天使のチカラ プロローグ

プロローグ

 ――― ガタン。
 ―――――― ガタン、ガタン。

 心地よい揺れに揺られボクは眠ってしまっていて、いつの間にか夢を見ていた。

 それは、真っ暗闇。瞼を閉じた時の暗闇が、どこまでもひたすら続いていて…。
 いつ終わるのか。何処でボクは夢から覚めるのか。
 そんな拭いきれない不安を掻き消すように、ボクは夢の中をひたすら彷徨って。

 早く…早く、夢から覚めて。
 そしてボクに…現実の光を見せて。

 …そこには、きっと…。
 ボクの好きな人が、ボクと―――。

「――― 次はー、終点ー、魚澄(うおずみ)ー、魚澄でーございまーす」

「…おい、修(しゅう)…。着いたぞ」

「… … …くかー」

「修…おいっ、おいっ!」

「くかー」

「いつまで俺の肩に涎垂らしてるんだよお前はよッ!!」

「!!!」

 暗闇は一瞬で光へと戻る。頭に鈍い痛みが走り、ボクの視界には幾つかの星が見えた。

「…あれ…。 おはよう、宗佑(そうすけ)」

 ボクは声の聞こえた方向を向く。
 長めのスポーツ刈の青年が、腕組みをしながらボクを睨んでいる。…笑顔だけど、かなり怒っているようにも見えた。…心の中では笑っていないんだろう。

「おはよう、修。とりあえず後でシャツの弁償してもらうからな」

「ええー…」

 コイツは湯原宗佑(ゆはらそうすけ)。ボクの同級生だ。ボクとは違って、とても活発で陽気な性格をしている。…もっとも、今は怒ってるみたいだけど。

「おら、とりあえず電車降りるぞ。荷物半分持ってくれ」

「あ…うん。…女の子達は?」

「先に下りたよ。…ったく、ちょっとくらい荷物持ってくれてもいいのによ…。…よいしょーっ、と!」

 宗佑は一番重そうなバッグを肩に背負う。スポーツをやっているだけあって、ボクとは比べ物にならないくらい力がある宗佑。だからこういう力仕事は率先してやってくれる…頼れる、ボクの友達だ。
 ボクも負けじと重そうなバッグを手にとってみるけど…。

「…う、う、う…」

「無理すんなよ修。お前じゃ無理だ」

「…うぅ…」

「チマチマした軽い荷物だけ持ってくれりゃいいよ。…よしっ、行くぞ」

「うん…」

 男として自分自身を情けなく思う。…少しは、かっこいい所を見せたいのになぁ…。

「宗佑ー、修ー、こっちこっちー!」

 黒髪のショートカットの少女が、電車から出てきたボクと宗佑に向けて手を振っていた。

「おー、今行くよー。ったく、荷物運ぶのちょっとは手伝えよっ!」

「えー、女の子に荷物運ばせるのー?…ね、恭子(きょうこ)ちゃん」

「…あ…。で、でも重そうだし… 手伝ってあげようよ…」

「あー、いいのいいの。たまには、宗佑にもああいう仕事させないと」

 ボクと宗佑を駅のホームで待っていたのは、二人の女の子だ。
 さっき手を振っていたショートカットの女の子は久遠楓(くどうかえで)。ボクのクラスメートで…幼馴染。幼馴染といえば、宗佑もそうで…。ボクと楓と宗佑、三人で昔はよく遊んでいたものだ。
 そしてもう一人。楓の隣でオドオドと、ボク達の荷物を持とうか持つまいかと悩んでいる、黒のロングヘアの女の子がいる。真壁恭子(まかべきょうこ)ちゃんだ。ボクは面識があまりないんだけど、彼女もクラスメート。
 …そう、ボク達四人は、同じクラスの仲間、ってワケだ。

「修、切符なくしてないでしょうね。そういうの修の役目だから」

「役目ってなんだよ…。いつもなくしてるみたいな言い方して…」

「あはは、ごめんごめん。でも子供の時に一緒に電車で買い物行ってさ、その時の修の泣き顔が忘れられなくって…」

「む、昔のコトだろっ!もうなくさないよっ!」

 ボクの事をからかって、楓が無邪気な笑いを浮かべていた。…可愛い。からかわれてるけど、純粋にそう思ってしまう。

「それじゃ、皆行くぞっ…! …うぉぉ…っ!」

「ゆ、湯原君…やっぱり私も持つよ…」

「わ、わりぃ…」

 宗佑が唸り声をあげながら重そうな荷物を背負うと流石に見かねたか、恭子ちゃんが宗佑に駆け寄って荷物を持ち始める。

「もー、しょうがないなー。あたしも手伝うよ」

 流石に恭子ちゃんが手伝っておいて自分が何もしないのもバツが悪いのか、楓も宗佑の方へ行く。
 …あのー… ボクも、荷物結構多いんですけど…。
 そう言いたかったけれど、女の子に手伝ってくれ、なんて自分から言えるはずもなく、ボクは我慢して荷物を背負った。

