戦国くノ一 胡蝶伝

 時は戦国、乱世の時代。
 幕府による太平の世は既に過去のものとなり、身分の貴賎に関わりなく、力ある者が力無き者を打ち倒しのし上がって行く、そのような時代。
 馬渕国(まぶちのくに)の豪族である黒田龍禅は、その強大なる兵力をもって周囲の国々を次々と略奪し、攻め滅ぼし、天下を我が物としようとしていた。黒田は領民に対しても容赦のない年貢の取り立てと兵役を課し、また美女とあれば商家農民の娘どころか家臣の妻であっても強引に奪い取る、という好色かつ傍若無人ぶりで悪名を轟かせていた。
 その魔の手は、小国ながらも豊かに暮らしていた須波国(すなみのくに)大森家の近辺にもついに伸び、その領民は迫り来る黒田軍の影に脅えるのみであった。
 だが、その侵略を食い止めようと立ち上がった者がいた。かつて大森家に恩義を受けた忍の集団『白尾衆』である。白尾衆の若き女頭領にして最強の忍者「胡蝶」は、たった一人で黒田龍禅の暗殺に向かったのであった………。

 新月の夜。草木の生い茂る山中の道なき道を、胡蝶は駆け抜けていた。生まれながらにして忍の頭領として鍛え抜かれたその足は、常人の数倍の速さで、全く音を立てずに一路敵城へと向かっていた。暗闇を苦ともせず、わずかな星明かりだけで正確に木々の間を抜けていく。
 走るというよりは飛ぶように駆けていくその足は鹿のようであり、後ろで束ねられてたなびくその黒髪は、まるで名馬の尾のようであった。

(貞友様…、きっと、この胡蝶が必ずや黒田龍禅を討ってみせます…!)

 胡蝶は秘めた想いを固く心に刻み込むと、きっと前を見据えて駆けた。
 父祖が大森家に受けた恩義だけではなかった。幼き時分から今の須波の領主である大森貞友の庭番として仕え、そして臣下には決して許されぬ「想い」を若く聡明な主君に抱いていた胡蝶にとっては、己の身を賭しても須波を、そして貞友を守る理由があった。
 黒田の軍勢は数も多く精強であり、何より残酷であった。また須波の地は農商業に向いてはいたが、守るには向かず、黒田が兵を動かせばたちまち滅ぼされるのは誰の目にも見えていた。
 残る手段は、暗殺のみ。黒田を討てば、馬渕は戦どころではない。
 だが、かつて太平であった世にあって農民同然となった白尾衆では、その望みが叶うのも胡蝶だけであった。ゆえに胡蝶はたった一人で、黒田龍禅が来るべき須波進軍のために逗留している山城、嵯峨乃城へ向かっているのであった。

(………!?)

 不意に気配を感じ、胡蝶が走りを止めた。辺りにはかすかな虫の声しか聞こえない。
 獣の類かと思ったが、それとは違う「何か」だった。
 十分に気配を探り、

(そこかっ!)

 一閃、振り向きざまに手裏剣を投じる。
 闇夜であろうと、かすかな気配であろうと、胡蝶は正確に目標を射抜く腕を持っていると自負していたが、

(…外した!?)

 何ら手応えなく手裏剣は虚空へと消えた。
 精神を集中し、辺りを探る。何かがいる。いるはずなのだが、どこに潜んでいるかわからない。こんなことは今までなかった。
 白尾衆一の使い手であるという自負が、抑えようとしても焦りを呼ぶ。

(くっ…どこだっ!?)

 胡蝶が眼光鋭く慎重に、しかし素早く周囲の様子をうかがう。
 何も感じられない。そんなはずはない、必ずどこかにいるはずだ。
 その時だった。

「…ぐうっ!?」

 何かが来た、と思った刹那、背中に鈍痛を感じて胡蝶はうつ伏せに地面に叩きつけられた。
 だが素早く反応し、両手だけで跳ね上がるように体を起こすと、そのままの勢いで後方へ跳躍するように回転しながら、木の影へ身を潜める。

(な、なんだ今のは…!)

 胡蝶は戦慄した。
 完全に背後から不意を突かれた。いつでも殺せるはずだったのに、相手は自分を殺さずに蹴り…にしては背中に感じた感覚はまるで犬か猫の足のようであったが、それでも衝撃だけで女とはいえ大人の体を地面に叩きつけるほどの威力であった。
 胸元からそっと補充の手裏剣を取り出し、いつでも投げられるよう構える。相変わらず周囲には音も気配もない。しかし、何かがいる。
 そして胡蝶は見た。

「…かはっっ!」

 見た次の瞬間には今度は腹部に激痛を感じてその場に崩れる。手裏剣を落とし、肺臓の中身は全て押し出され、胡蝶は呼吸に喘いだ。
 胡蝶は片膝を地についた姿勢で体を起こすと、すぐさま背中の忍者刀に手をかけ、「それ」を見た。
 錐揉みするように胡蝶に体当たりし、そして今、空中をくるりと一回転して音もなく胡蝶から距離を取って着地した「それ」は、猫であった。
 いや、猫のような何かであった。四色の猫など見たことない。

(…なんだ、これは!? 獣…いや妖の者か!?)

 いずれにせよ、容易ならざる者と対峙していることには変わりなかった。猫らしきものはこちらを単に見ているだけのようだったが、隙は全く見せていない。闇夜の中で、目だけが不気味に光っている。
 張り詰めた空気が辺りに充満している。先に動けば殺されるかのような。お互いに目と目を睨み合わせ、風と時だけが流れていく。
 その時だった。

「ま・じ・か・る…!」

 その場には全く似つかわしくない女の声、それも子供のものが胡蝶の耳に届いた。
 胡蝶は目を見開いた。猫らしき生き物の後ろから、桃色の珍妙な服を来た子供が、何やら飾りのついた棒を持って、忍者顔負けの速さで駆け寄ってくる。反射的に胡蝶は刀を抜こうとしたが、子供の速さはそれ以上だった。
 次の瞬間には子供の足が胡蝶の折り曲げられた膝の上に乗り、そこを踏み台にして子供は宙に高く舞った。そして………、

「シャイニング☆ウィザード!!」

 異国らしき言葉と共に目に見えない速さで繰り出されたその蹴りは、正確に胡蝶の首筋を打ち抜いた。
 衝撃で横に倒れていく胡蝶の意識は、闇に沈んでいった。猫と子供相手に何もできなかった自分の未熟さを恥じつつ。

