セイレーン 3章

3章

- 1 -

 呼吸を止めて、ライフルを構える。今までクレー射撃で使っていたものよりも、重い。
 達哉は地下室に設置された射撃場で、試射をしていた。威力重視の大口径なので、とてもでは無いが、試射無しでは扱う気にならない。
 肩で押さえるように銃身を固定し、照星と30メートル先の標的をバーチャルの線で結ぶ。まるで標的が目の前にあるような気がするほど、それ以外が目に入らないほどの集中。

 ガゥンッ!

 まるで爆砕するように、標的の中心部に穴が開いた。カートリッジを排出すると、間を置かずに撃った。三発目、四発目・・・五発まで数えて、達哉はライフルを下ろした。

「良い腕だな。うちのスナイパーに就職するかい?」

 達哉に話し掛けたのは、峰岸という男だった。峰岸は薄緑色のスーツを粋に着こなして、唇の端を吊り上げるような笑みを浮かべている。肉食動物の笑みと言えば、雰囲気は伝わるだろうか。
 ヤクザの幹部で、このライフルを売ってくれるよう、達哉が依頼した相手でもある。

「いえいえ、ぼくは医者ですから」

 達哉は物怖じせずに、いつもの柔らかい笑みを浮かべて答えた。
 峰岸の迫力はさすがヤクザの幹部という感じだが、峰岸を前にして萎縮しない達哉も尋常では無い。それは柳が強風に身を晒して、なお柔らかく受け流す様にも似ている。

「撃って見た感想はどうだい?」

 試射が終わったと判断して、峰岸はそばにあった椅子に腰掛ける。顎を振って、達哉にも椅子を勧めた。

「思ってたより反動が少なくて、撃ち易かったですよ。威力は凄いですね。ターゲットの後の壁を穿って、鉄骨まで傷付けてるぐらいですから」

 達哉が視線を向ける先に、崩壊したとしか言えない程に壊れた壁がある。

「まぁ、ボディーガードごと標的を撃ち抜く事が出来る銃だからな」

 峰岸は、そんな物騒な事を言うと、にやっと笑った。

「んで、それが必要になった訳って、なんだよ?」

 それまでの付き合いで、例え逮捕されても達哉が組の名前を出さない事は判っているが、逆にそんな人間がライフルを必要とする理由が無い。
 達哉は笑みを引っ込めて、峰岸の目を見詰めた。

「ぼくの家族を守る為・・・ですよ」

 達哉の瞳には、深く澄んだ湖のように、揺るぎ無い決意が浮かんでいた。

- 2 -

 翌日の放課後、帰宅しようとしていた美樹は、岬に呼び止められた。美樹が振り返ると、優しい笑みを浮かべた岬が立っていた。

「ちょっと手伝って欲しい事があるんだけど、”保健室に来てくれるかな?”」

 言われた瞬間、美樹は頭で考えるよりも早く、「はい」と答えていた。驚いた表情で口に手を当てたが、気が付くと保健室へと向かう岬の後を追っていた。それは、自分の意志で身体が動かないという、まるで夢の中のように曖昧な感じがした。なんだか、岬先生に付いて保健室に行くのが当たり前の事のように思えて、疑問の一つも浮かんでこない。

「どうぞ、中に入って」
「はい、先生」

 ドアを開けてくれた岬に軽く頭を下げて、美樹は保健室に入った。後から続いた岬は、ドアに鍵を掛けると、机の前の椅子に腰掛けた。

「神原さんは、ベッドに腰掛けてくれる?」
「はい・・・それで、何を手伝うんですか?」

 岬は、嬉しそうに頬を緩めた。それを見た美樹は、なんとなく背筋に悪寒が走るのを感じた。まるで根拠が無いのに、逃げ出したくなるほどの危険信号。

「そうね、栄養補給といじめのお手伝いなの。ヨロシクね」
「は?」

 何を言われたのか理解できずに、美樹は固まった。引きつる美樹を面白そうに見て、岬は立ち上がった。わざとゆっくり、美樹に近付く。

「その代り、悦びをあげる。他のものとは比べ物にならないほどの、すごい悦楽よ。もう、他のものなんて、何も要らないほどの、ね」
「い・・・いや・・・」

 岬の尋常でない様子に、美樹は涙を浮かべて・・・恐怖のあまり、動けなくなってしまった。子供のように、イヤイヤと首を振る。大声で助けを求めることすら、考え付かなかった。

「”怖がらないで、わたしの言う事を聞きなさい”」

 岬が美樹の耳元で囁くと、美樹の中から恐怖が消え去った。あれ?という顔をする美樹に、岬は続けて命じた。

「服を全部脱ぎなさい。ちゃんと畳んで置くのよ」

 岬はそう言うと、窓とカーテンを閉めた。小さな声で呪文を唱えて、『結界』を張る。これで、保健室は周辺の人間の意識から消えて、物音も認識出来なくなる。
 満足げに岬・・・エレナが振り返ると、美樹が全裸で不思議そうな顔で立っていた。

