ニャルフェス 第5話 ニャルフェスの戦い

第5話 ニャルフェスの戦い(1)

 なくなって始めて気づくもの。
 それって一体何があるだろう?

 たとえば雑踏の音。
 たとえばいつも行ってる公園の大きな木。
 たとえばいつも吹いてた風。
 たとえばいつも行ってた駄菓子屋。
 たとえば身近にいるひと。
 たとえば若さ。
 たとえば夢。

 どんなときでも、そこにあるのが当たり前。
 なくなりゃ気づく。
 なくならなけりゃ気づかない。
 哀しみは、いつだってそこにあるってのに……。
 それって、とっても滑稽で愚かしい。
 後からなら、そうだったんだってすぐ分かる。
 でも、それもまた愚かしい。
 誰だって不安はあるから。失うことが怖いから。

 それでも……。

 それでも笑顔をいっぱいに浮かべて。
 それでも思いっきり息を吸い込んで。
 それでもめいっぱいかけだして。
 それでも体中で泣きわめいて。
 それでもありったけの力でいきるんだ。
 わかってても。
 わかってなくても。

 陽気なピエロ。
 瞳の下に涙を描いたアルルカン。
 愚かしくって滑稽で。
 なさけなくって淋しそう。
 人も神様もなんだか分からない者達も、みなんでごしゃごしゃになって踊ってる。
 そんな連中の滑稽な踊り。
 これが最後の愉快な演技。
 この連中に残るもの、一体何かあるのだろうか?
 それはたぶん、なくしてわかる。
 なくなってわかる、そんなもの。

