(前編)
昨晩から降り続けている雪はやみそうになくもう馴染みになってしまったこの景色もすっかり変貌をとげている。
こんなに振ったのは15年振りだそうだ。
さすがにこの年齢ともなるとそんな事に関心は著しく無くなっているのだが今日の雪景色だけは、一生忘れないだろう。
我が最愛の妻と見る最後の雪景色を・・・・・・・・・・・・・。
「幸夫は来られないらしんだ」
私の言葉に妻の動揺は見られなかった。
きっとあらかた予期していたんだろう。
「まったくあいつときたら・・・・・・」
憤慨する私をなだめるように妻は力の無くなったか細い声でぼそりとつぶやいた。
「しょうがないですよ。あの子にとって今が一番忙しいんですから」
それにしてもよりによってこんな時に来られないなんて!
私は妻に聞かれないように心の中で何度もぶつくさつぶいてみる。
「それにしても昨晩はよく降りましたね」
不快をあらわにしている私をなだめる為妻はわざと話題をそらした。
「なんでも15年ぶりだそうだよ」
「へぇぇ、15年ぶりですか・・・・・・・15年も、15年も」
たいして関心もないくせに大袈裟に何度も肯き妻は横たわりながら窓の外を見ている。
外ではまだ降り足らないのか雪が断続的にちらついている。
行き交うタクシー、そして救急車。
そう、私と妻が今居る所は病院の一室なのである。
私達は本当に長年連れ添った。もうかれこれ半世紀は超えている。
その間私の妻に対する愛は尊敬の念と共にますます強い物へと発展していった。
妻の名は侑子。
私達の間には幸夫と言う大事な一人息子と最愛の孫が二人いる。本当に幸せだった。
そんな私達に暗雲が立ちこめたのは今からちょうど2年前。
病魔が妻を襲ったのだ。
そして今私から妻を奪い取ろうとしている。
「大分顔色良くなってきたじゃないか。この分だともうすぐ退院出来るよ」
妻が入院してから何度このセリフを言っただろうか?
その度に妻は決まって笑顔を作り肯くのだ。
実現されない事と分かっていながら。
「もうすぐだ!きっともうすぐ治るよ。治るよ・・・・・・」
私は何度も繰り返した。
どちらかと言うとそれは相手に対しての励ましではなく自分に言い聞かせているのである。
必ず元気になる。必ず、必ず・・・・・・・・・・・。
「あれは何処でしったけ?」
突然妻が脈絡のない事を言いだした。
「何処?」
「ほら!あそこ」
「あそこ?」
「あそこ、あそこ・・・・・・・・・・・喉まで出かかっているんですがどうしても出てきませんよ」
妻は必死に記憶の糸をたぐっているがなかなか引っ張りだせないようだ。
「桜がいっぱい咲いている」
「桜?」
正直なところ今住んでいる所はどちらかと言えば田舎の方で春になるとあちらこちらに咲き乱れる。
妻がどの辺りの事をさして言っているのか私には見当もつかない。
「元気になったら何処にでも行けるから今は少し寝た方がいいよ」
少ししゃべり過ぎている妻が心配になり休息を勧めた。
しかし妻は私の言葉を聞いていないかのように窓を見つめ一人でなにやらぶつくさ言っている。
私はそんな妻の横顔をじっと見つめている。
私と妻は本当に仲が良い。端からは度を超しているように見られていたのだろう。
妻がまだ元気だった頃私は仕事が終わると真っ直ぐに妻の居る家路に向かった。
同僚から付き合いが悪いと陰口をたたかれた事もある。
休みの日はよく二人で外出をしたもんだ。
いまだに『あなた』『お前』で呼び合っている。恥ずかしい事だが人目のないところでは名前で呼び合う事も。
妻の笑顔が大好きだ。声が好きだ。全てを愛している。
それは半世紀たった今もなんら変わる事がない。
「ほら!早く寝て」
私はすっかりやつれてしまった妻の横顔を見ながら再度うながした。
その言葉に今度は素直にしたがい瞼を閉じた妻だったが2分もすると再びその目は開かれた。
「眠れないのか?」
そんな私の言葉に妻は何かを考えているようだったがやがて意を決して私の目を見つめ話し始めた。
「私は今まであなたと一緒に人生を歩んでこられて本当に良かった」
「?・・・・・・・・・。」
「あなたはこんな私にいっぱい幸せを与えてくれた。感謝しきれないくらいです」
「何を言ってるんだ?」
「私の今の正直な気持ちですよ。私みたいな幸せな人間は世の中にそうはいないと思うんですよ」
妻の真剣な表情にただならぬ気配を感じた私は口をつぐみ次に出てくる妻の言葉を待った。
「愛した人と一緒になって幸せな家庭を持ち素晴らしい家族に恵まれた。本当に、本当に幸せでした」
