魔女見習いは年相応!? 第3話-0

※当話に登場する場所は特定の諸島をモチーフとしていますが、作品の都合上、現実とは大きく異なる点がございますので、あらかじめご了承ください。

※この節にはエロはありません(R-12程度)のでご了承ください。

第3話-0

「妊娠ってマジかよ」
 俺が試験を終えて月が変わり、ハルカと一緒に俺の実家に帰っての開口一番がその言葉だった。
「まだ言ってんの」
 俺達を玄関で出迎えた母さんは、呆れかえったように応じる。だってそりゃ、信じられないもんよ。
「もう心臓動いてるのも分かるよ」
「えっ本当?」
 隣で靴を脱いでいたハルカが反応する。しかし母さんが「検査じゃないと分かんないけどね」というと、ハルカは残念そうな顔をした。だがそれでも、ハルカは俺の母さんに近づいてお腹を触り、「わー」とよく分からない声を漏らしていた。外見には膨らんでいるかもよく分からないお腹だ。
「よくやるよ……」
「お母さんもまさかここに来て本当にできるとは思ってなかったよ。もちろん欲しいとは思ってたけど」
 淫魔の家系は、子供ができにくい。数年前に母さんが当時の仕事を辞めて専業主婦になった頃(辞めたのは父さんの仕事が軌道に乗ったからだが)、母さんがぽつりと、「二人目が欲しい」と言ったのを耳にしたことが確かにあった。だが、まさか今の今までチャレンジしていたとは知らなかった。血筋のせいで若く見えるとはいえ、母さんはもうアラフォーだ。というか、父さんが頑張ったのか。

「そういや」
 母さんがそう言って立ち上がったのは、リビングでの四方山話が一通り終わったところだ。何をするのかと思ったら、母さんは棚からクリアファイルを引っ張り出す。
「これ」
「……ああ」
 そして見せられたのが、「搭乗券引換書」と書いてあったペラ紙だった。おそらくインターネットから打ち出したものだ。

 それは、俺達が妊娠の知らせを聞いた翌朝のこと。
『そういや正人と遥ちゃん、夏休みの予定は決まってるの?』
 一通り妊娠の報告で騒いだ後、スピーカー状態にした電話から響く母さんの声に、ハルカが俺の顔を見る。
「いや、別に」
 俺が答える。どこかに行くつもりはあるが、特に考えてはいなかった。
「じゃあさ、お母さん達の代わりに真利奈ちゃんのとこ行かない?」
「……?」
 誰のことか一瞬判別できなかった俺に対して、横にいたハルカの反応は早かった。
「お姉さんのとこ?」
「うん」
「あー、真利奈さんか」
 ハルカの反応で理解した。真利奈さんとはハルカの伯母さん、つまり舞耶さんのお姉さんで、南の島に住んでいる人だった。真利奈さんがこっちに来たときに何度か会ったことがある。
 真利奈さんは確か、ここから遠く離れた南の島に住んでいるはずだ。そこは国内、どころか都内の島だが、たしかこちら側から千キロくらい離れているところにある。
『本当は舞耶ちゃんと行く予定だったんだけど、この身体じゃさすがに、旅行には行けないから。どうせなら正人達に行ってもらったらって舞耶ちゃんとも話してたの』
「行きたい!」
 話し相手が電話口の向こうだというのに、ハルカが即座に右手を挙げた。ああ、俺へのアピールか。
『大丈夫? 三週間くらいになるんだけど』
「マジか」
 長いなおい。
『でもそうそう行けるところじゃないし、一回行ってみるといいんじゃないかな』
 俺は一瞬考える。しかしハルカが今も目を輝かせていることからして、もう断る可能性はないことにすぐ思い至った。

