Gear of Destiny 第三話

第三話「影×名無しの花=暗躍する者」

 夜の静寂を一つの影が走る。
 その視線は獲物を狙う狩人の眼、後ろに束ねた黒い髪は風に吹かれて靡く。その姿、その動きは鍛え抜かれた忍びの動き。その影を月明かりのみを頼りに探り当てる事など常人のできることではない。
 夜の闇を友としてこれまで生きてきた影は数日前に己が主が壊滅させた組織――『スナイプホール』の調査を行っていた。
「いい夜だ…このような夜には、血を見るかいい女を抱くに限ると思わないか?…忍びの者よ」
 常人には見つからないはずの影に声がかけられた。そのことは相手も普通ではないということに当てはまる。そのことを察知してかすぐさま影はビルの屋上で動きを止めるのであった。
「ん?止まってくれたのか?てっきり無視して逃げると思ったのだがなあ、いや…止まらなければ追いかけていたところだ。ここは素直に感謝するぞ」
 影を呼び止めた男は世間話をするかのように影へ話しかけた。一見して異国のものと思われる服を着ているその男は、そこにいるだけでわかるほどの気迫に満ち溢れている。
「…………」
 それに対し影は何も語らずただ静かだった。
「だんまりか…それもよかろう。顔を隠してはいるがその身体は女のものだな、では先ほどの女を抱くに限ると言うのは訂正しよう。女性に言う台詞ではなかった…それにかなりの手練…今日の出会いあまり感謝したくは無いが神に感謝するぞ」
 影に変化はない、男の力量を測るようにただ見据えている。
「……何も語らずか、ますます気に入った。その静けさ、俺の最も好むべきものだ…ここまで心地良いのも久しぶりだ。お前がほしくなってしまうぞ」
 言葉のわりに男に下賎な笑いには聞こえない、影を強者として己が信念に則り素直に気持ちを述べている。
 一方の影は体制をそのままにやはり前を向いていた。
「俺の名は黒将!『シャッガイ』第三部隊『スナイプホール』を束ねる男だ」
 その言葉に影が反応した。そして始めて影は口を開く。
「一つ聞く…」
「ほう、きれいな声だ。よかろう俺に答えられることなら教えてやる」
「『スナイプホール』は我が主が壊滅させたと聞いている…お前はその生き残りか?」
 黒将が眼を見開いた。一瞬の間の後、彼は脱力したかのようにその場に膝を着いた。
「なるほどなあ、あいつらを殺ったのはお前の主か…そうか、お前ほどのやつを従えているのだ。さぞかし、すごい主さんであるのだろうな…戦わずともわかる、あいつらが敵わなかったわけだ」
 やれやれと首を振った後ゆっくりと黒将が立ち上がる。眼は瞑ったまま、それでも彼には目の前の影が見えているようだった。
「理解した。主には追って報告する…『スナイプホール』の生き残りを始末したと」
「それは願ってもないことだ。俺としてもお前ほどの手練と戦うのは喜ぶべきことだ」
「……変身」
 影が取り出したのは、忍びの定説であるクナイ、その刃の付け根部分にある窪みへメモリーが装填された。
「ほう…その姿、なるほど『アブゾーブギア』に魔術を使う忍びのがいると聞いていたが、お前がそうであったか…そしてお前の主は恐らく真実に一番近いところにいるあの魔術師だろう?」
「…やはり主の予測は正しかったようだ。我等は秩序を守るものに在らず、我等は歯車となるべくして集められた贄…虚幻による正義…ならば、私はお前を倒しその因果を絶つ」
 緑のスーツを身にまとい、影は目の前に立ちふさがる敵へ構える。
「シャドウアローディア…参る!」
 先に駆け出したのは影――アローディア、黒将はそれを迎え撃つべく構える。
 細い光が黒将の首筋を掠めるのと同時にアローディアに向かって鈍い輝きを放つ刃が振り上げられた。しかし、それが予測できていたのかアローディアはすでに後ろへ飛んでいた。
「やはり速いな…動脈を狙っての一閃、かわされるのも承知で踏み込み、俺の得物を探り出すか…その判断は素晴らしい。本当に今日はいい夜だ」
「あなたのソレもかなりの業物と見た…こちらも様子見などと言うわけにはいかないようだ」
 アローディアの顔を隠していた布がはらりと落ちる。黒将の得物、それは月の光に照らされ鈍く鋼の輝きを放つ、日本刀であった。
「ふむ、美しいなお前の顔は…今宵の月明かりで神秘的なものに見えるぞ。正直な話、お前のようなやつが相手でよかったぞ。俺は魔術なんて小賢しいものは使えないのでなあ、こういう戦いの方が性に合っている」
「それは奇遇だ…私も、こちらの方が気が楽だ」
 アローディアの姿が黒将の前から消えた。
(消えた?いや…姿を隠し奇襲をかける気なのか?)
 黒将がそう思った刹那、右腕に焼き鏝を当てられたかのような痛みが走った。
(斬られた?いつの間に?)
 傷を確認する間もなく、今度は左足に痛みが走った。傷自体は浅く致命傷には至らないが、それらは確実に黒将の体力を奪っていた。
(速い…目を凝らさなければ視界に捉えることさえできないか…仮にできたとしても)
 勢いよく放たれた黒将の刀が虚しく風を斬る。その直後にクナイが背中を斬りつけた。
(やはり…見えた程度では追いつけないか…姿を満足に捉えられず、攻撃を防ぐことさえできない…)
 黒将の顔に自然と笑みがこぼれる、このような状況は黒将にとって久しぶりの状況であった。強者と出会い、戦うことは黒将がこの世でもっとも楽しみにしていることの一つであり、彼が武人であることの証でもある。
 彼はその場から動かない、ただ来る攻撃を受け続ける。傷はすでに十では足りないほどの箇所に至っている。
 後ろに気配が感じられたのはその時だった。刀を振ろうとする前に背中から手を回された時……黒将の視界がぐるりと回った。
 持ち上げられた黒将の頭が屋上の床に叩き付けられた。コンクリートの地面は砕け黒将は叩き付けられた状態のまま動かない。
「驚いた。まだ生きているのか」
 アローディアが少し驚いたような声で言った。
「いつまでそうしているつもりだ?私を謀ろうとしても無駄だぞ」
「いや、なに。ここまで圧倒的にやられたのは久しぶりでなあ、敗北感を噛み締めていただけのことだ」
 パラパラとコンクリートの破片を落としながら、ゆっくり黒将は立ち上がった。
「しかし、完全にやられたな…どうも心が踊りすぎる。お前に惚れてしまったかも知れないぞ」
「……戯言を…次で終わりにするぞ」
 アローディアがクナイを構え姿を消す。
「ああそれは残念だ…これで最後か。本当に…今日はいい夜だったなあ」
 黒将は刀を構えもしないで、棒立ちのままアローディアが止めを刺してくるのを待つことしかできない。
「全力で来いよ、俺も全力だ!手加減なんかしたら化けて出てやる!」
 黒将が叫んだのと同時にザクリと肉を切り裂く鈍い音がした。アローディアのクナイは黒将の身体に深々と刺さり黒将の命を奪う……はずだった。
「うおおおおおおおおおおお!!!!」
 雄叫びが響いた。その瞬間、アローディアの身体は叩き付けられていた。
「ぐぅ…あっ…が…」
「ふ…ようやく一発当たったなあ」
 アローディアの姿が元の忍びに戻る。クナイは黒将の身体に深く刺さったままだ……そう、クナイを突き刺すという選択肢をした時点で彼女の敗北は確定していたのだった。
「刺された箇所に意識を集中させ、武器を封じる…いかにすばやくとも抜くことのできない得物に対する一瞬の違和感…その隙が一撃を与えることになった」
「全部……計算して…たって……こと?」
 息をすることも苦しそうな忍びの少女はなんとか言葉を発する。
「そんなことあるものか、最後に突き刺してもらわなければ、こんな手は使えなどしない。最後の賭けというやつだ」
 未だ流血を続ける身体を支えながら黒将はその場に尻餅を付いて倒れこんだ。
「………止めは刺さないのか?」
「ふん、お前こそ、なんで起き上がって俺を殺さない。どう見ても体力残ってるのはお前のほうだろう?」
 黒将が豪快に笑う。それは何かをやりきった漢の笑いである。
「馬鹿を言うな、変身は解けお前に叩き付けられたこの身体は動きたくても動けない、それに対してお前はまだ動けるだろう…ならばその質問は私のものだ」
「そうかい…なら引き分けでいいだろ。お互い生きていたらまた手合わせ願う、そんな感じでいいではないか」
 そう言って黒将は、刀を支えに何とか立ち上がり忍びの少女に背を向けた。
「『シャッガイ』が私を見逃すというのか?」
「違うな『スナイプホール』最後の漢、黒将が気に入った女と再会を願ったってそれだけだ」
「……日下部 璃梨だ」
「ん?」
「お前が気に入ったと言った女の名前だ」
