素敵な原稿用紙

 私は小説家だ。小説と言っても純文学や書店でフェアを組まれるような小説を書いている訳ではない。
 私が書いているのは、書店の片隅にひっそりと置かれるような小説。いわゆる官能小説だ。
 ベストセラーを叩き出したりしている訳ではないが、収入は安定している。数年前には小説のみで生活できるようになった。私の書く非日常的なエロスは一部の世界ではそれなりに支持されているようだ。稀にファンです、と言ってくる青年達もいる。そういった際には持参してくれた私の本にサインをしたり、シチュエーションのリクエストを聞いて作品に反映させたりしている。

 だがそんな私の才能も遂に枯れてしまったのかもしれない。元々さほどある訳ではない才能を有り余る妄想力で何とか支えてきたのだ。年を取ると共に私の妄想は次第に現実染みた詰まらないものへと変わっていく。若い頃は現実ではとても有り得ない非日常的なエロスが私の脳内を渦巻いていたというのに…。

 そう、いわゆるスランプだ。最近は過去に書き溜めた妄想メモを弄くり回して何とか形にすることしかできないでいる。しばらくはこれでも良いだろうが、やがて書き溜めておいたネタも尽きてしまうだろう。このままではいけないのだ。私の作家生命はもちろん、多少なりともいるファン達の半端に硬くなった欲棒も。

 私は馴染みの喫茶店へと向かう。昔からネタに詰まった時に赴いていたが、最近は毎日の習慣になりつつある。私は追い詰められている自分を自覚しながらも店へと歩いて行く。

 そう言えば、ああでもないこうでもないと原稿用紙を丸めている内にストックを切らしてしまっていたのだ。途中にある文具店に寄って行かなくては。
 最近はワープロやパソコンで書く作家が多いが未だに私は原稿用紙に万年筆で小説を綴っている。担当の編集に泣き付かれ最近は書き上げた小説をパソコンで打ち直しデータにして送るようになったが、原稿用紙に書くことは決して止めない。そこに私なりの美学というかエロスがあるのだ。升目のみが印刷された真っ白な原稿用紙は、きっと私のような者に官能小説を書かれるなどとは思ってもいないだろう。おそらくはベストセラーや大賞を受賞するような作品が書かれる事を夢見ている。その夢を真っ向から打ち砕き、一文字一文字、私のエロスで陵辱していく。思わぬ事態に悲鳴をあげる原稿用紙を硬い万年筆で黙らせ、裸に剥きあげるように一枚一枚捲りあげ書き綴る。これぞ文学の陵辱。私は清純な原稿用紙に無理矢理官能を孕ませる。強姦だ!レイプだ!ドロドロの欲望を白い紙の上にぶちまける。それが私の執筆スタイルなのだ。
 だがこうしてスランプに陥った今、私は原稿用紙を感じさせる事すらできないのだが…。自虐的な笑みを浮かべながら私は文具店のドアをくぐる。

「あ、先生。いらっしゃい!」
 ここの店主は私の生活を支えてくれるファンの一人でもある。彼のアイディアもしばしば原稿用紙を濡らす手伝いをしてくれた。
「やあ。実は原稿用紙を切らしてしまってね。また買いに来たよ」
「えっ!?そりゃ二重に大変だ!」
「二重に?何かあったのかい?」
「いえね、ちょっと原稿用紙が売り切れてるんですよ。近くの学校で読書感想文の宿題がたんまりと出たらしくて…。あ~、しまったな。業者から届くのは来週なんです。これじゃ先生の作品を世に出せない…あ~、参った」
「なるほどね。だがそんなに気を落とさないでくれよ。買いには来たものの、最近スランプでね。どうしてもすぐに必要という訳ではないんだ」
 取り敢えず今日はノートでも買って、妄想メモからのネタを繋ぎ合わせて骨格を組み上げるとしよう。
「えええ!?そりゃあますます困りますよ、先生!早くスランプ脱出してガンガン書いてもらわないと!俺のオカズが減っちまいます!…ん、待てよ。そうだ!」
 彼はカウンターの下をゴソゴソやると小さな桐箱を取り出した。
「これこれ!なんかこないだ一見の業者が来ましてね。置いてった商品なんですけど確か中身が原稿用紙だったと思います。無駄に格調高いから店に出すのはどうしようかと思ってたんですが、先生に差し上げます!」
「ええ!?それは悪いよ。私も買うつもりで来た訳だし、きちんと代金を払うよ」
「いいんです!差し上げます!わざわざ来て貰ったんですから。それに先生には店の方も夜の方もお世話になってますしね!ほんの気持ちですよ!コイツでガンガン書いてスランプなんかぶっ飛ばして下さい!」
 彼はもう桐箱を袋に詰めている。ファンであるとは言えこんなにも応援されるとは…私もまだまだ捨てたものではないかもしれないな。
「そ、そうかい?いやぁ、悪いね。じゃあこの原稿用紙で頑張ってみるよ。なくなったらまた買いに来るから。その頃にはもう業者から届いてるだろう?」
「もちろんですよ、先生!お待ちしています!」
 彼に見送られ私は文具店を後にした。

