2日目夜 願いと不満
玲奈は居住空間に飛ばされてすぐ、うがいと手洗いに走った。
飛ばされる途中でメイアから、玲奈達の自宅や実家、それに家族は「ホームアドバンテージを小さくするため」に消去されているとか、「玲奈達を動き回らせるため」に現実と違う部分が所々あるとか、隠れやすくなっているところもあるとか、そんな説明を受けたが、玲奈の耳には入っていない。
凜は感染したからといって、あの世界でうろついているようなゾンビと化すとは限らないはずだ。確か、多くの場合、自己免疫で快復すると聞いた気がする。
しかし、理由無く夏服のワイシャツを脱ぎ捨て、平然としている凜の様子を見た時の嫌悪感……いや、恐怖感をぬぐい去るのは時間がかかりそうだった。
玲奈は落ち着きを取り戻すために、ひたすらにうがいを繰り返す。
怖い。
吐き気にも似た気持ち悪さをうがいで何とか洗い流し、それでもなお恐怖感をまとわりつかせたまま、玲奈は洗面所に立ち尽くす。
玲奈の脳裏には、シャツを脱いで「きょとん」とした凜の表情が映っていた。今から考えれば、凜は少し目が泳いでいたような気もするが、それ以外はそれまでと何ら変わらない表情だった。
それは、凜があのゾンビ達と同類に堕ちるまでの道のりがまだ長いという僅かな安心感を玲奈にもたらした。しかし同時に、その凜の姿は、それまで普通に行動していた女性の体内で、静かに感染が進行していく、という事実を暗示してもいた。
「ウイルスから逃げ切る」ということの難しさにうちひしがれた玲奈は、用意された夕食の半分以上を無駄にした。
沙奈は混乱していた。
凜の脱衣。その事態を把握できないまま日没を迎えた沙奈。自宅がどうとかいうメイアからの説明を「ぽかん」としたまま受け、居住空間に転送される。
居住空間に飛ばされると、前日と同様に、ダイニングに夕食が並んでいた。沙奈はぼうっとしながら手をつけた。味はよく分からなかった。
夕飯を完食した頃に、ことの重大さをやっと理解する。
凜ちゃんが、危ないかもしれない。
それは沙奈にとって、悪夢の始まりに他ならなかった。凜と知り合って数日の玲奈とは異なり、沙奈にとって凜は図書委員の後輩だが、同時に大事な友達でもある。その凜がウイルスの魔の手にかかり、おかしくなり始めているという事実は、沙奈がこれまで生きていた世界が壊れ始めたということを意味する。
(お姉ちゃん……)
今すぐ、玲奈に話を聞いて欲しい。不安をぶちまけたい。普段なら隣の部屋にいる玲奈は、しかし今、沙奈の手が届くところにはいない。
やむを得ず沙奈は、重い足取りで風呂の準備に向かう。
沙奈の夜――寝付けぬ夜は、まだ始まったばかりだ。
夕食を手早く終えた留香は、風呂に入る準備をしながら、早くも明朝すぐに行うべきことを考えていた。
凜がウイルスに感染しているのは間違いない。また恵も、羽織りものとは言え一枚脱いだこと、完全発症者に襲撃されたことから、ウイルスに感染している虞がある。最初にすべきことは、恵がウイルスに感染しているかと、凜の快復具合を確かめることだ。
しかし仮に悪い結果だったとしても、よほどのことでなければ容易に二人をチームから切り離すことはできない。
腕っ節の強い恵は貴重な戦力だ。症状が進行すればそれが徒になる可能性はあるが、今日の経験を踏まえる限り、下着姿くらいになるまではその可能性を気にする必要はないと分析していた。接触などによる感染の危険は残るが、恵のいない状態で他の完全発症者に襲われるリスクよりは絶対に低い。
一方、凜は戦力的な問題ではない。彼女は仲良くしている大事な後輩である。「追放」はしたくなかったし、その選択は何より沙奈が嫌がるだろう。凜もそうだが、何より沙奈と仲違いする選択をする気にはそうそうなれない。ただ、凜の方は感染が進んでいるので、留香達に襲いかかる可能性を頭に入れておく必要がありそうだった。もしそうなるようだったら、「追放」もやむを得なくなってしまうかもしれない。
だがいずれにせよ、最も避けなければいけないのはチームの分裂だ――と、留香は確信していた。あの魔空間を一人で逃げ回る自信がないのもそうだが、特に沙奈と離れてしまうのが嫌だった。あの沙奈の姉はツンツンしていてとても感じが悪いけれど、沙奈は留香と姉ならば姉の方を選ぶだろう。そして、あの姉に沙奈を守りきれるとは到底思えない。