「暑い…」

「…あっちぃ…」

「…暑い…」

「…暑い、ですね…」

 ボク達四人は口々に、駅から出てきた第一印象を述べる。とは言っても、全員その内容は同じのようだけど…。
 ボク達は、山間に近い場所に住んでいる。だから、こういった場所の暑さにはさっぱり慣れておらず… 木陰もなく、直に照りつける太陽はあっという間にボクから水分と体力を奪っていってしまう。

「…あ… でも凄い…!みんなーっ、来てよー!」

 楓が急に走り出すと、ボク達はその後をひいひい言いながら追っていく。流石楓…元気だけは人一倍ある。

「お、ホントだ…すげぇ…」

 宗佑が目を見開くと、恭子ちゃんもその視線の先に釘付けになる。

「わぁ…」

 口数が少ない恭子ちゃんは感嘆の言葉だけ短く言うと、笑顔でそれを見つめる。

「はー…なんていうか…。ありがちだけど、こんなに広いもんなんだね…」

 楓が何かを納得したような様子でうんうん、と頷く。…ボクも同じ感想を持っていた。

 そして、ボク達は向き合うと頷いて、一斉にこう叫ぶ。

「「「「 海だーっ!! 」」」」

 少し、ボク達四人の話をしよう。

 ボク達の暮らす場所は、都会から少し離れた田舎町。山間にある町で自然も沢山あるし、かといってそこまで過疎化が進んでいるわけでもない…普通の町。空気の美味しい、良い町だとボクは思っている。
 言ったように、そもそもボクと宗佑、そして楓は、家が近所の…幼馴染ってやつだ。
 幼稚園の頃からずっと遊んでいたし、喧嘩もしたりした。…ボクはからっきし弱かったけど。
 小学校に上がっても、中学生になっても、仲の良いのはそのままで、ボク達はずっと変わらなかった。
 楓は昔から男勝りな女の子。運動神経抜群で、加えてリーダーシップもある。クラスでは何回も学級委員をしていたし、運動部では部長も務めたりしていた。そのくせ喧嘩っ早くて、小さい頃は宗佑とよく喧嘩してたっけ…。
 宗佑は昔から元気な、いわゆるガキ大将という感じの男の子だった。何か遊ぶにしても、宗佑がリーダーになって決めたり、何処かに行く時だって、宗佑がいつも先頭でボク達を引っ張ってくれていた。…思えば、楓と少し似ていたのかもしれない。だから小さい頃はよく喧嘩をしていたんだけど…。
 …そしてボク、河瀬修(かわせしゅう)。生まれつき身体が強いほうではなくて、華奢な身体つきをしていたから…悔しいけど、今でもたまに女の子に間違われる。家に閉じこもりがちだったから性格も内気で…。そして、そんなボクを外に連れ出していつも遊んでくれていたのが…楓と宗佑だったんだ。
 楓と宗佑が一緒に遊ぶのは分かるけど、身体の弱いボクがその二人と一緒に遊ぶのは、周囲の人から不思議に思われただろう。ボクだって、不思議だった。近所付き合いだけではなく、学校でも、修学旅行でも…いつもボク達は一緒に組んでいたんだから。

「だって修、面白いんだもん。あたし達と違って、色んな遊び知ってるからさ」

 楓は、そう言ってくれた。身体の弱いボクを気遣ってくれた両親だから、ゲームソフトも一杯あった。退屈だから、家の中で遊べるカードゲームなんかもボクは色々知っていた。それを楓や宗佑に教えると、二人はとても喜んでくれていた。
 その代わりに、楓や宗佑はボクに外での遊びを教えてくれた。鬼ごっこやかくれんぼ、缶蹴り… 近くの森や廃墟に出かけて、探検ごっこなんかもしていた。ボクにとっては広すぎる外の世界を、二人はいつも案内してくれていて… それが凄く新鮮で、毎日がとても楽しかったのを今でも覚えている。
 …でも、時折ボクは楓や宗佑についていけない時があった。心理的にじゃない。本当は楓や宗佑に着いていきたいのに… 息切れがして、途中で座り込んでしまう事が度々あった。
 そんな時、楓と宗佑はいつもボクの隣に座って、ボクの心配をしてくれた。嬉しいと思いながらも、ボクはそんな二人にいつも…申し訳ないという気持ちでいっぱいだった。

「…ごめんね、いつもボクが…」

「気にしないの。修、身体弱いんだから」

「友達だろ?三人で遊ばなきゃつまんねーって!」

 楓は心配そうに微笑んでくれて、宗佑は元気に笑ってくれた。
 いつも二人は、ボクにペースを合わせてくれた。おかげでボクは人並みの体力はつくようになったし…何より、この二人には心が開けるようになった。嬉しい事も、嫌な事も…包み隠さずに言える、親友と呼べる存在がボクに出来たのだ。こんなに嬉しい事はなかった。