「…ですの☆」

 胡蝶が最後に見たのは、頭の横で二つに束ねられた長い髪をなびかせて地面にすっと降り立った、見たこともない桃色の服を着た子供の姿であった。

洗脳魔法少女ヒプノちゃん

第91話「くノ一はつらいよ」

 意識を取り戻した胡蝶がまず感じたのは、首筋と手首の痛みであった。首筋は先程蹴られたものだが、手首は…と軽く腕を動かすと、ちゃりちゃりと鎖の音がした。腕は万歳をするように高く上げられ、おそらく手首に鎖を巻きつけて天井から吊るされているのがわかった。足の裏はかろうじて木の床についていた。宙吊りになっていなかっただけましだったようだ。
 頭を起こし、ゆっくりと目を開くと、そこは明らかに木造りの建物の中だった。
 胡蝶にはわかった。ここが嵯峨乃城であることに。室内には灯りがともされ、中にいる者どもの姿がはっきりと見える。
 周囲には侍とは名ばかりの、山賊同然の風体をした男たち。いずれもにやにやと胡蝶を嘲笑っている。そして、目の前には…。

「おう、やっと目が覚めたか。白尾の頭領よ…たしか胡蝶と言ったな」

 伸ばし放題の口髭顎鬚、乱雑にまとめられた髷。日に焼けてごつごつとした体。『粗暴』という言葉が服を着て歩いているような男。黒田龍禅。
 その黒田が、顎に手を当ててにやりと笑う。その笑いだけでも、胡蝶は虫唾が走った。
 さらに、その横には、

「あ、お姉さん。さっきはごめんなさいですの。でもこのおじさんの悩み事を解決するためにどうしても必要だったから、許してほしいですの」

 悪びれず、いや無邪気に笑顔を見せる子供がいた。その肩には四色の猫が乗っている。こんな子供に私が敗れたのか、と思うと、胡蝶は忸怩たる思いだった。

「悩み事…だと?」

 屈辱に奥歯を噛み締めながら、搾り出すように胡蝶は子供に問うた。
 その子供はやはり笑顔を全く変えずに答えた。

「はいですの。おじさんが『暗殺されそうで困ってる』と言ってたので助けてあげましたの」
「そういうことだ、胡蝶よ。この異国の妖術使いが、ワシの助っ人よ。ガハハハハ」
「妖術使いじゃありませんの! 魔法少女ですの!」

 下品に高笑いする黒田に対し、なぜか子供がむきになって反論している。が、そんなことはどうでもいい。この子供が黒田の悪行を知っていて加担しているのか、知らずに騙されて加担しているのかもどうでもいい。
 今は、ここからどう抜け出すか。そして最大の危機をどう最大の好機に結びつけるか。それだけだ。討つべき黒田は、目の前にいるのだ。
 その機会が巡ってくるまでは、おとなしくしている他ないと胡蝶は考えた。

「それはともかく…、のう、『ひぷの』とやらよ。これで胡蝶はワシの言いなりとな?」
「はいですの。このお姉さんがおじさんの言うことを何でも聞くように魔法をかけましたの。これで暗殺されずに済みますの」

 私が黒田の言いなりだと!? 子供の言葉に胡蝶は一瞬戦慄を覚えたが、そんな馬鹿なことはあるまいと即座に否定した。それに、もしそのような事になれば、舌を噛み切って死ぬぐらいどうということはない。自分の命は貞友様の物なのだ。
 返事代わりに胡蝶は黒田を睨みつけたが、その顔すら今の黒田を喜ばせるだけであった。

「ほうほう、いい顔だ。さすが街道の噂に聞こえた別嬪ぶりだな。その顔も、その体も、今から全てワシの物か…グフフフフ…」

 黒田は涎を垂らさんばかりに好色な笑みを浮かべて、胡蝶の身体を上から下まで嘗め回すように見つめた。その視線だけで胡蝶の背筋に悪寒が走る。
 せいぜい笑っているがいい。今にその首を掻き切ってくれる、と胡蝶は心に誓った。

「ではこれでヒプノは帰りますの。バイバイですの~!」

 不意に、自分の仕事は終わったとばかりに子供は黒田に手を振ると、四色猫を連れてさっさと部屋の外に出て行ってしまった。すかさず黒田の後ろに家臣の一人がすっと歩み寄って、姿勢を低くして黒田に問う。

「あの者…、いかがなさいますか」
「わかっておろう。あの小娘はもう用済みだ。消せ」
「はっ!」

 一礼した家臣が数人の男を連れ、手に手に刀を持って部屋を出て行く。
 声を低くして交わされたやり取りも、胡蝶には全て聞こえていた。
 思わず胡蝶は黒田に叫んでいた。

「何という卑劣な…! 妖術使いとはいえ、子供を手にかけようとは!」
「卑劣で結構。力こそ全て! それが乱世というものではないのかの」

 胡蝶の非難を意にもかけず、黒田はいやらしく笑ってみせた。
 そして、胡蝶が思いもかけぬ事を黒田は続けて言った。

「さて胡蝶よ、貴様はこれより何びとたりとも傷つけられぬ。ワシも、うぬ自身もな」
「なっ!?」

 それが先程の『言いなり』ということだろうか。そんなはずはあるまい。この鎖さえ解き放たれれば、背中の忍者刀こそ取り上げられているものの、懐に隠し持った手裏剣の一枚で、驕りたかぶった黒田の眉間を貫くことなぞ造作もないことだ。
 まずは、どうやって鎖から放たれるかだが…。

「これでもう良いな。お前とお前、胡蝶を鎖から放て」
「!?」

 この黒田の一言には胡蝶は言葉も出ず、ただ驚くだけであった。黒田は指差した家臣に胡蝶の鎖を解けと命じたのだ。さすがに家臣たちも再考を求めたが、黒田は頑として命令を変えなかった。渋々という風体で、命ぜられた二人の家臣が胡蝶に近寄って、鎖を外し始める。
 油断しているがいい、と胡蝶は思った。鎖が外れた瞬間が、貴様の最期だと。
 そして、両手が自由になった瞬間、

「黒田龍禅、覚悟!」

 早業で手裏剣を手にした胡蝶は、憎き黒田の眉間目掛け投げ…

(ば、馬鹿なっ!?)

