Dollhouse of ARISEA 第二話

第二話

「……部屋に入った時は、気付かなかったけど」

 夜伽が部屋を出て、しばらく。
 僕自身も、少しばかり動揺していたらしい心を落ち着け、改めて部屋の中を見渡すと。

「ベッドが、……一つしかないじゃないか」

 それも、ダブルベッド。
 ……まあ、僕らも、それなりに兄妹仲良くやってるつもりだけれども。

「でも、だからと言って……、一応、社会で習った倫理観ってもんがあるよね」

 どうだろう。
 今の僕は、このみを自分の隣で寝かせることは出来ないのだろうか。
 それもまた、おかしな話だ。このみと同じ布団の中で寝るというその行為自体は別に悪ではないし、僕は、確かに絶対と言う言葉はあまり好きではないが、それでもこのみなんかには絶対にそういった手出しはしないという自信がある。それはモラル的な問題と言うよりも、単なる僕の自尊心、プライドの問題だ。
 あいつは、何かが、違う。まず、匂いが僕の好みに合わない。なんかカステラっぽいにおいがする。僕がそう思うのは血の繋がった兄だからだろうか、とにかく、おそらく多くの兄が妹に抱く観念と同じように、僕はこのみを“女の子”として見ることができない。どころか、僕はまだこのみを一人の人間としてすら見ることができていないのかもしれない。ただ一つの、世話のかかる保護動物程度の存在。あいつが、嫌いなわけではない。むしろ、好きだ。声を大にして宣言できるほどに、大好きだ。……けれど、それが、このみ自身の人間性に依存する好悪の感情かと問われれば、僕は、少し悩んでノーと答えるだろう。
 この部屋は、先代、先々代のドールマスターの部屋でもある、と、夜伽は言った。と、いうことは、先代、先々代のドールマスターは、この部屋をそうした用途にも使っていた、ということなのだろう。悪趣味だ。僕が青いだけだろうか?いずれにせよ今の僕には、相容れない、観念。

「あるいは……、この館では、それが、常識としてありえるのか」

 …………。

 僕を抱きしめる夜伽の腕の強さが、首元に蘇る。

「……僕も、探検に行こうかな」

 待っていてもこのみはしばらく帰ってこないだろうし。

 ――――もっと、この屋敷のことが知りたい。

 少し煤けた金色のツレーンノブは、回すと、キィ、と、小気味よい軋み音を立てた。
 ドールハウスは三階建てで、その一階に位置するマスターズルームから一歩足を踏み出したとき、その人の眼に映るのはまず一面の赤絨毯。紅、と言った方がいいだろうか。外装の屋根のファンシーな赤色とは正反対に、内装は、この絨毯を始め、本当に中世の、ともすれば廃館すらもイメージさせるシックな彩りに包まれていた。
 踏みしめてみると、既によく踏み慣らされたらしい心地良い弾力が靴裏に返ってきた。総じて、嫌いな内装ではない。少なくとも外装よりはよっぽど、僕はこの落ち着いた暗みが好きだ。後ろ手にドアを閉めながら、目を瞑り、深く息を吸う。美術館のような匂い。自然の薫りではない、自然の薫りではないが、僕は、この、人工の物が自然に朽ちて醸し出す薫りが……、

「ちょっと、アナタ」
「……え?」
「何、レディの前で馬鹿みたいな顔して深呼吸してるの」

 不意の声に驚き、目を開く。
 僕の、真正面。いや、正面と言うと語弊があるか。方向的には確かに僕の真前、しかし、高さは僕の腰ほどの位置に、その釣り目がちな少女の顔があった。
 いつの間に。僕が目を閉じる前は、誰もそこにはいなかったはず。と、言うことは、この少女は、僕が目を閉じているその一瞬の間に僕に忍び寄り、そしてこの正面に立ち構えた、ということか。……おそらくこの娘もこのドールハウスの住人、なるほど、見かけは年端もいかない、それこそ僕の歳の半分にも満たない少女のように見えるが、なかなか侮れない。