「やあ、先生。いらっしゃい。いつものブレンドで良いかな?」
 喫茶店のドアを開けると、マスターに声を掛けられた。彼は私のファンという訳ではないが、私の仕事を決して侮辱したりせず真摯な態度で接してくれる貴重な友人の一人だ。
「ああ、ありがとう。奥の席空いてるかい?」
「最近は常連さんがよく来てくれるからね。空けてあるよ」
 彼は私を皮肉るように笑いながら言った。彼なりに発破を掛けてくれているのだ。
「その常連もいずれ来なくなるかも知れないぞ」
 そしてこれは私の強がりであり自己暗示だ。
「ははは、せっかく上がった売り上げが落ちちまう。ま、とにかく頑張って。この時間帯は静かだからね。執筆には向いてると思うよ」
 そんなやり取りをしながら奥の席へ向かう。ふぅ…このソファーも随分私に馴染んでしまった。今日こそはスランプを脱出できると良いのだが…。

 さて…いつまでもぐずぐずしている訳にはいかない。私の目的はマスターの淹れる美味い珈琲ではないのだ。とにかくいつでも書けるよう準備を整えよう。ジャケットのポケットから万年筆を抜き出し傍らに置く。そして先程文具店の店主に渡された袋から桐箱を出してテーブルに置いた。
 確かに彼が言っていたように原稿用紙の容れ物としては豪華過ぎるな。わざわざ桐の箱にしまわなくても…。環境対策に則ってビニールの包みを削減しようとでも言うのだろうか。かといって中身がなくなれば補充の為にまたビニールに包まれた原稿用紙を買う羽目になる。結局何も変わらない。企業の推し進める環境対策と言うものはいつも何処かずれている。これもそういうずれた商品のひとつなのだろう。
 まあ良いさ、私には関係ないことだ。原稿用紙という欲情をぶつけられる相手さえいれば私は満足だ。どうだって良い事をいつまでも悩んだりせず、さっさと蓋を開けよう。
 中にはさも大事な物であるかのように原稿用紙の束が納められていた。金色の線で用紙に装飾が施されてはいるものの、升目などの規格は普通の物と変わらない。何の変哲もない原稿用紙だ。恥ずかしながら少し期待してしまった。もしかしたら箱の中から私のスランプを吹き飛ばすような何かが出てくるのではないかと…。結局のところ、自分で何とかするしかないのだ。この頭で妄想を広げていく以外に私に道などない。私は桐箱を端に寄せ、原稿用紙を自分の正面に置いた。