 …られなかった。
 腕はまるで彫像のように固まり、胡蝶の意に反して手裏剣を投げることを拒んでいた。
 慌てて黒田の家臣たちが駆け寄って胡蝶を取り押さえようとしたが、

「よい!」

 と黒田が一喝してその動きを止めさせた。
 この隙を逃す胡蝶ではなかった。

「くっ、ならば!」

 どんな術を使われたかわからないが、暗殺が叶わなければ一度この場から逃げて態勢を立て直すべきだと判断した胡蝶は、脱兎のごとく駆け出そうとしたが…、

「胡蝶、動くな!」

 と黒田が叫んだ瞬間、足が動かなくなってしまった。
 胡蝶の異変は、周囲の黒田の家臣にも明らかに見て取れた。暗殺を図った忍が手裏剣を投げもせず、そして逃げもしないとは。それも我が主君の一喝で。家臣の間に動揺と共に安堵が広がっていく。
 黒田が家臣の誰にともなく口を開いた。

「見たであろう。こやつはもはやただの女だ。もはやワシを殺すことも、逃れることもできんよ」
「は、はあ…確かに…」
「ただの女なら…、気の利かん奴らだ。お前たちはもう下がれ」

 主君の意向を察し、家臣たちはめいめいに広間から立ち去っていった。黒田に対し、顔に意味深長な下卑た笑みを見せながら。
 その間、胡蝶は呆然としていた。これが『言いなり』ということなのかと。自分にはもはや黒田を討つことはできない、と胡蝶は実感していた。自然と手から力が抜け、手裏剣を取り落としてしまう。
 任務を果たせぬ時は自害、と心に決めていた胡蝶は、

(父上、母上。里の皆…、貞友様…、申し訳ございませんでした…)

 と心の中で詫びつつ、舌を噛み切ろうとした。
 しかし噛み切ろうと思っても顎に力が入らない。何度試みても、歯が舌に当たるだけで噛み切ることは叶わなかった。

「自害か。自害なぞ許さんぞ。おぬしはもうワシの物だからな」

 胡蝶が自害できずに苦闘している事を、さも楽しそうにからからと笑ってみせる黒田であった。その目は、もはや胡蝶を敵としては見ておらず、逃げられなくなった小動物をいたぶる獣のようであった。
 胡蝶は悔し紛れに叫ぶ。

「なぜだっ!? なぜ自害できぬ!?」
「だから言っておろう。おぬしはもはやワシの言う通りにしか動けぬ。おぬしの全てはワシの思うがままよ」

 何ということだ。何か行動を起こそうとすれば、全て黒田の一言によって封じられる。胡蝶の心を絶望の黒い雲が覆い始めた。しかし、

(まだだ…、奴はきっと隙を見せる。その時を待つのだ…。体は奪われようとも、心までは奪われはさせぬ)

 そのかすかな希望を頼りに、胡蝶は再び黒田に向き合った。
 黒田は離れた所から胡蝶を見下すような視線を送った。

「ほう、さすがに諦めたか。まあ無理もなかろう」
「そう言っていられるのも今の内だ。黒田龍禅」
「ほっほう、強気だのう。強気な女子(おなご)もまた良いな。征服し甲斐があるゆえ」
「くっ、下衆め!」

 胡蝶は視線だけでも黒田を殺さんばかりに睨みつけた。
 その視線すら強者の余裕で受け流していた黒田だったが、やがてふと思いついたかのように言った。

「いつまでも睨まれるのも興が削がれるな。笑え!」

 すると、胡蝶は今までと正反対ににっこりと、黒田に微笑みを返すような表情となった。

(ば、ばかなっ!? なぜ私は笑っている!?)

 胡蝶は戸惑っていた。妖術の作用で操られているとわかっていても、自分が黒田の思い通りに動かされることに感情が付いていかない。
 黒田は胡蝶の様子を見て、満足げに笑った。

「おう、やはり女は笑ってこそよの。女はワシに微笑み、媚を売っていれば良いのだ」
「…貴様っ! この…」

 胡蝶が憎々しげに声を振り絞るが、その声は笑顔から出るという奇妙なものだった。

「おっと、もう吠えられるのも飽きたな。黙っておれ」
「………!」

 罵詈雑言でも浴びせてやろうと構えていた胡蝶は、機先を制されて黙るしかなかった。いや、必死に叫ぼうとしても声が出なかった。
 黒田は常日頃座っている上座に向かうと、そこにどっかと腰を下ろし、片膝を上げた行儀の悪い姿勢で胡坐をかいた。
 そして黒田が胡蝶に「近う寄れ」と命ずると、やはり胡蝶の意に反して体は黒田に向かって歩いていった。顔はにこやかなまま。
 黒田は自分の目の前で胡蝶を止めると、

「だが色気が足りんな、服を全部脱げ。ただし、ゆるりとだ。すぐに裸になってはつまらんからな」

 と、にやけながら命じた。
 胡蝶の背筋が凍った。忍の者として純潔にこだわっているわけではない。時として女の色香は武器となることを胡蝶は知っている。しかし、それは男の慰み者となるためのものではない。黒田が求めているのはまさにそれなのだ。
 だが内心の嘆きとは裏腹に、胡蝶は黒い忍装束を、身を守る鎖帷子を、そして胸を押さえつけていたさらしすらゆっくりと脱ぎ去ってしまった。事情を知らぬ者が見れば、胡蝶が喜んで黒田に裸身を晒していった風にしか見えないだろう。

「ほうほう、なかなかのものよの。この乳の張り具合、忍にしておくには勿体無い」
(お、おのれ黒田め…! 許さんぞ、絶対に許さんぞ!)

 胡蝶は屈辱に打ち震えながらも、それを表に出すこともできず、ただ憎き黒田に全てを見られていた。まるで、黒田に目で犯されているようであった。
 胡蝶の裸像をたっぷりと楽しんだ黒田は、次にその場にあった杯を取って、ぐいと腕を伸ばして胡蝶に見せつけ、

「胡蝶よ、側に来て酌をせい」

 とだけ命じた。
 すると胡蝶は近くにあった酒瓶を手に戻り、そして黒田の隣に正座して、命じられた通りに酌を始めた。
 黒田は杯に注がれた酒を乱暴に飲み干すと、

「うむ、美味であるな。注ぎ手が良くば、また酒も美味となるな」

 と再び杯で酌を要求しながら、じろじろと胡蝶を、特に胸の辺りを見回した。
 胡蝶はそんな男に対しても、今は命ぜられるままに酌をし、喜んで見られる他なかった。
 やがて四杯目を飲み干した黒田が、不意につぶやいた。

