まいごのおまわりさん 第二話

第二話~雨足の夜想曲(1)~

「見つけたぞ。裏切り者」

 アルフィリア=ウェーバーが裏切り者である男の執務室で、小さな少女と共にいるその男を見つけたのはもう何年も前の事である。

 その男は自らを裏切り者と呼ばれても何も反応せず、ただアルフィリアの顔を見つめるだけだった。

 裏切り者である事を黙認していると取れるこの反応。アルフィリアは今まで自分がこの男に騙されていたのだと思い、持っていた槍で男に斬りかかった。

「何とか言わんか!」

 渾身を込めて、槍の切っ先を男に向けたアルフィリアが突進する。

 見事に槍は、その男の腹を突き刺した。

 アルフィリアは《陰陽騎士団》(Spiritual・Guardians)と呼ばれる組織を束ねる[六賢者]の内の一人である。かつて世界の統合を聖杯に掲げ、騎士団を創設した六人の中の一人なのだ。

 世界の統合―――誰もが差別されない平等な世界を夢見て創られたこの《陰陽騎士団》の中で、アルフィリアは「平等な世界にする為に平和を守る」事を第一とする機関を治め、その中の『鬼威し』(Durga)と呼ばれる栄職に就いていた。

 『鬼威し』は平和を妨げる鬼を討滅する職分で、騎士団の大半はこの要員で構成されている。それだけ敵対する鬼が大量に存在するという事だった。

 鬼とは『八寒』と呼ばれる位相空間から獄門を潜って現世『火宅』に昇ってくる化物のことだ。その形態は蟲・人・獣など多種多様で一様ではない。ただ、人型の者でさえ、その体の一部に異形を宿していることもあるのだから、化け物と言うことに抵抗は無い。その上、鬼は鬼独特の術――鬼術――を遣い、世を跋扈し汚すのだから情状酌量の余地すらない。昔話で有名な『桃太郎』の鬼等とはまた一線を画した存在なのだ。だが人に悪さをし、人畜無害とは到底言えないという点においてはほぼ同じだろう。

 話が逸れてしまった。

 その『鬼威し』の要員が殺害されるという事件が、最近多発しているのだ。

 アルフィリアがそれに気付き、他の[六賢者]に連絡したところ、他の部署の団員たちも殺害されているという事実が浮かび上がった。事は想像以上に深刻だったのだ。

 もうお分かりだろう。多くは語る必要もあるまい。

 その大量殺人者が、アルフィリアの槍で腹を突かれた男。騎士団に反旗を翻し裏切り者の名を負うことにしたこの男なのである。

「何故、裏切ったァ!」

 槍を持つ手にさらに力を加え、男の腹を抉るように捻り上げる。男は悲鳴を上げるどころか、痛みに耐えかねて呻き声を出す事もしなかった。もはやこの男に痛覚など存在しないのか。

「答えろォ!」

 アルフィリアの怒声に、傍らに立っていた小さな少女が反応した。

「ぃ、い…ゃああああああああああああああああああああああああ!」

 怯えるように耳を塞ぎ、膝を曲げて地面に尻をつく。少女のそれは悲鳴よりも激しく、叫喚に近いものがあった。

 その少女は精神崩壊の一歩手前まで来ていたのだ。アルフィリアはそれを知る由も無く、呆然と少女のほうを見つめてしまった。

「ぐっ、彩女(あやめ)…」

 男が動き出した。

 アルフィリアはすぐさま我に返り、槍を持つ手を離す。殺さずに裏切りの真相を知りたかったのだ。だがその心配も要らなかった。男は自分の手で槍を引き抜き、致死量を越えた血を流しながら少女の下へ歩き出したのだ。

 アルフィリアは昔聞いた男の正体を思い出した。この男は「闇の眷属」だった。死という概念はこの男になかったたのだ。

 差別を無くそうとする心から相手の本質を見落としてしまっていた。

「大丈夫や。よしよし」

 男は血まみれの身体で少女をあやした。何度も頭を撫でて落ち着かせようとするも、意味が無く、少女は震えたままだった。

「平等な世界なんて、無理やった…」

 男はそれでも少女を撫で続けた。

 男の自白が始まった事を感じ、アルフィリアは男が引き抜いた槍を持ち上げる。逃げるとか無駄な抵抗をするとか、そんなことをする相手ではない事を知っていたからだ。知っていたから、尚更裏切った理由を知りたかったのだ。

「自分が言い出したのだろう? 差別の無い平等な世界を、と」

「だから尚更や。私が始めたことは私で終わらせる」

「お前が其処まで思うのには、訳が有るのだろう? 話してくれないか」

 男はアルフィリアを見定めるように見て、フッとため息をついた。

「平等を妨げる差別は、心の弱さから生まれる。そして、心の弱さは沢山ある。甘え、妬み、憎しみ、怒り、嫌悪、恐怖。他にも沢山ある。それで、そんな弱さを打ち滅ぼせたら、きっと望む世界が出来る。そう信じてた。でも、私は、知った。心は弱さも含めて全部が心なんや…。平等やない世界はきっと、偽物の世界なんや。真に他人を思いやれない世界なんや」

 何故そう思ったか。肝心なところは省かれている。だが、アルフィリアには大方想像がついている。

 おそらくは彼の最愛の女の死が彼を狂わせたのだ。

「だから、私達がしてきた事は、過ちなんや。過ちは正さなアカン。フィリィ。でも君が殺してはあかんと言うなら積極的に殺すのは止める。止めるけど、忠告はしてくれ。私には決して近付くな、て。私に近づく騎士団員は、私とすれ違う奴は、私と顔を合わせた者は、全員隈無く殺す。殺して殺して殺し尽くす。きっと逃げることは出来へん。だから、忠告してくれ。私には決して近付くな」

「それは私が許さない。今からお前を閣下に――、いや、シュウに引き渡す。そのほうが抵抗しないだろう」

 フィリィの提案は無視される。男は怯える少女を前に差し出した。

「子供に罪は無い」

「何?」

「私の代わりに育ててやってくれ」

 それはまた馬鹿げた頼みだ。

「却下だ」

「どんな風に育てても好え。フィリィの望む世界のために、平和を壊す輩を殺す道具にしても好え。なんなら、私を殺す殺人者にしても好え。ただ、一つだけ約束してくれ。この子の未来がきっと良いものになると」

「ならば今、有効活用してやろう」

 アルフィリアは懐に隠しておいた短刀を取り出し、前へと差し出された少女を羽交い絞めにし首筋に短刀を突きつけた。それらの動作を一瞬でやってのけたアルフィリアは流石部下たちに「鬼神」と呼ばすだけある。

 裏切り者である男は顔を顰めてアルフィリアを嗜めた。

「君は何時でも正義の為に犠牲を払うなァ」

 裏切り者となった男が嘗てアルフィリアを騎士団創設に引っ張り込んだのは、正しくその、信念の元に手段を選ばない冷酷さ―――いや熱血さを買っていたからである。

 いたいけな少女でさえ人質に取る事を厭わないのは、真に己の望む世界を信じてのことだろう。

 しかし、もう男にとってその望む世界は単なる虚構へと成り下がった偽物の世界である。

 男とアルフィリアはこの瞬間をもって完全に離反した。

「初志を貫く事を忘れたお前は、もはや”悪”だ。……動くなよ、今からシュウに連絡してお前の身柄を拘束する」

 勿論、この場に乗り込む前にアルフィリアは彼に一報を送っていた。しかし確たる証拠が無いと撥ねられたのだ。

 だがもうそんなことは言わせない。先程までの会話は隠し持っていたテープレコーダーに録音している。奴自身殺したとは言っていないが、此れからそうすると明言している。

 身体を拘束する必要性はコレで証明できた。裏切った理由も聞けた。

 後は彼に連絡して、奴を捕らえるのみ。罪はそれから償ってもらおう。

 言うまでも無く、奴自身の死を以ってだ。

「その娘に触れん方がええ。怖がってるで」

 人質が効いているのか、男が言うが、動こうとはしていない。

「今更何もかも遅い」

 通信機を懐から出し、アルフィリアは男を睨む。

 此処まで来て言い訳がましい事を言うとは、失望だ。ただでさえ多くもの同胞を影で殺してきた事で激怒しているというのに。

 この男はそこまで堕ちてしまったと言うのか。

 私の元に来て、この世界を差別の無い真に平等である世界に変えようと、そう言っていた男はもう居ないのか?

 その為に私が必要だと言ってくれたあの男はもう居ないのか?

「下衆が…自分が殺してきた同胞たちの痛みを、思い知らせてやる」

 耳に当てた通信機が雑音だらけでよく聞こえない。繋がっているのか、いないのかすら判らない。

 こんな時に不具合か……!

 雑音を聞き分け聞き分けしようと耳を凝らす。少女のむせび泣く声が聞こえた。

 胸に抱き上げられた少女が恐怖に震えている。

 ごめんなさい、ごめんなさい…と泣いている。

 無駄だ。私に慈悲は無い。恨むのなら愚かなあの男を恨め。

 しかし、まだ繋がらないのか?

「如何したんや。こんな茶番、意味無いで」

 男が動き出した!

 入り口はアルフィリアが入ってきた扉以外は無い。だから其処さえ塞げば男に逃げ場は無い。

 だが入り口の位置はアルフィリアよりも男のほうが近かった。

 人質というカードを手に入れ慢心したのか、完全に地利を失念していた。

「動くな! この娘の首を掻っ切るぞ!」

 アルフィリアは急いで少女に突きつけていた短刀を首に押さえつける。アルフィリアに慈悲は無い。

 其の侭少女の首筋を切り裂い――――――。

 血飛沫が舞う。それも凄い量だ。

 幼い少女であれば確実に失血死である。

 しかし、戦士は違う。

 戦士はこの程度ではまだ死なない。

 血の海に倒れたのはアルフィリアだった。

「なっ…!? がっ……!!」

 全身を切り刻む傷口から幾つもの命のきらめきが失われる。そして命よりも大切な槍が手の中からすり抜ける。

 鍛えられているアルフィリアであるからこそまだ生きているだけだ。

 まはや戦う与力すらない。

 しかし、一体何が起こった?

 少女の首を切ろうとした瞬間、無数の何かがアルフィリアの身体を切り刻み妨害した。

 男の能力の派生か何かか?

