BLACK DESIRE #16-1

0.

 星漣女学園の生徒達に聞きました。

(Q.1) 現在、特定の男性とお付き合いしてしていますか?

〔A.1〕 はい……3.7% / いいえ……95.0% / その他……1.3%

(Q.2) 現在、意中の男性はいますか?

〔A.2〕 いる、または付き合っている……20.1% / いない……73.5% / 恋愛に興味が無い……6.4%

(Q.2ー1) Q.2で「いる、または付き合っている」と答えた方にお聞きします。その意中の方と将来的に結婚を前提としたお付き合いを望んでいますか?

〔A.2-1〕 はい、または許婚である……13.3% / そこまでは考えていない……86.7% 

(Q.2-2) Q.2で「いる、または付き合っている」と答えた方にお聞きします。その意中の方と、いつ頃までにお付き合いを開始したいと望んでいますか?

〔A.2-2〕 現在付き合っている……16.7% / 今すぐにでも……31.7% / 今年のクリスマスまでに……41.6% / 卒業までに……8.3% / それ以降……1.7%

(Q.3) あなたの親友と同じ方を好きになってしまいました。親友はその事に気づいていません。その時、あなたならどうしますか?

〔A.3〕 親友に明かし、2人で話し合う……30.5% / 親友と相手の方を含めた3人で話し合う……39.3% / 好きな相手に決めてもらう……0% / 親友に譲る……2.3% / 親友に黙って告白する……7.4% / わからない……20.5%

(Q.4) あなたがお付き合いする男性に求めるものは何ですか?

〔A.4〕 ……

 ・・・
 ・・
 ・

 (新聞部発行 星漣瓦版9月17日号より抜粋)

「どうでしょうか?」
「どうと言われても……」

 昼休みに入るなり、3年椿組に押し掛けてきた自称新聞部の蔦林藍子(つたばやしらんこ)に捕まった郁太は往生していた。いきなり出来立ての瓦版のゲラ刷りを見せられ、その感想を求められたのだ。

「僕に何を期待しているわけ?」
「またまたぁ」

 藍子はこりゃまた一本取られましたね旦那、とでも言わんばかりの表情で郁太の胸をなれなれしく叩いた。

「ここを見て下さいよ、ここ。『恋愛に興味が無い』と答えた人、たったの6.4%! 言い換えれば、この学園の生徒は猫も杓子も花咲き盛りの恋する乙女達ですよ? その中の台風の目とも言える達巳君に、ここは一言ばしっとコメントを頂戴したいので」
「別にこれ、僕を恋愛対象としている訳じゃないんでしょう?」
「あれあれ、いいんですか? それならちょっと掲載を控えようとしていた『Q.11 可能であれば意中の男性のイニシャルを教えて下さい』の結果も載せちゃいますよ?」
「……か、勝手にすれば? I.T.なんて情報技術みたいな名前の人は一杯いるし」
「う~ん……それじゃ、男性代表としての意見をお願いしますね」
「代表って……僕1人しかいないでしょ!」

 郁太は助け船を求めて周囲を見回す。しかし、薄情にも周囲のクラスメイト達は一斉にその目をさっと逸らした。ただし、その耳は某空飛ぶゾウの如く郁太の言動に向けられている。彼女達としても、おそらくこの学園で恋バナをしたらまず真っ先に(可不可は別として)話題に上る少年の恋愛観に興味がない訳が無かった。

「なあ、ハル。こんな下世話なゴシップネタを新聞に載せていいのか? ちょっと言ってやってくれ」
「知らない。わたし、イクちゃんが誰の事を好きでも関係無いもん」

 源川春は思いっきり不機嫌な様子で援護要請を断った。「な、何で怒ってるのさ……」と郁太はあんぐりと口を開ける。その視界の外で、クラスメイト達がやれやれと肩を竦めて首を振っていた。

 その時、郁太の恋愛疑獄を救う者が現れた。クラスの後ろのドアの辺りにいた委員長がすたすたと近寄って来たのだ。

「ちょっといいですか?」
「おや? あなたも異議有りですか?」
「何それ? それより、達巳君にお客さん」

 委員長が指さす方にその場の全員の視線がさっと向く。そこでは、柚組の哉潟三繰が郁太に向かってにこやかにおいでおいでをしていた。視線が向いた瞬間、ささっと扉の影にもう一人、誰か隠れたようであったが……。

 これ幸いと郁太は藍子達をその場に置いて素早く移動し、三繰を廊下の方に向けると背中を押して一緒に教室から出た。

「なになに? 今日はやけに積極的じゃない?」
「ナイスタイミングだよ、三繰。助かった」

 相変わらずクラスの視線は郁太の背中に向けられていたが、話の内容を立ち聞きしようとするまで図々しい態度を取れる者はいないようだ。

「それで? 僕に何か用?」
「私じゃなくて、ナナちゃんがね」

 三繰が郁太の左後ろに目をやる。つられてそちらを向くと、扉の影で小さくなっているもう一人の少女が目に入った。三繰の双子の妹、七魅である。
 七魅は両手で何か荷物を持ち、郁太の視線を避けるように俯いていた。首を捻る郁太。

「ほら、ナナちゃん。渡しちゃいな」
「……う、うん」

 三繰によって七魅が引っ張り出され、郁太の正面に立たされた。まだ俯いているため、前髪に隠れて瞳が見えないが、頬がほんのりと赤くなっているのが見える。スカートの前で、白い布に包まれた箱状の物をその結び目を摘むようにして持っていた。