私の胸に何故か妙な胸騒ぎがおこっている。
「でも最後にひとつだけ知りたいんです」
「知りたい?」
「聞いてはいけない事なのは分かってます。でもどうしても・・・・・」
「いったい何が言いたいんだ?」
「知りたいんです!・・・・・・・・・・・・・私があの時本当に愛していたのは誰なのかを」
一瞬私の周りで時が止まった。
「誰?」
「はい!お願いです。本当の事を教えてください」
その瞬間私の記憶は半世紀前に飛んだ。
その年日本は長きに渡った昭和が終焉し時代はまさに平成の世になろうとしていた。
バブルと言われた好景気に支えられ人々の金銭感覚は麻痺していた。
誰もが何の不安も無かった。もちろん当時26歳だった私にも・・・・・・・。
「えっ!本当に?信じられないな~」
私の前で素っ頓狂な声を張り上げているのは同僚の山崎孝夫。
実は高校時代の同級生である。
私達が通っていた高校は地元である熊本にある私立高校で熊本では少し名が知れていた。
彼は奇跡的に入学出来た私とは違い学力も体力もかなり優れていて大学は私には到底無理な有名校をストレートで入学した。
やがて私は地元で就職。
去年から2年の期限つきで東京にある本社に転勤するはめになったのだ。
本社勤務と言えば聞こえはいいが地方から来た私などは完全に雑用要員だった。
とにかく毎日が忙しかった。地元とは仕事の流れが違った。何よりも人が違ったのだ。
そんな私がここで一番びっくりしたのはなんと言っても山崎との再会だろう。
『ひょっとして真鍋じゃないか?』と言って彼が近寄ってきた時の私の驚きは今でも覚えている。
愛嬌の良さと少し童顔なところは全然変わっていなかった。
以前彼は同級生であっても近寄りがたいものがありほとんど口も聞いた事がなかったが、見知らぬ土地での再会でそれからは凄く気が合いよく遊んだ。
「嘘だろ!まだ童貞か?」
「おい!大きな声を出すなよ」
ここは会社近くにある喫茶を兼ねた軽食屋。
6台のテーブルとカウンターという造りで昼食代わりによく二人で使っていた。
「あっ!ごめん。でも本当に?」
元来私は女性が苦手であった。
異性に興味が無かったわけではない。
むしろ他人よりは興味がある方だったかもしれない。
しかし私はとにかく内気だった。
異性と話すのはどうしても意識してしまい知らず知らずの内に壁を作ってしまっていた。
「ひょっとして男性しか愛せないとか」
「馬鹿な事言うなよ」
今度はおもわず私が声を張り上げてしまった。
「何が馬鹿な事なんですか?」
私達のいるテーブルに近づいてきたのはこの店のウエイトレス。
大学生の彼女はこの近くのアパートで一人暮らしをしていた。
親からの仕送りとこの店のバイト料で私なんかよりはよっぽど羽振りの良い生活を送っていたみたいだ。
長い髪を後ろで束ねいつも笑顔の彼女はいつも夜だけのアルバイトなんだがこの時は学生特権の長期休暇を利用して昼も顔を出していた。
そんな彼女と会話を交わすようになるには時間はかからなかった。
もちろん会話をしているのはいつも山崎とだったが。
「あっ!美和ちゃん、聞いて!聞いて!」
山崎は悪戯心たっぷりの笑顔を作り彼女に話し始めた。
「おい!やめろよ」
こんな時どうやっても彼の口は止まらない。
山崎の唯一の欠点なのである。
「え~、本当ですか?」
彼女が店内いっぱいに響き渡るような大きな声で驚きをあらわにした。
店のマスターがこちらを睨み付けていた。
「そうだよね!やっぱりそういうリアクションとるよね」
私は恥ずかしさのあまり顔を真っ赤にしてうつむいた。
「美和ちゃん!こいつの初めての女になる気無い?」
彼女はその質問には答えずマスターが怒るからというようなジェスチャーをとりその場を離れた。
「非道いよ!」
私の深刻な表情に気づいた山崎は急にそれまでの態度を一変させ『悪い!調子に乗りすぎた』と謝罪した。
「ごめんな!どうして俺はいつもこうなんだろ?後でひどく後悔する時があるんだ」
ひどくしょげかえっている彼を見てるうちにいつも私の怒りは消えてゆくのだ。
「いいよ。そんなには気にしていない」
私は無理矢理笑顔を作ると食後のコーヒーをすすった。
会社に帰ると私には雑用の彼には企画の仕事が待っていた。
元々レストランをチェーン展開して大きくなった会社だが当時の流行としていろいろな分野に積極的に参入していたので企画部には力を入れていたし当然彼等のポストも社内ではかなり上の方だった。
「もうこんな時間か」
掛け時計を見ると短針はすでに10を指していた。
机の上をそそくさと整理して帰る準備をすすめた。
