絆催眠 始3

<始3>

 健全な成長を阻害し、授業にも集中出来なくなるという理由で、うちの学園に朝練というものはない。
 だから僕たち6人は、下校時と同じように、登校も待ち合わせをして一緒に行くようにしていた。

「おはよう……」
「おう、おは……おい、顔色悪ぃぞ、大丈夫か?」

 集合場所の信号前には、既に橙真の姿があった。
 いつものように挨拶するが、橙真は僕の顔を見て、不審そうに眉を顰めている。
 寝不足なのが、バレてしまったらしい。

「ああ、うん、ちょっと睡眠不足で」
「夜中までゲームでもしてたのか?」
「あ、やっぱりバレちゃうか」

 嘘を付いた。
 みんなに合わせるため、僕自身の意思や意見を曲げる。
 幼い頃から、ずっとやってきた行為だ。
 幼馴染の輪から外れないようにするため、僕以外の5人が『不快』になるような言動、行動は慎む。
 年季が入った僕の仮面は、そう簡単に見破られたりしない。

「なんだよ、また面白いゲームでも買ったのか?」

 予想通り、橙真はころっと騙されてくれた。

「いや、旧作だよ。久しぶりに引っ張り出して遊んでたら、妙にハマっちゃって」
「あー、あるある! たまに今のゲームより楽しんじゃうんだよな」
「おはよーさん! なになに、何の話して……うわ、ちょっと紫郎、顔が悪いよ!?」
「か、顔色ってことだよね!?」

 やってきたきいろ、そしてその後も蒼依や紅介、最後に到着した碧にまで心配されてしまった。
 そんなに酷い顔をしているのかな?
 ……確かに、夜中に悪夢で飛び起きてから、結局二度寝は出来なかったけど。

「夜中までゲームとか、いつになっても子供のままねえ」
「で、でも、気持ちは分かる……かも」
「あはは……申し訳ない」

 頭を掻いて、照れた風を装う。
 ……本当のこと、蒼依たちに言えるはずないよな。
 体調が悪いせいにして誤魔化しているけど、実は今、女性陣と目を合わせられないでいる。
 全部、あの生々しい夢のせいだ。

 蒼依の顔。
 碧の指。
 きいろの胸。

 普段、あまり意識しないようにしていた、彼女たちの魅力的な部分につい見蕩れてしまいそうになる。

「本当に大丈夫か? 授業中に居眠りだなんて出来ないタチだろう、お前は」
「徹夜したわけじゃないから平気だよ。本当に具合が悪くなったら、保健室に行くさ」

 今日は、確か3限目が僕の苦手な数学だったはずだ。
 よし、じゃあ1・2限目は我慢して、3限目の途中で体調が悪くなったことにしよう。

「それより、ほら、行こうよ」

 僕はみんなの背中を押して、移動を開始した。
 必然、僕はいつもの定ポジション、一番後方に収まる。

 ……これで勃起を隠すために前かがみになっても、バレにくいかな……

 3限目にたっぷりと爆睡したおかげで、昼休みになるころには体調は持ち直していた。
 今度は変な夢を見なかったおかげで、気持ちも落ち着いている。
 これなら、平常を取り繕うことも十分に可能だろう。

「……ちょっと、元気出たみたい。良かった……」
「心配かけてごめんね」

 今日はお弁当持参なので、購買の熾烈なパン購入競争に巻き込まれる心配もない。
 適当な机を寄せ合い、おかずを交換しながらいつものように雑談に興じる。

 ちなみに、僕たちは全員クラスがバラバラだ。
 この学園は6つのクラスに分かれており、2年以降はそれぞれ文・理で学力レベル順に生徒が振り分けられている。

 理系で成績の良い紅介は6組。
 文系で成績の良い碧は5組。
 理系で成績は普通の蒼依は4組。
 文系で成績は普通の僕は3組。
 理系で成績が芳しくない橙真は2組。
 文系で成績が芳しくないきいろは1組。