「先生・・・どうして裸にならないといけないんですか?」

 怖がる事さえ出来なくされた美樹は、命令に従いながらも疑問だけは感じるようだった。胸と下腹部を手で隠しながら、きょとんとしている。

「隠さないで、両手を腰の後で組みなさい。あと、足を開いて!」
「あ、はい」

 美樹の身体は全体的に肉が薄く、胸を反らせるように立つと、肋骨がその形を浮き彫りにした。胸も小さく、お尻も固そうに見える。それでも、不思議とエロティックな雰囲気を醸し出していた。それは、完成した後の維持する美とは違う、未発達であるが故の妖しい・・・危うい美といったものかも知れない。

「うふふ、かーわいいー」

 弾んだ声で呟くと、エレナは濡れてもいない美樹の秘所に、指を挿し込んだ。当然その行為で快楽が発生する訳も無く、それどころか同性に触られるという気持ち悪さに、美樹は身体を震わせた。それでも、エレナの声に縛られて、逆らう事は出来ない。怖くもないので、ただおぞましい嫌悪感に涙を浮かべた。

「やっぱり、これじゃ濡れないわね。じゃあ・・・」

 エレナは指を抜くと、両手を美樹の目の前に持って行った。白くしなやかな指先を、美樹に見せ付けるように動かす。

「”この手は、あなたの愛する人の手よ。この手になら、何をされても気持ちいいの”」

 見せびらかすように両手をひらひらさせると、エレナは暗示を掛けた。その美しい声が美樹の心に浸透すると、白くすらりと伸びた美しいエレナの手が、美樹には男性の手に見えた。少しごつごつしてそうで、でも頭をごしごしと撫でられると、幸せになれるあの人の手に。

「えいっ」
「え?きゃっ!」

 エレナは美樹の顔と肩を無造作に手を掛けると、背後のベッドに押し倒した。可愛いとも言えるエレナの掛け声とは別に、その乱暴な扱いに美樹の身体が悲鳴を上げた。斜めに倒れ込んだので、片足はベッドからはみ出してぶらぶらしている。受身も取れなかったので、固いスプリングに当たった頭が痛い。顔を押された拍子に、美樹の口にエレナの親指が入り込み、掌が頬を圧迫している。それなのに・・・。

「あ、あああぁん」

 美樹の口から洩れたのは、甘えるような悦びの喘ぎだった。エレナの・・・いや、その男性の手が触れている場所が、細胞単位で悦び燃え上がるように感じられた。口を犯す親指を、愛情を込めて舌で舐め、吸う。
 肩を押さえていた左手が、美樹の身体の稜線を辿り、右胸の麓に行き付いた。もともと薄い胸は、横になっても形を変える事は無かったが、それを許せないとでも言うように、ぎゅっと手が掴みかかった。成長途中の美樹の胸は敏感で、こんなに乱暴に扱われると痛いだけのはずだったが、その痛みすら美樹には甘美に響いた。

「ひっ!ぅあっ!」

 鋭い感覚が、手の動きに合わせて何度も美樹を襲った。嬌声も、自然に激しいものになって行く。そこに、美樹の口から離れた右手が、滑らかなお腹に触れるという刺激が加わった。無意識のうちに、腹筋がピクピクと震える。

「あ、ああっ、やっ!だめ、だめぇっ!」

 ゆっくりと動く右手がどこを目指しているかを理解して、美樹は羞恥の悲鳴を上げた。それでも、身体は素直に開いていく。愛する人の指が触りやすいように。

「ああっ!」

 右手の人差し指が、小さくすぼまったおへそをくすぐる。性感帯ではないはずのそこは、電気に感電したような刺激を背筋に流した。ひとしきりくすぐると、さらに下へと移動を開始する。薄く柔らかい毛に、弄うように指を絡ませる。

「んッ!やあっ!!」

 美樹は、無意識のうちに否定的な言葉を口にした。触って欲しいのは、そこでは無いからだ。十分な快感を与えられながら、直接的には愛してもらっていないからだ。それは、切なさからのおねだりにも似ていた。
 エレナは美樹の求めている事に気が付きながら、わざと別の場所に指を伸ばした。腿の内側に・・・膝の裏側に・・・。そのもどかしい快感に、美樹の頭が焼き尽くされて行く。喘ぎ声と一緒に、涙が一滴流れた。

「おねがいっ!さわって、さわってよぉっ!」

 とうとう我慢し切れずに、美樹は哀願した。今でも十分気持ち良いが、身体がもっと欲しがっている。欲しくて欲しくて堪らないと、身体が泣いている。気が狂いそうだった。

「あら、今も触ってるじゃない」

 エレナは焦らすように囁いた。ほらほら、などと言いながら、わざと脚の付け根に近い辺りの撫でた。焦燥感に、美樹の身体がのたうった。肌をてらてらと濡らす汗が、光に反射して淫靡に輝く。

