洗脳魔法少女ヒプノちゃん 第28話

第28話「時事ネタはすぐ風化するぞ」(R指定)

「おい、御子柴、御子柴」

 プールの淵から、コーチが私を呼ぶ声がする。天井を向いて背泳ぎで泳いでいた私は、水中から体を起こし、顔を上げ、かけていたゴーグルを上にずらして、コーチの方を向いた。

「はい?」
「御子柴、もう遅いからそろそろ上がれよ。疲れたろう」
「ああ…、あの、もう少し泳いでいいですか? 納得いくまで」

 私の返答にコーチは少し思案をめぐらせた後、半分諦めたように言った。

「仕方ないな。あと10分だけだぞ」
「はい、ありがとうございます」
「大事な時期だからな、無理だけはするなよ。俺は先に帰るが、いいか?」
「はい、遅くまでありがとうございました」
「おう」

 軽く手を上げて、コーチはプールサイドから更衣室の方へと歩み去っていった。
 誰もいなくなったプールで、私は再び、自分を追い込みにかかった。
 天井を見ながら、バタ足を早める。水をかく速度を早める。プールの端に着いたのを感じ取るや素早くターンし、矢のように水中を突き進んでから再び浮き上がり、そしてまたかき進む。
 1秒でも早く、0.1秒でも早く。早く。早く。早く。
 迷いを振り切るように、振り切るために、ただ一心に自分を追い込む。
 ただひたすらに、ただ、ただ………。

「わ~い、たっのしぃ~ですの~!」

 その時、誰もいないはずのプールの中に場違いな声が響いた。
 集中を中断された私は慌てて泳ぎをやめ、その声の方をゴーグルをむしり取るようにしてから見た。
 そこには、

「きゃはははは~、プールって楽しいですの~!」

 紺のスクール水着に水玉の浮き輪、髪はツーテールで、シュノーケルの付いた海水浴用のゴーグルを髪飾のワンポイントのように付けた少女が、無邪気にプールの中に浮かんで遊んでいた。少女の足が盛大に跳ね上げる水しぶきが、ばしゃばしゃと音を立てている。

「ちょ、ちょっとあなた! どこから入ってきたの!?」

 私は少女に向かって一喝すると、コースロープを何本かくぐりながら少女に近づいていった。今のこの時期、関係者以外は入れないようにしてあるはずだし、厳格なコーチが私情で入れてあげたとも考えにくい。
 内心であれこれ詮索していた私が少女の側によると、その少女はおとなしく泳ぐのをやめて、浮き輪に捕まってぷかぷか浮いていた。子供には足の付かない深さだから、こうしてくれた方がありがたい。

「だめじゃないの、勝手に入ってきたら」
「ああ、ごめんなさいですの。ついバカンス気分で浮かれてしまいましたの」

 少女はしおらしく謝ったものの、その謝罪は無断で入ってきた事に対するものではないようだ。
 続けざまに、急に表情を明るくした少女はこう言った。

「ヒプノは、お姉さんの悩みを解決しに来たんですの!」
「私の、悩み…?」

 思いも寄らない言葉に、私の方がきょとんとさせられてしまう。

「はいですの。お姉さんは今悩んでますの。だから、ヒプノが魔法で解決してあげますの!」

 自信満々に目をきらきらさせながら断言するその少女に、私は怒る気をなくしていった。今まで記録へのプレッシャーと『それ以外のこと』に押し潰されていたせいか、不思議と微笑ましい気分になる。
 なんだろう、この子だったら何でも話せそうな気がする。
 なぜだかわからないけど、そんな気がする。

「…わかったわ。じゃあ、ちょっと話を聞いてもらおうかしら」

 私はプールの淵まで水中を歩いていくと、軽く勢いをつけてプールから上がった。

 私はスイムキャップを取り、プールサイドに膝から下だけプールに漬けるようにして座った。少女もそれに倣って私の隣にちょこんと座る。さっきは気がつかなかったが、少女の水着の胸元には『ひぷの』と書かれた白い名札が縫い付けてあった。さっきも思ったけど、変わった名前だ。
 そして私は、横の少女に向かって語り始めた。

「私ね、こう見えても今度のオリンピックの代表選手なの。背泳ぎの」
「へえ~、すごいですの~」

 少女は私に手を叩いて喜んでいた。

「ありがと。でね、選ばれたのはいいんだけど…ちょっと困ってるというか、迷ってることがあって」
「ふむふむ」
「それがね、お嬢ちゃんには難しいかもしれないけど、水着のことで」
「お嬢ちゃんじゃないですの、魔法少女ですの!」