 しかしアルフィリアはこんな類の力を男が遣った事を見たことが無い。いや、似たような力は確かに持っていたはずだが、あれは呪術で封印されてあるはずだ。

 男の右手には手袋が嵌められてある。

 あれで男は力を封じていたはず。だが、今この瞬間にも男はそれを嵌めているし、先程も取った素振りは見せていない。やはり男は何もしていないのか。

 ならば、何が―――いや、誰が?

 明確な答えは彼女自身先刻まで抱きしめていたのだが、流石の彼女もそれが原因とは気付けないでいた。

「人質の通用する相手かどうか判らんかったんか?」

 男が失望したような声を出す。

 何故だ? 如何してお前がそんな声を出す? 失望されるべきは…軽蔑されるべきはお前ではないか!

 理不尽の様であり、不条理な様でもある男の非難めいた声はアルフィリアを苛立たせた。

 ぎりり、と歯を噛み睨み上げる。痛みと出血で足は思うように動かず何度も地を蹴り、伸ばす事も出来ない腕はその先の拳を握り締めるだけだ。

 まるで産まれたばかりの馬ではないか。

 立ち上がろうと四肢に力を込めようとするが、傷口から零れる様に込めた力は失われる。さながら地を這う亡者の如くアルフィリアは男の元へと体を持って行かせようとする。

「ぐ……あぁ…」

 あと少し、あと少し…と自身を奮い立たせるが、男は嘲笑うかのように遠い位置にいる。

 首を上げる力すら失い、アルフィリアの視界には男の足しか映っていない。それが、唯一の扉の方へと向きを替える。アルフィリアの闘争心が燃え上がった。

「逃げ、るの、かぁぁああっ!」

 むかつく。むかつく。むかつく。

 あんなにも切実に自身の”夢”を男は語っていたというのに、何故その想いを覆すのか。

 図らずもそんな男の”夢”に私は同調したというのに…。

 如何して此れほどまでに私の気持ちは落ち着かないのだろうか。

 信じていた分、裏切られた時はとても痛い。彼女が怒るのも頷けるし、何より義を愛する彼女が殺意を募らせるのも無理は無い。

 ただ、一片の想いがその怒りの衝動を止めたのも事実。裏切りの理由を知りたいと言ってほんの少しだけ一緒に居たいと思ったのも事実だ。あるいは、男の裏切りが嘘であると信じて。またあるいは、男が今までの想いを思い出してくれることを信じて…。

 非常に不愉快だがアルフィリアは男の事を懸想していた。

 それこそ共に歩み同じ傷を分かち合っていなくてはならない筈の仲間からも虐げられていた自分を、唯一必要としてくれた男。その期待に応えようと、いつしか夢中になっていた。

「逃がしたくないんか? 私を。殺したいんか? 裏切り者を」

 何時の間にか、男の足がこちらに向かって歩いている。

 これは、何だ? この行動は…?

 逃げずに此方に歩いてくる。去るのではなく戻ってくる。

 それだけで、燃え上がる衝動は燻り、アルフィリアは心の何処かでホッとしていた。

 しかし、戦場を駆ける戦乙女に一時の安堵も許されてはいない。

 首筋に感じる冷たい感触は、最初に男を貫いたアルフィリアの槍の――常に死線を共にしてきたアルフィリアの為だけの、世界でたった一本の宝物の――何人もの血を啜ってきた部分である。

 男は槍を拾ってアルフィリアの首に当てていた。

 十中八九、殺されるのだとアルフィリアは直感した。

 だがしかし―――。

 カランカランと乾いた音がアルフィリアの耳に入った。

 男が槍を放ったのか、そんな気配がする。

 私は生かされたのか?

 確実に殺されると思った。コレまで何人もの同胞を屠ってきた男だ。アルフィリアを殺そうとしても不思議は無い。むしろ生かされた方が疑問が残る。騎士団の中でもとりわけ正義感が強く、騎士団の存在意義を大義と煽りその為に忠実に任務を実行する「鬼神」(アルフィリア)は、騎士団の意志に離反した男にとって確実に殺害対象となるはずなのだ。

 それなのに殺さないとは…。

 一体奴は何を考えている?

「自分が生かされる理由をよう考え」

 頭の上から男の声が降りかかった。アルフィリアは正しくそれを考えていたという事が見透かされていたのかと錯覚する。とても腹が立った。

 少しでも期待した自分にも、自分の気持ちを知っているくせにこんな仕打ちをする男にも。

 腹が立った。

 男の裏切りを確信した時もそうだった。共に皆で歩んだこの二十数年を、まるで何事も無かったかのように、水に流し、男は同じ旗印の下に集った仲間を虱潰しに殺した。

 裏切られた怒りは尋常ではなかった。

 故に――。

 故に私が殺さねばと思ったのだ。

 皆の想いへの裏切りを、私への裏切りを、そして何より過去に男自身が目指したものへの裏切りを。

 私が清算してやらねばと思ったのだ。

「じゃあ」

 男の声が酷く耳障りに聞こえる。アルフィリアは頭蓋骨をゴリゴリと擦られる様な怒りに包まれる。

 何故此処までに無力なのか。何故殺すことは疎か止める事すら出来ないのか。

 燻る想いは鎮まらぬまま何時までも不完全燃焼して付き纏っている。これを発散する術はもう残っていない。男を殺せなかった時点でアルフィリアは敗北していたのだ。

 靴の擦れる音が遠ざかっていく。

 ………。

 後に残されたのは血塗れのアルフィリアと泣きながら謝り続ける少女のみ…。

 生かされている理由など誰に知らされるでもなく分かっていた。他ならぬ男自身が言っていたではないか。この子を育ててやってくれ、と。

 たかがその為だけに生かされるとは…。

 『ミシシッピにもカラードの差別が無くなってきた。世界はもう人種で差別するような処やなくなってきてる。そやのに、私等はどうやろうか。いつまで経ってもお互いがお互いを嫌って認めず、啀み合ってる。異能同士やからこそ、そういった力の怖さをよく知ってるんや。けど、そんなんもうどうでもええんとちゃうか。力の優劣や能力の種類なんかで人を見るなんてオカシイ。自分等とちゃう奴等やからて差別すんのはオカシイ。

 一体そんな下らん思想してる奴等の所為で何人の人間が傷付いてきたと思てんねん。いい加減にそんな考え捨てなアカン。一寸位姿消せてもええやん。一寸位空飛べたってええやん。みんな同じやで。同じ人間やで。

 なあ、そう思うやろ、フィリィ。

 思うんやったら、力貸してくれへん?

 お願いや。

 君の力が必要なんや

 ―――――――――――』

 最早、私は必要とすらされていないのだろうか――――?

◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 2005年。

 7月6日。

 PM6:18。とあるレンタカーの中。

 右手だけでは収まりきらない胸の膨らみを強く握る。思わず声が漏れた。

「……あっ、ん……」

「ああ、わかったぞ、礼を言う。すまぬな、扱きを使っての。では、記録を改竄した事と儂と会話した事については全部忘れておくれ。………うむ。良かろう。では」

 ――ピッと音が鳴って、ケータイの電源を落として耳元から電話を降ろすそぶりを感じたが、無視する。

 そのままもう一度胸を揉む。ハリと弾力のある胸は握力の小さい手では少ししか形が変わらない。それでも、力の足りない部分は想像で補う。愛しい”彼”が、華奢な腕で自分を抱きしめてくる。それだけで、ほんのりと下の方が熱くなった。

「……んんっ……」

「うむ。立つ鳥跡を濁さずと言うが………しかし流石は[空]。セキュリティシステムを改竄するのに幾日も掛けてしもうた。じゃが、小僧の計画遂行までには間に合ったじゃろう。今頃過去を穿り返しても大切な事は何も得られはせんぞ」

 ――アクセルを踏み込んで、車を発進させるとひとりごちたが、やっぱり無視する。

 胸を揉む自分の手と、背後から回される”彼”の手が重なった。揉む力が少しだけ強くなり、より官能を刺激する。鳥肌が立ったときみたいに悪寒を感じ、乳首が固くしこってきたのが判った。肌とブラジャーの間に白い手を差し込んで、固くなってきたそこをなぞる様に指先で撫で回す。

「……く、うっ……」

 【―――今日は日が暮れてから雨が降ります。夜にお出かけする人は必ず傘を持って―――】

 ――車のラジオから天気予報が流れていた。でも、後部座席は無視する。

 ツンと突っ立った乳首をクイと押してみる。途端、静電気が走ったような感覚に見舞われて、上半身がビクッと跳ねた。仰け反った頭から冷や汗がもれ出る。体の中は熱いのに、空気に触れ合う肌は少し冷たい。

「おや、やはり雨が降るんじゃのう」

「うええええ。面倒ですのね」

 ――窓の外をゆっくりと景色が流れる。時々見も知らない誰かが指を指したり、変な目で見たりするが無視する。

 冷たくなって来たのは肌だけではなかった。滲み出た愛液が下着を濡らしている。腰をくねらせると、火照り始めた部位に濡れたところが重なりひんやりする。それがまた心地よい。

「ならば二手に分かれるかの?」

「二手? ……ああ! まさか手伝ってくれるのですのね?」

 ――夕日が窓を透かしてシートを赤く染める。前の二人はまだ何か言い合ってるが、とにかく無視する。

 いい感じに濡れてきたので、左手を下着の中に入れる。もちろん右手は依然胸を弄んだままだ。

「くっ………あはっ……ふぁぁぁあ!」

 人差し指と中指を同時に二本、第二関節のところまで突っ込む。突っ込んで、押し広げるように指を広げ、引っかくようにかき回す。痛みが官能を刺激して快楽を呼ぶ。想像では何度も抱かれたことがあるが、現実では一度しか抱いて貰ったことがない。そのギャップが余計に心を切なくし、体を激しくさせる。

「あぁん!……あはァ! お願いィ! もっと!……もっとォ!」

「うむ。儂は〈検索〉で小僧に近寄る。パトー君は小僧の家を物色してくれ」

 ――運転席は納得したようにそう言っていたが、本心では助手席を頼りなく思っていて、老婆心ながら助力してやろうと思っていた。ただ、そんな運転席の心情など露知らず、後部座席は無視して”再精製”を続ける。