「ちがっ!ちがうのっ!!あそこ!あそこさわってぇ!!」

 美樹は、右膝を立てと、大きく脚を開いた。はしたなくおねだりするように腰を揺する。そこは、愛液でしとどに濡れそぼった秘所が、快楽を求めて緩く口を開いていた。サーモンピンクの肉が、物欲しげに伸縮している。

「いやらしいコねえ。全部見えちゃってるわよ」

 エレナはそう言うと、指を2本秘所に挿し込んだ。先程よりも滑らかに、美樹のそこはエレナの指を飲み込んで行く。美樹は、頭の中が真っ白になる程の快楽を感じて、急激に絶頂に押し上げられた。

「へんっ!へんなのっ!ああっ!いくぅっ!!おにいちゃん、イクぅうっ!!」

 未成熟な身体をびくびくと痙攣させると、美樹は絶頂に達した。何度も波が来るようで、うわ言のように小さく「あっ、あっ!」と喘ぎをもらし続ける。エレナは『おにいちゃん』という言葉を聞いて、一瞬驚いてから笑みを浮かべた。悪戯を思い付いたように、くすくすと笑う。

「”さぁ、目を覚ましなさい。目の前に、最愛の『おにいちゃん』が居るわ”」

 そう言うと、エレナは美樹に覆い被さるように顔を近づけた。半分失神したような美樹にエレナの言葉は届いたようで、美樹は激しい絶頂に達した後のゆっくりした動きで、目を開いて『おにいちゃん』を見つけた。

「あ、おにいちゃん・・・うふふ・・・すき・・・」

 まるで寝惚けているように、ぼうっとした口調で言うと、美樹は『おにいちゃん』の背中に手を回し、甘えるように抱き付いた。背中に流れる金色の長髪も、柔らかい身体も、下を向いている事で強調された豊かな胸も、全て知覚出来るのに、美樹には認識する事が出来なかった。優しく包み込むような胸の谷間に顔を埋めて、美樹は幸せそうな微笑を浮かべた。
 エレナは美樹の頭を軽く撫でて身体を離すと、ベッドに登って美樹の背中にくっ付くように座った。背後から美樹の細い身体を抱き締めると、美樹は『おにいちゃん』に体重を預けた。後頭部を『おにいちゃん』の肩に乗せて、心の底から安心した吐息を漏らす。

「嬉しい、おにいちゃん・・・私ね、ずっとこうして甘えたかったの」

 目を瞑って幸せそうに言う美樹に、『おにいちゃん』は耳元に口を寄せて囁いた。

「でも、わたしと美樹ちゃんの邪魔をするコがいるわ」

 その言葉に、急に目を見開いて過剰に反応する美樹。頭の中に、潮崎姉妹の顔が浮かぶ。美樹は身体を捻ると、『おにいちゃん』の顔を見上げた。

「誰!そんな事するの!」

 語気も鋭く言うと、『おにいちゃん』は笑って美樹を見詰め返した。

「潮崎瀬蓮と潮崎夕緋よ。ね、二人を排除するの、手伝ってくれるわよね?」
「当然よ!私とおにいちゃんの間を邪魔するなんて、ぜったい許せないものっ!」

 怒る美樹を馬鹿にした笑みを浮かべながら見下ろすと、『おにいちゃん』は抱き締めていた手で美樹の身体を愛撫し始めた。

「ひぅ!あっ!お、おにぃちゃん?あんっ、また・・・するの?んっ!」

 美樹の喘ぎ混じりの問いは、言葉とは裏腹に期待に満ちていた。『おにいちゃん』の優しい愛撫は、いつまでもそうしていたいと願うほど、気持ち良かったから。

「するわ。ね、わたしの言う事、聞いてくれる?」

 『おにいちゃん』はそう言いながら、美樹の胸の頂きを親指で弾いた。敏感な乳首に突然刺激を与えられ、美樹は「ひんっ!」と可愛い悲鳴をあげて、仰け反った。次に乳首の付け根、乳輪を人差し指でくるくると輪を描くように撫でられ、「ぁぁぁぁああっ」と連続する喘ぎを放った。胸しか弄られていないのに、美樹の頭は炎に炙られたように何も考えられなくなって行った。

「ねぇ、言う事、聞いてくれる?」

 『おにいちゃん』は繰り返し聞くと、快感のあまり返答もまともに出来ない美樹の乳首を摘んで、キュっと引っ張った。

「ぎっ!あ、ああああっ!」

 それは、激痛と快楽が等分に存在する、何とも例え様の無い衝撃だった。汗と涙を振り撒きつつ、無意識に美樹の身体が暴れる。『おにいちゃん』は一転して優しく乳首を弄んだ。赤く大きく腫れた乳首は、先程よりも敏感に刺激を伝えた。

