BLACK DESIRE #20-1

0.

 火曜日朝6時50分のウィルヘルム時計塔、その館部分の1階会議室に僕を含め十余名の星漣学園生徒達が集まっていた。いずれもこの学園における役職持ちの権力者達。彼女らがこんな早朝から集まって行おうとしているのは、学園の立法機関とも言える「生徒会役員会議」である。

 星漣において様々な決まり事を決定するには、最高権力者である生徒会長でさえこの「会議」で過半数の賛成を得なければならない。その構成メンバーは、生徒会執行部の全メンバー5人と、各クラスから常任委員を選出する5つの委員会のそれぞれの代表者5名、そしてクラス委員会から3年生の各クラスの委員長又は副委員長の代表者3名、計13人である。

 星漣学園の決まり事で最もランクの高い物は当然、「校則」であるが、その校則もこの会議で賛成を得られなければ効力を持たない。過半数の賛同を得るには7票が必要であり、それは生徒会長であっても1票の重さに違いは無いため、例え執行部全員が賛成していても委員会やクラス委員長達が反対すれば否決されるのだ。

 それでは、この学園における校則等の制定の流れを説明しよう。

 まず、「校則」、及びそれを補足する「準則」、そして高い強制力を持ち発効以降無期限に有効となる「永続通達」については「2サイクル案」と呼ばれ、この会議で議題に最低2回かけられることになる。
 例えば1学期に行われた達巳裁判の原因となった「校則改正案」。あれは「校則」に付け足される物だから「2サイクル」となり、まず執行部からの改正案の提案(1サイクル目)、そして各クラス委員会での検討を経てその結果を得た上での会議での再検討(2サイクル目)を経てようやく発効となる。2サイクル案の提案は執行部しか行えず、各委員会やクラス委員からはあくまで「要望」というかたちで執行部に提案を代行して貰わなければならない。
 また、必ず毎回クラス委員会へ議題が持ち込まれる訳ではなく、1サイクル目での会議ではその妥当性の検証と同時に持ち込み先も検討し、場合によっては各委員会へ預けられる場合がある。例えば、各クラスが管理している花壇の割り当てを変更するような場合は、それを一括して行っている風紀委員会で検討が行われる事になる。

 「校則」ほどの強制力を必要とせず、あるいはごく短い期間に限られた物については1サイクル、つまり議題として提案されたその会議で採決が採られる。それらを「通達」と呼び、大まかに分けて執行部が検討して提案したか、または要望によって執行部が代行提案した案件である「生徒会通達」、各委員会が自分の業務に必要な案件を定めた「委員会通達」、そして行事予定に従って定められる「行事通達」の3種類がある。体育祭や星漣祭の実施要項も「行事通達」の1種だ。
 通達には行事や委員会活動のために授業内容を変更したり、日曜日を登校日にしたり、逆に月曜をその代日に指定するほどの効力を持っている。それがこんな十何人かの会議で決定することができるのだから、星漣は学校としては頭がおかしいというか、太っ腹というか。

 「通達」よりも効力の低い案、単にお知らせレベルの物は「通知」と呼ばれ、これについてはクラス委員会からも、もちろん執行部や各委員会からも提案する事が出来る。また、これについては0サイクル案とも呼ばれ、会議での賛成を経ずとも生徒会長の承認だけで発効することが出来るため、わざわざ会議に持ち込まれない事も多い。例えば、風紀委員会が毎月作っている「今月の風紀目標」とかだ。

 以上の通り、星漣での決まり事はほぼこの「生徒会役員会議」の席上で決定される。ただし、物事には何でも例外があり、常にこの手順が行われる訳ではない。その最たる例が生徒会総員投票だ。総員投票の結果は開票結果が発表された時点で有効になるため、例え校則であっても会議の2サイクルを待たずに即時発効する事が可能である。これはもう、知っている事だね。

 この会議の行われる時計塔の会議室はほぼ正方形の部屋で、床には濃いブルーの絨毯が敷かれている。そしてそこには、巨大な星漣のマークが描かれ、その周囲に弧を描いた長テーブルを円形に並べ、円卓状にして会議を行う。
 星漣のマークは星形を背景に百合の花を意匠化した紋章、そしてその下に細波の模様と文字が書かれたリボンが描かれている。これはそれぞれ、星が「未来と希望」、百合が「純血と乙女」、波が「母性」を表しているらしい。セイレン・シスターの事をしばしば「星漣の星」と呼ぶのは、別にシャレではなくこの事からなんだ。
 そして、この星漣マークの巨大な星形の周囲に円形にテーブルを並べるので、天井から見るとこの部屋の中は大きな魔法陣のように見える。それで、誰が言い始めたのか、この会議は別名「五亡星会議」とも呼ばれるんだってさ。

「おはようございます。皆さん、もう揃っていますか?」

 奥側の扉から最後に入ってきた生徒会長・安芸島宮子が一番上座の席に着席するなり、傍らに立つ副委員長の相良冬月に問いかけた。それにこくりと頷く冬月。

「いつも通り、1名欠席だけどね」

 宮子の反対側に座っている僕の左2つ目に座った、色黒の肌に長い髪、きつい目付きの女生徒が口元を皮肉気に歪めながら付け足す。僕との間は1人分の空席だ。誰か一人、そこに座るべき人物が来ていないのだ。宮子はそれに頷く。

「会議の実施に必要な人数は足りています。始めましょう」

 確か、校則では生徒会会議の開催には執行部、委員会代表、クラス委員代表のそれぞれで80%以上の出席率が必要となっているんだっけか。つまり、この会議の最低人数は執行部4名以上、委員会4名以上、クラス委員は3名のみの11人以上が必要となる。兼務は出来ないので、副会長が委員長を兼務している風紀委員会は副委員長を代行者に出していた。
 また、生徒会長を輩出しているクラスはクラス委員にこの会議での投票権が無い事になっているので、必然的に3年柚組と柊組の委員長と、椿組からは我らがイインチョが参加し、僕の右隣に座っている。たった1人でも良く見知った顔がこの場に居てくれるのは心強い。

 宮子に促され、立ったまま冬月が開始を宣言する。

「これより……生徒会役員定例会議を始めます」

 この生徒会役員会議は通常ならば毎週の火・木の朝に行われ、火曜の朝に話し合われた内容はその放課後に各委員会や各クラスの委員長に伝達される。そしてそれぞれのクラスは水曜日のホームルームで通知を受け、必要ならば議題に対し検討を行った上で放課後に回収され、また木曜日朝の会議で話し合われるという流れだ。週2回もこんな朝早くから会議をしてたなんて、まったく知らなかったよ。

「……会議の次第は次の通りです。1……前回から採決の延長を行った議題について。2……2サイクル目の議題の検討と採決。3……先週提案された2サイクル案の検討。4……先週提案された通達の検討と採決。5……各委員会からの通知と連絡事項。6……執行部からの通知と連絡事項……」

 僕が考え事をしている間にも冬月は会議の手順を粛々と進めている。この流れはいつもの事なのか、とくに参加者たちはメモを取ったり異論を挟む事無くそのままスルーされる。冬月は一瞬言葉を止めた後、さっそく最初の議題に移った。

「では……最初の議題として延長されていた『特別役員の任命』についてとりあげます」

 僕はその言葉に、少し姿勢を正して身を堅くした。さっそく来たか。僕がこの会議に出席することになったのは、この議題が有ったからなのだ。昨日、宮子と体育祭実施要項について打ち合わせを行った後、この件について会議内で紹介を行いたいので参加を依頼されたのだった。
 冬月は僕の方に一瞬ちらりと目線を送った後、自分の席にスラン、と刀を納めるように着席した。代わりに宮子を挟んで反対側の席、生徒会書記の漁火真魚(いさりびまな)が立ち上がり、手元のノートに目を落としながら口を開く。

「本案件について、これまでの経緯をおさらいします。この案件は9月2日に執行部から提案されたもので、内容としましては学園生徒2名を特別役員生徒に任命するものでした。『特別役員の任命』は通達に値する案件と生徒会準則に定められていますので、生徒会役員会議で過半数の賛成を得られれば採用可能です。しかし、候補として挙げられた2名のうち1名の資質に疑問がもたらされる要因が認められたため、その調査としてこの任命案件の議論が延長されていました」

 へいへい、すみませんねぇ。言う必要も無いだろうけど、「資質に疑問」がもたれたのはこの僕、達巳郁太だ。もう1人の特別役員である元セイレン・シスター優御川紫鶴に文句のある生徒がこの学園に居る筈が無いしね。
 それよりも驚いたのは、僕が本当はまだ「特別役員」に任命されてない、全くのヒラ学生だったって事さ。そう言えば宮子から口頭で指名されただけで、それが「いつから」かは言われなかったし、通達文書も確認していなかった。ごたごたしてたのも有るけど、絶対分かっててやってたよね、宮子も早坂も。ふぅははー! 星漣学園の生徒会は本当に地獄だぜぇ!