 さてさて、なくして残るの何なのか。
 まだまだそれは分からない。
 読んでみなくちゃ分からない。
 最後の最後のばか騒ぎ。
 どうかとくとご賞味あれ。

 結局のところ、かびたは失敗した。
 要するに、『支配』と『奉仕』の意味がごっちゃになってしまってるのだ。
 これってけっこうビミョーな差で、そこらあたりをきっちり分けるのはかなりむずかしかったりする。
 もちろん、かびたにとってもそう。
 なぜなら、そのふたつの違いがかびたには理解できないからだ。
 唯一なんとかそんなんでもやっていけるのは、かびたに『支配』されてる者たちの自覚によるものだった。
 そんなんで、『支配』って呼べるのか非常に疑問が残るけど……。
 でも、『支配』すべき相手が無自覚だった場合、それは容易に『奉仕』に変わる。
 そこら辺りで必要となるのが、特訓なのである。
 ボゴン!
 いきなり来た。
 頭上からの攻撃。
「うみゅう~~~」
 かびたが呻く。
 絶妙に加減されたその一撃は、かびたに気絶させないよう絶妙な計算がなされている。
「ニャにやってんだニャ? ニャんで、そこで出さないのかニャ!?」
 そう教育的指導をしているのは、“鬼コーチ”ニャルフェスである。
「ううう……だ、だってニャルフェスさま……そ、そんなこといったって……」
 ぽこん、ぽこん。
 かびたの頭が、連続で鳴った。
 とっても軽い音だったりする。
「クチ答えするなニャ! それに、ニャーニャのことは、『コーチ』と呼ぶんだニャ!」
 ぽこん、ぽこん、ぽこん。
 また、かびたの頭が鳴った。今度は、五割り増しである。
「だ、だってニャル……」
 ぽこん。
 教育的指導。
「コ、コーチ……が、この“めすどれい”を思いっきりよがらせてやれって……」
 かびたが言えたのはそこまで。
 なぜなら……。
 ぽこぽこぽこぽこぽこぽこぽこぽこぽこぽこ、ぽこんんっっっ!!!
 連打だった。早叩きだった。連射装置付って感じだった。
 最後には、リフレインまでついてたりする。
「うぃ~~~ん~」
 かびたは、ふらふらになった。
「この頭には、一体なにが詰まってるのかニャ?」
 ニャルフェスがかびたの頭に、ふかふかのお顔を近づけてそういった。
「うぁぁぁんっ。もっとぉ~~~っ」
 そのとき、ふらふらかびたの下から、とっても悩ましい声が聞こえてきた。
 かびたの動きが止まったから、とっても美人のおねぇさんが催促してるのだ。
「す、すびばせん、ニャルフェ……」
 ぽこん。
「コ、コーチ……」
 教育的指導をうけながら、かびたがあやまった。
「ふんっ? どうせ、適当にあやまってるんだニャ? そういうの、ニャーニャはキライなんだニャ」
 ニャルフェスの声がちょっち、おっかない。
 もちろん、それを聞き逃すようなかびたじゃない。こう見えても、危険を察知する能力は発達してるのだ。
 ただ、それを回避する能力が壊れてるだけである。
「う、動いてぇぇぇ」
 また、悩ましい声。
「うはんっっっ、いいっっっ!!! もっとぉ……あんっ、うんんんっっっ!!!」
 すぐに、よがり声に変わる。
 かびたが、またご奉仕を再開したからだ。
「ち、ちゃんと、ががんばってますよぉ。ニャ……コ、コーチ!」
 あぶないとこで、コーチと言い換えたかびた。一生懸命言い訳をこころみる。
 けど。
 ぽっっっこぉぉぉんっっっ!!!
 絶大な威力を持ったネコパンチが、かびたの脳天を直撃した。
「ういぃ~~~~~~んっ………………」
 奇妙な悲鳴とともに、かびたは後ろ向きに、ぱたっと倒れる。
「おしおきだニャ! お前なんか、こうしてやるニャ!」
 声とともに、倒れたニャルフェスに怒涛のネコキックが襲いかかった。
「ふぎゃ。ふぎゅ。ふみゃ。どひゃ。みゅふ。どっぎゃあぁん!」
 なんだか器用な悲鳴を、かびたが上げる。
 どうやら、どつかれ馴れて進化したらしい。どつかれレベル4、50はいってそうだ。
 なんだか、ラスボスにも対抗できそうな気がする。
 もっとも、一方的にやられるだけなんだろうけど……。
「どうだニャ? これでわかったニャ?」
 ニャルフェスが聞く。もちろん、んなのわかりっこない。
 だからと言って、かびたNoの返事ができるはずもなかった。
「ハ、ハイ……わ、わかりました……ニャ……コーチ」
 床の上でぴくぴくしながら、かびたが返事をする。
 すると。
「うみゃ!!!」
 かびたが、へんな声をあげた。
 ニャルフェスさまに、ふみふみされたからだ。顔の辺りを。
「いい加減な返事をするんじゃニャいニャ! かびたの場合、バレバレなんだニャ!」
 というわけで、バレバレだったということだ。
「はぁん、ふうんっ、あんあん……いいっっっ!!!」
 自分から一生懸命腰を振って、一人恍惚の世界に旅立ってる美女。
 ニャルフェスは、そのお姉ぇさんをヒョイッと持ち上げると、そのままベットの上に放り投げる。
「あんっ!」
 ベットの上ではずんだお姉さんは、小さく悲鳴を上げた。
 でも、さっとに体制を立て直す。
 そのときには、すでに視線はすでにかびたを捕らえていた。
 目がほとんどイッちゃってる。獲物を見つけた虎みたいに。
 なんだか、むっちゃおっかない。
 もちろん、かびたとはびびりまくった。
「ひるむなニャ! 命令するんだニャ!」
 ニャルフェスからの指示がとぶ。
 かびたに緊張がはしる。頭真っ白。かびただから、いつもとたいして違わないけど。
 で、かびたの命令。
「お手!」
 かびたのめがねが、きらりと意味ありげに光を放った。
 すると、ベッド上からお姉さんが降りてきて、かびたの頭に手を乗せる。
 お手だった。
 ちょっと違うけど。
「なに、させてるのかニャ?」
 ニャルフェスが聞く。
 とっても、とぉ~~~ってもやさしそうな声で。
「お、お手……」
 かびたが答える。
 お姉さんのもう片方の手も、かびたの頭に乗っかった。
「それが、“ふぁなるあんさー”かニャ?」
 やっぱし、ニャルフェスがやさしそうにそう聞いた。
 ごくっ……。
 かびたの喉が鳴る。
「ふ、ふぁいなるあんさー……」
 次の瞬間、かびたにとって世界は逆さまになっていた。
 そして、無数のお星さま。その先にはお花畑が待っている。
 たっぷりと体重を乗せた、ツームストン式のパイルドライバーが炸裂した瞬間であった。

