[AI]「あれ、これ催眠じゃない?」7真壁澄

※この作品は生成AI「ChatGPT4o」を利用して製作しています

 

 

 湯気がカップのふちをくるりと這うのを眺めながら、私はポットを傾けた。

 用意したティーカップは、二つ。もちろん、もう一つは“客人”のためのものだ。

 

 こんなとき、いつものミルクティーでは少し物足りない気がして、今日はストレート向きのブレンドにしてみた。甘さ控えめ、刺激は少し強め――そのほうが、この場には似合う気がした。

 

 準備室に広がる香りを感じながら、私は静かに椅子に腰を下ろす。

 しんとした空気のなかで、ふと、さっきの授業の光景が脳裏に蘇った。

 

 三角関数。

 毎年、どこかしらで引っかかる生徒が出る厄介な単元だが、今年のこのクラスは概ね順調だった。

 

 中西蓮がやたら自信ありげに「最大値3」とか言い出したときは流石に吹き出しかけたが、まあ、あれはあいつの通常運転だ。むしろ元気があってよろしい。

 

 それより、佐久間蒼真。

 授業中、私は彼の様子には特に注意を払っていた。

 

 なぜなら、この後で彼を呼び出す予定があったからだ。

 この場での振る舞い、態度、言葉の選び方――すべてを見ておきたかった。

 

 彼は一見、静かで目立たない生徒だ。だが、なにか“濁り”のようなものを、彼の内側から感じる。

 枠に収まるつもりがない者の“匂い”。そして、それが時折、他人に影を落とす。

 

 ……そしてそのとき、気づいたのだ。

 彼が何度か視線を送っていた、その先にいたのが――綾瀬澪だった。

 

 内気で絵に描いたような文学少女。学力は安定していて、手のかからない生徒。

 普段の彼女に、特筆すべき点はない。

 

 だが、今日のあの時間だけは――何か、空気が妙に波立っていた。

 

 佐久間少年の目が、彼女の一挙一動を追っていた。

 彼自身はそれを隠していたつもりだろうが、こちらにはわかる。

 

 その視線は、“観察”だった。単なる関心ではない。

 そこに“何を見ていたか”が、私には気になる。

 

 私はティースプーンをくるりと回し、カップに落ちた輪をそっと受け皿に戻した。

 紅茶の香りが、ほのかに立ち上る。

 

 そもそも、なぜ私が佐久間蒼真を呼び出しているかといえば――

 

 理由は、そこからもう少し遡る必要がある。

 

 

 あの空き教室――使われていないはずのその一室に、妙な気配を感じたのは三日前。

 

 日差しの入り方に対して、床の埃の散り方が不自然だった。椅子の位置もどこか整いすぎている。誰かが“触れて戻した”ような、そういう違和感が、静かな空気の中に残っていた。

 

 日を改めて、生徒の噂を頼りにいくつか話を聞いて回る。

 すると、今朝のことだ。1組の赤城美琴のグループに属する、ある女子生徒がぽつりと――思わず漏らすように言った。

 

「……え? あー……それって、佐久間くん……」

 

 言った瞬間、しまった、という顔をした。

 

 その沈黙をかき消すように、赤城美琴が横から割って入った。

 

「なに言ってんの、ミユってば~!」

 わざとらしい笑顔とともに、軽く肩を押す。

「スミちゃんセンセ、この子ね、前から佐久間のこと気になってるんよー。ね? ちょっと見てただけっしょ?」

 

 その子――ミユと呼ばれた生徒は苦笑いしながら「そ、そうそう! ほんとにただの偶然で……」と必死に合わせる。

 

 だが、無理があった。

 

 話を打ち切り、私はその場を離れたが――昼休み。その子が一人で私のもとにやって来た。

 

 周囲を気にしながら、声をひそめて言う。

 

「先生……今朝の話なんですけど……その……」

 ひと呼吸おいてから、しっかりと目を見て口にした。

 

「私が言ったってこと……佐久間くんには、絶対に言わないでくれませんか」

 

 怯えているというより、深く警戒している。

 彼女なりに覚悟を決めた表情だったが、背筋は固く、声もわずかに震えていた。

 

 私はうなずきながらも、心のどこかで確信していた。

 

(……やはり、“ただの偶然”ではない)

 

 赤城美琴。

 優秀とは言いがたいが、人望を集めるタイプの生徒。

 その彼女が、咄嗟に佐久間蒼真の名を庇った。

 そして、周囲の子が“言ったことを知られたくない”と願うほどに、彼の存在は特別で、異質だ。

 

 そして今日の授業では、もう一人――綾瀬澪の様子が明らかにおかしかった。

 正確には“おかしい”というより、何かが“過剰”だった。熱を帯びた目、微妙な仕草の乱れ。艶めかしい、という言葉が似合ってしまうほどに。

 

(……また、浮かぶのは――佐久間少年の名)

(本当に、“ただの生徒”なのか?)