「……全く、新しいドールマスターが来たって聞いたから顔を見に来て上げたっていうのに、初対面の人間の前で挨拶もせずに大欠伸なんて、礼節というものがなってないわね」
「あ、ああ……、ごめん。目を開けたら急に現れたもんだから、流石に動転しちゃってね。……君、名前は?」
「…………ストップ。無理に会話の主導権を握ろうとしないで。アタシとお友達になりたいなら、まず自分から名乗りなさい。
 ……それと、もう一つ。“目を開けたら急に現れた”、って……、何を言っているの?アタシは、アナタが部屋を出る前から、ずっとここにいたわ」
「え」
「……何。ボルボックスを見るような目で見ないで」

 ボルボックスて。何だっけ。ああ、プランクトンか。……どんな目だよ。
 しかし、目の前にずっと居た、とな。……確かに、意識はどちらかといえば遠く、環境の美徳に浸る心持ちでいたが、しかし、だからと言って自分の真ん前の人間の存在に気付かないほどでは……。

「……背が低すぎて気付けなかったのかな」
「何ですって?」
「何でもないです。自己解決しました」

 とにかく、別に彼女が特殊な技能を持っていたわけではないらしい。特殊なのは年齢不相応な口の利き方だけか。僕は、中腰になり、改めてその少女の顔をじっと見詰める。
 まず目に入るのは、その輝くブロンドウェーブ。一概に金色というよりは、どちらかというと蜂蜜色に近いか。やや、温もりを持った、質感のある本当のなめらかな黄金色。ふぁさ、という擬音が相応しそうなそれは、朱のカチューシャで上げられ、その下のやや桃色みを帯びたおでこに美しく映える。瞳は釣り目がちながらもぱっちりと大きい碧眼が可愛らしく、姫ロリ系と言うのだろうか、彼女が纏う淡いピンク色のシルクドレスもまた、彼女の醸し出す雰囲気にマッチし、その愛らしさを増徴させる。
 ハーフか、あるいは純血か。何であれ、とても流暢に日本語を操る。……おそらくは、とても賢い子なんだろう。見た目に相応ぬ高圧的な口調は、それが故の産物であるのかもしれない。反抗期、に、近いものだろうか。時期的には早すぎるが、知性の高い子供にはありがちなことだ。そして、賢い子供の世界への反抗は、僕は、嫌いでは、ない。

「……臆面なく目を合わせないで。アナタ、本当に日本人?」
「……悪いね。癖なんだ。駆楽 秋色、正真正銘、生粋の日本人だよ」
「ふぅん……、まあ、見るからに優柔不断そうな顔してるものね。アタシはアリカ、Nice to meet you」
「Nice to meet you,too」

 彼女の小さな手の平が、握手を求めて差し伸べられる。
 口は悪いが、物事の道義自体は心得ているらしい。僕は、心からの笑顔でそれを握り返す。

「アナタ、発音は悪くないわね。留学でもしたの?」
「まさか。見よう見まねだよ。そういや、学生時代も発音だけは褒められたことがあったかな」
「へぇ……、意外ね。すごく鈍臭そうに見えるのに」
「鈍臭さとは関係ないだろ」
「褒めてあげてるのよ。余計なところに反応しないで」

 アリカの目尻が、一瞬だけ、きっ、と、上がる。
 褒められていたのか。気付かなかった。ああ、発音のことか?でも、明らかにその後の侮辱の方が言葉として重みがあったぞ。
 色々と理不尽な所はあるが、だからと言ってそれで彼女と喧嘩をする気にはなれない。何といっても、相手は子供だ。僕の方が、一歩譲ってやる必要がある。それは、大人にとって、ほとんど義務に近いものだ。

「……、まあいいわ。元々、少し顔を見ておいてあげようと思っていただけだから。お喋りが過ぎたわね」
「いや、そんなことないよ。楽しい談話だった」
「…………気持ち悪いこと言わないで。全部、ただの社交辞令よ。それだけ。
 ……それじゃ、さようなら。このドールハウスにいる限りは、またすぐに会うことになるでしょうけれど」
「あ、ちょっと待って」