 勿論、学園がそう公言してるわけじゃないけど、いわゆる暗黙の了解ってやつ。
 まぁ、同じ普通組でも僕と蒼依とではかなり学力差に開きがあるんだけど……

 それはともかく、みんなが集まる時は、真ん中にあるという理由で僕の3組に来る。
 4組も真ん中だけど、クラスの中でグループを作ってる人たちが多いため、机や椅子があまり余らないのだ。

「しかし、昨日のアレは凄かったなぁ」

 昼食を食べ終わると、橙真が僕の肩をぽんと叩いて言った。

「催眠術ねえ。信じてなかったんだけど、実際にかかっちゃったから、納得するしかないわね」
「そうそう! 碧の大声も聞けたし!」
「うぅ~……そ、それは忘れてほしい……かも」

 皆も同調する。
 ……背筋がむずむずする。
 基本的に褒められ慣れていない僕は、ひたすら気持ちの悪いニヤニヤ顔にならないよう苦心するので精一杯。

「今、ここで出来るの?」
「んー、ちょっと無理かな。まだみんな1回かけただけだし、あまり集中出来る環境でもないし」
「何度もかけられてると、やっぱりどんどんかかりやすくなるもんなわけ?」
「僕が調べたところによればそうだけど、実際のところは知らないよ」

 だから、練習して、もっと催眠術を上達させたいのだ。
 パブロフの犬と同じで、何度もかけられれば条件反射により、『催眠をかけられそうだぞ!』と感じれば、それだけで催眠状態になってしまうそうだ。
 そこまでのレベルに到達することも、僕の目標の一つ。

 ……夢のことは気にするな。あんなものは気の迷いでしかない。
 僕は、みんなのためにならないことに、催眠術を使う気はない……

「うまく行けば、さっき食べたお弁当を涙が出るほど感動的な味に変えたり、物事に集中出来るようにして学力の上昇を狙えるかも」
「それはいいな。橙真ときいろの成績が上がるなら、これほど喜ばしいことはない」
「ちょっと、どういう意味よー」
「言葉通りの意味だが?」

 きいろや橙真の抗議の視線を軽く流し、紅介は僕に向き直った。

「紫郎、今日は特に予定もないし、放課後は僕が催眠術の練習相手になろう」
「本当? ありがとう、紅介」

 良かった。やっぱり今の状況で女子と二人きりになるのは避けたかったんだ。
 僕はほっと胸を撫で下ろした。

「ここを、練習用に使えばいい」

 放課後。
 僕と紅介は、化学室に来ていた。
 アルコールランプやビーカーなど、授業で使う実験器具が棚に片付けられている。
 棚には鍵とか付いてないから、持ちだそうと思えば簡単に持ちだしてしまえそうだ。
 流石に、危険物なんかは準備室のほうで保管されていると思うけど。

「ここ、化学部が使ってるんじゃ?」
「実はこの前の生徒会で、部費を使って鍋料理を作っていたことが発覚してな」
「な、鍋料理?」
「『これも化学の実験だ!』とか言ってたらしいが。それなら料理部でやれということで、部員も少なかったし強制解散となった」
「え、いきなり?」
「別の学園の生徒やらバイト先の先輩やらを呼んでいたことがマズかったな。まあ、そんなわけで、今はここを誰も使っていない」

 僕は教室の中を見渡した。
 多少広々としているが、カーテンは完全な暗幕で光をほぼ完全にシャットアウト出来るのはかなりプラスだ。
 グラウンドや体育館から離れた場所にあるから、騒音が届きにくいという点もいい。

「うん、なかなか……というか、凄くいいよ、ここ」
「気に入ってくれたなら何よりだ。じゃあ、早速始めるか?」
「僕はいいけど……その、紅介はいいの?」
「ああ……」

 僕の遠慮がちな顔で、紅介は僕が何を言いたいのか察したようだ。
 そう、僕は今、紅介の恋愛相談を受けている立場だ。
 それを忘れて、自分のことだけを考えるなんて出来ない。