「ん……何?」

 自然とその物体に郁太の視線と興味が引かれる。声をかけられ、思わず七魅の腰が引けそうになったが、そこを姉に背中をぽんと押されて踏み留まった。かなり長く……恐らく、30秒近く、もじもじと逡巡したあげく、七魅はその包みを捧げるように持ち上げ、郁太に向けて突き出した。

「え?」
「あ、あの……これ……」
「これ?」

 条件反射で郁太はそれを受け取ってしまう。

「お昼……食べて下さい」

 七魅は熱い物に触れたかのように両手をぱっと引っ込め、また縮こまった。郁太はぽかんと口を開けて、阿呆のように黙りこくっている。ぺしっと後頭部を三繰に叩かれ、ようやく言葉を発した。

「え? 僕に?」
「……」

 七魅は視線を合わせないまま、こくりと頷いた。耳まで真っ赤になっている。「え、ほんとに?」とまたも阿呆のような少年の声。

 そこに、「ひゅぉおおおおおおっ!」と形容し難い奇声が横合いから叩きつけられた。郁太が目を向けると、いつの間にか自称新聞部が隣に出てきて泡を食っている。

「おぉおおお! こ、これはあれですか!? で、伝説の恋愛マストアイテム、て、手作り弁当ってやつですかぁ!? 略してテベントー、ラヴワイフランチボックスですかぁ!? プレゼントフォーユー、ウィズ、マイラヴって奴なんですかぁああああ!?」

 大騒ぎであった。
 「あ、せっかくだから記念に一枚」とカメラを取り出そうとしたところを三繰や他のクラスメイト達に引っ張られていく藍子。こんな所だけ異常に協力的なのである。

「後生ですー! 目線入れますからぁー! せめて包みだけでもぉ~!!」

 その叫びはだんだん郁太達の元から遠ざかっていった。恐らく藍子のクラスまで強制送還されたのだろう。

 2人で取り残され、またも沈黙が落ちる。ややあって、思い出したようにもう一度郁太は確認した。

「え? 僕に?」
「食べて下さい」

 七魅は俯いたまま、同じくもう一度言った。

「は。はぁ……」
「……」

 またも、沈黙。残ったクラスメイト達からの好奇の視線が痛い。ひそひそと七魅の事を噂しているようだ。あの子柚組の……、双子の……、7月生徒会で……、それじゃ三角関係じゃない……などなど。恐るべき情報の回転速度である。
 郁太の方も気を利かせて場所を変えればいいのに、あまりのショックに今だ脳が動いていない。居たたまれないのは七魅だ。それこそ、リノリウムの床が親の敵とでも言いそうな目つきでそこを睨み続けた。スカートが皺になる事も考えられず、俯いたままぎゅっと手で握りしめている。

 この時の七魅の羞恥、戸惑い、そして怒り、それらの感情を全てひっくるめて端的に一言で表現するとこうなる。

 どうしてこうなった。

BLACK DESIRE

#16 達巳郁太の消失 IV

1.

 その日の朝方の話である。

 郁太が学校内に再び姿を現すようになり、早速新しい作戦実施のため哉潟姉妹は高原別邸を訪れた。黒猫のメッシュに呼ばれていたのである。

 いつものように双子が門の前で車を降りると、郁太のメイドがすでに待ちかまえていてうやうやしく頭を下げる。相変わらず、似合ってるのか場違いなのか良くわからない海賊眼帯ルックであった。すぐに客間に案内される。

「よーう。一晩経って落ち着いたか?」
「別に昨日の内でも問題有りませんでしたが。お陰で朝の貴重な時間を無駄に費やすことになりましたね」
「ま、そう言うな。そっちのお姉ちゃんにも説明の時間は必要だったろ?」

 客間のソファの上には黒猫がすでに待ちかまえていて、早速の軽口を叩いた。七魅も皮肉っぽく口元を歪めて応戦する。そして、後ろの三繰に振り返った。

「姉さん、この黒いのが自称悪魔のメッシュです」
「本当に猫が喋ってる……」

 事前に聞かされていたとは言え、実際に見て三繰は心底感に堪えないといった表情で呟いた。両の瞳が恐ろしく興味の光に満たされて爛々と輝いており、メッシュは体を少し引いて警戒体勢をとる。

「何だ、喋る動物を見たのは初めてか、お姉ちゃん?」
「そうそういないでしょう?」
「そうでもない。あんた達人間がよっぽど鈍感なんだろうよ」

 双子が並んでメッシュの対面のソファに座ると、その間にある木製のテーブルに2人分の紅茶がすっと置かれた。いつの間にか、メイドの幎が用意していたのである。まるで気配がしなかった事に三繰は軽く驚いていた。

「ねえ、ナナちゃん。もしかしてこの人も……」
「はい。そうらしいです」
「そうなんだ……」

 三繰は納得いったという風に頷いて見せた。

「さて、早速だがまずは状況確認といこう」

 双子が紅茶に口を付け、メイドは壁際に寄り、全員が落ち着いたところで黒猫が切り出した。

「今月の1日、小僧は夢魔とその仲間の人間に捕らえられ、奴らの世界に拉致された。その際、小僧の本も奪われている。その目的は本の力の奪取と考えられる……よし、そいつ等の事をこれからは『敵』と呼ぶぞ? 明らかに俺たちに害を成す存在だからな」

 七魅達は黒猫の言葉に無言で頷いた。それを確認し、メッシュは言葉を続ける。

「敵が本の力を手に入れるためには、小僧が本と幎との間で交わした契約を破棄させる必要がある。単純に言えば、小僧が本に貯め込んだ魔力を消費させ、ガス欠にして契約不履行にしてしまう事だ。単に夢魔の世界に捕らえているだけでも良かったが、一つ問題があった。学園内の協力者の存在だ。つまり、お嬢ちゃんの事だな」
「七魅お嬢さん、だよ」