その頃は定時に帰った事などほとんどなかったのだ。
どうせ帰ってからもやる事が無かったのでほとんど苦にならなかったのである。
会社から電車に乗り3駅そこから歩いて10分くらいの所に当時私が住んでいたアパートがあった。
そこは儲かっている会社にしたらひどくくたびれた所で最初の日はさすがに落ち込んだもんだったが一ヶ月もすれば慣れてしまった。
人間には適応能力があるんだなと変な感心をしたのを今でも憶えている。
ピピピー
タイムカードを通した時間は10時半だった。
次の日の仕事に備え極力寄り道はしない事にしている。
しかし一軒だけ必ず立ち寄る所があった。
それはアパート近くのコンビニエンスストアーだった。
かなり遅くまで開いており必要な物がいつでも手軽に手に入れる事が出来る事から生活様式が変わりつつあった当時の人達にとってかけがえのない物であったのだ。
もっとも私の目的は別にあったのだが。
「742円になります」
アルバイト店員の澄んだ声が響き渡る。
私は彼女のその声が好きだった。そして笑顔が好きだった。
彼女の名前は侑子。
そう、後に私が最も愛する事になる妻である。
いつものように朝食用のミルクとパン2点を買いレジにいく。
「ありがとうございます!またのご来店をお待ちしてます」
地元熊本では当たり前の対応だがこの辺りでは飛び抜けて丁寧に聞こえる。
この辺りに来たての頃定員の対応のあまりの違いに戸惑ったもんだった。
彼女の胸元には『川辺』の名札が光っている。
「あっ!どうも」
つぶやきに似た小さな声を出して私は店を出て行く。
これで今日も一日が終了したという気がしたもんだった。
断っておくが私は別にストーカーではない。
たしかにその頃彼女に淡い恋心を抱いていたが別にどうこうしようという物では無かった。
その頃は・・・・・・・・・・・・・
「ふぅ~」
部屋に入るなりひきっぱなしになっている布団に横たわり溜息を一つついてみる。
(今日も何も変化の無い一日だった)
いつもと同じように仕事して同じようにこの時間横たわる。
良い悪いは別にして今日も何も変化がなかった。
その時の私には何かが変わりつつあるという事がまだ分かっていなかった。
毎朝いつものように二つ目の目覚まし時計のベルの音を合図に布団から飛び出し前夜買ったパンを頬張りながら身支度を済ませ出社の準備をする。
そして駅の売店で決まったスポーツ紙を買い電車に乗り込む。
でもあの満員電車だけは正直かなりまいった。あの寿司詰め状態度にあう度に早く熊本に帰りたいと切に思ったもんだ。
と言っても私なんかはまだ乗車時間が短くて助かっている方だった。
ここでは一時間二時間と通勤時間に費やすのが当たり前の事だったのだから。
事実我が社内にもそんな輩はいっぱいいた。
それなのにみんな平気な顔して出社してくるのが当時の私には不思議でならなかったもんだ。
もちろんその日も私は会社に着く頃にはふらふらになっていた。
「いい加減慣れろよ!」
そう言って私の肩を後ろから近づき叩いたのは山崎だった。
「じゃぁ!昼いつものところで待ってるからな」
追い抜きざまに彼はそう言って先へ急いだ。
正直なところ昨日の童貞騒ぎの一件がありその店には行きづらかった。
「どうしようか」
しかし山崎の言葉を無視するわけにもいかず結局昼になると店に向かっっていたのである。
「今日は美和ちゃん休みみたいだな」
山崎がつまらなそうに代わりに入っているウエイトレスを眺めながらつぶやいた。
正直なところ私はほっとしていた。
「毎日バイトばかりしてられないよ」
「そりゃそうだけど」
きっと今頃は友達と連れだって何処かに遊びに出かけているのだろう。
その時はそれぐらいにしか思っていなかった。
「昨日の話しだけど・・・・・」
山崎は言いにくそうに口を開いた。言いにくいのなら黙っててくれた方が私にはありがたかったのだが。
「いいよ!・・・・・・もう」
「本当にごめんな」
こんな時の彼は同姓でも守ってやりたくなるぐらいしおれていた。
「気にすんなよ。・・・・・・それより」
「お前の方こそどうなんだ?」
「どうって?」
「これの事だよ」
私は小指を一本立てて彼に女性関係を聞いてみた。
「仕事が忙しくてな」
「嘘だろ!お前だったらもてるだろ」
彼は『お互い寂しいね』などとおどけながら几帳面に切られたハンバーグの一切れを口に運んだ。
それからいつものようにたわいない話しをしながら昼食を済ませ会社に帰りそれぞれの職場に別れ気がつくと今日も時計の短針は10をさしていた。
また変わりばえのない一日である。
