BLACK DESIRE #17-9

9.

 いったいどれだけの時間と労力が費やされたのだろう。
 幎の、七魅の、それぞれの意志が、そして偶然のもたらした様々なヒントが、今のこの状況を作り出した。

 エアリアとの距離はほんの4mくらい。魔女は僕のことを完全に見くびり、勝ち誇っている。そして、僕に与えられたチャンスはたぶん、この一回きりだろう。
 だから、決して失敗はできないし、するつもりも無い。いや、失敗の可能性など考えてはならない。やるべき事を、ただ、イメージ通りにトレースして実施するだけだ。それには、若干の演技力も必要になってくるだろう。

 僕は下を向き、半歩だけ後ずさりする。それは、エアリアを引き込むためのちょっとした心理的罠だ。あの少女の性格を考えれば、この弱気に見える後退は絶好の攻め所に見えるだろう。

「……そんなに怯えるな、ボーヤ。もうお前にあの学園の居場所は無いが……さりとて、お前は時間以外に特に失ったモノは無いのだからな」

 にやりと笑って僕の方に踏み出すエアリア。
 想定通り。十分だ。僕はきっと顔を上げ、『両眼で睨みつけた。』

「エアリア=マクドゥガル……この『吸血鬼』め! 僕の血を吸いたければ好きにすればいい!」

 ――ドクン。

 魔力の心臓が、鼓動した。 

 カツ、カツ、カツと少女は僕に歩み寄る。絶対に、この眼は逸らさない。

「……ふむ、威勢が良いな、ボーヤ」

 エアリアは、にいっと笑って、その八重歯を露わにした。ちろりと小さな舌でその歯の先を嘗める。

「なら、そうすることにしよう」

 そう言って、エアリアは僕の肩を掴み、踵を浮かせて首筋に口を当て……。

「……ふぃ~」
「……!?」

 もういいかな、と息を吐いたところで異常に気が付いたようだった。
 ばっ、と僕の肩を突き飛ばして少女は下がった。慌ててその口元に付いた赤いモノを手の甲でこする。
 首筋がズキズキチリチリ痛むがこれくらい我慢我慢、男の子。瞼をぱちぱちして眼球を潤すと、さっきのお返しににいっと笑って見せた。

「な、なん……!?」
「……飲んだね、僕の血」

 そしてすかさずあの口上を述べる。

「『受容せよ(アクセプト)』!」
「!!」

 ぼう、とエアリアの身体に魔力の火が灯るのが見えた。彼女の中に入った僕の血と魔力が契約のために働き始めたのだ。
 エアリアは必死にその力に抵抗しようとするが、がくがくと膝を震わせ、ついには僕の前で膝を付いた。額から汗をした垂らせ、僕のことを見上げている。形勢逆転、て奴だな。

「どうして? って顔をしてるね」
「ぐっ!」
「君さ、ほんとはブラック・デザイアの力、完璧な無効化なんてできないんでしょ?」
「!!」
「やっぱりね」

 浮かんだ表情に僕は確信した。やはり、最初の一回の本の力のキャンセル、あれはズルだったのだ。
 以前、幎が言っていた。

(過去、まだ本物の魔術師が存在した時代にも高位の精神障壁を操る者には実際にコントロールが受け付けられなかった事例があります)

 だが、それは裏返せば哉潟姉妹のように精神に関する特殊な才能を持たない限り、余程の周到な準備が無ければ本の力に抗う手段は無いって事だ。それが本物の魔女であっても。

 だから、僕はもう一度エアリアに本の力を使うことができれば彼女を支配できるという可能性を捨てなかった。そしてその考えは、エアリアが使った「トリック」に気が付いた時点でほぼ確信に変わる。

 問題は、魔女にブラック・デザイアの力を使う機会をどうやって作るかだ。そのために僕と幎と七魅は以前から準備していた物も使って罠を張った。僕からは何も指示を出すことができなかったけど、2人は完璧にそれを用意してくれた。

 絶対にエアリア側に知られてはならなかったのは、第2契約の存在。そしてその発動条件。必要だったのは、僕が両眼と口が使える状態で、ブラック・デザイアのページを1枚でも持っていること。

「君は、まさか僕が幎と2回も契約してるなんて思いもよらなかったようだね」
「……なんだと……!?」
「そう、契約は2つ。そして契約のページも2ページ有ったんだ。そして、それぞれのページを僕は本とは別の場所にバラバラに保管していた」
「……!」