 なんでかびたが、こんな過酷な運命を辿ることになったのか……。
 それを説明するためには、話を三日ほど遡らなくてはならない。
 朝かびたが起きたとき、ニャルフェスはすでに起きていた。
 まだ、かびたの上でゴロゴロしてる時間なのに。
 いつもと違う朝。それが、なんとなくかびたを不安にさせる。
「おはよー。ニャルフェスさま……」
 かびたが挨拶をする。
「ニャ」
 ニャルフェスは、よくわかんない返事をした。
 かびたの机で、なんだかごそごそしてる。
 当然かびたとしては、聞くしかない。
 思いっきりおっかなかったけど、無視できるだけの根性はどこを捜してもなかったからだ。
「な……に……やっ……てん……で……」
 かびたが聞く。
 おもいっきり途切れ途切れになってるのが、かびたの内心そのままって感じだ。
 ベギョ。
「うぎゅ!」
 妙な音はニャルフェスの裏拳。妙な声はかびたのうめき声。
 かびたの真意は、しっかりとニャルフェスに届いたみたいだ。
「できたニャ」
 そう言って、ニャルフェスがかびたに渡したもの。
 それは……。
「めがね?」
 いつもかびたがかけてるめがね。

 つんつんしてみる。
 噛みつかなかった。

 掴んでみる。
 暴れなかった。

 くるくるしてみる。
 目を回さなかった。

 おっこちた。
 逃げ出さなかった。

 拾ってみた。
 怒られなかった。

「う~ん?」
 かびたは、ちょっと困った。
 どうも、これはめがねのようだ。
 少なくともかびたにはそう見えた。
 でも、そんなこと言うのはおっかない。
 もう、裏拳はいやだったからだ。
 だから、
「こ、これは……まったりとしていて……それでいてしつこくなく……」
 適当なことを言ってみる。
 かびたにしては、そこはかとなく高度な言葉だけど、激しく使いどころを間違っている。
 当然。
 ドギョ!
「ふぎゃん!」
 裏拳がヒットしたのはいうまでもない。

「これは、あやつりメガネだニャ」
 かびたが復活するのを待って、ニャルフェスが言った。
 こう見えても、ニャルフェスだってちょっとはやさしいのだ。
 ほんっとに、ちょっとだけど……。
「あやとりメガネ?」
 当然のごとく、かびたがベタなボケをかます。
 でも、
「これを使って今日中に、ニャーニャが言った女をゲットしてくるんだニャ」
 きっぱりと無視されてた。
 なんだか、かびたはちょっぴり落ち込んでしまったりしてしまう。
「これで、ゲット?」
 気をとり直して、かびた。聞く。
「めがねをかけるのニャ。見るニャ。命令するニャ。相手は言う通りになるニャ」
 めずらしく、ニャルフェスがきちんと説明してくれた。
「んっ? めがねを貸してみると、命令する相手が言ってなり?」
 かびたは聞こえたままを口にする。
 一体どういう耳なんだか……。
「と、いうわけだニャ」
 また、きっぱりと無視される。
 かびたは、もっと落ち込んだ。
「ううう……」
 かびたが小さく泣いてると……。
「なんだか知らニャいけど、生きてりゃそのうちいいこともあるんだニャ」
 ニャルフェスが慰めた。
 するとかびたは、
「わあぁぁぁぁぁ!!!」
 泣き出した。なんだか感激したらしい。
 なぐさめられるまでもなく、かびたは幸せなヤツである。
 もちろん、それで終わったりはしないのだけど。
「じゃ、これ持って、とっとと行ってくるニャ。ゲットするまで、戻ってくるんじゃないニャ!」
 そういって、かびたは自分の家をおんだされてしまった。
 手元には一枚の写真。
 写っているのは、とっても綺麗な女の人。
 知ってる女性(ひと)の顔だった。
 会ったことがあるわけじゃない。
 でも、知ってる。
 おばかなかびたでも、覚えているくらいによく見かける顔。
 ついでに、名前だって知ってる。
 竹之内夕子(たけのうち ゆうこ)。
 女優さんだった。
「うゅ~~~ん……?」
 かびたが、へんな声でうめいていた。
 なんでかっていうと、困ってるのだ。
 ゲットしてこいって言われた。
 でも、どうすりゃゲットできるのかわからない。だいいち、どこに行けば会えるのかだってわからない。
 とりあえずかびたは、写真を太陽にかざしてみた。
 写真の裏がほんのりと明るくなった。
「うみっ?」
 かびたはまた困った。
 なんの役にもたちそうもなかったからだ。
 普通、やる前に気づきそうなものだが……。
 っていうか、なんでそんなことを思いついたのだろうか?
 これは、かびただから……としか言いようがないだろう。
 かびたは、今度は写真を舐めてみる。
「ぺっ、ぺっ、ぺっ」
 かびたは、顔をしかめた。
 どうやら、まずかったらしい。
 何やってんだか……。
 その後丸めたり、ビミョーにひっかいてみたり、おでこにくっつけてみたりとかしてた。
 しごく当たりまえのことであるが、そんなんで問題が解決したりはしない。
 するわけがない。
 で、結局かびたがどうしかというと……。
「………………」
 途方にくれていた。
 だからといって、勘違いしてはいけない。
 今までだって、十分途方にくれてたのだ。
 たんに、することがなくなっただけの話である。

