グノーグレイヴ 第3話

第3話 ―名刺―

[0]
 自分では変えられないものがある。
 とても身近で、あまりに神聖な、名前という商品登録。自分は商品で社会に売買される存在だと認識しなくてはならない。
 価値を決めるのは自分ではなく社会であり、低賃金こそ自分の値段。自分はそれだけの存在でしかないと思い知らなければ生きていけない。
 隙あれば自分は買われてしまう。
 自分が自分でなくなってしまう恐怖を常に持ち続けて社会に出勤する。自身を高めなければ永遠に社会の奴隷として生きなければならないのだ。
 その証明こそ、紙に書き換えられた名刺という自己の分身なのだ。
 名刺こそ、社会と契約した証。自己を商品登録された刻印。
 私がそのことに気付いたのは、
「どうも、お久しぶりです」
 私を買った張本人が話しかける。
「……お願いします。解放してください」
 久しぶりに会った相手は前と変わらない笑みを浮かべる。ニヤニヤ顔の歪んだ表情。
「いきなり何を言うんですか?昔に比べれば十分解放してあげているじゃないですか?」
「……私みたいに今夜誰か呼ぶんでしょう?」
「はい。仕事ですから」
「あなたのやっていることは仕事じゃない!自己満足の趣味を押しつけているだけだわ。あなたの道楽に、誰かの時間が奪われる。それが我慢できないのよ!」
「仕方ありません。私は一人で生きている訳ではありません。一人よがりの行動や自分勝手な約束破りは邪魔なだけです。……あなたは自営業や才能に特化した職業に就くことをお勧めします。もっとも、それだけの才能があるとは私には思えませんが」
「心外だわ!貴方が言うことじゃない!!」
 ガチャンとカップが叩き下ろされる音に一度騒然となる。全員が何事かという表情で私を見る中で唯一、彼だけが冷ややかな視線を私に向けていた。
「まったく。いたみわけとして何故聞き入れないんです。女はこれだから面倒くさい」
 それでも彼は侮蔑から憐れみへと表情を変えた。
「でも、私は許しますよ。私は優しいですから」
 彼は指を鳴らす。すると店のドアがタイミングよく開き、店員の「いらっしゃいませ」という掛け声が聞こえた。コツッ、コツッとリズミカルに歩いてくるハイヒールの音。
 お店に飾られた造花で顔は見えないが、何故だろう、私は彼女を知っている気がした。
「あなたは私が誰かの時間を奪っているように言いますけど、私は誰の時間も奪っていません。私が愛しているのはあなただけですから」
 彼女が彼の後ろに立つ。私は驚愕した。
「紹介します。――――です」
 そこには『私』がいた。彼の後ろに秘書として佇む姿勢に私自身が驚愕した。
「あなたを呼ばなかったのは他でもありません。前のシゴトで壊れてしまったから休ませてあげただけです。ここまで元気になったのでしたら、そろそろ元に戻して差し上げましょう」
 彼が私の名刺を見せる。それに書かれた私の名前に目を奪われる。目だけではない。心も引き付けられる。記憶が頭の中で再生される。
「やめて……」
「あなたの名前は――」
 人を操る必要はない、名前さえ頂けばその人を従えたと同じ。
 ブツッと糸の切れたように私の視界はブラックアウトした。何も考えられない、何も感じない。ここにいるのは薄くて軽い、紙の身体。
 私は、悪魔に心を奪われたのだ。

[プロローグ]
 協力とは操り。繋がりとは保留、絆とは偽善、真実とは嘘。
 笑みの裏には歪があり、本物なんかありはしない。
 人間とは奴隷。名前とは番号。現在とは過去と未来の妄想。
 何時でも取り出せる非常携帯。
 回って堕ちるカプセルモンスター。
 現代に生きる召喚術師。
 ゲーム、アニメ、マンガで見た夢と希望に満ちた世界は、
 極めて近く、限りなく遠くて気付かない。

 社会に立ち向かった時、二次元より素晴らしい世界が広がっている。
 私がいる場所。最果ての理想郷。その名は――――――――

[1]
 大学を出れば就職し、結婚して幸せな家庭を築く。そんな当り前の生活をするものだと思っていた。しかし、蓋を開ければそんな理想は遥か高みだと言うことを思い知らされる。何もしてこない人生に魅力はなく、行く企業先々で断られた。親の七光でさえ不況の前に霞んでしまう。八方ふさがりの状態だ。
 例えば駅前、俺が通り過ぎる度に笑顔で保険の勧誘をすすめてきた女性は、俺の思う当り前の生活をしているのだろうか。土日休み、定時帰宅、有給休暇……ブラックではない会社がどれだけ残っているのだろうか。彼女の名刺を見ながらそう思う。
 俺の考えは馬鹿げている。一言でいえば夢見すぎ。
 現実離れしているのなら、いっそ現実から遠ざかった方がいい。関わりをなくすこと。閉じ籠もればいいのだ。俺の世界は八畳1DKのアパートでいい。大学生活。何のためにあったと言われれば遊ぶためにあった。四年のブランクは既に致命傷。救う方法は、心をなくすことだけ。
 そんなこと、出来やしない。
 自尊心の塊となった俺は、俺の世界でのみ最強でいればいい。もし本当に仕事をしたくなったら、考え方もまともになるものだ。
 大学四年、春の話だった。