 以前、七魅に本を見せた時にふと考えたんだ。七魅のように味方に見せる分には良いけど、敵となる相手に見られると少し困る事になるかもしれない、と。
 本の使い方は表紙の裏に書いてあるからしょうがないとして、せめて僕が存在優先権を主張できる場所や、契約で代償となった部位、発動の細かい条件などを知られるのはできるだけ避けようと考えた。だから、それらが載った契約内容ページや、万が一に使える空白ページを予め切り取って分散させて隠しておいたのだ。空白ページはすぐ手の届く場所、内容の書いてあるページは絶対に安全な場所って具合に。某掲示板に自動書き込みの設定をしたのは、そういった防衛手段の確立を考える上で打った手の1つでしかない。

 そういう事なので、あの夕暮れの屋上で七魅が持ってきてくれたのはその中の1ページだったのだ。それも、渡された時にはまだ空白のままだ。

 そして、僕はエアリアが契約のページが1ページしかないと思い込んでいる事に気が付き(彼女は昼間、「最後の1ページ」と言っていた)、罠を張った。聖書に挟んであった1枚に2つの契約の内容を半分ずつ組み合わせ、エアリアが予想した通りの契約ページを継ぎ接ぎしてわざと発見させた。

 あの夢魔によって僕の左眼は契約の代償となっている事は早々に露見していた。そして、僕がインサーション・キーを利用した第1契約の発動方法を使えることも魔女自身が体験した。だから、その2つを組み合わせた偽の契約ページを持って行かせたという訳だ。見た目には1ページ内に必要な内容は揃っているため、最初から契約が2つ有る事を知らなければこれが不十分な内容である事に気が付かれる可能性も無い。

「契約の強制解除には、悪魔と契約者が揃ったところで契約の証を燃やしてその炎で契約ページを焼く、だっけ? 残念だったね、僕と幎の間でそれをやろうとしたら、ページも2枚、証も2つ用意しなければならなかったんだよ」
「……!」

 エアリアの顔付きが歪む。体内の魔力に抗う苦しさより、僕の罠に嵌まった悔しさの方が上を行ったことが滲み出ている良い表情だ。ちょっだけ気分が晴れたかな。
 魔力の義眼は燃やされ、契約ページの半分は失われた。だけど、契約が解除された訳じゃない。僕と幎の繋がりは、まだ残っていたんだ。

「……ただね、2つ目の契約は両眼で相手を見て、しかも瞬きもしちゃ駄目なんて厳しい条件だったからさ。幎が来るまで瞬きしないで凝視する練習もやってみたけど、意外と辛いもんだね。ちょっとくらい役得が無いとやってらんなかったよ」

 そう言って僕はエアリアのスカートの辺りを見つめた。
 僕だって、あんな状況でただ相手を挑発する目的でその中を覗いた訳じゃない。ちょっとした凝視の練習と、そして恐らく来るだろう反撃に乗じてページの挟まった聖書をうっかり落としてしまうフリをするための、仕方のない演技だ。

「ほんと、上手く引っかかってくれて助かったよ。有り難う」
「……っ!」

 ぎっと歯を食いしばる少女。なんか嬉しくてゾクゾクするな、ワクワクしてきたぞ。

 第2契約の発動条件を隠すという最大のポイントは達成した。しかし、ここで問題があった。僕の左眼はその時既にエアリアに奪われていたのだ。だけど、ここでも幎はファインプレーをしてくれた。

「しかも君さ、僕が知りたかった最大の情報をわざわざ教えてくれたんだよ。幎が『眼帯』をしているってね。元々メイド服なんて趣味的な服装の幎だから、それくらい悪魔ファッションの1つと思って見逃したんだろうけど」

 だけど、僕にはハッキリと幎の意図がわかった。眼帯の下に隠しているもの、それは僕に渡すために用意したモノだという事、そしてそれが必要になるという事。
 きっと幎も気付いていたのだ。隙を突けばブラック・デザイアを防ぐ手段などほとんど無く、第2契約で奇襲すればまず間違いなく魔女を支配下に置けるって事が。その為に、必要となる新しい魔力の左眼を隠して持ってきたのだ。契約の代償である僕の本当の眼を返す訳にはいかないのだから。