「ふむ、ならば杯を変えればまた酒はどうなるかの…」

 胡蝶の心の中に嫌な予感が走る。そして、それは的中した。

「胡蝶よ、おぬしが杯となれ。股座(またぐら)で酒を受け止めておくのだ。こぼすなよ」

 胡蝶は言われるがままに、正座できゅっと閉じられた両足と股の間に酒を注いでいった。冷たい酒が、秘所を濡らしていく感覚に、胡蝶は泣きたいほどであった。
 だが胡蝶という名の杯はすぐに出来上がった。恥辱で薄く桜色に染まった肉と、黒く茂った若草に彩られた杯が。
 黒田の好色な視線が、酒泉とその周囲の部分に集まっている。

「グフフフフ…、若布酒(わかめざけ)とは良く言ったものよ。これほどの美酒は他にないであろうな」

 黒田は口元の酒と涎を袖で拭い取ると、四つん這いになり、胡蝶の股間に顔を近づけていった。胡蝶はそれを必死に押しとどめようとするも、杯とされた体は動くことはなかった。
 黒田の舌が、ぴちゃり、ぴちゃりと酒を舐め取っていく。その振動だけで胡蝶の心はおぞましさに震えた。胡蝶が抵抗しないのをいいことに、黒田は必要もないのにより深く顔を胡蝶にうずめ、じゅるじゅると酒を飲み干していく。

「ガハハハハ、甘露甘露。五臓六腑に染み渡るわい。こんなうまい酒は初めてじゃ。やはり燗は人肌に限るのう」

 本気とも胡蝶を辱めるともつかぬ口調で上機嫌で感想を述べた黒田は、

「どれ、味を変えてみようかの…」

 と言うなり、胡蝶の草叢に隠された秘所に舌を伸ばした。
 若布の間から姿を覗かせている若芽に舌先が触れる。

「………!」

 声を上げられない胡蝶は、笑顔のままでその刺激に耐えた。屈辱以外の何物でもないのに、女としての本能がそれを甘美と感じてしまっていることに、胡蝶は泣きたくなった。しかし、泣くのは忍の勤めではない、と自分を鼓舞する。
 黒田の舌嬲りは執拗であった。陰核だけでなく、秘裂も的確にねぶる。幾多の女人を犯してきた黒田であったから、嫌がる女すら感じさせる手管は持っていた。それは忍として訓練された胡蝶ですら蕩けさせるものであった。

(な、なんということだ…、この私が、こんな、やつ…にっ! んんっ!)

 だが幸か不幸か、それを表情や声で表すことは封じられ、ただただ不自然な笑顔と、本能的にほんのりと赤らんでしまった肌だけが、胡蝶の官能を外に伝えていた。
 胡蝶の秘裂からは蜜が溢れ、注がれた酒と入り混じっていく。それを黒田が舐め取り、むしゃぶり、飲み干す。

「うむ、美味なり。『潮』の利いた酒は格別だのう。ワハハハハ…!」

 注がれた酒を飲み干し、肌の上の残滓すら執拗に舐め取っていた黒田が顔を上げ、満足そうに言った。その顔には酔いの兆候が見えていたが、理性を失わせるほどではなかった。もっともこの男に理性というものがそもそもあったのか胡蝶には疑問に思えたが。

「胡蝶よ、おぬしの体はもはやワシのものだ。身に沁みてわかったろう」

 再び胡坐座になって腰を据えた黒田が、肘掛にもたれながら横柄な口をきいた。
 胡蝶は反論したかったが、動くこともできず口もきけないのでは認めざるをえない。

「だが、きっと心はワシのことを罵っておるのだろうな」

 わかっているではないか、この俗物め。胡蝶は心の中で首肯した。
 しかし、次の言葉に胡蝶は凍りついた。

「だから、心もワシのものとしてみせるぞ」

 胡蝶の最後の拠り所をこの男は崩そうとしているのだ。自分にかけられた妖術には逆らえない。だとしたら…。胡蝶の心の中を不安がよぎる。

「そうだな…、胡蝶よ、おぬしはまだ未通女(おぼこ)か? 丁寧に申してみよ。嘘をつくなよ?」

 真っ当な女であれば口にできぬことを、黒田は直に聞いてきた。半分は下衆な興味から、半分は胡蝶の心を嬲るために。
 胡蝶は口を閉ざそうと抵抗したが、意に反して口から声が漏れる。
 嘘偽りのない言葉が。

「いいえ…、忍として生きる為、純潔は既に張り型で散らしています…」
「勿体無い。では何人の男と今まで寝た?」
「おりません…」
「ほう、それは良いことを聞いた。実の所は未通女か。これは良い。ワハハハ…」

 有頂天の黒田に対し、胡蝶は惨めさで一杯であった。自分が黒田なんぞに敬って答えているのがより惨めであった。
 そしてさらに黒田は胡蝶に呼びかける。

「では胡蝶よ…、おぬし、想い人はおるのか。忍とて一皮剥けばただの人。一人ぐらいはおろう。申してみい」

 誰一人として打ち明けたことのない、胡蝶の秘中の秘を黒田は暴こうとしているのだ。胡蝶は必死に言いたくなる衝動に耐えたが、黒田に命ぜられたことは絶対であった。
 心の中は泣き叫びながら、体は笑顔のまま言葉を紡ぐ。

「我が殿…、大森貞友様です」
「ほう、あの貞友か。あんな青瓢箪の若造のどこが良いのやら」

 心で血を流せるのなら、今の胡蝶は流血するほどに屈辱に歯噛みしていた。主君を侮辱されただけではない。決して表にしてはならない想いを露にされたことにも。
 黒田はにやりと笑うと、少し身を乗り出して胡蝶と目線を合わせると、こう言い放った。

「だがのう…、今からおぬしの想い人はこのワシだ」

 その瞬間、胡蝶の心の中に信じられないほどの変化があった。

(ば、馬鹿なっ…! 私が黒田のことを想うなど…! 黒田の…黒田様の…?)

 黒田への想いを否定すれば否定するほど、その想いは強くなっていく。それに比するように、貞友への秘めた想いが霧散していく。

「このワシこそがそなたの想い人よ。ワシの事を『お館様』と呼ぶがいい。強く、強くそう思うのだ」

 黒田は追い討ちをかけるように胡蝶の心を言葉で犯していく。
 その言葉こそが絶対となっている胡蝶の心の中は、散々に乱れていた。

(私は、貞友様を…、貞友公のことを…主君として、ただの主君として思っている。黒田様、いいえお館様は私の討つべき…大切な方。違う。お館様は敵…だけど愛するお方。わからない。どうしてこのお方を討たねばならないのか。白尾衆の使命とはいえ、このお館様を討たねばならないのか…。愛する、愛するお館様を、どうして…?)