[2]
 ・・・
 ・・・・・・
 ・・・・・・・・・
 明くる日、俺は握出と歩いていた。何故このようなことになっているかというと、
「あなた、社会に出て働きたいですか?」
「はっ?」
 渋い声に不敵な笑い声を混ぜた独特の雰囲気を電話越しから受ける。握出からだった。そして突然こんな切り方から話が始まった。
 新入社員の待遇。しかも営業部長から声がかかるとは、俺はどんな逸材なんだと思いながらも、そんな美味しい話があるわけないと、理性が止めにかかる。就職難の御時世、きっと就職するためにまた十万の教材を買って下さいと請求されるに違いない。
「グノー商品、使い放題ですよ?」
「よろしくお願いします」
 理性よりも先に私欲が即答していた。
 握出は電話越しに笑っていた。

 スーツ姿を鏡に映す。世の中なにが起こるか分からないものだ。ビシッと引き締まった格好になれない間に玄関のベルが鳴る。ドアを開けると普段と何処も変わらない握出が立っていた。何カ月も着ているかのようなダボダボのズボンにシワだらけのワイシャツ。挙句の果てに黒いネクタイ。当初は気付かなかったが、よく見れば握出は小汚い。でも、今ではそれが彼のポテンシャルではなかろうか。そう思う。
「では行きますよ」
「職場ですか?」
「『ですか』?んふふ。私に敬語はいりません。ありのままの自分でいて下さい」
 上司からタメ語で話すことを許される。こんなに緩い上司がいるだろうか。会社選びとしても自由なのは魅力的だ。
「ああ。何処行くかですか?ハンティングですよ」
「はっ?」
「現場。つまり、訪問販売です」
 ええええ。営業なんかやったことはない。人付き合いも苦手な俺に営業をさせるのか。握出は人選を間違えたのではないか。営業なら俺じゃなくても良い。もっと話すことが得意な人にやらせた方が会社としても利益が出るのではないか。人に教える時間は会社にとって不利益だ。特に営業は教わるものじゃない。自分で学ぶものだ。自分の持つ特技、才能、知識、理解力。全てを統合して会社の商品を勧める。商品に関わる者全ての意志を一身に背負わなければ仕事は取れない。俺にそんな重役が務まるのだろうか。握出の後ろを歩きながら俺は不安でならなかった。
「安心してください」
「えっ?」
「人が魅了するのではありません。商品が魅了するのです。営業はグノー商品に任せればいいのです」
 意味のわからないことを握出は言う。それでは商品がまるで生きているみたいに聞こえる。
「物―しょうひん―に意思はないだろ。俺たちが紹介しなければ物の良さは分からない」
 突如、ぐわっっと握出が振り向いた。その表情は俺に今まで見せた事のない程の怒りを露わにしていた。
「者―にんげん―の意志などいらない。あなたはただ私の話を聞いてればいいのです」
 まるで悪鬼のような形相。俺は背筋が凍る。視線が俺の心臓を握りつぶす。胸が締め付けられるように苦しく息が出来ない。感じた事のない緊迫感。俺はただ、
「すみません」と謝ることしかできなかった。
 握出が怒ったのは初めてだ。上司という立場だ。やはり付き合い方を変えなければ俺は切り捨てられてしまう。俺はもう社会人だ。好き放題には出来ないのだ。
「そうでした。忘れておりました。千村くんの名刺を用意していたのです」
 もう一度振り返った時は先程みた表情から180°変わっていたことに拍子抜けした。パアッとさわやかな笑みで握出は名刺と名刺入れを取り出した。
 声には出さないが不気味である。……無論、名刺も。それはかつて広告に載っていた商品だ。
「グノー商品、『名刺』でございます」
 恐る恐る名刺を受け取る。五十枚はあろう自分の名前と会社名が入っている名刺を持ち、感銘を受ける。
「まさか名刺を持つとは思わなかった」
「なにを言っているんです?大人の嗜みですよ。名刺は自分を表します。大事に扱わないといけませんよ?」
 それもそうだ。俺は自分の名刺をさらに握出からもらった名刺入れにしまった。エムシー販売と刺繍が入った名刺入れ。
「そう言えばエムシー販売社って年収一千万稼いでるんだよな?」
「ええ。ここ三ヶ月で月収が昨年度の百倍になりました」
「は、はあああああ!!!?」
 ってことは、三か月で十億円の収入か!?今年はどこまで稼ぐつもりだよ。
「いやあ、千村くんと出会ったおかげですよ」
 絶対嘘だと言い切れる。俺と知り合ってなんのプラスがあるんだよ。
「ここまで収入があれば企業名が勝手に売ってくれます。当社は信頼を売っています。決して名前を出さないことを条件に見合った商品を約束しているのです。んっふっふ、こう見えて私もちょっと名の知れた人物になりました。グノー商品と言えば握出、握出といえばエムシー販売。エムシー販売と言えばグノー商品のトライアングルです」
 何が面白いのか分からないが、握出は上機嫌に歩く。
 確かに、グノー商品は使ってみた商品どれもが価値に見合い、それ以上の魅力も見せた。現実離れしていながらも、現実に起こった事実なら、眼の色を変えてでも手に入れたいと思うものだ。
 仮想現実ですらリアルマネーで何千万出してエクスカリ○ーを手に入れるのだ。グノー商品など安すぎるものだ。
 でも、そんな握出に思う。もう少し企業名を考えるべきだったんじゃないか……いくらなんでも『エムシー販売』はダサすぎないか?社長、支配人、部長クラスに持ちかけた方がいいのではないか。……俺のことも。
「さて、では何処に行きますか?せっかくですからあなたが幸せにしたい方なんてどうでしょう?」
 営業の心得、『まず「売る」という意識を捨てる。そして「お役にたちたい」精神でお客様と接する』である。まあ、そんなこと俺が知るはずもなく、
「幸せにしたい人……」
 俺は単純思考を巡らせた。
 