 俺達の乗るべき船が桟橋から出航するのは、俺達が実家に帰ってすぐ翌日のことだった。本当は俺達に家を任せて母さん達が向かうはずだったので、旅客が俺達に変わったことで忙しい日程になってしまった。
「わー。おっきい」
 チェックインの手続きを終え、時間を潰すために待合所の二階に上がった途端、ハルカが歓声を上げた。
 やや霞がかかりながらも青いと呼べる空を背景に、その船が船客の迎え入れを待っていた。
 白い船体に、赤と青のストライプをまとった客船は、改めて目にするとびっくりするくらい大きい。

「ハルカは船に乗ったことってあったっけ?」
「んー、湖クルーズくらいだと思う」
「ああ、三年前か」
 思い出した。確か北の方に旅行したときに乗ったやつだ。定員がせいぜい五十人くらいの。
 かくいう俺も、船はその時に乗って以来だ。今時船で移動しなければいけない場面自体、それこそクルーズでもない限り珍しかろう。しかし、これからの旅行先は、この国でも数少ない、その「船でしか行けない」場所――しかも、二十四時間かけないとたどり着かない場所だった。

 船の中に入る前に、靴底を濡れたマットにこすりつけるように指示された。島に外来種を持ち込まないようにするための対策らしい。
 船室に荷物を置いてすぐ、俺達は甲板に繰り出す。11時ちょうどに船が汽笛を鳴らして出航すると、ハルカは鉄棒の要領で身体を持ち上げ、足をパタパタさせた。
「危ないぞ」
「だいじょーぶ」
 手すりとは言っても向こう側は救命ボートの設置区画のため、いきなり奈落ではない。しかし念のため、見るからにテンションが上がっているハルカに注意を向けながら、俺は景色を眺める。お台場にある有名なテレビ局の社屋が目の前を通り過ぎていく。強い日差しが俺達を照らし、潮風が頬を撫でる。
「そんなにはしゃぐなよ、先は長いんだからな」
 ハルカは出港してから数十分、このテンションを保っている。しかしこの船旅の所要時間は、二十四時間。何と丸一日もの間、俺達は船上生活を余儀なくされる。さすがのハルカもテンション切れになるのは時間の問題である。
 ふいに、手が疲れたのかハルカが足をついたのと同時に、強めの風が駆け抜け、ハルカの髪が俺の右手に触れた。俺は何となく、その髪を一房掴む。
 ハルカの髪は、限りなく黒に近いいつもの色ではなく、青みがかったアッシュ系の茶色を示していた。脱色ではなく、スプレー染めによる髪色だ。

 肌を焼きたい――ハルカがそんな相談をしてきたのは、一週間前、俺達がまだ寮にいた頃だった。
「せっかくだし、やってみよっかなって」
 そしてハルカは、髪を染めたい、とも言った。日焼け肌に黒い髪は似合わない、という理由だった。
 ハルカの黒髪が好きな俺は渋ったのだが、ハルカが言うには、髪が日焼けすると赤茶けてしまうらしい。ならば、いずれにせよ何らかのケアは必要ということで、色を変えつつ髪を守るスプレーならいいだろう、という結論に落ち着いた。

 俺が髪を弄っているのに気づいたハルカは、手すりを上るのを止め、代わりに手すりと俺の間に身体を割り込ませる。俺はハルカの体温を感じながら(暑い)、ハルカを頭越しに見下ろす格好になる。
 カットソーは今のハルカの体格には少し大きめに見えるが、ボートネックなので小さな胸の膨らみはその中にしっかり隠されている。だがその代わりに、デコルテのかなりの部分は外に晒されている。カットソーが大きいせいもあろうが、鎖骨の浮いたデコルテがいつにも増して薄く感じる。
「二人で旅行って初めてだよね」
「あー、そういやそうだな」
 少なくとも泊まりでは初めてだ。もっとも、向こうに着けば真利奈さんの所にお世話になることになるが。
 その体勢のまま数分。
「入るか」
 俺の背後、甲板の中央で、早くもおじさん達の酒盛りが始まっていた。引き揚げ時だろう。
「うん」
 ハルカも状況を察したか、素直に応じた。