 貞友への想いを黒田に書き換えられた胡蝶は、使命と愛情の板挟みに遭って苦しんでいた。やがて、抑え切れなくなった想いが、助けを求めるように口からあふれ出していく。

「…あ、あ…ああ…、私は…、私はどうすれば…。お館様…どうすれば…」

 目を見開き、薄く涙を浮かべながら、苦しそうにしながらもまだ口元は微笑んだままの胡蝶をにやりと眺めやった黒田は、とどめの一言を吐いた。

「使命も貞友も、何もかも忘れればよかろう。胡蝶、おぬしはワシの物、ワシを愛するただの女として生きればよいのだ」

 その瞬間、胡蝶の心は突然晴れ渡った。忍としての使命も、貞友への忠誠も、故郷への愛着も、胡蝶を苦しめていたものが全て心の中から消え去った。
 今の胡蝶にあるのは、目の前の黒田龍禅に対する愛のみ。心を覆い尽くす愛情だけが、胡蝶の全てだった。
 表情こそそのままだったが、胡蝶はうっとりとしたように呟く。

「お館様…、ああ、お館様…」
「よし、胡蝶よ。お前の思うがままに動くがいい」

 黒田の『許し』が下りた途端、胡蝶は黒田の体にしなだれかかった。自らの意思で笑みを浮かべ、上目遣いで媚びるような目線を送る。

「お館様、胡蝶はどうかしておりました…。愛しいお館様に刃向かおうなぞ…」
「よいよい。愛いやつだ。過ぎたことは水に流し、これからは存分に可愛がってやろうぞ」
「ああ何とお優しい…。胡蝶は、胡蝶は生涯お館様をお慕い申し上げます…」

 黒田に抱きとめられた胡蝶は、男の腕の中で嬉し涙を流した。
 思惑通りに全てが上手く行った黒田は、はしたなくも欲情を隠そうともせず、下品な笑みを浮かべて胡蝶の手を引きながら立ち上がった。

「そうかそうか。では早速寝所に参ろうぞ。今宵は一晩中可愛がってやるゆえ…」
「はい、お館様のご随意に…」

 頬を染め、少し恥ずかしそうに下を向いて答える胡蝶。もはやあの忠義の忍はいなかった。ここにいるのは、偽りの愛情に絡め取られたただの女であった。
 …胡蝶にとっては真のものであったが。

 布団の敷かれた寝所で、胡蝶は甲斐甲斐しく黒田の着物を脱がせていく。跪いた格好で最後に残された褌を外すと、胡蝶の目の前に黒光りしてそそり立った陽根が飛び出した。
 その様子に少し驚いた胡蝶を見て、黒田が高笑いする。

「ガハハハ、ワシの太摩羅はどうじゃ。三国一の一物であろう?」
「ええ、その…」

 胡蝶は戸惑っていた。実は黒田の物は三国一どころか『太』というほどでもなかったのだが、愛する者のために傷つけない言葉を選ぼうと迷っていたのだった。
 その事を知らない黒田は、即座に返答がないのが気に食わなかった。苛立たしそうに胡蝶に言葉をぶつける。

「どうした、もっと褒めんか。ワシは気が短いぞ」
「ああお館様、素晴らしい一物でございます。このような物でしていただけるなんて、胡蝶は幸せにございます…」

 嫌われなくない一心で胡蝶は、命ぜられた通りに黒田の一物を褒め称えた。
 その一言を言った途端、胡蝶には目の前の黒田の物が本当に素晴らしく見えてきた。先刻かけられた「嘘をつくな」という暗示が、ただのおべっかを自分の中で真実としてしまったのだった。嘘が言えないのだから、口から出たものは全て真のものなのである。
 それは黒田への恋心と合わさり、坂を転がるように賞賛から傾倒へと落ちていく。

「ああ、本当に素晴らしい…。この世で最高の太摩羅です…。見ているだけで…、ああ、もう…」

 胡蝶は黒田の物を褒め称えながら、恍惚の笑みを浮かべてすらいた。この最高の物に犯される自分を思い描きながら。
 一方の黒田は単純にころっと機嫌を良くし、腰を動かして自分の物を胡蝶の頬に擦り付けながら言った。

「そうかそうか。ほれ、欲しかろう。存分に舐めしゃぶれ」
「はい…」

 それは命令であったが、今の胡蝶にとってはどうでも良いことだった。心と体が、この素晴らしき物を欲していた。
 胡蝶は自ら愛しそうにそっと両手を添えて黒田の物を頬擦りすると、手で捧げ持ったまま、小さく舌を出して黒田の先端に触れた。

「…おおう」

 黒田はその快感の大きさに思わず身震いした。先程まで自分を殺そうとしていた美女が、自ら望んで自分の物を口につける、という快感も合わさり、普段よりもそれはより大きかった。
 胡蝶は好物の物を頬張るように口内に出し入れし、外側を舐め上げた。黒田の物はまだ皮が被っていたが、男性経験がない上にそれが最高の物と思い込んでいる胡蝶にとっては気にならない事だった。陣中にあって入浴の機会が乏しかったから、それなりに匂うはずだが、それすら芳しい香りと感じていた。
 ぴちゃり、ぴちゃり、じゅるっ…と丁寧に、官能的に舌で奉仕する胡蝶の前に、黒田は早くも限界に達した。両手でがっしりと胡蝶の頭を掴み、無理矢理口に一物を突き込むようにして叫ぶ。

「胡蝶よ、出るぞ! 飲め、ワシのものを飲むのだ!」

 そして放出された精液が、胡蝶の口内を汚した。胡蝶は一瞬その苦味に顔をしかめたが、命令通りにそれを喉に送っていく。
 あらかた出し切って一息ついた黒田は、胡蝶の口から男根を引き抜いた。蜘蛛のような細い糸が一瞬現れ、すぐにぷつんと切れた。
 黒田は射精までの早さをごまかすように、胡蝶に再び強要するように言った。

「どうじゃ…、ワシの物は良かったであろう。さあ言え、うまかったと言うのだ!」
「はい、おいしゅうございました…。お館様、ありがとうございます…」

 そして胡蝶自身も、あの苦味を美味と感じるよう書き換えられた。口の中にわずかに残る精液を舌を転がして味わい、そのあまりのうまさに身悶えする。さらに、目の前の縮こまっている黒田の物に再び口をつけ、尿道から吸い出そうとする。