 一瞬浮かぶ元彼女の笑顔、
 しかし、それを懸命に振るう。
「――」
 思い出してはいけない。
 彼女は俺と関わらしてはいけない。
 俺はもう彼女を幸せには出来ないから。
 彼女の笑顔が霞んでいく。そして、

「あ」
 別の人物の顔を思い浮かべる。一人いた。俺が一人暮らしをしていた頃だ。駅前に行くと必ずいた。土日でも働いて、歩く人に保険を勧める美人営業者。
 名前は金井理恵。俺が名前を知っているのは、彼女の名刺を持っていたからだ。その数三十枚近く……持ちすぎたと思う。
 やはり最近は営業を女性にやらせた方が数字は取れると聞くが、彼女はまさにそれと言えるのではないだろうか。保険の勧誘なんて飽和状態だが、それでも彼女は数字を取っているのだから凄い。彼女は幸せになってほしいと思う。
 俺の表情を見ると早速握出は行動に移した。
「分かりました。では行ってみましょうか。何駅ですか?」
「……神岸町」
 町の名前を聞くと握出は固まった。行くと言ってもそれは一人暮らしをしていた時の話。県内ではあるが町内ではない。電車で二時間はかかる田舎道だ。当然往復で一日を費やしてしまう距離だ。しかし、握出は固まった表情を溶かし、
「そこにお客様がいるなら飛んでいきますよ」
 当り前のように握出は言う。そんなものだろうか。

[3]
「あ」
 いた。駅を降りてすぐだ。通り過ぎる人々に必死で声をかける女性。それが金井理恵だった。
「もしもの時では遅すぎます。健康の時から身体と相談して病気と付き合わなければいけないんです。医療保険、健康保険、癌ほけ――」
 どこの会社にもある謳い文句、宣伝広告を読み上げる。当然見ぬふりをする者は多い。それでも必死に勧誘をする。恥ずかしいとは思わないのだろうか?腰の曲がったお婆ちゃんにさえ無視をされ、落ち込んでいる暇はなく次のターゲットを探し続ける。
 仕事とは羞恥心と戦わなくてはいけないのだろうか。家にまで押し掛けてでもお金が欲しいのだろうか。自分を殺してまで幸せになりたいのだろうか。
 なら俺は不幸でもありのままの自分でいたい。だから俺は理恵さんに声をかける。
「金井さん」
「え?」
 久しぶりの再会でもスムーズに話を切り出すことができた。
「お久しぶりです。お元気でしたか?」
「え、ええ。ありがとう。君も元気だった?」
 笑いながらも所々で目を泳がす。雑談を交わしながらも所々しどろもどろになる。
 あれ……なんだろう、なにか違和感がある。
 後ろで見ていた握出がその正体に気付いた。
「あなた、本当に彼のこと覚えてます?」
 びくっと理恵さんは声を掛けられて肩を震わしたが、俺の上司だと察するとそれに答えた。
「え、ええ!もちろんよ?」
「そうでしたか。それは失礼しました」
 握出が頭を下げる。握出が頭を下げる図なんて珍しかった。
「あっ、ちなみに理恵さん。私のことも覚えてます?」
「え、ええと……もちろんよ。彼と訪問した時に彼の傍にいらっしゃいましたよね?」
 その答えに、俺の中の何かが音を立てて壊れた。
「そうですそうです!私が邪魔して早く帰るよう仕向けた日がありましたよね?失礼致しました」
「あっ、い、いいんですよ。気にしなくて。私もお忙しい時間御手間を取らせまして申し訳ありませんでした」
 二人は笑い合っているが、握出の笑いは別の笑いだ。
 俺にもわかる。
 理恵さんは嘘をついている。
 俺を連れ歩く握出と理恵さんが出会うのは当然初対面だ。それなのに握出の嘘に騙されて覚えているように言葉を並べているだけだ。
 ということは、理恵さんは俺のことも覚えていない。
 それがはっきりわかってしまった。
 俺は彼女からもらった名刺を見て知っていた。彼女は俺を知らない。
 俺の勘違いだった。
 俺は彼女を知った気になっていた。彼女に恋をしている。そんな妄言に騙されてしまった。
 俺の手によってこの女を――
「理恵さん。俺、就職が決まったんだ」
「え!?あっ、そうなんだ。……おめでとう。でもね、社会は君が思っている以上に厳しいわよ」
「そうですね。でも、社会に見捨てられるより断然いいです」
「そう。ふふっ、頑張ってね。辛くなったら私の所に来なさい。何時でも力になってあげる」
「ありがとうございます。これが名刺です」
 彼女が俺の名刺を受取る。初めて理恵さんは俺の名を知った。
「ありがとう。じゃ、私の名刺も」
「結構です。もう持ってますから」
「あ――」
「私は貰いますよ。そして、これが私の名刺で――」
 彼女はバツの悪そうな顔をしたがもう遅い。俺は理恵さんから放れる。
 ―俺の手によってこの女を、幸せにする。
 