「いいよ、気にしないでくれ」
「でも」
「いいんだ。正直、僕の気持ちが通じるとは思っていないし……それに」
「それに?」
「やりたいこと、見つけたんだろう? 紫郎の自信に繋がるように、協力したいんだ」
「っ! 紅介……」

 やっぱり、気付かれていた。
 僕が、みんなに憧れつつも、嫉妬していたこと。
 そして、催眠術という僕だけの力に、拠り所を得ようとしていることも。

「何事にも優先順位というものがある。今は僕のことより、紫郎のことを優先するべきだと、僕は判断した」
「ごめん……じゃないね。ありがとう、紅介」
「改まって言われると、照れるな。完全に自信が付いたら、その時こそ、相談に乗ってくれ」
「必ず」

 そして、僕は紅介に催眠術をかけた。

「やる気が満ち溢れてくる……衝動が身を支配する。体を動かしたくてしょうがない……」

 身体中に活力を漲らせてみる。
 そして、そのままの状態で意識を戻す。
 すると紅介は『自分がどういう催眠をかけられたか』という自覚があるにも関わらず、運動がしたくてたまらなくなってしまった。
 何故か腕相撲勝負やらスクワット勝負が始まり、連敗した僕はクタクタになってしまった。

 でも、楽しかった。
 紅介と――親友と遊ぶのは、楽しい。

 だけど負け続けは悔しかったので、今度は紅介の体を冷やしてみた。
 まるで吹雪の山中にいるようなイメージを与えると、紅介は自分の身体を抱きしめて腕を擦り始めた。
 ……僕の催眠術がもっと強ければ、本当に吹雪の幻覚を起こし、視覚イメージも複合させてもっと凍えさせることも出来るんだけど。
 それはまだ僕のレベルじゃ無理だから、こうして『化学室で急に身体が冷え始めた』くらいのものくらいにしかならない。

「でも、凄いじゃないか。触ってみろよ、僕の体温がさっきよりかなり上昇してるぞ」
「うわ、本当だ……じゃあ、解除するね」

 紅介は、僕がかけた暗示の通りに感覚が変化する。
 全て、僕の思い通り。
 僕の、操り人形みたいに……

 ……違う!

 催眠術は万能じゃない。
 自分が嫌だと思う命令は拒否出来る。
 今の催眠も、紅介が『紫郎なら自分を凍死させるような真似はしないだろう』と認識してくれているから出来たのだ。

 履き違えるな。
 僕たちは対等だ。
 もう、以下じゃないけど、以上でもないんだ。

 キーン、コーン、カーン、コーン……

 下校を促すチャイムが鳴る。
 気が付けば、かなりの時間が経過していた。

 ……僕の実力が足りなくて、まだ催眠導入に時間がかかってしまっている。

 僕はまだまだ未熟だ。
 もっと頑張らないといけない。

「じゃあ、帰ろうか、紅介」
「そうだな、電気を消すのを忘れずに」

 僕と紅介は、連れ立って化学室を後にした。
 今回の催眠術も成功した。
 早く、もっとみんなを楽しくさせられる催眠術を使えるようになりたい。

 ――だって、それが使えるようになったら。

 心の底に微かに残った、『あの紅介を自由に操った』という暗い悦びが、完全に消えてくれると思ったから――

 翌日。
 僕は橙真に催眠術をかけていた。

「目が覚めると、あなたは英語しかしゃべれなくなります。はい、目が覚める」
「イングリッシュ……オー、グレート! ……アー……ナイス! ……ンー……ン、ンー……」
「……ごめん、これは頭のいい人にかけるべき催眠だったね」
「デス! デッド!」
「キルユー、でいいと思うよ。後は、ゴートゥーヘルとか」

 催眠術は、相手の限界を超えることは出来ない。
 子供に物理の教師になるという催眠術をかけて授業をやらせてみても、詰まってしまってそのうち催眠が解けてしまうだろう。
 習ってもいない物理の内容を唐突に話し始める、なんてことは絶対にありえない。