 

 そう思いながら、私は静かに紅茶のカップを口元に運ぶ。

 

 ちょうど飲み終えたころ、廊下から足音が近づいてきた。

 

 控えめなノックが、数学準備室の静けさに響く。

 

「失礼します」

 

 現れたのは、佐久間蒼真。いつもの、落ち着ききった表情で、扉の隙間から中を覗くように入ってくる。

 

「来たまえ。そこに座るといい」

 

 用意しておいた椅子に視線を向けると、彼は素直に従って腰を下ろした。紅茶には目もくれない。視線はこちらにだけ向けられている。

 

 この時点で、こちらの意図を測ろうとしているのは明らかだった。  ただし――そういう“出方を見るタイプ”かどうかは、まだ判断できない。

 仮面の裏があるのか、ただの静かな生徒なのか、それを確かめるために呼んだのだ。

 

「……今日の授業中、君、何度か後ろを見ていたな?」

 

 紅茶の縁を指先でなぞりながら、私はできるだけ何気ない口調で尋ねる。

 

「綾瀬澪の方だったと思うが――何か気になったのか?」

 

 一拍の沈黙が落ちる。

 

 観察されたことに気づいていたか、それとも咄嗟の対応を考えているのか。

 

 どちらにせよ、目の前の少年が何を答えるか。

 それが、これからの“会話”の流れを決める。

 

 

 佐久間蒼真は、すぐには答えなかった。

 湯気の立つティーカップに視線を落とし、一瞬だけ――ほんのわずかに口元を歪めた。

 

「……先生の前で、下手な嘘はつけませんね」

 

 柔らかな声音だったが、それは“白状”とは違う。

 ただ、逃げずに会話の土俵に立つ、という意思表示に過ぎなかった。

 

「彼女の様子が、少し変だったのは確かです。でも、それ以上のことは……言える立場じゃないかと」

 

「ふむ」

 

 私は、なるほどと軽く頷いた。

 “見ていた”ことは認めるが、肝心の“理由”については伏せる――その距離感の取り方は、いかにも佐久間蒼真らしい。

 

「言える立場ではない、か。そう自分に言い聞かせている、という印象も受けるな」

 

「どうでしょう。……先生が、僕の“立場”をどう見ているかにもよりますね」

 

 にこやかな表情の裏に、わずかに張り詰めたものがある。

 警戒か、それとも探りか。あるいは、どちらもか。

 

「私は君のことを、まだ“観察対象”として見ている段階だよ。判断は、それからだ」

 

 そう言いながら、私は再び紅茶に口をつけた。

 温度は少し下がっていたが、香りはまだ鮮やかに立ちのぼっていた。

 

「ただし、一つだけはっきりさせておこう。

 私は、“学校の中で何かが起こっている”という感覚を、勘ではなく、経験として捉えているつもりだ」

 

 佐久間少年が軽く瞬いた。その瞳の奥に、ごくわずかに波紋のような揺れが見えた気がした。

 

「今日、綾瀬澪の反応が偶発的なものだったとしても……今後も“偶然”が続くようなら、私は動かざるを得ない」

 

 言い終えてから、少しだけ空気が冷えたように感じた。

 

 佐久間蒼真は、表情を変えなかった。

 だがその沈黙には、確かに重みがあった。

 

 私は静かにソーサーを机に戻し、視線だけで彼に続きを促した。

 

 次の一言――それによって、ようやく“会話”が本当に始まるのだ。

 

 

 少しの沈黙のあと、佐久間少年が、ふっと小さく笑った。

 

「……じゃあ、ちょっとだけ、先生に正直なことを言ってみます」

 

 そう前置きして、彼は言葉を選びながら話し始めた。

 

「綾瀬さんは、図書委員をやっていて、文芸部にも所属しているんです。いつも静かに本を読んでるタイプで――でも、肩こりがひどいのが悩みみたいで」

 

 私は頷いた。確かに、綾瀬澪は猫背気味で、授業中もよく肩に手を当てているのを見かける。

 

「それで、僕……趣味というか、個人的に“触れるケア”について少し勉強してて。マッサージや指圧、リラクセーションとか、そういうのが好きなんです」

 

「……ほう?」

 

 意外な方向から話が展開し始めた。

 

「綾瀬さんとは、図書室で偶然そういう話になって。肩が辛いなら試してみる?って言ったら、最初は遠慮してたけど、やってみたらけっこう効いたみたいで。それ以来、放課後とか、ちょっと気になるときに僕のところに来るようになったんです」

 

「つまり君は……女子生徒に、マッサージを?」

 

「……はい。でも、ちゃんと節度を持ってやっています。そういうものは、信頼があって初めて成立するものですから。嫌がるようなことは絶対にしません」

 

 すべてを納得したわけではない。

 だが、彼の話し方は理路整然としていて、変に取り繕ったところがない。

 まるで、あらかじめ用意していたかのような言葉運び――だが、それだけに余計、信憑性があるのが厄介だった。

 

「綾瀬澪の“様子のおかしさ”も、それに起因する、と?」

 

「かもしれません。体の力が抜けすぎて、集中が切れたのかも。あの子、真面目だから、“抜けてしまった自分”に気づいて焦ったのかもしれません」

 