 吐き捨てるように言い残し、足早に去ろうとするアリカを、僕は辛くも呼び止める。
 足を止め、あからさまに不機嫌そうな顔で、彼女は振り返る。相手は子供だとわかっているのに、少しだけどきりとしてしまう自分が情けない。

「……何?」
「いや、ごめん。一つだけ質問してもいいかな?」
「…………別に、構わないわ」
「なら……、君が、このドールハウスで、最も“変わっている”と思う住人は、誰?」
「最も、変わっている……?」
「うん。ちょっと失礼な言い方だけど。“個性的”って言った方がいいかな。とにかく、君の主観で、最もユニークな人」
「簡単だわ」

「――――灰塚 刹那(はいづか せつな)」

 曰く。
 「灰塚 刹那に会いたいのなら、朝昼夕夜、いつでも構わない、書斎に行きなさい」。

「…………書斎、か……」

 これまで、僕の人生において一度たりともお世話になったことのない空間ではあるが、流石に、それがどういった場所かということぐらいは理解が及ぶ。要するに、そこは、濃度の高い図書館だ。その主の需要にあわせた本だけが、ただしその分密に並べられた空間。活字嫌いの僕にとっては、本当に怖ろしい世界だ。大体、本を読んで時間を過ごすという感覚が僕には理解できない。本を読んでいると、何か、言い知れぬ不安感に煽られるのは僕だけだろうか。
 アリカに教わった通りに屋敷の中を探れば、その部屋を見つけることは難くなかった。先代のドールマスター達は、読書家だったのだろうか。書斎は、一階のマスターズルームの付近、別館に通じる渡り廊下寄りに位置していた。ドアの隙間からは、なるほど、淡い橙色の灯りが漏れている。アリカに聞いた話だと、この書斎は中の階段で二階にも直接通じているらしく、相応な頻度で利用されることを想定して建造されたらしいことも見当がつく(とはいえ、今はもうほとんど灰塚の私室と化してしまっているらしいが)。

 軽く、扉をノックする。返事はない。アリカに、彼女が口数の少ないタイプの娘であるとは聞いていたので、気にせずノブを下ろす。
 “この屋敷で最も個性的な人間は誰か”。それは、そもそもは夜伽に聞くつもりの事項であった。元より、このドールハウスの常識が、このドールハウスの住人がちょっとズレているということは知っている。だとしても、仮に夜伽を標準とした場合に、彼女よりは僕らの世間の倫理に近い人や、あるいは彼女よりも遥かにぶっ飛んだ個性を持った人など、そこには住人達の間にもそれなりの個人差があるはずだ。ならば、まずは、その最上限。つまり、僕らから見て最も遠く離れた哲学を持つ人間を知っておく必要がある。その最上限を知ることで、その他の住人達との触れ合い方も、自然に心構えが出来てくるはずだった。
 ちなみに、今のところ、予定外の遭遇者だったアリカが、僕の中では現時点では最も異端性が高い。と、いうか、夜伽が比較的マトモすぎるのか。あの程度なら、現実社会でも割と単なるちょっとイタい人としても通用しそうだもんな。対して、アリカほど上手く口の利ける子供は見たことがない。
 使い込まれているせいか、書斎のドアはあまり軋みをあげなかった。少し気張りながら、ゆっくりと右足、左足を部屋の中に差し入れる。書斎の中は、思った以上に明るかった。屋敷自体の広間同様、二階の吹き抜けに吊るされる小さいランプ型のシャンデリアと、棚と棚の隙間に等間隔で設置された燭台を模した電灯のおかげらしい。部屋一面を囲むように本棚が並び、更に部屋の中央に一つ置かれた一際大きいそれが、書斎自体を前と奥に切り分けていて、それが同時に、外から奥への視線を遮るブラインドとしての役割を果たしているらしいことにも気付いた。そして、彼女、灰塚 刹那は書斎の奥、僕の目前に立ち塞がる巨大な本棚の向こうにいる。息遣いが感じられた。無意識に、足音を立てないよう、忍び足で進むと、案の定、そこには、その本棚を背にするように小さな木椅子に腰掛け本を読む、銀髪(……銀髪?)の少女の姿があった。

