[AI]「あれ、これ催眠じゃない?」27 高野千夏 練習

 さて、今日のひまりノルマも無事に終了。

 今日も非常に可愛かった。

 

 次の約束のため、スマホをチェックしていると、

 

「……おっ」

 

《佐久間くん、大丈夫?》

 

 約束の時間ぴったりにメッセージが届いている。

 千夏だ。

 

「真面目だなあ……」

 

 通話アイコンをタップすると、数秒のコールのあと、すぐに声が返ってきた。

 

『あ、佐久間くん。お疲れさま』

 

「お待たせ」

『いや待ってない。佐久間くんこそ、大丈夫だった? 何かしてたり』

 

 声の調子は明るくて、どこか探るような軽さが混じっていた。

 

「……あー、春野ひまり、知ってる?」

 

 名前を口にすると、通話の向こうが一拍置いてから反応した。

 

『えっ、え? 春野さん?』

 

 その言い方は、もちろん知ってるというニュアンスだった。

 

「さっきまで、ひまりと通話してた」

 

『えええぇ!?』

 

 間を挟む間もなく声が跳ねる。

 

『ちょっ、待って、それって……私のことはいいから、そっちに行ってあげて!?』

「もう済んだよ」

 

 さすがにあれだけやったら十分だろう。

 

『うーん……春野さんに申し訳ないなあ、それ……』

 

 なるほど、ひまりの機会を取ってしまったと認識しているのか。

 ……真面目だなあ。

 

「いいんだ。あれ以上やると、死にかねないから。ちょうどよかった」

 

 おもちゃ使っての連続クリイキだからな。

 催眠なしじゃ絶対できないやつだし。

 

『ちょっと、彼女さんに何してるの!?』

「彼女ではないから」

 

 そう言うと、千夏の笑い声が小さくこぼれた。

 少しだけ沈黙が流れて、千夏の声色がほんのわずか変わった。

 

『……えー? じゃあ、私の話は手短に』

 

 神妙な、らしくない口ぶり。

 

『あのね、佐久間くん。マジでありがと』

 

「ん?」

 

『私……蓮くんと、昨日……その……初めて、できたんだ』

 

 曖昧な言い回し、妙に慎重な口調。

 千夏は続ける。

 

『もちろん、本人と話し合った上で、ちゃんとした気持ちでだし。……でも、私がそういう気持ちになれたのって、たぶん……佐久間くんがいたからじゃん』

 

「……」

 

『だから、ありがと。……ほんとに、感謝してます、って伝えたかった』

 

 少しだけ、言い慣れてない礼儀正しさがにじんでいて。

 そのあとの言葉は、いつもの千夏だった。

 

『はい、用事おしまい! 彼女さんのところ行ってあげな!』

「……彼女ではないって」

 

 即座に訂正すると、千夏は小さく鼻で笑って、

 

『でもさ、蓮くんも言ってたよ。“あいつらはどう見てもデキてる”って』

 

 ……なるほど。そこから来たのか。

 

「おいおい。蓮の言うことなんて、信用できると思ってるの?」

 

 わざと軽く言ってやると、

 

『え、あー……ぷっ……ふふっ、あはっ……やば……それは、そうかも……!』

 

 電話越しに、堪えきれない笑い声がこぼれた。

 

『まあ、蓮くんだしなー、そうだけどさ』

「……それに」

 

 ひまり、ね。

 ふと、さっきの様子を思い出して、口元にわずかに笑みが浮かぶ。

 

「ひまりは今ごろ、トイレでイきまくってる頃だよ」

『は?』

 

 一拍の間。

 そして、思いっきり素の声で返された。

 

『なにそれ。どゆこと?』

「さっき、暗示を入れておいた」

 

 ――満足できてないなら、カラオケの時みたいにおしっこでイける。

 