 そしてボク達は大きくなり…。
 楓と宗佑は、同じ部活に入った。…バスケットボール部だ。男女それぞれで顧問と練習場所は違うらしいが、よく試合なんかもしているらしい。
 そしてそこで二人が出会ったのが…真壁恭子ちゃん。
 美人だけど、クラスでもボク以上に控えめな性格だったが為に注目はされていなかった彼女が、突然バスケットボール部に入部してきた。…正確には、彼女は男子バスケ部のマネージャーとして入部したらしいけれど、宗佑から聞くに彼女から志願して入部したらしい。
 男子と女子でまめに交流するバスケ部で、楓と宗佑、そして恭子ちゃんは頻繁に会話するようになり…今回、めでたくボク達のグループに恭子ちゃんが仲間入りした、ってわけだ。
 …ボク?ボクはバスケなんて出来るほど体力がないから…大人しくパソコン部に入っていた。

 …さて。
 恭子ちゃんがボク達に加わったっていう、その今回の催し物とは…。

 ある日、楓がボクの机に近付いてきた。

「ねぇねぇ修。今度の夏休みさ、海行かない?」

「…海?」

「あたし達、最後の夏休みじゃない?…もう、皆バラバラになっちゃうんだしさ…皆で記念に旅行でも行こうと思ってさ」

 …そう。ボク達は卒業と同時に、初めて学校がバラバラになってしまう。
 楓は上京して、バスケットのスポーツ推薦で入れた学校に行くらしい。宗佑は近所の学校、バスケは趣味程度だったから、普通の学校に入学する事になっていた。…恭子ちゃんは、知らない。そういった事を聞くほど親しい仲ではなかったから。
 …ボクもそう。宗佑とは違う学校だけれど、既に近くの学校への進学が決まっていた。だから…僕達にとっては、最後の夏休みだ。
 だからボクは、楓のこの提案に賛成した。

「…いいね、行こうよ。どこの海?」

「それなんだけどさ、綾姉ちゃんのバイト先がいいな~、って」

「…え」

「綾姉ちゃん。よくメールしてるんだけどさ、民宿でバイトしてるんだって。夏休みに遊びに来ない?って誘われたの」

「…そ、そうなの?…姉ちゃん、民宿でバイトしてたんだ…」

「え、そ、そこから!?…何も聞いてないの?」

「…あはは」

 ボクの姉…河瀬綾(かわせあや)。ボクとは違って活発な性格をしているけど、なんていうか、楓とも宗佑とも違う元気さを持っている姉だった。
 いわゆる、姉御肌。小さい頃はボク達と一緒によく遊んでくれていたけど、基本的にボク達三人のしている事を見守ってくれているだけ。それで喧嘩が起きたりするとすぐ仲裁に入ってくれて、野犬に襲われた時なんかはいつも助けてくれた。頼れる姉ちゃんだ。
 家の中でもその性質は変わりなく、ボクに勉強や遊びを教えてくれた…こんな事言う弟も珍しいかもしれないけど…いい姉だった。
 そんな姉は、ボク達より一足早く進学して、今は地方の大学に入っている。住居も大学の近所にして一人暮らしをしているんだけど…まさか民宿でバイトをしているなんて知らなかった。海の近い場所なのは知っていたけど…姉ちゃんと楓、メールのやり取りをしていたのも、初耳で。

「海も近いし、知り合いって事でお金も安く出来そうって言うからさ。あたしと修、それから宗佑と…あと恭子ちゃんも誘いたいんだけど…」

「…恭子、って、真壁恭子ちゃん?」

「うん。バスケ部で結構仲良くしてるんだ。本人も行きたいって言ってるし…いいでしょ?」

「そ、そりゃあ…いいよ。楓が企画したんだし、楓が決めてよ」

「そっか。それじゃ、仲良くしてね、修♪」

 …初めは、ボクはいい気はしなかった。ボク達はずっと三人グループだったわけだし、そこに誰かが入ってきてボク達の…なんていうか、雰囲気を壊されてしまいそうな気がしていたから。ましてや、無口な恭子ちゃんだ。こっちが焦って何か喋らなきゃいけないかも…なんて不安感もボクにはあった。
 とはいえ、駄目とは言えるはずもなく、楓の提案に乗るだけのボクとしては頷く事しか出来なかった。
 …でもよく考えると…。楓と宗佑と恭子ちゃんは、同じ部活の仲間なわけで…。ボクだけ、なんだか部外者が一緒にいるみたいで…。ネガティブな考え方かもしれないけど、楓も宗佑も、段々ボクから離れてしまう気がしていた。
 それなら…いっそ旅行には参加しないほうがいいかもしれない。そうも考えた。