 合計で大きい船内を一通り探検し、レストランに入ったのは正午から分針がほぼ一回りした頃だった。レストランと言ってもフードコートのようなところで、パンや惣菜のは棚からとり、セットについては後で窓口から受け取るシステムだ。交通系の電子マネーが使えるので便利だ。
「すごい。くっつく」
 ランチを受け取ってトレイを置くと、机にピッタリとくっついた。船が揺れても大丈夫なように吸着力が高くなっているようだ。もっとも今日は波も穏やからしく、上下に少し揺れる以外は地上と変わらない。

 量はそれほど多くないのでさっさと平らげ(ハルカはサラダを二つも取っていた)、その場で少し駄弁っていると、イベント予告のアナウンスがかかった。どうやらこのレストランの閉店後にこの場所でやるらしいので、そのまま待つことにした。

 二時になるとレストランは一時閉店となり、同時にイベントがスタートする。といっても、イベントはこれから俺達が向かう島の紹介である。

「――諸島は、これまで一度も、大陸と陸続きになったことがありません。海洋島と呼ばれます」

 ディスプレイを横目に、ホエールウォッチング協会だかの人がレクチャーしている。
 正直なところ、普段なら絶対に聞く気にならない内容だが、スマホに目を落としたら既に圏外になっていた。これでは他にやることもないので、ぼんやりと眺めることにする。

「海洋島のため、諸島では独自の生態系が成立し、他では見られない生物の進化が見られます。その独自性が認められて、諸島は世界自然遺産に登録されました」
 画面には、諸島に多い固有種が表示されている。
「実は諸島にはカタツムリの固有種が非常に多く、これが世界自然遺産登録の決め手になったとも言われています」
《カタツムリ……》
 ハルカがツタでつぶやいてきた。そんなものが大事なのか、と思ったのだろう。同感だ。

「――この時期は、イルカと一緒に泳ぐのに一番良いシーズンです」
 しばらくぼうっとしていた俺の頭に引っかかったのは、解説員のその言葉だった。
「イルカは野生で、餌付けされていませんが、多くのイルカが島の近くを泳いでおり、一日もしくは半日のツアーを利用すればチャレンジできます。チャレンジには回数制限があるので、運次第の面もありますが、泳げる可能性はかなり高いです」
《良いな》
《うん、やってみたい。でも、できるかな》
《どうだろう》
 ハルカが気にしているのは、ハルカ自身が泳げるかということだろう。俺が知る限り、ハルカは泳げはするものの、上手いという印象はない。沖合で泳いだこともないはずだ。三年前にプールで泳ぐ練習を手伝ったことが思い出される。最初の頃は足をバタバタさせてもなかなか前に進まず苦労していた。その後も練習を重ね、クロールでやっと二十五メートル泳げるようになったと報告を受けた(実際には見ていない)。
《向こう行ってから練習だな》
《うん》

 船内のラウンジから端の甲板に出ると、赤々とした夕陽が輝いていた。
「わー、すごい。きれい」
 ハルカが声を上げる。レクチャーの後、ラウンジでの時間つぶしにさすがにうんざりしてきていたハルカだが、一面に広がる紅い空を目にして表情が一瞬で変わった。
 鬱屈した気分の反動か、ハルカは手すりにつかまり、ぴょんぴょんと飛び跳ねる。先ほどとは違い、端甲板の手すりの向こう側は海である。俺はハルカの左手をしっかり掴んでハルカの動きを牽制する。
 俺の動きを感じ取ったのかハルカは飛び跳ねるのを止めると、一転して俺に寄りかかり、頭を右腕に預けてきた。俺はその頭を脇で受け止め、右手をハルカの頭に置く。
 時刻は六時を既に回っている。太陽は既に水平線に限りなく近づいており、遠からず日没を迎えることが見て取れる。傾ききった夕陽はそれほど目に厳しくなく、休み休みならば見ていても大丈夫そうだ。ハルカと俺は言葉も通信も交わさず、橙球を目に入れた。ハルカはサングラスをかけている。肌を焼くときに使うから、と持ってきていた。