「お、おう、胡蝶よ、もうよい、そうされてはまた出てしまう…」
「ああ、お館様…、どうか、どうか胡蝶にお恵みを…」
「い、いや、ワシとてそう何度も…いや、おぬしのされるがままになぞならん!」

 自己の弱さを認めたくないかのように、黒田は胡蝶を突き飛ばした。「あっ」と小さな叫び声を上げて、胡蝶は尻餅をついて倒れる。
 黒田は色事に対し劣等感を感じており、それを補うための暴力であり恐怖による支配であった。自己の劣等感を指摘する者があってはならないがゆえに、黒田は高圧的な態度で女たちに接していたのだ。

「申し訳ございません、お館様…」

 体を起こし、両手を床について許しを請う胡蝶。その顔には寵愛を失うことへの怯えがあった。

「図に乗るな。おぬしはワシの言うことだけ聞いていれば良いのだ」
「はい…」

 黒田は下手に出た胡蝶を見下ろして吐き捨てるように言うと、自らは腰を落として胡坐をかいた。先程の胡蝶の口淫で、黒田の物は再び硬さを取り戻している。

「さあ来い。ワシの上に乗るのだ。そしてワシの一物をおぬしの鞘に収めい」

 つまり、対面座位になれと言っているのだ。胡蝶の股は酒にこそ濡れたものの湿り方が足りなくはあったが、命令である以上胡蝶は喜んでそれに従った。

「失礼いたします…」

 黒田の顔前に本来隠すべき陰部を晒しながら、胡蝶は黒田の両足を跨ぐように立った。そしてゆっくりと腰を沈め、片手に男根を添えながら、自らの体内にそれを埋めていく。

「くううう…っ」

 狭い膣はぎちぎちと黒田の物を拒んだが、胡蝶は体重をかけて押し込んでいく。抵抗感を堪えるために、胡蝶は黒田の体を強く抱きしめた。乙女の柔肌が、男の日に焼けた無骨な体と密着する。

「入り…ました…ぁ」
「そうかそうか。さすがは我が傑物。おぬしには大きすぎたかの」

 胡蝶がきつそうに喘いでいるのを見て黒田は有頂天だったが、単に濡れ方が足りなかっただけである。だが、やがて本能的に膣内から潤滑液が溢れ出し、黒田の物をねっとりと包む。

「さあ動け。ワシを悦ばせてみせよ。そしておぬしもよがるがいい」
「はいっ」

 黒田のその言葉を合図に、胡蝶は黒田の腰の上で体を上下にゆすり始めた。両腕は男の首の後ろに回し、乳の先を黒田の体に擦り付けるようにして、胡蝶は淫らに跳ねた。忍として鍛えられたしなやかな体が、征服者の腰の上で踊る。

「ああ、あっ、ああ…、お館様っ…」
「おお、おお、よいよい。おぬしの女陰(ほと)は具合が良いぞ。さあもっとだ、もっとワシを悦ばせい。もっと淫らになるのだ」
「はいぃ…、あんっ、みだらに、なりますぅ…!」

 じゅぷじゅぷと抜き差しが繰り返され、快感で胡蝶も黒田も心が昇っていく。黒田が胡蝶の肌にむしゃぶりつき、歯を当てていくのが、言われた通りに淫らとなった胡蝶に更なる快感を与えた。胡蝶も無意識のうちに膣の収縮で黒田を締め付け、快感を返す。

「おっ、おっ、そんなに締め付けられら…」
「あはんっ、いいですっ、お館様、おやかたさまぁっ!」
「出てしまう。おおっ、も、もう、だめだっ」

 相変わらず早々に昇り詰めてしまった黒田は、ぐいと胡蝶を抱き寄せ、意図せず胡蝶の後髪を掻きむしるように手を動かした。

「おお、おお、出る、出るぞぉ…!」

 そして子宮目掛け精液を打ち付けると同時に、思わず力の入った手が胡蝶の髪を結わえていた紐に掛かり、ほどけた。
 はらり…、と長い黒髪が下りていく。その瞬間は、時がゆっくり流れていくように黒田は感じた。

「おお、胡蝶…? おお…」

 それと同時に、黒田の目の前で快感に悶える胡蝶が、より美しく、より淫らに、より輝いて、より色艶を増し、より情欲をそそる存在に見えてきた。今までよりも、さらに、さらに…。
 二回も出せば十分だったはずの心の中に新たな欲望が沸き起こる。これほどまでに美しい女をもっと抱かねば勿体無い。体が疲労を訴えているのに、心の力だけでそれをねじ伏せることができそうな感覚に黒田は囚われた。

「うおおおおお…!」

 獣のような声を上げて、黒田は胡蝶を背中から布団に押し倒した。急なことに胡蝶は驚いたが、黒田の表情が憤怒ではなく情欲に満ちているのを見て取ると、淫靡な笑みを浮かべて呼びかける。

「ああお館様。そんなにがっつかなくとも…、あなたの胡蝶は逃げはしませんわ」
「よいか! 今宵はおぬしを犯し尽くしてくれる! おぬしが気絶しようと何があろうとな!」
「ああん、嬉しい…。さあ、もっと私を突いてくださいな…」

 胡蝶は目を細めて、男の背に這わせた両手でそっと黒田を抱き寄せた。
 血走った黒田の目からは正気が失われていたが、『黒田を悦ばせること』を命じられている胡蝶にとっては関係のないことだった。自らの体に招き入れ、愛する者のために体技の全てを尽くすのが、今の胡蝶にとっての全てであり、他の事は何一つ関係のないことであった。
 その黒田の異変が、自らが仕込んだものであっても。

 黒田の進軍が突如として止まったことは、須波の大森家にも即座に伝わった。どういうわけか黒田龍禅は嵯峨乃城から動かず、軍務も内政も放置しているとの事だった。聞くところによれば、家臣の離反も始まっているという。
 油断はできないが、当面は須波は助かったと言えるだろう。須波の国中に安堵と明るい笑顔が広がっていった。
 そんな中、ひとり暗い表情を見せる者がいた。若き須波領主、大森貞友であった。
 貞友は家臣には決してそれを見せることはなかったが、一人きりとなるとある者の事を案じて気を重くしていた。
 幼い頃から気を通じ合い、そして誰にも告げずに姿を消した庭番の女のことを。

(胡蝶…、そなたは今どこに…)