 が。

「其れにしても、儂等の姫様は淫乱で困るのう。此れはレンタルじゃからあまり汚したくはないんじゃが…」

 遂に運転席が後部座席に話しかけてきた。ちょうど信号待ちで自動車を止めてから、翁の面を被った顔を後ろに向ける。

 後部座席は無視しようと思ったが、「儂等の姫様」と言うフレーズが癇に障って、萎えてしまった。彼女は目前の男はもとより、”彼”以外の全てのモノが嫌いなので、冗談だとしてもコイツ等のお姫様(プリンセス)などと謳われて腹が立ったのである。

「最悪。気分を害したわ。第一、好きな所でしたい事をして何が悪いというの?」

 顔に掛かった長い黒髪を払って、文句を言い立てる。

「嫌々、其れは我侭と言うて―――」

「それに何? コレ? 振れるし、臭うし、空気悪いし。外は単調な景色が続いて、色気が無いし。あんな高い建造物要らないわ、消しましょう」

「御主は何時から其の様な破壊の権化になっ―――」

「全く。下らない世の中に成ったものね。道は不必要なまでに平らで硬いし。空気も土も水も濁りまくって。吐き気がするわ。コレがあの女が必死に守ろうとした世界なの? ……ああ、くそ忌々しい」

「おーい。戻ってこんかー」

「五月蝿いわ。元はと言えば、貴方が再構築の邪魔をするから悪いの。……まあ良いわ。もう出来たから」

 んふ……―――と鼻に掛かる甘い声を漏らしたかと思うと、後部座席は下着の中から赤い宝石のペンダントを取り出した。愛液でグチャグチャと濡れていて、色々な所で糸を引いては垂れ落ちている。なんとも卑猥な代物だ。

「ハイ。これ、あげるわ。あの方に会ったら渡して。私からの愛のプレゼントだと―――あっ、駄目ね。止めておきましょう。少し古臭いわ。やっぱり何も言わないでおいて。そっちの方がミステリアスだから」

 助手席がペンダントを受け取ると、はて?―――と首を傾げた。

「何ですのね? これは」

「『ツォハル』って言うの。あの人が創ったのよ」

「どんな付加能力があるですのね?」

「あら、其れを知って如何するの? 貴方は登録されてないから遣えないわよ。だって此れを創ったのはあの人だから…」

 後部座席は素敵なものを見ているかのように恍惚とした表情で語った。

「ああ……ツォハル? ……賢者の石?」

「あら。そんなのじゃないわ、これは錬具だもの。錬具に賢者の石は含まれないのよ」

「しかし、共に錬金術師が創った物ではですのね?」

「錬具は一つの結果。賢者の石は其れに至るまでの過程の一つじゃ、第三法とも言うの」

「………紛らわしい名前ですのね」

 助手席はペンダントを掲げて、唸った。

「あら、そう? 私は素晴らしい名前だと思うわ。だってあの方が初めて創ったのがコレだもの。いわば初志の塊と言ってもいいわ。それに『一つの過程』(ツォハル)と名付けるなんて………謙虚で…ちゃんと自分のことを理解してると思わない?」

「…コンメントは控えさせて頂きますのね」

「左に同じじゃ。じゃが敢えて言うならば、自己を充分に理解している人間は居ないという事じゃ」

 運転席は困ったように頭を垂らした。普段はぶつくさと文句を並び立てるくせに、”彼”が話題に上ると直ぐ饒舌になる。運転席は、後部座席の一途さにとてもうんざりしていた。

 だからさり気無く話題を変えようとする。

「そもそも理解するという事は―――――」

「ああでも如何しましょう。こんなに近くに来るのは久しぶりだわ。……会いに行こうかしら。うん、会いに行きましょう。………ああ、でも何を着ていこうかしら。成る丈、綺麗にして置かないと。もし嫌われたりなんかしたら凄く悲しいわ―――」

「……………」

 最早完全に恋する乙女と成ってしまった後部座席に運転席は頭を抱えた。

(会話が成り立たんのう……しかし)

「まあ、機嫌が直ったと言う事で良しとするかの…」

 ふと道路標識を見上げると、「鶫市―――1km」と書かれてある。

 ――久しぶりの帰郷に伴いノスタルジーが心を掠めるが、運転席は甘んじてそれを無視した。

≪1≫

 7月6日。

 PM7:30。木内邸。

「つまりだな。このDESってのは流産の予防薬としては、一九三八年当時、“奇跡の薬物”と謳われるぐらい画期的な処方薬だったわけでね。多くの妊婦たちに投与されたわけよ。でも、その約三十年後、一九六六年から一九六九年ごろにかけて、薬を投与された被験者の妊婦たちの子供たち―――え~と、一五から二〇代前半の女性たち―――に似通った症例が確認された、んだって。その症例は膣の明細胞腺がん? なんのこっちゃ。え~と、この膣ガンは三〇歳以下の症例は、世界でもわずかに四件と少ない症例でね。なんでそんな珍しい症例が被験者の子供たちに多く見られるようになったんだ? ってのが、問題だね………わかった?」

 恋弥は、三十行は在る昨年度の生物の期末試験の大問の一つを自分なりに要約して、癒亜に聞かせた。

 これは、癒亜にコッチの学校の試験の傾向を知ってもらおうという、彼女が無事に学院に編入できるよう発足された臨時勉強会の記念すべき一回目のカリキュラムの一貫だ。

 講師は恋弥のひとり。意外なことだが、学年三位の学力の持ち主らしい。

 ちなみにこの試験の出所は、恋弥の所属する音楽部の先輩からである。すでに卒業している先輩から、わざわざ恋弥が頼んで貰って来たらしい。それもこれも愛する癒亜のため、延いては今夜の勉強会のためなのである。

 しかし肝心の癒亜はというと、恋弥の要約しすぎで要領の得ない問いにチンプンカンプンといった御様子。

 ちょっとわかんないかな、と困った顔で言った。

 恋弥の頑張りが空振りに終わった瞬間である。

「そいつぁ問題の提示が悪いぜ、御主人(ジュニア)!」

 と、卓の端に追いやられていた石彫りのフクロウがけたたましい声で騒ぎ始めた。

「そこは『DESは女性ホルモンに類似の物質である』って文章をそうにゅーしねえと問題が成り立たねぇんだよ! ハッ! こんなノミみたいなミニマムな頭の持ち主がアヤの息子だなんて信じら―――れゴワッ?!」

「五月蝿い糞梟。久しぶりにお嬢の顔が見たいとかほざいてたからわざわざ連れて来てやったのにどうやら本心では俺に翼を?ぎ取られたいらしいなっ」

「わっ! バカっ、御主人っ! ストップ! ストップ! ウェイト! 待て、お座りっ!」

「う・る・さ・いっ」

「てっおぉい! やめっ、マジやめ! ?げる?げる! 俺っちのキュートでクールでクレイジーな3Cのうつくシィー羽が?げーーーーーっっる!!」

 大きさは十センチくらい、翼を広げれば五十センチはある石のフクロウ――マフディーを、恋弥は両翼をそれぞれ持って力いっぱい引っ張る。それに反応してマフディーが悲鳴を上げる。小学校の時でも日常茶飯事にやっていた漫才だった。

「もう、止めてあげたら? わたしの勉強見に来てくれたんでしょ?」

 癒亜は苦笑を漏らしつつ、哀れなフクロウに助け舟を出した。

「おお! お嬢!! ナイスなフォローをアリガトウ! おい聞いたか御主人! お前はお嬢の勉強を見に来てやったんだと! 気付いてたか?」

「クッ……いちいち癇に障るなぁ。まあ、いい。今回は癒亜に免じて特別に許してやるよ………極刑だけはな」

 そう言って、恋弥はマフディーを解放してやった。マフディーは、こんな危ない奴の近くになんか入れるか、と言わんばかりに、引っ張られたばかりで痛む翼をはためかし、癒亜の頭の上に避難する。

「マフディー、お願いだから黙っててね。わたし、ヤル気だから」

 安全地帯に逃げ込んで、早速ご主人様いびりを始めようとしていたマフディーに、癒亜は先手を打つように釘を刺した。

 むぐぐ―――、とフクロウは唸って、それきり口を噤む。ご主人様には高圧的なマフディーでも、癒亜の言う事は素直に聞くのである。と言っても、その高圧的な態度は真にご主人様に心を許しているからこそなのだが。

 マフディーが黙り込んだ事を確認した恋弥は、パンパンと手を叩いて言った。

「さて、じゃ気を取り直して勉強会を再開しようか。えっと………1996年に羊の実験で成功した事が有名。単一の細胞または――――」

 それからニ時間後。

「ああ違う。それは『アメリカ独立宣言』が答え。フランス人権宣言は違う」

「えぇええ!? ちがうの!?」

「うん。独立宣言の方は『われわれは、ごく当然の心理としてすべての人間は平等に造られ~…』って所に着目するんやけど。人権宣言の方は前文と十七ヶ条なってるの。けど、こーゆう選択問題じゃ前文は普通書かれないからね。権利の章典が解ってるんなら。独立は平等に造られる、人権は箇条書きで書かれる。って覚えたら良いと思う。つーか、第十一条出てきたら人権宣言だよ、普通」

「………へ、へぇ~……」

「まあ一応、権利の章典は第一条も第二条も権利、権利って書かれてる事は解っておいてね。度忘れするから」

「う……うぅ…」

 教科は変わって、二人は歴史を勉強していた。というか恋弥、それはお前等の歳しか通用しない覚え方だぞ。

 わかんないよお、もお――と言って癒亜はほっぺを膨らませて卓の上に顎を乗せた。上目遣いで睨みつけてくる、何がそんなに恨めしいのやら。ははっ、でもホントに癒亜はかわいいなあ。

「ちょっと休憩する?」

 同じように卓の上に頬を乗せて恋弥が聞いた。勉強会はあれから二時間。集中力が持続しない癒亜にとっては頑張った方だろう。

「むむ……、もうわたしがバテたと思ってるの? 大丈夫、まだまだいける」

「顔が火照ってる状態で言っても、説得力がな~。もう頭ン中パンクしてんだろ」

 今回のテストは転入試験も兼ねている事もあり、俄然癒亜はヤル気だ。まあ、何しろこの試験で赤点取ったら即留年決定らしいからな。そりゃ頑張るわ。

 でも、恋弥は癒亜に休憩を勧めた。何事も遣り過ぎは体に障るし、それに、しつこい様だが癒亜には集中力を持続させる力が足りないのだ。これ以上やってもあまり効果は期待できない。