「お待たせ致しました。ブレンド、おひとつでよろしかったですか?」
「あ、ああ…。うん、ありがとう」
 声に顔を上げると見たことのない若い女性がそこにいた。新しく雇ったバイトだろうか?珈琲を受け取り、カウンターの方を見るとマスターがにやにやと笑っている。どうやらこれは彼からの挑戦状らしい。良いだろう、受けて立ってやる。私は目の前の少女を小説に登場させる事に決めた。
「キミ、初めて見るけど最近働き始めたのかい?」
「はい、今日からです!面接には昨日の夕方来ました。アルバイトするの初めてなんで色々ご迷惑を掛けちゃうかもしれませんが、頑張るんでよろしくお願いします!」
「うん、よろしく。良ければ名前を教えてくれないかな?いや、私はしがない小説家なんだけど次回作のヒロインの名前がなかなか決まらなくてね。ちょっと参考にしたいんだ」
 嘘は言っていない。私は小説家だし、メインで登場する女の子をヒロインと呼ぶのは間違っていない筈だ。たとえそれがいやらしい官能小説であっても。
「ええ~!?作家さん?凄い!それって私が主役ってことですか?わ~、友達に自慢しよ~♪あ、私の名前は、キヨノです。笹川キヨノ。も~、どんどん使っちゃって下さい!いぇい♪」
 お盆を片手にポーズを取るキヨノ。彼女なりのアピールなのだろう。その笑顔は見ているこちらまで思わず微笑み返したくなる素敵な表情だった。
「ははは、元気が良いね。ヒロインにぴったりだ。折角だからこの喫茶店を舞台にしてみようか」
 私は目の前にある原稿用紙に、『珈琲に少女を添えて』と適当なタイトルを書き、数行空け『舞台:喫茶店“ボンボンシュクル”』、そして更にその横に『主要登場人物:笹川キヨノ、マスター、馴染みの客』と万年筆を滑らせていく。
「わ、凄い!『珈琲に少女を添えて』だって。この『少女』ってのが私なんですか?文学的表現ってヤツですね。う~ん、何だかロマンチック♪マスターも出るみたいですよ、喫茶店“ボンボンシュクル”が舞台って書いてあります!」
「おいおい。俺はともかく、店名まで出すのか?」
 カウンターからマスターが言った。その声は弾んでいる。本気で困っている訳でもなさそうだ。もちろん私も本気でこの店の名前を使うつもりはない。
「流石に店名は後で直すさ」
「ははは。頼むぜ、先生」
 キヨノはお盆を抱えたまま、うっとりとした表情をしていた。
「これから私の物語が始まるんですね…、私がアルバイトを始めたこの日に…。ああ、一体どんなドラマが私を待ち受けているのかしら…」
 きっと恋愛小説か何かだと思っているのだろう。だが物語の中で彼女を待ち受けているのは、彼女の持つ恋愛感など歯牙にも掛けない非日常的なエロスだ。こんな純真な少女を私は汚そうとしている。万年筆を持つ手が震える。そうだ、この感覚こそ私が求めていたもの。久しぶりに興奮している。頭の中を妄想が駆け巡る。書ける!今なら書けるぞ!私は震える手に力を込め、ギュッと万年筆を握り直した。

 素敵な事など何ひとつ起こらない、そんな退屈な日常にキヨノは飽きていた。仲の良い友人と遊ぼうにも最近の友人はようやく恋人として付き合う事になった幼馴染みの話ばかりしてくる。自分に巡ってこない恋愛を楽しめる程、キヨノは大人ではなかった。だからと言って子供でもない、今すぐ自分にも恋人が欲しいなどと言うつもりはない。そう、いずれそういう相手が自分の前にも現れるはず。焦らなくていい。けれど何もしないで待っていて本当にそんな出会いがあるのだろうか?ちょっとだけいつもと違うことをすれば何か変わるかもしれない。別段出会いを期待している訳でもないけれど…いや、全く期待していない訳でもないけれど、ただちょっとした変化、ちょっとだけいつもと違う自分でいるのも悪くはないかも…。そう、キヨノは思っていた。
 そんな時、通学路にある喫茶店にアルバイト募集の張り紙が貼ってあるのに気付いた。アルバイトなんてしたことないけれど、ここなら学校帰りに働きに来れるし、家からも遠くないから暇で仕方ない土日にも働けるだろう。キヨノは道を引き返してコンビニへ入ると履歴書を買い、レジの脇を借りて空欄を埋めていった。写真は学生証の物をカラーコピーして貼り付けた。急いで完成させた履歴書はちょっと不格好だったが初めてのバイトには相応しい気もした。できたばかりの履歴書を手にキヨノはそのまま喫茶店へと向かった。

 …うん、良いんじゃないか。やはり非日常的なエロスを強調する為にも書き出しはできるだけ普通に、当たり前で退屈な日常を垣間見せる方が良いだろう。そしてヒロインであるキヨノにほんの少し非日常への期待を持たせる。そうして踏み込んだ新しい世界に彼女は溺れていく訳だ。
 しかし私は本当にスランプだったのか?自分でも驚いてしまうくらいスラスラと書けてしまった。まるでキヨノ自身にここで働くようになった経緯を教えてもらったかのようだ。
 まあ良い。書けるところまでどんどん書いてみよう。大体まだ肝心のエロスを書いていない。今までずっとそこで躓いてきたんだ。安心するのは原稿用紙を孕ませてからだ。私は珈琲を一口飲むと、再び万年筆を握りしめ原稿用紙に向かった。

