シェアリング・ラブ

1.久美

「危ない!」

 誰かの叫ぶ声が聞こえた。

 続いて、鋭いブレーキの音とものすごい轟音。
 振り向いた私のすぐ目の前に、ガードレールを突き破ってこっちに突っ込んでくる車があった。

 …………あれ、私?
 宙に浮いてる!?

 たしかさっき車が突っ込んできて、ぎゅって目を瞑って……。
 なのに、どうして?

 なんか、下が騒がしいけど?

 ……あっ!

 私の目に飛び込んできたのは、ビルにぶつかってひしゃげた車と沢山の人だかり。
 それと、あそこで倒れているのは……私?
 人だかりの真ん中で血を流して倒れているのは、間違いなく私自身だった。

 なに?いったいどうなってるの、これ?

 私の側にしゃがみ込んだ人が大声で何か言ってるけど、倒れている私はピクリともしない。

 それもそうよね……。
 だって、私はここにいるんだもの。

 ……あ、救急車だ。

 ちょっと!
 私の体をどこに連れていくの!?
 ちょっと待ってよ!

 私の体をストレッチャーに乗せて救急車に乗り込む救急隊の人に続いて、慌てて私もその中に滑り込む。

 救急車の中でも私の体はふわりと浮かんだままだった。

 すぐ下では救急隊の人たちが大声で話している。
 ものすご切迫した感じなのに、それも、私自身のことなのに、私には全然実感がない。
 だって、車にぶつかった記憶も、痛みも全くなかったから。

 私、どうなっちゃうんだろう……。

 体がふわふわして頼りないせいか、すごく不安になってくる。
 私には、救急処置をされている自分の姿を見ていることしかできない。

「残念ですが、こちらに運ばれてきたときにはすでに心停止の状態でした」

 白衣を着た先生の言葉に、母さんが顔を覆ってうずくまった。
 立ったままの父さんの肩も、小さく震えている。

「ほぼ即死の状態で、おそらく、苦しみはほとんどなかったと思います」
「うああああっ!久美!久美!」

 母さんが、ベッドに寝かされた私に縋り付いて泣き崩れる。

 母さん!私はここにいるよ!
 ねえっ!聞こえないの!?

 自分では大声で叫んでいるつもりなのに、母さんにも父さんにも私の声が届いてないみたい。

「お願い!目を開けて、久美!戻ってきてちょうだい!」

 ……うん。
 今戻るよ、母さん。
 だって、ベッドの上の私、眠ってるみたいにきれいだもん。
 きっと、私が体の中に入ったら元に戻れるよね。

 あ……。

 ベッドの上の自分の体に戻ろうとした私は、すっと自分の体を突き抜けてしまっていた。
 ついでに、ベッドまで。

 そんな……。

 体の向きを変えて上を見ると、ベッドのフレームが見えるだけ。

 すり抜けちゃった……私の体なのに……。

 腕を伸ばすと、ベッドの中にめり込むように抵抗なく入っていく。
 この位置じゃ見えないけど、きっと私の体も突き抜けているんだろう。

 自分の体に入れないなんて……。
 私、本当に死んじゃったの?

 ベッドの中に埋まった自分の腕を、私は茫然と見つめていた。

 なんでこんなことになっちゃったんだろう……。

 病院の地下、霊安室の薄暗い灯りの下で、私はぼんやりと自分の遺体を見下ろしていた。
 父さんは、さっき外で葬儀屋さんと何か話をしていた。
 母さんは、まだショックで茫然としている様子だった。

 ごめんね、父さん……母さん……。

 自分で自分の死体を見下ろすのは不思議な感じがするけど、こうなってしまったら私も自分が死んでしまったことを認めないわけにはいかない。

 その時、霊安室のドアが開いた。

 あ、来てくれたんだ、ハルくん……。

 入ってきたのは、私の最愛の人、ハルくんだった。
 私の婚約者の彼、高野雅治(たかの まさはる)と私とはもう4年つき合っていて、この春、結婚式を挙げることが決まっていた。