 変なところで真剣に突っ込みを入れてくる自称魔法少女。彼女にとっては大事なことらしい。
 私は軽く謝ってから、話を続けた。

「まあとにかく、水着のことで悩んでいるの」
「? もっとかわゆ~いのとか、せくしーなのを着たい、ってことですの?」
「いやそうじゃなくて」

 私は苦笑すると、軽く水着の肩紐をつまみながら少女に説明してあげた。

「私が今着ているこの水着、ミズホってメーカーのだけど、私にとっては選手になってからずっとお世話になってきたメーカーさんで、色々助けてもらったり、逆に私がデータを提供したり、お互いに助け合いながらやってきたのよ。担当さんとも仲良しだし」
「ふんふん」
「でもね、最近エスパーダって外国のメーカーが『魔法の水着』って言われるぐらいタイムが短くなる水着を開発して、それで大騒ぎになってるのよ」
「魔法がかかってるなら早くなって当然ですの。で、お姉さんはそれを着ちゃいけませんの?」

 いや、魔法ってそういう意味じゃないんだけど…と思いつつ、私は水中から足を上げ、両手で膝を抱えるようにしながら少女に答えた。
 悩みの核心に近づくにつれ、無意識のうちに言葉のトーンが低くなる。

「いけない、ってことはないんだけど…。担当さんも、私の好きにしたらいい、って応援してくれるし。私だってスイマーの端くれだからほんの少しでも早くなるならエスパーダのを使ってみたい。でも今まで一緒にやってきたミズホの皆さんのことを考えると…。それに…」
「それに?」

 少女が心配そうな顔をして私を見ている。こんな小さな子にそんな顔をさせてしまったことをちょっと後悔しつつも、私は心の中に溜まった重いものを吐き出すかのように、ぽつぽつと語っていった。
 自然と視線がプールの方へ、下の方へと向いていってしまう。

「水着のせいでタイムが早くなった遅くなった、って周りに言われるのが悔しくて。泳いでるのは私なのに。私が、私が泳いでるのに、みんな水着のことばかり言うのが悔しいの。最近、その事ばかり考えてしまってタイムも伸び悩んでるし、本番までそんなに時間がないのに、こんなことじゃいけないのに…。水着のことを気にしなくなってくれれば、どれだけいいかと。私個人の実力だけを見てくれれば、どれだけいいかと…」

 そこまで言ってから、あまりに深刻な話をしすぎたと、はっと我に返って少女の方を見ると、少女は既に足をプールから出して立ち上がっていた。体に通したままの水玉浮き輪を両脇に抱えるようにして、自信満々な表情で私を見ていた。

「わっかりましたの! みんなが水着のことを気にしないように、お姉さんが自分の実力だけで泳げるようになればいいんですの?」
「え、ええ…」

 視線の関係で軽く少女を見上げるように、私は少女の勢いに気圧されながら答えた。
 少女はにこっと満面の笑みを浮かべ、

「なら、ヒプノが魔法でなんとかしますの! お姉さんはオリンピック、頑張ってくださいですの~!」

 そう言うなり、プールの外へと駆け出していってしまった。
 あまりの勢いに、私は呆気に取られて少女を呼び止めることすら出来なかった。

「何だったんだろ、あの子…」

 ぽつりとつぶやく。
 でも。

「話を聞いてくれて、少し楽になったかも。あんな笑顔で応援されたら、私も頑張らなきゃね。よしっ、明日も練習頑張ろうっと」

 少女に元気を貰った私は、練習の疲れも忘れて足取りも軽く、更衣室の方へと向かって歩き出した。

「ひょっとしてあの子、実は幸運の女神だったりして。なーんてね」

 冗談混じりの独り言に、私はくすくすと笑った。

 そう、ある意味あの子は『幸運の女神』だった。
 でも・・・・・。

『さあ、オリンピック女子水泳、200メートル背泳ぎ、決勝がやってまいりました。この種目は、日本からは御子柴友子がエントリーされています。解説の遠藤さん、決勝の展望はいかがでしょうか』
『御子柴は準決勝でもいいタイムでしたからね、メダルも十分狙えますよ』
『ぜひとも頑張ってもらいたいものです。さあ、選手がプールサイドに入場してきます』