 三繰が唇を尖らせて口を挟むと、黒猫は髭を震わせてにやりと笑った。

「……哉潟の妹ちゃんが学園内に居ると、昼間、本の存在優先権に保証された小僧がそこに姿を現している時に、手を打たれてしまう可能性があった。だから、小僧を学園から消すため、回りくどいが小僧自身の目的を達成させてやる必要があった。それがナユミとかいう娘を夢から呼び出した理由だ」

 黒猫の言い換えに三繰は不満そうだったが、横の七魅が腕を押さえて首を振ったので諦めたように息をついた。

「そのせいで、私は達巳君の事を忘れていたんだね」
「そうだ。小僧の存在だけじゃない。小僧の関わった物事全てが記憶の改竄を受けた。まるで小僧の代わりに蘇った娘が最初から存在していたかの様にな」
「でも、今は全部思い出したよ。達巳君の事も、那由美さんが本当は亡くなっているって事も」
「ああ。妹ちゃんの『トイレのイチタロウ作戦』と『ナユミ殺し作戦』の成果だ」

 七魅は黙って頷いた。
 9月の1日に郁太が消えた後、七魅は那由美からのヒントも有ってこの高原別邸を訪れ、黒猫のメッシュとメイドの幎と協力体制をとる事になった。

 まず行ったのは、郁太が用意していたイチタロウという名称の幽霊の噂を流布し、それを利用して姿を失った郁太が本を使って魔力回収出来るようにする事だった。この作戦が当たり、郁太は当面の間魔力の枯渇を心配する必要が無くなった。

 それに引き続き、七魅は那由美の存在を学園から抹消するため、彼女が学園内で命を落とした時の状況の再現を試みた。当時現場近くにいた2年生の生徒から詳細な状況を聞き出し、姉の協力を得て那由美の死を学園に再認識させたのである。作戦は見事に成功を収め、その翌日から那由美は姿を現さず、郁太が復帰することが出来た。

「だが、今の小僧はナユミが蘇っていた時の状況と変わらない。誰かが認識していなければ実体を持てず、時折前後の状況を無視した『ジャンプ』を起こし、連続した意識を持てずにいる。また、学園の外に出ることは出来ず、夜になればまた夢の世界に還ってしまい、翌日の登校時間になるまで消滅したままだ」

 黒猫の言葉に七魅は頷いた。これは、昨日郁太の復帰後に1人と1匹で少年を観察して確認した事だ。それとなく本人とも対話して探りも入れている。七魅が黒猫の話の後を継いだ。

「それに、達巳君はあの本の事や、それに関する事を全て忘れていました。恐らく、敵にとっては都合が悪い情報だったからだと思います。7月の生徒総会や、夏の合宿の事も、それがあった事は覚えているようでしたが、細部に関しては本の存在を隠すように巧妙に記憶の改竄が行われていました」
「記憶の改竄と言うより、小僧の場合は記憶の補完だな。記憶の消えた部分の情報を、都合の良いように勝手に作り出したんだ。当然、小僧はこの屋敷に自分のメイドが待っている事も忘れている。幎と本は対だからな」

 黒猫の尻尾が後方のメイドを指した。双子の視線がその先の黒尽くめの少女に向いたが、本人はまるで感情という物を持ち合わせていないかのように、前で手を合わせたポーズのまま微動だにしなかった。

「さて、ここまでが現在の状況の確認だ。問題ないな?」

 黒猫は辺りを見回し、声を上げる者がいないことを確認して満足げに髭を震わせた。

「ようやく今日の本題に入れるぜ。ここで、やっと最初に戻ってくる。9月の1日、小僧は敵にさらわれる直前にお姉ちゃんと電話をしていた。それも、恐らく敵側の人間と思える人物の情報についてだ。そうだったな?」
「うん」

 三繰は力強く頷いた。郁太の記憶が戻ってきたことにより、その時の記憶も同時に思い出していたのだ。

「達巳君は、ひどく焦った様子である生徒の情報を欲しがっていた。多分、さっきの話に当てはめて考えると、敵側の人間と接触して危険を感じて、先手をとって捕らえるために本の力を使おうとしていたんだと思う」
「本を使うためには、相手の名前と顔を知っていなくちゃならないからな」
「うん。達巳君はその生徒の顔を見たんだと思う。金髪の切りそろえたロングヘアの生徒で、ナナちゃんより小柄、碧眼の女の子。私には思い当たる生徒が一人しかいなかった」
「そいつの事を教えたんだな、電話で」
「そう……」

 三繰は目を閉じた。『本気で言ってる?』と電話で相手に言ったことを思い出していた。今考えてみれば、余りにも不自然な状況であった。

「……3年椿組、エアリア=マクドゥガル。同じクラスの筈なのに、達巳君はその娘のことを全く知らないみたいだった」
「私も、それを聞いて不思議に思ったんです。そして、昨夜姉さんと一緒に考えてみて、あっと思いました。私達は……いえ、恐らくあの学園の全員が、マクドゥガルさんの事を知っているのに『誰も顔を合わせたことが無いんです』」

 そうなのだ。これは2人の記憶をお互いに確かめてみて判明した。哉潟姉妹は郁太と話すために何度も椿組を訪れているが、その際にエアリアを見かけたことが一度も無かった。それどころか、様々な行事の写真などを全部確かめても、その金髪の少女の写った物は一枚も無かったのだ。