「よしっ! 休憩や休憩。とりあえず十時まで休憩」

「ンギャ?!」

 恋弥は半ば強引に締めて、癒亜の頭の上で安心していたマフディーを引っ掴む。

「フムゴッ?!」

 そしてそのまま、卓の上に置いてあった勉強道具をマフディーの口に突っ込み始めた。ふごふごと石の翼をはためかせて抵抗した後、マフディーは白い目(?)を剥いて口から泡をぶくぶくと吐く。勿論、筆箱やらノートやらの勉強道具は彼(?)の腹の中である。猟奇的にも見えるが、マフディーがコメディ要員である事を癒亜はちゃんと理解しているので、御愁傷様と言って苦笑した。

 恋弥は時間を確認しようと思って、いつも時計が置いてある場所に目をやった(恋弥は癒亜の家には何度も遊びに来た事があるから家具の位置は大体把握している)が、時計は見当たらなかった。仕様が無いから自分の左手首に付けてある腕時計を見る。九時三十四分。つまり、二十六分の休憩タイムとなる。少し多いかもしれないが、まあ良いだろう。

「ねえ、時計は?」

 恋弥が明け透けに聞いた。癒亜は、ん? ――と言って卓から顔を上げる。

「腕時計だけで充分かなあ――って思って持って来なかったよ。荷物は少ないほうが楽だし」

 ああ――と恋弥は頷いた。そう思えば、あの時彼女はボストンバッグ一つでの帰郷だった。恋弥も担いだから判るが、かなりパンパンだった様な気がする。

 必死に荷物をバッグに詰め込む癒亜の姿が容易に想像できた。持ち運ぶ物があのバッグだけで済むように、沢山の物を向こうに置いていったんだろう。彼女の事だからきっと、宅配便を使おうという発想は無かったはずだ。

「あれ? じゃ、箪笥とかは? どやって持ってきたの?」

 不意に浮かんだ疑問が思わず口から出てきてしまった。

「…………えっとぉ。家の物には一度も手を付けてないの」

 言い難そうに癒亜が言う。しまった――と恋弥は思った。

 愁慈が所在知れずになって、癒亜は直ぐに親戚の家に引き取られた。それこそ恋弥も追い着けない位、直ぐに。だから彼女―――そして、親戚の奴等にも家具を移動させる時間は無かったのだ。箪笥なんて大きい物を持っていく事が出来るわけ無い。

 それに上乗せして、もう一つ考えられる理由がある。それは、癒亜自身だ。当時の彼女の思考回路を想像すれば、きっと父親は直ぐに戻ってくると思ったに違いない。留守になっている家に愁慈が帰ってきて、一人娘がいなく、その上家の中がすっからかんならショックを受けるだろう。幼い癒亜はそう考慮して、家具を向こうに持っていく事を拒否したんじゃないだろうか。

 …考えすぎだな――と恋弥は思った。別に如何ってことない事なのに、何故か深く考えてしまう。

 今の事だって、普通に考えれば、親戚の家にも家具はあるのだからわざわざ癒亜の家から持って行く必要は無かったんだな――ぐらいの答えで充分なのに、余計な事まで考えてしまった。

 あまり気にしないでいたつもりだったが、逃げられた事を未だに根に持っているのかもしれない。癒亜の一挙手一投足に、ツッコミとは別にいちいち難癖を付けようとする自分がたまに居る。

 そもそも、彼女の言動にそれ相応の理由を導こうとすること自体馬鹿らしい。

 だって昔は、癒亜は何を考えてるのか判らない天然少女だったわけで、恋弥が癒亜を振り回したのと同じくらい、彼女も恋弥を振り回していた。何も考えない方が彼女の行動を把握するのにちょうど良いのだ。

 だとしても今の言動は迂闊だったかもしれない。

 手を付けずに汚れてしまった家具が、彼女に二年間という空白を否応無しに感得させたのでは?

 あの優しい父親が二年も自分をほったらかしにしている事実を改めて認識させてしまったのでは?

 そもそも父親っ子であった癒亜がこの状況が平気なわけないじゃないか。

「じゃあ、色々とヤバイんじゃない? 二年も放置してたんなら、埃が溜まってたり、カビが生えてたりして使い物にならなくなってるモンとかあるでしょ」

 恋弥の言葉に癒亜は、うん――と頷いた。

「昨日、ご飯作ろうとしたら食器棚にくもの巣が張り付いてて使えなかった……。それに、タンスに入れてた服も虫に食われた後があってショックだったよ」

 恋弥は、食料も無いのに(今日、冷蔵庫の中が空だと癒亜が言ったので一緒にスーパーに寄った)メシ作ろうとしてたんか――とか、二年前に入れてた服を着ようしてたんかい――とか無粋なことは言わない。ただ、そっか――と気の無い返事をしただけだ。

 会話が途切れた。

「……………」

「……………」

 何も言うべき言葉が見つからない。言いたい事は昨日の内に洗いざらいぶちまけてしまったせいだろう。

 何故か気まずい雰囲気になってしまった。何か喋って欲しいと彼女を見たが、卓を見ながら俯いている。重苦しい空気に圧迫され戸惑ってるようにも見えた。

 時間を見ると、まだ九時三十六分。やはり、休憩時間は多すぎたようだ。

 ―――父親の居ない家で一夜を明かした彼女の心境はどんなものだったのだろうか。

 国語の問題集のような問いが頭を悩ます。

 二年間手付かずの状態で変わり果ててしまったこの家は、きっと彼女に懐かしい思い出を喚起させる。父親と共に住んでいたこの場所は、今、彼女を独りにする。

 苦しいのか、悲しいのかは判らない。

 でも嬉しくはない。きっと、いや絶対そうだ。

 ―――じゃあ俺は彼女に何をしてやれる。

 今度は、答えが解りきった問いだった。

 何度も何度も自問して、自答してきた問いだった。

 俺が彼女にしてやれる事。俺が彼女に求む事。彼女が俺に求める事。

 彼女の心があの頃と変わっていないのなら、答えは一つしかないだろう…。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆

「高原クン、なんでいっつも一人ぼっちなン?」

 それは恋弥が初めて癒亜に掛けられた言葉だった。

 そして当時、その言葉に恋弥が返したのは摂氏-273.15度の絶対零度の視線だった。

 喋り方が、気に食わなかった。

「うっ、そんな目で見んといてよ…」

 小学三年の春だったと記憶している。

 彼女がうろたえている姿も、まぶたを瞑れば直ぐに浮かんでくる位だ。

 思えばあの頃、恋弥は随分と捻くれていたものだった。

 仕方がない。唯一信じていた人に裏切られたのだから。

 如何してそう思うんだ、と視線だけで問うと、ビクつきながらも癒亜は答えてくれた。

「だって、わたし……いつも高原クンのこと見てたから…」

 ここでさらに視線の温度を下げた。

 話し掛けてきた段階で『お節介な奴』と認識されていたのが、『ウザイ奴』に格下げされたのだ。

 周囲のざわめきが無くなったのもココからだ。

 総ての分子が活動を止める絶対零度の視線がさらに冷たさを増した事により、場の雰囲気が凍ってしまった。

 クラス中の皆が彼女のほぼ一方通行な会話に耳を傾けていた。

「高原クンは、ガッコウきらいなン?」

 恋弥は学校でイジめられていた訳ではなかった。

 ただ単に一人で居たかっただけだった。

 そうする事で、自分を慰めたかっただけだった。

 彼女の居ない世界と付き合う気なんてさらさら無かった。

 もう二度とあんな気持ちになりたくは無かった。

 だから一人で居たかった。

「どうして、ガッコウ来ンの?」

 なら、何故。

 一人で居たいだけなら、学校に来る必要は無い。

 自室に篭って、鍵を閉めて、サリーとフィオを追い出してしまえばそれで良い筈だ。

 なら、何故。どうしてこんな所に来るんだろう。

 当然の疑問だろうが恋弥にしてみれば至極簡単な理由。

 唯一絶対に信じられる人からの助言だ。

 学校に行け、というのは。

「ガッコウ、つまらんの?」

 でも、当時は、恋弥は捻くれていたから何事にも積極的ではなかった。

 彼女の問いに態々答えるのも億劫だ。

 癒亜から視線を逸らして、また一人の世界に入っていった。

「高原クンは、わたしと話してても、面白ない?」

 とても、悲しそうな声だった。

 恋弥は両頬を手で包まれて、無理やり顔を振り向かされた。

「……ああ」

 恋弥が肯定の意を唱えると、癒亜はショックを受けたように顔を赤くゆがませた。

 その様を見ても、恋弥は何も思わなかった。

 だって、当時の恋弥にとって、癒亜は自分の世界に入り込んで来たお邪魔虫でしかなかったから。

 だから、例え彼女を泣かせても、構わないと思った。

 ココで泣く位なら、いっそ自分と同じところまで引きずり落としてやろうかとまで考えた。

 けど、やめた。

 態々彼女に付き合ってやる義理など無い。ましてや、そんな労力を割く気にもならない。

 心の底から本当にむかついていた。

「…うざい」

 彼女が泣き出した。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆

(…………………あのあと担任にハリセンで叩かれたな)

 ”あの頃”の事を考えていたら、最低だった自分を思い出してしまった。

(………)

 けど。

 過去を悔やんでもしょうがない。

 彼女を泣かした事の贖罪はもとより、アレから何年も付き合っていた中で判った彼女が欲するものの為にも。

 彼女を幸せにしてやりたい。彼女の心を楽しい思い出でいっぱいにしてやりたい。

 ”今”しかできないことをしてやりたい。

「一緒に買い物しようか?」

「……え?」

 急に変な提案をされて、癒亜は吃驚したようだ。目が点になっている。

「使えない物や道具を買い換えるんだ。今日みたいに埃だらけの皿を一生懸命洗って遣うのも馬鹿らしいだろ? ……そうだ! 掃除もしよう。どうせ癒亜のことだからちゃんとしてないだろうし。うん、そうだ。しよう。掃除も」