「さあ、この本を読んでみて……読んでいるととても哀しくなってくる……ああ、なんてことだ……酷い……辛い……」
「うぉぉ……畜生、頑張れ、頑張れ、狼に食べられるなぁ……っ!!」
「……『三匹の子豚』で、ガチ泣きしている……」

 トランス状態を解いてみる。

「ぐわぁぁぁぁ!!! なんで俺はあんなんで涙なんか流してんだ!? 恥ずかしすぎるぅぅぅっ!!!」
「その恥ずかしい気持ちがどんどん強くなる……」
「いやぁぁぁぁ!? やめろ、俺を見るな!!! 死にてえぇぇぇぇぇっ!!!」

 ……忙しないなぁ。

 でも、なんだかコツが掴めてきたような気がする。
 これなら、もうちょっと難しいことに挑戦出来るかもしれない。

「はい、元に戻る」
「はぅぁ!? お、俺は一体何を……!?」

 ……面白いなぁ。
 橙真の素直すぎる反応に、僕がニヨニヨ口元を緩ませていると、

「……お前ら、もう少し静かに出来んのか?」

 ガラリ、と音を立てて準備室の戸が開かれ、中から痩身の中年男性が顔を見せた。
 化学の担当教師だ。
 化学部の担任もしていたが完全に監督放棄していたため、減俸処分になったと昨日紅介に聞かされている。

「あ、すみません、先生」
「先生、すげぇんだぜ、紫郎の催眠術!」

 頭を下げる僕とは対照的に、橙真は悪びれた様子もなく、先生と対峙する。

「催眠術ぅ? 何を非科学的な……」

 先生はふん、と鼻を鳴らした。

「あ、嘘だと思ってんな!? じゃあ、一回先生も試してみろよ!」
「ちょ、ちょっと橙真……!」
「いいから、やれよ紫郎。催眠術で、文句言えないようにしちまえよ」
「催眠術は万能じゃないって、説明したでしょ……!」

 ……でも、確かに。
 いい感じの催眠術をかけてるときに、不意に今みたいにこの教室に入られたら、催眠が解けてしまう可能性がある。
 この先生に『放課後、下校のチャイムが鳴るまでの間、化学室のことは一切気にならないようする』という催眠をかけられたら……

「……僕からもお願いします先生。僕、将来はヒプノセラピスト――催眠療法士になりたいんです」
「なに?」
「僕は昔、いじめられていました。幸運にも友人の橙真たちに助けられましたが、一人ぼっちで誰も助けてくれず、心に傷を負ってしまう子もいると思うんです」
「…………」
「そんな子たちを救いたいと、僕は思ったんです」
「……それは、立派な心がけだな」
「催眠療法は、実在の医療行為です。その練習がしたいんです。なるべく、多くの人に」

 僕は頭を下げた。
 僕の台詞を聞いてぽかんとした表情を浮かべていた橙真も、慌てて僕に習う。

 ……嘘は言ってない。
 催眠術を使えるようになった今、それを将来の職業にも応用したいと思うのは当然だろう。
 だから色々調べてみて、催眠療法士に辿り着いた。
 催眠術が使えるだけでなれるような、簡単な職業じゃないだろうけど。

 僕が、あの日の橙真たちになれるかもしれないのだ。

 僕に救いを与えてくれた、あの5人。
 あの時の感謝の気持ちを、僕は片時も忘れたことはない。

「ふむ……」

 悩んだ素振りを見せる先生。
 でも、断ることはない、という確信が僕にはあった。

 だって、この先生は減俸処分になっている。
 そんな時、生徒の真摯なお願いを無碍に出来るものだろうか。
 ただでさえ覚えが悪くなっているのに、校長辺りに断ったことを告げ口されたら、果たしてどうなるものか――