 …でもボクは、旅行を断れない理由があったんだ。

 ボクは…

 楓のコトが、好きだからだ。

 いつからだろう、楓を単なる遊び仲間とではなく、恋愛対象として見ていたのは。
 一緒に話しているだけでも辛くって、切なくって…。この気持ちを楓に打ち明けたい、といつも思っていた。でも…もし楓が断ったら、と思うとそんな事は出来るはずもなくて…。友達として楓の側にいれるなら、ずっとそうしていたい。そう思っていた。
 …だから、卒業と同時に楓と離れ離れになる前に…。
 ようやく、ボクの気持ちを打ち明けられる機会が出来たんだ。夏休みの…ボク達の、二泊三日の卒業旅行。こんな告白のチャンスはないと思った。

 楓に…この旅行の終わりに告げるんだ。

 …好きです。ボクと…付き合ってください。

 …って。

 民宿の看板が見えると、ボク達は立ち止まった。
 駅から、そう遠くない。海沿いの道を真っ直ぐいった場所に、その民宿はあった。
 海をバックに古くて大きな民家が一つ。どう見ても宿には見えず、ごく普通の家に見えたが、看板を見れば確かに民宿の文字。
 “民宿 篠木”。
 姉ちゃんから聞いていた民宿の名前に間違いない。

「…へー…此処なんだ、綾姉ちゃんが働いてるトコ」

 ボクも楓も宗佑も、姉ちゃんの事は姉ちゃんと呼ぶ。昔からボク達の面倒を見てくれた人だ。三人にとっては『みんなの』姉ちゃんなのだ。

「なんだか普通の家って感じだな」

「元々民宿っていうのは、地方の民家の部屋を観光客向けに開放してる所の名称だからね。だから、普通の家で当たり前みたいだよ」

「ふーん…」

 ボクが事前に調べておいた民宿の意味を宗佑に披露すると、宗佑は納得して頷く。

「…河瀬さんのお姉さんと逢うの初めてだから…緊張しちゃいます」

「あー、いいよそんな。緊張するような人じゃないから」

 不安いっぱいの表情を浮かべている恭子ちゃんに、ボクは苦笑してそう言っておいた。

「とにかく、行こうよ。さっきメールしたら、綾姉ちゃんもう部屋の準備してくれたみたいだし」

 楓が携帯を開いてメールを見せてくれる。

『もう準備万端だよ!いつでも来たまえ、若者達よ!』

 …姉ちゃんらしいメールの文章だ。喋る感じと全く変わらない。
 ボク達は歩を進めて、玄関の前まで来る。…近付けば近付くほど分かるが、古い民家だ。木造の民家の壁は黒ずんでいて年季が入っている。『篠木』という表札も随分と汚れていて、その下に押しボタン式のドアチャイムがある。

「…ピンポンダッシュしようぜ、ピンポンダッシュ」

「何しに来たんだよ、あんたはっ!」

 ボケる宗佑の頭を楓が殴った。

「…楓が押してよ…。なんか、普通の民家っぽくてどうにも…」

「えー!?綾姉ちゃんのバイト先なんだから普通は修が押すでしょ!?」

「いやいや、企画立案は楓なんだし、ここはお譲りします」

「なにそれっ!?…もー、なんであたしばっか…」

 ボタンを押しづらいのは楓も同じのようで、オーバーに深呼吸をすると、ゆっくりチャイムのボタンを押した。
 …ピンポーン…。
 ドア越しに、チャイムの音が鳴ったのが分かった。
 少しすると、階段を駆け下りる音がした。そして、勢いよく引き戸が開くと、姉が満面の笑みでボク達を迎えてくれた。

「久しぶりーーーっ!我が妹・弟達よーーーっ!!」

「綾おねえちゃあああああんっ!!」

 …姉ちゃんが思い切り両腕を広げると、楓が叫びながら姉ちゃんに抱きつく。
 …流石に男二人は同じ行動をせず、呆然としてその様子を見ていた。

「…あれ、ノリ悪いなぁ。修も宗佑も、抱きついていいんだよ?」

「「 誰がするかっ! 」」

 二人、同タイミングでツッコミを入れた。
 …久しぶりに見る姉ちゃんは、少し変わっていた。肩につくくらいの黒いセミロングの髪形は以前と同じだったけれど…海の近くに住んでいるせいか、随分と日焼けしているように見える。活発な性格をしている姉にはお似合いの肌色かもしれないけど、なんだかそれだけで別人に思えてしまった。
 姉ちゃんが家を出て大学に行き始めてから、まだ数ヶ月しか経っていない。それなのに…いや、いつも顔を合わせていた姉だからこそか、ひどく懐かしい顔を見たような気がした。
 …日に焼けていても、その表情は以前と変わりない。いつもの、頼れる、姉ちゃんの顔だ。