 それなのに、2人はエアリアの顔をまざまざと思い出すことが出来た。郁太の反対の、廊下側の一番後ろの席に座っている姿まではっきりと覚えていた。一度も教室で見かけた事も、顔を合わせて話した事も無いのに。

 その話を聞いて黒猫は唸るような声を出した。

「大した野郎だ」
「……女の子ですよ」
「きっと、小僧も含めてお前達全員が騙されていた。体験が無いのに、記憶に残っている。夢魔の得意技だ。最初から、その小娘は夢魔の世界に隠れたまま、夢だけを操って学園の奴らに自分の存在する世界の印象を植え付けていたんだ。そうやって小僧の隙を淡々とうかがっていたに違いない」
「なんでそんなに時間をかけたのでしょうか?」

 七魅の疑問に、メッシュはいつものようにいらいらと尻尾を振り回して答えを探しているようであった。

「……隠れて本の力を探っていたのかもしれない。夢魔が完全な情報を持っていなかったのかもな。あるいは、慎重にならざるを得ない事情が有ったのかもしれないな」
「何か行動を起こすきっかけが有ったのでしょうか」
「さてね。もしかすると敵も結構危ない橋を渡っているのかもしれん。小僧が捕らえられたところを見ると本の力は効かなかったか、使えなかったみたいだが、そこにも何か弱点が有るのかもな。一度しか防げないとか、予めコントロールされる内容を知ってなけりゃならないとかな」

 メッシュはそう言って耳をぺたっと倒した。三繰は不思議そうにその仕草を見たが、七魅にはそれが人間でいう肩を竦める仕草だと何となく感じられた。

「とにかく、だ」

 黒猫は気を取り直したように、ぽむ、とテーブルの上を肉球で叩いた。三繰は間の抜けたその音に笑いをかみ殺したような微妙な顔付きになる。

「こっちには生憎相手の事情をいちいち調べ尽くすだけの余裕は無い。どちらにしろ、小僧を取り戻すためには奴らの世界に乗り込んで行くしかないんだからな」
「夢の世界に……?」
「そうだ。と言ってもこれはお嬢ちゃん達2人には無理だ。人間には夢に抗う術(すべ)が無いからな」
「しかし、悪魔は他の悪魔の領域に勝手に入ることは出来ないのでは?」

 七魅は怪奇倶楽部を追って学校に忍び込んだ時の事を思い出しながら聞いた。確か、そのせいで悪魔と契約した男性は処女の証を破る事が出来ないとまで説明されていた。
 黒猫はその疑問にあっさりと「そうだ」と頷く。

「正確には、『内から招かれる』か『内の存在に連れ去られる』以外の方法では侵入したとたんに消滅してしまう。だから、もちろん中に入るときは小僧に呼び込んでもらう」
「達巳君に?」
「ああ。計画を話そう」

 メッシュの計画は次の通りである。
 まず、郁太が夢の世界の中から幎達を呼ぶためには、何よりも彼自身が記憶を取り戻し、自分が危機にあることを自覚していなければならない。その為に、「ナユミ殺し」作戦と同じ手法を使う。

「今、あの黒い本と似たような外観の本を用意している途中だ。それを昼間の内に小僧に拾わせ、あたかも本の力で学園に異常を起こしているかのように錯覚させる」

 どの程度の力を持った本の偽物を用意できるかはまだ未定だが、必要ならば哉潟の力を使うことになるだろう。要は、郁太が今まで力を行使して作り出した状況を再現し、思い出させれば良いのだ。

「だが、せっかく思い出しても認識の壁を越えてジャンプが起こると、それでリセットだ。昼間の小僧の時間は止まったままだからな」

 そして、郁太の時間を進めてやる事にはもう一つ、大きな意味がある。七魅達という助けが居ることを覚えたままで夢の世界に戻らないと、例え自分の危機を知ったとしても呼ぶことができないのだ。

「その為には、小僧自身に新しい時間と可能性を与えてやる必要がある」
「そんな事が出来るのですか?」
「『魔力』だよ。魔法ってのは、時間の向こう側で境界を越えなかった可能性を引き出す技術なんだ。つまり、魔力ってのはその混沌の固まりから引きずり出された可能性そのものだ」

 郁太に魔力が宿っている間、少年の時間は未来へ進む。その間の出来事は夢の世界に還っても失われることは無い。

「記憶を取り戻させること。魔力を与えること。この2つを同時にやらなきゃならん。全てがうまくいったら、小僧に俺達を呼ばせ、取り戻す」
「敵に気付かれませんか?」
「気付くな。そしたらブン殴って同じ事をするだけさ」

 黒猫は事も無げにニヤリと笑って言った。

「記憶の方はわかったけど、」

 三繰が首を捻りながら質問した。

「その魔力を達巳君にあげる方はどうするの?」
「それもお嬢ちゃん達にやってもらう」
「どうやって? 私、魔法使いじゃないよ?」
「運んでもらうのさ」

 黒猫が壁に向かって頷くと、そこにいた幎がいそいそと近寄ってきて白い布に包まれた箱のような物をテーブルの上に置いた。それをじーっと少女達が見つめる。

「……お弁当?」
「どうするの? これ」
「小僧に食わせろ」

 再び黒猫はニヤリ笑いを浮かべた。

「中身は食いモンに擬態させた魔力だ。小僧が食えば、体の中で魔力に還元される。都合の良い事に奴の心臓は魔力の疑似器官に置き代わっているからな。体中、隅々まで魔力を浸透させてくれるさ」
「はあ……便利な物なのね」