[4]
 俺は決めた。彼女をモノにする。グノー商品によって彼女を幸せにする。俺と同じ幸せを共有したい。営業とはそういうもの。
 自分が売る商品は大変良いと自信があるから人に売れるのだ。
「いいですね。営業の心得を教えるのに彼女はうってつけかもしれません」
 握出も賛成する。
 一人暮らしをしていた1DKの部屋。開けていたが此処は元々家の貸しアパートだ。合鍵を使って入ることは可能だった。誰も使っていない元俺の部屋。そこに俺と握出はいた。
 強固な意志表示。この部屋には絶望と野望が残っていた。彼女と再会したのもなにかの縁。もう一度出会うことも可能に違いない。
「そんなことする必要ありませんよ。千村くんは何のために名刺をあげたんですか?名前の知らない赤の他人ではないのです。なあに、見ず知らずの家に尋ねる第一歩に比べたら恐れるに足りませんよ。彼女とはいつでも接触が出来るのです」
「どうするんだ?」
 握出が先程受け取った彼女の名刺を掲げる。名刺は怪しげな緑色に発光していた。
「グノー商品、名刺は渡った相手に発揮されます。相手の情報を名前に込めさせ、呼び寄せる」
 何もない空間が、握出が話す度に黄昏色に光りだす。
 それはまるで魔法陣。六紡星に描かれる召喚の扉。
「――出て来い、金井理恵」
 開かれた扉から、一時間前に出会ったままの姿で金井理恵が現れた。

[5]
 会議中だった。昼の営業が終わり、業績報告をしている時、私の懐が熱くなる。
「えっ?」
 胸が苦しい。足が誰かに捕まれたように重い。身体が熱い。高熱を出したかのように視界が急にせまくなる。状況が理解できない。
「金井理恵。現状をほうこく――」
 かないりえ……それが、私の名前。
 何が起こっているの?……誰か私の状況を知っているのなら、教えてほしい。私はどうなっているの?
(いいでしょう。教えて差し上げましょう)
 急に誰かが私の問いに答えた気がした。
(――出て来い、金井理恵)
 私を呼ぶ声が聞こえる。ドクンと心臓が高鳴った。