「…………やあ」
「……」
「初めまして。……読書中に、ごめん。」
「…………誰?」
「聞いてないかな。新しく来たドールマスターの駆楽っていうんだけど」
「……ドールマスター…………そう」

 彼女はぱたん、と、深草色のハードカバーを閉じ、それを膝の上に置く。白く、細い腕。まるで雪の中に浸っていたかのように色を失った手の平を、彼女は膝の上に重ねる。いや、肌の色だけではない。本能的な違和感から、あえて目を避けていたが、彼女のその髪色。……こんな、髪の毛の色は、生まれて初めて見た。銀髪。そう、銀髪。まるで、その一紗一紗から色という色が抜け落ちてしまったかのような、それでいて、年老いたような、朽ち果てたような印象は与えない、艶やかな光沢がそこにはある。そよぐようなボブショート。生きている、いまだはっきりと生命活動を続けている毛髪が、どうすればこんな色を出せるのだろうか。
 年齢は僕より少し下、17、8歳ほどだろうか。身に纏うグレーのタイトシャツは、格別におしゃれとは言いがたいがしかしだからこそ少女としての可愛らしさも引き立たされる。落ち着いた、理知的な顔つき。このみと比べると、見た目だけでも既に脳細胞の数が二十億個ほど違いそうに見える。それでいて、その表情から人間味に欠けた冷たい印象は受けず……、正直言って、年下の女の子としては、かなり好みなタイプの顔つきだった。

「灰塚 刹那ちゃん、だよね」
「……ええ」
「とりあえず、これからよろしく」
「…………」

 顔には精一杯の笑みをたたえ、右手を差し伸べると、刹那ちゃんは無言で握り返してくれた。
 優しく握り締めたそれからは、やはり人肌の温もりが感じられる。どころか、普通の人よりも少しあたたかいぐらいだ。内気な子なのだろうと思っていたが、その顔を見詰めると、意外にも彼女の方からもじっと目を見詰め返してくれる。ただ、ひたすらに無垢に。恥じらいから目を逸らそうとは、しなかった。
 少なくとも、彼女にとっての僕の第一印象はそんなに悪くなかったらしい。それならば、と、思い切って、会話を弾ませるためにも、会った時から気になっていたことを尋ねてみた。

「本……、好きなんだね。すごい分厚い本、結構腕の力もつくんじゃない?」
「…………」
「ちょっと、見せてもらっても構わないかな。恥ずかしながら、活字とは全く縁が無くってさ。こういうハードカバーの本に、どういうことが書かれてるのか気になるんだよ」
「…………どうぞ」

 静かに、彼女はそのずしりと存在感のある書籍を僕に差し渡す。
 タイトルは……、うわ、英語じゃないか。何だこれ、喧嘩売ってるのか。発音すら全然わからん。深草のカバーをアブラナのように彩る金糸で編みこまれたタイトルは、その全てが、見たこともない、名詞か形容詞かすらも判らない未知の単語ばかりで構成され…………、……?
 いや。
 その中に一つ、たった一つだけ。
 僕の、記憶違いかもしれない。けれど、もし、僕の人道を外れた記憶が、確かならば。そこに、たった一つだけ、僕にも見覚えのある単語が記載されていた。

 【ZOOPHILIA】。

 獣畜愛好者。

「………………っと」

 しまった、五秒ほど思考がフリーズしていた。
 本越しにちらりと彼女を見ると、そこにはいまだ変わらずじっと僕を見つめる彼女の瞳があり、がちりと視線がぶつかってしまう。慌てて、僕はそれを避け、ごまかすように表紙を開く。本の中も全て、目が痛くなるようなアルファベットばかりで構成されていたが、僕は、パラ、パラ、とページを捲っていく内に、枠に囲まれた一つの挿し絵を発見する。
 それは一見、獣医学書にも見られそうな、仰向けになった犬のイラスト。しかし、その犬の絵において強調されるのは、内部臓器などではなく、あからさまな外部性器。……僕は、ゆっくりと本を閉じた。