 胡蝶の失踪と黒田の異変に関わりがあると思えるからこそ、貞友は沈鬱にならざるをえなかった。

「ぜい、ぜい…、胡蝶、こちょぉ…」
「あんっ、あはあっ、お館様ぁ!」

 その胡蝶は、仰向けに寝た黒田の腰の上で馬乗りになって髪を振り乱し、上下に体を激しく揺さぶっていた。二人の結合部では、精と陰水の入り混じったものがじゅぷじゅぷと音を立てて泡立っている。体の動きに合わせて胡蝶の豊満な乳房が揺れるが、今の黒田龍禅にはそれを楽しむ余裕はなかった。
 黒田が胡蝶を捕らえた日以来、二人は片時も離れることがなかったのである。胡蝶は命令に従って黒田を悦ばせ続け、黒田は「やめろ」と一言言えば止められるはずなのに、胡蝶の体に溺れてしまっていた。内務を放置し、家臣の離反も止められなかった。遠からず、馬渕国は瓦解するであろう。
 これも全てくノ一の秘術『春香(しゅんか)の術』、胡蝶の髪に仕込まれた幻覚作用を持つ媚薬のせいであった。髪紐から解き放たれたこの粉末は、本来は目標の男を欲情させ、色香で篭絡するために使われるものだったが、胡蝶が黒田の虜となったがゆえに、お互いがお互いを想い合って抜け出せなくなってしまったのである。
 黒田は自分の肉体の限界をとうに超えていることはわかっているものの、術の作用と強すぎる快楽に惑わされ「やめろ」と命ずることができなくなっていた。精を放てば放つほど胡蝶の体を欲してしまうし、肉棒が萎えようともすぐさま胡蝶が忍の秘術でまた起たせて交わり、それがまた快感を呼んで止められなくなる、という具合で、それが延々と繰り返されたのだ。
 既にもう頬はこけ、息は絶え絶えで、横になっているのがやっとという有様であった。

「……た、たすけ…、て…」
「ああん、あはっ、あんっ、お館様ぁ、何かおっしゃいまして?」

 快感によがる胡蝶には、もはや黒田のかすかな声も聞こえていなかった。
 やがて、ねだるようにぎゅうぎゅうと締め付ける胡蝶の膣にせかされ、黒田が力なく、魂を吸い出されるかのように射精していく。

「ああっ、来ましたっ、お館様のお恵みがっ、あああーーっ!」

 その刺激に反応して上げられる絶頂の声に、黒田の最後の言葉がかき消された。

「………そんなのって………ないよ………ぐふっ…」

 戦国の世に覇を唱えた男、黒田龍禅。そのあまりにも呆気なく情けない最期は家臣によって覆い隠され『病死』とされたが、世間の噂話で伝えられた「真実」は、長く語り継がれることとなった。
 笑い話として。

< ギャフン >

 プンプン! せっかく悩み事を解決してあげたのに、後ろから襲ってくるなんてひどいですの! ミャフェスの『空中きりもみアタック』が炸裂しなければ危なかったところでしたの。だから、もう助けてあげませんの~!
 ちなみに、魔法の蹴り技『シャイニング☆ウィザード』は魔法少女のたしなみですの☆

 あ、そうそう。用事ができたので、ちょっと行って来ますの~。

 月日は流れ、ここは須波から遠く離れた地。
 海に面したあばら家の中で、寝藁の上に女が横たわっていた。黒髪はただ長く乱雑に伸ばされ、赤く扇情的な着物は肩からかけるだけで、胸元どころか股の方まで白い肌が露になっている。その肌には昨晩行われた情事の跡が残されている。女の目はどこか虚ろで、生気のない表情をしていた。だが薄汚れてはいても、立ち昇る色香は全ての男を釘付けにするかのようだった。
 女の名は胡蝶。黒田龍禅の死後、逆上した黒田の家臣の追跡を忍の技で切り抜け、その後はあてもなく、男を見ては「お館様」と呼び、春をひさいで路銀や食い物に換えて旅を続けていた。
 胡蝶にとって全てだった黒田龍禅の死は、黒田に対する愛情が偽りのものであっても胡蝶の心を壊すに十分であった。全身全霊を込めて尽くす相手を失った胡蝶は、その空隙を埋めるべく「お館様」を求めて西に東に歩き続け、そして寂しさゆえに行きずりの「お館様」に抱かれていたのだ。
 不意に戸がガタガタと音を立てて開かれた。外の光が中に入ってくる。胡蝶は焦点の定まらないどんよりとした目でそちらを見た。
 そこには、陣笠を目深に被った若武者風の男が立っていた。
 新しい「お館様」が来た、と思った胡蝶は、欲情に満ちただらしない笑顔を見せながら、のろのろと若武者の方に這って行く。

「ああ、お館様ぁ…。今度のお館様は何をしてくれるのですか…? 胡蝶はお館様の為なら何でもしますぅ…。だから、抱いて、抱いて下さいお館様ぁ…」

 若武者の袴にすがりついた胡蝶は、愛しそうに男の股間を撫で回す。ここにあるのは胡蝶にとって最も大切な物。快楽で全てを忘れさせてくれる物だ。

「胡蝶!」

 若武者が、片膝をついて胡蝶を抱き締めた。その弾みで陣笠がはらりと地に落ちる。
 男は固く胡蝶を抱きしめるが、胡蝶にはそうされる意味がわからない。

「胡蝶、探したぞ…!」
「お館様ぁ…。抱く、の意味が違いますわ…。お館様の硬い摩羅を私の女陰に突っ込んで、かき回して…」
「胡蝶、そなたは…」

 手を胡蝶の肩に置いたまま、若武者が胡蝶を真っ直ぐに見据える。しかし胡蝶の目は曇ったままで、男が誰かもわかっていないようだった。
 その時だった、

「はいはい、失礼しますの~」

 この場に全く相応しくない子供の声が聞こえた。その子供は面妖な桃色の服を着て、手に飾りのついた棒を持ち、肩に猫のような生き物を乗せていた。
 急なことで、さすがの胡蝶もその子供の方を見てしまう。

「………?」

 胡蝶は首をかしげた。どこかで会ったような子供だが、はっきりとは思い出せない。
 その子供は、穴の開いた貨幣のような物がついた首飾りを外して手に持つと、胡蝶の目の前でゆらゆらと左右に揺らし始めた。

「はいお姉さん、これをしっかり見てほしいですの」

 ゆらゆらと動くそれをうっかり見ているうちに、胡蝶はだんだんと意識が真っ白になっていった。頭の中から、色々なものが、「お館様」に命じられていたものがどんどんと消えていく。どんどんと、どんどんと…。