「君は魔女だからね。僕に戻った左眼が幎の新しく造った義眼だって事がバレたら、契約の破棄が上手く行かなかった事に気が付かれるかもしれないから。だから発動の瞬間ぎりぎりまで見せたくは無かった」
「……では、あの悪魔が消えたのは……!」
「『遅くなって』申し訳ないって言ってたでしょ? 幎は役目を果たしてくれた。十分にね」

 少し、演出過剰でもあったけどさ。

「『もういい』って言ったから帰っただけだよ」

 悔しさとか体内の魔力に対する抵抗とか全て抜け落ち、ぽかんとエアリアは口を開けた。

 さてここで、学園の屋上でエアリアが使った「トリック」について僕の考えを述べよう。

 あの時は僕も半ばパニックになって深く考える余裕も無かったけど、よくよく考えてみれば、あの黒い本を奪うときのエアリアの動きはおかしい。おかし過ぎる。

 最初の疑問点。なぜエアリアは黒マントにとんがり帽子なんて「いかにも」な服装で僕の前に現れたのか。しかも、まさに本を奪った現場をわざわざ目撃されるような状況で。

 2つ目の疑問点。どうしてエアリアは夢魔を使って時間稼ぎをしたのか。九条院を使ったのはあわよくば僕に彼女の処女を散らせて契約破棄を狙ったのだろうけど、それにしてはその前段階で時間を取らせ過ぎている。

 3つ目。僕に対してエアリアはブラック・デザイアの力を行使することができた。なら、なぜすぐに僕を支配下に置き、足りない本のページを持って来させなかったのか。

 そして最後の疑問。なぜエアリアは屋上でわざわざ僕と対峙したのか。どうせ捕らえるなら夢魔に操られている間にすればいいのに、僕にブラック・デザイアの能力を使われる危険を犯している。

 ……他にも疑問は有るが、僕が特に引っかかったのはこれらの4点だった。幸い、七魅に魔力のお弁当を分けてもらえるようになってから時間だけはたっぷりあったから、その答えを探す余裕は十分だった。その意味でも、僕は七魅の作ってくれた時間のお陰で魔女との状況をひっくり返す事ができたと言える。

 さて、3つ目の疑問に対する答えは既に出ている。探そうとすればすぐに探せると高を括っていたからであり、魔力切れによる契約の不履行を狙うなら契約ページは必要無く、そして強制解除狙いなら幎を呼び寄せる必要があったからだ。つまり、ページ自体は当初それほど重要視はしていなかったというのが答えだ。もう1つ、思い当たる節もあるがそれは後で説明しようか。

 だが、ページはともかく契約内容の確認はしたかっただろう。3年椿組で本を手に取ったとき、そこに契約ページが無かったからエアリアは戸惑った筈だ。まさか僕が襲撃を予想して防衛手段を取っているとは考えもしなかっただろうから。

 その為の行動が、疑問2の答になる。本は手に入った。これが自分の知っている手段……すなわち、インサーション・キーの設定とそれを使用した書き込みで人間を支配する方法……それが使える事を確認するために、九条院を使った。時間を取って検証するついでに、本の内容が自分の知っている内容と変わってないのかも、この時に確認したのだろう。

 さて、僕が対策を練っている事に気が付いた時点で、エアリアたちは最大の問題に対しての対処を迫られた。すなわち、どうやって本の支配に対抗するか、だ。契約の解除に手間取り、長期戦になればどこかで僕に能力を使われる危険性が有る。そうしたら、一発で逆転だ。

 だから、一計を案じた。一回だけ僕に力を使わせ、それに対処してみせる事で僕に「魔女には本の力は通用しない」と誤解させようとしたのだ。最大の一手を使わせなければ彼女たちの有利は動かない。
 じゃあどうするか。いかにも本の魔力は効果が無いよと見せつけるにはどうすれば良いか。

 そのヒントが、最初の疑問だ。なぜエアリアはわざわざ「黒マント」に「とんがり帽子」で、しかも特徴的な金髪を見せつけて逃げたのか?
 トリックの解答は、なぜそのトリックを必要としたのかを考えれば簡単に解けた。