「……仕方ないな」

 案の定、先生は誘いに乗ってきた。
 僕は橙真と顔を見合わせてニヤリとした笑みを浮かべると、ペンダントを取り出した。

 催眠術のかかりやすさには個人差がある――そんなものは気にしてられない。
 対象との相手にラポール(信頼関係)を作らなければならない――なら教師と生徒という立場を利用して作ればいいさ。

 僕は絶対に催眠を成功させる。
 そして、この先生に僕の催眠術の練習の邪魔はさせない。

 ようやく出来た目的。
 その目的に邁進したいという熱い気持ち。
 それが僕の背中を押す。
 自信となる。

 催眠術で力となるのは、絶対に成功させられるという確たる自信。

「ありがとうございます。では、そこの椅子に座って、楽にしてください……」

 ――そして僕は、勝利した。

「ええ、では、放課後は必ず準備室に寄る前に、この化学室に来てください。再び、催眠術をかけ直しますからね……」

 翌日は土曜日、休日だ。
 通販で購入した催眠術関係の本を読んでいると、傍らに置いておいた携帯がバイブレーションと共に着信音を鳴り響かせた。
 ディスプレイに表示された、相手の名前を確認する。

『姫元蒼依』

「え……?」

 蒼依は今、部活動のために学園にいるはずだけど……
 首を捻りながら、僕は通話ボタンを押した。

「もしもし、蒼依?」
「紫郎、今から家に来れる?」
「え? うん、大丈夫だけど」
「ごめんね、待ってるわ」

 ガチャッ。
 通話が切られ、ツー、ツーという音だけが虚しく僕の耳に届く。
 僕達の会話は、わずか20秒にも満たなかった。

 ……家?
 なんで?
 部活は?

 頭の中は疑問符でいっぱいだ。
 一応、強引に理由付けしようと思えば出来るんだけど、それよりも本人に直接訊ねたほうが早いだろう。

 僕はすぐに服を着替えると、急いで部屋を飛び出した。

 姫本家に到着する。
 電車、自転車、そんなものは不要な徒歩2分の超ご近所。
 走れば1分もかからない。

 来訪を告げるチャイムを鳴らす。
 すると同時に、玄関の扉が勢い良く開かれた。
 え、出待ちしてた?

「あ……」
「…………紫郎くん」

 だけど、扉から出てきた人物は、蒼依ではなかった。

「藍佳(あいか)ちゃん……だよね。久しぶり、元気だった?」
「……紫郎く……テメーには関係ねーだろ。気安くオレの名前呼んでんじゃねーよ」

 にこやかに微笑んで挨拶するが、藍佳ちゃんは面倒臭そうに顔をしかめ、ぷいっとそっぽを向いてしまった。
 そのまま、僕を無視して去って行ってしまう。

 姫本藍佳。
 蒼依とは双子の姉妹で、名前の通り最後の虹色を持つ女。

 茶色く染めた髪。
 人工的に焼いた肌。
 下品なまでに濃い化粧。
 エロティックに着崩した服。

 蒼依から『最近反抗期が頂点を迎えた』と聞かされていたけど、まさかここまでのものだとは。
 生真面目で規則にうるさい蒼依とは、完全に正反対。
 顔や体型は瓜二つなのに、まったくの別人だ。
 虹の名を持ちながら、ある特殊な事情で僕達の輪の中には入らず、一匹狼となった少女。

 ここ最近はいつもどこかへ外出してるから、会う機会は滅多にない。
 最後に会ったのは、春休みに偶然コンビニの前で鉢合わせた時だったかな。
 その時は、まだ髪を染めてなかったし、格好も普通だった。

 それが今や、どこからどう見ても社会に反抗している不良少女。
 タバコとかお酒とか、そういうことやってなければいいんだけど……

「あ、紫郎、いらっしゃい」

 と、そんな彼女の背中を見送っていた僕に、かけられた声があった。
 振り向くと、玄関近くの戸(ちなみに居間に繋がってる)を開けて、蒼依が姿を現していた。

「蒼依」
「急に呼び出してごめん。あたしの部屋に行きましょ」

 蒼依は制服やジャージではなく、私服のスウェットを着ていた。
 髪が湿っているところを見ると、シャワーを浴びた後のようだ。
 ということは、学園に行って部活はやっていた、ということだろう。