 試しに三繰が持ち上げてみても、普通の中身入り弁当箱と大差ない重さに感じられた。自分も持って確認した後、七魅は黒猫に目線を戻した。

「これを、幎さんからと言って渡せば良いんですね?」
「馬鹿言うな」
「え?」
「小僧は今、自分にメイドがいるなんて事も忘れていると言っただろうに。訳の分からない怪しげなメイド姿の女からのプレゼントと言われて、はいそうですかと食べるような間抜けなのか? あの小僧は」

 辛辣だが、もっともな意見であった。見ず知らずの他人から食べ物を貰って、無防備に口にするようでは危機感が足りないと言わざるを得ないだろう。

「じゃあ、どうするんですか?」
「だから、それもお嬢ちゃんに頼むんだよ」

 3度目の黒猫の笑いであった。

「いくら小僧が阿呆でも、知り合いの女の子の手ずからの弁当って言やあ喜んで食うだろうさ。ああ、当然その弁当はお嬢ちゃんのどっちかか、あるいは2人で作ったことにするんだぜ? 愛妻弁当っていったか? それと、食ってる途中で消えられるのも困るから、必ず大勢の人間が見ている前で手渡せよ? 認識する人間が増えればその分小僧の意識が長持ちするだろうからな」

 黒猫は一気に言うと、とことことテーブルの上を歩き、弁当に手を置いたまま固まっている七魅の腕にぽんと前足を乗せた。

「頼りにしてるぜ、妹ちゃんよ?」

 このようにして、ああなったのであった。

2.

 七魅の渡した弁当を、郁太はそれこそ少女が気まずくなるくらい大喜びで食べた。美味い、すげー美味いと何度も感激の声を上げ、あまりの後ろめたさにもう少しでそれは私が作ったんじゃないと白状してしまいそうになった。
 その事を報告すると黒猫はさらりと「そりゃそうだ」とさも当たり前の事のように頷いた。

「腹が減ってりゃ何だって美味い。今の小僧はまさしく砂漠で水一滴を求めてさ迷う餓死寸前の旅人だ。魔力の籠もった弁当はそりゃあ美味いはずだぜ。体が何よりそれを必要としているからな」

 そのような訳で、まだまだ郁太への魔力補給は必要ということで、翌日もまた七魅は白い包みの弁当箱を手に学校へと向かったのであった。

 2時間目の教科が終わり、中休みとなった。七魅がその前の教科の片付けをしていると、その席に輝くような金髪をツインテールにした少女が声をかけて近づいてきた。珍しい事に体育会運動部連合自治会長の早坂英悧(はやさかえいり)である。何か一枚刷の印刷物を手にし、首を捻りながら七魅に尋ねてきた。

「これって、あなた達のこと?」
「? 何ですか?」

 英悧が机に置いた印刷物を、隣の席の三繰も体を伸ばして覗き込む。そしてそこにデカデカと並んでいる文字を読み上げた。

「『IT氏 熱・愛・発・覚 ……か!?』」

 ずるりと七魅は椅子から落ちかけた。スカートが椅子の上に残って危ない危ない。それに構わず三繰は続けて記事の内容を読んでいく。

「『毎度毎度学園内をお騒がせしている転入生IT氏であるが、この度本紙記者は同氏が現在お熱を上げている女子生徒の情報を入手し、その証拠となる場面を撮影することに成功した。』ほほう、よく撮れてるねぇ……『NK嬢の手作り弁当に舌鼓を打つIT氏』、か。これ、目線入れないでいいのかなぁ?」
「ね、姉さん……」
「続きはっと……『NK嬢とIT氏の関係は5月の末頃から続いていると見られ、同記者が調査したところ6月に本校のプールを使用してのグループ交際、7月生徒総会への準備活動、夏休みには文化探訪研究会への合宿参加を経て次第に距離を縮め、この度めでたく交際を開始された模様……』って、どこでこんなの調べてくるのかな?」
「ほんと、この能力をもう少し別の事に使って欲しいわね」

 腰に手を当て、英悧が感に堪えないという様子で同意した。

 3人が顔を寄せ合って見ているのは、新聞部発行の星漣瓦版9月17日号である。本日発行のこの刊行物は、昨日郁太の元でコメントを貰おうと蔦林藍子が大騒ぎしていた筈のものである。しかし、件のアンケート結果に関しては掲載されておらず、隅っこの方に『前号で予告したアンケート結果の発表に関しましては、紙面の都合により次号以降の掲載とさせていただきます』と小さく断りが載っているだけであった。どうやら特ダネスクープに紙面を総入れ替えしたらしい。

「あらぁ、IT氏を良く知るHM嬢のコメントまであるよ。『知りません。私、IT氏の保護者じゃありませんから(HM嬢談)、と控えめにコメントしつつも心中穏やかならざる様子であり……』これ、明らかに怒ってるよね」
「……」

 三繰の読み上げに七魅は顔を赤くしたり白くしたりして、遂には頭を抱えてしまった。そんな少女の苦悩を余所に、三繰と英悧は他人事のように話を続けている。

「これ、肖像権とかどうなってるのかな?」
「報道の自由とフリーダムな報道を取り違えている新聞部に、そんなもの無いんじゃないかしら?」
「これ、発行差し止めにしないの?」
「もうしたわ」

 英悧の事も無げな言葉に、七魅は「えっ」と顔を上げた。

「冬月が朝一でこの号の差し止めと回収に乗り出してるわ。出回ったのも10部程度じゃないかしら」

 英悧の言う冬月とは、3年柊組の相良冬月(さがらふゆつき)の事である。冬月は風紀委員長であるので、校内の風紀を乱すような案件に関して対処する責任と権限が与えられていた。
 三繰は英悧の言葉に最初からわかっていたと言わんばかりに笑いながら頷いた。