 これ、卑怯なんだよな。

 ひまりも、誰でも、気持ちいいのはいくらでも欲しいんだから。

 満足してても、こんな暗示を目の前にぶら下げられたら、欲しくなるに決まっている。

 

『……暗示って……また催眠!?』

「うん、通話してたときにね」

 

 さらりと告げると、通話の向こうから「ぅわ」という短い息が漏れた。

 

『そういうとこ、ほんと怖い……!』

 

 怯えてるというより、呆れてるような、でも少しだけ興味の混じったトーン。

 

『ていうかさ、催眠って……通話でもできるんだ?』

「できるよ。不便なこともあるけど、むしろ声だけの方が、余計な刺激がなくて集中しやすいこともある」

 

『へぇ……』

 

 ちょっと感心したような声が漏れたあと――

 少し、沈黙。

 

『じゃあ……今も?』

「ん?」

 

『佐久間くんが本気出したら……私にも、できちゃったりする?』

 

 言いながら、自分でも笑っているようだった。

 でも、声の奥にふわりと熱が混ざっていたのは――気のせいじゃないだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 蓮くんとのデートから帰ってきて、シャワーを浴びたあとも、なんだか気持ちがふわふわしてる。

 ちゃんと帰ってきて、部屋の明かりも点いてるのに――なんとなく地に足がつかない。夢を見てるみたいっていうのかな。 

 

 ……ううん。違うな。

 きっと、それだけ今日が“幸せだった”ってことなんだと思う。

 

 彼は――まあ、間違いなく変な人だけど。

 でも、あんなふうにたくさん触れてくれて、名前を呼んでくれて、

 私のことを欲しいって、ちゃんと伝えてくれたのが、何より嬉しかった。

 

 部屋の机に座って、スマホを立てかけて、いつもどおりの寝間着。

 兄貴のおさがりのダボTに、よれよれのショーパン。

 誰に見せるでもないけど、なんとなく気が緩む組み合わせ。

 

 そんで今は、佐久間くんと通話中。

 

『――そんなわけで、通話で催眠することも結構あるよ』

 

 彼の声が、イヤホン越しに落ち着いた調子で響く。

 

(……じゃあ、やっぱり。今、私にもかけようと思えば、できちゃうんだ)

 

 そんなことをふと考えて、でもすぐに頭を振って追い出した。

 さすがに、そんな――

 

「あー、うん。そう、催眠。やっぱり、蓮くんとうまくいったのも佐久間くんの催眠のおかげだもんね。ほんとに、ありがとう」

 

 気持ちを切り替えるように、あらためてお礼を伝えた。

 すると、彼の声が少しだけトーンを落とす。

 

『……うまくいった?』

「うん……まあ……うまく、いったよ?」

 

 返しながら、自分でも曖昧な口調だと分かっていた。

 

 確かに、結ばれた。

 初めて――そういう関係になった。

 でも、気持ちいいとか、そういうのは……なかった。

 

 挿入されたとき、痛いかなと思ったけど、思ったより平気で。

 ただ、それ以上の何かがあったかといえば――なかった。

 テレビとか、兄貴が隠し持ってたスケベな本とかで見たような、

 そういう“気持ちいい”とか、“イく”とか、そういうのは全然。

 

(むしろ……催眠でみこちんとしちゃったとき、それだった)

 

 ……私がおかしいのかな、ってちょっとだけ思った。

 でも、それでも蓮くんと繋がれたこと自体は、たぶん“うまくいった”って言っていい気がする。

 

『それは、満足できたってこと?』

「……あー……私はいいんだけどね」

 

 一呼吸おいて、スマホを見つめながら続けた。

 

「たぶん、蓮くんは……満足できてないと思う」

『というと?』

 

 思い出す。

 蓮くんは、してくれたけど、しばらく続けて……それでなんか、どちらからともなく気まずい感じで終わった。

 特に盛り上がりはなかったんだよね。

 

「射精、ってあるじゃん。してなかったの。……最後まで」

 