だから、出来る限り5人のチームを維持したまま、同時に留香達への感染を防ぐ方法を考える必要があった。
「はぁ……」
クローゼットを開けたときの青い光で思考が中断され、留香は短い溜息をつく。留香の分析という名の現実逃避が一段落ついてしまい、同時に意識したくない不安がわき上がってくるのを感じる。
留香は一介の女子学生に過ぎない。怖くないはずがなかった。
自然に、留香の目がクローゼットの右側を捉える。そこに架かっているものを最早手に取ることはないが、その品物は夕暮れ前の凜の姿を連想するのに十分だった。
堅物を絵に描いたようなあの凜が、このようなものを着て男を誘惑する姿――
「…………っ」
違う。今考えるべきことは、それじゃない。
その想像は「おぞましい」――良く知る後輩の、異常な姿だという意味で――の一言だったが、今はそのような感情を意識すべきではない。
メイアの言葉を信じれば、残りはあと五日。懸命な思いと勢いだけで逃げ切るには、あまりにも長すぎる。今感情的になってしまうのは、得にならないどころか、自殺行為である。そう結論づけた留香は、改めて、明日のことに対して意識を集中させた。
理屈で感情を抑え込む。男性より感情豊かな女性にとって、一般的に苦手なその技能を、留香は持ち合わせている。
同級生から時に冷血とささやかれることもあるその特性は、しかし現状ではとても貴重な能力と言ってよかった。
「ふぅ~」
身体を洗い、どっかりと湯船に腰を下ろす恵。その表情は、昨日と何も変わっていない。手首の擦り傷はほんの少し湯が染みたが、すぐに気にならなくなった。念のため、化粧台の前にあった救急箱を風呂上がりにもう一度使おう、と思う。
恵にとってこの風呂は、真の意味でオアシスだった。バスルームに用意されているジャンプーやトリートメントからタオルに至るまでの全ては、恵の私物とは異なり、用意されたものだったが、これらがとても良い――おそらく、恵が普段使っているものよりも――ものなのだ。トリートメントを施した髪は見事にサラサラになり、ボディソープを塗したタオルで綺麗にした肌は、丸一日経ってもしっとりしていた。
ボトルなどの出で立ちは全く見たことのないものだったが(おそらく日本で売られている製品ではない)、思わず自宅に持って帰りたくなる品々だった。
そんな、明日の朝に訪れる問題とは全く関係のない思考で、恵の脳内は大半が埋め尽くされている。
もちろん、凜が置かれている状況は認識している。しかし、今からそのことに頭を悩ませてしまっては、身体を休めることが難しくなる。それよりは、「絶対安全」と思われる居住空間でゆっくりと羽を休め、向こうに飛ばされてから対応を考えた方が得策に思えた。
恵にとって、そのような考えたくないことがあったときの対策は、大抵風呂に入ることだった。風呂の綺麗なお湯は、一時的ではあっても余計な考えを――わだかまりと一緒に――洗い流してくれる気がする。
もっとも、恵の場合は他人より余計なことを考えるタイプであるため、却って考えたくないことを考え込んでしまうことも多いのだが。
そして、
(凜ちゃん……もう少し早く助けに入れれば、大丈夫かもしれなかったのにな……)
ひとたび「考えたくないこと」で考え込んでしまえば、そのような後悔に嵌ってしまうことは、恵には目に見えていた。
何としてでも雑念を全身から溶かし出すために。普段からただでさえ長い風呂に、恵は延々と時間を費やした。その雑念が重かったのか、恵が風呂を出た頃には、普段の就寝時刻を迎えていた。
風呂から上がった凜は、クローゼットから持ってきた寝間着を身につける。
それは、薄い生地のベビードールと、狭い生地の黒ショーツだった。クローゼットの中には昨日使った寝間着も入っていたが、手は自然とベビードールに伸びていた。風呂に入る前から体が火照り、すぐ自慰行為に勤しむ羽目になるのは分かっていたので、できるだけ自分の身体を触りやすい格好にしたのだ。
その格好は恥ずかしいとも思ったが、一旦身につけてしまえば、その「機能性」もさることながら、自分の今の気持ちを正しく装飾しているようで、悪い気はしない自分も居た。