「ま、そうだろうね。そうじゃなきゃ、今頃のんびりとこんな風に自治会長とお話していられなかっただろうし」
「……姉さん」

 単に面白がっていた姉と、「ま、そういう事」と頷いてみせる英悧を交互に非難の目で見る七魅。その視線に2人は全く怯む様子も見せず、かえって面白がっているようなので遂に七魅は席を立ち、教室から出て行ってしまった。それを見送り、三繰はまだそこに残っていた英悧に向き直る。

「で? それだけの用事なの?」
「そんな訳無いじゃない」

 英悧はさらりと言ってのけた。あくまで新聞の事は余興であったらしい。

「あなた達にちょっと状況を聞いて貰おうと思って頼みに来たのよ」
「達巳君に?」
「そう」

 真面目な顔付きで三繰を見つめる英悧。

「そろそろ体育祭の準備をしないといけないんだけど、達巳君がどの程度それを把握しているか、人材は足りているのか、その辺をね」
「いいけど、何で早坂さんが気にしてるの? 達巳君の事が気になる?」
「そりゃ、気になるわよ。体育会の行事だからね」

 三繰のからかいを英悧は微笑みながらさらりとかわした。

(ナナちゃんもこれくらい悠然としてればね)

 ま、それが可愛いのだが。自分で気が付いているのかどうか知らないが、最近あの少年の事になると途端に余裕を無くす愛する妹の事を思い、三繰は心の中でぺろりと舌を出した。
 そういった内心をおくびにも出さず、三繰は首を傾げて英悧に答える。

「わかった。達巳君には言っておくけど、たぶんまだ後1週間くらい動けないと思うよ」
「どうしてかしら? まさか、これ?」

 英悧は眉を寄せて手元の新聞を指さした。郁太が恋愛にうつつを抜かして仕事をほっぽりだしているのかと暗に聞いている。三繰はそれに、「だったらまだ良いんだけど」と首を振った。

「いろいろ、熱烈な御引きに苦労してるのよ」

「な……なんだこの状況は……?」

 昼休み、事前に七魅から指定されていた通り食堂東のテラスのテーブルの1つに座って待っていた件の少年は、周囲からの好奇の視線に針のむしろにされていた。昨日はがら空きだったこの場所が、何故か今日は他の女子生徒達でほぼ満員状態だったのだ。
 もちろん、少女達は不躾に郁太を直接観察している訳ではない。むしろ、見た目はほぼ少年のことを無視して自分達の会話を楽しんでいると言って良い。だが、少年がそわそわと落ち着かない様子で周囲を見渡すと、たいていは2、3人ほどがさっと目を逸らすし、まだ現れない待ち合わせの少女からのメールが無いかと携帯に目を落とすと、周囲の視線の圧力が増す気配を感じた。

(僕は動物園に連れてこられた珍獣か……?)

 ため息をつく。この場で待機して10分が経過した。すでにテラスは満席で、その上「立ち見」の生徒達までぽつぽつと現れ始めている。それらの少女達はいかにも「ちょっと通りがかった所で知り合いに会ってお話中」のフリをしていたが。

(……ん?)

 少年のポケットの中で、携帯が振動する気配があった。取り出して見ると七魅からのメールであり、簡潔に「ヤシロザクラに場所を変更します」とだけ送られてきていた。

(ははぁ。七魅もこの状況をどこかで見ていたんだな……)

 郁太は携帯を仕舞うと、椅子から立ち上がって伸びをした。そして、目的地を知られないために少し遠回りした方がいいかな、と考えながら少女達の視線を背に、ぶらぶらと歩き始めたのだった。

 その10分後、郁太がヤシロザクラへと向かっていると、その丘へ登る小路のふもとに七魅が佇んでいるのを見つけた。両手に1つずつ何かバッグに入った荷物を持っている。更に、その足下にはお供まで連れていた。

「お待たせ」

 郁太が急ぎ足で近付くと、七魅はほっとしたようにいつも寄っている眉を少し緩めた。多分、学園内でこの表情の変化が読めるのは少女の姉か、郁太くらいのものであろう。

「ごめん、遅くなった」
「いえ、場所を変えたのはこちらですから」

 柔和な雰囲気で七魅が答える。足下の茶色い毛むくじゃらも待ちかねたと言わんばかりに立ち上がって伸びをした。

「なんだ、お前も同伴なのか」

 茶トラの猫は郁太に向かってにゃあと返事をし、とことこと先に立って丘を登り始める。5mほど先で振り返ると、「行かないの?」と振り返ってもう一度鳴き声を上げた。

「食い意地の張った奴だな。ミッキーって言ってたっけ、あの猫」
「そのようですね」

 2人は並んで歩き始める。郁太が荷物を持つと言うと、七魅は黙ってバッグの片方を手渡した。意外に軽かったので郁太は「そっちの方が重いでしょ?」と問いかけると、少女は首を振って「こっちはお弁当が入ってますから」と断る。

(答えになってる……のかな?)