 まるで心理士だ。

 それも、経験則から言葉を紡ぐ、妙に説得力のあるタイプ。

 

「……では、ひとつ聞くが」

 

「はい」

 

「そんなに効くのか? 君のマッサージは」

 

 彼は、ほんの一瞬だけ目を丸くした。

 

「えっと……まあ、人によっては、眠ってしまうくらいには」

 

 私もまた、口元にだけ笑みを浮かべた。

 

「では、試してみよう。ここで」

 

「……え?」

 

「私の肩は、ずっと凝っている。長時間の立ち仕事に、板書に、パソコン作業。誰かに触れてもらうような習慣はない。……だが、効果があるというなら、君の“技術”とやらを、この場で見せてもらいたい」

 

 少年の顔に、かすかな動揺が走った。

 

 当然だ。そう簡単に、教師の身体に触れさせてもらえるとは思っていなかっただろう。

 だが――それでも、私は退かない。

 

「断る理由があるか?」

 

「……いえ、ありません。失礼にならないよう、気をつけます」

 

 彼は静かに立ち上がった。

 そして、私の背後へと回る。

 

 私は姿勢を正し、椅子の背に軽くもたれかかる。

 

 さあ、佐久間蒼真。

 その“手”が、ただの子供の戯れか――あるいは、もっと深い“意図”を持つものか。

 

 これから、確かめさせてもらおう。

 

 

 

 

 私は椅子の背もたれに身を預けたまま、軽く息を吐く。

 

「では、失礼します」

 

 静かな声とともに、背後から近づく足音。

 佐久間少年の気配が、ゆっくりと私の後ろに回り込む。

 

 最初に触れたのは肩だった。右の僧帽筋。

 指の腹で、そっと圧をかける。ごく自然で、無理のない加減。

 押し込むというより、筋肉の層を静かに探るような手つき。

 

 (……悪くない)

 

 想像以上に、整っている。

 どこかの書物で覚えた知識というより、実地で鍛えた経験に近い精度だ。

 

 少しだけ身じろぎしてみると、それに合わせるように手が動く。

 呼吸のリズムにすら応じているかのような柔軟さだった。

 

「肩、よく凝りますか」

 

 声は穏やかで控えめ。

 必要なことだけを口にして、余計な会話は差し挟まない。

 

「……姿勢が悪いせいかもな。板書も多いし、帰宅しても資料に向かうことが多い」

 

「なるほど。僧帽筋の上部、かなり硬くなってます」

 

 そのまま、今度は左肩へ。左右のバランスを見るように指を動かす。

 小さな点に、集中して圧をかけてくる。

 

 私は、目を閉じた。

 痛みはない。ただ深く、芯まで届く感触だけがある。

 

 (……これは、単なる“趣味の延長”では済まされないのではないか?)

 

 感触の正確さに、ふとそんな疑念が浮かぶ。

 

 右肩の少し外側、僧帽筋の接続部。

 言われなければ見落としそうな位置――だが、確かにそこは重い。

 

「……っ」

 

 わずかに息が漏れる。反射的な反応だった。

 

 すると、指先がすぐにわずかに緩む。

 加減を見ている。というより、反応を“読んで”いるようだった。

 

 (……偶然にしては、出来すぎている)

 

「首に移りますね」

 

 声とともに、手が上へ移動する。耳の後ろから、首筋へ――

 胸鎖乳突筋のラインをなぞるように、指の腹が丁寧に滑っていく。

 

 その動きに、私は少しだけ姿勢を直そうとする。

 だが、動きを察知したかのように、指が“先回り”するように当たってきた。

 

 (……?)

 

 思わず、再び目を開く。だが、彼の姿は視界に入らない。

 

 変な話だが――

 こちらが動こうとした位置を、事前に察知していたように感じた。

 

 (……まさか)

 

 あくまで、そう“感じた”だけだ。

 だが、これが単なる気のせいで済むかどうか、まだ判断がつかない。

 

 背後で指が、再び鎖骨の端に触れる。

 軽く円を描くように、優しく押し流すように。

 

「ここも、疲れてる方が多いです。自覚がなくても、凝ってる場所ですね」

 

「……そうか。たしかに、押されると楽になるな」

 

 思わず、素直な感想が口をついて出た。

 

 不思議な気分だった。

 自分の身体が、こんなに簡単に緩んでいくとは思わなかった。

 

 (だが、これは……なんだ?)

 

 まるで、筋肉だけでなく、呼吸も、鼓動も、意識も――

 全部、どこか静かな“深さ”へ沈んでいくような。

 

 そう錯覚させるだけの、何かがある。

 

 私が知るどの生徒にも、こんな技術を持つ者はいなかった。

 

 (佐久間少年……やはり、君は)

 

 背後で、指がわずかに緩む。

 

 私の方に、呼吸を読むように。

 

 私は、紅茶の香りの漂う空間で、静かに目を閉じ直した。

 

 ――次に、彼がどこへ手を伸ばすのか。

 

 それを、確かめてみたくなった。

 

 

 背骨の両脇をなぞるようにして、彼の指がゆっくりと上に移動してくる。

 

 骨に沿って滑る感触は、指の腹というより、もっと柔らかく繊細な、爪を立てない猫の前足のような感触だった。

 

 (……どこまで来る?)