 今日からは喫茶店“ボンボンシュクル”の店員。昨日の面接は緊張したけれど、何だかマスターにも気に入られたみたいで採用された。
「うん。平日の夕方を週に数回と土日の朝から夕方までか…結構入れるみたいだね。じゃあお願いしようかな。まあ、もの凄く忙しい訳でもないし用事がある時は言ってくれればお休みをあげるから。取り敢えず明日からちょっと働いてみようか」
 そうしてキヨノはいつもと違う土曜日の朝を迎えた。服装こそ普段着だが腰にはカフェエプロンが巻かれているし、ついさっきもお客さんに初めて珈琲を運んだ。キヨノは慣れない事に戸惑いながらもそれを楽しんでいた。胸の奥から小さなドキドキが体中に広がっていく。珈琲の香りを楽しむようにキヨノはそのドキドキに浸っていた。
「あ!いけない!」
 先程珈琲を運んだ時、一緒にミルクを運ぶのを忘れていた。初めてで緊張していたとはいえ、ミスはミス。ちゃんと謝らなくては。キヨノは奥の席に座るお客のところへ戻ると頭を下げた。
「す、すみません!先程のブレンドをお出しする時、ミルクを一緒にお出しするのを忘れてしまいました!」
「え?ああ、構わないよ。確かにいつもはミルクを入れるけど、ブラックで飲むのも嫌いじゃないしね」
 常連のお客だと知り、キヨノはますます申し訳なくなった。
「いつもは入れてるんですか?ああ…す、すみません!ただいまミルクをお出ししますから!」
 キヨノは背中に手を回して服の上からブラジャーのホックを外した。そしてニットカーディガンの合わせ目の辺りまでブラウスのボタンを外すと、胸元に手を入れた。緩んだブラジャーを上へと押し上げ片方の乳房を露出させると慌てた手つきで揉みしだき始めた。
「ん…、あ、しょ、少々お待ちください」
「あれ?マスター、いつものミルクと違うけど、どうかしたのかい?」
 お客はキヨノが必死で搾乳する脇からマスターに呼び掛ける。
「仕入先を変えたんだ。すまないな、前の方が好みか?」
「そうなんだ。いや、別に拘りがある訳じゃないさ。ちょっと気になったものだから」
 お客はキヨノに視線を移す。
「どうだい?ミルクは出せそうかい?」
「す、すみません。お待たせしてしまって…。な、何だか緊張してしまって上手く出せないんです。あ、あの、お手数ですけどちょっと吸い出してもらえませんか?そうすればちゃんと出てくると思うんです。出始めたら改めて珈琲の方にもミルクを注ぎますから…」
「ああ、初めてのバイトだと言っていたしね。緊張してしまうのは仕方ないよ。わかった、じゃあ軽く吸い出してみるから乳首をこちらへ向けてくれるかい?」
「はい!ありがとうございます!」
 キヨノはカップの方に向けていた乳首をお客の口へと近付ける。それは普段よりほんの少しだけ、硬くなり前へ向けて勃ち上がっていた。
「お、お願いします…」
 キヨノは店員として至らない自分に恥ずかしさを覚え、頬を染めてお客から顔を背けた。
「失礼するよ」
「ふぁぁ…」
 お客の舌先が触れたかと思うとそのまま暖かい口内に乳首が包まれていく。ゆっくりと舌で優しい刺激を受けながらキヨノの乳首が吸引されていく。そしてミルクが出るのを促すように乳房をお客の手の平が暖かく包み込み、やわやわと揉んでくる。
「ああ…いいです。お客さんに優しく吸われていると、段々緊張が解れてきて、み、ミルクが出ちゃいそうです。あ、ん、あああ!!で、出ます!ミルク出ちゃいます!」
「むぐ!?」
 慌てて口を離すお客。キヨノのミルクのほとんどがお客の口に注がれてしまったらしい。だがキヨノが自分の乳房に触れるとそこにはまだミルクの残っている感触がある。何とか珈琲に入れる分のミルクはありそうだ。キヨノは乳首を乳房ごとカップの上に移動させると、少しずつ残ったミルクを珈琲に注いでいった。お客がゴクリと口の中のミルクを飲み込み、キヨノの乳首からポタポタと垂れ落ちるミルクを見ている。
「甘くて美味しいミルクだ。仕入先が変わったって聞いてちょっとばかり不安になったけど、僕はこのミルクが好きだな」
 お客はそう言ってキヨノの乳首を摘み、優しい指遣いで緩慢に垂れ落ちるミルクが少しでもスムーズに流れるよう手伝ってくれた。
「あん…、あ、ありがとうございます」
 やがてミルクを出し切るとキヨノはお客に手伝わせてしまったことを恥じるように手早く服の乱れを直すとそそくさとカウンターの方へと戻っていった。

