幼馴染の終わり

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 世界№ 1725 熊本県 有葉市 須天満町
 世界内時間 2002年6月24日

「変わらないね」
 そう言って笑う彼女の顔が、少しだけ得意気に見えた。きっと僕自身よりもずっと、昔の僕を知っている。
 だけど僕には、彼女のことがわからなかった。彼女のことを知りたかった。側にいたいと、そう思った。

 深夜。高校のグラウンドには、たくさんの人間が集まっていた。誰一人列を乱すことなく整列し、沈黙している。年齢も性別もバラバラで、パジャマ姿や、ラフな格好をした者がほとんどだ。皆どこか遠くを見ているような目だった。朝礼台の上から声がしている。淡々としていたが、拡声器を使っているのか声は大きかった。彼らは黙って、声に耳を傾けていた。
「……それでは、その他の人は、もう帰ってください。先程、言ったとおりにしてください」
 言われると同時に彼らのほとんどは動き出し、しばらくしていなくなった。残ったのは若い女性。
「さて、残りの皆さんには、最後の確認をします。あなた達は男のひとが近くにいることが分かると、その人に欲情します。その人の声に、姿に、全てにあなたは虜になります。いいですね?」
「はい、わかりました」
 虚ろな瞳で全員がいっせいに答えた。拡声器から小さな笑いが漏れた。
「よろしい。今日もこの町で楽しく過ごしましょう。では、解散!」
 深夜のグラウンドは本来の静けさを取り戻した。

 うるさい目覚ましを止めた。眠い。最近なぜか、いくら寝ても疲れがとれない気がする。制服に着替えて、母親の小言を聞き流しながら朝食を済ませた。いつもの時間に家を出て、学校への道を歩く。
 いつもどおりの朝。
 道の先に見知った後ろ姿を見つけた。白く細い身体。朝日を反射する肩までの黒髪。日野ナナミ。僕の幼馴染。僕はすこしだけ歩く速度を上げて、彼女に近づいた。

 日野ナナミとは小、中、でも同じだったから、幼馴染ということになる。でも、彼女について僕が知っていることは少ない。僕の側に彼女がいたのは、もうずっと前のことだった。
 小さい頃の僕たちは仲が良かった。家が近かったからか、二人でよく遊んだ。何をして遊んでいたのかは、もう思い出せない。ただ、彼女はよく楽しそうに笑って、その笑顔だけは覚えている。
 小学校に入り、学年が進むうちに僕たちはだんだん疎遠になった。離れていったのは、たぶん僕の方からだった。男子と女子はいっしょに遊ばない、そういう空気がいつからか出来ていた。
 中学に入ってからも、一度できた距離は縮まることはなかった。僕も彼女も、それぞれが別々に毎日を過ごした。その頃には、彼女を見かけても、声をかけることはしなくなっていた。
 彼女と話さなくなっていくことが寂しいとも、もう思わなかった。僕が彼女のことを考えることはなくなっていた。日々の流れの中で、僕の中の、日野ナナミという存在はどんどん小さくなって、消えた。
 僕と彼女、『藤崎キミヒロ』と『日野ナナミ』は他人になった。なったと思っていた。

「きぃちゃん?」
 そんな呼び方をされたのは何年ぶりだったろう。入学式が終わり、初めて自分の教室に入ったとき、突然声をかけられた。
「やっぱり、きぃちゃんだ。ねぇ、話しするの久しぶりだよね。ずっと同じ学校だったのにさ」
 日野ナナミは、そう言ってクスクスと笑った。彼女は昔と同じ呼び方で、昔と同じ笑顔を僕に向けていた。
「そういえば、きぃちゃんも同じトコ受けるってお母さんが言ってたな。でも、きぃちゃんが同じクラスでよかったよ。みんなココとは別の学校を受験して、知り合い少ないんだもん。ね?きぃちゃん」
 彼女は僕に会えたことが嬉しいようだった。僕は彼女のことなんて忘れていたのに。彼女はその瞳に僕を映して微笑んだ。

 いつのまにか僕たちは、また話しをするようになっていた。話しかけるのは、ほとんど彼女の方から。それは、昨日見たドラマの話しだったり、飼っている犬のしつけの話だったりした。彼女の表情はコロコロとよく変わった。
 学校にも慣れ始め、それぞれに新しい友達が出来てからも、今度の僕たちの関係は壊れることなく続いた。通学途中や休日の街角で僕を見つけると、彼女は僕に自分の他愛のない日常を語った。
 日野ナナミは、ときどき二人で遊んでいた頃の話をした。なにひとつ思い出せない彼女の話を聞きながら、僕は仲良く遊ぶ二人の子供を想像した。その子達はいつも楽しそうだった。
 なぜ僕は忘れてしまったんだろう。覚えていたなら、彼女といっしょに笑えたかもしれないのに。懐かしそうに話す彼女を見て、そんなことを思った。