「…………えっと……」
「…………」
「………………」

 言うべき言葉が、見当たらない。動揺しているのか、僕は?……そうだ、動揺している。こんなシチュエーション、生まれて初めてだ。本当に軽い好奇心で尋ねたこと、それが、ここまでも重大に僕の倫理観に鉄槌を喰らわすことになるとは、思いも寄らなかった。
 けれど、どう考えても全て僕が蒔いた種。そんな勝手な道徳観念で、彼女を傷つけることはできない。僕は、今、自然な笑顔を彼女に向けることができているのだろうか。こんな時は、どう言ってあげればいいのだろう。それが、彼女の倫理において正当であるのなら、あくまで平静を装い話を合わせるべきか。しかし、そんな虚構を掲げるのが正当であるとは、僕には到底思えない。それならば、僕は…………。
 悩めば悩むほど、答えは出てこない。そんな僕の澱んだ心情を、彼女の深い瞳は見抜きさってしまったのだろうか。刹那ちゃんの固く結ばれた口元が、ゆっくりとほどかれる。

「…………ドールマスター」
「………………?」
「…………愛とは、…………何?」
「…………」

 まるで産みの親に尋ねるかのように、無垢に、ただひたすらに無垢に、僕に途方もない難題を問うた。
 彼女にとって、切に生きる彼女にとって、それは真実的に疑問だったのだろう。そしてその疑問は偶然にも、そしてまた不遇にも、僕自身もまた今最も切に抱えている疑問のうちの一つだった。
 愛とは、何か。それは、先生が、何度も、何度も僕に教えてくれたこと。そして同時に、僕が、何度言われても理解できなかったこと。それはおそらく先生の教え方の問題ではなく、単に僕に哲学的な感性が欠けていたからなのだろう。僕は、未だその答えを知り得ていない。しかし同時に、僕は、人に教わったことをそのまま鵜呑みに出来るほど愚鈍ではなく、それを自分の答えのように人に言いふらすほど無恥にもなれなかった。

「……僕はまだ、それを見つけていない」
「………………」
「けど、きっと……、これから未来、もし見つけることが出来たとしても、それを誰かに教えることはできないと思う。…………それは、幸福論と同じことだと思うから」
「…………そう」

 僕の逃げ口上を、刹那ちゃんはどう受け止めたのだろうか。彼女が静かに伸ばした右腕に、僕は預かったままだったその異端書物を差し返す。彼女はそれを自らの膝の上に置き、初めて会ったときと同じようにその上に手の平を重ね、またじっと僕の目を見詰める。
 ……そろそろ、潮時だろうか。彼女も、もうそろそろ自分の時間に戻りたいだろう。……それに、何より、僕自身に、この無垢な視線に晒され続けて正気でいられる自信が無かった。何も疚しいことはないのだが、しかしどうしてか感じる後ろめたさ。…………なるほど、あらゆる意味で、この少女は“個性的”だった。

「……それじゃ、そろそろ、僕は自室に戻るよ。読書、邪魔して悪かったね」
「………………マスター」
「うん?」
「また、…………来て」
「…………あ、ああ、うん」

 若干、不意打ちだった。
 僕は、胸の中に、何ともいえないやわらかい綿菓子のようなものを抱えながら、書斎を後にする。

 刹那ちゃんにはああ言ったものの、正直なところまだ部屋に戻る気にはなれなかった。
 経験上、おそらくまだこのみは部屋には戻っていまい。このみがいなければ部屋に戻る意味もない、というわけでもないのだが、しかしだからと言って初日のこの限られた時間を、自室でいたずらに過ごす理由もないだろう。
 このドールハウス、住居者は一体どの程度いるのだろう?ここでの特別な生活風習は?正直、夜伽に聞きそびれたことが多すぎる。ここは一度、闇雲に住人たち一人一人に会いに行くよりも、夜伽ともう一度話をしたほうが…………、

「!?」

 そんな物思いに耽りながら、廊下の角を曲がろうとしたその時。
 視界の中に突然、駆ける僕の腰ほどの小さな影が現れ、それはそのままの運動エネルギーで僕に直撃する。なかなかの衝撃、だが、ぐっとこらえ、なるべくに相手のダメージが少ないよう、抱きとめる。さらさらとした心地いい毛髪の手触り。大体、予想はしていたが、改めて確認すれば、視界に映るのは蜂蜜色。僕の腕の中に、アリカが居た。