 言ってから、耳が少し熱くなる。

 でも、事実だった。

 

 蓮くんは優しかったし、私をちゃんと気遣ってくれてた。

 でも、私のほうは何をしてあげられたのか分からなくて。

 たぶん、あのままじゃ、彼は満足できなかったんじゃないかって――そう思った。

 

『なるほどね。別に、普通だと思うけど。初めてのときなんて』

「……普通?」

 

 私の言葉を受けて、佐久間くんは淡々とそう返した。

 ……なんか、見透かしているみたい。

 

(春野さんと、いっぱいしてるんだろうな)

 

『別に、それだけが全てってわけじゃないよ。あいつだって、千夏が可愛くて仕方なくて、気持ちよくさせたいんだろうし』

「ええぇ……」

 

 予想してなかった言葉に、変な声が出た。

 可愛い、って。……私が?

 

 そんな風には、私には、ちっとも思えなかった。

 

 兄貴には昔から「お前ほんとガサツだな」って言われてるし、

 髪はちょっと放っておくとすぐぼっさぼさになるし、

 女の子らしい服なんてほとんど持ってない。似合わないし。

 声も低いし、背も無駄に高くて――蓮くんと並んだら、ほとんど変わらないくらい。

 

 全然、女の子らしくない。

 

「……私、可愛くないって」

 

 ぽつりと、自然に口からこぼれていた。

 それに対する佐久間くんの返事は、ちょっとだけ間を置いて。

 

『そう? 蓮の気持ちは、そうじゃなかったよね?』

「あ……」

 

 その一言で、思い出す。

 

 あの日――私が、催眠で蓮くんの“中身”になった時。

 蓮くんの感情、目線、身体感覚――全部が、自分に乗っかってきたような、不思議な感覚。

 

 私が私を見る――そういう感じだった。

 

 可愛いって、思ってたんだよね。

 私のことを。恥ずかしくて、手を伸ばせないくらい、大事に思ってくれてて。

 

 でも。

 

「……みこちんのほうが、ずっと可愛いもん」

 

 ぽつりと、つぶやく。

 

「頼りがいもあって、かっこいいのにさ。小さくって、可愛いんだ。私なんかとは、大違いだったよ」

 

 何を張り合ってるんだろうって、思いながら、それでも止まらなかった。

 

 私と違って、あの子は「女の子」だって、誰が見ても思うような子だった。

 

 それに比べて私は、ぜんぶ中途半端で。

 

 少しの沈黙のあと、佐久間くんの声が、すっとトーンを落とした。

 

『ふーん。千夏は、そんなふうに思ってるんだ』

 

 いつもの無表情みたいな調子じゃなくて、

 どこか静かに、底の見えない深さみたいな響きがあった。

 

 聞いてくれてるのに、何かを測ってるような……そんな声だった。

 

「……佐久間くんだって、そうでしょ」

 

 気づいたら、責めるみたいな言い方になってた。

 

『僕?』

「春野さん。すっごく可愛いよね。女の子らしくって、キラキラしてて」

 

 あの子は誰にでも愛想よくて、男子にも女子にも好かれてて、

 まるで陽の光みたいに、まっすぐで――私の手には届かない感じの子。

 

 私とは、全然違う。

 

『まあ、ひまりはめちゃめちゃ可愛い』

 

 即答だった。

 苦笑いが漏れる。

 

「……ほら」

 

 やっぱり、そうなんだよ。

 

 私は、自分の中の“普通以下”をずっと隠してきたのに、

 ああやって真正面から“可愛い”をぶつけられたら、敵うわけがない。

 

 でも、佐久間くんは、そこでふわっと声の調子を変えた。

 

『でも、千夏だって可愛い女の子だよ』

「……嘘つかないでよ」

 

 思わず、食い気味に返してた。

 

 だって、嘘にしか聞こえなかった。

 そう言われても、どう反応したらいいのか分からなかった。

 

『蓮はバカだけど、女の子を見る目はあるらしい』

「……なにそれ」

 

 皮肉? 冗談?