「………いちにの、さん、はいっ!」

 子供のやや大きな声と共に、ぱんっと手が叩かれた。
 同時に、胡蝶の意識がふっと還ってくる。

「これでお姉さんにかけられた暗示はバッチリ消えましたの」

 子供はにこやかに胡蝶に向かって言った。
 暗示?と問い返す間もなく、胡蝶は目の前に誰がいるのか徐々に見えてきた。

(…あれは…黒田龍禅暗殺の折に私を倒した妖術使いの子供と、妖の猫。そして…)

 逆光だったが、はっきりと見えてきたその顔は…、

「貞友様っ!? いいえ、殿っ!!」

 たちまちその場に平伏する胡蝶。刷り込まれた条件反射もあったが、それ以上に今の自分を貞友に見せたくなかったのだ。その背中が、小刻みに震えている。
 しかし、貞友は胡蝶に優しく声をかける。

「胡蝶、顔を上げてくれ。そなたの顔が見たい」
「いけません、殿! 今の私は汚らわしいただの遊女。決してお見せできるような…」
「そなたがどのようになろうと、余には関わりない。それとも余の言うことが聞けぬのかな」

 それは詰問でも命令でもなかった。貞友の言葉に込められた愛情に促されて、胡蝶はゆっくりと顔を上げた。
 貞友は、脅えているかのような胡蝶に笑顔を向けた。

「なんだ、綺麗ではないか。そなたの思い過ごしだ、胡蝶」
「殿…!」

 胡蝶は泣きそうになってしまうのを必死で堪え、それを隠して貞友に聞いた。

「ですが…、殿がなぜここに…? それにその妖術使いの子供は…。こやつは黒田の…」
「妖術使いじゃないですの! 魔法少女ですの!」

 いつかの時のように、子供がむきになって反論した。
 貞友は苦笑しながら、ぽんと子供の肩に手を置いて胡蝶に言った。

「この、ひぷの殿が、そなたを探すのを手伝ってくれたのだ。そなたの事を城で案じておったら、ひぷの殿が突然現れて悩み事を解決してくれようと申したのだ。だから…」
「そういうことですの! 『グーグ・ルアースの魔法地図』で、お姉さんをびびっと捜索いたしましたの」

 ひぷのと呼ばれた子供が胸を張っている。言っている意味はわからないが、その可愛らしい様子に胡蝶に笑みが漏れる。
 胡蝶は子供に優しく語りかけた。

「そうか…、礼を言うぞ。ひぷのとやら。だが、あの時の蹴りはなかなか痛かったぞ」
「あの時は仕方なかったですの。ごめんなさいですの」
「まあそれはともかく…、ところで殿、殿お一人でここに? 須波の領主ともあろうお方がお一人で危のうございますよ」

 子供の謝罪を笑みで許した胡蝶は、貞友に向き直って問う。よく見れば周囲には護衛の家臣も誰一人としていなさそうだ。
 その問いに、貞友は何でもない口調でとてつもない答えを言った。

「ああ、その事だが…。もはや余は須波の領主ではない」
「………は?」

 あまりのことに胡蝶がぽかんと口を開けてしまう。
 動揺しつつも、その真意を確かめるべく強い口調で聞く。

「い、いかな理由でございますか、殿!?」
「余はひぷの殿に悩みを打ち明けたのだ…。愛しいそなたへの想いと領主としての責務。相反する二つのどちらを取ればよいのかと…」

 その言葉に胡蝶の心臓がどきんとときめく。貞友様も私のことを想ってくださっていたとは…。顔が赤らんでいくのを感じるが、だが今はそんなことに感動している場合ではない。

「あ、あの、お言葉は嬉しいのですが、ですが…、須波の国は…お家は…?」
「そこでひぷの殿は、余に勇気の出る呪い(まじない)をかけてくれたのだ。これで余は目覚めた。胡蝶、そなたのために余は家も国も捨てて来たのだ」

 そう言って固く胡蝶を抱き締める貞友。その抱擁に一瞬嬉しさを感じた胡蝶だったが、すぐに冷静に戻って、貞友の胸の中で反論にもがいた。

「でっ、ですが、大森の跡継ぎは!? 殿がおられなければ大森は途絶えて…」
「そんなことはもう良いのだ。余にはもはやそなたしか見えぬ。そなたを妻として迎えられぬことが大名の定めと言うなら、地位なぞ余にはいらぬ。だから書き置きを置いて出奔したのだ…」

 熱い視線で自分を見つめる貞友に対し、突然領主が失踪し混乱を極める須波の様子がありありと思い浮かぶ胡蝶は、別の意味で熱くなっていった。
 その熱い怒りの矛先は、元凶とおぼしき子供に向かう。

「ど、どういうことだ、ひぷの殿!」
「お姉さんとお兄さんが相思相愛のラブラブ~ってことがわかったから、ヒプノがお二人をくっつけてあげようと思いましたの。だからお兄さんに魔法をかけましたの。最近エドワード8世って人の伝記を読んだので、それを参考にしたんですの。王冠を捨てた恋ですの!」

 相変わらず言っている意味はわからないが、無邪気に盛り上がっている子供を前に、胡蝶の心の中で何かがガラガラと崩れ始めた。

「ということで、ヒプノはこれで帰りますの。お幸せに~、ですの~!」

 そう言うなり子供は手を振って、猫を連れてさっさとこの場から去ってしまった。慌てて追おうとした胡蝶だったが、貞友にぎゅっと抱きすくめられて動けない。

「ま、待てっ! 殿を元に戻せ…殿! おやめ下さい、あの者に逃げられます!」
「ああ、胡蝶よ。余はもうそなたを離さないぞ…。ずっと余と二人で暮らそう。この世のどこかでひっそりと、二人だけで暮らすのだ」
「えっ!? わ、私も殿とかくありたいとずっと思って…、ではなくて、いけません、殿! 須波の国が、大森の家が!」
「もう国も家も捨てたと言っておろう。そうだな、これからは大工にでもなるか。先程のように、そなたに『親方様』と呼ばれるのも良さそうだ。うむうむ」
「殿ーーっ!」

 影に生き、影に死ぬが定めの忍。その名が世に知られぬのもまた定め。
 だが、「胡蝶」の名は後の世に伝わり、多くの創作を生むこととなる。
 馬渕と須波の二つの国を滅ぼした、『傾国の美女』として。

「そんなのって、ないよーーーっ!」

< ギャフン >

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