 何となく雰囲気で了解し、郁太は最初の荷物を左手に持ったまま歩いて行く。その右で、七魅がもう一つのバッグを右手に持ち変える気配がした。やっぱり重いんじゃないの? と思う少年に、少女は黙ったまま肩を並べてついて行く。少し肩の距離が近付いた気がした。

 ヤシロザクラの根本には見事な木陰が有った。そこには先に着いたミッキーが踏ん張って待っていて、まるで「場所取りしといたよ」と言わんばかりな得意げな表情に、郁太は吹き出しそうになった。隣の七魅を見ると、小さく笑っている。

「サンキュ、ミッキー」
「なぁ~お」

 郁太が持ってきたバッグには2人用くらいの小さな行楽用シートが入っていた。広げて隅っこに石を乗せ、風で捲れないようにする。準備をしている間に茶色い猫は土足のままトコトコとシートに乗り、木陰の一番濃いところにあたりをつけるとそこに陣取った。少年と少女もそれに続き、靴を脱いでシートに上がる。ミッキーがシートの一角を占有してしまっているため、必然的に2人はただでさえ狭いシートの半分に、寄り添うようにくっついて座る羽目になった。

「はい、どうぞ」
「う、うん。ありがと」

 七魅は自分の持ってきたバックから白い包みの弁当箱を取り出すと、郁太に手渡した。お互いの夏服の袖が触れ合う様な距離であり、どぎまぎしながらそれを受け取る郁太。さらりと衣擦れの音と共に少女の髪がぱらりと手元に落ち、ふわりと良い匂いが漂った。

「い、いただきまーす」
「はい」

 包みを解き、蓋を開けると昨日に引き続き豪勢なおかずと三角おにぎりが綺麗に並んでいた。鳥の唐揚げ、アスパラベーコン巻き、ミニトマト、卵焼き。それぞれは少量だが、お弁当メニューの定番が何種類も入っていて何とも賑やかだ。弁当箱を膝に乗せ、右手に一緒に入っていたプラスチックの箸、左手にはおにぎりの両手持ちで郁太は弁当をつつき始めた。すぐに美味い、美味いと感激の声を上げ始める。

「どうぞ」
「あいふぁほぅ」

 もぐもぐとしながら七魅の差し出した水筒のコップを受け取る。ぐいっと一気に飲むと、胃に落ちていくのが感じられるくらいよく冷えた麦茶だった。郁太は目をぎゅっと瞑り、唸り声を出す。

「うぅ~……」
「あ、冷たすぎましたか?」
「美味い!」

 そう叫ぶと郁太は食事を再開した。七魅はほっとしたように口元を綻ばし、そして取り分けていたのか、小さな弁当箱を取り出してそれに口を付け始める。

「あれ? それは違うんだね?」

 郁太が目敏くそれに気が付いて問いかける。七魅の食べている弁当は郁太の持っている物とおかずの種類が異なっていた。

「……これは作っている人が違いますので」
「ふーん。あのメイドさんが作ってくれたの?」
「……」

 七魅は素知らぬ顔でその中身のいくつかを蓋に取り、猫に与えている。郁太には見えないが、少し気まずそうな顔をしていた。
 そうこうしている内に郁太は弁当箱の中身を平らげた。蓋を閉め、箸をケースに仕舞うと、ほぼ同時に横から別の箱が出てくる。

「どうぞ」
「あ、デザート? サンキュ!」

 透明なケースに入ったリンゴのウサギであった。少年はプラスチックの楊枝の刺さった一つを取り、口に運ぶ。少女の方ももう一本の楊枝を使って一緒に食べ始めた。しゃくしゃくと歯ごたえのあるリンゴを噛むと、酸味の有る甘い果汁が口いっぱいに広がった。

「甘くて美味しい」

 郁太が素直な感想を述べると、七魅も口を動かしながら黙って頷いた。

 数分後、食後のデザートも2人で食べ切り(郁太と七魅で半分ずつ食べた)、箱を仕舞うと郁太はくつろいだ雰囲気で足を伸ばす。七魅は側に寄ってきたミッキーの頭を撫でてやっていた。

「……いい天気だねぇ」
「ええ」

 しばらく、雑多な事をぽつりぽつりと喋りながら過ごす。郁太が目を瞬かせ、小さく欠伸をした。

「少し寝ますか?」
「うん……何か眠くなってきた……」

 ごろん、と少年は寝転がった。そのまま目を閉じる。そして、呟くように七魅に問いかけた。

「ねえ……何で七魅は僕に弁当を作ってくれるの?」
「……」
「ちょっとだけ、教えてくれない?」

 郁太の声は半分眠りかけているような、抑揚に欠けたのんびりした口調であった。七魅は幾分逡巡した後、それに答えるために口を開く。

「ただの、練習ですよ」
「僕は実験台?」
「そうです。達巳君なら、多少失敗しても全部食べると思いましたから」
「はは、良くわかってるね……」
「それはもう」
「ちょっと酷いかな……」
「謝りましょうか?」

 目を閉じたままの郁太の頭上に、七魅が顔を寄せる気配がある。郁太は少しだけ口元に笑みを浮かべた。

「いや……そのかわり、お詫びでして欲しいことがある」
「なんですか?」
「ちょっとの間、七魅の膝を貸して」
「調子に乗り過ぎです」
「だめ?」
「……いいですよ」

 七魅の細い指先が郁太の頭の左右を押さえる。その手引きに合わせて郁太は目を瞑ったまま体を動かし、そっと頭を下ろした。後頭部に、スカートの生地越しに少女のやわらかい太ももの感触がした。

「いいね」
「どういたしまして」
「重くない?」
「疲れたら退いてくれますか?」
「やだ」
「なら、聞かないで下さい」
「……うん」

 郁太の頭がすぅと重くなったように感じられた。少年の意識が夢の世界へと引かれ始めたのだと、少女は直感する。少年は夢うつつのまま寝言の様に呟いた。

「……美味しかったよ」
「そうですか」
「最後のリンゴ……耳が切れちゃってたのも有ったけど……いちばん美味しかった」
「……そう……ですか」
「……」

 さあっとヤシロザクラの丘に風が吹き渡った。少年のこめかみの辺りに枯れ草の一本が風に乗って落ちる。それを七魅はそっと手で摘み、横に置いた。七魅が手を戻そうとすると、少年がその手をきゅっと握る。少女は少年がまだ何か言いたい事が有るのかと顔を寄せた。