 漁火の説明によると、最初の時点で僕にかかった疑いは6月末のさざなみ寮への侵入者の犯人疑惑だったらしい。つまり、達巳裁判事件で有耶無耶にされたその疑惑をしっかり払わないと役員には不適当という意見が有ったのだ。古い事を掘り返すなぁ。
 その件について風紀委員会が事実確認を実施するために時間を必要としたのが最初の議題延長。その後に、更に僕がらみで疑惑が発生していた。

「今月上旬から中旬にかけて校内で『不審な男子の人影』を見かけたという多数の証言から、併せて調査を行いました」

 今漁火が言った件が、2つ目だ。「不審な男子の人影」なんて濁しているが、これは僕がエアリアに捕らえられていた間に噂となった幽霊の「イチタロウ」の事だ。校内には男子生徒は僕しかいない筈だから、必然的にその正体の疑惑は僕に降りかかる。
 ちなみに、本当なら僕はこの期間エアリアに利用されたブラック・デザイアの力により学校内のみんなから忘れ去られていた筈だけど、そこら辺はあの本の力らしく、きちんと記憶の補完がなされているようだ。そこがちょっと迷惑になることも有るんだけどね。

 これらの事実関係の確認は、先ほども言った様に風紀委員会を含む、3つの委員会に調査を依頼することになっていたらしい。漁火が座り、今度は座ったまま冬月が初めて本来自分の席である風紀委員会代表者の方に視線を向けた。

「では……まずは風紀委員会からの報告を今までの分と併せて報告して下さい」
「はいっ!」

 指名されて威勢良く立ち上がったのは、髪を後ろでポニーテール状に結ったきりりとした眉の少女だ。眼光も強く、口元も引き締まっている。格好良いと言うより、凛々しい立ち姿。男装の女若侍と言った雰囲気の風紀委員会副委員長・若丸鶴来(わかまるつるぎ)である。

「風紀委員会からご報告致します! まず、さざなみ寮侵入の件について。これは前回の報告内容から変更は有りません。特別役員候補者Aに対し寮の裏手に呼び出すための手紙を送った実行者からの聞き取りも終了し、7月の総員投票で候補者Aが述べた事を裏付ける内容を得られています。また、投票中に無断で配布物を設置した人物については手掛かりを得られませんでしたが、手紙の実行者とは別人である事は確実と判断しました」

 若丸の報告に僕は驚く。何と、風紀委員会は僕にあの脅迫状もどきを送った犯人を特定し、しかも事情聴取までしたのか。さすがにビラを蒔いたのがエアリアであることまでは突き止められなかった様だが、それにしたって素晴らしい調査力だと感心した。
 僕の隣の隣の色黒の少女が相変わらずのニヒルな笑いを浮かべたまま、口を挟む。

「やっぱり、その実行者は明かせないの?」
「本件には必要無い事柄です。現時点の調査結果だけでも、候補者Aがさざなみ寮へ無断侵入した事実は無かったものと結論できます」

 にべもなく切り捨てる若丸。とりあえず、痴漢騒ぎでの僕の無実は確定されたって事だな。

「続いて、男子生徒の人影の件について報告致します。風紀委員会では目撃報告例5件の内、屋外での2件について再度聞き取り調査を行いましたが、前回の報告と大筋において変わる事も無く、候補者Aの関与は認められませんでした。この件に関しても風紀委員会としては無関係であると結論付けます。報告は以上です」

 まあ、いくら何でも魔法の本の力で幽霊を認識させていたなんて事は想定外だろうしなぁ。これについては僕が関わっている証拠を見つけるなんて、ネッシーを捕まえるのと同じくらい難しいだろうね。

 報告が終わった若丸が着席し、余計な質問ももう出なかったので冬月は次の委員会の代表者に目を向ける。例の、色黒の娘だ。

「では……続いて保健委員会からの報告をお願いします」

 その少女はすぐには返事をせず、「ふむ」と鼻を鳴らした後に髪の一房を暫く指先で弄び、その後にようやく「わかりました」と座ったままで口を開いた。

「保健委員会より、幽霊騒ぎの目撃談2件……屋内での噂について調査報告をします」

 わざわざ俗っぽく言葉を修正してすらすらと口上を述べる。レジュメのような物を見る事もなく、淀みなく、相変わらず笑ったままの唇から言葉が流れ出てくる。保健委員長・黒墨黛里(くろずみまゆり)である。
 内容としてはイチタロウの最初の報告例となった校舎1階の保健室前トイレの目撃情報と、美術室での目撃情報についてであったが、こちらも僕との関連を思わせる事実は見つからなかったとの事である。

「……以上、保健委員会も幽霊の正体を確定するには至りませんでした」
「それは……調査の結果、候補者が関連する事実は存在しなかったという事でよろしいですか」
「ええ、そうとっていただいて結構です」

 冬月の問いかけに挑戦的に返す保健委員長。そう言えば、なんか風紀委員会と保健委員会はライバル関係だって聞いたような気がするな。
 そんな勢い付いた返答をまるで興味が無いかのように無表情に受け流し、冬月は黒墨委員長の隣で、眠っているかの如く目を閉じている小柄な少女に視線を移した。

「では……最後に、図書委員会。お願いします」
「――はい」

 綺麗に切り揃えられたボブカットの頭が揺れ、少女の瞳が開く。黒目がちな眼、艶やかで光のリングの出来ている髪、姿勢は真っ直ぐで、小さな手はスカートの上で重ねられている。顔も小さく、全体的に華奢でともすれば下級生か、または下の学校の学生の様にすら見える未発達な体つき。だが、半分だけ開かれた目の中には闇夜の海の如く底の知れない知性が隠れているようであった。

「命により、図書委員会から報告致します――」

 この小さく静かな少女こそ、文化系の部にとって無くてはならない図書・備品管理を行う図書委員会の大元締め、図書委員長・蘭東吏兎子(らんどうりうこ)だ。そういった物品や施設は文化系の部活に入っていない者も利用する事があるから、ある意味全校生徒、そして教職員でさえ怒らせてはならないこの学園の重鎮の1人である。

 蘭東の報告で挙げられたのは、図書館2階の講堂で噂となった少年の人影である。場所が図書館内、時間は閉館時間間近でひと気も出払った頃、そして発見者も図書委員の1年生という事で、この件の調査は完全に図書委員会に任されていた。

「――目撃した委員の生徒は意識を失う前に、講堂内に複数の男子生徒の人影を見たと証言しています。しかし、これが何かの見間違いであれ、その時現場には目撃者を含め3年生委員と居合わせた養護教諭の羽ヶ崎先生が居て、3人ともその前後に候補者の姿は見なかったとの証言を得ました。また、目撃した生徒を1階に下ろした後、残った2人で再度2階を見回りましたが、誰も隠れている様子はありませんでした――」

 蘭東委員長が殆ど表情を動かすことなく、虚空に投げ掛けるように言葉を紡いでいく。しかし、その語調は意外にしっかりしていて、僕の耳にもはっきりと聞こえていた。

「――なお、2階への出入りの階段は2つしかなく、その内出入り口側を誰かが降りれば3人の内誰かが必ず気が付いた筈です。もう1つの階段は2階の非常口の先に設置されていて、こちらは閉館前の見回りの際に内側から鍵をかけられ、2度目の見回りの際もそのまま閉鎖されていました。この事から、その3人の他に人影の目撃後に2階から降りた者は居なかったと考えられます――」