 …おお!書けるじゃないか!うん、これぞまさしく非日常的エロス。確かにキヨノはそれなりに大きな胸をしているようだが、妊娠もしていないあの年頃の少女の胸から母乳など出るはずもない。しかしキヨノの胸の柔らかさとそれに反して硬くせり出た乳首の感触、それに母乳の味までこの手と口で本当に味わったかのように文字が万年筆の先から溢れ出ていった。まるで目の前で起こった事をそのまま描写しているかのような臨場感を私は感じていた。この興奮を逃してはならない、書かなければ。私の脳裏をキラキラと流星群のように妄想が流れていく。だが慌てるな。逃してはならないのは一等星の輝き。屑星など掴んでも何の意味もない。降って湧いた興奮を自分の物にするのだ。コントロールするのだ。私は興奮をそのままに保ち、尚且つそれを操りきる冷静さを取り戻そうと珈琲に手を伸ばし口に運ぶ。おや?確か今日はブラックで飲んでいたと思ったが、いつの間にかミルクが入っている。まあ、きっと執筆に集中する余り自分で入れた事すら忘れてしまったのだろう。こんなに書けるのは久しぶりだからな。何かに夢中になっている時に他の事を忘れてしまうのは別に不思議な事ではない。ミルクでわずかに甘くなった珈琲を飲み干し、カップを傍らに置くと私は再び万年筆を取った。