「ね・・・、こ・た・え・て」
「し、しますっ!なんでも、なんでもしますっ!わたしっ、おにいちゃんのいうこと、なんでもぉっ!!あはああっ!!」

 涙を流して、美樹は宣誓した。自分で言った言葉に興奮したのか、胸しか弄られていないのに二度目の絶頂に達すると、身体中を痙攣させた。その絶頂はよほど深かったのか、何度も波が押し寄せて、美樹は半分失神したように身体中を弛緩させて、ベッドに倒れ込んだ。

「ふふ、面白い駒が手に入ったわね」

 エレナは笑いながら、美樹を見下ろしていた。

- 3 -

「わたしに用って、なに?」

 瀬蓮は校舎裏の、人通りのない景色を見回しながら、ここまで彼女を連れてきた後輩達───顔見知りでは無いが───に声を掛けた。一人は元気そうな短い三つ編みの少女、もう一人は丸い眼鏡が可愛いおとなしそうな少女で、教室で帰る準備をしていた瀬連を呼び止めたのはこの二人だった。

「あのぉ、センパイ?センパイって、人間じゃないって、ホントですかぁ?」

 人を馬鹿にした、妙に間延びした口調で話し掛けたのは、三つ編みの少女だった。瀬蓮を斜めに見下ろしながら、口元に嘲笑を浮かべている。

「ここ、人間が通う高校ですから、人間じゃない人・・・あ、変な事言っちゃった・・・人間じゃないイキモノが来るのは困るんですけど?」

 汚らしいものを見るように、眼鏡の少女が言った。瞬間、瀬蓮の呼吸が止まった。

「え・・・、な・・・なんで・・・」

 呆然と呟く瀬蓮に、三つ編みの少女がふん、と鼻を鳴らして目付きをきつくした。その目は既に、人間を見る目では無い。

「親切な人が、教えて下さったんです。まったく、人間のフリをして、センパイ顔でのうのうとしてたなんて、想像するだけで吐き気がするわ!」
「本当!」

 瀬蓮はその言葉に傷付けられたように、よろけながら後退った。傍から見て可哀想になるぐらい、顔が青ざめている。

「あ・・・ああ・・・」

 動揺のあまり、瀬蓮は何も言えなくなっていた。全ての事実を否定したいかのように、小さく何度も頭を振る。

「まぁ、それなら、やる事は決まってるんですよね」

 三つ編みの少女に聞かせるように言うと、眼鏡の少女はスカートのポケットから細い棒状のものを取り出した。三つ編みの少女も同じ物を取り出す。それは、どこにでも売っている、ありふれた品物だった。チキ・・・と音をさせて、銀色の刃を押し出す。カッターナイフだ。どこででも見掛ける物なのに、今この場所で見ると、なぜこんなに不吉なイメージがあるのだろうか。

「ヒトじゃ無いから、”殺人”事件にはならないんですよね」

 じり、と瀬蓮に近付きながら、三つ編みの少女が囁くように言った。眼鏡の少女も、妖しい笑みを浮かべながら、瀬蓮に近付く。それは、どう考えても尋常な様子では無かった。

「ご・・・ごめんなさ・・・」

 混乱した瀬蓮は、逃げ出す事が出来なかった。完璧にパニックに陥っていて、何も考える事も出来なくなっていた。例えばこの後、自分はこの少女達に何をされるのかとか。
 ただ二人に・・・それとも別の誰かに向かってかも知れないが、瀬蓮は小さな声で謝り続けた。

「それ、まずいんじゃない?傷害事件だよ」

 ふ・・・と、校舎裏の澱んだ空気を洗い流す、涼風のような声が聞こえた。少女達の後ろから、一人の男子生徒がまるで普通に、何の問題も無いとでもいう風に、歩いて近付いて来た。今まで死にそうな顔をしていた瀬蓮が、その男子生徒を認めた途端、息を吹き返したように声を上げた。

「悟さんっ!」

 瀬蓮は悟を・・・この殺伐とした空気の中でもマイペースな悟を見て、数年前の夜を彷彿とさせられた。それは、悟と初めて出会った夜の記憶。

「邪魔をすると、あなたからにするわよ!」

 三つ編みの少女は、悟に向き直るとカッターナイフを構えた。その手には余分な力みも無く、カッターナイフを扱うのに慣れていると思わせられるほど、堂々としていた。
 ───まるで、殺人鬼のように。
 悟は眉をしかめると、両手をポケットから出した。自然に立ちながら、隙のない様子で歩を進める。
 1歩、2歩、3歩。距離は時間と共に縮まり、反比例して緊張が高まって行く。

「そんなに死にたいならっ!!」
「破」

 三つ編みの少女の怒声と、悟の静かな声はほぼ同時に響いた。効果はどちらも無し。少女が切りつけたカッターナイフは空を切り、素早く少女の側面に回り込んで放った悟の手刀は、確かな手応えを残しながらも結果を・・・少女の意識を絶つ事が出来ずにいた。