 端甲板には俺達以外にも何人かの乗客が出てきている。話し声も聞こえるが、船のモーター音や水切り音と混ざって、むしろ静寂に近い奇妙な雰囲気になっていた。潮と鉄分が混ざったような独特の匂いが鼻をつく。

 ふと思った。
 俺達は、周りの乗客にはどう見えるんだろうか。

 子ども連れも、カップルも、一人で佇む男もいる。全員が概ね夕陽に気を向けていて、俺達を見る者はいない。
 俺は夕日に目を戻しながら、思う。
 身長は三十センチ差。ハルカの体つきが(多少マシになったとはいえ)成長期の途上にあることは明らかで、俺との年齢差は見て取れるだろう。そのハルカが俺にしなだれかかっていたとしても、やはり妹が兄に懐いているように思われるかもしれない。さすがに親子には見えないだろう。多分。
 しかし、最近のハルカは不意に、驚くくらい女の顔――もとい、「大人の」女の顔を見せることがある。
 例えば、今。
 ハルカはサングラス越しに眼を細め、夕陽の行方を追っている。その表情は、夕陽の向こうにある何かを見ているようにも思われた。そしてそれは、俺が今の今まで知らなかったハルカの表情だった。
 俺はハルカの視線を追うように、再び夕陽に目を向ける。

 ハルカとずっと一緒にいるのに、俺の知らないハルカが増えている気がする。

 それはよいことなのだ、と思う。
 ハルカは日々成長している。新しいハルカになっていく。
 泣き声を上げることしかできなかったハルカがハイハイを覚え、よちよちと歩き出し、「おにい」という言葉を口にし、公園で元気に走り、ランドセルを見せびらかし、学校の宿題を自分で解き、新しい洋服を母親にねだり、一緒に家族旅行に行き、俺と同居し、そして今、俺と二人、恋人という関係で旅をしている。
 今から思えばそれは、どれもハルカの新しい姿に違いなかった。そして、今のハルカも、昨日までの――あるいはこの船に乗るまでのハルカとは違う、新しいハルカなのかもしれない。
「ちょっと、曇ってる」
 ハルカの言葉で我に返り、夕陽に気持ちを向けた。夕陽は今にも、水平線の向こうに消え去ろうとしていた。しかし、厳密にはそこは水平線ではない。快晴に近い空模様だが、水平線付近には僅かながら、遮るものがあった。
 太陽はそこに、すでに身の半ばを隠していた。俺はスマホを左手に取り、とっさにシャッターを切る。
 スマホを仕舞って視線を戻したとき、ちょうど、太陽が雲の彼方に消え去った。

《お兄ちゃん、キスして》

 突然。
 ハルカが俺に交信してきた。ハルカを見ると、ハルカがサングラスを外し、俺の顔を見つめている。
 俺はとっさの判断で屈み、ほんの一瞬、ハルカの唇を奪った。そして、俺が姿勢を戻すと、ハルカは少し物足りなそうに、しかしそれでも目的は達したというように表情を緩めて、太陽の消えた赤い空に目を向けた。
 幸いにも周りに見られていないことを確認してから、俺もそれに追随する。
「あのさ」
「うん?」
「……夕陽が沈むときにキスしてたら、沈むとこ見られないよね」
「…………そうだな。あれは映画の演出用だ」
 二週間前、確かにテレビでハルカと一緒に、そういうシーンを見た。少し前の洋画だった。