「…………っと、大丈……」
「触らないで」

 とん、と、しかし結構な勢いをつけ、彼女の両腕が僕の腹を押す。流石に、懐から与えられるその衝撃までをも殺しきることはできず、僕は、一、二歩後ずさった。
 ……酷い扱いだ。そりゃあ誰だって人に必要以上に身体を触れられることはあまり好きではないだろうが、しかし、だからと言って、僕がこうして抱きとめていなければ、彼女は小さな少女の身体、反作用で後ろに倒れてしまっていただろうに。そして彼女自身、それが判らないほどに愚鈍でもあるまい。……僕は、胸の内に、彼女に対する少しの苛立ちを覚える。

「アタシが急いでいるのが、判らない?道を開けて」
「……おい、自分からぶつかっといてその態度はないだろ。僕が受け止めなかったら、お前今頃……」
「そんなことはどうでもいいの。男なら、早くアタシに道を譲りなさい」

 あくまでつんとした態度を続けるアリカの頬が、少し、赤い。廊下を走ってきたせいだろうか、心なしか、息も少し荒い気がする。
 しかし、冷静に考えてみれば、このお嬢を絵に描いたような少女が息を切らしてまで廊下を走る理由……、それは何なのだろう。何か、急ぎの用でもあるのだろうか。いや、こいつの唯我独尊主義なら、たとえ人を待たせていたとしても自ら急ごうとはしまい。と、なると、もっと強制力を持った急ぎの理由…………、あ。

「ひょっとして、トイレ?」
「! ……何を、言っているの」
「ああ、やっぱり。だから、そんなに急いでたのか」
「いいから、早く道を開けなさい!」

 アリカの顔は更に朱色に染まり、そこで初めて声を荒げる。
 間違いないようだ。途端、何とはなしに、意地悪い気分が僕の中に押し寄せる。
 普段なら、きっと。こんなことはしなかっただろう。きっと、僕は素直に彼女に道を譲り、夜伽を探すことに専念しただろう。
 けれど、その時の僕は……、少し、違っていた。子供相手に、大人気なかったとは思う。だが、その時……、僕の中には、確固とした“悪意”があった。

「謝りなよ」
「……何ですって?」
「どんな急ぎの用だか知らないけど、人様に自分からぶつかったんだろ。
 なら、勿論、自分から謝るのが、人としてのモラル、社会の“ルール”ってもんだ。それができないのは、ただの“子供”。そうだろ?」
「…………ふざけ……」
「ふざけてなんかない。少なくとも僕は、君が、一言でも謝らない限り、この道を開けるつもりはない。
 どうせ、トイレなんだろう?つまらない意地を張るより、謝っておいたほうがいいと思うけど。そんなに我慢強い方じゃないだろ。このまま、漏らしちゃっても知らないぜ」
「………………!」

 “漏らす”というワードに反応したか、アリカはぶるりと身体を震わせ、その耳の先までを真っ赤に染める。
 効いているようだ。懲罰の意味でも、子供にはこの程度恥を知らしめておいた方がいい。まして、学校といったような真っ当な社会環境に出ていない子供なら、そこに倫理を吹き込むのは、身近な大人の役目だ。先代のドールマスターたちがどうだったかは知らないが、少なくとも僕は僕のやり方で、この子の教育という義務を果たしていくべきだと思う。
 アリカは、葛藤していた。高すぎる自尊心。彼女のそれが何に由来しているのかは知らないが、しかしそうまでして守るべきものなのだろうか。彼女は、いつもよりもしおらしく内股になり、少しずつ俯き始める。ようやく、謝罪を示す勇気が出たか、と、思い、一歩、近づいた、その時。