「嘘だろ?」

 悟は動揺しながら口の中で呟いた。別に目の前の少女が首を鍛えているようには見えない。打点とタイミングは完璧。それで気を失わない原因が、まったく理解出来ない。・・・いや、可能性があるとすれば・・・。

「なに、この人・・・!」

 眼鏡の少女も、三つ編みの少女に加勢するように向きを変えた。眼鏡の奥の目には、悟を警戒する色が強く浮かんでいた。なにしろ、少し離れていた少女からも、悟の動きは追い切れなかったのだ。

「ちょっとキツいと思うけど、憑物を落とす方法は一つしか知らないんだ。我慢してくれよな」

 悟はそう言うと、両手を自分の腰に引き付けた。拳では無く、指だけを折り曲げたネコの手のような形を取る。すぅ・・・と息を整える。
 それは、まるで瞬間移動のように瀬蓮には見えた。二人の少女に対峙する悟が、次の瞬間には少女の背後に立っていたのだ。腰に構えていた手は、二人の少女のそれぞれの後頭部に軽く添えられている。

「覇」

 先ほどと同じ、静かな悟の声が校舎裏に響いた。小さいのに遠くまで届く、不思議な声。次の瞬間、二人の少女は身体中から力が抜けて、くたりと倒れ込んだ。すかさず悟が二人を支える。

「ここら辺に置いとくかぁ」

 微妙にだるそうに呟くと、悟は両手に抱えた二人の少女を芝生の上まで運ぶと、そっと下ろした。下に落ちていたカッターナイフを思案げに見詰めると、ひょいと持ち上げて、自分のポケットにしまう。

「潮崎。大丈夫だったか?」

 人を安心させるような笑みを浮かべて、悟は瀬蓮の方に歩み寄った。
 ───なんでこの人はいつも、なんでも無い事のように助けてくれるんだろう───
 透明な涙が溢れ出して、瀬蓮には止められなかった。

「お、おい、傷は無いみたいだけど、どっか痛いのか?」

 慌てる悟の言葉が、嬉しくて、幸せで、余計涙が溢れた。

- 4 -

 木々に囲まれた通学路を、瀬蓮は自転車を押す悟の斜め後を歩いていた。涙は止まっていたが、嬉しいやら恥ずかしいやらで、まともに悟の顔を見る事が出来なかった。赤い顔を隠すように、俯きながら悟の背中を見詰める。悟もそんな瀬蓮を思い遣ってか、先程の事を問いただす事も無く、沈黙を守っている。悟の歩調は、瀬蓮に合わせてゆっくりだった。二人だけの静かな時間がいつまでも続くようで、瀬蓮は幸せだった。

「・・・あの・・・」

 意を決したように瀬蓮が口を開いたのは、瀬蓮の家の前。悟は何も言わずに、瀬蓮を家まで送ってくれたのだ。今なら、あの時言えなかった事を言える・・・今しか言う機会が無い・・・そんな想いに急き立てられて、瀬蓮は口にしていた。

「ん?」

 そう優しい目で振り返る悟に、瀬蓮は頭を下げた。

「あのっ・・・ありがとう!」

 悟は少し驚いてから、「別に構わないよ」と言って微笑んだ。ところが、瀬蓮が首をふるふると左右に振るのをみて、きょとんとする。

「今日のことだけじゃなくて・・・いままで、ずっと言いたくて・・・ずっと言えなかったお礼なの」

 それは、悟と初めて会った夜の事。この街に越して来たばかりで迷った挙句に、街の不良に襲われそうになった時の事。あの時も悟は、それが当たり前とでもいうように、瀬蓮を助けてくれたのだ。その後駅まで送ってもらっておきながら、瀬蓮は結局お礼を言う事が出来なかった。トラブルで頭が飽和状態になっていたからだが、その事はずっと悔やんでいた。
 偶然同じ高校に入学した後でも、悟が瀬蓮を見て無反応だったので、記憶に無いものと思って、何も言えないまま現在に至っていた。

「わたし、2年前の夏に、神原君に助けてもらった事があったの・・・その・・・」
「ああ、あの不良に襲われそうになった時の事だよな。憶えてるよ、うん」

 あっさり答えた悟に、瀬蓮は立ち止まって呆然と見詰め返す。

「ああ、不良に襲われ掛けたなんて、あんまり広めていい話しじゃ無いから、憶えてないフリをしてました。潮崎もそのコトを話して来なかったしな」
「あ・・・今までのわたしの悩みって・・・」

 瀬蓮は思わず脱力して、危うく地面に座り込んでしまうところだった。それでは今まで悟に会う度に、心の奥をちくちくさせていたものは何だったと言うのか。

「そんなにお礼が言いたかったんだ?でも、この場合はお互い様だからね」

 潮崎からも言って来なかったしさ・・・笑いながら言う悟に、瀬蓮は力が抜けるとともに、心が軽くなって行くのが実感できた。こんなにも当たり前に、悟と話す事が出来る。遠回りはしてきたけど、それでも良かったんだと思えるから。