 ここでいったん言葉を切り、蘭東は数秒目を瞑って静止する。まるで自分の言葉が壁に染み込み、溶けて浸透するのを待つ様な間を置き、再度、静かに瞳を開いた。

「――この事から、候補者がこの件に直接現場にて関与した可能性は無いと、私達は判断します。以上です――」

 そう言って、元通りに目を閉じてしまう。最後まで、どこを見て、何を考えながら喋っているのか僕には全くわからなかった。1癖も2癖も有るこの会議の参加者の中でも、ひときわ不可思議な雰囲気を持つ少女である。

 調査依頼された全委員会からの報告が終わり、冬月は隣の宮子に目配せした後、参加者の顔を見渡しながら口を開いた。

「……委員会からの報告の結果、候補者の任命に際しての2件の疑問要素については払拭されたと執行部では考えます。これについて、何か意見の有る方はいますか」

 もう1ヶ月近く議論してる内容だし、流石に無いだろう、と思っていたら僕の左手で手が上がった。保健委員長だ。冬月に指名され、僕を横目に黒墨委員長が面白がっているような口調で話す。

「その2件ではないけれど、資質についての疑問という点ではまだ有りますね」
「……どの様なものですか」
「実務的な能力の話です。今現在、例年なら1週間は前に出来上がっている筈の体育祭についての要項が未だにこの会議に提出されていないのは、問題ではないかしら?」

 ぐふぅ。それはそうなんだろうけどさぁ、スタートがもろもろの事情で遅れたとか、宮子に待ったをかけられたとかのゴタゴタで僕としては現時点でどうしようもなかったんだよねぇ。
 初対面の人間に直接ではないにしろチクリと貶され、ちょっぴり傷付く僕。だが、思いがけないところから助け船が出された。

「それは違うんじゃないかしら?」
「……天乃原編集長」
「あら、ごめんなさい」

 目を細め、微笑みを浮かべながら手を挙げて発言を求める「やまゆり」編集長の天乃原などか。長い黒髪をうなじのところで束ね、背中側にすらりと流している。若丸風紀副委員長が若侍なら、こっちはお局様の貫禄だ。冬月に促され、発言をしゃなりとやり直す。

「それは違うと思いますよ。何故なら、『彼』がまだ特別役員に任命されていない以上、彼に与えられる業務も本来は存在しないのですから」
「正式に通達が行っていないから責任も存在しないというの?」

 保健委員長がそれに反論する。もはや冬月は何も言わず、天乃原は微笑んだままそれに返した。

「任務には権限が付き物でしょう? 彼は、役員として補助者を指定する権限を得られないまま、自分の人脈で言わばボランティアを得て作業を行いました。それも、執行部から資料を借りて作業を初めてたった1週間でね? これは、もしも提案が為された9月2日の時点で決定していたら十分間に合っていたって事にならないかしら? 問題点の調査に時間を取られないでね?」
「む……」

 その指摘に、保健委員長が言葉を失って黙り込む。むむむ、もしかしてその時僕の任命に反対したのって、この黒墨さんだったのかな? だとしたら、結果的に問題は無かったと判断が下された以上何も言えなくなるなよなぁ。まったく、天乃原はこういうチクチクとした小言を言わせるとはまり役だ。
 僕が障子の桟にすーっと指を滑らす天乃原などかを勝手に想像している間に、ご本人はいったん言葉を止めて居住まいを直し、流し目でこの会議室の奥側中央の人物に視線を送った。

「それに、この会議に実施要項が間に合わなかったのは会長の意向も有ったからですよね?」
「――その通りです」

 今まで沈黙したまま会議の行方を見守っていた宮子が、ここで初めて発言した。

「実施要項にその作成者として祭事運営委員長の名前を載せる事を強く希望したのは私です。その為と、『若干の内容修正』を加味した上で要項の提出を待っていただきました。もしこの会議で任命に賛成していただけるなら、明日にでも正式な物を皆さんにお見せしたいと考えています」
「……」

 ……「若干の内容修正」、ね。
 確かに、昨日僕は宮子にせっかく作った体育祭実施要項の受け取りを拒否された。そして、翌日、つまり今やっている本会議で僕を正式に特別役員に任命した後に、作成者欄に名前を記載するように指示された。
 だけど、本当はそれだけじゃない。僕はあの時の宮子を……まるで「魔女」の様に緑の眼で僕の内心を見通すような事を言った彼女を覚えている。あの時、宮子はいったいどういうつもりであんな事を口にしたのだろう……?

「ふーん……わかったわ」

 宮子が出てきた事で、黒墨さんも折れたようだ。

「『そういう事』にしておきたいなら、それで構いませんよ。保健委員会としては」
「お願いします」

 妙な言い回しだな。彼女も何となく宮子に含むものを感じ取ったのかもしれない。

 保健委員長が矛を収めた事で、反対意見は完全に無くなった。冬月が会議室内を見渡し、静かに僕と紫鶴の任命の採用を宣言すると、パラパラと拍手があがる。やれやれ、これで僕も本格的に逃れられなくなったって訳だ。もっとも、最初から逃げ道なんて無かった気がするけど。

 さて、採用延長していた議題が片付いた事で会議の残りは退屈なくらいスムーズに進行した。僕の出番なんて有る訳が無い。その中で何回か僕の知り合いの名前も出てきていたので、その件だけダイジェストで紹介しておこうか。

 風紀委員会から提案された内容の1つは、委員会通達で新しい役職を作る事だった。

「各クラスでは風紀委員が中心になって割り当てられた花壇の整備を行っていますが、園芸の経験者が少なく、特に経験の無い1年生のクラスが苦労をしていると報告を聞きます。そこで、風紀委員内役職として、『園芸係』を設定し、指導にあたらせたいと考えます」

 若丸の言葉に興味を引かれたのか、宮子が質問する。

「全ての花壇の整備を指導するとなると、かなりの作業になると思いますが適任者はいますか?」
「1年椿組の風紀委員、姫野朝顔を挙げます。1年生ですが非常にやる気があり、知識も3年生の委員以上に豊富で十分な指導力があると思います。なにより、本人が園芸をやりたいために風紀委員になったという経緯があるため、適任かと」
「なるほど、人材的に問題は無さそうですね」

 この提案には反対もなく、全会一致で朝顔の新役職就任が認められた。おめでとう、で良いんだよね、これは。この件に関してはすぐに「委員会通達」としてまとめられ、明日には全校に告知されるだろう。

 図書委員会からは消耗品の消費量について文句が有るようだった。

「――備品係から、印刷用紙の消耗が年間計画を大きく上回っていると報告が来ています。このままではコピー機や印刷機の使用に制限をかける必要が有ります――」

 図書委員会の備品係って前に探研部の部室でお茶会を開いた時に呼んだ弓岡天奈(ゆみおかあまな)さんだったよな。紙の使用枚数まで管理してるのか。体育祭実施要項の印刷で無駄な紙を出してご免なさい。
 これについては、案や仮印刷等の一時的な用途に使用する紙は、両面印刷したり、一度使用した物の裏面を使用する様に呼びかけたり注意書きをする事で節約する事になった。

「正式な書類でなければ私への提出物もそれで構いません」

 宮子からの許可も出たし、これでちょっとは消費量が減るんじゃないかな?