「……へ?」

「大丈夫! ちゃんと試験が終わってからにするからね。まずは大掃除。そしてショッピング♪ そうそう、服も買いに行こうな。虫に食われてもう着れないんだろう?」

「うっ、うん」

 勢いに乗せられ、癒亜は思わず首を縦に振った。

「よっしゃ、決まり! 指切り、拳万、うそ付いたら針千本の~ます♪ っと」

 恋弥が癒亜の細くて白い指と、自分の小指を引っ掛けて、言う。

「ゆ~びきった!!」

≪2≫

 7月6日。

 PM9:01。

 ピー

「あ! 風呂沸いたみたいだな」

 部屋に鳴り響く機械音に恋弥はシャーペンの動きを止めて呟いた。癒亜はというと、五時間も勉強していた所為か(勿論、食事も休憩も含まれている)完全にダウンしている。

 うん。相変わらず頭を使うのは苦手らしい。

 しかし、今日の分のやるべき事はちゃんと終わった。判断対象となるのは主教科十一科目だから良かった。これで副教科も対象だったらぶっちゃけ時間が足りない。どうにかこうにか彼女の学力がどの程度なのか把握できたのだから今日はよしとするのだ。

 そう、よしとするべきなのだ。今、彼女が解いた去年の試験問題の点数が明らかに及第点は貰えねえという悪魔君が耳元で「こりゃもう駄目だあきらめな」なんてふざけるのも大概にしやがれと突っ込みたくなるぐらいの囁きが聞こえてきそうな現実など直視するべきではないのだ。

「先ン入っても良い?」

 んしょ、と恋弥は卓から体を離した。

 いつの間に沸かしたんだろうか、と当然癒亜は疑問に思う。しかし、「別にいいや」と直ぐ考えるのを止めてしまう。瞬間移動も朝飯前な彼にはきっと出来ない事など無いのだろうと、その場限りの理屈で納得する。

「うん。いいよ」

 反射的に答える。別に自分から先に入る必要性も無し。うん、どうぞどうぞ。お先にどうぞ。

「んじゃ、おさきー」

 恋弥が下に降りていった。

 あれ? と再び疑問に思う癒亜。

 というか先に気付くべきなのだが。何時お風呂を沸かしたとかそういう以前の問題に、何故お風呂を沸かすんですか? と癒亜は気になって仕方がない。

 何故いちいちウチの風呂で身体洗うんですか?

 すでに下に降りてしまった恋弥に心の中で問いかける。もちろん答えなど判らない。

 だから自分で考えてみる。

 はたして恋弥が今までウチのお風呂を使ったことがあっただろうか。いや、ない!

 などと反語で締めくくってみるが良く考えてみるとあったではないか! けっこう複数回。

 そうだ。お泊り会なぞをする時はいつも当たり前のように愁慈に勧められて一緒にお風呂に入ったり寝たりしていたではないか。一・緒・に!

 という事はどういう事だろうか。

 今、この状況はやはりそういう事なのか!

(それってつまり、きょうはウチに泊まるってこと!?)

「え、えぇーー!」

 ダンダン、ダン! ガラッ

 階段を駆け上って引き戸を開ける音。しまった、声が大き過ぎたか?

「どうした!? 大丈夫か!?」

「ひぁ!? だ、大丈夫大丈夫ッ」

「でもスッゲェ素頓狂な声したぞ」

「げ、幻聴だよ。耳鼻科行った方がいいよ」

「そんな事ないぞ。癒亜の声を聞き間違える筈無い」

「そ、そんなことよりお風呂に入るってどぉいうこと?」

 恐る恐る聞いてみる。

 うんうん、そうだ。馬鹿の(下手の)考え休むに似たり。

 ここは本人に聞くのが一番。

「えっ? ちょっ? えっ? 言うの? 言わなきゃ駄目?」

 よくはわからないが恋弥が狼狽している。

 まさか本当にお泊まり……!?

「うん! 知りたい!」

「え、えっとー。なんて言うか、こう、ふわっと良い気持ちになるって言うか。快感って言うか」

 て、ちっがーう!

 何が快感だバカヤロー!

「ち、ちがうよ! なんでお風呂に入るのって聞いてるの!」

「えっ? あっ! 御免、先に入りたかった?」

 だから、ちっがーう!

 何処までもマヌケで鈍感な恋弥に癒亜はちょっとだけ奮然とした想いを感じた。

「あのね、どうしてお風呂に入るのって聞いてるの」

「あぁー、そういう事ね。えっとね。風呂に入らないと不衛生できちゃないんだよ。だから風呂に」

 ちがーうぅ!

 どうやらお風呂に入るとは何たるかを語り始めかける恋弥を早々に黙らせる。

 なんでわからないのだろうか。癒亜はだんだん違うベクトルの人間と話しているような気がしてきた。

「だから。えっと。恋弥がお風呂に入るってことはイコールきょうウチに泊まるってことだよね!」

 言っちゃったよ、最後まで。もう、女の子に全部言わせるなんて! もう!

「ん? ああ、それも面白そうだけど今日は勘弁。まあまた昔みたいにやりたいね、それ」

 …………。

 つまりわたしだけが勝手に盛り上がっていたということなのね。がーん。

 だ、だってだって、そらぁお泊まり会だってしたことはあるけど、それは小学校の時の話だし、今なんかもうそんな子供じゃないんだし、とゆうか恋弥はわたしのこと彼女だと思っててわたしも恋弥のこと好きなんだしだから相思相愛なんだからそういうことがあってもおかしいわけじゃないわけだし、だからドキドキするのは当たり前というかなんというか…。

「じゃ、俺が先に入らしてもらっても良いんだな」

 恋弥は今度こそ下に降りていった。

 がらがら、と引き戸が閉まる音がしたのでもう脱衣室に入ったろう。

 ………。静かだな。

 とか思っていたら、バシャーンと水が流れる音が聞こえてきた。

 脱ぐのが早いなあ。

 あれ?

 泊まらないんだったら何でお風呂に入るんだろ?

 うーん。わかんないや。

 なんでだろう…。

 ……。

 ………。

 …………。

 べしっ。

「はごっ」

「風呂入る前に寝るな。不衛生だ」

 風呂から出てきた恋弥に癒亜はでこピンを食らわされる。

 何たる事だ。考え事をしていて寝てしまうなんて。

 あああ…。しかも「はごっ」とは何だ。「はごっ」て。

「よだれ出てる」

「ああああああああ! もう!」

 なんでそんな目敏いんですか、あなたは。と癒亜は心の中だけで突っ込みを入れる。

「お風呂に入らせていただきますぅ!」

 言葉遣いが若干おかしいが気にしない。気分は夫婦喧嘩をした後の奥さんだ。実家に帰らせていただきます、みたいな。

「どうぞどうぞ」

 あぁもう、どうしてこの人はいつもいつもわたしを振り回すのか。

 …あ。逆か。昔から振り回しているのはわたしか。

 でも、今は振り回されている感じがどうも拭えない。実際振り回されてるのかしら。

 だとしたらやっぱり、もう昔とは違うってことなのかなぁ…。

≪3≫

 7月6日。

 PM9:14。

「いつにも増して奇妙奇天烈なテンション。……もしやと思うが、勉強のし過ぎでオーバードライブか?」

 癒亜が下に降りたのを確認して恋弥はひとりごちた。いや、”ひとりごちた”というのは少々語弊があるかもしれない。恋弥自身は独り言を喋ったという自覚はなく、あくまで隣にいるはずのツッコミ兼ヤラレ役の梟に向かって言ったつもりだったのだ。

 いつものあの梟の性格からして、「ヒデェこと言ったんなよ!!」的な事をのたまって文字通りの石頭ヘッドバットを喰らわすだろうと踏んでいたのである。そして自分は気まぐれにそれを避けてやろうと考えていたのだ。

 だが、結局のところその様なアプローチは行われず、恋弥は”ひとりごつ”羽目になったのである。

 不思議に思い傍らを見ると、何のことはない、いまだ置物は泡を吹いて気を失っていたのだ。アレからまた一層静かになったと思ったのは気のせいではなかったわけだ。

「せいっ」

「オゴッ!?」

「ぐぁっ!?」

 なんだかムカついてきたので、恋弥はマフディの腹に正拳突きを食らわした。衝撃で覚醒したマフディーだが、石を殴った反動で右手を負傷した恋弥は痛みに耐えかねて悶え狂っている。

「お、おぉ……ぉぉ…」

「何がしたかったんだっ!?」

 心の底からそう思ったマフディーは包み隠さずツッコんだ。

「が、ぁあっ!! 糞ぅ! 何でこんなに痛いんだ? 世の中不公平じゃないか! 高だか石ころ一つ殴っただけなのに!!」

「バッ、バカだ! バカがココに居るっ!?」

 ぬぉおお…と悶える事きっかり五秒。恋弥はすぐさま回復して「それはそうと…」とマフディーに話し掛けた。石彫りの梟はというと、主人の毎度の事ながらと言える変わり身の早さに、本当は演技だったのではないかと呆れてしまっている。

「頼みたい事があるのだよ、ワトソンぐっ!?」

「ダレがっ! ワトソンだっ!」

 思わせぶりに話し掛けてくる恋弥に自慢の石頭を食らわせて、先程のはやはり演技だったのだなと心中納得した。

「ああ、痛い痛い」

「イタいのまちがえだろ!」

「はいはいわかった俺はシリアスに真面目るのが苦手なんだよ」

 恋弥の言い方に、マフディーは首を傾げ――もとい首を回した。今の物言いではまるで、これから喋る事が深刻な事情のようではないか。今までの勉強会で何かその様な事態になるようなことが起こったのだろうか。途中から気絶してしまったマフディーはそれを知る事が出来ない。

 というか、「真面目る」を一瞬誤植かと思ってしまった。会話文だからといってテキトーな日本語を使うという神経はいただけない。マフディーは改めて、この底の知れない主人を更正させようと思うのだった。

「気のせいなら別にいいんだが…」

「早く言え!」

「いやね…」と前置きをして、恋弥はチョイチョイと、マフディーに近くに寄れという合図を出した。ここには自分と目の前の相手しか居ないというのにどういう事だろう。或いは他に、第三者が介入しているというのだろうか。

 合図の通り近寄ってきた梟に、恋弥は静かにゆっくりと口を開いた。なるべく深刻そうに見えるように。

「少し見回りをしてもらいたいんだ。町の、というかこの家周辺の―――」

 …………。

 …………。

 …………。

「あふ……」

 おぼつかない足取りでぺたぺたと部屋に入ってきたのは癒亜だ。瞼が開いたり閉まったりと微妙な位置を行ったり来たりしているが、手でごしごしと擦る気力もないらしくダランと腕を放り出している。

 だからと言うか何と言うか、彼女はパジャマに着替えてはいるが、ワイシャツのまん前のボタンを外して胸をはだけているというかなり挑発的なファッションをしているわけだ。

 寝る前に一問一答でもさせて暗記物を少しでも覚えさせようと画策していた恋弥にはこれはかなりの痛手だった。

 そう。すっかり彼は忘れていたのだ。目の前の彼女が”風呂に入ったらソッコー寝る”という、のB太も仰天のビックリ体質だったという事を!