「でも、お礼だけは言わせてね。ありがとう」

 それは、悟が今まで見た中で、一番可愛い瀬蓮の笑顔だった。だからかも知れない。瀬蓮が「お礼に、お茶をご馳走するから、上がって」という言葉に、素直に従ったのは。

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 今日も放課後、夕緋と美砂は図書室でぷち打ち合わせをしていた。コーラス部が昨日の猟奇殺人事件の影響でお休みになった為、結構自由に時間が使えるからだ。しかし、その話題───主に美砂が話して、夕緋が返事をする、という形だが───は、取り留めの無い話がころころと話題を変え、夕緋は付いて行くのがやっとだった。それでも夕緋が悪い気がしないのは、美砂が夕緋と話したくて話したくてしょうがない・・・そう思っているのが判るからだろう。
 もっとも、図書委員や利用者は二人の事を諦めているようで、二人の周りに微妙な空間が空いていた。美砂は気にしないのだが、夕緋には心苦しい状況ではある。

「美砂、おにいちゃんが呼んでるから、付いて来て」

 突然二人の会話に割って入って来たのは、ゆらりと入り口から入って来た美樹だった。どことなく足が地に付いていないような、危うい雰囲気で立っている。それでいて顔には、満ち足りて幸せな表情が浮かんでいる。それは、羨ましくなるというより、見詰めていると背筋が寒くなるような、異様な印象を夕緋に与えた。例えば、麻薬中毒患者が麻薬を与えられた直後のような幸福な表情。

「え~、夕緋ちゃんと打ち合わせしてるのに~。お兄ちゃんなんて、後でもいいよね?」

 頬を膨らませながら不満気に美砂が言うと、美樹は夕緋をぎっ、と音がしそうなぐらい強い目付きで睨んだ。もともと美樹には好かれていないという自覚はあったが、これほど敵意に満ちた視線を送られたのは、夕緋にとって初めてだった。

「あ・・・あの・・・私だったらいいから・・・」

 夕緋は、思わずおもねるような言葉を口にしていた。美樹の視線に堪え切れずに、夕緋は顔を背けた。その様子に気付かなかった美砂は、「しょうがないなぁ」と言いながら立ち上がった。

「ごめんね、夕緋ちゃん。じゃあ、また明日!」

 片手を顔の前で立てて、おじぎをするように『ごめんね』のポーズをすると、美砂は美樹について図書室を出て行った。「美樹ちゃん態度悪いよー」という美砂の声が、だんだん遠ざかって行く。夕緋は、無意識のうちに握り締めていた手を開いた。嫌な汗で湿っている。

「まさか・・・」

 夕緋は、二人が出て行ったドアを見詰めて、不安に顔を曇らせた。

- 5 -

 夕日も落ちて薄暗く感じる保健室の中、美砂の喘ぎ声が漂っていた。窓を締め切った室内には、岬・・・エレナと美樹、美砂の3名がいる。エレナはカーテンを敷くように窓辺に腰を下ろし、美樹と美砂を見詰めている。その口元には、笑みが浮かんでいた。

「ん・・・や、やめて・・・みきちゃ・・・ンっ!」

 ベッドの上で、美砂は膝を立て、脚を開いた状態で、美樹に弄ばれていた。スカートは捲くられ、しなやかな脚が剥き出しになっている。エレナの声に支配されて、美砂は首から上しか自由にならなくなっていた。

「だめだよぉ、おにいちゃんが見たいって言ってるんだもん。手伝って上げるから、がんばってよね」

 くすくす。
 そう笑いながら言う美樹に、美砂は身体中をまさぐられていく。ストライプのパンティに隠された部分も、まだ未発達の胸も、今まで性感帯とは気付かなかった首筋も。美砂の敏感な身体は過剰と言っていいぐらいに激しく反応して、美樹の愛撫に踊らされていく。

「ひゃんっ、あっ、ダメっ!!やぁんっ!!」

 自分と同じだからだろうか、美樹は美砂の感じる所を的確に責め立てた。美砂の呼吸が、たちまち荒くなる。心は嫌がっていても、身体はその快感を受け入れ始めているのだろう。その証拠に、パンティの内側に潜り込んだ美樹の指が、さっきよりも大きな・・・濡れた音を響かせている。

「もっとエッチにしてね、美樹ちゃん」
「うん、おにいちゃん!」

 それは異様な会話だった。エレナを見て『おにいちゃん』という美樹・・・美砂は状況が理解できずに困惑した。ただ一つだけ言える事は、美樹は悟と同じか、それ以上の信頼を岬に向けているという事。言われた通りに美砂を犯す事を厭わないぐらいに。