 ここまであまり発言の無かった放送委員会は、天奈と同時期に知り合った宝井サラが持っているお昼の番組放送に投書された相談事から、役員会議に持ち込んだ方が良い内容の物を提出した。委員長の水原菊子(みなばるきっこ)が甘やかで耳に心地の良い声でそれを読み上げる。それを冬月がてきぱきと指示を出して執行部や各委員会、クラス委員に解決先を振り分けた。

 こうして最初に説明された会議次第の5までが終了し、残すは最後の執行部からの通知と連絡を残すのみとなった。冬月が「お願いします」と目礼し、満を持して宮子に会議の主導権が渡される。

「本日執行部からお伝えする事は2件有ります。まず、1件目は明日行われる10月分の生徒総会についてです」

 そうか、もう明日は10月なんだ。2学期が始まってもう一月経ったのか。僕はそのうち2週間はエアリアに捕まっていたけど、その分を差し引いても早いものだ。忙しかったからなぁ……。
 9月中に総員投票の申請は行われなかった為、10月分の総会は通常通り連絡事項の伝達で終わるらしい。記憶もあやふやだけど、確か6月の総会は20分くらいで終わったんじゃなかったかな? 明日もそれくらいだろう。その中で、今日決定された新役職などの事項の直接通達も行われる筈だ。

「2件目は、毎年行われている短期留学生の受け入れについてです」

 そうそう、星漣学園は毎年2学期中イギリスの姉妹校から数名の留学生を2週間ばかり受け入れて、星漣祭などの行事に参加してもらい交流しているんだ。入学案内パンフレットにそう書いてあったっけ。えっと、王室御用達のその学校の名前は……。

「先日、星漣と姉妹校であるミレニア学園から、短期留学期間の3週間の延長と開始日の前倒しの要請が来ました。これにより、当初予定されていた留学生の受け入れが11月中から10月の下旬に早まります」

 そうそう、「ミレニア」だ。って、留学生、もう来るの? 後3週間くらいしかないじゃないか。
 僕以外の会議参加者も執行部以外は初耳だったようだ。声こそ出ないが周囲の雰囲気が驚きの感情で少し浮つく。それも、宮子が黙っていても10数秒で収まったけど。注目が戻ってきたところで、静かに宮子が続きを言葉にする。

「その為、若干早いのですが本日のこの会議にて留学生に対応する接遇係の生徒を指定しておきます。留学生は4名と先方から言われていますので、3年生の各クラスに分散して貰う予定です。ですから、それぞれのクラスから1名ずつ係を選びたいと思います。まずは、接遇責任者兼、榊組担当者として私――」

 なるほど、ミレニア学園からの留学生は向こうの代表者だろうから、こちらも生徒代表として生徒会長の宮子が対応するのは当然か。って事は、この後のメンバーも予想が付く。

「――他に、接遇係としては後3名の生徒を指定します。柚組担当者として、運動部連合自治会の会長にお願いします」
「わかったわ」

 早坂が短く答えて頷く。接遇役は執行部から選ぶのかな、執行部メンバーで柊組は誰だったかな、とか考えていたら全然違った。

「柊組担当者は、本日はこの場に出席されていませんが特別役員に任命されました優御川紫鶴さまにお願いしたいと考えています」

 ええ!? 紫鶴が!? 何で? やっぱり文化系の一大イベントである星漣祭が期間中に絡むから、忙しくて執行部は兼務できないからか?
 そして、この流れに僕は9月1日に宮子に呼び出された時と同様の良くない物を感じ取る。まさか、そんな事無いよね? いくら何でも、僕にそれをやらせるなんて事は……。

「最後に、椿組ですが……同じく特別役員の達巳君に、お願いします」
(うへぇ!)

 来ちゃったよ! 辛うじて呻きは外に出さないで押さえたけど、僕の渋面はこっちを見ていた執行部連中にはしっかり伝わったはずだ。早坂が苦笑しながら目線を逸らしたから間違いない。当の宮子は涼しい顔を全く崩さなかったけど。
 だけど待てよ? 接遇係って事はこれで晴れて運営委員長の任は解かれるって事なのか、と希望的観測に少し前向きになってみる。直後の宮子の言葉に一瞬でそれは粉々に打ち砕かれるんだけど。

「達巳君は祭事運営委員長との兼務という事になりますが、これは運営側からも星漣祭に関わってみたいというミレニア学園側からの要望に対応するためです。もちろん、接遇係は他にもいますから運営委員会の方を優先してもらって構いませんが、そちらの方も考慮をお願いします」
「……了解しました」

 うん、そうだよね。完全に退路無いよね。……ちくせう。

「……では、質問も無いようなのでこれで本日の生徒会役員会議を終了します。……お疲れさまでした」

 その後は特に何も無く、最後にまとめて質問の確認をした後に冬月の閉会の宣言で会議は終了した。次々と参加メンバーが立ち上がって退出していく。僕も特にこの場所に居座る理由も無いので、のろのろと出口へ移動していると小走りに宮子が近付いてきた。

「……達巳君」
「はぁ、まだ何か?」
「先ほどの件、よろしくお願いします」
「留学生への対応の話ですか?」
「ええ……それと」

 宮子は頷いた後、小脇に抱えたファイルの間からクリップで留められた2枚の書類を取り出し、僕に差し出した。

「先週、発効された通達です。達巳君に各1枚コピーをお渡ししておきますね」
「僕に?」

 手渡されたペラペラの紙を両手で持ち、視線を落とす。そして、その内容に今度こそ僕は心の底から驚愕した。

「な……」
「本日、特別役員に正式採用された事で、『先週の』会議で通過済みの1枚目の文書も同時に有効になります。2件とも内容を良く読んで、併せてお願いしますね」

 それだけ言うと、宮子は軽く会釈だけして忙しそうに会議室の出口へと向かってしまった。残された僕は、あまりの驚きに固まったままその書類を穴が開くくらい見つめるしか無い。

「な……何じゃこりゃあ」

 絞り出したその声が、虚ろな五亡星会議室に反響した。

BLACK DESIRE

#20 「A CLOCKWORK GIRL 3」

1.

                    生徒会通達 第○×号

     特別役員生徒の生徒会活動の支援に関する通達

  次の者の、所属クラスにおける日直・掃除及びその他担任から
 要請された支援業務を、この通達の発効日から生徒会執行部が指
 定するまでの間、全て免除する。

   特別役員 祭事運営委員長 3年椿組 達巳郁太

  なお、業務免除により同業務に関して欠員が発生する場合、業
 務の省略、またはクラスを同じくする生徒により不具合の出ない
 よう、クラス委員長の指示のもと支援を行うこととする。

                 (星漣女学園生徒会長捺印)

                    生徒会通達 第○△号

   体育祭準備期間及び実施日における服装に関する通達

  体育祭参加生徒の校舎内における服装を、この通達の発効日か
 ら体育祭終了日までの間、以下の通りに緩和する。

   午前6時から4時間目終了まで(休憩時間を除く)
    ・星漣女学園指定制服(白)

   休憩時間及び4時間目終了から下校チャイムまで
   体育祭第3部(陸上競技の部)実施日の全日
    ・星漣女学園指定制服(白)及び指定体操服
    ・縦割り組統一ユニフォーム
    ・生徒会から許可された応援合戦用衣装
    ・その他、生徒会から許可された衣装

   体育祭第1部(競泳・水上競技の部)実施日の全日
    ・星漣女学園指定制服(白)及び指定体操服及び指定水着

                 (星漣女学園生徒会長捺印)

(どういう事なの、これ……?)

 僕は狼狽しながら取る物もとりあえず時計塔の出入り口から飛び出した。この通達の真意を聞こうと駆けつけた執務室は無人で、他の会議参加者の姿も既に見えなかったからだ。後は、先週の役員会議に出席していた筈のイインチョからどういう経緯でこんな通達が提案されたのか聞き出さなくてはならない。
 校舎に駆け戻り食堂側から飛び込むと、中央階段前の掲示板に5、6人くらいの生徒達が集まっているのが見える。階段を上る前にちらっと見たところ、先ほど手渡された通達2件がこちらはコピーではなくきちんと赤い生徒会長の判子付きで掲示されていた。時間は7時45分。くそっ、もう大半の生徒はこれを見てしまったはずだ。つまり、僕が所属する3年椿組の生徒達も。

 「おはよう、達巳君」とかけられる挨拶への返事もそこそこに教室に駆け込む。そこに飛びついてくる馴れ馴れしくも爽やかな第一声。

「あ、おはよ、イクちゃん! どうしたの、そんなに急いで?」
「……」

 僕に真っ先に気が付いたのはハルだ。そう、「ハルが僕に声をかけた」のだ。ぐりぐりと顔を巡らせ、教室の真ん中辺りにイインチョの姿を見つけ、早足で近付いた。

「イインチョ、さっき宮……生徒会長からこんなの貰ったんだけど」
「あ、その通達? 大丈夫よ、みんな掲示板で見てるし、私からも日直に言っておいたから」
「つまり……日直交代は……」
「終わったよ?」