 彼女はよく笑った。昔と同じ笑顔。その笑顔がなぜか眩しく感じて、そんなとき僕は彼女の顔をまともに見ることができなかった。とても苦しくて、でも、いやじゃなかった。
 昔のように僕はちゃんと笑えているのだろうか。彼女が僕に親しげに話しかけるたび、うまく応えられない自分を感じた。
 彼女の態度は二人で遊んでいた、あの頃と変わっていないようだった。僕にとって、彼女と仲良くしていたのは、ずっと昔の、もう過去のことになっていた。僕は彼女とどう話していたのか、どう笑えばいいのか、分からなかった。
 僕の中には時間によってできた、彼女との縮まらない距離があった。
 僕はそのことが、寂しいと思うようになっていた。

 僕はすこしだけ歩く速度を上げて、彼女に近づいた。
「おはよう」
 後ろから彼女に声をかける。
「あっ!…お、おはよう。きぃちゃん」
 こちらを向かず、前を向いたまま彼女は答えた。少しうわずった声で、なんとなくぎこちなく感じた。それきり彼女は黙ってしまった。
 僕たちは黙ったまま歩いた。沈黙が不安だった。何か話そうとして、結局、切り出せずに黙っていた。彼女は僕の方を見ようとしない。ただ、下を向いて歩いていた。
しばらくして、彼女の様子がおかしいことに気付いた。彼女の足取りはフラフラとおぼつかない。うつむいた顔は赤く、呼吸は荒い。
「なんか、調子…悪い?」
「べ…べつに普通だよ」
 そう答えた彼女は、しかし、明らかに普通じゃなかった。体の前に置かれた手が、何かに耐えるようにスカートを握りしめた。時々苦しげに声を漏らして、それでも彼女は僕に何も言わない。苦しいとも辛いとも。
 時間が経つのが遅く感じる。何も言わない彼女、何もできない自分。なぜか急に不安が大きくなり、口の中が乾くのを感じた。彼女の体調はどんどん悪くなっていた。

 不意に彼女が立ち止まる。膝はガクガクと震え、立っているだけでも限界に見えた。
 僕は声をかけようとして、そのとき何かが体にぶつかるのを感じた。それが、彼女が僕に抱きついたのだと分かった時には、僕の唇はふさがれていた。
 押し付けられた柔らかな感触。そっと唇を離すと、彼女は僕の胸に額をあてた。
「……こんなキス…しちゃうなんて」
 背中にまわされた腕が震えていた。
「ごめん。いやだよね……突然…こんなことして。おかしな女だって…そう思うよね」
 キュッと僕の制服を握りしめる。
「でも、もう……我慢できないの。…さっきから、私のアタマの中……。ダメだって…いけないって…ずっと、ずっと我慢したの。でも、私…どうしようもなく触れたくて、触って欲しくて……ガマンできないの」
 顔をあげた彼女の目から、ひと雫の涙がこぼれた。僕を見つめる瞳が少しずつ近づく。
 僕の体から力が抜けて、手にしていたカバンがゴトンと音を立てて道に転がった。
 二度目のそれは僕が初めて味わう、深い、大人の口付けだった。彼女の舌が踊る。荒くなった呼吸をすぐ近くで感じた。
 彼女の唇は、頬から顎、首筋へと動いた。
「ねぇ…。さわって……おねがい」
 湿った吐息が耳にかかる。彼女は僕の手を取って、自分の胸へと導いた。
「あっ。…きも……ちいい、よ。…あっ、ふ、あっ」
 彼女の声が僕の脳を焼いた。重ねられた彼女の手は、僕の手の上から力を込めた。
「ねぇ…きもちいい?私の…あっ、わたしのムネ。きもちいい?」
 僕を見つめて問いかけた。
「…私は、きもちいいよ。すごくきもちいいの。ねぇ…もっとさわって。私で気持ちよくなって………。わたしを使って、きもちよくなって。………ねぇ、すごいの。わたし、きもちいいよ………。だから…して…。もっと、して…。わたしで、して…。ねぇ?して?ね?」
 彼女は優しく微笑んだ。知らない笑顔だった。見たことのない彼女だった。楽しげに話し、笑う、そんな普段の彼女とは別人に見えた。全く違う、妖しい色を放っていた。
 切なさと悦びの混じったような彼女の微笑みは、彼女が女であることを僕に強く意識させた。その表情は僕を求め、僕を惹きつけた。頭に霧がかかったように、彼女のことしか見えなくなった。
 僕は自分から彼女の唇を奪っていた。彼女もそれに応えて激しく舌を動かした。僕らは、互いの瞳に映る自分を、見つめていた。息苦しささえ気持ちよかった。
「………すごい。私が……私のからだが、こんなになっちゃうなんて……思わなかった。…こんなに、きもちいいなんて……」
 紡がれた言葉は、溜息に似ていた。
 僕のシャツの中に入れられる、彼女の手。その細い指が、直に僕の体を這い回った。触れる指先はひどく熱を持っていて、なのに、繊細な彼女の指が僕の上を動くたび、ぞくっとする寒気のような感覚を味わった。
「ほら…。きもちいいでしょ?……ねぇ、わたしにも………して?」
 自分の思考が真っ白になっていくのを感じた。僕はただ、彼女の求めるままに指を這わせていた。

 僕は何をしているんだろう?