 どん、と。
 アリカは、その渾身の力で、その小さな両手を僕に向かって、突き出した。

「…………!」

 完全に、不意のこと。
 僕は、慌てて、その両腕を自らの両手で受け止めようと、する、が。
 ……間に合わない。彼女の両手は、僕の両手と、単純な力のベクトルとしてぶつかりあい、その反作用の力が、アリカの華奢な身体に襲い掛かる。
 まるで、押し相撲のように、アリカの身体は力に押され。彼女は、そのまま、紅の絨毯の上に、どん、と、尻餅をつく。

 「あっ」、と。
 アリカの口から、小さな吐息が漏れ出た。

 ……これはまずい。不慮の事故とはいえ、女の子、それも、本当に年端もいかない少女を突き飛ばす、など。
 僕は、無意識の罪悪感にさいなまれ、咄嗟に彼女に向かってその手を差し伸べる。

「おい、大丈夫………………」

 その、時に。

 ――――じょ。

「………………?」

 何かの、音。
 何の音か、わからなかった。
 わからないけれど、いつか、聞き覚えのある音。表現しづらい、しかしはっきりとわかる、“水音”。

 ――――じょじょじょじょじょ。

 そうだ。
 思い出した。
 それは、言うならば――、濡れタオル。このみが風邪を引いたときに、タオルに蛇口の水を当てた、その、“布に水がぶつかる音”。

「………………!!」

 気がついた時には、もう。
 アリカが尻餅をついた、真紅のカーペット。そこに出来た黒い染みは、徐々に面積を増していく。
 僕の意識が、そこに奪われる。アリカは、ぱくぱくと、魚のように口を動かし悲鳴のような吐息を漏らす中、少しして、ようやくに、意味を持った言葉を声にする。

「…………嫌ぁ………………」
「……アリカ…………」
「…………ぁ……やぁ…………なんで………………」

 床に手を付き、ほとんど放心状態で何事かを呟くアリカに、しかし彼女自身の利尿器官は未だ容赦なくじょろじょろと排泄を続ける。彼女の秘所は、下着と更にそのロングドレスが覆い、互いにとって幸いにも、その惨状を誰も直接に目の当たりにすることはなかった。
 アリカに、普段の強気は微塵も残っていなかった。目にはいっぱいに涙をたたえ、何を堪えようとしているのか、精一杯にその下唇を噛み締める。「嫌」、「違う」、「どうして」……、そんな言葉が、断片的に聞こえてくる。やはり、相当に溜まっていたのか、なおも続く排泄行為は、じょ、じょ、と、彼女の可愛らしいドレスをも浸し…………、やがて、ようやく、止まった。

「…………嫌…………違う…………違うのぉ…………、…………アタシは、こんな………………」
「………………アリカ」
「……アタシじゃ、アタシじゃ、ない…………、こんなの、アタシじゃないのに、どうしてぇ………………」

 ……そうだ。これは、アリカのせいじゃない。どう考えても、僕が彼女を突き飛ばしたことが原因だ。
 本当に、何をしているんだ。こんな、小さな女の子を泣かせて。僕は、何がしたかったんだ。……いや、自己嫌悪はいい。それより、問題は。……これから、どうする?後始末をしないわけにはいかない。これ以上アリカに負担をかけず、僕が、責任を持って全てを片付ける義務がある。
 けれど……、床のことはともかく、アリカ自身のことは、どうする。それは、女の子の身体の……、それも、特に、デリケートな部分の話だ。僕が、どうこうするわけにはいかない。……いや、ひょっとして、そうではないのか?これほどまでに幼い少女を女の子として扱うのが、そもそもの間違いなのか?僕は、大人として、彼女の粗相の処理を全て請け負うという義務が…………、

「………………ご主人様?」

 不意に後ろから声を掛けられ、一瞬、心臓が飛び出るほどにどきりとしたが。
 振り返り、そこにいた夜伽の姿を見て、僕は、正直心底に安堵した。

「どうか、なさいましたか?…………あら?アリカちゃん?」
「……夜伽!……ちょうど、いい所に来てくれた」
「は、はい?」
「夜伽。僕は、本当に、臆病者で、自分勝手な人間だと自覚してる。……でも、お願いだ。一つだけ、用事を頼まれてくれないか」
「え、え……?え、ええ、勿論、喜んでお受けしますけれど…………」
「アリカちゃんが、お漏らし、を、しちゃった、と、言うか、僕が、させちゃった、ような、感じなんだけど…………、彼女の、その、それを、拭いてやってくれ。床の始末は、勿論、僕がするから」
「え?あ、はい。畏まりました、お安い御用ですけれど……。お言葉ですが、床のお掃除も、私に任せて頂いても……」
「いや、床の始末は、僕がする。これは、僕の仕事だ」
「ですが…………」
「頼む、夜伽。この通り、後生だよ」