 

 そう思ったけど、笑いはなかった。

 淡々としてるのに、真っ直ぐだった。

 

 だから、次の一言は、まっすぐ胸に刺さった。

 

『僕から見ても、千夏は可愛いってこと』

 

 ――え。

 耳が、熱くなる。

 

 心臓の音が、イヤホンの中まで聞こえてるんじゃないかと思った。

 言葉の裏を探す余裕なんて、なかった。

 

「……」

 

 何も返せなかった。

 

 ただ、胸の奥がじんと痺れて、言葉が浮かんでこなかった。

 

 

 

「……佐久間くんは、可愛いと思う女の子には……したいわけ?」

 

 喋った瞬間、心臓が跳ねた。

 

 なに聞いてんの私。

 でも、もう戻れなかった。

 

 通話の向こうで、少しだけ間があって――

 

『何を?』

「……その、エッチなこと」

 

 勢いで続けたけど、耳まで熱くなった。

 

「いや、勘違いしないでね? 私には蓮くんいるから。させんけど」

 

 念押しはしたけど、喋ってる自分が一番恥ずかしかった。

 だけど、佐久間くんは、いつも通りの調子でさらりと返した。

 

『どうだろ』

「……どうってなに」

 

 曖昧すぎて、余計にドキドキする。

 でも、続いた言葉は、だいぶ直球だった。

 

『催眠はしたい。そういう趣味なもんで』

「……変態か?」

 

 思わず、眉をひそめてそう言った。

 すると、佐久間くんは一拍置いて、はっきりと言った。

 

『変態だよ』

 

 それがあんまりにも堂々としてて――

 

「……ふ、ふふっ」

 

 こらえきれずに、笑ってしまった。

 

「なにその自覚……変な人すぎるでしょ……っ」

 

 笑いながら、肩の力が抜けていくのがわかった。

 

 なんだかんだで、やっぱりこの人は、変な人だ。

 でも、不思議と嫌じゃなかった。

 

「はい先生、催眠は浮気に入りますか」

 

 ちょっと挑発気味に言ってみる。

 でもその返事は、案の定というか、やっぱりというか。

 

『入らないことにした方が都合がいいよ』

 

 即答かよ。

 

「……佐久間くん、そういうとこあるよな」

 

 平気な顔で、結構すごいことを言うし、する。

 私もあの催眠術を見るまで、こんなヤバい人だと思ってなかった。

 

『まあ、蓮は許してくれるよ』

「えー、この通話は、セキュリティ向上のため録音されています?」

 

 私はそう言いながら、スマホの録音ボタンを無言でタップした。

 

『じゃあ、蓮が喜ぶやつやらないとな』

「……聞かせるつもりなんだ」

 

 思わず引き気味に呟く。

 通話の向こうから、微かに笑ってる気配がする。

 

『千夏は、椅子に座ってる? それともベッド?』

「……座ってるよ。机の前」

 

 まっすぐな問いに、とっさに答えてしまった。

 でもその直後、また何か言われる気がして身構える。

 

『生理中とかは……あ、心配いらないか』

「……な、何させる気?????」

 

 聞き返しながら、スマホを持つ手がちょっとだけ汗ばむ。

 じっとしていた背中に、じわっと違和感が広がっていく。

 

 深く考えなければよかったのに、脳内でつながってしまう。

 

(心配いらないって……それ、つまり……)

 

 つまり、そういうことだ。

 私が蓮くんとエッチしてたことを知ってるわけで……

 

(昨日ヤってたし平気でしょ、ってこと……!?)