 黒将は璃梨のその言葉に満足したようで、自らの心臓近くまで突き刺さったままのクナイを抜き璃梨の近くに放った。
「良い名だ…ではまたな…」
「一つ聞いても良い?」
 去ろうとする黒将へ璃梨が語りかける。
「『アブゾーブギア』とか『スナイプホール』とか、そんなのがなかったら…私達って…」
「良い仲になれただろうな…正直にこの状況が恨めしい」
 そう言い残し今度こそ黒将がその場から去ろうとしたその時だった。声はどこからともなく聞こえてきた。
「それは困るよ…黒将君」
 子どものような陽気な声、その声の主を黒将は知っていた。
「ミロク…!」
 それはいつからいたのか、そんなこともわからないようにごく自然に、まるで風に乗ってきたように黒将達の前に現れた。
「そんな怖い顔しないでよ~。僕チンが思うに違反しているのは君の方なんだから。歯車を倒したら残らず収集しないとね~君も歯車に情を移してしまった口かい?アシタカくんと同じように…」
「なるほど、アシタカがあんな風になったのはお前の仕業か…」
 憤りを隠そうとしない、威圧に満ちた言葉をミロクにぶつけるが、ミロクは態度を崩さない。
「だってしょうがないでしょ?彼は美玖ちゃんに好意すら抱いていたから、魔導書の力でちょっと狂ってもらっただけじゃないか」
「それで…俺も同じように狂わせようということかなあ?」
 黒将はミロクに向かって、ふらつく頭で、けれどしっかりと地面を踏み刀を構える。
「いやいや~君には狂ってもらうよりもっと効果的な方法があるんだよね~。動かざるを得なくなるというか」
 思わせぶりなことを言うミロクの視線は璃梨へと注がれていた。
「まさか…璃梨!にげ――」
「残念、遅かったね」
 黒将が何かに気づくが、時はすでに遅く璃梨の倒れている地面が割れ、そこから湧き出したいつくもの触手がその身体を拘束した。
「黒将くん、君にも少し黙っててもらおうかな。邪魔をしてもらっても困るし」
 ミロクが手をかざすと黒将の足元へ現れた魔方陣が光を放ち、まるでそこだけ重力が何倍も働いているかのような重みが黒将に与えられ、彼はその場に倒れこんだ。
「ぐがっ…ミロク……やめ…ろ」
 黒将の苦し紛れの声は届くことなく、璃梨は触手に絡めとられたまま、ミロクの前に差し出された。
「さ~て、璃梨ちゃんだったかな。君には『シャッガイ』のために、そして僕チンのために働いてもらうよ」
「…………」
「あれあれ?黙ったまま?なんか拍子抜けするなあ、てっきり罵声の一つや二つ来ると思ったのに」
 璃梨は答えない。そして、その視線は目の前のミロクではなく倒れ伏している黒将に向けられていた。
「黒将くんが気になるの?自分がこれからどうなるかより、今さっきまで命の取り合いをしていた彼のほうが気になるのカ・ナ~ン?」
「わかるならいちいち聞く必要はないだろう…黒将を放せ」
 静かな…けれどしっかりとした口調で璃梨はミロクに立ち向かう。けれどミロクはそのおちゃらけた表情を崩すことはない。
「第一、彼は君達にとって倒すべき対象じゃないのかな?」
「黙れ!」
 璃梨の一喝がミロクがビクリと身体を震わせた。
「おお怖い怖い…でも大丈夫。すぐに開放してあげるさ、君に処置を施してからね…」
 ミロクの瞳が怪しく光り、手を璃梨の顔へ近づけて一言…。
「エロイムエッサイム」
 呪文の詠唱が終わったとき、璃梨の瞳から光が消えた。
「素直な子だね。調整のしがいがあるよ…」
 ミロクがパチンと指を鳴らすと彼女を絡み採っていた触手は消え、その場には璃梨とミロク、そして黒将が残った。
「実はこの触手、まだ見られるわけにはいかないんだよね。対大物用の僕チンの切り札だったんだ。監視者なんかに見つかっちゃったら中核がこなくなっちゃうかもしれないから」
 クスクスと笑う声は今、誰も聞いているものはいない。
「璃梨…僕の声が聞こえるかい?」
 ミロクがゆっくりと璃梨に話しかける。
「……はい、聞こえます…」
 魂の抜けたような無機質な声が返る。彼女はミロクの魔術により深い催眠状態へと落とされていた。
「いいかい?今から僕の質問に答えるんだ」
「……はい、質問に答えます」
「じゃあ、まずは…君のご主人様の名前を教えてくれないか?」
「雫…お嬢様です…」
 答えはすんなりと出た。出てきた名前を聞いてミロクが微笑する。
「雫ちゃんか…やっぱり彼女は気づいているみたいだね。それさえ聞ければ良いよ…彼女が相手ならそれほど多くの情報は得られないだろうから……だから君には別の部分で役立ってもらうよ……黒将くんの僕として」
 ミロクに邪悪な笑みが浮かぶ、一旦地面へ倒れこんだままの黒将を見下ろし、再び璃梨と向き合った。
「君の主は今から黒将くんだ…」
「……黒…将?」
 璃梨が聞き返す。彼女を追い込み、ひいては黒将を追い込むためミロクは呪いの言葉を続ける。
「そう…君のご主人様は黒将だ…君の身体、君の心は黒将くんの物なんだ」
「私の主は…黒将……私の身体も心も…黒将の物……」
「そうだよ…君は黒将くんの僕…彼の所有物であり…彼に尽くす事が君の喜びだ…」
「私は黒将の僕…所有物……黒将に尽くすことが私の喜び…」
 ミロクはさらに璃梨に対し、黒将への従属の言葉をすり込んでいく。それまでの関係を破壊し、自分に都合のいいように璃梨を作り直していく。
「私は黒将さまの物…」
「そうだよ…そのことを忘れないで…君は黒将くんの奴隷なんだ」
 璃梨の目の前でミロクがパチンと指を鳴らすと、璃梨はハッとして現実へ戻される。
「さあ、璃梨…黒将くんを介抱してあげないと…」
 さらにミロクがパチンと指を鳴らすと、黒将を束縛していた魔方陣が消滅した。しかし、黒将は相当消耗しており、うつ伏せの状態から動くこともできないようだ。
「彼女の調整はうまくいったよ。これからは君だけに尽くす従順な奴隷さ…ふふ、よかったね~黒将くん」
「誰が……そんなこと頼んだ!この俺がそんなことを望むと思っているのか!璃梨を元に戻せ!ミロク!」
「あ~あ、そんな事言っちゃだめだよ黒将くん。ほら、璃梨ちゃんが不安げな顔をしているじゃないか」
 ミロクに蹴り上げられ、仰向けになった黒将が見た璃梨の瞳は涙が流れそうなほど潤んでいた。
「そうそう、彼女を元に戻したいのなら歯車を集めることだね。法陣が完成すれば、暗示が解けるようにしといたから…それじゃあ、後はごゆっくり」
 嫌味な捨て台詞を残しミロクは現れたときと同じく風のように消えた。
(なんでだ?…なんでだよ?こんなことが…俺たちの世界を救うためだっていうのか?)
 後悔という名の鎖が黒将の心に絡み付いてくる。
「主様…」
 璃梨が黒将へ近づいてゆっくりと服を上着を脱がしていく。
「や…めろ…俺は…お前の主じゃ…な…い」
 どうにか言葉を発するが、今の璃梨には届かない…。
「あなたが私の主様です…」
 黒将の傷を璃梨が舐めていく。主の傷を愛おしげに舐め恍惚に浸る璃梨に先ほどまでの忍びの姿はない。
「あむ、んちゅ…れろ」
 丹念に、璃梨は黒将の傷を舐めていく。その姿に黒将は自分の無力さを呪いつつ、否応無しに襲い来る官能に支配されていく。
「主様のここも、苦しい苦しいって言ってますね…」
 そう言って伸ばされる璃梨の手は黒将の股間へ向かう。
「や…やめ」
 やめろと言おうとした口は璃梨の口により塞がれ、そこから口に進入する舌は黒将の口を味わうように動いた。
「ぷはっ…んっ…主様…どうか私のご奉仕…受け取ってください」
 璃梨の舌は身体をなぞりながら黒将の股間へと移動する。黒将の肉棒を取り出した璃梨はまるでそれが世界で一番大切なもののように愛で舐め始めた。
「れろ…んぁ、ぺちゃ…あん…ん」
 根元から上へ、そこから口いっぱいに肉棒を喉の奥に届くまで頬張る。身体を大きく上下させ刺激を与える。口の中の感触、舌が絡みつく感触は黒将を容赦なく追い詰めていく。
「んむ、あん。んちゅ…くす、びくびくしてますよ、主様。もう我慢できないんですか?」
 妖艶な笑みを浮かべた璃梨は、続けて手で肉棒をしごきだす。
 黒将は何も言えなかった。自分の行いが、この少女を主に仕える忍びから変わり果てたものにしてしまったことが、悔しくて仕方なかった。
(法陣が完成すればか…ミロクめ、全部計算にいれていたのか…)
 黒将の中に湧き上がる怒り、だがそれは誰に届くものでもなく。今この時も続く璃梨の奉仕に掻き消されそうになる。
「いっぱい璃梨に精液くださいね…主様」
 それが合図になったのか、吹き出た白い粘液は璃梨の身体を汚し、黒将は薄れゆく意識の中、主の精を受け絶頂に打ち上げられた璃梨の姿を見ていた。