「……」
「……」

 少年は完全に眠っていた。寝息も穏やかで規則的だ。おそらく、無意識の内に少女の手を握ったのだろう。七魅は体を寄せたその体勢のまま、少年の寝顔をじっと見つめ続けた。
 また風が吹き、今度は七魅の髪が肩から落ちて少年の顔の左右に落ちた。少女の細い髪の束が2人の顔の間に影を落とす。静かに、静かに、ゆっくりと。重力に引かれるように少女の顔が少年に近付いていく。上体が曲がり、少年に覆い被さった。……その時。

「……へえ。その膝は小僧の場所ってわけだ」

 頭上から七魅に声がかけられる。そっと体を起こし、そして少女は睨むようにヤシロザクラの枝の上に視線をやった。そこで面白がっているように尻尾を振っている黒猫を睨む顔が、少し赤くなっている。

「……達巳君に気付かれてしまいます」
「平気さ。まだ魔力が足りないんだろう。そら、小僧の意識が夢魔の世界に戻っていくぞ」

 七魅が目を戻すと、少年は足下の方の輪郭がぼやけ、白い制服のズボン越しにシートの柄が見えるようになっていた。七魅が少し目を見開く。

「……どうして」
「妹ちゃんは本の能力の範囲外だからな。そこの茶色いのが寝ちまったから小僧を誰も認識しなくなったのさ」

 七魅が傍らに目をやると、確かにミッキーは鼻をすぴすぴしながら横倒しにエビぞり状態で居眠りをしていた。全くの無警戒で、更に言えばおおよそ猫の寝方では無い。本当にこの子は猫なのかしら、と七魅は内心訝しがった。

「そのまま寝かせておけ。魔力の補充がすんだ後は無駄に時間を進めないよう、なるだけあっちの世界に居てもらった方が都合がいい」
「……達巳君は目を覚ましますか?」
「心配するな。授業が始まれば誰かが思い出してちゃんと教室に戻ってくるさ。例えばあの小煩い茶色い髪の姉ちゃんとかな」
「……」

 郁太の体はすでに半ばまで消えかかっている。温かみと重さは変わらないのに、姿だけが見え辛くなっているのだ。少女はまだ感触を残している少年の手を握る手に、少しだけ力を込めた。

「まだ続けるんですか?」
「ああ、まだ魔力が十分じゃないからな」
「どれくらいですか」
「あと2、3回といったところだろう。ああそれと、もう一つの方も準備が出来たぜ。そら」

 黒猫が尻尾を振る。すると、どこからともなく中空に黒い表紙の本が現れ、重力に逆らってゆっくりとしたスピードで七魅の手元に降りてきた。郁太の頭に添えていた方の手を伸ばし、それを受け取る。

「あの本……」
「……に、そっくりだろ?」

 黒猫は得意げに髭を震わせた。

「が、そいつはあくまで偽物であの本と同じ力は持たせていない。せいぜいそれを読んだ人間に、書かれている内容が本当の事だと思い込ませる程度の力しかない」
「それだけですか?」
「わざとそうしたんだよ」

 たたっと枝を蹴り、幹をつたって黒猫が駆け降りてきた。そして茶トラと七魅を挟んで反対側に止まり、七魅を見上げる。

「余り似せ過ぎると、黒の本とその偽物は互いに呼び合って影響を与えちまう。存在が共振するんだ」
「敵にこちらの行動を知られてしまうのですか?」
「ああ。それに、その偽物も小僧の意志無くして使えなくなるかもしれん。この国には神仏習合っていう有り難い考え方が有るだろ? 大きな力を持った似たような存在が、余りにも近い距離、時間に在るとそれらは互いに影響を及ぼし、それが酷くなると遂にはどっちか片方に吸収されちまう。魔法も悪魔も、そして魔法の宝器(アーティファクト)も同様だ。伝説が伝説を食っちまうのさ」
「……」

 黒猫はふわぁと欠伸をし、そして前足で顔を洗うとひょいとシートの上から飛び出した。

「そいつの使い方は任せるぜ。ああそう、一応ヒントを言っておくが、小僧が一番最初に使った能力と一番最近に使った能力は、奇遇にも同じ力だ。あの茶髪の姉ちゃんとキスをする力さ。ま、妹ちゃんがどんな使い方をしても最終的に小僧が本との契約の事を思い出せれば万事オッケーだけどな」

 そう言って、黒猫は口元に笑いを浮かべながら顔だけ後ろを振り向く。そして少女の視線に「おおこわ」と耳をぺたんとさせ、その場から駆け去って行った。

 少女はその気ままな後ろ姿をじっと睨みつけていた。だが、その姿が下草に隠れて高く立った尻尾しか見えなくなると、ため息をつく。ふと下を見ると、少年の姿はどこにも無く、少年に掴まれていた手だけが空を握っていた。その手をゆっくりと持ち上げ、じっと見つめる。指を軽く閉じ、そして自分の唇に当てた。

「……」

 風が吹き、俯いた少女の髪と傍らの黒い本の白紙のページをぱらぱらとなびかせる。その側では茶色い猫が欠伸と共に大きく伸びをし、そしてほんのりと赤くなった少女の顔を不思議そうに覗き込んでいた。

< 続く >

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