 

 私は内心で、そう構えていた。

 肩甲骨の内縁を通るあたりから――慎重さが、必要になる。

 

 シャツの上からとはいえ、背中を触れること自体が教師に対する“冒険”だ。

 それを男子生徒が行っているとなれば、警戒して当然だった。

 

 けれど――

 

 佐久間少年の指先は、そこをあっさりと通り過ぎた。

 変な間も、もたつきもなかった。まるで、施術手順の一部として、ごく自然に扱っているような。

 

 (……そういう“手”か)

 

 私は、改めて椅子の背もたれに体を預ける。

 彼の手は、すでに肩甲骨の上端近くへ達していた。

 

 「もう一度、首まわりを触れます」

 

 声が静かに響いた。

 私の承諾を待つような調子ではあるが――実際には、拒否の余地を与えない、淡々とした通達でもある。

 

 「どうぞ」と短く返すと、すぐに手が動いた。

 

 今度は、親指を使って、僧帽筋の根本あたりを円を描くように圧していく。

 

 (……上手い)

 

 その一言に尽きた。

 

 強すぎず、弱すぎず。

 ただ押すのではなく、筋肉の動きを感じながら、そこに“ほどく”ように力を流していく。

 こんな手技ができる高校生がどれほどいるというのか。

 

 とはいえ――

 

 (……本当に、これだけなのか?)

 

 指が髪の生え際、耳の後ろに近づいていくにつれ、私は再び微かな緊張を覚える。

 

 そのあたりは、直接的な“境界”ではないにせよ、顔に近すぎる。

 異性に触れられることに、意識せざるを得ない場所。

 

 だが。

 

 「首のうしろ、熱持ってますね。少し、圧します」

 

 彼の声は、あくまで落ち着いていた。

 そしてそのまま、ゆっくりと親指で首筋を押し広げていく――

 

 驚いたことに、そこにはなんの迷いもなかった。

 

 (……ほんとうに、触れないんだな)

 

 ギリギリのところで止まる。

 あと1センチ踏み込めば、もう“ただのマッサージ”ではいられなくなる。

 その線を、きちんと越えてこない。

 

 越えないことで、むしろ私の中の警戒心が、奇妙に揺らぎ始める。

 

 (……どこまでが“計算”なんだろうな)

 

 無防備になっているのは、果たしてどちらか。

 そんな問いが、ぼんやりと頭に浮かんだ。

 

 そして、彼の指がふわりと離れる。

 

 「……一度、肩を回してみてください」

 

 私は言われるまま、そっと肩を回した。

 軽い。張りついていた膜が取れたみたいに、驚くほど軽かった。

 

 (……馬鹿な。こんな短時間で)

 

 いや、技術的には、十分ありえる範囲かもしれない。

 けれど、ここまできれいに効くとは――

 

 「……どうでしょうか?」

 

 ソファに戻った佐久間少年が、柔らかくこちらを見ていた。

 

 私は、彼に顔を向けた。

 

 そして、軽く頷いた。

 

 「悪くない。まったく、君は……」

 

 声がわずかに漏れた。

 警戒していたのに――この手は、確かに、癖になりそうだった。

 

 

 「では、次は頭皮を触れます。頭を軽く預けてもらっても?」

 

 佐久間少年の声は、どこまでも静かで、滑らかだった。

 

 「どうぞ」

 

 そう返すと、彼は椅子の背もたれをそっと動かし、私の頭部に手を添えた。

 

 親指以外の四指で、頭皮を包み込むように支え――そのまま、ゆっくりと円を描く。

 

 (……はあ)

 

 思わず、微かな息が漏れる。

 

 指の動きは、絶妙だった。

 髪をかき上げたり押し付けたりはせず、皮膚をわずかに持ち上げるようにして、柔らかく押し込む。

 

 特に側頭部――こめかみよりやや後ろのあたりに指が来たとき、思わず肩の力が抜けた。

 

 (こめかみの裏……咬筋の緊張を取るには、ここを動かすのが正解か)

 

 マッサージの知識としては、私にも少しはある。

 だが、それをあくまで“自然にやっている”この少年は――やはりただ者ではない。

 

 その手が、ゆっくりと頭頂部に移る。

 

 左右から、交互に、均等な力で。

 押して、引いて、また押して。

 

 しっかりした“施術”というより、むしろ……“導かれている”感覚に近かった。

 

 ――そして。

 

 「先生は、催眠術って……ご存じですか?」

 

 突如、話題が飛んだ。

 

 私は目を開けなかった。

 

 (……来たな)

 

 唐突だったが、不思議と違和感はなかった。

 なにせ、彼の指がいまだ頭皮の上を漂っているのだ。問われた私の意識は、ほんの少しだけ揺れた。

 