「今日は早く帰れると思ったんだけど」
誰に言う事なく不満を口にしながら帰り支度を始めた。
「んっ?」
背広の右ポケットに手を突っ込んだ時私はある感触を覚えた。
そこには一枚の紙切れが入っていたのだ。
「どうしてこんな物が?」
四つ折りにたたんである紙を開けるとそこには大きなタイプ文字で一言だけ書かれていた。
「『モルモット』・・・・・・・・・・なんだこれ?」
さすがにその時はそれが意味するところが何なのか分かる筈がなかった。
悪戯!・・・・・・・・・・それ以外にとりようがない。
紙切れをボール状に丸めるとゴミ箱に捨てた。
「あぁ終わった!終わった!」
などと言いながら家路を急いだ。
電車から降りる時には紙切れの事などすっかり忘れていた。
「あなた真鍋さんですね」
いつものコンビニに向かう途中の細い路地で急に後ろから女性の声がしたのでおもわず立ち止まってしまい後ろを振り向いた。
そこには歳の頃なら20代半ばの見知らぬ女性が立っていた。
「あなたは?」
たしかに駅を降りたからずっと誰かにつけられている気はしていた。
しかし何度振り向いても誰も見あたらず気味の悪さだけ残っていたのだ。
それゆえ背後から声をかけられた時心臓が止まるのかと思うほどの衝撃を受けた。
「私が誰かですって?・・・・・・・・・・誰だろう?分かんない・・・・・・・分かんない・・・・・・」
女性の表情は何かおかしかった。
むしろ表情がないと言った方がいいんだろうか。
私は気味の悪さも手伝ってその場を離れようとした。
「あなた童貞でしょ」
「なっ!」
私の動揺をよそに彼女は路上で上着を脱ぎだした。
バサッバサッ!
「き、君何をやって・・・・・・・・・・」
とうとう上半身はブラジャーを一枚残すのみの姿になるとその上からゆっくりと淫靡なあえぎ声を上げながら愛撫し始めた。
「はふん・・・・んっ・・んっ」
「いったい何を・・・・・・・・・」
「私の身体が欲しいでしょ。早く捨てたいんでしょ」
彼女がブラに手をかけた時私はその場から走り去った。
何かとんでもない事がおこりそうでとにかくその場を離れなければと思ったのだ。
もちろんコンビニには寄らず一目散にアパートに戻り部屋の鍵をかけた時私の心臓ははち切れんばかりに鼓動を打っていた。
「いったい何だったんだ今のは?」
(どう考えてもあんな事をするなんてまともじゃない。でもたしかにあの女性は俺の名前を呼んだ。・・・・・・・なぜ?)
時計の針はすでに一時をさしていた。
翌朝いつものとおり二つ目の目覚ましのブザー音で目覚めた私だが気分は最悪だった。
なかなか寝付けなかった為睡眠不足になっているのも一つの原因だが何より昨晩の出来事が頭から離れないのだ。
しかし今日行けば明日は休みだという事が私を会社に向かわせた。
やはり休むべきだったのかその日は失敗の連続だった。
落ち込んだ私を元気づける為かランチタイムの山崎はいつもにまして明るかった。
「その時の部長の顔ときたら」
「山崎!」
「いや!ホント!凄いのなんのって」
「山崎!・・・・・・・・・・・悪い!気使わして」
山崎はおだやかな表情になり一呼吸おいてから煙草に火をつけ言葉を続けた。
「気にするなって!・・・・・・・・・・俺なんか失敗だらけだぜ」
実際彼が失敗するところなんて想像出来なかった。
おそらく私を元気づける為に嘘を言っているのだろう。
そんな彼の優しさが嬉しかった。
「それにしても美和ちゃんは今日も休みか」
店内では昨日に引き続き今日も他のウエイトレスが走り回っていた。
いつもと変わらぬ昼食時。しかし私の周辺は確実に何かが変わり初めていたのだ。
私はおもわず背広のポケットをまさぐった。しかし何も無かった。
「そろそろ時間だな」
昼休憩なんかあっという間だ。
私は伝票を掴むとレジに向かった。
「ホント!元気だせよ」
いつもように勘定を別々に払っている時も彼は繰り返し私を励ました。
今までの人生の中で親友と呼べるのは彼だけだったかもしれない。
午後からの私は気分をとりなおし失敗らしい失敗はせずなんとか無難に仕事をこなしていた。
そのせいか仕事はいつもより早くかたずいた。
「今日はなんとか早く帰れそうだ」
昨晩の女性の姿が脳裏をかすめ一瞬手が止まったがすぐに思い直し帰り仕度を始めた。
「これと、これと、これ!明日休みだからあれも・・・・・・・・・・・・・・」
机の一番上の引き出しを開けた時私は氷ついた。
今日も紙切れが入っていたのだ。
(『もうすぐ次のモルモットが』・・・・・・・どういう事なんだ?)