 剣道部は臭う。冗談ではなく臭う。

 主に汗を吸った防具が原因だが、それが人体にも移るため始末が悪い。
 前に興味をもってみんなで防具を嗅がせてもらったことがあったが、碧辺りは本気で吐きそうな感じになっていた。
 ちょっとシャワーを浴びたくらいでは落ちないので、今の蒼依からは制汗剤の香りがびっちりと漂っている。

「お邪魔します」

 僕は姫本家に入り、靴を脱いで蒼依の部屋へ向かった。
 蒼依の部屋は階段を登った2階にある。
 藍佳ちゃんの部屋も隣にあるが、『誰も入るな』というプレートがぶら下げてあった。

「蒼依の部屋に来るのも、久しぶりだな」
「そうね。集まるといったら橙真か紫郎の部屋だし」

 最後に来たのは、2月の期末テスト前の時だったかな。
 紅介か蒼依の部屋じゃないと、漫画とかゲームとか、余計な誘惑が多いからね。
 ちょっと前にあった中間テストの勉強をしたのは紅介の家だった。

 蒼依の部屋は彼女の人物像が再現されたかのように、あまり飾り気のない、機能重視といった感じの様相だ。
 床にゴミ一つ落ちていないのは、僕が来るからではなく、毎日きちんと掃除しているから。
 机の上もきちんと片付けられていて、鉛筆やら消しゴムやらが切れることなくきちんと備え付けられている。

 だけど本棚には漫画本が置いてあるし、ベッドの枕元には携帯ゲーム機、他にもぬいぐるみ等、若者らしいアイテムもきちんと持っている。
 姫本蒼依はただのお固い女ではない、ということだ。
 ドアに貼られたシールは、何年か前にゲームセンターで、6人で無理やりギュウギュウ詰めになって撮ったものだ。
 みんなの家のどこかにも、同じシールが貼られている。

 しかし、こうして彼女の部屋に2人きりというのは初めてだ。
 ちょっとしたときめき的なものを感じたほうがいいのかもしれないが、生憎と蒼依の表情が、甘酸っぱい空気が流れるのを拒否している。

「さて、と。どうしたのさ、急に」
「それがね、聞いてよ、紫郎」

 これ以上ないくらい眉間に皺を寄せた不機嫌顔の蒼依は、そう言って僕を呼び出した理由を愚痴り始めた。
 どうも、例のモノグサ部長に色々と嫌味を言われたらしい。

 部長でもないのに生意気だとか何とか。
 才能を見せびらかせていい気になってるとかどうとか。

 紅介と仲が良いことについてのやっかみも含まれていたのだろう。
 入部してからずっと、耐えに耐え続けてきた蒼依だったが、ついに今日、堪忍袋の緒が切れてしまった。
 
 見事な胴打ちを部長に喰らわせた後、悶絶する彼女を尻目に帰ってきてしまったのだそうだ。

「自己嫌悪だわ……あんな挑発に負けてしまうなんて……」
「うーん、流石は『胴薙ぎ真っ二つ』」
「そのあだ名やめてよ……ていうかそれ、後輩たちと一字一句違わない、同じ台詞じゃない……」
「そうなんだ。橙真が勝手に名付けただけなのに、浸透したもんだね」
「付けるなら、もっと可憐なあだ名にしてほしかったわ。咲き誇る白薔薇、みたいな」
「剣道とまったく無縁なあだ名だなぁ」
「まぁ、今はそんなことはどうでもいいのよ」

 はぁ~、と蒼依は深く長い溜息をついた。

「見ての通り、あたしは今、とても不機嫌なわけ」
「そうみたいだね」
「ねえ紫郎、催眠術で、この私の怒りをなんとか出来ない?」

 ふむ?