「みきちゃん、んあぁんっ、お・・・おにぃちゃんなんて、あっ!ここには、い・・・いないじゃない・・・!目を・・・目を・・・覚まして・・・おねがい・・・!」
「美砂ちゃん、酷いなぁ。おにいちゃんの前でそんな事言うなんて。あ、それとも、『わたし達』のおにいちゃんじゃ無くて、『わたし』のおにいちゃんって認めてくれてるの?独り占めしちゃってもいい?」

 ハイになった状態で、美樹は美砂を苛め続けた。美砂のパンティを脱がすと、背後から両手を回して、秘所を集中的に嬲り始める。濡れて柔らかくなってきた美肉を押し開いて、右手中指の第一関節で掻き混ぜる。左手の親指で、固く尖ってきたクリトリスを刺激する。自分のものとは違う柔らかい指の感触に、美砂は背筋に電気が流れるような快感を感じた。

「んぁっ!やっ!やめてっ!あっ、んぁあっ!」

 美砂の悲鳴は、先ほどまでの拒絶の色が薄れていき、代わりに甘い響きが大部分を占めて行った。美砂の思考を、徐々に快感が浸蝕して行く。美砂は、このままでは自分からさらなる刺激を求めてしまいそうな、甘い絶望の予感にぎゅっと目を瞑った。

「やめなさいっ!美砂ちゃんを放してっ!!」

 突然室内に響いた声は、夕緋のものだった。ドアを開いて室内の状況を見て取ると、半裸の美砂の為にドアを閉じる。

「あら、別にドアは閉めなくても、『結界』を張っているから誰にも気付かれる事は無いわよ。あなたみたいな『なりそこない』は別だけどね」

 そう声を掛けたのは、窓辺に腰を下ろして楽しそうに夕緋を見詰めるエレナだった。その言葉に、夕緋が緊張を増した。

「岬先生・・・やっぱり・・・」

 夕緋は後に下がりそうな足を、必死にとどめた。それでも、四肢が震えるのは堪えられない。夕緋は、ぎっ、と唇を噛み締めた。

「それは仮の名前よ。お父さんから聞いてない?わたしの・・・名前」

 ふふ、とエレナは小さく笑うと、立ち上がった。別に、夕緋に近付くでも無く、豊満な胸を寄せ上げるように腕を組むと、軽く足を開く。夕緋が自分の名前を呼ぶのを待っているのだ。

「・・・エレナ・・・」

 それは、母親を殺した怪物の名前。受肉した精霊。美しい歌声で他を支配するもの・・・セイレーン。
 夕緋の生存本能が、全力で逃げるようにと叫ぶ。だが、夕緋の視界の片隅で美樹に嬲られている美砂の姿が、夕緋に逃げる事を許さない。しかし、このままの”姿”では、エレナに勝つ事は出来ない。

「あら?変身しないの?『なりそこない』って言っても、その姿でいるよりはマシだと思うわよ」

 エレナの言葉は、正鵠を射ていた。闘うにしろ、逃げるにしろ、この姿では制限が厳しすぎる。しかし───。

 ・
 ・
 ・

 血のように真っ赤な夕日。あれはまだ夕緋が幼い頃の事。近所に住む歳の近い男の子と遊んでいた夕緋は、登っていた木から落下した。
 打ち所さえ悪くなければ、それは”痛かった”程度で終わっていただろう。また、普通の子供であれば、ただの事故として扱われるぐらいで終わっていただろう。不幸なのは、それが夕緋であったこと。
 恐怖を感じた身体が、死に怯えた生存本能が、無意識のうちに夕緋に本来の姿を取らせようとしたのだ。脆弱な人の姿を放棄し、高次の生命体としての本質を取り戻す事で、自身を守ろうとして。
 結果、夕緋は怪我一つせずに助かったが、一緒に遊んでいた男の子に見られてしまった。それは今も、夕緋の中にトラウマとして残っている。

 ───なにこいつ、きもちわるーい───

 ・
 ・
 ・

 ───しかし、自分に無条件の好意を寄せてくれた美砂に、本来の姿を見せたくは無かった。それは、やっと手に入れた温もりを自分から捨て去るようで、とても夕緋には我慢出来るものでは無かった。

「・・・ゆ・・・ん・・・げて・・・」

 その時、小さな声が夕緋の耳に届いた。エレナから目を離してはいけない・・・そう判っているのに、夕緋は声のした方に目を向けた。

「・・・ゆう・・・ちゃ・・・にげ・・・」

 そこには、必死に顔を夕緋の方に向けて、羞恥に大粒の涙を流している美砂がいた。快楽に身を焦がされながら、夕緋に言葉を伝えようと、途切れ途切れに声を出している。

「・・・ゆうひ・・・ちゃん・・・にげ・・・て・・・」
「!」

 自分も被害者なのに、夕緋の事を守りたいと・・・美砂は必死になっていたのだ。

「あ・・・」

 呆然と、夕緋は声を漏らした。美砂の想いに自分がどんなに卑劣な態度で応えようとしていたのかを理解して、夕緋は泣きたくなった。

「ほらほら、お友達もああ言ってるわよ」

 余裕の笑みを浮かべたエレナが、夕緋を嬲るように言った。

「逃げない・・・!」

 ぽつりと・・・それでも全ての想いを込めて、エレナを睨みつけるように夕緋は呟いた。美砂に視線を戻して、何かを吹っ切ったような、今までで一番良い笑顔を見せる。透明で、強い意志を秘めた笑顔を。