 と、書けば少しは特別な体質なのかと思わせることが出来るのだろうが、何のことはない。お風呂に入って其の侭眠るという行為は小学生の八割が取っている。詰まる所、少々侮辱的な表現になるが、癒亜は小学生と同レベルという事になるのだ。

「うー…」

 奇妙な掛け声と共に癒亜は座布団の上に崩れ落ちた。常人ならこの衝撃で目がパッチリと覚めるのだが、当然の事に、癒亜は座布団に頬擦りをしてうにゅ~と丸くなっている。

 ぅあ~…とため息をついた恋弥は、一問一答は諦めて、癒亜を起こすためにユサユサと揺すった。 勿論、寝るべきところに寝さす為である。

「そんなことしてたら、肌荒れるぞ」

 いや、普通そこは「そんな所で寝たら風邪引くぞ」と言うところだろう。

 恋弥が猶も揺するが、癒亜は一向に動じない。

「ほら、寝室行こ」

「ぬ~…」

「だあ~…」

「ん~…」

「ぶう~…」

「………こ」

「ん?」

「だっこ」

「はいはいわかった。だっこね、だっこ」

 いったい二人の間にどのような意思疎通が成されたのかはわからないが、とりあえず恋弥が抱っこで癒亜を寝室に運んでいくという折衷策が出来上がった。

 腰を屈めて恋弥は両手を差し出す形を取る。癒亜は「ん~」と掛け声を出して彼の手と手の間に身体を突っ込ませた。両手を首に絡めて、両足を腰に引っ掛ける。断言しよう、乙女らしさの欠片も感じられない抱っこだった。恋弥が遊園地で寝てしまった我が子を抱っこしている父親に見えてしまう。

 腰を伸ばして立ち上がった恋弥は、一度身体を揺すってしっかりと抱きしめた。詳しい描写を書くとするなら、左手をお尻に添えて右手を腰に回している。標準よりも大きい胸が彼の胸板に押し付けられていた。締める事を忘れていたボタンが、パジャマの生地に隙間を与えて其処から白い谷間が姿を現していた。恋弥は一瞬それを直視し、顔を赤らめて目を閉じた。

 昨夜のことを思い出してしまった。勢いに任せて彼女を犯したこと。

 あれがとても悪い事だとは判っている。しかし、今から自分がすることを考えれば、アレくらい出来なければ困るのだ。あれ位の事で罪悪感を感じていてはいけない。心の中で恋弥は繰り返した。

 だが、昨日の様なことは恐らくもうしない。自分からは決してしない。自分は彼女の為になる事しかもうしない。彼女の望む事しか絶対しない。だから万が一彼女がそう望んだのなら自分は応えるだろう。

 が、自分からは決して望みはしない。

 旨いことそう結論付けて、恋弥は寝室のある奥の部屋へと歩き出した。

 開いた目に癒亜の姿は映っていなかった。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 ベッドに横たえてやると、直ぐに癒亜の寝息が聞こえ始めた。帰ろうかと思ったが、まだマフディーが戻ってきていない。恋弥はもう少し彼女の寝顔を愉しむことにした。

≪4≫

 逆上がりをした時のような浮遊感の後、意識が暗転する。

 ぐるりぐるりと回って回って、一番奥へと堕ちていく。

 ―――――…

 ―――――ポロン

 闇の中に立つ。

 光も届かない闇だ。

 一人ぼっちの闇だ。

 ―――――……

 ―――――ポロン、ポロン

 それでも音だけが聞こえる。

 悲しそうな音色が聞こえる。

 誰かが泣いている―――?

 わたし以外の誰かが―――?

 誰―――?

 パパ―――?

 音に向かって歩き出す。

 音に誘われて潜り抜ける。

 一人ではないと信じて。

 闇の向こうも闇だった。

 でも音は大きくなってきている。確実に近づいている。

 でも闇が濃くなっている。恐がる心が大きくなる。

 臭いがしてきた。

 血なまぐさい臭いが。

 誰なの―――?

 何をしているの―――?

 こわいよぉ…パパ―――

 しかし居ない。誰も居ない。

 父は消えた。わたしは逃げた。

 わたしは一人ぼっちだ。

 誰も居ないこの暗闇で一人ぼっちなんだ。

 おねがい…返事をして―――

 誰も居ないの―――?

 闇の中から扉が浮き出る。

 音がココから漏れ出ている。

 よかった。助かる。わたしは一人じゃないんだ。

 扉に向かって歩き出す。

 音に誘われて開け放つ。

 一人ではないと信じて。

 闇が消える。

 光に変わる。

 そして。

 そして眼の前に惨劇が映る。

 ―――…

 ―――ポロン

 無機質な”白”。

 気味の悪い”赤”。

 音を奏でる”黒”。

 蠢く少年。

 いや―――

 いやだ―――

 ”こんなの”といっしょはいやだ―――

 誰か助け…―――

「………ん……」

 いや、話し掛けないで…―――

「…………さん……」

「……かあさん…………」

 ―――!

 ちがう―――!

 わたしに話し掛けているんじゃない―――

 あの血溜りに話しているんだ―――

 血塗れの少年は呼びかけ続ける。

 ”白”に置かれた血の塊に語り続ける。

 いったい何―――?

 あの血溜りは―――?

 まさか…―――

「かぁさん………かあさん…………」

 あれが…”かあさん”―――?

 ―――――…

 ―――――ポロン

 音色が流れる。ピアノの音だ。

 嗚咽が漏れる。あの子の声だ。

 そうか―――

 あの子もわたしと同じなんだ―――

 一人ぼっちなんだ―――

 気付けば腕に温もりを感じる。

 あの子が胸の中にいる。

 わたしが抱きしめたんだ。

 嫌がる素振りも見せずに少年は抱きしめられる。

「一人じゃないよ」

 少年に話す。

 自分自身に話す。

 温もりを感じる。思い出してきた。わたしは一人じゃないんだ。

「だいじょうぶだよ。一人でもだいじょうぶだよ。一人でもさみしくないよ」

 わたしは一人じゃない。

 ずっとわたしを思っていてくれた人が居るから。

 だからわたしは一人じゃない。

 だからこの子も一人じゃない。

 きっとこの子を思っていてくれる人が居るから。

「たとえ今一人でもどこかで自分のことを思っていてくれる人がいるんだよ。だから一人じゃないんだよ」

 少年の口が開いた。

「そんなの只の幻覚だよ」

 嫌な予感がする。

 何か大切なものを失ってしまう予感がする。

 けどきっと、それこそが幻覚。

 わたしはわたしの信じる道を行こう。

 ―――――…ポロン

◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 ????年。

 ?月?日。

 ??時??分??秒。

 [空]…禁書禁術録『れら~わん』。

 男は一人で本を読んでいる。

 其処はまるで映画の中の宮殿のような所だった。

 見渡す限りの床と天井。それに天井を支える石積みの円柱。

 高さ十メートルだろうか。吹き抜けと言ってもいい其の空間には、だが風は吹いていなかった。

 [空](アカシック・レコード)……。宇宙誕生以来の全ての過去・現在・未来に関する情報が詰まっているという精神世界、集合意識の中にあるデータパンクである。自らを個と認識せず、個と他とを密接にリンクさせ、世界の全てを批判せず認める事によって其処へ到達する。相当レベルの高い予見者か、或いは其れと同等の力を持つ異能者しか行けない四次元五次元の世界だ。

 勿論其処に有る情報は想像を絶するほど膨大で正確である。故に、このデータバンクを利用する者、つまり予見者の為にもそれらの情報を整理しておく管理官が存在する。世界有数の予見者でもある東宮家である。

 彼等東宮家の役割は、情報の整理ともう一つ。[空]のセキュリティー(防犯)である。

 [空]は其の性質故に過去何度か悪用される事件が起きており、東宮家は其の様な奸物から貴重な情報を守っているのである。特に未来に関する情報は厳重に護持されているのだ。

「第五法~アルス・マグナ~は人に神の力と悪魔の智慧と天使の肉体を与える……か」

 男は肩をポキポキと鳴らして、たった今読んでいた本を閉じた。

「少し…や、めっちゃ古過ぎるな。古本屋にも売ってへんぞ」

 閉じた本を残念そうに見つめる男の右目には片眼鏡が掛けられている。ずれていた其の片眼鏡の位置を、男は手袋をしている方の手で正した。可愛らしいクマの刺繍が入った手袋。昔我が子が母親に貰ってとても喜んでいた。それなのに、今は男が付けている。

 彼が探していたのは、錬金術の四つの体系の中でも最も野心的な望みであったと言われる「アルス・マグナ」についての記述であった。「アルス・マグナ」は”理性”、”力”、”不死”の恩寵を得る事である。つまり、奸悪な智慧と神に等しき力、不死なる肉体を得る方法であり、またそれ自体でもあるという事だ。

「アルス・マグナ」を得る為には、正当な手続を踏まなければならない。即ち「五つの法」である。

 五つの、と言うからには第一法から第五法まであるのだが、実質的にはそれほど手順が多く面倒だと言うわけではない。第三法の「賢者の石の精製」は、第一法の「卑金属を貴金属にする術」と第二法の「ホムンクルスの製造」を正確に成す事で必然的に成されるからである。

 さらに言えば、第四法の「魂の浄化と霊的復活」も、第三法を成す事でその難解な課題を取り組むための礎を築くことに繋がっている。

「五つの法」は「アルス・マグナ」を得る為の方法を芋蔓式に導き出せる仕掛けなのである。

 ただ、詳しく解っているのは其処までなのだ。

 其処とは勿論、第四法のこと。「アルス・マグナ」を求めた者たちは「五つの法」により第四法までをクリアする事が出来たのだが、最後の最後である第五法の内容を正しく理解しているものはほぼ皆無であったのだ。

 しかし、後の研究で第五法は「アルス・マグナ」を”得る”為には関係がないと言う事が明らかになった。第四法までを成せた者たちは悉く「アルス・マグナ」を得ていたのである。ここで『闇の眷属』と言われるようになった彼等は第五法を「第四法までを成せる知恵と精神、そして身体」と定めた。