「…ん?そっちのお嬢ちゃんは見たことない顔だね」

「… … …あ、す、すいませんっ。わ、私…修くんのクラスメートの、真壁恭子っていいます…!あの、その、初めましてっ…!」

 妙にテンションの高い姉ちゃんと楓の再会風景に呆然としてしまったのか、恭子ちゃんは我に帰ると慌てて自己紹介をした。

「あははっ、楓からのメールで聞いてるよ。聞いてたとおり、結構可愛いじゃない」

「…え?…え、え…そんな…こと…」

 …知ってて自己紹介させたのかよ。…こういうちょっとした意地の悪さまで、以前の姉ちゃんのまんまだ。
 可愛い、なんて言われたら恭子ちゃんは予想通り、赤面して俯いてしまった。

「あはは、ホント可愛いなぁ。三人にはいないタイプだね。…いや、修が近いかな?」

「あー、分かる分かる。可愛いしね」

「ぼ…ボクに可愛いとかって言うなよ!」

「女々しい?」

「余計に駄目だわっ!」

 姉と楓が揃うと、余計に騒々しくなる。…小さい頃は無理矢理女装させられて、街を歩いた事とかあったっけ…。…うう、思い出したくない…。

「でも民宿ってこんな風なところなんだね…。正直、入るのちょっぴり勇気要るよ」

「あ、やっぱ楓もそうだった?普通の民家にしか見えないからね、ココ。…ま、安いんだし文句は聞かないよ」

 確かに…学生のボク達でも泊まれる値段の宿だ。二泊で食事つきの値段とは思えぬ額で泊まらせてもらえるんだし…文句なんか出るはずもない。むしろ、こういうアットホームな宿のほうが落ち着いて旅を楽しめる気さえする。

「文句なんて言わないよ。俺達としちゃ、こういう宿の方が落ち着けるしさ」

「…んー。宗佑も大人っぽくなってきたねぇ。あの鼻タレ小僧は何処へいったのやら」

「…誰が鼻タレ小僧だ」

 …宗佑まですっかりからかわれてしまっている。昔から、ボクも宗佑も姉には頭が上がらないのだ。

「…それじゃ、部屋まで案内するよ。ついといで」

 姉が手招きすると、ボク達は民宿の中へと入っていった。

 クーラーこそ効いていなかったが、民宿の中は外に比べれば断然涼しかった。直接肌に当たる日光を遮るだけでも、暑さというのは違うものだなと実感する。
 古びたフローリングの床は歩くたびギシギシと音がした。壁紙も、幾つも染みが出来ている。…本格的に古い宿らしい。
 綾姉ちゃんが歩いていく後を、楓、ボク、宗佑、恭子ちゃんの順番で歩き始めた。
 やがて、ボク達は階段に差し掛かる。…と、楓は急に立ち止まった。

「…先行って、修。宗佑も」

「へ?なんでさ」

「…あたし、スカートだから」

 …なるほど。楓の今日の格好は、黒のミニスカートだ。傾斜もやや急な階段だから…見えてしまう、と。
 … … …。見たい。心でそう叫んだけど、ボクと宗佑は我慢して先に階段を上り始めた。ちなみに…綾姉ちゃんはジーンズ、恭子ちゃんはロングスカートだ。

「…別に、覗くかよ。なぁ、修?」

「…え?…う、うん…」

 …賛成しづらいけど、ボクは頷いておいた。…宗佑は興味ないのかな。
 ボク達に続いて二人の女の子も階段を上り始める。そして、二階の広間に上がって、また少し廊下を歩いて…ボク達は部屋に到着した。
 綾姉ちゃんがドアを開けると、ボクと宗佑は荷物と一緒に部屋に雪崩れ込んで寝転がる。

「「つ、疲れたぁ~…」」

「はい、お疲れ様~。此処がアンタらの部屋だからね~」

 15畳程の部屋。部屋も古びてはいるが、客商売だけあって掃除は行き届いている。埃も無く、綺麗なものだ。そして窓からは…。

「すごーい!海が見えるー!」

 楓は部屋に入ってくるなり窓に駆け寄り、外の景観に感動する。恭子ちゃんもそれに着いていった。
 窓からは、太陽の照りつける青い海が見えた。テトラポッドの向こうには、船も見える。…山間で暮らしているボク達には、本当に考えられないような絶景。…何処までも広がる、雄大な海。

「女将さんが気ぃ利かせてくれて、一番景色のいい部屋とってくれたのよ。感謝しなさいよ、アンタ達」

 綾姉ちゃんが嬉しそうにはしゃぐボク達を見て笑顔でそう言うと、ボク達は声を合わせて元気に返事をする。

「「「「 はーい! 」」」」

「うむ、いい返事だ。それじゃ、あたしは戻るね」

「え、綾姉ちゃんもう行っちゃうの?」

 楓が寂しそうに言う。綾姉ちゃんは首を横に振って

「あたしも皆と一緒に居たいんだけどね、そろそろ一回寮戻っておきたいんだわ。昼ご飯も食べてないし」

 …そういえば、もうお昼か。ボクの腹がきゅうと小さく鳴る。この民宿では、朝食と夕食は出してくれるけど…昼食は出てこない。つまり、ボク達が何処かへ食べにいかなければいけないのだ。

