。まったく脈絡のない疑問に間抜けな声を出すことしか出来なかった。
 榧子自身もその問いの意味を計りかねている様子であった。俯き、じっと黙り込んだ。

(……何だろう……とても、重要な事だった気がする。どこかで……誰かに……)

 榧子の中で、まるで醒めてしまった夢の内容を思い出すかのように儚い記憶が、ふわふわと寄る辺もなく漂っていた。

 少年は榧子達と別れた後、自分の失言を恐れるかのように振り返り振り返り校舎への道を急いだ。そのせいで、道端に一人の少女が立っている事に、直前まで気が付かなかった。首を後ろから戻し、視界にその少女を捕らえた瞬間、少年は眉を吃驚気味にひきつらせ、足を止める。

 切り揃えられた髪、細い眉、不機嫌そうな目尻、小さな鼻。その日本人形のような整った顔つきに、少年は良く見覚えがあった。

「や、やあ。おはよう、七魅……さん」

 じろりと動いた視線に、少年はどぎまぎして言葉を足した。少女は黙ったまま、視線しか動かしていない。

「久しぶり、元気だったかい? いや、ほんと久しぶりだね。合宿以来だっけ?」
「……」
「ん? 今日はお姉さんと一緒じゃないの? 喧嘩したのかな? あれ? だから不機嫌なんで……はは、は……違うよね……」

 一向に緩まない視線に、急激に少年の勢いが萎んでいった。最後の方はもう呟きにもなっていない。そして、少年は何秒か黙り込んだ末、いきなりがばっと頭を下げた。

「ごめんなさい、七魅さん!」
「……」
「やっぱり怒ってるよね? 気が回らなくてゴメン! 許して! 次から気をつけるから! ね!」

 少年は頭を下げたまま、手まで合わせていた。先ほどセイレン像に向かっていた時の数倍は念が籠もっている。その様子を少女は冷ややかに見つめ……そして、ふっと目元が緩んだ。

「……次は有りませんよ」
「はい、気を付けます!」
「もう、顔を上げて下さい。他の人に見られます」
「うん」

 少年が顔を上げる。飄々とした表情だった。もちろん、演技である。少年にとって、今のフリで七魅が許してくれないはずがないと、それだけの勝算が有っての動作だったからだ。
 もちろん、七魅もそれを承知していたし、それで良かった。少女が欲していたのは心からの謝罪や、身を削っての償い等では無かったからだ。

 七魅は少年の顔を確認すると、くるりときびすを返した。

「あれ? 一緒に行かない?」
「所用がありますので」
「そうなんだ」

 用事は、たった今済んだ。だから、次なる手を考える必要があった。七魅は黒猫が待つ場所に向かうため、そちらに歩き出す。

「……ありがとう」
「!?」

 その少年の言葉は不意打ちであった。驚き、足を止めて少年にもう一度顔を向ける。少年は、自分でもあれっと驚いた顔をしていた。

「今のは……?」
「あ、うん。えっと、許してくれて、ありがとう?」
「……そうですか」

 七魅の喉の奥の方から、じわじわと表に何かが染み出してくる。ここでは、だめだ。この少年の前では、絶対に駄目だ!

 七魅は少年に背中を向けた。そして、半分かすれた声で言う。

「達巳君……」
「ん?」
「……お帰りなさい」

 そのまま、七魅は駆けだした。後ろでたぶん、少年が狐に摘まれたような顔をしているだろうが、それを確認する事なんて出来るはずがない。走って走って、そしてようやく校舎の陰に駆け込むと、ヘたり込むように七魅はしゃがんだ。俯き、自分のスカートに顔を押しつける。

「……よーう。どうやら小僧の優先権は取り戻せたみたいだな」

 いつもの調子に乗った口調の声が側から聞こえてきた。聞き手の事を全く無視し、軽い感じでそのまま続ける。

「まあ、昼間だから夢魔の力が弱まっているしな。多分向こうさんに都合の悪い記憶なんかはまだ全部夢の中に捕らわれたまんまだろうが、それならそれでやりようが……」

 ここで初めて黒猫は七魅の様子に気が付いたようだった。めずらしく、絶句している。

「……なんだよ。あんな事言って、やっぱり泣くほど嬉いんじゃないか」
「……そんなんじゃありません」

 スカートに顔を埋めたまま、七魅は小さく答えた。肩が小さく震えている。「はいはい」と呆れた口調で黒猫は嘆息する。

 七魅自身、どうしてこうなるのかわからなかった。ただ、郁太の言葉を聞いた瞬間、何か暖かいものが体のあちこちから染み出すように湧きだしてきて、何がなんだかわからなかった。わかったのは、その暖かいものがいまは雫となって両方の瞳から止めどなく溢れてきているという事だけだった。

 黒猫はすんすんと鼻を鳴らしている。呆れているのか、戸惑っているのか。猫の表情のわからない七魅には判別が付かなかった。

「まあ……なんだ」

 黒猫は、ゆっくりと言葉を選びながら呟いた。

「一歩前進、て事だな……良かったな」

 思いがけない言葉だった。だが、今だけはその言葉を素直に受け入れることが出来る。

「……うん」

 七魅はしゃがみ込み、顔を隠した体勢のまま、こくりと頭を動かしたのだった。

< 続く >

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