「……久美」

 私の体が寝かされているベッドの傍らに立つと、ハルくんは私の頬をそっと撫でた。

「なんでだよ……久美……」

 ハルくんの目から、涙が溢れてくる。

「なんでこんなことになっちまったんだよ、久美……」

 その場でがくりと膝をついて、私の体に覆いかぶさるようにしてハルくんは泣きじゃくる。

 ごめんね……本当にごめんね、ハルくん。

 あっ……。

 泣き続けているハルくんを抱きしめようとした私は、またもやその体をすり抜けてしまう。

 私、本当に死んじゃったんだ。
 死んで、幽霊になっちゃったんだ……。

 ハルくんの姿を見て、はじめて自分が死んだんだっていう実感が湧いてきた。

 ごめん、ハルくん……私、もうあなたと話をすることすらできない……。
 ごめんね……。

 こんなに悲しいのに、幽霊の私は泣くことすらできない……。

「……久美」

 仕事から帰ってきたハルくんは、暗い部屋の中で膝を抱えている。
 あの事故から1週間が経ち、私のお葬式もとうに済んだ。
 あれからハルくんはずっとこんな調子だった。

 部屋の灯りも点けず、暗い部屋の中でひとりうずくまって、時々私の名前を呼ぶ。
 この1週間、ご飯もあまり食べてない。

 ちゃんと食べないとハルくんが体を壊しちゃうよ……。

 ずっと沈んだままのハルくんを見ているのがいたたまれなくて、私は部屋を出ていく。

* * *

2.千晶

「今度オープンしたヘアサロン・カトレアです、よろしかったらどうぞ……ありがとうございます!」

 ティッシュを受け取ってくれた人に、私は笑顔を見せる。
 私、浅野千晶(あさの ちあき)は日々こうやってバイトにいそしむごくごく平凡な大学生だ。
 私の登録している会社で派遣されるバイトは、ティッシュ配りやチラシ配りが主だ。

 ひえっ、寒う!

 冷たい風が吹き抜けて、私は鼻を啜って首をすくめる。
 こんな寒い季節は街中でティッシュを配るのも大変だけど、チラシよりかは受け取ってもらえるのでまだ楽だ。

「あの、よろしかったらどうぞ」
「あなた、私が見えるの?」
「……え?」

 それは、私がひとりの女性にティッシュを差し出した時だった。

 不思議そうな顔でその人が私を見ている。
 でも、私の方がもっとわけがわからなかった。

 見た感じは、ごく普通の人みたいだけど……。

「ねえ、あなた、本当に私のことが見えるの?」

 その人はもう一度そう訊いてきた。

「見えるって……見えるに決まってるじゃないですか」

 この人、なに言ってるのかしら?

 私は、彼女の言っていることがわからないままティッシュを差し出す。

「だって、私、幽霊なのよ」

 私からティッシュを受け取りながら彼女がそう言った。

 幽霊?なに言ってるの?

 私には、その人の言ってることが全然わからなかった。
 だって、彼女はこんなにはっきり見えるし、だいいち、幽霊だって言っているわりには足だってあるじゃない。

 この人、なにへンなこと言ってるのかしら?