 次の瞬間、私の目の前には、課長ではなく、1DKの狭いアパートで茫然と私を見る少年とニヤニヤと笑みを浮かべる中年の二人が立っていた。

[6]
「え、ここは?」
 突如現れた金井理恵はキョトンとしていた。当然である。俺だってこの状況に唖然とするばかりだ。
 魔法陣?召喚符?
 そんなアニメみたいな話が現実に起こったのだから。
「金井さん」
 名前を呼ばれようやく金井理恵は振り向き、俺の顔を見て驚いていた。
「あなたはさっきの……?いうことは、ここ、あなたの家なの?」
 彼女は状況が分からないまま、俺を見るなり急に怒鳴りだした。
「どうするのよ?大事な会議の最中なのよ?どうやって連れてきたか分からないけど、課長から怒られるじゃない!」
 怒りがおさまらないのか、それともこの姿が普段の彼女なのか。俺はふいうちを喰らい、「す、すみません」と謝ってしまった。
「金井さん。あなたが安易に名刺を渡したんでしょう。貴方の意見なんて知ったことですか。お客様より自分が大事なんですか?お客様を待たせるんですか?」
「なによ、あなたは?」
 金井理恵が握出を睨みつける。握出が口笛を鳴らした。
「いいですねえ。その目。冷ややかながらも仕事にプライドを持つ大人の目です。でも、残念ながらそんな強気な態度がとれるのも今日限りです」
 握出が俺の肩に手を置いた。
「千村さん。謝ると言うことは過ちを認めると言うことです。貴方はなにもしてないじゃないですか。態度に負けてはいけません。自分の意志を明確に伝えるのです。どうしてあなたは彼女を呼んだのですか?」
 そう。俺が理恵さんを呼んだ理由。
 うろたえるな。立場は同等。何も恐れる事はない。
 俺が彼女を幸せにする。
 その野心を持ち続けろ。
「金井さん。俺と身を寄せ合いましょう」
 俺が告げると彼女は「はあっ?」と首を傾けた。握出は拍手喝采だった。
「いいですねえ。簡潔かつ簡略。分かりやすいですよ」
「いきなり何を言い出すの!?馬鹿じゃない?」
「お客様の要望ですよ?そんな態度があるか!!」
 握出が急に怒鳴り、金井理恵はビクッと肩を震わせた。次の瞬間、握出は金井に平手打ちを喰らわせた。
「きゃ!」と声を上げながら倒れる金井理恵。
「もう一度言います。お客様が貴方を頼って呼んだのです。貴方の意見はどうなんですか?」
 握出の声は普段通りではあるが、眼は笑っていなかった。いや、今朝見た悪鬼の眼差し。金井理恵にもそう見えたのだろう。
「……申し訳ありませんが、お客様の要望を聞くことはできません」
 口調を仕事モードに変えてしっかりと自分の意志を伝える。が、
「お客様に無理と答える営業がどこにいますか!!」
 再び握出から駄目だしの平手打ちを受ける。一分以内に二度の平手打ち。理恵は涙目になっていた。
「もう一度です」
 握出は無言を許さない促しを即す。理恵は必死に考えて適した答えを探していた。
「み、身を寄せるとは、その……どこまでのことでしょうか?」
 お客様の要望を詳しく聞き返す。俺は答える。
「そうだね。キスしたい」
「ほらっ。お客様が答えましたよ。これくらいなら如何です?」
 握出の提案に金井理恵も安堵の表情を見せていた。
「そうね。このくらいなら答えてあげてもいいかも」
「良かったですね、千村さん。要望を聞き入れましたよ」
 握出が自分のことのように肩に手をポンポンと叩いて喜びを共有する。握出は本当に表情豊かだ。
「では、甘いキスをしましょう、いやあああ!!!」
 ハイテンションになって場を和ませようとしているのか。握出の努力あってか、俺と理恵は顔を自然に近づけていき、そして唇に柔らかい感触が当たった――と、思ったらフッと下がった。
「はい。終わり」
 理恵さんが顔を引っ込めて、ぷはっと息を吐いた。プツンと何かが切れた音が聞こえた。
「ふ――」
「ふざけるなあ!!」
 俺より先に握出がぶちきれた。理恵さんを引っ叩き、転がった身体をさらに追って踏みつける。丸くなった身体にさらに二度三度蹴りを入れる。ドスッ、ドスッと胸元に入る音が聞こえる度に理恵さんは涙を流して苦しそうな声をあげていた。
「お客様より先に口を放す奴が何処にいる!?貴方は電話を切るときお客様より先に電話を切るんですか?お客様と出会っても先に帰るのですか?それでは失格です」
 悪魔の如き態度。握出が落ち着いても理恵さんはしばらく動けなくなっていた。
「お客様より後に。しかも跡を濁さないようにです。もう一度です」
 むせ込みながらもようやく理恵さんは身体を起こす。そして、傍観していた俺に顔を近づける。そうしなければ再び恐怖が襲いかかるからだ。唇が触れ合う。今度はしっかりと温かさと潤いを感じる事が出来る、愛のないキスだ。
(仕事とプライベートを同等に考えているなんて聞いたことない)
 握出に反論したくても理恵さんは握出の言われた通りに唇をくっつけただけ。それでは俺が面白くない。じっと耐えていた俺だが、ゆっくりと舌を入れだす。
「んんん!!!」
 理恵さんが驚く。
(そ、そんな。舌まで絡ますなんて聞いてない)
「臨機応変に対応しないと。いつもマニュアル通りとはいかないものですよ」
「ん、ん、ん、くちゅ」
 唇を動かし、歯の裏側を舌で撫でる。溢れ出る唾液が時々漏れる。
(唾液が……)
 糸の引いた唾液がポタッと落ちた。赤くなった理恵さんの顔を見ると、俺は我慢が出来なくなり、ガバッと理恵さんの膨らんだ胸に両手を持っていった。
「んんんん!!」
(話が違う。キスだけでしょ!)
「臨機応変」
(ふざけないで!いやあ!)
「嫌じゃないでしょう?期待しているくせに」
 握出の言葉攻めと俺のお触りに我慢できなくなったのか。唇を放して反論を言う。
「違う!私は――」