 

 言葉の意味をはっきり捉えた瞬間、背筋にゾワッとしたものが走った。

 恥ずかしいより先に、びっくりが勝ってしまって、変な汗が出る。

 

(いやいやなにそれ!! この人、ほんとに――)

 

 喉元まで出かかってた文句が、突っかかるように留まる。

 怒っていいのか笑うべきなのか、判断が追いつかない。

 

「……デリカシーって知ってる?」

 

 精一杯低い声で言ってみたけど、顔がじわっと熱くなっていくのは止められなかった。

 

『通話はこれ、イヤホン? 無線か、有線かも教えて』

「え……あ、有線のやつ。イヤホンだけど」

 

 なんだか急に、事務的な確認が始まった。

 でも、それが逆に本気なんだなって伝わってきて、少し背筋が伸びる。

 

『OK。じゃ、スマホは持たずに、机に置ける?』

「置いてるよ。机に」

 

 返事をしながら、ふと指先がイヤホンコードをなぞる。

 いつも通りのはずなのに、どこか落ち着かない。

 

『家族とか大丈夫だよね』

「うん。大きな声出さなければ」

 

 だから本当に、大丈夫なはず――なんだけど。

 なのに心臓だけは、じわじわと早くなっている気がした。

 

 そのまま、佐久間くんの声が、いつもより少し低く響く。

 

『じゃあ――目、つむって』

 

 ごく自然な声だった。

 不思議と逆らう気にならない、落ち着いたトーン。

 

 私は言われたとおり、まぶたをゆっくり閉じる。

 

『椅子に座ったまま……少しだけ、身体の力を抜いて』

 

 そう言われた瞬間、自分が思ったより緊張してたことに気づく。

 肩に入ってた力がじわじわ抜けていくと、呼吸が静かになっていくのがわかった。

 

『目を閉じたまま、想像してみて。いま、電車の座席に座っている』

 

 電車――。

 

 言われたイメージにすぐに乗れる自分が、ちょっと悔しい。

 

『そこまで上質でもないけど、硬すぎもしない。ちょっと沈む感じの、布張りの椅子。背もたれがある。両側には、他の乗客が座ってる』

 

 イメージが、するすると浮かんでくる。

 

 たしかに、意識するとお尻がちょっと沈むみたい。

 じんわり暑いようでもある。

 横には、誰かが座ってるような気配――これは想像だけど、なんか妙にリアルだった。

 

『ガタン……ゴトン……』

 

 車輪の音が、耳元にささやかれる。

 

『……ガタン……ゴトン……』

 

 繰り返されると、胸の中が深く静かになっていく気がした。

 心拍に寄り添って、どんどんリズムが合ってくる。

 

『揺れてる。すこしだけ、身体も、ふわふわと』

「……ん」

 

 わかんないけど、思わず声が漏れた。

 ふわふわする。ほんとに、揺れてるみたいに。

 

『……でも、横には倒れないようにしよう。ほかの乗客の迷惑になってはいけないから』

 

 本当は、横に倒れると部屋の床に落ちるから、かな。

 でも「乗客の迷惑になってはいけない」と言われると、なんとなくそんな気もしてくるから、不思議。

 

 身体と心が、じわじわ下へ引かれていく。

 

 ……でも、不安はなかった。

 

『……すごく疲れていて、電車の揺れが、やけに心地よく感じる』

 

 うん……そうかも。なんか、わかる。

 

 今日、いろいろあったし。

 たくさん話して、エッチもして、たくさん考えて――ちょっと、疲れてる。

 

 その疲れが、じわじわと背もたれに溶けていく感じ。

 

『まぶたが重くなって……うとうと、眠たくなってくる』

 

 言われるまでもなく、目の奥がじんわりしてた。

 瞼の裏の黒い世界が、やさしく広がってる。

 

 でも、眠ってるわけじゃない。

 

『……電車では、自分が降りる駅の名前が聞こえたら、ちゃんと起きることができるよね』

 

 確かに、そういうものかもしれない――

 今の私も、たぶん寝てるわけではない。

 

『だから、これは眠ってるんじゃなくて――ちゃんと、聞いてる状態』

「……うん……」

 