 こうして、ナイアルが千莉に出会った夜。また一つ歯車が『シャッガイ』に組み込まれた。

―――――――――――――――。

「嗚呼…悲しきかな出番、出番の少なさかな…」
 俺は人通りの賑わう都市の道をひとりごちりながら歩いていた。
 アルに千莉への説明を任せて別れた後、俺は街の中心部をただ何となく気ままに歩く。
 もっとも、アルに説明を任せた時点で余計な事を言っていないか気にはなるのだが……それを考えると怖くなるのでやめておこう。
 もともと俺たちは行動を共にすることは少ない。俺には俺の、アルにはアルの目的があり、行動を強制することは出来ない。
 主と奴隷、アルは自分たちの関係をこう表す。ただし、アルとは本当の意味で契約しているわけではない。
 俺という存在がアルを縛り付けているのはわかっていた。アルが俺と契約した理由を俺は知らない。
 必要に俺と交わりを持とうとする理由もわからない。それを本当に望んでいるかと言われればそうであろうが、どうしても俺は踏み込むことができない。何度か襲われそうにもなっているが、どうにかキスまでで流している…そう、俺は一度もアルを抱いたことはないのだ。
 よくはわからないがそれはやってはいけないことのような気がする…本能が、俺のナイアルラトホテップとしての本能が警告している…そんな気がした。
「それにしても…それにつけても、これはこれは中々大変なことになっているな」
 この街に移り住んでから一ヶ月…ようやく怪奇に出会うことができた。千莉と契約することになったのは計算外だが………いや、本当に不可抗力なんだって。
 ………まあ、おかげで今までと違うやり方で介入できるわけだからよしと、よしとしよう。
 この街はどこもおかしい。街全体を覆う魔の気配に対応がなされていない。千莉の件があるが『エレメンタルギア』とやらだけではこの気配をある程度塞き止める事はできても、祓うことはできない。
 何かとんでもない事が起きようとしている…そう思わずにはいられない。防ぐこともできないことはないはずだが……なぜだろうか、防ごうと言う気にならないのだ。
 大事が起きるとなればそれは逆に言えばチャンスだ…アイツのように…とんでもないスケールの物語を作り出せるかもしれないというチャンス。
 アイツ…そう『究極の闇をもたらす存在』…アイツを超えなければ俺は確立できない…ずっと意味の無い世界で生き続けなければならない。
 そんなのはごめんだ。俺は生きる、アイツを超えて英雄になる…そして……。
 ―――何か忘れていないか?―――
 不意に頭に言葉が過ぎる。
 それは小さな違和感だが、一度気づいてしまうと止めることはできなかった。
 ―――やめろ、考えるな―――
 ―――何を忘れている?―――
 それは大切なことか?
 ―――違う、どうでもいいことだ―――
 大切なことなら何故忘れた?何故思い出せナイ…?
 自分自身には関係なく、他人には関係あることだからだろう?
 俺はからっぽだった。何も無かった…だからアイツのようになりたい。
 ―――そうだ、だから俺は―――
 だから何をした?
 ―――俺は本当にからっぽだったか?―――
 ……違う……。
 俺は満たされていた……彼女と一緒にいた時は……。
 ―――いない、そんな女はいない―――
 ―――彼女とは誰だ?―――
 彼女は……誰だった?思い出せない……けど、一つだけ覚えてる…。
 彼女は魔術師だったんだ。
 ―――では俺はなんだ?―――
 俺は――――――
(あなたはナイアルラトホテップでしょ?)
 いつしか聞いたアルの言葉が頭の中を駆け巡る。その言葉のおかげか、段々と意識が落ち着いてくる。
 ………俺は『ナイアルラトホテップ』だ。この名を受け継いでいるんだ。
 意識が完全に落ち着いた。自分が自分であると自覚できる。それにしても今までこんなことはなかった。考え事をすることは多々あるが、今のように思考が混乱するようなことはなかった。
 おかしいことはまだある。……千莉との契約のことだ。
 あの契約はあまりにも抵抗がなさ過ぎた。いくら媚薬に侵されていたとしても、あそこまで簡単に契約が成立するのは稀だ。
 契約には両者の承認が最低条件だが、それだけじゃない。人間的な相性も十分必要になるのだ。
 俺の契約は相手の全てを支配するもの、だからこそ媚薬に侵された身体を正常な状態に戻すことが出来た。だが、相手の全てを支配するということは、相手のすべてを背負うと言うこと、その分自分に負担が来るものだ。
 今、こうしていてもわかる…千莉にはそれがない。まるで元々そうであった感覚すらある。
 何にせよ情報が少ない。これからすべきことは、この街で起こる異型を一つ一つ潰して情報を得ること、やることは今までと変わらない。そう、変わらないのだ。