 しかし、その研究とやらが現実世界に残っている気配はなく、『眷属』自身もどこにも見当たらなくなってしまった。過去より続く彼等の弾圧の色濃さがとてもよく判る事態である。

 そして男は、その研究のレポートを探していた。

 男は少しの間そこら一帯を物色してから、奥へ行こうと思い至って立ち止まった。男の行く手には明らかに毛色の違うニ本の柱が聳え立つ。

 男が手を伸ばすと柱と柱の間から電流が奔った。電流は獲物を狙うチーターの様に男目掛けて直進する。男がひらりと躱しても電流はしつこく付き纏った。男は十秒ほど電流と追い掛けっこをして流石に不毛だと思ったのか、電流に当たるよう潔く身を差し出した。電流は標的に向かい動き、ついにはそれを捕らえた。

 目を瞑る程の閃光と耳も塞ぎたくなる轟き。

 すべてが収まる頃には男が無傷のまま立っていた。

「ここのセキュリティも固いなァ……不可侵領域か?」

 ビービー

「………」

 電流はセンサーの役割をしていたらしい。

 セキュリティが本格的に作動するのはこれからだ。

 ドン…ドン…

「これまた……」

 地響きとともに顕れたのはニ匹の獣。正確には獣の形をしたプログラムなのだが、精神世界である[空]では外観はそのままその存在の本質となりやすい。これらの獣たちが概念通り獰猛であるのは間違いなかった。

 グルルルヲォオオ…

 今のは息だろうか。精神世界であるがために空気など存在していない筈だが、確かに空気がニ匹の獣の口に吸い込まれて行くのを男は感じた。

 [空]という世界がセキュリティシステムに荷担しているのが明白に分かる。

「駒の無駄遣いやな」

 ニ匹の獣はそれぞれの足で踏み止どまり胸を反らして息を止めた。

 ガルゥァアアッ!

 前足を力ませ、頭が撓る。轟声と共に吐き出される渾身の息吹は男を[空]の彼方へと吹き飛ばす為のセキュリティである。この暴風により、これまでこの領域に侵入してきた奸物どもは悉く散っていった。

 だが、そんな物など何処吹く風と、男は二匹の獣に近づきながら受け止める。迎え撃つ暴風に揺らぐ事無く、獣に向かい前進する様はまさに竜を退治せんとする騎士が如く。

「ちょ……ちょっと待って下さい!」

 男が右手の手袋を外そうと身体を動かすと、女の声がそれを制した。

「む、無断入場及びシステム改竄をはじめとする[空]に対する度重なるハッキング行為であなたを厳重に処分しますです!」

「ほう……君が? 私を? 処分?」

 可哀想な者を見る目で男は女を見た。獣たちは息を吐き出すのを止めて、女を守るように体勢を立て直す。

 女は男の目に宿る異質な何かを感じ、ひどくビクついてしまった。

「ぃえ!? ええ!? ちが、違いますよ! わたしじゃないです! 閣下……そう! 閣下ですよ! わたしじゃないんです! ………か、閣下ァ! ほら出番です仕事ですよォ!!」

 女の慄きようは一種哀れで、慌しくも危なっかしくもある。キャーキャーワーワーとわななき手足をじたばたさせる姿は見ようによっては餌を強請る雛鳥のようでもあった。実際彼女は、閣下なる人物に助太刀という名の餌を強請っている。

 だが残念な事にその閣下なる男が助太刀に来る事は無い。

「て、あっれ!? いなっ!?」

 閣下こと東宮梨杏は職務を放棄して娘の成長記録を作るほどの親バカで自分勝手な男である。

 今この瞬間も、娘の私生活を管理者権限で出歯亀しながら宝蔵のアルバムに新たな一ページを刻んでいたのだ。

「………」

 男の女を見る目が哀れを通り越して呆れてきた。両端に控える獣たちすら困ったように女を見つめている。

 女は完全にパニックになっており、ピーチクパーチクとのたうち回った。

「えぇぇぇえっ!? なんでおらへんの!? さっきまでおったのにィ? わたし一人とかムリ! そんなわたしおかしいってそら! 全然東宮と関わりないンにこんなで死にたないわどーしよー!?」

「少しは…」

 男は右手の手袋を外して大切そうにポケットにしまう。現実世界とは異なるといっても密接にリンクしているのが精神世界[空]である。ここで亡くした概念は現実世界に持ち帰れない。失くした物は戻らないし、命を落とせば還ってこない。ここで起こる現象は全て現実にもフィードバックするのである。といってもそれはあくまで概念的なものであるから、当事者がその現象を経験していなければ成り立たない。であるからして、実質的にこの世界で死んでも現実では死んではいないのである。ただ、その様な場合は総じて、精神が崩壊するか或いは植物人間となるかの二択となる。

 男は露になった右手を顔の前に翳した。

「大人しく…」

 男の右手が小刻みに震え始める。振動は右手から腕、肩を通って全身に広がり、足から地へ、地から[空]へと拡がる。精神干渉の格を上げれば、このように「世界」へと干渉の手を広げる事が出来る。男は凝縮していた力を一度拡散させて、また収縮させるために右手を力ました。

 地を揺るがしていた力が男の元へと戻り始めるのにそう時間は掛からなかった。地、足、腰、肩、と先程とは逆の順序に力は動き右手へと凝縮される。準備運動はコレでおしまいである。

 あとは、思い切り叩きつける。

「しろ…!」

 男の力が[空]の干渉に因って具現化される。右手から滲み出る醜悪な黒が刀の形と成って顕れた。

 男は顕現された刀を品定めする様に睨め付け、切っ先を女へと向ける。ひっ、と女が息を飲んだ。

「やればできるやん」

 恐怖で腰を抜かした女を刀で威嚇しつつ、男は二匹の獣を睨む。現状では女の命が最優先されるのか、グルルと喉を鳴らすだけで目立った攻撃はしてこない。

 実戦経験など無い女に今できることなど判るわけもなかった。ただただ東宮が助けに来てくれるのを祈るだけ。

 男は刀を振り上げた。

「豪閃(ごうせん)――」

 刀に集まり発せられる殺気に獣たちが反応するがもう遅い。

 振り上げられた刀は勢いを止める事無く、逆にその速さを増して振り下ろされる。まさに神速だった。

「――涙鎚戟(るいついげき)ッ」

「ひ……っ」

 世界が真っ黒に染まった。

「おいっ、起きろボケ」

「げふっ」

 腹に鈍痛。誰かが自分のお腹を足で踏んでいるのだと判るのに数秒掛かった。

 そして自分が寝ていたのだと気付くのにさらに数秒掛かった。先程の件は夢だったのかと真剣に悩み始めた。

 女はとりあえず自分が生きていた事に安堵した。

 最後に、今自分を踏んでいる人間が先程自分が必死に助けを乞うた男だと悟った。

「閣下ァァァァァァァァァ……ッ!!」

 ガバッ、と女は東宮に抱き着こうとしたが、東宮はそれを女を一本背負いで投げ飛ばす事で躱した。女は尻から地面に叩きつけられる。しかし、めげない。東宮と付き合うにはこの程度の投げ方はスキンシップだと認識しないと付き合いきれないからだ。

「閣下ぁ、怖い夢を見たんですよぉ」

「夢じゃねぇよボンクラ」

「……へ?」

 東宮の人を見下す目で女はたじろぐ。先程の”夢”よりも今のほうが断然怖い。女は東宮に師事を仰いでいる身で、師匠である東宮の機嫌を損なわすわけにはいかないのだ。

「現実を受け止めろっつってんのが判んねぇのかッ! この雌ブタァ!」

「ひぃぃぃぃぃぃぃすいませんすいませんごめんなさいゆるしてください!」

 女は地べたに額を擦り付けて訳も判らず許しを乞う。

 東宮はそんな女の頬を力一杯蹴り上げて顔を上げさせた。

「きゃん!」

 女の後頭部を鷲掴みにした東宮は、女に周りを一望させる。

 凄惨な状況だった。まるで嵐でも通ったかのようにありとあらゆるモノが粉々に潰され吹き飛んでいる。柱、天井、床、セキュリティシステム。そして、情報。

「あ……ぁああ…」

「情報破壊だ。クソッ。ここはお偉いさん方がよく来る場所だっつうのに」

 女は余りの惨状に茫然自失に陥った。無理も無い。この夥しいほどの残骸に、どれ程大切な情報が詰まっていたというのだろう。東宮に師事を乞うて[空]の管理をしてからまだ日が浅いとはいえ、女がそれを知らないはずは無かった。

「単独行動、独断専行。足手纏いもいいとこじゃねぇか。セキュリティだけの方がまだ良い働きしただろうぜ」

「そ………そんな…ッ」

 理不尽にも程がある。女はそう思った。確かにわたしにも落ち度があったかも知れない。でも自分はサボっていたくせに、何もかもの責任をわたしに押し付けていいはずが無い。

「カカッ……自分はサボっていたくせに、だとォ?」

「……へ? あ…ちが、やめ…」

 女は自分を守るように抱きすくめ、東宮から逃げるように後退る。今、東宮は女に干渉して心を読んだのだ。これはそう易々として良い事ではない。ましてや女性に対してなど、セクシャルハラスメントもいいところだった。

(もう………やだ…………こんな人のところなんて)

「良いんだぜ、俺様は。お前がいなくなっちまっても」

 東宮は自前のサングラスをクイと持ち上げて、女の顔に自分の顔を近づけた。

「でも帰る所なんて無くなっちまうだろ? こんな出来損ないのまま帰っちまったら、なァ? 次期頭領(オペレーター)候補サマ」

「ちが……ぅ、わた……そんな、なりた……なかっ…」

 東宮は女の歪む顔を愉しそうに見ている。

「今まで頭領の座を欲しいがままにしていた木内家を見下すチャンスが、やっと回ってきたんだよなァ? コレもそれも…全部お前が生まれてきたお陰」

「ぃや…ゃめ……」

 東宮がサディスティックに笑った。

「〈針馨蘭〉の頭領は代々予見者―――お前ら風にゆったら未来見の神子かぁ?―――が継ぐのが習わし。そしてお前にはその資格があった。やったなぁ? これで明楽(あきら)家も安泰だ」

「ちゃ…ちが、そんな……言わ、んと…て」

 女はそういう風に自分を権力争いの道具のように言われるのが一番嫌いなことだった。何故なら、自分を見る目がそれ以上にもそれ以下にもならないから。過度な期待を押し付けられて、無理な目標を掲げられて、誰もがそれを自分なら成し遂げられると信じているからだ。