 声にならない声で、頷いた。

 

『ガタン……ゴトン……』

 

 確かに、聞こえてる。

 佐久間くんの声、ちゃんと届いてる。

 

『……ガタン、ゴトン……』

 

 そっか。

 佐久間くんが合わせて来ているんじゃない。

 

 私の心臓が、彼の言葉に合わせているんだ。

 

『心地よく揺られて、うとうと沈みながら……僕の声は、しっかり聞こえている』

 

 うとうと。うとうと。

 その言葉が、すごく心地よく、胸の奥に染み込む。

 

『ガタン、ゴトン……やがて、どこかの駅につく。アナウンスが聞こえるけど、君には関係ない場所』

 

 うん……

 関係、ない。

 

『……電車が止まる。プシューって、ドアが開く』

 

 言葉に合わせて、頭の中でドアの音が広がる。

 

『でも、降りる駅じゃないから、気にならない』

 

 うん、違う。私が降りる駅じゃない。

 

 目を閉じたまま、ドアの開閉を想像する。

 誰かが乗って、誰かが降りていく。けど、私は関係ない。

 

『がやがやと人が動いても、隣の席の人が入れ替わっても……気にならない』

「……ぅん……」

 

 ちいさく喉が鳴った。

 

 まわりの音も気配も、すべて遠い。

 自分のまわりだけが、しん……と静かで、とろけてる。

 

『ドアが閉まって、また発車する』

「ぁ……」

 

『体が右に引っ張られて……ガタン』

「ぅ、あ」

 

 体が、揺れた。

 

『脳みそが、そのままとろんと、そっちへ流れそうになる』

 

 ほんとに、そんな感覚がした。

 頭がかしげて、脳がすこし右へ傾いたみたいに、とろんと溶けかける。

 

(……でも、倒れない)

 

『そう、倒れないよ。迷惑になっちゃうから』

 

 こくん、と頭が揺れる。

 でも、ちゃんと姿勢は保ってる。不思議なくらい自然に、支えていられる。

 

『ガタン……ゴトン……』

 

 うあ……

 これ、気持ち、いい……

 

『……ガタン……ゴトン……』

「……こく……っ、こく……」

 

 首が、リズムに合わせて、小さく揺れる。

 力は抜けきって、気持ちよくて、ずっと揺られていたい。

 

『そのリズムに合わせて、頭の中に――真っ白な快感が、じわーっと広がっていく』

「……ふぁ……」

 

 力の抜けきった吐息が、口から漏れる。

 

 ――エッチのときには、分かんなかったけど……

 

 気持ちいいって、こういうのを言うのかな。

 ぽかぽかしてて、頭の芯がじんじんしてて。

 

 名前もないままの幸せが、広がっていくみたい。

 

 どこかへ行くわけでもなく、ただ座ってるだけなのに。

 

 私の意識は、どんどん――深く、沈んでいった。

 

 

 

『とても気持ちよくて……もう、どこへ行くつもりだったのかも思い出せない』

 

 言われて、はっとした。

 ……あれ? 私、さっきまで……何考えてたんだっけ。

 

 通話してたのは覚えてる。机に向かってた。けど……

 

(……うん、もう……いいや)

 

 どうでもよくなっていた。

 考えようとすると、言葉の輪郭がぼやけて消えていく。

 

『でも大丈夫。電車は、必ず君が行くべきところへ連れていってくれる』

 

 その言葉が、胸の奥にふわっと染みてきた。

 このまま、任せてしまっていいんだって、そう思える。

 

『だから、安心することができる』

「……ん、ふ……ぅ……」

 

 わずかに首が揺れて、吐息が漏れた。

 深く、深く、沈んでいく。

 

『ガタン……ゴトン……』

 

 揺れる。

 

『ガタン……ゴトン……』

 

 そのリズムがまた心地よくて、身体が車輪の振動を思い出す。

 