………………………………………。

 気配は唐突に感じられた。
「ん?何だ?何だこの気配は?」
 懐かしい…ひどく懐かしい匂いがした。
 その正体はわからない。その理由もわからない。ただ唐突に懐かしいと感じた。
 この気配、この匂いはどこから来た?わからない…が、俺はそれが感じられたと思う方向へ足を進めた
 たどり着いたのは荒廃したビルが建つ小さな広場だった。そこへ来た途端『ソロモンの鍵』が反応し始めた。
 いや、共鳴と言ってもいいのかもしれない。明らかな魔導書の気配…魔術師が近くにいるかはわからないが、魔導書同士が惹かれあっているのは確かだ。
「これはこれは…面白いことになりそうだ」
 感じた気配の元へ走る。『ソロモンの鍵』でダウジングを使い最短距離で反応した場所へ急ぐ。
 どうやら、魔導書はこのビル内のどこかにあるようだ。俺は階段を駆け上がる。一階、二階、三階…足を止めたのは六階だった。
 間違いなく魔導書の気配がする。それも相当強力な。
 フロアのドアを一つ一つ、ゆっくりと開けて中へ入る。正直な話、俺はダウジングが苦手だ。魔導書の気配は察知できても、魔術師の気配は目で見える範囲にいなければ感知できない。昨日、千莉を見つけたのもアルが魔術師の気配を察知したからできたことだ。
 何もかも中途半端、それが今の俺、『ナイアルラトホテップ』ではなく『ナイアル』と名乗っている俺の現状…だから俺は完全になりたい。アイツのように、独りでも真っ直ぐ向かっていけるような英雄に…。
 ドアを開け続け、どのくらい経っただろうか、無駄に多い部屋も残りわずか…そしてついに…人と思われし気配がある部屋へたどり着いた。
 鬼が出るか…仏が出るか…。ドアノブをゆっくりと回し、音を立てずにドアを開ける。そこに飛び込んできたものは……。
「ふあぁぁぁぁぁん!」
 結果だけ言うとそこにベッドがあり、その上に一人の少女がいた…いたにはいんだが、その…なんというか、つまり…。
 肩ほどまで伸びたつややかな黒い髪、いかにもお嬢様といった雰囲気をかもし出している少女がそこにいた…問題なのはその娘は股を大きく開きショーツを下げ、スカートの中に手を入れ……つまりは見たままの光景を表すとすれば……は自慰をしていた。
「はあぅ…乳首ぃ……んん…これ…いいぃあぁぁっ、気持ちいぃ!」
 彼女は乳首をつまみコリコリと弄繰り回している…その光景はあまりにも不意打ちだった。
「だめぇ…だめなのぉ、気持ちいいよっ!…ああぁ!」
 動揺するこっちにお構いなく少女は肌蹴させた胸元で乳首を摘み、スカートの中に入り込んだ手はいやらしくも、激しく動いて刺激を与え続けている。
「ぁあ…ん!くぅ、あぁぁんっ!」
 顔を下に向けて、自慰に没頭しているせいか、それとも眼を瞑っているせいかはわからないが、彼女のに俺の姿は見えていないようだ。
「んいいぃ!あっあんっ!」
 まるでこちらに見せるように行われている自慰に魔力でもあるのか目の前で繰り広げられる行為に見入ってしまって、ほかの事を考えようとしてもすぐに消し飛んでしまう。
「こんな…んん、あぁんっ!…きもちいぃぃ!あぁぁっ!」
 自らの膣を慣れた指使いで弄繰り回している。そこからは止めどなく愛液が流れ本人がどれほどの間、快楽に囚われているかを物語っていた。
「ああぅ…あっあっ!…すごいぃぃよぉぉ中からぁぁ、どんどん溢れて…」
 ぐちゃぐちゃと淫らな音をたてて、さらに少女の指は勢いを増す。
「んはっ!んんっ、気持ちいいよぉぉ…はふっ、んっ…もっとぉ、もっとほしぃ!」
 舌を出し、涎を垂らし、これだけ激しく乱れながらも彼女はまるで、物足りないように叫ぶ。
 激しさを増す少女の行為…それをただ見ていた俺はゆっくりと手を下ろして……。
 ギュッと太ももを思いきり抓った。激痛が走ると同時に何とか正気に戻ることはできた。そして自分に一言……。

 なんで俺見入ってんだよ!俺!!

 自身にツッコミをいれ、冷静さを取り戻すため自身に『精神偽装』を行う。
 まずは状況を整理しよう。ここは廃ビルで、魔導書の気配がする。気配のする部屋には自慰に浸る少女がいる。つまり……
 つまりどういうことだ?
 とりあえず状況を整理してみたものの、意味がまったくわからない。第一自慰をするならもっと適切な場所があるんじゃないか?露出狂にしてもここは早々見つかる場所でもないだろう。
 とすれば…と。
 周囲を見渡すと僅かながら魔力が感じられる。とすると、この部屋に結界が張られているのではないのだろうか?
 たとえば性欲を異常に高める類のものが…だとすればこの状況は納得できる。ここへ迷い込んだ人間を、もしくはここへ誘い出した人間を対象にしたトラップ。それに彼女は填ってしまったということなら納得できる。
 壁に耳をつけると彼女の喘ぎ声がまだ聞こえる。
 俺は床に手を突き扉の向こうの結界に向けて魔力を送り込む。
 送り込んだ魔力は結界の中心へ侵食したのを確認。これで解呪の準備は整った。
「Disenchant」
 呪文を唱えると結界が崩壊していくのがわかる。
「んああああああああぁぁぁ!!」
 部屋の中から一際大きな声が聞こえた。どうやら、結界の解除と同時に彼女はイってしまったようだった。
 これからどうするか…中の娘に事情を聞きたいところだが、今中へ入っていくのは正じき気まずい。
 と、思った矢先中で物音がする。恐らく気が付いた彼女が自分の身を整えているんだろう。……というかここにいたら覗いたことがバレやしないか?
 急いで立ち上がりすぐに走り出そうとしたが…グラリと視界が揺れて、そのままドアに頭を打ち付けたのは運がなかった。
 立ちくらみ…人はこの症状をそう言う…ただし、この状況では言い訳にもならないが…。
 ガンッ!という頭を打ち付ける音と共に、中から「きゃ!」という声が聞こえてきた。
 いかん!やばい!まずい!どうするべきかわからず、俺は慌てるしかなかった。
「だ、誰かいるの?」
 中から彼女の声が聞こえる。
 ドクン、ドクン、ドクン。
 嗚呼、自分の心臓の音がやけにうるさく聞こえる。…などと現実逃避している場合じゃない!
 どうする?俺?そうだ、この際魔眼で記憶を操作して…ってだめだ!俺の魔眼じゃあ記憶の操作まではできない。
 開き直るか?いや、開き直ってどうする?このまま襲ってしまえと?馬鹿な、それではただレイプ魔ではないか。
 しかし、嗚呼~無慈悲かな俺が困惑している隙に中からなにやら物音が聞こえてくる。そして、数秒もしないうちに扉が開いて…。
「速く入って!」
 いきなり手を捕まれ、部屋の中へ連れ込まれた。
 ………死なばもろともか…。
 俺は覚悟を決めた、もはや退路はないのだ(そして何も言わずに逃げてしまえばよかったと今しがた気がついたが遅かった事を付け足しておこう)
「…え?」
「えっと…あの?それで、それで一体全体何の御用でしょうか?」
 いけない、声が震えている。怪しい、本当に怪しいぞ!俺!
「……………なっちゃん…?」
「?…私はナイアルですが…どこか、どこかで会ったことがありましたか?」
「え?…でも…………うんやっぱり、なっちゃんだ。…私のこと覚えてないの?」
 じっと上目遣いでこちらを見る彼女の視線が突き刺さるように痛い。
「残…残念ながら…」
 正直に答えたが、それがいけなかった。彼女の瞳が潤みだし目元に雫が溜まり始めた。
「あ!すまん!悪い!なんだかわからないが俺が全面的に悪かった!悪かったから泣くのは勘弁してくれ!」
 頭を下げ、その前で手を合わせる形で、全力で彼女に謝罪した。すると…。
「うん、いいよ」
 返答はいともあっさり、というか晴々とした満面の笑顔で返され。
「相変わらず女の子の涙に弱いんだね、うん。これはやっぱりなっちゃんに間違いない」
 なんてことを言いやがりました。
「嘘泣き…そうか嘘泣きか…」
「あはははははははっ!」
 嗚呼~笑ってる笑ってる。俺はさぞかし滑稽なのだろう、初対面のはずなのにこうも遠慮なく笑われるとは。
 ん?ちょっと待て、それはおかしい。この娘はさっき俺を知っているようなことを言っていた。ということは、どこかで出合ったことがあるのかもしれない。
 しかし、どうも思い出せない。記憶にロックがかかっているような感覚がする。それもすぐに開くようで、開かないもどかしい感覚。
「しょうがない、忘れてしまった困ったなっちゃんのために自己紹介してあげましょう。私は『朝倉 千穂』天涯孤独のなっちゃんの幼馴染にして、一昨年まで一緒に暮らした清楚で可憐で非の打ち所のない美少女よ。思い出した?」
 『朝倉 千穂』……?ああそうか、そうだった。どうりで覚えがあったはずだ。
 それは少し前の記憶のようで、はたまた何千年もの前の記憶のように思う。
 忘れられるはずがないのに、忘れてしまっていた。俺が生きてきた中で…この退屈でつまらない世界の中で唯一、満たされていた時のはずなのに…。
 なぜ忘れていた?
 記憶の鍵が解き放たれる…。目の前の少女『朝倉 千穂』に関する記憶が蘇ってくる。