「千村さんは素人ですから貴方を取り逃がすかもしれませんが、私は絶対逃がしませんからね」

 握出は先を考えている。理恵さんが何を言おうと握出に潰される。発した言葉の先は出てこなかった。
 握出は歩きだすと、クローゼットの前で止まった。
「では、貴方の立場がさらに明白になるよう、私からこんなものをプレゼントします」
 握出がクローゼットを引くと、一着の女性ものの服装がかかっていた。
 何時の間に仕込んでいたんだよ……
 それを見て理恵さんは見る見る青ざめていった。
 メイド服。しかも今時の、黒色のワンピースに同じ色のガーターベルトとタイツ、フリルのついたエプロンドレスとおそろいのフリルのついたカチューシャ。オーソドックスとも言えるゴシック・アンド・ロリータスタイル。
「なにその服は!?嫌よ!こんなの着れるわけないじゃない!!?」
 今までメイド服なんて着たいと思ったこともないだろう。いや、むしろ嫌悪感を抱いていただろう。理恵さんの拒否は相当なものだった。しかし、握出は笑みを浮かべ続ける。
「嫌ですか?着たくないですか?あなたの言うことはイヤイヤばかりですね。そんなことでよく就職できましたね。それとも待遇が良かっただけですか?」
 皮肉交じりの冗談を吐くが、最後に、
「まあ、着て貰うんですけどね」
 握出がぼそっとつぶやく。今までは握出が状況を支配し、理恵さんは仕方なく言うことに耳を傾けていた。しかし今回は違う。完全な拒絶だ。たとえ十万円積まれたとしても決して首を縦に振らない確固たる意志が働いている。
 理恵さんがメイド服に着替えるなんてこと絶対にない。
 ……と、思っていた。
「え?」
 違和感を覚えたのは他でもない理恵さんだった。スーツを一枚一枚脱いでいく。その手際の良さから普段通りに脱いでいるようで、まるで自分から脱いでいるのではないかと思うくらい自然な動きだった。
「いやあああああ!!!」
 突如理恵さんが奇声を上げた。自分の行動に信じられないかのように、驚きを露わにしている。身体と心がここまでずれている瞬間を目撃することはそうそうない。スーツからスカート、ブラウス、ストッキングにブラジャーと綺麗に脱ぎ終わると、ハンガーにかかっているメイド服をこれまた綺麗に着付けていく。最後にカチューシャを頭につけて、
「うぅ……」
 泣いているけど、俺の目の前にはメイド服に身を包んだ、金井理恵が立っていた。スーツ姿の似合うOL嬢からフリフリのロリータファッションへのギャップがたまらない。恥ずかしいのだろう。俺の目の前でメイド服なんかを着た日だ。理恵さんにとって何かがガラッと変わった日になるだろう。
「んん、よく似合いますよ。嬉しいですよね?次はナース服でも着てみますか?」
 冗談交じりに話す握出だが、既に理恵さんは握出に怯えており、また涙声で叫ぶだけである。握出は笑みが消えつまらなそうに顔を伏せた。
「遊びが過ぎましたか。では千村さん、後をよろしくお願いしますよ」
 握出は後を俺に任す。理恵さんの見る目は先程までと違い、救いを求める小動物の様。
 俺は静かに手を差し伸べた。
「金井さん・・・・・・M字開脚してください」
「っいやああああ!!!」
 目を見開いて拒絶しても、既に身体は言われたとおりに実行する。ソファーにもたれかかり、腰を浮かし、足を広げたV字開脚から膝を曲げると、見事なM字開脚を披露した。
 俺が近づくと、理恵さんは理性を働かせ、スカートを持って手で隠そうとする。
「その手をあげて下さい」
「あっ、きゃあああ!!」
 近づけた理恵さんの手はパンティを隠すのではなく、指示通りにあげてみせた。着替えの時に見た白いパンティとガーターベルトを覗かせる。しかし、先程と違ってシミが付いているように思える。
 そうか、理恵さんは羞恥プレイが好きなんだな。イヤイヤと駄々をこねながらも結局濡れてしまう自分に快感を得るんだ。
「変態ですね」
「うぅ、もぅぃゃ……」
 尻つぼみになる声に俺は歓喜した。歓喜とは快楽。理恵がドMなら俺はドSになろう。
 パンティの上から濡れた秘部を触る。パンティの上からでも湿った温かさと柔らかい感触を味わうことができる。
「いやあ!やめて――」
「うるさい。その格好のまましばらく黙っていろ」
 自ら口にスカートを咥えさせて黙らせる。時々「うーうー」という声が聞こえるが先程より気にかからない。時々パンティの上からクリトリスと触ってしまうからか、ビクッと痙攣を起こし、その度にシミは広がっていく。
 パンティの中へ手を入れると、そこはさらに濡れた深い草原だった。
 なんだ。この女、処理もしていないのかよ。まあ、その方が羞恥プレイには丁度良いだろう。
 何故なら、直接触られた時から痙攣は激しくなっているのだから。
(ハァ、ハァ、も、もう……)
 理恵の息が上がってきている。もう絶頂が近いのかもしれない。と、その時、茂みの中からクリトリスを触ってしまい、理恵は一番大きい痙攣を起こした。
(イ、イク――!!)
 その時、握出が呪文を呟く。
「貴方はいけない。どんなに絶頂が近くてもイクことはできない」
(――――えっ?)
 先程の痙攣が嘘のように理恵は冷ややかになっていく。自分の身に何が起こったのか、部屋の中で一番分かっていないのは理恵自身だった。すると、今度は彼女の方から動き出す。自由にさせた左手を胸に持っていくと、かなり強い力で揉み始めたのだ。揉んでいる内にボタンを引きちぎって乳首を露わにする。直接触りさらに感度を上げようとしていた。それはシミの広がったパンティを見れば分かっていた。そう察すると俺もまた行動を再開する。オマンコの中へ指を入れてピストン運動をする。再び理恵は絶頂まで上り詰める。
(イ、イク―――――――?)
(あれ?イク、イクイク!イ――)
 何度も上り詰め、そして何もせずに下っていく。そんなつまらないことが許されるか?
 俺は許しても理恵自身が許さなかった。
「どうして!?いかせて!急に素面に戻らないでよ!!」
「挿れもせずにイクつもりですか?どれだけ自分勝手な人なんですか?……フッ、でも安心してください。その不満は彼がすぐに解決してくれますよ」
 握出が俺に振ると、理恵もまた俺に振り向いた。「あ……」と呟いた理恵は何を言おうとしているのか感じ取ったのだろう。高揚として、蕩けた頬が初々しく、今まで出会った彼女の中で一番可愛く見えた。
「そんな顔して、挿れてほしいんですよね?ではなんて言うんですか?」
 握出が理恵を優しく後押しする。もう、そこに強制はない。でも、彼女は握出に押されるまま、パンツを脱ぎ、M字開脚のまま、ピンク色のオマンコを広げて見せた。
「……お願い、挿れて下さい」
「なにを、どこに、もっと明確にしてください」
 メイド服に包まれた金井理恵が、俺に向かって、
「わ、私のぐちょぐちょに濡れたオマンコに、千村さんの逞しいオチンポを……ぶちこんでほしいの!!!」
 歓喜に震える瞬間だった。それと同時に、
 もう俺の知っている金井理恵はいなかった。
 俺はズボンを脱ぎ理恵の入り口に逸物を宛がうと、一気に突き刺した。
「ひぎいいいいいいいいい!!!イクううううぅぅぅぅ!!!!」
 たったそれだけで理恵は絶頂を迎えた。締まる膣口。千の触手が唸り動く。逸物が触れるだけで快楽が生まれ、当然逸物を動かせば、擦れてまた別の快楽が押し寄せる。
 指ではなく本物のピストン運動。こする度に逸物を通して理恵さんの愛液が滴り落ちた。処女ではないからか、血痕はなく、白濁色の泡が付く。
 リズミカルに動かしながらも俺も絶頂に昇りつめる。
「ああん、ああんっ!あっ!あああん!!」
「理恵さん、出そう――」
 最後の理性を働かせてせめて外に出そうと、身体を離そうとした。しかし、それを理恵自身が阻止する。俺の唇を塞ぎ、両手は背中にまわし、両足はしっかりと俺の腰へ絡ませた。
『千村さんは素人ですから貴方を取り逃がすかもしれませんが、私は絶対逃がしませんからね』
 握出が笑っている。手には金井理恵の名刺が光る。
 そうか。結局それは俺に発した言葉なのか。金井理恵を生贄にした特別授業。
 握出の意志を器用に実行する傀儡者。俺もまた十分に恐怖を感じ、しかし状況を楽しんでいた。涙を流して喜ぶ理恵の姿に決意は固まった。
 中出ししよう。罪悪感はない。
 快楽。たったそれだけが俺を支配していく。
「っ!出る!!」
「来て、きてきてきてきて。あああああああああああああ!!!!!!!」
 逸物から大量に吐き出される分身たち。膣内を駆け巡り、子宮へ到達し、卵子を探す旅に出る。
 俺の出来るのは産み落とすところまで。
 後はきっと、理恵が望むようにしてくれる。