 「知ってはいる。……古典的な暗示誘導だろう? 理論としては」

 

 「ああ、やっぱり先生ならその説明になりますね。正しいです」

 

 くすりと笑うような声だった。

 そのまま、頭皮のつけ根――首の生え際あたりを、じんわり押し込む。

 

 背筋にひやりとした感触が走った。

 

 「でも、誤解されがちで。眠らせたり、術者がコントロールしたりって、そういうイメージ強いじゃないですか」

 

 「事実、そう扱われるケースもあるだろう」

 

 「そうですね。でも本質的には――集中と、受け入れる準備が整った状態を作るだけ、なんです」

 

 その言葉と一緒に、指がぐっと強く押し込まれる。

 まるで、その“集中”というものを、物理的に教え込まれるように。

 

 「“深いリラックスのなかで、心の窓を開く”って言えばいいんですかね。……あ、このあたり、ちょっと凝ってます」

 

 こめかみに触れながら、さりげなく話題が戻される。

 

 だが、意識の芯は彼の前の言葉に捕まったままだった。

 

 (心の窓……ね)

 

 それは、たしかに魅力的な状態だ。

 不用意な言葉で攻撃されることもなく、すべての判断が静かに、自分の内側で済まされていく。

 まるで、自分の本質だけが浮かび上がるような。

 

 「でも、誰にでもできるわけじゃないんですよ」

 

 「……君には、できると?」

 

 「少しだけなら。先生みたいに理性の強い人には、通用しないかもですけど」

 

 指が、今度は側頭部から耳の後ろを通り、ゆっくりと撫で下ろされた。

 

 (……試しているのか?)

 

 いや――感触としては、どこまでもマッサージだ。

 いやらしさは、ない。

 

 それでも。

 

 「たとえば今、僕が“目を閉じて、肩の力を抜いて”って言ったら――」

 

 「もう、そうしている」

 

 私が言うと、彼は一瞬、ほんの一瞬だけ沈黙して――そして、また微笑した気配がした。

 

 「……さすが、先生ですね」

 

 指の動きは、まったく変わらない。

 けれどその言葉は、どこか――“選ばせたはずの答え”を導いた人間の声だった。

 

 私は、静かに息を吐いた。

 

 (……面白い)

 

 この少年は、ただ技術を見せているだけではない。

 言葉、触れ方、距離、時間――それらすべてを計っている。

 観察し、反応を見て、そして次の一手を選んでいる。

 

 教師としての警戒は、消えていない。

 

 けれど、興味の方が勝っていた。

 

 (……では、次に彼がどう出るか)

 

 私は、目を閉じたまま、椅子の背に身を預けた。

 その上で、心の奥で呟いた。

 

 (もう少し、付き合ってみるか。佐久間少年)

 

 

 佐久間少年の指先が、頭頂部からこめかみ、後頭部へと移る。

 動きは変わらず柔らかいが、徐々に――ほんのわずかに、触れる“間”が長くなっているのがわかった。

 

 「……深呼吸、できますか?」

 

 唐突にそう言われたが、違和感はなかった。

 

 既に私は、彼の手の動きと呼吸が一致していることに気づいていた。

 まるでこの部屋の空気そのものが、彼の指先に導かれているようだった。

 

 私は言われるまま、息を吸い、吐いた。

 それに合わせて、頭皮を押し広げるように手が動く。

 

 「そのまま。ゆっくりでいいです。……吸って、吐いて。もう一度」

 

 (……“指示”になってきたな)

 

 彼が今しているのは、もはや単なるマッサージではない。

 それを私は知っている――否、“理解している”。

 

 (だが……このまま、見てみたい)

 

 彼の「技術」のすべてを。

 

 どこまで私の理性に触れ、どこまで私を揺らすことができるのか。

 この少年の“術”の奥行き、その正体を。

 

 指先は、耳の後ろを撫で、うなじにそっと沿っていく。

 触れたところがぽうっと温かくなり、そこを境に、皮膚の感覚がじんわりと広がっていく。

 

 まるで、何かが滲んでいくような――不思議な“間延び”が起こっていた。

 

 「……いいですね。そのままで。何も考えなくていいです」

 

 その言葉に、私は軽く眉をひそめる。

 

 (何も考えなくていい……?)

 

 私は思考の力を誇ってきた。

 人の意見に流されず、自分の中に判断軸を持つことが、私の矜持だった。

 

 けれど――

 

 今、この手のひらの下で、「考える」こと自体が、だんだんどうでもよくなってきている。

 実際、思考が遅れていることに気づく。

 

 (……これは、ただの誘導ではない)

 

 そう理解した瞬間だった。

 

 「少し、瞼が重たくなってきていませんか?」

 

 静かに、そう囁かれる。

 

 (……重たい……?)