―――――――――――――――。

「なっちゃん!これはどういうこと!」
 やはり来たか…まあ来ることを前提としてここにいるわけだが。
「何って、この廃墟の片付けだ。何の問題があるのだ?」
「ここ…私の部屋なんだけど…」
 おお!怒ってる怒ってる。だが、ここは引くことは出来ない。なぜならこの部屋、半端な散らかり方ではない。埃まみれで、足の踏み場のないのは当然として、斜めに傾いてほとんどの本が落下している本棚。何日前のものかわからない汚れた食器。コンビニ弁当の残骸、ゴミ袋からはみ出て捨てられているペットボトルの山。説明していると限がない。
 そんな部屋を見た家主様(千穂の母親)は、この廃墟の清掃を俺に託された。
 なぜ実の娘に掃除をさせないのか…そんなことは簡単なこと、千穂は…掃除というものがまったく駄目なのだ。
 容姿端麗、スポーツ万能、性格は…置いといて、良家のお嬢様というパラメーターを持つくせに掃除がまったく駄目なのはお約束か?…まあ他に欠点を言うと胸の膨らみが著しく乏しいことだが…これは横に置いておこう。
 他の家事はそつなくこなせるのに…何故だ?
「こら!今失礼なこと思ったでしょ!」
「さてね。それよりも、そんなことよりも掃除の邪魔だ邪魔、あっち行ってろシッシッ」
「なっちゃんのくせに~!!」
「別に何でもいい、いいから」
 そう言いながら足元の雑誌を一つ一つ重ねていく。
「こら!聞きなさい!なっちゃ~ん!!」
「……手伝うなら、ならそこの荷造り糸取ってくれ」
「え……?……うん。し、仕方ないなあもう、なっちゃんは私がいないと駄目なんだから~」
 我ながらわざとらしいとは思うが、千穂とのコミュニケーションはここ数年で心得ているつもりだ。
 この家に父親はいない。八年前、孤児だった俺が拾われたのと同じ年、この家の父親は失踪した。そのことがあってか、千穂は相当落ち込んでいた。だから母親が環境に変化を与えるためにと、引き取ったのがたまたま俺であった。
 その目論みは成功した。始めはそれは苦労したが、その結果が今の状況なのだから家主様の判断は正しい。
 俺としてはこんな広すぎる屋敷に住むのは抵抗があったが…まあ小さなことだろう。
「うっ、こ、こんな…こんな所に細菌類が…」
「え?うそ!あ~ほんとだ。キノコだよ~キノコ~」
 楽しそうにはしゃぐ千穂に俺はため息しか返せなかった。
「………千穂、窓を、窓をお開けてくれ。胞子を外へ出す」
「はいは~い」
 と機嫌よく窓を開けるため、向かっていったが、しばらくしても開く気配がない。
「なっちゃんなっちゃん!何か窓開かないんだけど」
 数分後聞こえてきた声に俺はがっくりと項垂れた。
「ねえ!なっちゃん!窓開かないよ~!」
「わかった…わかった今行く」
 重い足を引きずり、ごちゃごちゃになっている床を超え、千穂のところへ向かう。
 向かってから思ったのは、こんなところでも懸命に生きる命があるんだなということ。
 埃まみれの窓際にひょっこりと緑が芽を出していた。……いやあ、水分を含んで黒くなった埃って土の代わりになるんだな~なんて、どうでもいい感想を述べてしまう。
 ああ、いかん。本当にどうでもいい、と言うかこの部屋は本当にどうなってるんだ…。家主様、あなたは千穂にどんな教育をしたんですか?いえ、どんな掃除の仕方を教えたのですか………?
「なっちゃん、また失礼なこと考えたでしょ」
 しかも勘も鋭い、ほんとに、なんで掃除だけできないんだ?それを除けば学力、運動神経、全てにおいて俺より上…いや、俺どころか、上級生ですら敵うかどうか。
 人当たりも良いので友達にも事欠かないだろうし……そう考えると俺はなんで千穂のそばにいるのか疑問符が出てくるな。
 そもそも朝倉家に始めて来た時から、俺は何か違和感のようなものを感じていた。よくわからないが、世界がずれている様な…そんな違和感が――。
「また考え事かな?」
「ん?ああ、悪い、悪い。千穂のことを考えていた」
「え?それって…」
「い、いや、違う。そういうんじゃなくて、じゃなくて」
 慌てて言い返す俺がよっぽど面白かったのか、千穂は口に手を当てて笑っていた。
「もう、可愛いんだから…だから食べちゃいたくなるんだよ」
「じょ、冗談…冗談言ってないで速く片付けよう」
「わかったわよ、もう」
 この後、部屋の掃除には三日を費やし、二日後にはまた別な廃墟が出来上がったのはまた別の話。

―――――――――――――――。

 懐かしい感覚が包む、あの頃の記憶が蘇る感覚…どうして忘れていたのだろう…そんな事を疑問に思うほどの存在のはずなのに…
「どう?思い出した?なっちゃん」
 えっへんと自分の胸に手を当てる千穂……その胸が酷く貧しいことは再び横に置いておこう……。
「今、たった今思い出したよ…外見があまりにも大人びてたから全然わからなかった」
 後付のような理由だな、ただ本当に忘れていたことは伏せなければ千穂は傷つくだろう。あの頃と変わっていなければ…。
「え?それって私がまたさらに美人になったってこと?きゃは♪」
「……帰る」
 そのまま回れ右をして歩き出すが、そんな俺を逃がすまいと服の裾をがっちりと千穂は掴んでいた。
「待って!謝るから待って!あなたに置いて行かれたらお腹の子どもはどうなるの~よよよ~」
 芝居がかった口調でしな垂れる千穂…頭が痛くなってきて、俺は頭を抱えた。てか、何だよお腹の子って…。
「どうしたの?頭が痛いの?」
「さっき打ったところが痛み出したようだ…だから帰る、ああ帰るさ」
「うわわ!ホントに待って!」
「いや、待つ理由が、理由がない。さらばだ」
 適当な言い訳をして部屋から立ち去ろうとしたが、これは千穂の妖艶な笑みと一言によって絶たれた。
「ねえ、なっちゃん…さっきの私、見てたでしょ?」
「いっ!?」
 心臓を鷲づかみされる様な感覚に陥る。
「ふうん…やっぱり見てたんだ」
 ニヤリと意地の悪い笑みを浮かべる千穂は、半分邪神の自分が言うのもあれだが…悪魔の様に見えた。
「……何が目的だ?」
 無意識に身体がガクガクと震えている。昔からこの娘は他人を振り回すのに長けていた。そして、それを周りに不快に思われないところは一つの才能であるのだろうが…振り回される本人としては微妙な心境だ。
「こ~んな可愛い女の子のオナニーを見ちゃったんだもん、その代償は払ってもらわないと…」
 結論…やはりこいつは悪魔だ。うむ、神が認めてやるお前は悪魔だ。
 だがここで抵抗しないようでは男が廃るというものだ。
「たしかに見てしまったが、ああ、見てしまったとも!だがあれは偶然であり事故だ。その願いを聞き入れるまでには至らない」
 反論すると千穂は少し驚いたような、そして安心したような顔をした。
「あ、開き直った……ふうん。でもこの程度じゃ動じないんだ。これなら安心かな」
 先ほどからの態度とは一転して真顔になった千穂は試すような視線を俺に向ける。
「どういうことだ?説明をしろ、説明を」
「その前に聞くけど…なっちゃん、魔術師でしょ?」
 その言葉に俺は固まってしまった。俺を魔術師と見抜いたということは、少なくとも魔術を知っているということ…とすれば。
 嫌な予感がする。わかっている筈なのにそれがとことん嫌だった。
「私は魔術師よ」
 そして千穂は俺の予想どうりの答えをくれた。
「…………」
「なに不機嫌になってるの?そ・れ・と・も・朝倉家の当主である私が魔術師ではないとでも?」
「そうは思っていない、だが、だがな…って、待て…朝倉家が魔術師の家系なんて始めて聞いたぞ」
「見苦しいよ…まあいいや、先に私の質問に答えて、なっちゃんは魔術師なの?」
 獲物を狙う蛇のような視線…完全に見抜かれているのがわかる。下手に言い訳して怪しまれるのはゴメンだ…それに、千穂にだけは嘘はつけない。
 あの時に、そう決めたのだ。
「そこまでされて、今更否定できるものか。確かに俺は…俺は魔術師だ」
「やっぱりか、さっきの結界を壊してくれたのもなっちゃんだったんだ。ありがとう」
 普通は自分が魔術師であるということは隠すものなのだが…ということはあえて伏せておいた。それよりも千穂に礼を言われたことの方が大きかった。
「なっちゃんは『エレメンタルギア』って知ってる?」
 話が唐突に切り替わった。それより驚いたのは千穂の口からその言葉が出て来たことだ。千莉と契約した際に彼女が持つ情報を抽出しておいたのが幸いした。といっても千莉自身に明確な知識がなかったことからよくは知らないのだが…。
「その様子だと知ってるみたいだね。もしかして誰か知り合いがいるの?雫とか?」
「いや、雫という人物は知らないな。俺が会ったのは千莉と…たしか美玖といったか。もっとも……もっとも美玖というやつは正気ではなかったが」
 正気ではないという言葉が出た途端、美玖の表情が曇った。
「そう…じゃあ美玖は歯車として取り込まれたとみて間違いないかな…。私のいない間に事態は進行してしまったみたいね」
「意味がわからないぞ、こちらにもわかるように、わかるように説明しろ」
「はいはい。相変わらずせっかちなんだから」
 やれやれとため息をついてから、千穂は『エレメンタルギア』について簡潔に説明してくれた。