 交代が、終わってる。僕抜きで。だからこそ、日直交代が終わるまで僕に話しかけられない筈のハルが挨拶できたのだ。

「ちゃんと、達巳君のところは省略して日直交代したから」
「そう……なるよね」
「? どうかしたの?」
「いや……」

 改めて教室内を見渡す。ほとんど揃っている椿組のみんなは、本来の制服姿……つまり、星漣学園の正式な夏制服姿だ。「特別制服」じゃない。何故なら、この体育祭の期間を通してこの始業前時間に着ていいのは、「星漣女学園指定制服(白)」のみと今朝発効の通達で定められたからだ。
 イインチョの怪訝そうな顔に見送られ、すごすごと自分の席に戻る。隣のハルが遠慮の欠片も屈託も無く笑顔で話しかけてくる。

「遅かったね、イクちゃん」
「あ、ああ。生徒会長に会議に出ろって言われたから……」
「そっか。イクちゃん生徒会のお偉いさんだもんね。頑張ってるんだ」
「そんなんじゃないよ」
「どしたの? 何か元気ないね?」
「えっと、朝から会議で疲れたんだ。ちょっと落ち着かせて」
「あ、ごめん」

 「何か飲み物買ってきてあげようか?」と心配そうなハルに黙って時計を指さして首を振る。時間はもう、朝のホームルーム開始時間を示していた。立ち上がりかけたハルがもう一度席に着く。
 それを横目に見ながら、僕は内心頭を抱えていた。

(これは……偶然なのか?)

 僕が現在このクラスに対して行っている常識改変が、恐ろしく正確にピンポイントで潰されてしまった。「日直」「掃除」「男子トイレ使用の支援」、そして「特別制服」。ふと思いつき、まだ教室の前方に担任の姿が見えない事を確認し、大人しくしているハルに小声で呼びかける。

「あのさ、ハル?」
「何、イクちゃん」
「掲示板の通達、今日の分見た?」
「うん、見たよ。イクちゃんの事、出てたね」
「あれって、毎年やってる事?」
「そうだね。行事の前とかで準備が忙しくなってくると、休み時間にすぐ練習できる様に午後は服装が自由になったりしてたよ」
「日直の免除も?」
「体育祭ではあんまり。でも、生徒会選挙の時とかは一日中走り回ってるから沢山の人が掃除も免除になったりするよ」
「そうか……ありがとう」

 という事は、たまたま僕の書き換えとブッキングしただけで、偶然って事もあり得ない話ではない。偶然に偶然が重なることも、万に一つも有るだろう。最悪の状況は想定しない訳にはいかないが、まだ断定するには早い。担任が来てホームルームが始まったが、内容が頭の中を右から左に素通りしていく。

 「最悪」とは……宮子を始め委員会のメンバーが僕のやっている事に気が付いているという事。そして、それを知らせた僕側の「裏切り者」がいるという事。
 哉潟姉妹ならば僕がかける認識変換に抵抗してその詳細を知る事ができるし、エアリアだって何かの魔法で椿組内部の様子を覗く事ができるかもしれない。そして、知る事ができたなら生徒会の誰かに働きかける事も可能だろう。

 だが、その目的は何だ? 僕がやっている事を、こんな風に妨害して何の得がある?

 本の力を使うのを止めたいだけなら、こんな生徒会を使う方法以外にも、もっと直接的な手段が有る筈だ。いや、直接的な手に頼らなくても、七魅達なら単に僕に忠告をしてくれるだけで事が足りる。僕は今のところ、彼女達の手助けを必要としているのだから。

 では、やはりそれ以外の僕の知らない第三者が介入してきているという事なのだろうか。だけど、そうなると、とてつもなく恐ろしい事実が浮かび上がってくる。

 ブラックデザイアの弱点。それは、認識を変え、多少の思い違いを起こすことができても、その能力と関係のないところでの記憶を書き換えることはできないという事だ。発動中の異常行動の記憶は消去され、補完はされるが、既にあった事柄の記憶をどうこうする事はできない。つまり、この2つの通達で示された内容に関する書き換えは、もう僕からはインサーションキーとして使えないのだ。僕はそれらの業務に関してもはや新しく何かを決める立場に無いのだから。

 この通達の内容を決めた人物はこの「弱点」を……少なくとも、僕からそれらの内容に対する発言権を奪えば異常行動を止められる事を理解しているって事だ。それは、考えたくもない恐ろしい事実だ。だって、僕を黙らせれば能力を使えないって知っていて、かつ、僕が現在やっている事を止める意志が有るって事なんだから。

 これは、状況の産んだ偶然か。それとも、何者かの意志が介在した必然か。必然なら、その目的は何か。僕の行いの妨害? 自分が抑止力となるという警告? それとも、僕の思いつかないような深い計画?

 わからない。何もわからない。敵の姿すら見えないのに、その考えが見通せるわけが無い。

 その日の午前中、僕は授業もそっちのけで、焦りと困惑と対応策の捻り出しにごっちゃになった思考を空転させ続けたのだった。

 昼休みになり、ふらふらと教室を出る。考える事が一杯有り過ぎて、却って頭の中が渋滞で考える事ができない。いったい誰が僕の味方で、誰が敵なのかわからない状態で、エアリアに会いに行く勇気も湧かない。
 いや、理屈では七魅達やエアリアが僕の敵になっている可能性は限りなく低いとわかっているのだ。速やかに全員に招集をかけて情報共有と現状分析をした方が良いって事も。しかし、その低い確率でその中に敵分子が紛れていた場合、その場での対策内容まで知られてしまう事になる。そういった意味で、僕は動き出すことができなかったのだ。僕が本当に信じられるのは、この黒い本と、僕の忠実な悪魔メイドだけなのだから。

 気が付けば、七魅達の柚組やエアリアの待つ食堂を避けるためか、自然と第2図書館へ足が向いていた。相変わらず受付の古式川さんは見あたらないし、ちょっとここで頭を冷やすのもいいだろう。
 受付内に入り、無意識に引き戸に手を掛ける。そして軽く力を入れると、思いがけず鍵がかかっていたようで扉は少し浮いてガタンと音を立てた。とたんに、中から「わっ!?」と複数の女の子の驚いたような声と、どたばたと慌てる気配が感じられる。ん、今の声って春原じゃなかったっけ?

「あれ!? ゆーかちゃん?」
「いや、達巳だけど」
「えっ、達巳君!? だめだめ! 今入っちゃだめだからね!」
「いや、鍵かかってるし……」
「とにかく、そこで待ってて!」

 なんなんだ、これは。別にここを誰か使っているなら用は無いのだが、成り行き上待つことになってしまった。机の上で「代行中」のまんまるい饅頭みたいな猫のキャラクターに視線をやるが、答えが見つかるはずも無い。結局5分ほど待って、ようやくカチリと扉の鍵が外れる音を聞いた。

「どうしたの、達巳君? 委員会の仕事やることになってたっけ?」
「いや、そういう訳じゃないんだけど……」

 戸を開けてくれたのはやはり春原だった。それに、早坂も居る。珍しいことに、彼女は金髪をいつものツインテールじゃなくて春原とお揃いのポニーテールにしていた。もちろん早坂の方がだいぶ長いのだが、いったい何故?
 僕は春原に続いて座敷に上がり、2人の顔を見渡した後、すぐにこの部屋に異変を感じた。どこかふんわりと、2人の少女の良い匂いが漂っているのだ。普通に座って漫画を読んだりお茶してるだけならこんな風に僕が気付くほど匂いが残ったりしない。それに、いつもの卓袱台は足を折り畳まれ、壁際に立てかけられてお茶も漫画も出ていない。2人で何をしてたんだろ?
 もう一度2人の様子を見直して、そこで僕は気が付いた。決定的な彼女のミスに。

「あのさ、早坂」
「何よ」
「髪……襟の中に入ってるよ」
「あ」

 いつもと違う髪型のせいか、早坂の揉み上げの髪の毛が1束、襟の下に入り込んでいた。これってつまり、鏡で身だしなみチェックする暇もなく慌てて制服を着たって事になるよね? え? つまり僕が来る前は制服を着てなかったって事? 2人で? どういう事だってば?
 僕の脳裏に余りにも考えたくない光景が広がる。この2人がそういう関係だったとしたら、2人に舞い上がってた僕がまるっきりピエロじゃないか。自然と、口調も重く暗いものとなった。