 時にハルカは、そんなことを悩む。それは確かに、俺が昔から知っているハルカだった。

 俺達が寝床に帰ってきたのは夕食を終えてからで、既に夜が深まりつつある頃だった。俺達の客室は二等寝台で、一区画の左右上下に計四つの寝床が設置されている。俺達の寝床は区画を入って左側の上下だった。ほぼ満室なこともあり、右側は上下とも壮年か中年の男の人にあてがわれているようだった。
 船内にはシャワー室も男女別に設置されている。ハルカが使いたがったので、俺も身体を洗い流すことにした。シャワー室にはシャンプーとボディソープが置かれていて、汗を流すには十分だ。
 が。
(痛ぇ)
 身体にお湯を当てた瞬間、ヒリヒリとした刺激に襲われた。よく見たら二の腕が少し赤くなっている。
(もう日焼けしてら)
 せいぜい数時間とはいえ、真夏の日光を浴びすぎた。そういえば、さっきのレクチャーの時も、日焼け止めは必須と言われたっけ。島に着いたら日焼け止め買わないとな。
 この日光の強さなら、ハルカの肌もあっという間に焼けてしまうに違いない、と思いつつ、俺はお湯の温度を下げて何とか乗り切った。

《日焼け止め持ってなかったの?》
 下の寝床にいるハルカから呆れたような通信をされ、俺はむっとした。
《お前が言うか》
《私、塗ってたよ》
《えっ》
 予想外の言葉に俺は絶句した。
《計画的に日焼けするときは弱い日焼け止め塗って、ちょっとずつ焼くの》
 当たり前でしょ、といわんばかりのハルカの答えに、少し馬鹿にされたような気分になった。知らんよそんなこと。
《明日はとりあえず貸してくれ》
《うん》
 しかし俺はその思いを抑え、ハルカに物乞いしておいた。こんなところで揉めても何も良いことはない。
 そんな雑談をしているうちに身支度や荷物整理を終えてカーテンを閉め、いよいよ寝転がる。普段からすればまだ寝るには早いものの、遠からず消灯の時間ではある。下ではしばらくごそごそとした音が聞こえていたが、じきに静かになった。
《お兄ちゃん》
 ふと、ハルカから通信が入る。
《ん?》
《そっち、行っていい?》
 俺はむくりと頭を上げ、カーテンを少し開ける。向かい側のベッド二つを見ると、両方ともカーテンが閉まっている。
《こっそり来いよ》
《うん》
 俺がOKを出すと、下のカーテンがこっそり開く音がした。続いて、階段を上る音。
 あ、バレる。と直感した。あたりには低いエンジン音が響いているものの、狭い区画内は却って物音が良く響く。向かい側の二人が寝てでもいない限り、ハルカがどう動いているかは想像がつくだろう。
 だが、もう手遅れだ。かといってハルカを追い返すわけにもいかないので、俺は諦めて、自分でカーテンを開けた。
 ハルカは、部屋着用キャミソールに薄いカーディガンを羽織り、ショートパンツを身につけている。シャワーのおかげか、髪はいつもの黒に戻っていた。戸惑うことなく靴を脱ぎ、俺の寝床に滑り込んでくる。

 ……しかし、大人一人と小荷物(大きめの荷物は荷物棚に、貴重品はロッカーに預けている)がやっと入るくらいの寝床は窮屈なことこの上なく、結局は俺の荷物をハルカの寝床に移動することになった。窮屈であることに変わりはないが、最初よりはマシだ。隣の二人にはバレているに違いないが、もう手遅れなので気にしないことにする。
《下よりちょっといいかな》
 とは奥側に陣取ったハルカの弁だ。上下の寝床は同じ面積ではあるものの、下は入口側の半分を除いて完全に壁に遮られており、閉塞感がとても強い。上の寝床は一面がほぼカーテンになっている分、だいぶ楽に感じる。
 限界ギリギリのスペースに入り込むため、俺達は身体を密着させた。文字通り目と鼻の先に、ハルカの顔がある。ほのかにシャンプーの匂いが漂う。ハルカは俺に巻き付くように抱きつき、俺はハルカの腰を片腕でしっかりと抱き寄せる。
 二日ぶりの、ハルカの全身の感触。だが、ここまでしっかりと密着するのは珍しい。おかげで、ハルカの肉付きが服越しに体感できる。
 ハルカの胸元はほんの少し、柔らかい暖かさ。だがそれ以上に、腰から尻にかけて、ふっくらとしたラインを手に感じる。思わず尻たぶを掴もうとして、自重した。ここでは行為に及べないので、間違ってもハルカの情欲を煽ってはいけない。