「あんた、催眠術の練習してるんでしょ。紫郎の練習にもなって、あたしのイライラも治る。一石二鳥だと思わない?」
「合理的だね」
「なんだか便利に使うようで、悪いとは思うんだけど」
「とんでもない。催眠術は相手がいないと練習にならないからね。こちらからお願いしたいくらいだよ」

 思っても見なかった展開になってきた。
 でも、上達のためには実践あるのみなわけだし、蒼依は剣道部で忙しいから放課後に時間を取りにくい。
 こんな機会を逃す選択肢は存在しないぞ。

「じゃあ、椅子に座って。始めようか」

「思えば、あたしが紫郎に催眠術をかけられた最初の人間なのよね」
「そうだね。あの時はどんな感覚だった?」
「不思議な感覚だったわ。眠くなってきて、でも紫郎の声は届いて……」
「そう、思い出して……催眠術にかかったときのふわふわした気持ち……心がすぅっと楽になったときの気持ち……」

 一度催眠術にかかった人間は、その時の状態を覚えているから、それを思い出させるとトランス状態に陥りやすくなる。

「目を開いて……意識が元に戻るよ……はい、ペンダントを見て……虹色が集まってる……綺麗……キラキラ……」

 途中で催眠を解除し、再び集中させる。
 それを何度も繰り返す。
 揺さぶり法と呼ばれるやり方で、これでより深いトランス状態へと陥っていく……らしい。

「もう何も考えられない……でも、僕の声は届いてるよ……」

 いつかの時と同じように、蒼依は完全に脱力し、首をもたげて手足がだらんと伸びきった状態になってしまった。
 完全に入っている。
 それを確認し、僕は蒼依にゆっくりとした口調で語りかける。

「目を瞑って……今日はイライラすることがあったね。部長は本当に酷い奴だ」

 そう言うと、思い出したのか、蒼依の瞼がぴくりと震えた。

「でも、気にすることなんてないんだよ。だって、蒼依のほうが剣道強いんだから。だから、部長なんて大したことない。ほら、部長の姿が小さくなっていくよ……小さいものは、弱いからね……どんどん、どんどん小さくなる……子供……お人形……ネズミ……ネズミの着ぐるみを着た部長が、足元で弱々しく震えている……」

 蒼依の口元が緩んでくる。
 僕は部長さんの顔は覚えてないけど(ちょっと残念な容姿だった気がする)、蒼依の脳内では今、部長さんがとても情けない顔をしていることだろう。

 ちなみにこれは幻覚を見せているわけではない。
 ただの脳内イメージを指定してやっているだけで、本当に部屋の中を部長鼠にうろちょろさせるには、2回目の催眠ではまだキツいだろう。
 試してみて催眠が解けるのも嫌だし、大体、そこまでする必要も今はない。

「簡単に踏み潰せる……なんでこんな奴相手にイライラしてたんだろう? イライラする必要なんてないね……こんなのがちょっと騒いだところで、蒼依が足を振り上げてやれば、踏まれると思って泣きながら逃げるような奴なんだから……」

「さあ、楽しくなってきた……その楽しさがどんどん大きくなる……きいろが好物のイチゴゼリーを買ってきた……美味しい!」

「頭のいい紅介が外したクイズを、蒼依が答えてみせた……凄い! 蒼依、頭いい! ……碧が手を叩く……橙真がやるじゃんって褒め称える……」

 くっ、くっ、と蒼依の肩が震えた。
 笑っているらしい。
 僕だって、そんな状況になったら、きっと得意な気持ちになることだろう。

「剣道の試合が始まるよ……でも、楽しくて、楽勝にしか思えない……面有り、一本……胴有り、一本……観客席はみんな蒼依を応援している……あ・お・い、あ・お・い……」

「こいつを倒せば決勝戦だ……小手有り! 勝った! 次は決勝だ! でも、負ける気なんてしない……だって、蒼依は強い、最強だ……」

「相手の面打ちが来る……でも遅い、すごくスローだ……避けて、胴に叩きこむ……胴有り! 優勝だ! 位置に戻って、礼をして……橙真や碧たちが駆け寄る……凄い! おめでとう!」