 エアリアがトリックの為に用意しなければならなかったのは、ブラック・デザイア内の自分自身の情報ページだ。姿をわざと見られたのは、僕がエアリアの正体を知って、書き込み準備段階で本の中に彼女のページが現れるようにし向ける為だったんだ。
 そのページを見れば今現在自分にどんな書き込みが行われていて、どの言葉がインサーション・キーとして設定されているか、領域支配(ドミネーション)の能力でどんな書き込みが自分にも共有されているか、全てを知ることができる。そして、その情報を知る事ができれば書き込みを上書きする事だってできるだろう。

 ただ、あからさまにページを確認して解除処理をしたらそれこそ僕に「魔女にも本の力は有効だ」と悟らせる結果になる。だから、隠れてこっそりそれを覗き見る手段を用意しないといけない。だからこそ、もったいぶったあの所作があったのだ。
 それを確認する目的で、僕はエアリアにカマを掛ける。

「それにしてもさ……あの帽子を脱いではたく仕草、ちょっとわざとらし過ぎたね」
「……き、気付いていたのか……?」

 表情と言葉が、解答だった。

「やっぱりか……君はブラック・デザイアの自分のページを破り取り、帽子の中に貼り付けていたんだ」

 そう、何のことは無い。
 あの服装が必要だったのではなく、本のページを隠れて見る場所としてあの「とんがり帽子」が必要で、そのカモフラージュとして魔女風ルックスに揃えただけだったのだ。

 エアリアは僕と対峙してタイミングを見計らい帽子を脱ぎ、そして自分に書き込まれた内容を確認する。そしてキーを使ってそれを解除する書き込みをしつつ、誤魔化すために帽子ではたく仕草をしてみせる。最後にもう一度ページ内容を見て書き込み内容が消えてることを確認し、帽子をかぶって僕に中を見られないようにする。
 それが、あの時の仰々しい動作の真実だ。全ては、危ない橋を渡っている事を悟らせないための演技だったのだ。

 屋上に上がった時、急にとんがり帽子を被っていたら僕はその帽子に注目する。その目を逸らすためにも、逆算して最初からあんな格好をしていたのだろうね。

「だけど、君は焦ったろうね。僕を取りあえず捕らえて身体検査するなり、ゆっくりと僕の行動範囲を追いかけるなりすれば残りのページはすぐ見つかると思ってたのに、全然見つからないんだもの」
「……」
「昼間君が言った様に、夢魔に操らせて僕に本のページを取りに行かせても良かった。でも……本の性質を知っている君ならできる訳無いよね?」

 はっとエアリアの顔付きが変わった。最後の余裕が失せ、これから起こる未来を悟って瞳孔がきゅうと締まる。

「……ラミア! ラミア、何処だっ!? ラミアっ!」
「来ないよ、たぶん」

 当てずっぽうだったけど、僕の言葉通りだった。彼女の最後の味方はどれほど主人が呼んでも助けに姿を現さない。どうやったかは知る術も無いが、幎がそんな危険な相手を放置して帰るとも思えなかった。
 息が切れ、エアリアが咳込んだ。ぜえぜえと荒い息を吐く。そろそろ、僕の魔力支配に抗うのも限界なのだろう。

「はぁ……はぁ……くそっ……!」
「僕に本さえ取り返されなければ、表紙に浮かぶ『契約の紋章』を押される事も無い、そう思ってたでしょ?」
「……ぐっ!」
「それが怖かったから、僕にページを取りに行かせなかったんだ」

 そう。
 本の契約者なら、例えブラック・デザイアの本体を奪われても、1ページだけでも手元に置いておくだけで取り返す方法が有るのだ。つくづく、初期の頃にめんどくさがらず色んな実験をやっておいて良かったと思う。

「もちろん幎は、ちゃあんと必要なものを持ってきてくれたよ。本から切り取った、本当の最後の1ページをね」
「!!」

 エアリアが驚愕に眼を見開く。いったいどこに、いつ、その表情は言葉を聞かなくとも明瞭に語っていた。

 僕は思い出す。
 夏休みの終わる直前、幎に本の契約ページを預けた時の事を。

 どこに隠す? と効いた僕に、彼女はいつものように小首を傾げてしばらく考えた末、こう答えたのだ。

『……では、私が郁太さまから預かった、大切な場所に隠しておきましょう』

「そう、幎は……この中に入れて、隠して持って来てくれたんだ!」

 僕は、幎からもらった魔力の左眼を見開き、手のひらをその前に置くと反対の手でとんとんと後頭部を叩いた。
 ぽろっとゴマ粒くらいのものが瞳孔部からこぼれ落ち、それはしゅるしゅると大きくなって折り畳まれた紙片になった。開けば、それは紛うこと無きブラック・デザイアのもう1枚の契約ページだ。左手に掲げて大きな声で宣言した。