 

 思わず意識を向けてしまったその言葉に、からだが即座に反応した。

 

 瞼が――本当に、少しだけ、重たい。

 

 たしかに開いていたはずなのに、どこか霞んでいて、今、自分の視界がどれくらい確かかさえ怪しくなる。

 

 「先生は理性的です。だからこそ、リラックスすることを難しく感じるかもしれません」

 

 (……図星だな)

 

 「でも、今は“先生である”必要はありません。……佐久間の前では、ただの人間でいていいんです」

 

 ぞわり、と背筋が震えた。

 

 どこまでも穏やかで、丁寧で――それでいて、核心だけは絶対に外さない声。

 “教師”という鎧を、やすやすと潜り抜ける。

 

 (……この少年、まったく迷いがない)

 

 どれほどの訓練と場数を積んでいれば、ここまで自然に“入り込める”のか。

 その一歩一歩が見事すぎて、抗おうという意志すら起きない。

 

 「そう……そのまま、ゆっくり目を閉じて。……少しの間、何も話さなくて大丈夫です」

 

 その言葉の通りに、私は瞼を閉じた。

 そう“してしまった”のだ。

 

 

 (……これは、私が選んだのだろうか)

 

 そう考える隙さえも、今は与えられていないのかもしれない。

 

 思考が霧に沈んでいく。

 けれど、それは不快ではなかった。

 

 むしろ心地よく――

 まるで、“理性の皮”を一枚ずつ、そっと剥がされていくような。

 

 (佐久間少年……君は、いったい)

 

 唇の裏側で、そう呟いた。

 

 その少年が、次にどんな言葉を与えてくるのか。

 

 私の内側のどこを照らしてくるのか。

 

 私はただ、それを――待っていた。

 

 

 

 頭を、完全に預けていた。

 

 後ろから、両手が支えてくれている。

 掌の輪郭が、うなじと後頭部に優しく沿っていて、そこに体重のほとんどを任せてしまっているのに――なぜか、まるで浮いているようだった。

 

 蒼真の指先は、ただ固定しているだけではなかった。

 時折、ごくわずかに揺れたり、円を描くように頭を動かしたり――まるで、水面に浮かんでいる葉を操るように、緩やかで繊細な動きが続いている。

 

 (……こうも、無防備になるものか)

 

 それが、恐怖ではなかった。

 

 むしろ安心だった。私が、今この椅子に沈んでいけるのは、この手があるからだ。

 そう思えるくらい、確かな支え。

 

 「……そのまま、少し頭を揺らしますね」

 

 囁くような声が、鼓膜の奥にすっと染みる。

 

 言葉が届いたあと、首の奥に微かな感覚が生まれた。

 右へ、左へ――ほんのわずかに、ゆっくりと。

 

 小さな波に揺られているような感覚。

 思考がふわりと浮き上がって、次の瞬間には沈む。

 

 (……気持ち悪くなるような揺れではない)

 

 ただ、無重力。

 重心が見つからないのに、どこにも落ちない。

 

 「このリズム、悪くないですよね」

 

 また言葉。

 それが、まるで身体の奥の“振動”と同期しているかのように感じられる。

 

 私の頭は今、彼の手の中で――

 どこにも固定されず、どこにも逸れず、揺れていた。

 

 「……体を自分で支える必要はありません。僕が、ちゃんと受け止めていますから」

 

 (……ああ)

 

 それが、どれほどの安心感になるか――今の私なら、誰よりも理解できる。

 

 首をあずけ、頭をあずけ、思考まで預けて。

 それでも落ちない。崩れない。

 

 (これは……怖いほどに、やさしい)

 

 静かに、彼の手が後頭部の中心を撫でた。

 小脳のあたり。そこからじんわりと、また波が生まれる。

 

 私は、抵抗しなかった。できなかった。

 ただ、それが“快い”と知ってしまっていたから。

 

 「……このまま、何も考えずに。頭が空っぽになっていくのが、気持ちいい」

 

 そう囁かれたとき――

 私は初めて、自分が今、“考える”という行為を完全に手放していたことに気づいた。

 

 (……私は、いま)

 

 何も――していない。

 

 目も、見ていない。耳は、聞いているけれど、意味を持って受け取っていない。

 この少年の声だけが、唯一、意味をもって心に触れてくる。

 

 (おそろしいな……)

 

 それなのに。

 それでも、まだ“委ねてみたい”と思っている自分がいる。

 

 「……大丈夫です。まだ落ちないでください」

 

 (……まだ?)

 

 「もう少し、丁寧に、深く」

 

 その言葉に、無意識に呼吸が整った。

 息を吸って、吐く。そのリズムさえも、いつのまにか彼に合わせていた。

 

 「まだ落ちない。だから安心して。気持ちよさに集中して――ただ、僕の声だけを聞いていてください」

 

 この少年は――まだ、私を“落として”いない。

 今はただ、“ここまで来てください”と手を差し出しているだけなのだ。

 

 (……そうか。これでも、まだ……)

 

 私の中にあった最後の警戒心が、ふっと溶ける。

 そうしてまた、首が僅かに揺らされ、頭が傾き、視界の残光がとろりと流れた。

 

 私は、完全に――この手の中にいた。

 

 

 「……先生、“落ちる”って言葉、聞いたことありますか?」

 