 だん、だん、と、蒼依は身悶えで床を蹴りつける。
 喜びの感情が身体に充満しているのが、僕にも分かった。

「さあ、胴上げだ。優勝おめでとう。蒼依、強い。蒼依、最高。優勝出来て凄く気持ちいい。その気持ちが大きく、大きくなっていく。大きく、大きく、大きく、大きく―――!!!」

 段々と早口に声を張り上げ始めた僕に釣られるように、蒼依は両方の拳をぎゅっと力強く握り締めた。
 さあ、ラストスパートだ。

「耐えられない! 嬉しすぎる! さあ、優勝の喜びを、感激の気持ちを言葉に出そう! はい!!!」

「うわああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁあああああああぁぁぁぁぁああぁぁあっ!!!!!!」

 蒼依はぐんと身体を反らし、腹の底から絶叫した。
 耳がキィンと鳴る。

 ――ここまで上手くいくとは。

 人は快楽には逆らえない。
 怠惰な人間を見ればわかる通り、楽なこと、興味があること、面白いことがあるほうに、人間は向かうように出来ている。

 催眠もそうだ。
 不快な催眠は、嫌だから解けてしまう。
 不快じゃない催眠なら、嫌じゃないから解けない。
 簡単な原理だ。

「ああああああ……あああ……あぁぁ……」

 疲れたのか、声が途切れた。
 そのままがくんと、椅子にもたれかかる。

 ――口を開いて、脱力した風に息を荒げる蒼依。

 睫毛は長く、虚ろな目は焦点が合っていなく。

 白い歯と、舌が見えて――顔は赤くて――艶かしくて――

 ――催眠術を使えば、もっとエッチなことを気付かれずに――

「っ!!!」

 首を振る。
 やめろ。
 そんなことしたら、バレるに決まっているだろ。
 常識を考えろ。
 落ち着け。

「はぁ、ふぅ……」

 ヤバい。
 このままではヤバい。
 早く、手遅れにならないうちに、蒼依は覚醒させなくては。

「……喜びの気持ちは、リミッターを超えて、限界を突き破りました……これから、あなたは平常心を取り戻しますが……突き破った分の喜びは、身体の中に残ったままです……」

「催眠状態から戻ります……でも、高揚感は残ったまま……剣道で優勝した嬉しい気持ちは、しばらく忘れません……」

「それから……それから……」

「…………それから…………」

「…………この凄い喜びは、催眠術だから得られたものです」

 …………

「気持良かったでしょう? あなたは催眠術にかけられると、こんな風に楽しくなることを覚えました……だから、次に催眠術をかけられることが待ち遠しくなります」

 …………

「催眠術をかけられると、こんなに爽快なんです……催眠術は楽しい……またかけてもらいたい……」

 …………

「では、目を覚ましましょう……楽しい、嬉しい気持ちのまま、目を覚まします……スリー、ツー、ワン……」

 …………

 ………………全部、催眠術を楽しんでもらうための布石だ。

 別に悪いことはしていない。

 変な暗示もかけていない。

 だから、ちょっとくらい……このくらいは……

 しても、別に変じゃない……はずだ…………

 こんなことしなくてもいい、だろうけど、念には念を入れた……だけで……

 …………それだけだ。

 そうなんだ。

 そうだろう?

 もう一度、確認する。

 別に、おかしな催眠なんてかけなかった。

 最後の催眠も、他人に聞かれたとしても別段変だとは思われない内容だ。

 だって、催眠にかかりやすくなれば、それだけ深い催眠にかけやすくなるんだから。

 幻覚を見せるとか、そういう楽しい催眠は深く催眠をかけないといけないんだ。

 これは、そのための手段なんだ。

 だから、胸を張れ。

 正しいんだ。

 僕は。

 ……………………

 なんで僕は、自分自身に言い訳しているんだろう…………?

< 続く >

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