「このページ以外のブラックデザイアの全ページを今すぐ破棄する!」

 ぼっ、とエアリアのマントの内側で火が灯った。「わっ!」と慌てて少女はマントを肩から外してばさばさと煽る。その内から大量の灰が落ちてきた。なるほど、一応は持ち歩いてたのか。
 僕は周囲に飛び散った黒い灰をぐるっと見回した。

「……そして、本のページが失われると、消滅した分は残りの一部の元に再生する」

 紙切れ1枚しかなかった僕の腕の中に、いつの間にかずっしりと馴染むあの手触りが戻ってきていた。エアリアに向かって会心の笑みを向ける。

「確かに、返してもらったよ」

 本の表紙には契約の紋章、サーバント・クレストが金色の光を発している。後は、契約の言葉と共にこれをエアリアの額に写せば完了だ。魔女は僕の支配下に置かれ、一度書き込まれた内容は僕が許可するまで解除されなくなる。つまり、本の事を忘れさせることも、僕の味方にする事も、あるいはもし僕と対峙したら自動的に失禁して腰砕けになる様に条件付けする事だって思うがままって事。楽しいなぁ。

「……黒き本の契約者、達巳郁太の名に於いて命じる。汝の名を述べよ」
「ぐっ……あ……」
「汝の名は?」
「……エアリア……フリージア……マクドゥガル……」

 Fはフリージアだったのか。若干の抵抗を見せたが本の強制力には逆らえない。結局は魔女の意志をねじ曲げ、その口から本名を引きずり出した。僕は頷き、本の表紙から手の平に紋章を写し、エアリアの額に手を伸ばす。

「エアリア=フリージア=マクドゥガル、君は今から僕の従者だ」
「……やっ……」

 汗にまみれたひんやりとした少女の額に、僕の手が触れた……その時だった。

 ぱきぃいいん……

 どこか遠くの、空の上の方で何か、薄く広がった硬い物が割れる音が鳴り響いた。その音を発端に、ピキピキと何かにヒビが入る音が上空から無数に降ってくる。

「……え? 何の音?」

 僕が上空を見上げると、天頂部の満月を中心に空に放射状に亀裂が入っていた。いや、亀裂どころではなく、そこから細かい空の破片がガラスの欠片のようにパリパリと欠けて落ちてきている!

「私の世界が……!」

 エアリアが驚きの叫びを上げた。これは彼女にも予想外の出来事なのか? 欠けた空は藍色の巨大で鋭利な刃物のようになって塔の周囲に降り注ぐ。細かな破片は僕たちの周囲にも落ちてきて石畳に突き刺さり、そこにも素材を無視した鋭利なヒビを作った。

 世界が割れて、剥がれ落ちていく。
 空も、雲も、月も、星も、山も、光も、塔も、風も。
 全てが壊れ、偽りの世界が終演へと雪崩落ちていく。

 どしゃあ、と塔の上にも世界の欠片が大量に降り注いだ。僕は身体を曲げて頭を守り、エアリアは危なっかしく呆然としたまま空を見上げている。
 やがてそれらの落下音が途切れ、恐る恐る顔を上げると、世界の様相は一変していた。

 空が藍色なのは変わっていない。だが、赤く焼けた空は全周では無く、通常通り一方の空の果てのみに戻っている。
 僕たちの立つ風景も変わっていた。あの石畳の塔は無くなり、コンクリートで舗装された懐かしい床面。四角を基調に区切られた周囲は高いフェンスが空に伸びている。これは、もしかして校舎の屋上か? 空に浮かんでいた扇形の長机や魔女の椅子は空と一緒に落ちたのか、影も形も無くなっている。
 チチチ、と小鳥の鳴く声がする。唐突に、僕は元の世界に帰ってきたことを理解した。

 ドクン!
「ぐっ!?」

 胸の中央に強烈な痛みが走る。左眼が霞む。ざあっと血の気が引いていく。血液が凍り、身体の内から体温が奪われていくようだ。

「が……はっ!」

 息苦しくなって血反吐のように呼気を吐いた。だが、それでも僕の体内に酸素は取り込まれない。頭の奥の方から暗闇が襲ってくる! 視界が急激に狭まる、身体が重力を失い前のめりに傾いていく、キーンと世界が高周波の轟音に蹂躙されていく!