 唐突に、少年がそんなふうに言った。

 

 もちろん、日常会話の中でなら使う。

 何かを落とす。落ち込む。失敗する。そういう意味での「落ちる」なら、いくらでも。

 

 だが――いま、この状況で彼が使ったその響きは、明らかにそれとは違っていた。

 

 私は無言のまま、頭を彼の手に預けていた。

 視界は閉じている。だが、意識は彼の声に、いやでも引き寄せられていく。

 

 「落ちるっていうのは、身体じゃなくて、意識の話です。

  目が覚めてるのに、眠ってるみたいな。夢を見てるのに、ちゃんと聞こえるみたいな」

 

 その言葉に、胸の奥が少しだけざわついた。

 

 (夢……の中に、意識がある……?)

 

 「頭の中が、だんだん空っぽになって。

  考えごととか、重力とか、ぜんぶどうでもよくなって――ただ、気持ちよさだけが残る」

 

 私は、ごくわずかに喉を鳴らして息を飲んだ。

 

 (……気持ちよさだけが、残る?)

 

 「不安も、理性も、肩に乗ってたものも。

  いっそ全部、手放して。

  ただ、“委ねてる”っていう感覚に、沈んでいく」

 

 言葉のひとつひとつが、柔らかく、でも確かに意識の奥を撫でていく。

 

 「だから、“落ちる”って言うんです。

  それは、何かを失うんじゃない。むしろ――」

 

 少年の声が、少しだけ低くなった。

 

 「ずっと欲しかったものを、手に入れる瞬間みたいな感覚です」

 

 (……欲しかった、もの)

 

 私は――欲しがっているのだろうか。

 

 気づかれないように、小さく息を吐く。

 

 その間も、彼の両手はずっと、優しく私の頭を支えていた。

 揺らすでもなく、ただそこにある、ということ自体が心地よい。

 

 「すぐにそうなろうとしなくていいです。

  先生が本当に“落ちたい”と思ったときに、自然にそうなるから」

 

 (……そうなりたい、か)

 

 確かに、私は今、すでに半分近くまで来ているのかもしれない。

 

 思考はまとまりづらくなっている。

 だが、不快ではない。むしろ――静かだ。

 

 (意識が、沈んでいくような……)

 

 彼が言ったことが、少しずつ、実感として理解できていく。

 

 「気持ちいいですよ。すごく、気持ちいいです。

  自分の輪郭が、ぜんぶ溶けていって、ただ“在る”っていう感じになる」

 

 (……“在る”だけ)

 

 重さも、力も、緊張もなくなって――ただ、自分がここに存在しているという感覚だけ。

 

 (そんな境地が、本当にあるのだとしたら)

 

 私は――

 

 (それを、体験してみたい)

 

 ゆっくりと、思考の底から、その願いが浮かび上がってきた。

 

 誰かに命令されたわけじゃない。

 誘導されたわけでもない。

 

 ただ、彼の言葉を聞いて、彼の手を感じて。

 私は自分で――それを望んだ。

 

 (……もっと、このまま……)

 

 (沈んでいっても、いい)

 

 その瞬間。私の中の“教師としての境界”が、音もなく消えた気がした。

 

 もう少し――もう一段深く、彼の手の中に身を預けてみたい。

 そんな気持ちが、ゆるやかに広がっていった。

 

 

 彼の指が、頭皮の奥へとゆっくり沈んでくる。

 押すのでも、揉むのでもなく、ただ内側へ、やさしく染み込んでくるような――そんな不思議な感触だった。

 

 「ここから、ゆっくり数えていきます。十から、一まで。

  先生の意識が、深く、静かに、沈んでいくように」

 

 彼の声が耳の奥に届く。

 深い響きと、温度のない静けさが混じり合った声。

 

 私は黙って、目を閉じていた。

 まぶたの裏に、さっきまでの黒板の板書や、教室のざわめきがぼんやりと浮かぶ。

 だが、それもすぐに、遠くなっていく。

 

 「――十。まずは、今ここに座ってることを意識して」

 

 彼の手が、こめかみからゆっくりと円を描く。

 

 「椅子の背もたれ、座面の感触。足の裏にある床の温度。

  どこにも力を入れなくていい。ただ、そのままで、楽にして」

 

 息がふっと抜けた。

 自分でも気づかないうちに、奥歯に力が入っていたらしい。

 

 「――九。まぶたが、だんだん重くなる。

  でも、開けようとは思わない。今はそれが、とても自然で、心地いい」

 

 その言葉に、私は何も言わず、ただ静かに頷いていた。

 まぶたの裏の暗闇が、ゆっくりと柔らかく、深く沈んでいく。

 

 「――八。頭の奥が、じんわりと温かくなっていく。

  それは、指先から伝わってきたぬくもり。

  考える必要も、記憶をたどる必要もない。……ただ感じるだけでいい」

 

 私は、自分の呼吸がいつもよりずっと浅くなっていることに気づいた。

 

 (……深呼吸、しなきゃ)

 

 そう思っても、身体はもう勝手に動いていた。

 