 そんなこんなんで、かびたがぼーっとしてると、道行く人たちはなんだか気の毒そうな表情をしながら通り過ぎてゆく。
 まぁ、気の毒といえないことはないのだろうけど、ちっぴり意味合いが違うのも確かなとこだろう。
 でも、世の中にはそんなかびたのことを理解してくれる人もいる。
 極めてまれだけど。
 かびたと出会い、かびたによって換えられた女の子。
 どういう具合に換わってしまったのかは、それぞれだけど大抵の場合かびたのことを想ってる。
 かびたのために尽くしたいと考え、そのために働いてる。
 ただ、今のところなかなかその想いを伝えられないのがつらいところではある。
 ニャルフェス。
 異界神。
 絶対力を持つ古き神の一柱。
 その存在ゆえ、許可なきものがかびたに近づくことはゆるされなかったのである。
 たとえそれが、かびたに絶対の忠誠と服従を誓うものであったにしても、だ。
 かびたは知らないことだけど、ほとんどの場合かびたは今まで、ニャルフェスの圧倒的な力の保護下にあったから。
 おいそれと、近づくことなんて出来なかったのだ。
 それでも、そんなことなんておかまいなしに、あこことなくかびたに近づこうとする者もいた。
 島崎美香。
 強力な力を持った少女。
 使徒には及ばないにしても、人が個人として持には強大すぎる力。
 その力を使い、何度もかびたに近づこうと試みた。
 でも、結界を破るどころか、せいぜい結界の表面をなでている。そんな具合にしかならなかった。
 ニャルフェスの力はあまりに絶大で、可能性を模索するのも虚しい行為といわざるをえない。
 唯一可能性がある存在としては、神へと転生を果たした花梨くらいのものだろう。
 それでも、なりたての神さまと宇宙創生以前から存在していた、古き神々との力の差はあまりに大きかった。
 想像を絶するほどに。
 そんな状況でもなを、あがき続けるのが島崎美香という少女だった。
 かびたのために、その身を捧げようと決めた少女たち。
 その中でもこの行為を続けてるのは、唯一美香だけである。
 もはや、自分の人生とかびたの人生の区別がついてないのではないだろうか?
 そう思えるほどに、美香はかびたのことをこい願った。
 そんな美香が、かびたの今の状況を見逃すはずがなかったのである。
 一時的にせよ、かびたはニャルフェスの保護下を離れた。
 しかも、一人……たった一人で途方にくれている。
 見逃せと言われたら、言った相手を瞬殺するだろう。それだけの力はあったし、その行為は彼女にとって当然のことだった。ためらうような理由なんて美香には存在しない。
 かびたの下にいき、そのためにつくす。その行為は人の命などよりよっぽど大切だった。
 もちろん、その命の中は自分の命も含まれている。
 それは、ある種の狂気すら孕んでいる。
 そう思わざるをえない。
 でも、だからといって彼女を留めることができるものなんていなかった。
 ……いや、かびただったらなんとかできるかも知れない。
 っていうか、かびたが命令すれば、美香はよろこんでそれに従うだろう。
 問題なのはかびたが、そのことに関してまるでわかっちゃないってことである。
 と、いうわけで美香は今、まったくの野放し状態にあった。
 そんな美香が、かびたの元に向かう。