 そう思って、ティッシュを持った手を離した。

 その時、彼女の手をすり抜けてティッシュが地面に落ちた。
 そんな風に私の目には見えた。

「ね?」

 そう言ってその人は微笑んだ。
 でも、私にはとても信じられなかった。

「まさか…そんな……」
「あら、信じられないの?」

 その人は、そう言うと一歩後ろにさがった。

「あっ!危ない!」

 歩いている人と彼女がぶつかると思って、私は思わず大きな声をあげてしまった。
 でも、その人は彼女の体を突き抜けていった。
 まるで、そこに何もなかったみたいに。

「えええっ!」
「あんまり大きな声出すとへンな人だと思われるわよ。他の人には私の姿は見えないんだから。それに、こんなことだってできるのよ」

 そう言うと、彼女はふわりと宙に浮かび上がった。

「ええっ!?えええーっ!?」

 吃驚して大声を上げた私を、道行く人が不審そうに見ている。
 それなのに、彼女に注目する人は誰もいない。

「ね、わかったでしょ」
「あの、あの……そ、そんな、まさか……」

 彼女が、また私の前に降り立って私を見つめる。

 人の体をすり抜けて、宙に浮くなんて……。

 驚いて口をパクパクさせるだけの私。
 幽霊が存在するなんてとても信じられないけど、こんなの見せられたら信じないわけにはいかない。

「ねえ、驚かないで聞いてれる?あなたにお願いがあるんだけど」
「そんな……幽霊なんて……」
「ねえ、聞いてるの?」
「そんなこと、あるはずないわよね……」
「だから、それがあるのよ。だから、ちょっと私の話を聞いてくれるかしら?……あら?」
「……見えない。何も見えない。そうよ、幽霊なんているはずないもの」
「……ねぇ?」
「……聞こえない。何も聞こえない。これはきっと幻聴よ」
「ちょっと、ねえったら」

 私は、目を瞑ってその人を無視する。

 そうよ、こんなのきっとなにかの間違いだわ。
 幽霊なんてこの世にいるはずないんだから……。

「……!」

 目を開けると、彼女が私の顔を覗き込んでいた。

 気のせいよ、きっと気のせい……。

 私は小走りで反対側に行くと、彼女を無視してティッシュ配りを続ける。
 ときどき視界にその姿が映るけど、私は完全に見えないふりをし続けた。

 でも、その幽霊はしつこかった。

「ねえ、私の声が聞こえてるんでしょ。ちょっとでいいから聞いてちょうだい、お願いだから」

 バイトが終わってからも、彼女は私の後についてきていた。

「もう、なんなんですかあなたは?いったい私になんの用なんですか?」

 周囲に人の気配がなくなると、意を決して私はその幽霊に向き直る。

「やっぱりあなた、私のことがわかるのね!?」

 私がいらついているのにも拘わらず、彼女は嬉しそうな表情を浮かべる。
 こうして面と対していると、本当に幽霊だとは思えない。

「だから、いったい私になんの用なんですか?」
「あのね、あなたに私のことを伝えて欲しい人がいるの」

 私の方に身を乗り出して、その自称幽霊は身の上話を始めた。

「……と、そういうわけなのよ。だから彼に私がこうしていることを知らせて欲しいの」

 彼女、篠崎久美(しのざき くみ)さんの話はこうだった。

 つい10日ほど前、彼女は歩道に突っ込んできた車にはねられて死んでしまった。そして、幽霊になってしまったのだ。
 彼女には、結婚を間近に控えた婚約者がいた。
 でも、彼には幽霊になった自分の姿も見えないし、声も届かない。
 自分が死んだ後、食事もろくに摂らずにふさぎ込んでいる彼の姿を見るに耐えなくて、こうやって街に出てきたらしい。
 そんな時に、たまたま私に出会った。
 彼女の言葉を聞くことができる私になら、自分のことを彼に伝えることができるに違いないと思ったそうだ。

「でも、その人にどうやってあなたが幽霊になっていることを信じさせるのよ?その人には私の姿しか見えないんでしょう。きっと、私が変な女だと思われるだけだわ」

 彼女の話を聞き終えると、私は疑問に思ったことをぶつけてみた。
 それはたしかに彼女には同情するけど、とてもじゃないけどそんな話を信じてもらえるとは思えない。
 私には彼女のことが見えるし声も聞こえるけど、その彼が、彼女のことを認識できないのに、私がいきなり出ていってそんな話を信じてもらえるとは思えなかった。