机に入っているという事は社内の人間がやった事だ。
私は辺りを見回した。
まだ残業している者。翌日の休みに浮かれながら既に帰った者。
いったい誰が?なぜ?何のために?
私は紙を丸めると今度はバッグに詰め込みその場を急いで退散した。
「いったいなんだっていうんだ」
気分が悪かった。とにかく悪かった。
こんな時はコンビニのあの子に無性に会いたくなる自分がいた。
そしてその日は昨晩狂った女のからまれた路地を避けかなり遠回りをしてコンビニに向かった。
「いらっしゃいませ」
いつもながら良い声だ!この声を聞くだけで気分が幾分和らいでくるのが分かる。
いつものようにミルクとパン2つをカゴに入れてから晩食を買う為に弁当のコーナーに行った。
そのコーナーはレジに近い位置にあり、より彼女を感じる事が出来た。
(あんな人が彼女だったらな)
妄想が浮かんでは消えていた。
一日の中で一番幸福な時間である。
「ミックスフライ弁当か!」
正直なところ弁当の種類はなんでも良かった。
この土地に来てからは毎日同じような物ばかり食べていたので味に対する欲求はほとんど無くなっていたのだ。
『ミックスフライ弁当』とつぶやいたのもなんとなくであり、それを食したいという欲求はほとんど無かったのである。
「じゃぁ私もそれにしようかな」
いつのまにか隣に立っていた女性がそう言って弁当を手にした。
それにつられるように何気なく私はその女性を見た。
「あっ!」
私はおもわず声を上げてしまった。
目の前にいる女性は間違いなく昨晩路地にいた人だったのだ。
彼女は私と視線が合うと背筋が凍るような不気味な笑みを浮かべた。
「分かっている・・・・・・・見たいのよね・・・・・・・・・・続きが見たいのよね」
ドサッ!
その時私の身体から全ての力が抜け手に持っていたカゴは地面に転がった。
「全てみせてあげる・・・・・・・全て・・・・・・・」
走った・・・・・とにかく走った。
あれだけ走ったのは私の人生でもあの時だけだ。
とにかく逃げなければ・・・・・・その思いだけだった。
どこをどう走ったかなんて憶えていない。しかし気がつくと私はアパートの前に立っていた。
「はっはっはっはっはっ」
苦しかった。心臓が破裂しそうになるとはあの事をさすのだろう。
私はびくびくしながら辺り一面を見渡した。
「いない」
そこに人の気配は無かった。
「本当になんなんだ、あの女は?」
まったく奇妙な話しである。
いきなり見知らぬ女が路上で裸になろうとするのだ。
どう考えてもまともじゃない。
いったいなぜこんな事が?
言いようのない恐怖が私を襲っていた。
カチッ!
旧式の錠を開け部屋に入るとすぐ一面を見渡した。
部屋の中はいつもと変わらなかった。
しかしこの時ほど一人っきりの部屋が怖いと思った事はなかった。
とにかく音が欲しい!静寂が怖い!
私はテレビのリモコンを取り上げるとすぐにスイッチをONにした。
もちろんボリュームは最高に上げて。
「ちょっと!テレビのボリューム大き過ぎますよ」
ドンドンとドアを叩く隣人の声が聞こえた。
「ちょっと!ちょっと!」
さらにドアを強く叩いていた。
分かっていた。ようく分かっていった!迷惑なのは分かっていた。
「真鍋さん聞こえているんですか?」
大声を張り上げる隣人。
しかし私にはどうしようもなかった。
動けなかったのだ。
どうしてもテレビの前から動く事が出来なかったのだ。
身体全体を恐怖が支配していた。
歯はがちがちと小気味良いリズムを奏でていた。
テレビの画面には行方不明者として今見た女が映し出されていた。
< つづく >