………………………………………。

「大体わかったが…他に、他にも何か隠してるな?」
「ふ~んどこが?」
 惚けている…というより試しているのか、どこまでも挑戦的な視線…それに答えを返す。
「『ダークゾーン』『スナイプホール』『クリムゾン』を統括してるのが『シャッガイ』ってことはいいが、『エレメンタルギア』『アブゾーブギア』『フラッシュギア』を統括している組織には名前がないのか?何故、何故だ?元々ないと言ってしまえばそれまでだが、そこに違和感を覚える。それに普通は味方のほうの説明を詳しくするべきではないのか?妙に『シャッガイ』側の情報を持っている気がするが?」
「敵の情報が多いって事のほうが重要じゃないの?」
「それ以上に、それ以上にだ。味方の事がわからない方に問題がある」
 答えに満足いったのか、千穂は微笑を浮かべてパチパチパチと小さな拍手を送った。
「正解、それじゃあ『ギア』に選ばれる人間の条件って何だと思う?」
「……魔術の才があるかどうか、どうなのか…ってとこか?」
「ピンポーン、正解者には私の愛の接吻を…」
「いらん!」
 顔を近づけてきた千穂を食い止めた…が、そこで千穂の雰囲気ががらりと変わった。
「千莉の気配がする…」
「は?」
 千穂の表情が毒々しい表情に変わる。
「なんで、なっちゃんから千莉の気配がするのかな?」
 千穂は笑顔だ……笑顔なんだが、今はその笑顔が今は何より怖い。
 本当のことを言うべきか?千莉と契約したと……いや、今の千穂に言うのは危険だと本能が警告している。
「な、なぜ…なぜかな……」
「なぜ目を逸らすの?何か後ろめたいことでもあるのかな?」
「は…はは…ははは…」
 声が震える。
 動悸が激しい。
 まずい…完全にまずい…。
「け、契約しました……」
 ヒュ~~~~~~~~。
 風が吹いた……ような気がする。
「そっか……ふうん…契約……なるほどねえ」
「そ、そうなんだ。そうなんだよ、契約したんだよ……はは…」
「うん。なら千莉の気配がするのもなっとくだね」
「だ、だろ?あは、あははは…」
「なっちゃん」
 背筋が凍るほどの冷たい声がした。
「私と言うものがありながら……」
「あ、ああ……あの…その…」
「喪に………服せ!!この色魔!!」
 純粋な魔力の塊が千穂の手から放たれた。
「うぎゃーーー!!!」