 やはり、メイドとしての義務感というものがあるのか食い下がる夜伽に、僕は手を合わせ、深く頭を下げる。
 こんなことで言い争っている暇はない。一刻も早く、アリカを不快な状態から脱させてあげたかった。僕のそんな様子を見て、夜伽は慌てて繕うように小手を振った。

「い、いえ!そんな、お顔を上げてくださいませ!ああ、ご主人様に、そのような体裁を取らせてしまうなんて、私は何て不届きな……!」
「……ごめん。アリカちゃんのことだけ、よろしく頼むよ。…………ああ、そうだ、終わったら、またここに戻ってきてほしい。話したいことがあるんだ」
「は、はいっ!喜んで!」

 居酒屋返事は根っからのものらしい。あるいはどこかで間違えて覚えてしまったのか。ともあれ、今はそんなことはどうでもよかった。
 夜伽は、未だ泣きじゃくるアリカに優しく声をかけ、その腕を引くが、彼女は立ち上がらない。立ち上がれないと言った方が、正確か。彼女は、アリカの髪を緩やかに撫で、小さく「大丈夫」と囁いた後、その小さな身体を抱き上げる。それは、普段の彼女からは想像もつかないほど落ち着いた動作で、ゆるりとそのメイドは立ち上がる。僕に深く一礼し、穏やかに、それでいて足早に、彼女はいずくかの部屋に歩き去った。

 廊下には、僕一人が残された。
 何とか、難を逃れた、といったところか。夜伽が居なければ、色々と倫理的に危ない橋を渡らなければならないところだった。
 僕の行為は逃避そのものだったが、しかし、それは合理的逃避だったと、自己として納得している。それなら、問題ない。現実的対処を優先したせいで、アリカに一言も謝ることが出来なかったことが心残りではあるが、それは、まあ、またいつか、改めてしっかりと話をしておくべきだろう。今回の件は、明らかに、僕の行為は大人として相応しいものではなかった。
 けれど……、子供の我慢の堤防というのは、あの程度で決壊してしまうものなのだろうか。少し尻餅をついたぐらいで、お漏らし?
 少なくとも、始めのうちは、アリカはしっかりと冷静さを保っていた。けれど、いつからだろう。……僕が、はっきりと“トイレ”というワードを口にしてからだろうか。彼女の様子が、おかしく、まさしく“子供”のようになりはじめたのは。彼女が急にもじもじと足を寄せ、俯き自分の内股を見ていたのも、あるいは――。

 その時の僕が感じていたのは、単なる“予感”だった。根拠のない、ただの、漠然とした“嫌な予感”。
 先生は、“相手の存在に真剣に心を集中させる”ことが、『水遣り』のコツだと言っていた。そして、僕自身もそれは、このみへの実験で実感していた。僕は、未だ、このドールハウスに来て一度も、その極意を実践していない。実践したつもりはない。まだ、時期として早すぎる、もう少し住人達みんなそれぞれと慣れてからでないと、実行したとしても失敗する、と思っていたのだ。
 この、アリカの一件が僕に与えたのは“違和感”だった。漠然と、しかしそれでいて確固とした、平常の範囲外での出来事。
 本当は、すぐにでも先生に連絡すべきだったのかもしれない。けれど、その時の僕はまだ一日目だからと、その違和感に対する対処を先延ばしにしていた。

 “まだ一日目”。
 なんて、実体のない言葉だろうか。
 一日という期間が、どれほど長いものか。その時の僕は、考慮していなかったのだ。

 現実として。
 そのドールハウスは、一日目から“異常”に満ち溢れていた。

< つづく >

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