 誰も女の真の実力など判ってやるほど寛大じゃなかったのだ。

 下らない争いに思えるが、当事者にとってそうとは限らない。頭領を自家から出せれば〈針馨蘭〉の主導権を握る事が出来る。〈針馨蘭〉は現存する中でトップの地位を誇る陰陽師の総本家、鬼無家の直属筆頭忍軍であるから、その主導権を握れるという事はそれだけで名誉な事なのだ。

 毎度頭領の座を木内家に取られ続けていた明楽家が女に過度な期待を添えるのも当たり前な事というわけだ。

 だが期待に反して出来の悪かった女は修行のために東宮のところに来ている。このまま出来損ないの自分で戻って行っても頭領の座は貰えない。そうすれば道具としての女の価値が無くなる。今までの反動できっと女は疎まれる。イコールそこに居場所など無い。

「人の顔色見てなきゃ生きていけねえみてぇな考えしてんじゃねえよ。辛気臭え」

 東宮が女の心理を読み取って言った。

「堂々と居座りゃいいじゃねえか」

 女はキッと東宮を睨みつける。東宮が知った風な口を利くからだ。

「そ、んな…簡単な事や…ないです……ッ! 皆がみんな閣下のよォに強いんちゃうんです…。わたしら普通誰かの顔見とかな不安で仕方ないんやし。誰かが見ててくれな淋しいんや!」

 女は一気に巻くし立てる。東宮はそれを冷ややかに見つめる。

 と、東宮が急に笑い始めた。

「カカッ、笑える。俺様だって淋しいと思える時があるぜ。なんせ年中無休ここに縛られて管理に奔走する毎日。娘の顔もオチオチ見られやしねぇ」

「サボって…見てるじゃないですか!」

 女の精神はギリギリの所まで追い詰められていたが、どうにか持ちこたえた。女は東宮を罵倒した。

「そこしか管理するとこがねえからな」

「ヌ、ケ、ヌ、ケと、よぉ言えんなァ…。信じられへんわ。こんな男が[空]の全てを管理する偉大な東宮家やなんて…。なんちゅう世界や」

 女の目に殺意が篭っている。まはや東宮に師事を乞い続けようという意思は無かった。

「俺様は全て管理できねえよ」

(まだこんな事言ってる…)

 女は呆れてものも言えない。

「強いから、そんな自分本位でいられるんです」

 只それだけ言って、あとはサヨナラとでも言おうと思って立ち上がった。

 その瞬間女は襟首を掴まれた。

「強い……俺様が?」

 ひっ、と声を上げそうになるが女はそれを耐えた。せめて最後ぐらい東宮と目を開けたまま向かい合って終わってやろうと決意する。

「自分本位…………お・れ・さ・ま・が・か?」

「そうです! 閣下は強くて自分勝手な男なんです!」

 東宮は女の襟首を掴んでいた手を持ち上げて、女を宙に浮かした。

「強くて自分勝手………違う。違うな」

「なにも違わへ―――」

「教えてやろうか? お前が言う俺様の強さが何なのか。俺様のコレが何なのかを――ッ!」

 東宮の右半身が女の視界から消えるように捻られる。

 殴られる―――。女は本能でそれを察知した。察知して、女は思わず目を瞑ってしまった。

 バギッ

 鼻に激痛。口内に鉄の味。

 鼻骨が折れて鼻血が出た。

「こいつはただの”暴力”だ!」

 女はその言葉を聞いて気を失った。目から涙が滲み出る。弱過ぎる自分に嫌気が差した。

「全く張り合いがねえ…」

 倒れてしまった女を半眼で睨み、東宮は右手を振った。ブンと――実際音は鳴らなかったが、そんな音が鳴った気がした――メニューウインドウが目の前に広がる。やたら多いメニューにウザったいと感じつつも東宮はメニュー欄に目を走らせた。お目当ての項目が見つかりすぐさま人差し指でタッチする。また似たような欄が表れ、だんだんメンドくせーという思いが募ってくる。

 ログアウトボタンをタッチして彼女のアカウントとIDを入力すると、女の身体が光に分解されて消えた。自分だけではなくユーザーのログアウトも出来るのが正しく管理官のなせる業である。

 ヤル気があれば戻ってくるだろう。東宮としてはそれぐらいの根性を見せて貰わねば甚振り甲斐が無いのだ。

「あいつはもっと張り合いがあったのに…」

 東宮の脳裏に一人の女性の像が浮かび上がる。が、東宮はそれを即刻打ち消した。

「あああ、久しぶりに血肉が見てえ。内蔵抉り出してえ。かき混ぜてえ。ぶちまけてえ。爪剥がしたり蝋流し入れたりしてぇ」

 ほぼ二十四時間三百六十五日を[空]で過ごす彼は基本的に俗物的な欲望を満たす事が出来ず暇である。彼の偏った性癖は別にそれから派生された事ではないが、娘の私生活を盗撮するのはそれの所為である事を否定できない。

 彼が管理者としての仕事を真っ当に遂行する人間ならばその様な事態にはならなかったのだろうが、人格というものはそうそう変わりはしない。彼が人道を踏み外しまくるようになったのも、彼がこの世に生を受けた時から決まっていた事だ。

「いちおー修復試してみるか」

 東宮はメニューウインドウをスクロールして「restore」と書かれたボタンをタッチする。警告云々書かれていたが大して気にも留めずに一番下にあるYes/No ボタンの「Yes」を選択した。

 error…。

「うぜっ!?」

 どうやら修復に利用するバックアップも消去、もといぶった切られたらしい。何から何までご苦労な事である。目的を誤魔化す為の犯人の策だと思われるが、少々厄介なことをしてくれたと東宮は後ろ頭を掻きながら考えた。これでは情報の復元が出来ず、ある意味最悪の事態に陥ってしまう。

「なぁんで、こんな、面倒な事に…」

 幸い女以外の意識が無かったから、誰かの生死が脅かされる事態にはなっていない。だが情報を破壊されるという事はこの[空]において、人命が失われる事よりも大変な事態なのである。

 宇宙創生以後の世界の全ての情報が預けられていると言うこの[空]。それが真実ならば、その対偶、[空]に無い情報は世界に存在しない、という事も真実であろう。

「逆必ずしも、真ならず」と言う言葉もあるが、東宮はその考えを信じている。信じているからこそ、今回の件は非常に危惧するべきだと思うのである。

 [空]中での情報破壊は前代未聞なのだ。それは[空]の管理官である東宮自身が認めている。意識世界のため現実世界のように物質的に破壊する事など不可能だし、情報同士も厳重に連結されているので情報操作などの撹乱行為に因っても広大な時間軸によって是正されてしまうからこれまた不可能となるのだ。

「刺激的だなぁ。この破壊観。…ああ、くそ。久しぶりに人間壊したくなってきたぜ」

 [空]の情報にもまだ存在していなかった現象、[空]中での情報破壊。

 破壊された情報は普通、戻ってこない。つまりは情報が存在しなくなるという事だ。

 ここに東宮の持論を組み入れれば、もう東宮が何を危惧していたかが判るだろう。

 そう、[空]に預けられていた幾つかの貴重な情報が過去にも未来にも存在していない事になるのだ。

「たく、ライターの概念なんて考えた事ねえよ…」

 殺戮衝動に駆られた東宮は自身を落ち着ける為に煙草を吸おうとして毒づいた。ライターの代わりに火を出して煙草に点ける。煙草の概念は知っていて、ライターの概念を知らないのも面白い話だ。

「しっかし綺麗ぇに切れてやがる…」

 東宮はこの不可能であるはずの情報破壊を成し得た要因の一つとして、柱や床に残された切り傷や切り口・情報同士を繋げる連結を切り落とした脅威の能力に注目した。この切り口も能力も現実世界で見たことがあるのだ。

 たしかアレは、あの男が持っていた馬鹿長い刀の能力だったはずだ。

 理論も摂理も覆し真理をも凌駕する、万象必滅の世断ちの剣――遮理竜霊――。

 [六賢者]藍堂翼が後生大事に持っている、布に巻かれたあの長い物の中身だ。

≪5≫

 7月6日。

 PM11:12。

 癒亜の眠る顔にほんの少し翳りがさす。いつもは明るく元気な彼女だが、寝ている時は違うのだろうか。彼女が見ているであろう夢を見ることが出来ない自分が憎い。

 でも、そういうマイナス思考は極力しないようにしている。翼や彼女を心配させないためにも後ろ向きな考えは排他し常に元気である事を心がけている。何年か前からずっとそうしてきた。

「ん……」

 額にかかった髪を払ってやった。一度やってみたかった事のひとつだ。

 やりたい事はやりたい時にやらないと絶対後悔することは目に見えている。その事は身に染みて理解している。

 言い訳がましいが、昨日のアレもそういった理解の延長線上だろうとしておく。あの時は今やらないと後悔するだろうと思い、焦っていた。結局のところ上手くいったが失敗していた時の事を思うと――――いや、後ろ向きな事は考えないのだ。考えてしまえばきっと負けなのだから。そう心に言い聞かせる。

「ごめんな。こんな俺しか傍に居てやれなくて…」

 むにゃむにゃと眠る彼女が起きない事を確認してから、自分に言い聞かせる様に言う。

 駄目だ。ヤバイ。後ろ向きになっている。もっと前向きに考えよう。こんな俺でも彼女のためにしてやれる事はあるはずなんだ。考えろ。考えろ…。

「どんなに願っても、俺は君を傷付ける事しか出来ないのに…」

 額に置かれた手は顔のラインを沿うように動き唇へと向かう。

 ―――守ってやるなどと、我ながらよく言えたものだ。

 ―――だが許して欲しい。

 ―――全部、君と共に居続ける為なんだから。

 ああ、駄目だ。制御が効かない。もっと抑制をつけないと。どうした恋弥。いつものお前は如何した? また昔みたいになるのか?

「だいじょおぶ…」

 もうすぐ達しようという時に彼女の唇が動いた。

 一瞬、起きてしまったのかと焦ったがすぐに寝言だと気付く。

「なに…?」

「大丈夫…一人でもだいじょおぶ…」

「………」

「一人でも…さみしくない…ょ」

 そうか…、と呟いた恋弥は手の動きを変えて頬に添えた。

「俺は、弱いな……。最低な…野郎だな」

< つづく >

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