「だから、私と彼しか知らない事を教えるから、それを言えばきっと信じてもらえるはずよ」

 篠崎さんの幽霊はそう言って手を合わせる。

「だからって、なんで私が……」
「あなたしかいないの。街の中にいても私のことがわかる人は他にいなかったんだから。だから、お願い」

 そう言って、彼女はわたしの手を取る。
 さっき、彼女は他の人の体をすり抜けたはずなのに、今は私の手をしっかりと握っていた。

「……え?これは?」
「ほらね、あなたには私のことがわかるし、こうやって私に触ることができる。あなたは特別なのよ」

 篠崎さんはそう言って嬉しそうな顔をするけど、私には全然ピンとこない。
 だって、私は今まで幽霊なんか見たことないし、自慢じゃないけど霊感なんて全くない自信もある。
 そんな私の前にいきなり幽霊が現れて、私は特別だ、なんて言われてもどうしていいのかわからない。

「でも、やっぱり私にはできる自信がありません。申し訳ないですけど、私はこれで……」

 彼女の申し出を断って、私は歩きはじめた。

「ねえっ!ちょっと待ってよ!」

 彼女が、私の手を取って引き止めようとする。

「離してください!私にはできることなんてないですから!」
「そんなっ!私にはあなたしかいないの!」

 その手を振りほどこうとした私に、彼女はしがみついてくる。

「もう、離してください……ええっ!?」

 その時だった。
 私にぎゅっとしがみついてきた彼女が、むにゅっ、と鈍い感触と共に私の中に潜り込んできた。
 さっき見た、すり抜けるような感じじゃない。
 明らかに私の中に入ってくる。

「えっ、えええっ!?」

 いきなり目の前から彼女の姿が消えて、私は狼狽える。
 いや、彼女は消えたんじゃない……。

(えええええっ!これってどういうこと!?)

 私の中で、慌てたような彼女の声が聞こえた。
 ううん、聞こえたんじゃなくて、頭の中に直接響いているような感じ。

「なっ、なんなんですか、これは!?」
(私にもわからないわよ!)

 やっぱりそうだ。
 私の頭の中で彼女の声が聞こえる。

「なに勝手に私の中に入ってるんですか!?」
(そんなこと言っても、こんなの初めてなのよ!だいいち、私だって幽霊になって10日しか経ってないんだから、人の中に入ることができるなんて知らなかったのよ!)
「もう、早く出ていってくださいよ!」
(でも、どうやって出たらいいのよ!?)
「入って来れたんだったら出ていくことだってできるでしょう!」
(入っていったのも偶然だったんだから!どうやって出たらいいのか私にもわからないわよ!)

 お互いに混乱した状態で押し問答が続く。
 とは言っても、傍目には私が大声で叫んでいるだけなのだろうが。
 きっと、知らない人が見たら私はアブナイ人だったに違いない。

 結局、折れたのは私の方だった。

「で、私がその彼のところに行って話をしたらあなたは満足なわけね」
(……うん)

 出ていって!出て行き方がわからない!という不毛な議論の末に彼女が提案したのが、望みを叶えてもらえたら、成仏できて私の体から出ていくことができるかもしれないと言うものだった。

 なんか、彼女にうまくはめられた気がしないでもないけど。

 ……でも。

 まるで、篠崎さんの気持ちが私の心に流れ込んで来るみたい。
 どういう仕組みなのかわからないけど、こうしていると彼女の彼への想いが私にも伝わってくる。
 すごく切なくて、悲しくて、そして暖かい想い。

 きっと、彼女は悪い人じゃないし、私を騙しているわけでもないと思える。
 幽霊になってから、誰とも話すことができず、こんな想いをひとりで抱えていたなんて、やっぱり可哀想だと思う。
 だから、彼女の望みを叶えてあげてもいいかな、と、そんな風に思うようになっていた。