「あっ、あっ、ゆ、ゆびが……うごいてる。……わたしのうえで、あっ」

 彼女は何をしてるんだろう?

「もっと…さわって……わたしのこと。あっ、そこっ。そこ、つよく…。つよくして!」

 わからなかった。ただ、彼女の白く柔らかな肌の感触と、耳に届く声が、頭の中を溶かしていた。

 僕は彼女のことを知りたかった。彼女との思い出も、その頃の自分自身も、僕は僕の中から消してしまった。彼女に笑顔を向けられるたび、僕はたまらない幸福感と、どうしようもない罪悪感のようなものとを感じた。

「あっ、そこっ。もっと…。きもちいい、もっと。…あっ、きもちいい」

 きっと、彼女が僕を感じるよりも、僕はずっとずっと遠くに彼女を感じている。彼女はいつも手を差し伸べてくれているのに、僕は遠すぎる彼女の手を、つかむことができなかった。

「あっ、あっ、あっ、きもちいい…。きもちいいっ、きもちいいよ」

 僕は、あの頃、彼女といっしょに笑っていた。彼女の手をつかんでいた。でも、今は。どんなに手を伸ばしても届かないほど、彼女と離れてしまっていた。離れていったのは僕自身なのだということが、僕は許せなかった。

「あっ、すごい。……すごい、すごいっ、もっと。……あっ…うっ」

 彼女が僕に接する態度は昔と変わりなくて、彼女は僕をどう思ってるんだろう、なんて、どうにもならないことが頭から離れなかった。

「んっ、いいっ。あ…あっ、んっ、いいっ。……あっ、そこっ、あ…んっ」

 彼女の笑顔は、屈託がなくて。明るくて。眩しくて。彼女の瞳は子供みたいに無邪気で、綺麗だった。彼女にはたくさんの大切な思い出があって、心から笑っている。
 僕には思い出と呼べるものなんてなくて、ただ時間は過ぎていくだけで。自分は空っぽな人間なんじゃないか、そう思えて、怖かった。

「あっ、あっ、あっ、あっ。…んっ、あっ。……ああっ」

 だからもう、忘れてしまいたくなかった。彼女との毎日を、今度こそ覚えていたいと思った。
 僕に向けられた笑顔や、他愛のない会話。くだらない冗談。僕を見つけて、手を振る彼女。授業がわからないとグチったり。弁当を忘れて、あわてたり。本屋で立ち読みしていて、気付いたら彼女に後ろから覗かれていた。自分から話しかけたのに、話題が途切れて、気まずくなった。蹴った空き缶の中身が残っていて、靴を汚して大笑いされた。
 それが、いつか思い出になるまで、覚えていたいと思った。彼女といっしょにいたいと思った。
 僕には、あの頃の彼女のことは、もう分からない。でも、今の彼女を知ることはできる。
 彼女といっしょに過ごしていける。
 彼女のことを忘れずにいられる。
 僕は、あの頃のように笑えはしない。でも、いつか。
 僕は、彼女のことなんて何も知らなくて、自分のことすら良く分からなくて、彼女との深い溝を感じている。それでも。
 甘い、甘い夢なのかもしれない。都合のいい幻想なのかもしれない。
 僕たちは、ずっと遠くに離れてしまったけれど、それでも少しずつ近づいていける。あの頃と同じではないかもしれない。それでも、僕はきっと、心から笑えるようになる。
 もう一度、分かり合える。もう一度、彼女の手をつかんで、そして彼女を抱きしめるんだと、そう思っていた。

「あっ、あっ、んっ。また……。んっ、あっ、またっ。……あっ、あっ、あっ、んっ」
 女の声が聴こえる。
 女の悦びの声が聴こえる。
 お互いの吐息が交じり合うほど近くにいるのに、なのに、どんな時よりも、ずっと、ずっと遠くに彼女を感じた。初めて知った、壊れてしまうくらいの快感に、僕たちの心は置き去りにされた。
 彼女の身体をきつく抱きしめる。彼女のやわらかさを感じた。彼女も僕を強く抱きしめ、その身体を絡ませた。
 ただ、相手を気持ちよくするために、自分が気持ちよくなるために、僕たちは肌を触れ合わせていた。他には何もなかった。
 彼女の身体に触れるたび、彼女が身体を撫でるたび、頭の中が白く焼けていった。彼女の唇の柔らかさ。指のあいだの髪の感触。抱きしめた細い身体。白い肌。
 耐えられない快楽が身体を満たして、今までの僕たち二人の関係が、砂の城みたいに崩れていく気がした。
 なぜ、こんなことをしているのかも、なぜ、こんなにきもちいいのかも、わからなかった。
 僕たちに何が起きているのか、わからなかった。
 何もわからなかった。快感以外に何もなかった。
 ただ、止むことなく流れこむ快楽が、僕たちの中の何かを変えてしまった。
 きっと、もう戻れない。
 二人で笑いあった幼いあの頃にも。彼女の笑顔が眩しくて、彼女の側にいたいと願っていた、あの毎日にも。もう二度と戻れない。

 それだけは、わかっていた。

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 世界情報収集機構  雑務課

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