 「――七。頭が、ゆらゆらと揺れていく。

  僕の手が、そっと支えてるから、安心して。揺れても、傾いても、落ちても――」

 

 (……落ちても)

 

 その言葉が、耳の奥に残った。

 

 「――六。もう、目を閉じてるのが当たり前になる。

  光も、時間も、世界も、ゆっくりと外れていって――

  今、先生の世界にあるのは、僕の声と、僕の手だけ」

 

 (……そうだ。そう、なっている)

 

 「――五。力が抜けて、肩のあたりがほぐれていく。

  意識はそのまま、深く、静かに。息を吸って……吐いて。

  吸って……ゆっくり、吐く。……そう、それでいい」

 

 私は、その呼吸に合わせて、まるで糸で引かれるように従っていた。

 

 (数えるごとに、確かに何かが――)

 

 「――四。ここから先は、少しずつ、浮遊感が出てきます。

  重力が抜けて、まるで水の中に沈んでいるみたいに。

  息を吐くたびに、下へ下へと落ちていく」

 

 確かに――足先からふわりと軽くなっていく。

 それと反比例するように、頭の内側はじんわりと重く、濃く沈んでいく。

 

 「――三。考えることが、どんどん減っていく。

  あれも、これも、いったん手放して。

  もう、判断する必要も、構える必要もない。……僕が、ぜんぶ導きますから」

 

 (導かれる……)

 

 不思議と、その言葉に反発はなかった。

 むしろ、少しだけ、安堵のようなものがこみあげた。

 

 「――二。あと少し。もう、そこにいる。

  あと一歩で、落ちる。あと一呼吸で、完全に、解き放たれる」

 

 頭が、ふっと後ろへ傾く。

 でも、彼の手がしっかり支えてくれていた。

 

 (……最後の、数)

 

 そして――

 

 「――一。深く、沈んで。僕の声だけが、あなたを包んでいる」

 「……それ以外は、何もない。何も、いらない」

 「ただ、静かで、気持ちよくて。……それだけで、充分です」

 

 私は、そこにいた。

 

 けれど、もう“私”という枠の感覚は希薄だった。

 

 何かを疑う思考も、理性も、境界も。

 すべてが、静かに、穏やかに――ほどけていくのを、ただ感じていた。

 

 ――そして。

 

 彼の声が、もうひとつの数字を告げる。

 

 「……ゼロ」

 

 そのとき、何かがそっと動いた。

 私のまぶたの上に、ぬくもりのある掌がふわりと重なる。

 まるで、そっと包むように。優しく、すべてを遮るように。

 

 (……あ……)

 

 それだけで、世界がひとつ静かになった。

 

 室内の光も、壁に反射する紅茶の香りも、ソファの布地の感触も、どこか遠くなる。

 暗闇が深くなり、けれどその暗さが、妙に心地いい。

 

 手のひらの内側は、ぬくもりだけじゃない。

 肌を通して伝わってくる、確かな感情がある。

 「ここにいていい」「預けていい」――そう言われているような、根源的な安心。

 

 その瞬間、私は、気づいてしまった。

 

 (……ああ……これが、そうか)

 

 ずっと私は、“知りたい”と思っていた。

 

 誰も知らない領域を、この目で見たい。

 誰も体験していないものを、私だけの感性で捉えたい。

 

 その知的な欲求が、ずっと私を動かしてきた。

 

 けれど――今、私が触れているものは。

 そんな知的好奇心を、はるかに超えた、なにか。

 

 (……気持ち……いい……)

 

 ただそれだけ。

 なのに、それがすべてを満たしていく。

 

 頭の奥に、じんわりと甘い光が灯るような感覚。

 温かくて、ほどけて、なにもかもが滑らかに溶けていく。

 脳の隙間に染み込んでくるような快感が、静かに、確実に、広がっていく。

 

 (……こんな……)

 

 こんなに、心が安らいで、満たされて、

 余計な思考も、警戒も、恥じらいもすべて溶けて――

 

 その上で、ただ、気持ちがいい。

 

 (ああ……だめだ、これ……戻れない)

 

 そう思った。

 けれど、それを恐れてはいなかった。

 

 むしろ、戻りたくないとすら思った。

 この深さに包まれていたい。もう少しだけ、ここにいたい。

 

 佐久間少年の手のひらが、私のまぶたを覆っている。

 

 その一点だけが、この空間と私を繋ぐ、最後の光だった。

 

 ――そうして私は、完全に“落ちた”。

 知の探究者としての顔を手放し、ただの、ひとりの“人間”として。

 誰よりも深く、甘く、静かに――トランスという名の楽園に、沈んでいった。

 

 

2件のコメント

  1. 警戒と興味の間で落ちていく先生。

    警戒心が強いのに落とすのかと思ったら割と先生も興味を持って受け入れてた。
    今回が導入で次にどういうふうに操っていくのか楽しみでぅ。

    1. めちゃめちゃ興味持っちゃったのが良くなかったですね。
      蒼真くんもなかなか肝が据わっている

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