「ええっと、その人、高野さんでしたっけ?彼の家ってこの近くなんですか」
(ええ、そうよ)
「今からでも大丈夫なんですか?」

 私のバイトが終わったのが夕方の5時半だから、もう辺りはすっかり暗くなっていた。

(彼の仕事、少し終わるのが遅いから、まだ帰ってないと思うわ。でも、あなたはいいの、こんな時間に?)
「ああ、私は一人暮らしの学生ですから、時間は気にしなくていいですよ。それと、自己紹介が遅れたけど、私は浅野千晶です、千晶って呼んで下さい」
(うん、じゃあ、私のことは久美って呼んでね)
「はい、久美さん」

 彼女が私に気を遣ってくれていることが、妙におかしかった。
 そういえば、久美さんはさっきからすっかりおとなしくなって、話し方も控えめで申し訳なさそうだった。

「私にはあんまり気を遣わなくていいですから、久美さんも、もっと気楽にしていてくださいね」
(うん……ありがとう、千晶さん)
「いえ、いいんですよ」

 久美さんは幽霊だし、私の中に入り込んでいるなんて変な感じだけど、特に嫌な感じはしない。
 それどころか、すっかり恐縮している久美さんの気持ちが伝わってくるのが妙におかしくて、思わずクスリと笑ってしまう。

 なんだか、この人とはうまくやっていけそうな気がする。

「ここが、高野さんのマンション?」
(そうよ……あの、3階の右の角の部屋なんだけど……)
「灯りは点いてないですね。まだ帰ってないのかな?」

 久美さんが言った部屋を見上げても、灯りは漏れていなかった。

(だけど、彼、部屋に戻っても電気も点けないでそのままベッドにうずくまってるから……)

 不安そうな久美さんの言葉が頭に響く。
 それだけじゃない。
 彼のことを心配する久美さんの気持ちがどんどん伝わってきて、私まで不安な気持ちになってくる。

「もう、元気を出してよ。だから久美さんは彼に会いに来たんでしょ」
(うん……ありがとう、千晶さん……)
「とにかく、彼の部屋に行ってみましょう」
(そうね)

 とりあえず、その人が帰っているかどうかだけでも確かめようと、私はマンションに入ろうとした。

「……あっ」

 マンションの入り口で、もうひとり、中に入ろうとしていた人と鉢合わせになった。
 まだ若い、スーツの上にコートを着たサラリーマン風の男性。

 なにこれ?……あっ、もしかして!

 その人を見たとき、破裂するかと思うくらい心臓が高鳴った。
 それに、胸をぎゅっと締めつけられる切ない思い。

 これは、私の気持ちじゃない……久美さんの気持ちだ。
 間違いない、彼が高野さんなんだわ。

 久美さんに確認しなくてもすぐにわかった。
 初めて会う人にこんな気持ちになるなんて、そうとしか考えられない。

「あの……高野雅治さんですよね?」
「……?そうですけど、あなたは?」

 その人は、不思議そうに首を傾げる。
 その顔は、目の下に隈ができていて、私が見てもわかるくらいにやつれていた。

 そんな姿を見ているだけで、私の胸がズキズキと痛いくらいに締めつけられる。

 ……ちょっと、落ち着いてよ、久美さん。

 自分の中に流れ込んでくる久美さんの感情を持てあましそうになる。

「あの、私、浅野千晶と言います。今日は篠崎久美さんのことでここを訪ねさせてもらいました」
「久美のことで……?」
「ええっと、実は私も今日、久美さんと知り合ったばかりなんですけど……」
「今日?」

 私の言葉に、高野さんが怪訝そうな表情をした。

 おおっとまずった!
 久美さんは10日前に死んでたんだった。
 いきなりそんなこと言っても怪しまれるだけよね。
 でも、久美さんの幽霊が私の中にいるってだけで充分に怪しい話なんだけど。