「ごめんね、美砂ちゃん。わたし、全力を尽くすね。それでも・・・ぜんぶ終わっても、友達でいてくれたら嬉しいな」

 夕緋は歳相応の、柔らかい声で美砂に言った。

 請うように。
 祈るように。
 願うように。

 そして夕緋は、再度エレナに向き直った。ゆっくりと全身に意思を伝達させる。意思は細胞を賦活させ、本来の姿へとメタモルフォーゼを促す。美しい顔はそのままに、羽毛が全身を覆い、フォルムを人から人以外のものへと変えていく。とは言え、彼女達の生い立ちのせいか、セイレーン本来の人面鳥身というよりも人に近い姿ではあったが。

「無様ね。あんなに綺麗だったエリーの娘が、こんなに中途半端な生き物なんて、ね」

 侮蔑交じりの口調で揶揄するように言うと、エレナは一歩を踏み出した。いまだに人の姿を模しているのに、発散する圧迫感は軽く夕緋を凌駕している。
 夕緋はエレナに取り合わず、右手の爪を伸ばした。人間の時には出来なかった事が、本来の姿に戻った途端、まるで当たり前の出来事のように行使する事が出来た。自分の持っている能力が、自然と頭に入って来るからだ。

「ゆうひちゃん・・・」
「・・・」

 夕緋の視界の片隅で、美砂が呆然として夕緋を見詰めているのが見える。その瞳に映る自分の姿を見たくなくて、無言で通した。

「ゆうひちゃん、死なないで・・・」

 夕緋の心臓が、大きく一つ打った。え、と小さく声を出すと、美砂の方に目を向ける。そこには、美樹に身体を弄ばれながら、必死に夕緋を見詰める美砂がいた。その表情には嫌悪の欠片も浮かんでいない。闘う意志を見せる大事な親友を、ただ心配げに見守っている。

「・・・うん」

 夕緋は溢れ出した涙を拭う事もせずに、美砂に頷いてみせた。胸の奥に、暖かい感情が湧き上がり、全身に満ちる。冷静に、エレナには勝てないと冷静に判断する自分とは別に、刺し違えても美砂を護ると誓う自分がいる。身体が、燃え上がるように熱かった。

「麗しい友情だけど、それだけじゃ勝てないのよね」

 余裕を無くさないエレナの声に、それでも夕緋は闘志を無くさない。す、と一呼吸を胸に蓄えると、飛び込みながら右手を振るった。右手の爪が、仄暗い室内に白い軌跡を残して走る。

「うふふ、なかなか。でもね・・・」

 全てを切り裂くように振るわれた夕緋の爪が、エレナの顔の近くで受け止められていた。それは、たった一本の繊細な手によって、奇跡のように行われていた。
 夕緋の顔が、驚愕に染まる。この姿の夕緋は、通常の姿の時よりも、筋力・瞬発力・反応速度など、全てが数倍に跳ね上がる。純粋に戦闘力としてなら、数十倍だろう。それが、人間の姿を模したままのエレナに及ばない・・・それは、信じられない・・・信じたくない現実だった。

「わたしの方が強いの。ごめんね?」

 無邪気に至近距離から微笑むと、エレナはそっと右手を伸ばし、夕緋の後頭部を軽く押さえた。そのまま目を閉じて、夕緋の唇に自らの唇を重ねる。突然のエレナの行動に、夕緋は驚愕に目を見開いた。
 ずくん。
 押さえられた後頭部から・・・エレナの右手から瞬間的に生じた衝撃が、有無を言わさず夕緋の意識を刈り取る。

「夕緋ちゃーんっ!!」

 夕緋が最後に認識したのは、美砂の悲痛な叫び声だけだった。
 ───ごめんね───
 そう美砂に対して思うか思わないかのうちに、夕緋の意識は暗黒に飲み込まれた。身体中の力が抜けて、床にずるずると倒れこむ。

「うふふ、次は誰にしようかしら」

 エレナは愉快そうに夕緋を見下ろしながら、独り言を口にした。まるで、目の前に沢山のお菓子が用意された子供のように、次に何を手に取るかを考えるのが楽しげな様子で。
 エレナがカーテンを開くと、窓の外は夕日の色から次第に暗闇へと推移していくようだった。光の世界を闇が浸蝕するような景色に、エレナは唇に笑みを浮かべた。
 そして、永い夜が始まる・・・。

< 続く >

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