[エピローグ]
 全てが終わり息を整えている時、理恵は俺の名前が書かれた名刺を取り出す。
「こんなことして、ただで済むと思わないで!慰謝料を請求してもらうんだから!当然、あなたの会社も道連れよ!」
 理恵は最後の抵抗とばかりに強気に出た。高笑いをしながらも目は本気だった。まずい。名刺とは、会社そのものを担ぐことになる。素状が丸わかり。殴り合いのボクシングと何も変わらない。戦うリングは裁判所。当然、表に出ざるをえない。他言無用の信頼関係で結ばれているエムシー販売にとって、表立てになるのは非常にまずい。
 そんな時だ、静かに見ていた握出が動き出す。
「金井さんに面白いものを見せてあげますよ」
「えっ?」
 理恵もまた喜びを氷結させる。握出が動くということは、安全がなくなるということ。
「名刺。金井さんは千村さんに何枚あげたか御存知ですか?」
 理恵は答えない。
「彼はお優しいお方でしてね、貴方が声をかける度に止まってくれたそうです。そして何度も同じ話を聞き、そして最後に名刺を貰っていた。その数三十枚」
 ばっと、握出の手には金井理恵と書かれた名刺が三十枚握られていた。いったいどこから回収し、どこで手に入れたのか。俺すらも知らない。
「千村くん、本日の最後に教える事は、リピーターの顔は覚えるということです。営業としての最低限のマナーを早く覚え、私たちの役に立ってください。彼女のように偽りになってはいけません」
 そう、これは講義。握出が俺の為に用意した一日限りの研修期間。
「なによ?それが何なのよ!?」
 理恵が叫ぶ。
「――でてこい、金井理恵」
 握出の声に反応するように、名刺は光り、名刺一枚一枚から金井理恵が飛び出す。服装はいま理恵さんが着ているものと全く同一のメイド服、しかし、
「お呼びですか?御主人様」
「なんなりとお申し付けください」
 口調、姿勢、態度、忠誠心。今の理恵さんには考えつかないほど洗練された精鋭部隊。――これが、金井理恵……
「なによ……なんなのよ、これ!?」
 理恵さんが驚愕する。同一人物が目の前に現れているのだ。夢を見ていると驚愕しなければ見る事も出来ない現実。
「驚かれるのも無理はありません。貴方は未来の自分を見ているのです。いえ、既に貴方は過去になっているのです。名刺で呼び出された者は、御主人の言われた事に忠実に従い、そして次回までに記憶を更新されるのです。それは全ての名刺にリンクされているのです」
 自分で変わるのではない。人が変えるのだ。
「まあ、人とは変わり続ける生き物ですから。ちょっとばかし羨ましいです。が――」
 「――哀れですね」と、握出は笑い、理恵は涙を流しながら震えていた。
「じゃあ、私は……」
「そう。あなたが金井理恵―あなた―でいられる最後の時間です。何か一言ありますか?」
 握出が死刑宣告を告げる。あまりにも早すぎる今生の別れ。理恵が初めて俺を真っ直ぐに見た。
「…………………いや」
 たった、それだけを残して理恵さんは光って名刺の中へ消えていった。講義は終わり、まさに夢のような時間は過ぎ去った。
「さようなら。今度呼ぶ時はこの子達と同じ態度をしてくれることでしょう」
 精鋭された金井理恵も同じように消えていく。俺の手元に残ったのは、一人暮らしの時と何も変わらない、金井理恵と書かれた名刺だけだった。
「本人は、その……」
 言葉を濁す。握出は頬笑みを返し、床に散らばった名刺の一枚を持ちあげる。
「いるじゃないですか?これが本人、金井理恵です」
 名刺に書かれた名前を示す。
 その通りだ。俺は千村拓也であり、名前は誰にも変えられない。でも、理恵さんは自分からなりたくてメイド服を着た訳じゃない。いや、それを言うなら金井理恵は普通のOLだった。ゴシックアンドロリータとは無縁の生活をしていた。
 俺が変えた。名前がある限り生き続けるなら、不老不死にも変えた。好き放題に変えた。