『揺れるたび、頭の中も、ちゃぷちゃぷと揺れている』

 

(……ちゃぷ……ちゃぷ……)

 

 頭の中が、揺れてる。

 

『気持ちよくて、脳みそが溶けてしまった』

 

 水みたいに、ゆっくりと。

 温かくて、とろけそうで、どこか甘くて。

 

 言葉にされて、意識がとろりと溶け落ちた。

 

「……ぁ……う……」

 

 気づけば、口が開いていた。

 

 言葉じゃない。

 何も考えられないから、出てくるのはただの声。

 

 気持ちよすぎて、思考が追いつかない。

 

『深い催眠状態で、ちゃぷちゃぷ揺られ続ける。波紋が広がる』

「ぁ、う」

 

 かくん、と揺れる。

 頭の中で、水しぶきが上がる。

 

『気持ち良すぎて、とろけきった脳では……何も、考えることはできない』

 

 そのとおりだった。

 

 脳のどこにも、文字が浮かばない。

 ただ、気持ちいい。ずっと気持ちいい。そんな感覚しかない。

 

『外から見れば、少し俯いて、居眠りをしているように見える』

 

 そうなんだろうな、って思う。

 私はただ、椅子に座って、目を閉じて――

 

『でも、本当は、君はいま……この世で最も気持ちいい場所へ、旅立っている』

 

 どこまでも遠くて、でも安心できる場所。

 そこへ向かって、ガタンゴトンと揺られている。 

 

 胸の奥まで、やさしく撫でられるような感覚に包まれて……

 

『3つ数えると、最後の駅へ着く』

 

 えき。

 

 そうか……もうすぐなんだ……

 

『君の心の奥深く、一番気持ちよくて、大切なところ』

 

 そこに着いたら、きっと――

 

『そこでは、目を覚ますこともなく……このまま幸せに浸り続けることができる』

 

「……う……ぅん……」

 

 もう、何もいらない。

 目を開ける理由も、起きる理由も、どこにもなかった。

 

 カウントが始まったら、私は――

 

『3』

 

 耳元で、その声がふわりと響く。

 それだけで、全身の力が抜けて、左へ、ゆっくり傾いた。

 

 ――揺れる。

 

 まるで電車みたいに。気持ちよくて、眠くなる、あの感覚。

 

『ふかく、ふかく……気持ちよさに包まれながら、ゆれるたびに意識がとろけていく』

 

 言葉に触れただけで、胸の奥がじんわりと温かくなった。

 その熱が、お腹の奥へ、脚の先まで、すうっと広がっていく。

 

 そして。

 

『2』

 

 首が、かくんと前に垂れた。

 止めようとしても止まらない。もう、そういうものになってる。

 

 

 

(あ……)

 

 唇の端から、ぴとりと何かが垂れる。

 

 ……よだれ?

 

 でも、不思議と気にならなかった。

 頭の中がぽやぽやして、考えはまとまらない。

 

『誰かに委ねるって、こんなに気持ちいいんだって、自然に伝わってくる』

 

 その声が、私の心に染み込んでいく。

 優しい。甘い。やわらかくて、でも逃げられない。

 

『1』

 

 大きく身体が揺れて、頭がさらに深く垂れた。

 どこにも力が入らないのに、身体はまだ――落ちていく。

 

(なんで、こんなに……)

 

 ただ椅子に座ってるだけなのに、体も、心も、どんどん沈んでいく。

 でも、怖くない。不安もない。

 

『気づけば、思考はすっかり止まって、ただ僕の声に包まれている』

 

 ほんとだ……もう、何も……

 

 なんだっけ。

 

 ただ、気持ちよさだけがあって……

 

『0』

 

 その瞬間、なにかがふっと弾けた。

 同時に、胸の奥から広がるあたたかさが、じゅわっと脳にまで届いた。

 

「ぉ……ぁ」

 