「お邪魔だったかな……」
「え?」
「僕、帰った方がいいよね」

 春原はきょとんとし、早坂はみるみる呆れ顔になった。どうやら早坂の方だけは僕の考えに行き着いたらしい。「ちょっと待ってよ」とほとんど回れ右してた僕を呼び止めておき、しゅるんと襟の中の一房を指に巻いて出す。

「しょうがないわ。教えてあげる」
「何をさ」
「これよ。試着してたの」

 早坂がすたすたと歩いて卓袱台をずらすと、そこにくるくるっと丸められた赤と黄色の布の固まりがあった。

「それ、何?」
「応援合戦の衣装よ」

 春原も諦めたのか、早坂が黄色の方を手に取ったのに併せて赤い方を持ち上げ、広げて見せる。
 それらは、それぞれ赤と黄のチアリーダー衣装だった。春原の赤い方は大胆に肩の出たノースリーブで丈も短く、お臍が丸見えになるのは間違いない。それに、スカートも白地に赤いラインが入った際どいミニだ。早坂の方もスカート丈は似たようなもので、こちらは半袖のジャケット付きだった。どちらも、目の前の2人が着たらとても似合っていて、しかもものスゴく健康的にエロ可愛いであろう事は容易に想像できる。
 2人の衣装には背中側に筆記体で格好良くロゴが描いてあった。赤の方は「Red Raccoons」、黄色の方は「Shooting Stars」。これはそれぞれ赤組と黄組の球技チーム名だということだ。そのままチア衣装にも使ってるんだってさ。

「まだこの服は生徒会の許可が出てないの」

 早坂がばつが悪そうに言う。

「だけど、もう時間が無いから隠れて衣装合わせしてたの」
「へえ……」

 だからあんなにどたばた着替えてたのか。あれ? でも2人が衣装合わせしてたって事は……。

「2人とも、応援合戦出るの?」
「それはナイショよ。まだ発表しちゃいけない規則だから」
「ええ~!? もしかして出ないこともあるの?」
「そうかもね」

 うわ、見たい! もしかして2人のチアコスが見られるのなんてこれがラストチャンスなのかもしれないって事じゃないか! この機会に何としても見たいぞ!
 この部屋に充満している女の子の匂い、可愛らしいチアコスチューム、そして早坂の普段と違う髪型。これだけでも僕の想像力を刺激するには十分だ。2人のすらりと長くしなやかな脚がミニスカートから伸びる様が目に浮かぶ。お揃いのポニーテールがジャンプに跳ねる様が、その下の2つの膨らみが揺れる様が、むき出しのお腹の真ん中のお臍がのぞく様が、いっぺんにモクモクと湧き上がってくる。見たい、今見たい!

 昔の偉い人は言ったよね。「少年よ、大志を抱け」。未知なる物への熱い希望は僕ら青少年の特権だ。春原も居るし、据え膳食わねば何とやら、ここはブラックデザイア発動のタイミングでしょ。
 春原は第4の能力リタルデーションが有効だから、インサーションキーも3つまで同時に設定して使える。確か1つを「トイレ」に設定してあるだけだから、後2つは空いているはず。

(春原渚の第2インサーション・キーを「応援合戦」に設定)

 魔力の左眼の光景の中に、すっと音もなく支配の赤い糸が春原に伸びたのが見えた。オッケー、手順1、クリア。続いては、領域支配設定だ。

(支配領域を第2図書館……と、受付に設定。「領域支配(ドミネーション)」、スタート)

 左眼に一瞬、赤いワイヤフレームモデルの様にブラックデザイアの魔力がこの第2図書館を走査し、支配下に置く様が映る。これで良し。「応援合戦」について僕が語ることは、これ以降どんなに常識外れでも反対したり、疑ったりできなくなった。期待に胸をドキドキさせながら言葉を紡ぐ。

「『応援合戦』の衣装なら、祭事運営委員長である僕にも責任があるよね?」
「あなたは実施要項の責任者だから、そうね」

 早坂が素直に応じ、春原も「うん。そうだね」と頷く。よしよし。

「じゃあ、僕も『応援合戦』前に衣装確認しなくちゃね。ほら、安全性とか、過激じゃないかとか、色々見ておかないといけないでしょ」
「……そうね。なら、今、確認する?」

 そう言って広げたチア衣装を2つに折って差し出す早坂。しかし、僕はそれに「いやいや」と両手を左右に振った。

「衣装自体はいいよ。会長とかが見てくれてるでしょ? 僕が確認したいのは、最終的にそれを着て『応援合戦』を行おうとする時に、何か問題が起きないかって事だから」
「えっと……今は見ないって事?」

 春原が衣装を手に持ったまま首を傾げる。僕は朗らかに笑って見せながら「違うよ」と再度手を振った。

「だからさ、この場で着てみてよ、それ。『応援合戦』前には準備時間が有るでしょ? その時間で間に合うのかとかの検証も含めて、今ここで着替えてみてくれる?」
「ああ、なるほどね」

 納得し、2人が顔を見合わせる。ふふ、インサーション・キーを含む僕の台詞は支配下の人間の思考のバックドアを抜け、都合の良い様に常識を上書きする。僕がごり押しで無理矢理辻褄を合わせた理屈でも、疑問に思うことなどできない。2人は本番の「応援合戦」前に、運営責任者である僕に着替えを検証してもらうのが当然だと認識改変されたはずだ。つまり、この場で春原の早坂のチアコス生着替えが見られるってことさ。
 僕は更に笑みを深くし、2人を促した。

「ほら、着替えて見せてよ。『応援合戦』の衣装を審査するからさ」

 僕の言葉に、顔を見合わせたままの2人。当然、頷き合って制服を脱ぎ出すものと思っていた。
 だから、その間からくすくすと笑い声が聞こえてきた時、僕は一瞬魔法の力が働いていないのかとドキリとし、狼狽した。笑いながら、春原がこちらを向く。

「ごめん、達巳君。それ無理」
「え……」

 何で? と言葉を出すこともできない。予想外の事態に思考停止する僕に、春原に続いて笑ったままの早坂が言葉を継ぐ。

「会長にも念を押されてるのよ。生徒会の許可が出るまで、『衣装を着ているところを誰にも見られるな』って」
「……会長に……?」
「そうよ。他の組も応援合戦の衣装申請してたのね。4組同時に書類を作るから、今日はまだ許可が出せないって言われたの」

 呆然としている僕に、2人が交互に説明してくれる。
 赤組と黄組の申請を受け取り、実物の衣装を検分した宮子は、2人に生徒会の許可が出るまでその衣装を着ているところを誰かに見られないように注意したのだという。

『申請してもらったので、応援合戦参加者が衣装合わせする分には構いません。ただし、許可が出るまで……明日には出せると思いますので、それまでは衣装を着ているところを、それ以外の生徒に見られないようにお願いします』

 そして、宮子は笑いながらこう付け足したのだという。

『もちろん、それは私にも当てはまりますし……例え【運営委員長】であっても、見せてはいけませんからね?』

「……と、いう訳なの。だから、明日には見せられるようになるはずだから、それまで待ってね」

 早坂の屈託のない笑い顔。その眩しさに反し、僕は自分の思考が暗く落ち込んでいくのを他人事のように感じていた。すっと血が足下から地面の下に抜け落ち、全身が金属のように冷え固まる。
 うんうん、と春原が頷き、感心したように口を開く。

「でも、さすが会長だね。達巳君が衣装確認する事、知ってたみたいだよ」
「偶然よ。だって、ここで私達が着替えてる事を達巳君は知らなかったんでしょ?」
「……」

 そう。偶々だ。僕は偶々この第2図書館を訪れ、そして偶然2人がチアリーダーの衣装を持ってきていることを知り、それに着替えてもらおうと本の力を使った。これを、誰が予測できただろう。
 できるはずがない。だから、偶然でないはずが無いのだ。

「……僕、ちょっと行くとこあるから……」

 辛うじてそれだけを絞り出し。僕は2人に背を向けて退出する。追いかける声にも反応せず、急ぎ足で受付内を通り過ぎた。あと1秒でも、この場所に居たくなかった。定まった予定調和の中に自分が置かれている事に、たまらない恐怖を感じていた。

 偶然だ。偶然でない筈が無い。

 だけど、その偶然が「3度」も重なったら?