「やは。美香ちゃん、オハヨー」
 先に挨拶をしたのはかびただった。
 ぼっとしてるのにあきて、まわりを見たときに美香がいることに気づいたのだ。
 ちなみに、日が昇ってからすでに6時間以上たっているのだが……。ま、かびただし気にしてもしかたないだろう。
「お、おはようございます。かびたさま……」
 答える美香の声が震えてる。
 内心、なかりジーンときてるのだ。
「どうしたの? こんなところで?」
 かびたが聞く。
「そ、それはあの……。かびたさまが、困ってるみたいだったから……。つい……。迷惑ですか?」
 急に心配そうな表情をする美香。
 いまさらながら、かびたの意思を聞いてなかったことを思い出したのだ。
 まぁ、かびたの場合似たようなもんだろうけど。
「ぼくが? 困ってる? なんで?」
 なんか、不思議そうにかびた。
「……写真をのこと、づっとご覧になってて……。それで……」
 気弱そうに、美香が聞く。
 何者をも恐れない美香。でも、かびたに嫌われる。そのことだけは、たえられそうもないから。
 でもかびたってたんなるぽけぽけだ、きっぱりと。
 心配なんてするのは無駄ってもの。
「しゃ……しん……? しゃ、しん……しゃしん……しゃしん~~~っ」
 がびたがうめきだす。ついでに頭も抱えた。
 どうやら思い出したらしい。
 ということは、いままでかびたがやってたことって一体……。
「少し、見せてください」
 そう言いながら、美香がかびたの手から写真をすりとった。
「これは……」
 見覚えのある顔。
 そこまでは、かびたと一緒だった。
 でも違うこともある。
 それは、直接面識があるということ。
 美香は、かびたに捧げるための肉人形を作っていた。
 そのための素体として、平成の歌姫と呼ばれた少女を選んだ。
 今では一二を争うくらい、優秀な肉人形となっている。
 白木麻以(しらき まい)という名の肉人形。
 その肉人形をTV放映の本番中に、調教してるとき写真に写っている女優と知り合ったのである。
 幾つか言葉を交わしただけの関係でしかなかったけど、そんなの美香には関係ない。
 どれほどの有名人であろうと、美香の力の前ではしょせん一般人でしかないのだから。
 だから、美香はそのことをかびたに告げる。
「ほ、ほんと!」
 かびたが驚いた。
 とってもうれしそうに。
 それを見た美香は、無常の喜びを感じる。
 どんなことであれ、かびたのために尽くせるのだ。美香にとって、それは最高の幸せである。
「じゃあ、かびたさま。一旦、わたしの部屋に来てください。そこで、どうするか決めましょう?」
 美香の提案。
 もちろん、かびたにそれを否定する理由なんてなかった。
 もっとも、反論できるだけの考えが、かびたに思いつけるはずなんてなかったけど。