 いよいよ本番だ。前を行く各国の選手に続いて、私も歩き出す。
 競技前の所定の位置に着いて周囲を見回すと、場内は大声援に包まれていた。各国の、そして私の応援団が盛んに声援を送り、旗を振っているのが見える。だが私はそれを振り切るかのように、椅子に座って精神を集中させ、私は自分の世界に入り込んだ。
 集中。集中しなきゃ。
 集中しないと、やってられない。

『御子柴のライバルになりそうなのは、アメリカのキャサリン・コナーズですが、ルール改正以後タイムを落としていますからね。一方の御子柴はルール改正にも関わらずほとんどタイムを維持していますから、決勝の舞台でも十分戦えるのではないでしょうか』

 時間が来た。もう逃げられない。やるしかない。ここは決勝なのだ。全世界が注目する。
 周囲の選手が、上に来たジャージを脱いでいく。私も脱がないといけない。
 でも…、私に残された最後の気持ちが、ジャージのジッパーにかけた手を動かすのを躊躇させる。

『御子柴、どうしたんでしょうか』

 場内のざわっとした空気が、私の「異変」を察知したことの表れだった。
 わかったわよ、やるわよ、もうこうなったらやけよ。
 私は羞恥心を全てかなぐり捨てて、ジャージを乱暴に脱ぎ捨てた。

『さあ御子柴、ジャージを脱いでスタートに向かいます』

 今の私は、スイムキャップ以外何も身に着けていなかった。
 まったくの全裸。すっぽんぽん。まっぱだか。
 それは決勝に残った他の7人のファイナリストも同じだった。鍛え上げた見事なボディライン、そしてさすが外国の女性らしい豊かなバストを、惜しげもなく大観衆の前に晒している。水着を着ても着なくても大して変わらない、「流線型体型」の私とは大違いの裸身を。
 そして、少しでもタイムを縮めるために陰毛を1本残らず処理し、隠しようがなくなったあそこも大観衆に晒し、それどころかテレビカメラを通じて全世界に放送されている。
 ここがオリンピックの会場でなければ、ただのヌーディストビーチだ。それとも企画もののAVか。そんな舞台で、私は金メダルを目指して戦うのだ。

『オリンピック直前のルール改正で、水着の着用自体が禁止されましたからね。まあ今までの騒動を考えると、これで100%選手の実力を競い合えるようになりましたから、これで良かったんだと思いますよ』
『まったくですね。さあ、決勝の時間が近づいてきました。選手がスタートに向かいます』

 私は、周囲の視線から逃げるように水中に飛び込んだ。
 勝負に対する緊張以外の別の緊張が私を包んでいる。背泳ぎはスタートで飛び込まないから、スタート台で前かがみの姿勢を取らなくてもいい。その代わり、一旦スタートすればゴールするまで、私は胸も、あそこも全て晒しながら泳ぐのだ。
 そして不思議なことに、周りの人々は誰一人として、私達が(男子選手も含めて)全裸で泳ぐことに対していやらしい気持ちを持っていなかった。それどころか、私だけが恥ずかしがっていることを周囲に不思議がられたのが逆に辛いほどだった。
 おそらくあの『魔法少女』のせいだとはわかっているけど、今更どうしようもない。世界がそうなってしまったのだ。
 やめてやる。絶対やめてやる。結果がどうであろうと、オリンピック終わったら絶対引退してやる。こんな恥ずかしい思いしながら水泳だなんて、絶対無理!
 私は怒りにも似た気持ちと、少しでも良い結果を求めるアスリートの本能の狭間で葛藤しながら、とうとうここまでやってきてしまった。予選からずっと、全裸で。

「READY…」

 審判の声がマイクを通じてホールに響く。観衆が息をのむ。もう逃げられない。
 私はやけくそな気持ちで、スタート台のバーを掴み、ぎゅっと身を縮こまらせてスタートの瞬間に備える。
 やってやる。私の現役最後のレースだ、思う存分やってやる!

 スタートの電子音を聞いた次の瞬間、私は後方へと裸身をしならせながら、跳んだ。

 …こうして、お姉さんの金メダルの瞬間は視聴率64%を記録して、全国に興奮と感動を与えましたの。おめでとうですの~!

「そんなのってないよーーー!!」

< ギャフン >

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