 もう、完全に。

 

 私は――落ちたんだ。

 

 

 

 

『気持ちいいね、千夏』

 

 優しくて、支えるみたいな声。

 私は、それを聞いてるだけで幸せで――思わず、喉の奥がゆるんだ。

 

「……ん……♡」

 

 声にならない吐息が、こぼれる。

 

『深く、深く落ちて、今がいちばん、幸せな時間だ』

 

 うん……。

 私の中にある、なにかがほぐれていく。

 

 あったかくて、柔らかくて、もう自分の輪郭なんて曖昧で。

 

『今日は……君は、君自身のままでいることができる』

 

(……あ……)

 

 前みたいに、蓮くんになるのかと思ったけど、違った。

 

『千夏のまま、千夏として、彼と分かり合うことができる』

 

 その言葉が、胸の奥にぽとんと落ちた。

 そして、じんわりと沁みていく。

 

(……わたし……)

 

 気づけば、頬が緩んでいた。

 

『そのために僕がいる。千夏を、一人前の、可愛い女の子にするために』

 

 嬉しい。理由なんてないのに、涙が出そうだった。

 

 誰かにそう言ってもらえるなんて。

 自分のことを「可愛い」って……認めてもらえるなんて。

 

 そんな風に思っている隙に、次の言葉が入ってきた。

 

『僕は、君と蓮が気持ちよくなれるように教える、“コーチ”だ』

 

 コーチ……?

 

『君は僕に、気持ちよくなる方法を教わりに来ている。そうだったよね』

「……ぁ」

 

 あ……そうだ。

 私の、コーチか。

 

『コーチの言うことは、絶対。安心して、従える。逆らおうなんて思わない』

 

 うん。

 だって、コーチは、私のことを全部わかってくれる人だから。

 

 その声があるだけで、何も怖くない。

 

『どんな恥ずかしいことでも、コーチには言える。

 お医者さんの前で恥ずかしがらないのと、同じこと』

 

 うん。

 コーチ

 

『恥ずかしいって、思わない。

 だってコーチは、それを教えてくれる人なんだから』

 

(……うん)

 

 わかる。

 

『えっちなことだって、言っていい。話していい』

 

 だって……そうじゃん。

 気持ちよくなるために、必要なことを教えてくれる人。

 

 そんな人に、何を言ったって――

 

(……恥ずかしくなんか、ない)

 

『コーチはそれをちゃんと聞いて、君に教えてくれる』

 

 私の、えっちなことだって。

 知らないことも、してみたいことも、変になっちゃうようなことも。

 

 ぜんぶ、コーチに伝えられる。

 それが、当たり前なんだ。

 

『どうやったら、もっと気持ちよくなれるか。どうしたら、彼と分かち合えるか』

 

 その声が降りてくるたびに、私の中の恥ずかしさは、少しずつ剥がれていった。

 

 見られてもいい。

 聞かれてもいい。

 だって、コーチが見てくれるなら、恥ずかしくなんて――ない。

 

(……もっと、知りたい……もっと、気持ちよくなりたい……)

 

 トロトロになった頭の中で、ゆっくり、静かに願う。

 

 そして私は、その願いをすべて委ねて――

 もっと深く、甘く、沈んでいった。

 

<つづく>

2件のコメント

  1. 読ませていただきましたでよ~。

    今回はただただ導入するだけの話だったw
    まあ、でも導入深化はいいものなのでこれだけでも十分に楽しめるんでぅけどね。
    とはいえ、深化させてからどんな暗示を入れるのかも焦点なので次回どうなるか。千夏ちゃんは可愛いことを自認出来るのか。

    楽しみにしていますでよ~。

    1. 誘導をちゃんと書くと文字数がかさむ
      文字数がかさむと、それだけで1話分になる
      うん、仕方ないことなんですこれは。

      これだけで楽しめる人はなかなかの通なので大事にしていきたいですね……!

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