「姉ちゃんの寮でメシ食わせてよ」

「あー、無理無理。三人入るだけで満杯だから、あたしの部屋。ましてお昼カップ麺だし、それならあんた達がコンビニで買ってきても同じでしょ?」

 …それもそうだな。…にしてもカップ麺って…。自分で作ろうとしろよ、この姉は。

「海辺にレストランとか出店とかもあるから、適当に食べてきなよ。折角の旅行なんだから、そういう事楽しまないとね」

「うむ、綾姉ちゃんの言うとおりだ。それじゃ皆、出発するぞー!」

 ウンウンと頷いて楓が拳を突き上げるが…

「ち…ちょっと休ませてくれよ…。俺達荷物運びしてヘトヘトなんだから…」

「えー、なっさけないなー。ウダウダ言ってないで行くよっ、二人共っ!」

 楓がボク達二人の襟首を掴んで引っ張り始める。

「か、楓ちゃん…乱暴すぎるよ…」

「あー、いいのいいの。休んじゃうと寝ちゃうし、さっさと連れ出さないと。ほら、恭子ちゃんも手伝って」

「え、ええ…?でも…」

「く…苦しい…」

 襟で首が締め付けられ、ボクも宗佑も強制的に立ち上がる。

 …こんな感じで三日間、ここで過ごすのかな…。
 …でも…悪くないかもしれない。

 …三日間も、楓と過ごせるなんて。

「…ふう…」

 満腹になったボクと宗佑は、防波堤に座り込んで海を眺めていた。既に二人共海パンに着替えていて、爪楊枝で歯についた青ノリを取っているところだ。
 観光シーズンともなると、海沿いのあちこちに露店が立ち並んでいた。結局ボク達は民宿を飛び出して海に出て、各自、好きな出店で好きな料理を食べてお昼を取る事にしたんだ。
 焼きそばやら、たこ焼きやら、イカ焼きやら…調子に乗って少し買いすぎたけど、皆で頑張って食べた。
 そして、満腹になったところで、ボク達は海で泳ごうという事になった。海の家の更衣室で水着に着替えて、今は女の子二人の着替えを待っているところ。

「…しっかし、現実感のない光景だよなぁ、修」

「ホントホント。海も珍しければ、こんなに人がいる場所なんて見られないもん」

 他の場所と比べれば観光客は少ないほう、なんて綾姉ちゃんから聞いたけど、ボク達にはとても信じられない。
 家族連れやサーファー、ボク達みたいな仲間で来ている人もいれば、普通に犬の散歩をしている地元の人だっている。
 夏の海、って…凄い。
 …と、いうのも…。

「…目移りするな」

「…ホントだね」

 …いわゆる、水着のおねーさん、が嫌でも目に入ってくるのだ。…いや、決して嫌なわけではない。むしろ好ましいわけではあるのだが。
 色とりどりの色に、色とりどりの水着の形。なかには布の範囲が極端に狭い、大胆な水着の女の人も…。
 …山間では決して見られない光景だ。女の人の…生の肌。生の太もも。生の…谷間。

 …楓も、恭子ちゃんも…ああいう格好で来るんだろうか。
 ………。

 すっごく…楽しみだ…。

「…こら修。なにスケベな目で周り見てんのよ」

「…いてっ」

 思わず鼻の下が伸びていたボクの頭に、軽い衝撃が走る。
 後ろを振り返ると、そこに…麦わら帽子を被った楓と恭子ちゃんがいた。

「… … …」

「…な、なに…?」

 ボクは思わず固まってしまう。…いや、変な意味ではなく。
 楓の水着は…ビキニデザインの水着だった。白の生地が太陽に眩しくて…綺麗だった。運動をやっているだけあって、絞られた曲線美が美しく、派手すぎず、おとなしすぎない布地の大きさが楓に似合ってると思った。実際はその上にTシャツを着ているのだけれど、透けて見える胸のビキニがなんだか魅力的だ。
 恭子ちゃんの水着は、紺色の、一瞬スクール水着と間違えてしまうようなおとなしめの水着。でも控えめでおとなしい恭子ちゃんにはぴったりの水着で、逆に露出しすぎない美しさというのが存在している。恥ずかしいのか、少し顔を赤らめていて、身体をモジモジと縮こまらせている。