 ………………………………………。

「千莉のことは以上だ…全部話した。いい加減…いい加減機嫌直してくれよ……」
 ベッドの上で足を組み、頬を膨らませ、思いっきり不機嫌な千穂、床に頭を擦り付けている俺。
 ご機嫌斜めのお嬢様と土下座している使用人の図。
 あの後、千莉との間にあった出来事の一部始終を千穂に話した。
 千穂の機嫌は治らなかったが、嘘を吐くわけにはいかない。
「……いいよ。千莉を救うために仕方なかったんでしょ?」
「千穂…?」
「それに…いつまでもおしゃべりしてる時間もないみたいだし」
「ん?」
 ドアが開かれそこからガラの悪い男が5人もぞろぞろと部屋に入ってくる。
「あ?なんで結界が壊れてんだ?話がちげえじゃねえか!」
「それに、ニシシ、男がいるぞ、ニシシ」
「女…犯せない…残念…」
「なあに、男のほうを殺してしまえばいいじゃな~いか」
「僕もそう思うでおじゃるよ」
 入ってきて早々好き勝手喋っているが、話の内容から察するにここに結界を仕掛けたのは連中のようだ。
「おしゃべりしすぎちゃったね。てへ♪」
「てへ。じゃない、そんな場合じゃないだろ!あいつらはお前を犯す気で、俺を殺すなんだぞ」
「わかってるけど…………人間やめちゃってる獲物相手に手加減なんていらないでしょ?」
 空気がガラリと変わった。さっきまでの雰囲気がほのぼのとした春ならば今は極寒の冬。その気配を悟ってか男達も様子を変えた。
「何だ…わかってんのかよ…だったら遠慮はいらねえな!動けなくしてから存分に犯させてもらうぜ!!」
 恐らくリーダー格であろう男が吠えた。
「千穂…俺が、俺が時間を稼ぐからその内に」
「大丈夫、このぐらいなら私でも、ね……チェンジスタンバイ!」
 千穂は十字の形をした大口径の銃(背中に隠していたようだ)を持ち、腕時計から取り出したメモリーを銃にセットした。
 ガンスティメン…コンプリートと電子音が鳴ったが、千穂の身体になんら変化はなかった。
「ん?ちょっと、ちょっとまて、変身しないのか?」
「スティメンじゃ、千莉達のとは違って、スーツの装着できないの…説明は後でするから、なっちゃんは逃げて」
 俺を守るように前に立つ千穂だが、女性に守られて自分は何もできないなどと…そんな情けないことは許されない。そもそも、力が無くて何もできないわけではない、俺には力がある、それに何より守る相手は千穂だ…それなのに何もしないだと?……冗談ではない!
「女!…女だ!」
 贅肉の塊といってもいいほどの巨体が千穂に襲い掛かる。千穂は飛び掛ってくるタイミングと同時に飛び、頭へ目掛けて垂直蹴りを加えた。が…。
「う?痛くない…」
 それだけでは全然堪えないのか、蹴りが減り込んだ頭を気にするでもなく千穂を叩き落とす。
「きゃあ!」
 床へ叩き付けられた千穂へ今度は細身の男がナイフを手に飛び掛る。いかに魔術師である千穂でもかわしきれない絶妙なタイミング。この時点で千穂は一人、相手は二人、分はかなり悪い。……ただ、それは千穂が独りの場合であり。
「バルザイの鉄扇!!」
 飛び掛ってくる細身の男に対して鉄扇をパン!パン!パーン!!と景気よく3連撃をかましてしまえば戦況は一変するわけだが。
「ぐひゃ~~!!!」
 細身の男は鉄扇の衝撃を受け流せず、壁に叩きつけられた。
「なっちゃん…?」
「女に戦わせて、男が何もしないとは何とも、何とも無様…あいつに、あいつに笑われてしまう。手を貸すぞ千穂!」
「ありがとう…なっちゃん」
 千穂の微笑みを少しこそばゆく感じながら千穂の横に並び、相手を見据える。
 敵はすでに人間をやめた化物。その様子を見るに強制的に変えられたものではなく自分たちの意思で人間をやめた存在…ならば……。
 ならば、遠慮なくやってしまえばいい!
「始めよう…か、異型ども!」
「ん?僕ちゃん達に歯向かうってのか~な~?バカだね君本当にバカだね~」
 5人の中で最も小柄な男が馬鹿にしたようにこちらを指差す。
「そんな鉄扇で、何とかなると思ってんの~?僕らはね~。人間を超えた――」
 お喋りな性格が災いしたと言っておこう…話し終える前にその頭は千穂の撃った銃弾に貫かれ、開き、横薙ぎにたたきつけた鉄扇によって首が胴から飛んだ。
 血の噴水が部屋の隅から隅まで赤く染め上げていく。俺たちはその生臭い液体を浴びながらさらに前へ出る。
 その動作はわずか数秒、一気に駆け部屋から飛び出した。向かう先は窓、脚を魔術で補強しガラスを蹴破り一気に一階まで降りる。
 降りてから今度は再びビル内へ入り、建物を駆け回り資料室と思われる部屋にてその足を止めた。
「はあ、はあ、はあ…」
 千穂が息を整えている間に俺は部屋を蔽う結界の作成に入った。
「そういえば、聞いてなかった、いなかったな。千穂、お前は何故ここにいる?」
「え?あ~うん。呼び出されたのよ。学園の副生徒会長に、聞いてほしい話があるからこの廃ビルまで来てくれって」
「副会長?しかも学園って言ったな、てことは千莉達とも関係あると、あるということだな」
 千莉から抽出した情報では『エレメンタルギア』のメンバーは同じ学園にいると言うことだった。抽出した時点で千穂の存在に気づけなかったのは完全に俺の責任だが…。
「しかし、のん気にこんなところに来るか?どう考えても怪しい、怪しすぎるだろ?」
「そうなんだけどね…私、怪我で3ヶ月ぐらい休んでたから、ちょっとリハビリも予ねて誘いに乗ってみたんだけど…」
 千穂の話によれば千穂は3ヶ月前、『シャッガイ』との戦闘で怪我をし、最近まで入院していたらしい。そこに副生徒会長から廃ビルで話があると連絡を受け、罠だと知りつつ無防備に飛び込んだらしい。
「それであんな状態になってたのでは、それは、それは本末転倒じゃないか」
「……そのぅ、そのことについてはあまり触れないでほしいな…なんて」
 そこまで言って千穂は口を噤いだ。顔が赤らんでいるのはあの時のことを思い出しているためか?
 予想どうり、それでさっきの自慰というわけか…。結界にはまり、あそこまで激しい自慰を…いや、自慰で済んでいたのならまだ良いほうか。あんなところにいれば、どんなにガードの固い女性でも狂ったように男を求めるようになる。俺が結界を破壊したのもあるが…後遺症がないところを見ると千穂の魔術師としての才能は侮れないな。
「そう言う、なっちゃんは何しにここへ来たの?千莉ちゃんと契約したからってここに来る理由なんてなかったでしょ?」
「ここへ来たのは、魔導書の気配がしたからだ」
 正直に答えると、千穂は肩にかけた鞄から一冊の書を取り出した。
「これでしょ?その感じた魔導書って」
 その魔導書は『屍食教典儀』……オーガスト・ダーレスの祖先が記したとされる書であり…フランスでクォート判の出版がされたが、直ちに教会から弾劾された物で世界には、まだ14部が存在すると言われている魔導書である。
「……魔導書の大安売りだな、今のところ出会った人間のほとんどが持っているぞ」
「あのね、私は魔術師なんだよ?持ってて当然でしょ?」
「世の中には、世の中には魔導書を持たない魔術師もいるのだ。その場合は大地からのマナとか魔術回路という――」
「今説明しなくてもいいでしょ?ホント変わってないよね、その語り癖も」
「ぐ…」
「言葉をいちいち二回言ったり、出会ったときから思ってたけど…結構おかしいよ」
「俺の個性を全否定するな!するでない!大体お前も…」
 続きを言おうとして思いとどまった…太陽のように輝かしい笑顔の千穂が十字架の形をした大型拳銃の銃口を心なしかこっちに向いているよな気がしたからだ…。

―――――――――――――――。

 ガサゴソと物をあさる音が響いている。
 先ほどの会話から数秒後、千穂は部屋の中を物色していた。
 ここは廃ビルの上の階は物がほとんどなかったが、この部屋は違った。構造は単純な造りだが、8畳ほどのスペースに両端に無数に仕切りのついた棚が並んでいる。棚の中はびっしりとした書類で埋め尽くされ、それでも置ききらないのか、床にまで山済みの書類が見られる。
 どこのものかはわからないが様々な資料がある。どうやら千穂はここに何かの探し物があるようだった。副生徒会長とやらの話に乗ったのも。ここに探し物があったからなのかも知らない。ちなみに何を探しているか一度聞こうとしたが…。
「大丈夫、これは私の問題だからなっちゃんは見張りをしてて」
 と、笑顔で銃口を向けれれば「はい」と頷くしかないわけで…俺は手を出せない状況にある。(もともと結界を張るまで動けないのだが、ここでは割合しておく)
 何かを探す千穂を横目に床に広がった書類の一枚に目を通した。なになに?
『箱根旅行の真相』
 …………何だこれは?わけがわからないぞ。
「おっかしいな~ここにあるって言ってたのにな~」
 千穂の独り言が聞こえる。背中越しに書類を引っくり返す音が何度も何度も聞こえる。そしてしばらくした後、千穂が声を上げた。
「あった!!」
「おや?何が、何が見つかったのだ?」
 散々待たせたのだ。きっと大層な物なんだろう。
 そう思って千穂を見ると千穂は複雑そうな顔をしていた。
「う~んと…私の情報かな」
「は?」
 千穂が手に持つそれは『朝倉 千穂』とシールが張ってあるフロッピーだった。
「それが、それが探し物か?」
「うん。ちょっと訳ありでさ」
 そう言って千穂は微笑む…だがその微笑みに何か引っかかるものがあったが、ここで結界を作成する準備が整ってしまったので先に結界を張ることを優先しよう。
「『ソロモンの鍵よ』我と彼の者に安らぎを与える空間を………Island Sanctuary 」
 これで朝まではやつらに発見されなくてすむだろう。
「へぇ~凄いねこの結界、これならそう簡単に見つからないね」
 結界の出来を見て、千穂が歓声を上げる。
「代わりに、代わりにこっちも魔力の補充なんかは見込めないけどな」
「大丈夫、私は全然平気だよ」
 銃に込められた魔力の残量を確認して千穂はウインクを一つ。
「あ、あのさ」
 そこで千穂から声がかけられた、それも手をもじもじと絡めながら上目遣いにこちらを見ている。
 うわ、可愛い……じゃない。なぜそんな表情で俺を見るんだ?
「ねえ…なっちゃん…」
「うむ…?」
「これ、受け取ってくれないかな」
 そういって、差し出される便箋(ハートのシールで封がされている)を俺はただそれを見ていることしかできなかった。
 というより何がなんだかわからない。そもそもなぜ今そんなものを渡そうとするんだ?
「あの…それで……受け取ってくれるかな?」
 さらに突き出される便箋(ハートのシールで封がされている)。千穂はというと、耳まで真っ赤にして俯いている。
 うわ~、千穂って本当に可愛かったんだ~。違う、今考えるのはそんなことじゃない。
 そして、俺はその便箋(ハートのシールで封がされている)を受け取った。
「読んでも……いいのか?」
「えっと……今は読まないでほしい…かな」
 渡しておいてそれはないと思うが、そう言われれば仕方がない。
「……わかった、わかったよ」
 気づけば外が暗くなっていた。結界を張ってしまった手前、外に出ることはできない、今日はここで眠るしかないようだ。
 そういえば、千穂の持つ銃では変身できないと言っていたな。スティメンでは無理だとか……どういう意味だったんだ?
「なっちゃん」「千穂」
 二人同時に声をかけた。
「……なっちゃん、お先にどうぞ」
「う、うむ」
 何か気まずい…。二人きりでこんな場所にいる所為か?気を取り直して質問を投げかけた。
「千穂のその銃、スティメンでは変身できないと、できないと言ったな?何故なんだ?」
「ああ、そのことね。まだ名前が無いから…かな」
「名前が無い?」
「そう、『Stamen』って『おしべ』って意味でしょ?他のみんなは花の名前がついてるのにおかしいと思わない?」
 確かにそうだ。千莉はシンビジウム、美玖はゼフィランサス…二人とも花の名が付いていた。
「今でこそ、みんな花の名前が付いているけど、最初は名前が付いてなかったの」
「ほう?」
「この術法兵装はそれぞれ違う形をしているけど、本質は同じで、持ち主の心に反応して成長するものなの」
 つまり、成長すると正式な花として名が付き変身できるようになるということのようだ。スティメンとは、変身できない前段階での呼び名だそうだ。
「わかったかな?つまり私はまだ名前が決まっていないっていうことなの」
「どうすれば、どうすれば名が決まるんだ?」
「それは私にもわからない。けど…なっちゃんと一緒に戦うなら…」
 千穂は自分の胸に手を当て目を閉じた…まるでこれから決心するかのように。
「それで、それでだ。千穂の用件はなんだ?」
 こちらの番は終わった。次は千穂の番だ。しかし、千穂は無理やり作ったような笑顔で…。
「…あ、あはは~忘れちゃった」
 と、言ってその場に寝転んだ。
 明らかにおかしな態度だが、深くは追求しまい。大事なことならすぐに話すだろうし。
 俺もその場に寝転んで、大量の書類を毛布代わりに被って眠ることにした。
 さて、アルと千利はどうしてるかな、向こうも何か情報をつかめたか…まて、千穂と千莉の面識があるなら千利を呼び出して、共闘したほうがいいのかもしれないな。
 アルは……いや、アルはアルで行動しているはずだ。ここは千莉に動いてもらうか、せっかく契約までしたんだ…このカード、使わない手はないか。
「何も言わないんだ……それとも…忘れちゃったのかな?…私が――」
 意識が落ちる瞬間、千穂が小声で何か言ったような気がしたが、聞き取ることはできなかった。