 生徒会の通達により、僕が行っている書き換えのキーワードが、「偶然」、潰されてしまった。
 同じく通達により、僕が用意した特別制服が、体育祭期間中は「偶然」着られなくなってしまった。
 そして、チアリーダー衣装に着替えるのを本の力で促したら、「偶然」まだその衣装が許可待ちで、僕に見せる事ができないと断られた。

 「偶然」も3度重なれば「必然」だ。

 間違いない。
 宮子だ。

 どの様にしてか、宮子は僕がこの学園で認識をいじくっている事を知り、そして未来においてどういう書き換えをするかまで予測して、その権限でもって阻止してきている。

 「時計仕掛けの生徒会長」、安芸島宮子。
 彼女が、僕の「敵」なのだ。

 全く予想もしてなかったと言えば嘘になる。今朝の通達を見た時点で、誰かが僕の力の事を知って生徒会を動かしたと考えるより、役員の中の誰かが僕の行為を止めるためにあの通達を作ったと考えた方が話は単純だった。

 だが、それが宮子だったとして、どうやって? どうやって黒い本の力に気が付き、あまつさえ僕が早坂達の着替えに能力を使う事まで予測したんだ? 七魅の様に精神操作に抵抗力が有るのか? それとも、監視カメラなどを使って記録した物を見たとか? この学園に、そんな事ができる者が哉潟家以外にもう1人居るなんて、あり得るのだろうか?

 何とかして、宮子の持つ力を調べなければならない。単独なのか、協力者が居るのか。七魅やエアリアのように超常の力を持つのか、それとも機械の力によるものなのか。そして、今まで僕を見逃してきて、今動き始めた理由は何なのか。

 どこから手を付ける? 何をすれば良い? どう動く?

 ……そして、宮子は、僕が彼女を疑っていることを、既に知っているのか? それすらも、予想しているのではないか?

 考えながら当てもなく歩き回り、いつの間にか僕は中庭へと出ていた。噴水の側を通り、人気の無いベンチに前屈みに腰を下ろす。両手の指を組んで俯いた額に当てた。

(「時計仕掛け」……か)

 今更ながら、宮子の事が恐ろしくなってきた。もしも先週の段階で僕が「特別役員」に任命されていたら、あの通達の発効も同時だったって事になる。つまり、僕が先週設定したインサーション・キーは全て使えなくなっていた……いや違う、使えない事がわかった時点でその単語はキーに選んでいなかった。特別制服も、生徒会に認可された衣装の1つとして設定して別の使い方をしていた。
 だから、キーや特別制服を今日、いっぺんに使えなくする為に僕の任命を意図的に遅らせたって事になる。それは、9月2日に提案を行った時点で計画していたのか? それが問題の調査のために延期されたのは、偶然の筈なのに。そんな事が、人間に可能なのだろうか?

 とにかく、何か情報が欲しい。宮子に関する、何かが。それを知るにはどうすれば良いんだろう。何かを知っているとしたら、思い当たるのは宮子の親戚にあたるエアリアぐらいしかいない。まずはエアリアに詳しく宮子の事を聞いた方が良いかもしれない。
 なら、こんなところでグズグズしている訳にはいかない。恐らく、エアリアはこの時間になっても現れない僕にイライラしながら食堂で待ちぼうけている筈だ。行かないと。

 ベンチから立ち上がる。そして、食堂の方に目を向けた時、僕は久方ぶりに、そしてこんな状況で出会うには余りにも出来過ぎなくらい偶然に、あの人の姿を見つけたのだった。

 ロングスカートの先まで届く長い黒髪。すうっとそのまま天に浮かび上がりそうなくらい真っ直ぐに伸びた理想的な背筋。長い手足のバランスは神の設計通りに完璧な美を体現し、ただ穏やかに歩くだけで空間ごと聖堂の如き神聖さに満たされ、思わず頭を垂れたくなる天使の存在感。
 噴水の向こうに、僕はこの学園の星・優御川紫鶴の姿を見つけたのだった。

 紫鶴は、何かそれほど重くなさそうなものを白い紙袋に入れ、それを両手でスカートの前に下げて僕から離れていくように1人で歩いていた。ちょうど僕が頭を下げていたので、噴水の陰になって見えなかったのだろう。
 だが、不思議なのはなんで紫鶴がこんなところを歩いているのかって事だ。さっきから紫鶴の他誰も通らない事からわかる通り、この噴水は校舎や建物の移動の際、どこにも通じる道が無いせいで普段は人通りが極端に少ない。また、どこに行くにも一度校舎と食堂間の渡り廊下まで出なくてはならないから、ベンチの利用者も少ない。植木や用水路を踏み越え、道無き道を敢えて選択しない限り通り抜ける事もできないのだ。

「……紫鶴さん!」

 不安に怯えていた僕は、すがりつくように味方を欲して思わず紫鶴に声をかけていた。彼女なら、決して僕の敵にはならないと根拠無く信じ込んでいたせいもある。
 紫鶴は僕の声に珍しく一瞬はっとした様に動きを止めると、数瞬迷ったような素振りの後にこっちに向き直ってくれた。急いで近寄っていく。

「紫鶴さん、久しぶりです」
「……ごきげんよう、郁太さん」

 少し、ばつが悪そうな表情をしてこちらを見つめている。何かあったのだろうか? あまりここを通るところを見られたくなかったのか? 詮索するつもりは無かったが、自然に目線が落ちて紫鶴の持っている紙袋に目が行き、その中に何か折り畳まれた黒っぽい布製の物が入っていることに気が付いた。紫鶴も気が付き、あっと紙袋をくるりと背中側に隠す素振りをする。目線が合った。

「あの……えっと……」
「聞かない方が、良いですよね?」
「そうしてもらえると、助かります」

 紫鶴のはにかみ顔なんて、初めて見た。これはなんだか得をした気分。でも、困り眉の紫鶴も相変わらず美しい。ああ、ホント、小学生男子じゃないけど、もう少しこんなレア表情の紫鶴を見ていたくなる。

「もしかして、それ応援合戦の衣装ですか?」

 思いついてそう指摘すると、紫鶴はますます困って手を後ろにやってそれを隠そうとする。ああ……良い……。
 僕がそれを覗こうとして、紫鶴が見えないように後ろに隠そうとする。そうやって3回くらいクルクル回ったところで紫鶴も観念したようだった。「実は……」と声を潜め、諦めたように袋を前に出す。

「内緒にして下さいね」
「ええ、誰にも言いません」
「郁太さんの言う通り、応援合戦用の衣装なんです」

 やっぱりか。柊組連合の白組も今日生徒会に衣装申請したんだな。それにしても、紙袋の中の衣装はずいぶんと厚ぼったい。チアリーダー服ならもっと薄くて軽いはずだ。どんな衣装なんだろ?

「もしかして、紫鶴さんも出るんですか?」
「えっと……それも内緒にしておいて下さい」

 って、もう言ったようなものじゃないか。そうか、白組の応援合戦は隠し玉として紫鶴が出るんだ。だからこんなところをこそこそしてたんだな。紫鶴が応援合戦用の衣装合わせをしてたってわかったら、みんな白組の応援内容に興味津々になっちゃうもんな。つい、考えが口をついて出る。

「見たいなぁ。紫鶴さんの応援」
「駄目ですよ。内緒にしてて下さいね」
「ええ」
「まだ、誰にも話せないんです」
「わかってます。誰にも言いませんよ」
「約束ですからね、郁太さん」
「はい、約束します」

 そうだよな。白組がこんだけ応援合戦に力を入れてるってわかったら、他のチームも対策を練り直してくるかもしれないもんな。それに、隠し玉は隠しておくから最大の効果を発揮するのであって、それがわかってたら威力は半減だ。計画通りの成功を収めるなら、関係者以外誰にも知らせない方が良い……。

 ……。

 ……?

 あれ?