 先程は少し失敗してしまったが、その後キヨノは特に大きな失敗をしでかす事もなく順調に仕事を続けた。
 しばらく前に運んだランチをお客が食べ終わったようなので食器を下げにキヨノはテーブルに向かった。すると後ろからマスターの声が聞こえた。
「そうだ、新メニューがようやく完成したんだ。食後に一杯どうだい?」
「こないだ言っていたヤツかい?随分試行錯誤していたようだけど遂に味わえるのか。うん、折角だから頂くよ」
「そうこなくちゃな。キヨノちゃん、手伝ってくれ!」
 マスターに声を掛けられ、キヨノは自分もこの店の店員なんだという感慨を改めて感じた。まだほんの少しドキドキする胸を押さえながらキヨノは元気良く返事をした。
「はい!」
 タイトなジーンズと下着を脱ぎ去り、片付けたテーブルの上にお客の方を向き腰掛けるキヨノ。その脇にマスターが色々な道具を置いていく。
「キヨノちゃん、エプロンを捲ってそのまま横になってくれ」
「わかりました!」
 露わになったキヨノ自身のコーヒーカップにマスターがドリッパーを挿し入れる。そして手際良くフィルターをセットすると、挽いたばかりの豆をさらさらと流し込む。
「豆の配合だけじゃなく、淹れる時のお湯の温度にも気を遣ってるんだぜ」
「それは楽しみだね」
 ゆっくりとお湯を注いでいくマスター。キヨノは自身のカップの中に少しずつ温かい珈琲がドリップされていくのを感じた。
「ああ…」
 お湯を注ぎ終えたマスターがしばらくしてお客に声を掛ける。
「仕上げはあんたにお願いするぜ。“ボンボンシュクル”特製ウィンナコーヒー、どうぞ召し上がれ」
「ああ、とても良い香りだ。早速頂くとしよう」
 お客はズボンから生クリームの絞り器を取り出すとキヨノのコーヒーカップに挿し込んだ。それは少しばかりカップに対してサイズが大きく、キヨノはカップが割れてしまうのでは心配した。だがカップはひび割れることなく絞り器を受け入れた。
「ん…」
「丁度良い熱さだ。試行錯誤の甲斐があったようだね」
「おいおい、まだできあがってない内からそんな…」
「まあ、急かさないでくれよ。キミの努力の成果をゆっくりと味わいたい」
「ったく、うまい事言いやがって。あんたには敵わねぇな」
 お客は出された珈琲を楽しむかのようにゆっくりと絞り器を動かしていく。キヨノのカップの中で珈琲がぴちゃぴちゃと音を立てる。
「お客さんって、ん…珈琲通ですか?あ、やん…な、何だか飲み方が、ん、と、とっても、上手です、はぁぁ…」
「マスターやキミの頑張りを真摯に受け止めようとすれば、自然に素敵な飲み方になるものさ」
 自分達のサービスを喜んでもらえる事がこんなにも嬉しい事だなんて…。キヨノはもしかしたら自分は接客業に向いているのかも知れないと思った。
「う、そ、そろそろ仕上げに取り掛かるとしようか」
「あん…お、お願いします!私の、こ、珈琲に、生クリーム垂らして下さい!」
 お客はコーヒーカップの奥まで絞り器を潜り込ませると大量の生クリームを注ぎ込んできた。キヨノも絞り器にそっと両手を添えて、それを手伝った。しばらくするとお客はマスターを振り返り叫んだ。
「凄い!こんなに美味いウィンナコーヒーは初めてだよ!マスター、キミは天才だ!」
「おお、嬉しいお言葉。ま、この俺だから淹れられる逸品さ。これからもご贔屓に頼むぜ」
「もちろんだよ。こんな美味い珈琲を出す店を僕は他に知らないしね。キヨノちゃんもありがとう。是非これからもバイトを続けてくれ」
「あぁ…、ありがとう、ございます…」
 キヨノは飲み終わったカップを片付けるのも忘れてお客の温かい言葉をテーブルに寝そべったまま聞いていた。このアルバイトを始めて良かった。接客というものが、お客だけじゃなくて店員の自分もこんなに気持ちよくなれるだなんて思ってもいなかった。これからも頑張って働こう。キヨノは次第にまどろんでくる頭でそう思いながらゆっくりと目を閉じた。

 …書けた?妄想一等星を、私は掴めたのか?目の前には私のエロスに陵辱された原稿用紙がある。こうしちゃいられない!早速自宅でデータに書き直して担当にメールで送って妊娠検査をしてもらおう。この原稿用紙が本当に官能小説を孕んだのかどうかを調べてもらわなくては…。私は荷物をまとめるとテーブルに壱万円札とメモ書きを残して立ち上がった。そしてまるで溜まりに溜まったものを体外に吐き出したようなすっきりとした爽快な気分で喫茶店を後にした。

「あれ?私、何してたんだっけ?ん~、確か小説家のお客さんと話しててそれから…おかしいなあ、思い出せないや。小説家のお客さんもいつの間にかいないし…わ、テーブルに壱万円札が!?ま、マスター!」
「キヨノちゃん、どした?あれ?先生もう帰ったの?全然気付かなかったぜ。ん、メモがあるじゃないか。なになに…」
『どうやらスランプを脱出できたようだ。そこのお金は脱出に協力してくれた礼だ、受け取ってくれ。挨拶もせずに帰ってすまない。また来るよ』
「…俺、何か協力したっけ?キヨノちゃん、心当たりある?」
「すみません、マスター。私、何故かここ数時間の記憶が曖昧で…」
「ふうん…まあ、良いや。また来るって書いてあるし、その時にでも聞いてみるか。…ところでさ、キヨノちゃん。もしかして店の中暑い?暖房切ろうか?」
「え?…あぁ!?ちょ、マスター!あ、あっち向いてて下さい!やだぁ…どうしてぇ?あ!もしかしてダイエット成功?ウエスト細くなったのかも。やっぱりアルバイト始めて正解だね、これからも頑張ろっと♪あ、マスター。もう大丈夫ですよ」
「ん。いやぁ、俺としてもキヨノちゃんを雇ったのは大正解だね。イイもん見れたし♪」
「それは忘れて下さい!も~、えっちなんだから…」
「ははは。さて、もうすぐ混んでくる時間帯だ。キヨノちゃん、頑張ってね」
「はい!」

< おわり >

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