―――――――――――――――。

 薄暗い部屋、周りは機械で囲まれ忙しなく機械音を響かせている。
 その中心に青白く光るゲートと人影が2つ。
 一人は黄色の髪の青年。もう一人は蒼い髪をした少女。
「本当に行く気か?」
 その青年は目の前の少女へ不安げに問いかけた。
「あのねぇ、私以外に誰が行くって言うのよ?まさか自分が何て言わないでよ?」
 青年と同い年ぐらいであろう蒼い髪の少女はその長く美しい髪を手元でいじりながら呆れたように言い返した。
「戦うのは俺の――」
「それで無茶されたら私たちが困るの。まったくいい加減にしてよね」
 青年の言葉は言い終える前に少女の言葉によって遮られた。こういう対応がされると何を言っても無駄だと、青年は今日まで彼女と接していた経験から悟った。
「いや…その、それを言われると何も言えないというか…ちょっとせこいぞ」
「だ~め、いっつも無理ばっかりしてるんだから。この前の事だって本当は客観的に見ていればいいものを自分から参戦して、どんな姿になって帰ってきたかもう忘れたの?」
 ジロリと睨まれ、その有無を言わせぬ迫力に青年は思わず後ずさった。
「瀕死の重傷で帰ってきて、みんなどれだけ心配したと思ってるの?貴方はもう少し自分の価値を知りなさい!」
「いや、そうは言ってもな、目の前に助けを求めている人がいるんだ、それを助けたいと思うのが人間だ」
「……4000年も前のこと、まだ気にしてるの?」
 4000年前、その時間は何の誇張もなく真実であり、未だ青年を縛る呪縛であった。
「それだけじゃない。俺は…生まれついての罪人だからな」
 自重するように青年は俯いた。目の前の少女はしばらくその姿をただ見守るようにしていたが、やがて口を開いた。
「まあ、十人を助けるために一人の犠牲が必要だとしたら躊躇せずに自分がその一人になるなんて考え貴方以外にやるとは思えないけど」
「また人を異常者のように…いいじゃないか、それが俺の選んだ生き方だ」
「何度も言わせないでね…貴方は自分の価値をもう少し知りなさい」
 この会話は心底残念そうな少女のため息で終わりを迎えた。
「…話がずれた、それでS級クラスの魔術師であるお前が出る必要があるのか?」
「オルさんが向こうにいる時点で大変な状況でしょ?もしかしたら『旧支配者』クラスの神が出て来るかもしれないんだよ?念には念を入れるってことじゃダメ?」
 少女の言葉に青年はしばらく考える仕草をしながら少女の全体を見回した。
「お前何か隠してるだろ?」
 ズバリとそう言った。
「うぐ、あのね。私だって考えてるんだよ…その…えっと…少しでもあなたを支えたいから」
 そういって向けられた笑顔は悩んだ挙句のはずだがまるで女神のように輝かしいものだった。それを見た青年はその場で目を閉じ、ものの数秒で結論を出した。
「……わかったよ。何を秘密にしているかはわからないが、信じよう。でも、無理はするなよ」
「うん。でもね、それは私の台詞でもあるんだけど」
 そう言われて青年は小さく笑った。
「状況を確認する。『向こう側』の歯車はどれだけ『あちら側』に取り込まれた?」
 笑顔から一転して真顔になった青年は少女に『向こう側』の状況を確認した。
「オルさんからの情報だと、昨日の時点で半数以上が取り込まれたわ。その中で、第二段階へ進んだのは6名、他の娘達も時間の問題だと思う」
「半数か…意外と進行が早いな」
「あなたの心配は、あの娘達のことかな?」
 青年はまいったというように両手を上げた。
「今の戦いで命を落としてしまっても仕方ないと思う…けど、やっぱり俺は生きてほしい」
「うん。私もそう思う。………生贄の数が多いもんね、儀式に使用する魂だけでも12人分が必要になるし」
「敵の最終目的がわからないいじょうは下手には動けないか……なにせ相手は神だからな」
「それを防ぐために、行って来るね」
「真白」
 飛び出そうとする少女の名を青年は呼んだ。
「帰ってきたら何かしたいことはあるか?」
 その問いに真白は即答した。
「二人きりでお茶が飲みたいな」
 返答を聞いて青年は呆気にとられたような表情をしたが、それも一瞬ですぐに満面の笑みを浮かべて一言。
「茶請けは最高の物を用意しよう」
「うん!約束だよ!」
 弾むような声で少女は答え、展開してあったゲートへ入った。
 凄まじい閃光が放たれると、唯一の明かりが消えその場には青年一人だけが残された。
 機械音だけが暗闇に響く。
「もしも、があってからでは遅いな…身体の調整を速く終わらせないとな」
 再び光が戻り始めた部屋で青年は一人呟く。
「魔術は真白の方が上手だからな…魔術が苦手な俺には不利なのはわかってるが…」
 しばし青年は立ち尽くしていたが、気を取り直すように頭をガリガリとかいた。
「さて、こっちも行くかな。ぶっつけ本番、気合入れなきゃな!」
 勢いをつけて青年は光のゲートへ飛び込んだ。

< 次回へ続く >

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