 だが。
《刺して》
 俺の目を見たハルカはそう求めた。
《でも》
《良いじゃん、そのくらい》
 躊躇したが、そのくらいはしてやっても良いか、と思い直した。俺は首の下を通していた右手からツタを伸ばし、ハルカの耳、ではなく後頭部に向かわせる。

 ツタを脳に向かわせる時、鼓膜を小さく破って体内に侵入するのはツタ使いの基本である。ツタは髪の毛くらいまでは容易に細くできるので、そのくらいの大きさで鼓膜を破っても、普通は日常生活に支障ない。だが、プールや海水浴で耳の奥に水が入った時には炎症の原因になるというのもないではない。そのことに俺が気づいて、夏の間は耳からツタを入れるのを止めることにしたのだった。
 耳以外にある顔の穴と言えば鼻なのだが、鼻にツタを刺すのはさすがに見ていて不格好なので却下した。というわけで選んだ場所は後頭部だ。穴がないなら穴を開ければ良い。

「っ」
 ハルカが息を呑む。首と後頭部の間に、東洋医学で言うところの「天柱」というツボがある。その部分に鍼よろしくツタを刺した。ハルカはちくりとした痛みを感じているはずだ。何度かやったのでさすがにもう慣れてきたようだが。
 頭蓋骨の下部からツタを滑り込ませて、脳に到達させる。ハルカが痛みを感じるのと、脳の到達まで数拍ほど余計に時間がかかるのが欠点だが、旅行先でハルカを中耳炎にするよりはマシである。

 そして俺は、普段とは違い、快楽ポイントを極力刺激しないように気をつけて、そっとツタを伸ばす。そして、既にツタが刺さっている場所と同じところに、伸ばしたツタを突き立てた。