下半身が覚えている熱は激しいものだったが、それでも、髪と肌の手入れは決して手抜かず、欠かさないのが凜だった。凜は「恥ずべき行為」に魅入られた人間であるとは自覚していたが、淑女としての心得を忘れているわけではない。
「はぁ……」
溜息をつく。乳首が堅くなり、ベビードールの内側から生地を持ち上げているのを気にしながらも、両手は肌のケアを決して止めなかった。
(破廉恥……)
その言葉を頭に浮かべると同時に、凜は化粧セットを片付ける。その動きで乳首が擦れ、刺激を感じるが、凜には快楽の受入態勢がまだできていなかった。ベッドに寝転がっていなかったからだ。
いつもより、衝動が激しい。凜はそう感じていたが、理由は思い当たらなかった。
凜はそそくさと部屋の明かりを消し、ベッドに寝転がる。寝転がった途端にスイッチが入り、凜は快楽のしもべに堕ちていく。
「はぁ……」
その溜息は、先ほどとうって変わり、熱い。
最初にショーツを下ろす。股間が既に熱く、あふれるのは時間の問題だった。左足を完全に抜き、ショーツを右膝に引っかける。
そのままベビードールをゆっくりまくり上げ、凜は股間と両胸を完全に露出させる。明かりがついていれば誰にも、自分にも見せられないその姿は、しかし凜には開放感しかもたらさなかった。
「あっ!」
自らのケアに焦らされた格好になった凜は、気がはやったのか両乳首を同時にひっかく。その刺激は凜の身体を燃え上がらせるには十分だった。どろっ、と股間から蜜があふれ出し、敷いていたタオルを汚した。
両乳首が凜にもたらす快楽は、昨日より激しかった。
「はうっ! うっ!」
そこを擦るたび、自らの理性が溶かされていく。上半身、いやその二点だけで、全身が蕩けていく感覚を覚えるのは初めてだった。
(たまらない……はやく、恥部を……)
今夜は催眠もどきは不要だった。あっという間に我慢が効かなくなり、凜は右手を股間に伸ばす。下の唇に指が触れただけで、全身に震えが走る。凜は一気に、指を穴に突き刺した。
「んふぅっ!」
進入した指を胎内の肉に擦りあわせると、身体の中の熱がかき回される錯覚に陥る。そしてすぐに、その感覚は男性の性器によるものにすり替えられる。
「あぁっ……高橋君っ!」
その名を叫び、快楽の海に自ら堕ちていく凜。普段なら、凜はそのまま絶頂を目指すはずだった。
しかし。
「んんぅ……」
足りない。
本能的に、満足できないことを悟る。性欲を満たすのに必要な快楽が、いつもより大きいのだ。特に、胎内の奥が熱く疼いており、そこへの刺激が欲しいと強く感じた。
他の誰かであれば、指以外のものをそこに挿入するということを思いついたかもしれない。しかし、指での行為しか経験のない凜は、あいにくそのような発想を持ち合わせていなかった。
結果、満足できる見込みの無いまま、想像上の男性器に貫かれる行為を続けることになった。
「もっとぉ! もっとぉ!」
自らの声で自らの快感を煽り、激しく胎内を弄り回す凜。その胎内には、初めて3本の指が挿入されていた。
しかし、指では絶望的に長さが足りず、身体の奥を満足させることはできない。
「ちっちゃい! ちっちゃいのぉ! もっと欲しいのぉっ!」
それは自らの指に対する不満。しかし、凜の妄想の中では、それは目の前にいない「高橋君」への不満にすり替わる。
「もっとしてよぉ! 満足させてよぉっ!」
必死の形相で、凜の中を蹂躙する高橋君。しかし、凜の中を刺激するためには、長さが足りないことは如何ともし難い。焦りと戸惑いの表情を、凜は目の前にはっきりと見ていた。
「もっとっ! もっとっ! もっとぉ……!」
凜は半狂乱の中、両手で自らの快楽を掘り返し続けた。
「………………もういぃ……」
数分後、凜はそう言って、突然行為を中止する。
このままではどうやっても満足を得られないことを理解して、気持ちが切れたようだった。
凜はゆっくりとベビードールを下ろし、そのまま脱力する。ショーツは膝に掛けたまま、掛け布団を何とか被り、そのまま眠りについた。
「ヘタクソ……」
その理不尽な怒りは、誰にも聞かれることなく、虚空に消えていった。
< つづく >