「いや、楓のこういう水着、初めて見たから…」

「へっへー。この日の為にお母さんに買ってもらった水着なんだ。どう?似合う?」

「…うん、すごく似合うよ」

「…っ。…ま、真顔で言わないでよ、照れるから…」

 思わず本音で言ってしまった。…だって、本当に似合っているから。楓は照れているけど、なんだか嬉しそうだ。

「恭子も似合ってるじゃん。なんか学校の水着と勘違いしちゃったけど」

「…あ…ありがとう…。湯原君…」

 宗佑が、ボクが思ったのと同じ事を恭子ちゃんに言う。それでも、言われた恭子ちゃんは照れながらも俯いて笑っていた。

「よーっし、それじゃあ泳いできますかっ、皆の衆っ!」

 楓が元気良くそう言うが、宗佑は苦笑いしながら手を横に振る。

「ちょっと休ませろよ。昼飯食いすぎて動けねぇ」

「えーっ、だらしないなぁ宗佑」

「買いすぎたからアタシの分食べて、って俺と修にたこ焼き押し付けたの誰だよ…」

「う。…ま、まぁ…それとこれとはまた…」

 楓は痛いところを突かれたようで、誤魔化すように笑った。

「よ、よしっ、それじゃあ恭子ちゃん、先に泳いでよっか!修はどうするの?」

「うーん、そうだなぁ…ボクは…」

 確かに、少し食べ過ぎたような気もする。もう少し休みたい気はするけど、楓と恭子ちゃんと遊びたい気もするし…。
 そんな風に考えていると、宗佑がボクに声をかけてきた。

「やめとけよ、修。お前も結構食べただろ。ちょっと休め」

「え…でも別に…」

「いいから。お前身体弱いんだから、万全になってからにしろよ」

「…うん」

 正直、少し残念な気もしたけど、ここは宗佑の意見に頷いておいた。確かに、今海で泳ぐと…色々なものを戻してしまう気がするし…。
 何より、宗佑の言葉には力があった。まるで、『お前はココに残れ』と言っているような強さが。

「それじゃ、先に行ってよっか。行こっ、恭子ちゃん!」

「う、うん…」

 楓がTシャツを脱ぐと、ボクにそれをパスする。…微かに、楓の肌の温もりが残っていた。
 麦わら帽子を置くと、楓は恭子ちゃんの手を引き、海へと走っていった。やがて海に入りはしゃぐ二人を、ボクと宗佑は保護者のように温かい目で見つめている。

「…ったく、人の事考えろってんだよ。…なぁ、修?」

「あはは…確かにね」

 ボクと宗佑は二人に目を行かせながらも、お互いに笑った。

「…それで、なに?宗佑」

「…え?」

「ボクの事、呼び止めたでしょ、さっき」

「…気付いてたのか?」

「うん」

 ボクがはっきりそう言うと、バツが悪そうに宗佑は頭を掻いた。

「参ったな。適当なタイミングで適当に言おうかと思ったんだけど…そんな大事にしないでくれよ」

「宗佑があんな風にボクに強制するような言い方する事ないもん。そりゃ不審に思うって」

「…ははは…。ちくしょー」

 宗佑は苦笑しながら、海の方を眺めている。ボクも、宗佑の顔は見ないで楓達を眺めていた。…面と向かって話の出来る内容ではないらしい。
 …しばしの沈黙が流れたところで、宗佑が口を開いた。

「…俺さ…」

 宗佑の次の言葉がなかなか出てこなかったので、やっと聞こえてきた声にボクは安心して、うん、と頷いた。

 …しかし…

 次に聞いた言葉に、ボクは耳を疑った。

「この旅行が終わったらさ… 楓に告白しようと思ってるんだ」

―――――― …。

――――――――― … え?

「…え?」

「…聞き返すなよ、恥ずかしいから。楓に、告白するんだよ。…好きです、付き合ってください、って」

「… … …」

 ボクは宗佑の方に顔を向けて、馬鹿みたいに口を開いたままになっていた。

「…俺がバスケ始めたのもさ。楓に少しでも近づきたかったからなんだよ。…好きな相手と同じスポーツがしたかった。…はは、可笑しいだろ?」

「… … …」

 放心状態のまま、ボクは首を横に振った。

 …何故なら、ボクだってそうしたかったから。

「お前と楓、三人で遊んでた時からずっと。俺は楓の事、好きだったんだ。…でも…この旅行が終わって少ししたら、俺達はみんな、バラバラになっちまう。…だから最後に、俺の気持ちを楓にぶつけておきたいんだ」

「… … …」

 何故だ。何故なんだ。
 なんで宗佑は…ボクと全く同じ事を、ずっと前から…!

「告白を受けてくれるか、フラれるか。…俺にも分からん。でももし…フラれたら。俺達三人は、もう遊べなくなるかもしれない。…修に黙ってそんな重大な事を俺がしたら、修に失礼だ。…だから、前もってお前に言っておく事にしたんだ」

 …宗佑に悪気はない。ボクが、宗佑と同じように楓を好きだなんて宗佑は知らないわけだし…。
 むしろ、なんて優しい奴なんだ、なんて思ってしまう。ボクが何も知らないまま、宗佑が告白をしたら…どういう結果にしろ、いつの間にか『ボクの知っている二人』ではなくなってしまうんだ。
 …惚れた相手に告白をするのは、自由だ。ボクの事なんて考えずに、好きな人だけに集中していればいい。それなのに…宗佑はボクの事をちゃんと気に留めてくれた。…友達だから。言ってしまえば、それだけの理由で。
 …ボクだったら…。ボクが宗佑と同じ立場だったら…同じ事が出来ただろうか。…いいや、できない。
 そう思うと、ボクは…自分自身が凄く惨めに、憎たらしく思えてきてしまって。