 何か、引っかかった。僕の頭の中で、紫鶴の言葉が、ホンの微かに、それこそ窓ガラスに当たった雨粒が見えない凹凸に引っかかって流れを変えるように、自分でも理解できない何かにぶつかり、一瞬だけ脳裏に残る。
 それは何だ? 僕は、何が気になったんだ?

「紫鶴さん、すみません」
「え? はい」
「今、何て言いました?」
「え?」
「もう一回、覚えてたらもう一回、同じ事言ってもらえませんか?」
「……? わかりました」

 紫鶴が首を傾げながら頷く。少し自分の記憶を辿って視線を泳がせた後、ぽつりと呟く。

「約束ですからね、でしたか?」

 ……これか?
 ……いや、違うな。この言葉には何も感じない。

「その前の言葉、覚えてますか?」
「えーっと……」

 今度は、少し長くかかった。話の流れを整理しているのかもしれない。さすがの紫鶴でも、何気なく口にした言葉をいちいち覚えてはいないか……。
 こんなところで引き留めて悪いな、という思いと、何をこんなにムキになってるんだろうと自重を促す内心の声に、僕は諦めて紫鶴にもういいですと、声を掛けようとした。そして変な事を言ってごめんなさいと謝って、後は別れるか、勇気を出して一緒に昼食に誘うか、そんな未来が待っていた筈だ。
 その声を掛ける直前に、首を傾げて考え込む紫鶴さんもやっぱり良いな、なんて余計な事を考えてなければ、間違いなくそうなっていただろう。だから、それは偶然で、だからこそ、僕にとって奇跡の光明だったのだ。

「あ、もう……」
「……『まだ、誰にも話せない』……でしたか」

 !!!

 紫鶴の言葉を聞いた瞬間、僕の中で思考がでんぐり返った。そうだ、この言葉だ。

 『まだ、話せません』

 これは誰の言葉だった? 僕はつい最近この言葉が使われた状況について、誰かから聞いていたはずだ。

 それは、早坂の言葉だ。昨年の生徒会長選挙の事を聞いたとき、その話の中で出てきたのだ。しかも、2回も。違う人間が、違うシチュエーションで。
 話を聞いていたときは早坂の話しぶりに引き込まれ、気が付かなかったし、そこに意味が有るとも思わなかった。

 最初の発言は、宮子が早坂に「迷惑を掛ける」と言いに来た時だ。その時は、確か「まだ決定ではないから」「まだ話せない」という言葉の繋がりだった。だから、僕はこれは彼女が副会長に推す相良冬月の心が決まっていないから話せないという意味だったのだと思った。
 2回目の言葉は、その冬月自身が言った事だ。前運動部連合自治会長に退部について諫められ、その理由を聞かれた際に同じように「まだ、話せません」と答えていた。

 ここだ。
 ここがおかしいのだ。

 退部届を出していながら、冬月の心が「まだ決まっていない」筈が無いのだ。だから、理由を話せないのは、冬月自身の内面に起因する物である訳が無い。
 ならば、その原因は何か。冬月が理由を話せなかったのは何故なのか。

 ……宮子しかない。
 宮子に、口止めされていたのだ。理由について「まだ話さないで下さい」と、頼まれていたに違いない。
 なぜ宮子はそんな事をした? それこそ、1つ目の「まだ話せない」の答えだ。「まだ決まっていな」かったのは、冬月の心じゃない。

 未来だ。

 宮子の予測する未来に、その時点で変化が起こらないように情報を制限したのだ。冬月が宮子の味方をして運動部を離れる事が分かれば、場合によって選挙の結果に影響が出てくる。それは、僕なんかでは想像することしかできないけど、宮子にはきっと、はっきりその影響の大きさが見えていたんだ。だから、隠した。

 「未来がまだ確定されていないから」知られたらそれが変わってしまうから、だから、「まだ話さない」。

 それこそが、あの時の宮子の言葉の真意だったのだ。

「紫鶴さん、ありがとうございます!」
「え? はい」

 僕は紫鶴にぺこりと頭を下げた。偶々だとは言え、紫鶴とのやり取りで落ち着いて考えることで、僕はそれに気付くことができた。本当に、紫鶴は僕の天使なのかもしれない。

「ちょっとやらなければいけない事があるので、僕は行きます。また今度、お昼でも一緒に食べましょう。僕が奢りますから!」
「そんな、悪いですよ」
「良いんです、今日のお礼なんですから! じゃ、また!」

 名残惜しいが、今はそれよりも優先することが有る。僕はしゅたっと手を上げると、怪訝そうにする紫鶴に背を向けて駆け出した。ここから先は、紫鶴には見せられないし、話を聞かれるわけにもいかない。

 適当に人気の無い場所まで来ると、周囲に他の生徒が居ない事を確認してスマホで例のアプリを立ち上げる。そして、問題の生徒の状況を確かめた。

 ――相良冬月。3年柊組の生徒で、生徒会副会長兼風紀委員長、そして剣道部団体戦の副将を務めた事もある剣豪の少女。

 冬月が昨年運動部離反の理由を話せなかったのは宮子からの指示だったとして、それを「まだ、話せません」と言ったのは、彼女もまた宮子が「まだ話せない」と言っていたのを聞いていたからでは無いか。だとすると、冬月は宮子の極めて正確な未来予測能力をある程度知っていたって事になる。
 それに、「宮子を生徒会長にするため」と言って剣道部を退部するほどの覚悟ができる冬月だ。宮子への信頼は絶大なものが有るのだろう。だとすると、もしかして宮子がどうしてここまで正確に学園内の様々な出来事を予測できるのか、その秘密を知っているのかもしれない。まずは、冬月を攻めるべきなのだ。

 アプリで調べた冬月の今現在の居場所は……生徒会執務室が50%、武道場が20%、その他が30%か……。確定していないって事はつまり、哉潟家のシステムでは捕捉されていないのか。探すべきか?
 少し迷ったが、考えてみれば現在の居場所が分かったところで1人で突撃するのは危険だろう。相手は、間違いなく宮子側の人間だ。

 なら、どうする? 決まっている。
 こっちだって、仲間の力を借りるべきだ。

 スマホのホームを出して、電話帳からお気に入りの1人を選び、コールする。誰かの秘密を聞き出すのに、彼女ほど優れた力を持つ者はいない。

 ややあって、数回目のコール音でぷつっと相手先に繋がった。良し、いいぞ。

≪もしもし、どうしたの? めずらしいね≫
「うん。君の力を借りたい事態になったんだ、三繰」

 そうだ。哉潟家のコントロール能力は、相手の意識を捉え、催眠状態にして内緒の話を聞き出すことにも使えると以前聞いた。これは、ブラックデザイアの力の通用しない相手にでも使える必殺の力だ。

≪あんまり穏やかな話じゃないよね≫
「わかってるよ。だけど、やらないと」
≪ふーん……結構やばそうだね≫

 わかった、と三繰は言った。そして詳しく話を聞かせて欲しいとも。僕は彼女と落ち合う場所を決め、そこで冬月から情報を聞き出す為の方策を練ることにした。七魅から教わっている空き教室の1つを指定する。

≪じゃ、すぐ行くね≫
「ああ、頼むよ」
≪また後で≫

 そう言い残し、通話は切れた。僕もすぐに移動しないと。

 ポケットに携帯をしまい、足早に歩き始める。昼休みの残り時間は少ない。手早く状況説明と作戦を練らないとな。今日中に、何とか宮子の秘密を暴ければ良いんだけど……。

 一つ心配なのは、この僕の動きすら宮子に予測済みなんではないか、という事だ。そして、その対策もされているとしたら?
 しかし、その時はその時だ。三繰の能力は人間相手ならほぼ無敵の支配力を持つ。もしもそれにも対応できるとしたら、僕には本当に最初から勝ち目なんてなかった事になる。だから、もう、やってみるしかないんだ。

(もう、なりふり構っちゃいられないぞ!)

 宮子の未来予測の檻の中に囚われているうちは、僕に勝ち目なんて有る訳が無い。全力で、最大の力でそれを食い破って外に出るしか、あの「時計仕掛けの少女」に勝つ方法は無いのだ。

< 続く >

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