《聞こえるか》
《うん》
 ハルカの言葉が、気持ちが、クリアに伝わってくる。同じツタの通信だが、普段の遠隔通信と直接繋がっての通信は、メッセージアプリ越しの話とピロートークくらいの感覚差がある。目をつぶってもハルカの表情が思い浮かぶくらい、ハルカの弾んだ心が分かる。
《だってこんなの初めてだもん》
 年相応、というかもっともな答えだった。旅行の移動中に夜を越えるなんて、普通なら海外旅行でもなければしない経験だろう。
 船の中で二人身を寄せ合いながら、ゆっくりと、上下の揺れを感じる。船内に、消灯の案内が流れ始めた。女性の声で、ゆったりとした歌が背後に聞こえる。歌詞からして、現地の島唄だろうか。
《えっち、できないね》
《する気だったんかい》
 俺はさすがにヤレる環境とは最初から期待していなかった。見て回った感じだと、等級の高い部屋ならもしかして、とは思うが。
《だからキスして?》
 ハルカはそう言って、鼻と鼻をつける。俺は唇を寄せ、ハルカの唇に合わせた。
《舌はダメだぞ、音がするから》
 よく考えれば、行為に進展性がない分、唇を離す必要もない。ハルカに釘を刺しつつ、右手でハルカの頭を支え、唇を合わせ続けた。
《そういえばさ》
《ん?》
《美怜ちゃん》
《あぁ》
《別れちゃったって。昨日》
《……そうか》
 美怜さんとは、ハルカのバドミントン部の友達だ。一時期剣道部の先輩とやらとかなりいい関係になったものの、そこから先が難しかったらしい。
 ハルカから又聞きしたところによれば、要は「先輩の手が早すぎた」ということらしい。二人で夕食を済ませた後、先輩は即座に自分の部屋に連れ込みたかったようだが、その行動がもう少しロマンチックな気分を味わいたかった美怜さんの機嫌を損ねてしまったそうだ。
 結局その場はお互い平穏にやり過ごしたそうだが、それをきっかけに二人の関係が急にギクシャクしてしまったと聞いていた。そして結局、昨日の結果と相成ったようだ。
 美怜さんからアプローチしてきた流れだったので、先輩も油断したのだろうか、美怜さんとの距離感を読み間違えてしまったのかもしれない。男として、その気持ちは分からないでもない。もっとも、その先輩と面識はないが。
《落ち込んでなかったか?》
《ううん。次の男見つけるって、むしろ張り切ってた》
《そうか……》
 女の子の方が切り替えが早いというが……おそらく、美怜さんの気持ちは前から決まっていたのだろう。
《良い男っぽそうだったのに、残念だな》
《そうかな?》
 俺の感想に、しかしハルカが疑問を差し挟んできた。
《え? お前がそう言ってたんだろ。ちゃんとしてそうって》
《ちゃんとしてなかった。むしろ外面良くて先生の機嫌とるのが上手いって感じ》
 美怜さんがアプローチしていたときとは一転して、ハルカは「先輩」への厳しい評価を示した。ハルカの柔らかい唇には似合わない、トゲのある言葉だった。
《あの先輩のグループ、他の部活の練習場所で勝手に遊んでるって評判悪いんだって。あと、気に入らない下級生を部活でハブったりとか。私のクラスの子が言ってた。もともと美怜ちゃんが先輩と知り合ったのも、なぜかバド部のコートに先輩が来たからだし》
《マジか》
 それは新情報だ。そう言う話を聞くと、美怜さんとのデートで起きたことの意味がまるで違って見えてくる。
《そーいう話は私もつい最近知ったんだけど、ポシャって良かったって思う。美怜ちゃんにはもっと良い男の子いるよ》
 ハルカの言葉のトゲがやっと落ち着き、美怜ちゃんを持ち上げる。
《そうだな、良かった》
 俺は適当に相槌をうつ。それ以外に答えようがなかった。内心の動揺を悟られないように、ハルカと唇を合わせ続ける。
(年頃の女だな……)
 いつもとは全く違う意味で、ハルカの成長を感じる。いや、ハルカの聞いた話が本当なら、ハルカの批判はもっともだ。だが、先輩に向けたヘイトの威力は、すっかり一人前の女のそれだった。先輩に今夜向けられたトゲが、俺に向く日がないことを祈りたい――と思いながら、俺は眠気が訪れるのを待つことにした。

 船上は夜が明けても快晴のままだった。
「うわぁ……」
 思わず上がったのは、俺の声。
 軽い朝食を取るためにラウンジに出てきた俺達は、海の色に目を奪われていた。

 海が深い青に染まっている。
 湾の中、あるいは湾の外に出てからの色とも、明らかに違う。
 それは確かに「海の青」と言える、奥行きのある色だった。

 ――「ボニンブルー」と言ったか。

 それは昨日のレクチャーで聞いた言葉だ。「ボニン」というのは、これから行く諸島を含む群島の固有英名だそうな。

 軽食を買って端の甲板に出ると、昨日一日ですっかり慣れた潮の香りに襲われた。
「南に来たって感じするねー」
「だな」
 目の前に手をかざしながら答える。日差しが明らかに強い。
「何だアレ」
「え? あ、鳥が飛んでる」
 見ると、黒で縁取られた白い羽根を広げた鳥――後の案内で知ったが、「カツオドリ」というそうだ――が何羽も、船体に沿うようにして滑空していた。大きなツバメのように見えるそれらは、まるで俺達を歓迎しているようにも思える。

「もうすぐだな」
「うん」
 まだ島は見えない。しかし、二十四時間の長旅といえど、夜を越えた俺達にとって、目的地は、もう遠くないもののように思えていた。

(筆者注)作中では描写されていませんが、甲板に出れば三大キャリアの電波は八丈島を越える(午後八時くらい)まで概ね通じます。ご参考までに。

< つづく >

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