 麻以は、最近やたらと忙しいのが不思議でならなかった。
 突然の失踪事件。マスコミで一時期話題になった。
 ひと月後。麻以が戻ってきた後、事務所は扱いを改めた。
 以前よりもスケジュールには、かなりゆとりを持たしてくれるようになった。
 なのに、なぜか暇が少ない。
 不思議な感覚がいつも体にまとわり付いている。
 頭はさえているのに、体はどこかいつも熱っぽい。
 それに、なんだか……やたらとビンカンなのだ。
 ありていに言えば、気持ちいい……。そんな感覚が、常につきまとっている。
 移動時間や、ちょっとした休息の時間。
 少しでも間が空けば、無意識のうちに恥ずかしい部分に手が伸びる。
 こんな淫らしい娘じゃないのに……自分は……。こんなとこを、ファンにでも見られたら……。
 そう思いやめようとする。でも、一旦動き出した手は、なかなか止まってくれない。
 誰か他の人の気配を感じるか、それとも何回かイクまでやめられない。
 どうしたのだろう? 自分は……。
 そんな思いもまた、イクためのスパイスになっていた。
 わけがわからない。でもやめられない。とっても気持ちいいから……。
 けれど、それだけではなかった。
 誰にも……マネジャーにすら言ってないことがある。
 自分の部屋においてある、様々な道具。
 男性器を象ったディルドーなんて、何種類もある。女性同士で使うとしか思えない、双頭のものだってあった。
 それに、手錠だって何種類も。
 普通の手錠はもちろん、皮製のものだって。
 さらには、腕全体を包み込み拘束するためのアームザック。口を塞ぐための、ボールギャグやフェイスクラッチマスクなんてものも……。
 そういった、自分が買った記憶のない道具が大量に隠されていた。
 しかも、なぜか麻以は、それらをどうしても捨てることができなかった。
 処分を決意するたびに、体が急に勝手に動きだしてしまうから。
 自分自身に手錠をかけ、あるいは麻縄で縛りつけ、ディルドーやパールローターで自分自身の体をいじめだす。
 そうすると、一気にからだ全体がほてりだし、そのままオナニーに耽ってしまう。
 でも、それが分かってるのもしばらくの間だけ。
 すぐに、頭の中はからっぽになってしまい、わけがわかんなくなってしまうのだ。
 そして、大抵の場合翌日の朝、自分のベッドの上で全身裸のまま意識を取り戻す。
 股間には、ディルドーが入ったままだし、別のものを口でくわえてることもある。
 なんで、そんなことになったのかはまるで記憶にないけど、ただとっても気持ちよかったという感覚だけは、はっきりと残っていた。
 だから、捨てられないのだ。
 でも、捨てようとしなくったって、それを使わないというわけではない。
 時々、体が勝手に動き出すことがある。
 ディルドーを掴み、姿見の前に座り込み、まるで自分自身に見せ付けるかのように体がくねりだす。
 大きく足を開き、その奥へと手にしたぶっといディルドーを、ゆっくり突き刺してゆくのだ。
 淫らに顔を歪めながら、自分自身を見つめている鏡の中の自分を見つめながら。
 舌なめずりをして、挑発的に腰を振る。
 その様子を見せ付けられる。心の中では悲鳴をあげてても、体が止まることはない。
 でも、それもしばらくのこと。
 すぐに、快楽に飲み込まれてすべての記憶は消失する。

 一体自分はどうなってしまったのだろう?

 不安に満ちていた。
 けして、誰にも相談することのできない悩みになった。
 スターと呼ばれ、輝ける世界に生きる麻以。
 美しい少女。その中に秘められた、なんとも妖しく淫らな暗部。
 少しでも、そのことが漏れたら、すべてが終わりそうな気がした。
 こんなことが、バレでもしたなら……。
 もう、二度と芸能界(このせかい)で生きてゆくどころか、まともに道も歩けなくなるに違いない……。
 麻以は、気が狂いそうなくらい悩み、苦しんでいたのである。

 でも、麻以は知らない……。
 麻以の一番身近な存在。
 麻以のすべてを知り尽くし、常にともにいる存在。
 それが、麻以の悩みを常に見続け、嘲笑を送り続けていることに。

 麻以の携帯が鳴った。
 着信名を見てみると、記憶にない人間の名前がそこにあった。
 不信に思いながら電話に出ると、女の子の声が聞こえた。
「ルイ、目覚めなさい」
 その瞬間だった。
 麻以の表情が、一瞬で変化する。
 清純な乙女のものから、いやらしい妖婦のそれへと。
 いやらしく、ねばりつくように開かれた口から言葉が紡がれる。
「起こしてくださって、ありがとうございます、美香さま」
 言葉の一言一言が、淫らしく絡みつくように聞こえる。
「すぐに来て。ご主人さまが、いらしてるから」
 その言葉をきいたとき……。
 ルイと呼ばれた麻以は、涙を流していた。
 でも、それだけではない。
 股間からもまた、白みを帯びたねばりつく液体が流れ落ちる。
「わかりました。すぐにお伺いいたします……」
 そう返事をすると、電話は切れる。
 すぐに、着替えをする、ルイ。
 一番上等で、しかも淫らさを強調した服を選んで着た。
 部屋を出てゆく前。鏡の前に立ち、その中の自分に向かってルイが言う。
「やっとご主人さまに、お仕えできる。麻以、これであなたの出番はないわ、二度とね。これからは、ルイだけになるの。肉人形のルイだけに……さよなら……麻以」
 そう。
 ルイは、自分自身に向けて、別れを告げたのだった。

< つづく >

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