 そんなこと……許されない……。

「うーん。そんなに考えるといずれ壊れてしまいますよ?本人は一人しかいないなんてことありません。ネットの中、テレビの中、私じゃない私が其処彼処に存在します。偽名だらけの本人確認です。ならば私たちは本物だけを捕まえればいいのです。接触できるものが一つでもあれば逃がさない。これが公平な取引です。名刺はうってつけです。私じゃない私が今もグノー商品を販売しています。本人がいなくても名前で売ってくれます。そして、名前で売れれば私なんていりません。休んでいても、研修に駆り出しても、グノー商品は未来永劫生き続けるのです」
 名前はブランド。人気になれば生き続ける。しかもエムシー販売とは秘密を第一にする独占企業。追いも衰えもない。実質社会に生きる不老不死だ。
 その為に、会社と供に握出紋は不老不死になったと言うのか。俺が仮に不老不死になったとしたら、事実に耐えられるだろうか。人類の叡智でもある不老不死。研究に研究を重ね、いざ技術を完成させたとして、実験にされる人材が本当にいるのだろうか?
「俺にはできない……」
 やりたくない。なりたくない。
 生命は無限でも、心が病んでしまう。自分じゃない自分がいたら恐ろしいじゃないか。
 観測者が本人じゃないなんて、認められない。
「そう思わないか?」
 そんな俺の問いに握出は静かに笑った。不敵に浮かべる笑みに、俺の脳裏には握出と初めて出会った日が思い出された。

『こんにちは。エムシー販売です』
 勧誘だった。脂ぎったオジサンの顔を見た途端どっと疲れが込み上げた。しかも、息が臭い。最悪な相手だ。聞いたことない販売店、新規開拓業者かよ?
『そういうの結構ッスから』
 閉じかけた扉にオジサンは無理やり手を差し入れて静止した。それでもチェーンロックがかかっているので入ることは出来ないが。
『そう無碍に断らないでください。私、こういうものです』
 薄い隙間に手を差し込み、 『名刺』 を渡す。

 握出 紋 。

 ア、クデ……モン……
 俺の目の前に立つ脂ぎったオジサン。その背後には黒い影が揺らめいているのが俺には見えた。
「おまえは……いや、聞くだけ野暮だな」
「はい」
 悪魔は俺の答えに満足そうに頷いた。
 こんな状況を臆して逃げるか?もう俺は握出からは逃げられない。今更人間の心を持つ必要はない。
 優しさなんていらない、偽善なんて有難迷惑。考えることを止める。俺はただ上司に従う傀儡でいい。
 何が間違っているか、何が正しいかなんて誰にもわからないのが世の常だ。
 
 だから社会は面白い。

 俺は参加する。名刺が俺の存在意義。
 俺のいる場所は欲望いきる理想郷。その名はMC²―エムシースクウェア―。
 成りあがってやる。仲間を手に入れてやる。奴隷を従えてやる。手中に治めてやる。
 社会は俺のもの、握出に献上する最高の御馳走。
 今、俺は死んだ。悪魔に心を譲った。
 フフフ……フハハハハハ……。

< 続く >

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