「…そういう話だ。…なぁ、修。俺…楓に…告白してもいいのかな。…なんか、お前に悪い気がしてさ。…三人でずっと良い友達でいれたのに、それを崩しちまいそうで…」

「… … …」

「…修?」

「…あはは…」

 ボクは立ち上がって、空を見上げて笑った。笑ってみせた。…涙が宗佑に見えないように。

「なんだ…それならそうと言ってくれれば良かったのに。ボクだって、何も出来ないわけじゃない…。宗佑と楓の応援くらい出来たかもしれないのに」

「修…!」

「告白してもいいか、なんてボクに聞かなくていいよ。宗佑はずっと、楓の事好きだったんでしょ?…ボクはそれを応援したい。…だって、宗佑と楓が、ボクを外の世界に連れ出してくれたんだから…」

「… … …わりぃ、修」

「… … …頑張って、宗佑」

 宗佑は…泣いていた。
 ボクは…涙を宗佑に見せないように拳を握り締めていた。

「…なんか喉渇いたね。ボク、何かジュース買ってくるよ。…皆の分も」

「… … …わりぃな」

 ボクは、道の反対側にある自販機に向かって歩き始めた。
 …ボクの背中に、涙声の『ありがとう』が…何回も聞こえてきた。

「――― …ッ! はぁッ… ぐ、あっ…!ひ、ぅぅ…っ!!わああああっ!!」

 道を渡りきって、自販機の横。
 …宗佑から大分離れた場所で、ボクは溜まったものを全て地面に吐き出した。…涙が幾つも目から零れては、乾いたアスファルトを濡らしていく。

 楓を好きなのは…ボクだって同じだ。

 …でも…。

 もしボクが楓だったら…。
 まず間違いなく、宗佑を選ぶ。
 宗佑はオチャラケてはいるけど、顔はかっこいい。誰にでも気さくに接してくれるし、決して威張らない。そして何より…楓と同じバスケット部で、バスケの話だって二人でよくしている。
 …元から、仲がいい二人なんだ。ボクを遊びに誘ってくれた時だって…楓と宗佑は、いつも二人だったんだから。

 …ボクは。
 ボクは…根暗だし、運動も出来ない。楓や宗佑以外の人となんてほとんど喋らないし…お世辞でもかっこいい、なんて言われた事がない。

 …楓がどちらを選ぶかなんて…勝負する前から明白なんだ。

 それに…楓だって、優しい。
 ボクと宗佑、二人が一緒に告白すれば、困ってしまう。
 …ボク達は、友達だったのだから。
 どちらかと付き合い、どちらかをフる。…仮にそんな状況になってしまうのならば。…いいや、そんな事は楓には出来ない。
 …それが出来ない、優しい楓だからこそ…ボクは楓を好きになったのであって。

 …引くべきなのは、ボクなのだ。

 楓も、宗佑も、困らせてはいけない。恩人とも言える二人にそんな真似は出来ない。
 …ボクが楓を諦めれば…全てが解決するのだ。上手くいくはずなんだ。

 宗佑は旅の終わりに楓に告白。楓はそれを受けて…。
 誰からも茶化されず、嫉妬されない。…本当に、お似合いのカップル。
 ボクは…その二人を見送るんだ。…幸せそうな、あの二人を…。

――――…っ。

 …嫌だ。…たまらなく嫌なのは、当たり前だ。
 …でもそれでも…ボクは見送らなければいけない。

 大丈夫。元から…無理な事だったんだ。
 ボクがいくら楓の事が好きでも…楓はきっと、それを受けてはくれない。
 それなら…最後まで、良い友達でいようじゃないか。…楓の笑顔が近くで見れるなら…ボクはそれだっていい。…いいはずなんだっ…!

 …涙はそれでも止まらなかった。
 しかし…あまり遅いと、宗佑も不安に思ってしまうだろう。

 …さぁ、涙を拭いて。皆の所へ帰ろう。
 冷たいジュースの缶で目元を冷やすと、涙は無理矢理に止まった。…よし…!
 ボクは道を渡り始めて…皆の所へと…歩を進めた。

 …どこからか、不快な音がした。

 …なんだろう。

 この音を聞くと、とても嫌な事が起きる気がした。

 でも、ボクは近付いてくるその音を気にしている状況じゃなくて。

 今はただ、目の前の海しか見えなくて。

 … … …。

 プォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!!!!!!!!

 …うるさいなぁ…。

 そう思って音の方向に顔を向けると…。

 … … …。

 トラックの大きな車体が、目の前にまで迫ってきていて。

―――――― 次の瞬間、ボクの視界は一瞬にして、黒と赤に染まった。

< つづく >

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