 唐突に、脳裏に黒髪の少女の姿が浮かんだ。僕を見つめるその視線に、誰、と問いかけるその寸前、僕の意識はふっつりと途絶えた。

 どさり、とエアリアの目前で郁太は倒れた。

「あ……え?」

 何が起こったのか理解不能という表情で膝を付いたまま惚ける少女。ばさりとこぼれた黒い本が彼女の膝の近くまで転げているが、それに手を伸ばす事もできない。

「……あ~あ。やられたな」

 そこに、いささか軽い口調の声が掛けられた。エアリアが驚いてそちらを見ると、いつの間にか屋上の片隅に1匹の黒猫が居る。

「魔力切れさ。小僧に与えた魔力弁当はぎりぎり夢世界で記憶を保つ分だけだった。契約のための魔力解放の瞬間、現実世界に戻されりゃ急に肉体の戻った小僧の心臓は魔力不足でお陀仏ってわけだ」
「……心臓……だと……?」
「知らなかったのか? 小僧は最初、自分の心臓を抉り出してあのメイド悪魔と契約したんだよ」

 少女の戸惑いに黒猫は髭を震わせながら答えた。闇の中に浮かぶ黒猫の表情ははっきりとしなかったが、エアリアには何故かその猫が笑っているように思えた。

「いや、まさかあの夢魔も俺の結界を無理矢理破って夢世界を終演させるとは思わなかったぜ」
「……! ラミアは!?」
「死んでないぜ? 五体満足ってわけでも無いがな」

 しれっと答える黒猫。そしてとっとっと、と歩いてきてうつ伏せに倒れた郁太の側に立った。

「小僧も魔力の通った血が流れていたとはいえ、おおもとの心臓が止まっちまっている。持ってあと10分で脳が死に、めでたく契約不履行だな」

 そして白い手袋を付けたような前脚でブラック・デザイアを指した。

「お前さん達の勝ちだ。持って行きな」
「私の……?」
「小僧が死ねば、本は誰の物でも無くなる」

 エアリアは黒猫に促され、恐る恐る黒い本に手を伸ばす。そしてそれに触れた瞬間、まるでそれ自体が郁太の生命スイッチそのものであるかの様に、びくっと身体を震わせて手を引っ込めた。
 視線を動かし、郁太を見つめる。

「こいつは……死ぬのか?」
「その途中だ。今7合目あたり」
「……」

 エアリアの顔に迷いが浮かぶ。不遜な魔女の顔でも、罠に気が付き怒りに震える顔でも、敗北に動揺する顔でも無い。一つの失われつつある生命の手綱を持たされた少女の、背負い込んだ荷物の重みに途方に暮れた顔である。

 バタン。身動きすることすらできない少女の後ろで、ドアの閉まる音がした。ビクッと身体を震わせ、エアリアは恐る恐るそちらを向く。
 屋上階段の建物の前に、別の少女がいた。長い切り揃えられた黒髪。整った人形のような顔は沈み込んでいる。朝日の眩しさに切れ長の眉を顰め、手を翳す。若干の目の下の隈が、少女の身体に溜まる疲労を表していた。

「嬢ちゃんか……」

 黒猫がぽつりと呟く。その言葉通り、それは七魅であった。
 郁太とエアリア達の作る影に気が付き、七魅の瞳がゆっくりと見開かれる。口を僅かに開け、体全体に現実を取り込もうとするかのように大きく呼吸をする。

「達巳……くん……?」

 暫くの間、七魅は珍しく眼を見開いてその場に広がる光景を見つめていた。何度も息を吸い、吐き、そして見間違いでないことを確認するために瞬きをする。

 最初はつんのめるように、上体だけ前へ、そしてもつれる脚を懸命に先へ、最後には転げるようにして少年の側に倒れこんだ。わなわなと震える手を恐る恐る倒れ伏す郁太へと伸ばす。その視界にエアリアやメッシュの姿は無い。

 少年を助け起こそうと、胸の下に手を差し込んだところで異変に気が付いた。慌てて郁太の口元に手をやり、そして首筋に指先を当てる。七魅の眼が恐怖にきゅっと瞳孔が縮まり、狼狽して周囲を見渡した。そこですぐ側にちょこんと座ったままの黒猫の姿にようやく気が付く。

「たっ……達巳君が! 息をしてないの……脈も! どうしよう!?」

 だが、黒猫は無情にも首を振る。

「諦めろ。小僧の心臓はもう動かん」
「嫌よ! そんなの、嫌っ!」

 七魅は懸命に少年の身体を引き起こし、仰向けにした。ごろんと力なく転がった少年を避けて黒猫がぱっと離れる。スカートの裾が乱れ、太腿を剥き出しにしてはぁはぁと荒い息を付く七魅。「た、確かこうして……」と震えながら郁太の顎に手をやる。

 口を開かせ、七魅は郁太の顔に覆いかぶさると唇を合わせ、息を吹き込んだ。大きく吸い込んだ空気を2回。すぐに顔を離し、膝をずらして少年の胸の前に来ると鳩尾のあたりに手を重ねて置き、上から勢いを付けて何度も押す。それを黙って見ている黒猫。

 再び、口を付けて息を吹き込み、また胸を押す。それを数回繰り返しただけで七魅の息は絶えだえになった。額から垂れた汗がぽたぽたと郁太の上着に落ちて染みていく。

「……無駄だよ。言っただろう、小僧の心臓は魔力が無きゃ動かない。お前さんには何もすることはできない」
「そんなの、嘘っ!」

 見かねたかのような黒猫の言葉に七魅は叫ぶように返答し、大きく咳き込んだ。その手が止まる。

「……やだ……」

 少年の胸に置かれた手が、ぎゅっと握りしめられた。

「……そんなの、嫌だよ……達巳くん……帰ってきてよ……私を置いて行かないで……」

 ぽろぽろと少女の頬から、涙と汗が混ざった水滴が滴り落ちた。それを拭うこともせず、七魅は生気の抜けた顔で郁太の顔を見つめ続ける。呆然と、呟くように黒猫に呼びかけた。

「メッシュ……」
「……」
「あなた、悪魔なんでしょう……? 達巳君を助けて……」

 ピクリと黒猫の耳と尻尾が動く。

「……私はどうなってもいいから……欲しいところがあるなら私の身体、全部持って行っていいから……だから、助けて……」

 メッシュは人間のように首を振り、大きく息を吐いた。

「それは俺にだって無理だ」
「……どうして?」
「心臓に魔力を届けるには、食い物に偽装して体内で消化させなきゃいけない。それか……本の力で小僧と繋がっている者が、直接流しこむか、だ」

 そう言うと、黒猫は口を閉ざして少女の後方に向かって顎を突き出した。七魅はゆるゆるとその方向を視線で追って首を向け、そして魔法使いの少女の姿に気が付く。

「……マクドゥガルさん……?」

 七魅の声に、エアリアがビクッと身体を震わせる。

「……あなた、魔法使い……ですよね?」
「……」
「マクドゥガルさん、魔法使いなんですよね? 助けて下さいっ……! 達巳君を助けてっ!」
「……私……が……?」
「ねえお願い! 私はどうなってもいい! お願い、達巳君を助けてあげてっ!」

 七魅はコンクリートの床で膝を擦り剥きながら、四つん這いでエアリアに向き直った。本の側に膝立ちで呆然としていた少女に縋り付く。

「本が欲しいならあげますから……私にできる事なら何でもしますっ……! だから……だから、助けて! 達巳君を……助けてっ……!」

 「お願い……」と、七魅は手を離し、跪いたまま頭を垂れる。

「どうか……どうか……お願い……します……」

 そして両手を床に置き、額がコンクリートに着くまで深く頭を下げた。

「……お願いします……達巳君を……助けて下さい……」

 エアリアは自分に向かって頭を下げる少女の姿を、当惑して見つめた。その震える首筋を、バラバラに乱れた黒髪を。
 続いてその側の黒猫に視線を向け、更にゆっくりと顔を動かして倒れたままの少年の姿を見た。その手の平の紋章は、今まさに最後の光を失って消えようとしている。眼を閉じ、そして天を仰いだ。

 長い夜は明けた。赤い朝焼けの光は去り、清浄で透明な陽の光が閉ざされた少女の瞼を貫く。眩しそうにエアリアは眼を開いた。
 そして、かつて氷の魔女と呼ばれた少女は、遂に何かを悟って、深い、深い溜息を吐き出したのだった。

< 続く >

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