「あのですね、怪しまないで聞いてください。いえ、私自身、まだ戸惑うことばっかりで、自分に起きたことが信じられないんですけど。……実は、今、私の中に久美さんがいるんです」
「なっ……?」
「詳しく話をするとですね、今日、久美さんの幽霊が私の前に現れたんです。それで、久美さんのことがわかる私にお願いがあるって……。それが高野さんのことだったんです。久美さんは、もう一度高野さんに会って話がしたいって。だから、久美さんのことがわかる私が間に立って、高野さんに久美さんのことを伝えようって……。その後いろいろあって、私が久美さんに取り憑かれたというか、久美さんが私の中に入ってきたんですけど……」
「何を言ってるんだ、きみは?」

 高野さんの眉間に皺が寄って、険しい表情になる。

「幽霊なんて、そんなものが存在するはずがないだろう!久美の名前を騙って、きみはいったい何のつもりなんだ!?」

 不快そうに吐き捨てた高野さんの言葉。

 そうよね、こんな話信じろって言う方が無理よね。

「でもっ、本当なんです!今、久美さんは確かに私の中にいるんです!信じてください!」

 知らず知らずのうちに、私は必死になって食い下がっていた。
 こんなの、はじめから無理だって思ってたのに。
 自分の中の久美さんの想いを感じてしまったら、どうしてもそれを高野さんに伝えずにはいられなくなっていた。
 きっと、久美さんが彼を想う気持ちに当てられてしまっていたのだろう。

「いい加減にしてくれ!だいいち、久美が幽霊になったというんだったら、どうして僕にその姿が見えなくてきみに見えるんだ!」
「そんなのっ、私にもわかりませんよ!」

 そんなの訊かれても私には答えられない。
 だって、どうして私にだけ久美さんがわかるのか、今でもわからないんだから。

「まったく、不愉快だ!」
「あっ、待ってください!」

 踵を返してマンションに入ろうとした高野さんに、必死に追いすがる。

「高野さんには見えなくても、久美さんはあの事故の後からずっとあなたの近くにいたんです!久美さんが亡くなってから、高野さん、ほとんど食事も摂らずに、仕事から帰っても暗い部屋の中でうずくまっているだけだったんですよね!?」
「どうして、きみがそんなことを……?」

 エントランスに入りかけていた彼の足が止まった。

「久美さんはそんなあなたのことを見ていられなくて、ずっと心配していたんです!そこに、久美さんのことがわかる私が偶然現れたから、高野さんに自分のことを伝えるためにこうして私と一緒に来たんです!」

 私は、なんとか高野さんに信じてもらおうと、必死でまくしたてる。

 その時だった。

(千晶さん、ちょっとでいいからあなたの体を貸してくれる?)

 久美さんがそう言った。

「え?久美さん?」
(私が彼と直接話してみるわ。だから、少しの間あなたの体を私に貸して)

 久美さんの、思い詰めたような口調。
 それに、心臓がバクバクして、久美さんの本気さが伝わってくる。

「でも、体を貸すって言っても、どうしたらいいの?」
(私にもわからないわ。だって、まだ幽霊の自分にも慣れてないんですもの。とにかく、そっちに出て行くから千晶さんは頭を空っぽにしていて)
「え?え?ちょっと久美さん……やっ!?なに?」

 いきなり、ものすごい違和感に襲われて私はその場にうずくまる。

「ちょっと、きみ、どうしたんだい?」

 高野さんの声が聞こえるけど、頭がクラクラしてどこか遠くで聞こえるみたい。
 自分の中で、むくむくと何かがわき上がってくる感じ。
 ゾクゾクと鳥肌が立つような寒気と、吐き気がするくらいの不快感がする。
 それに、自分の体が自分のものでなくなっていくみたい。
 頭の中が痺れてきて、視界がぐにゃりとねじ曲がる。

「……そんな、強引すぎるよ、久美さん」

 そのまま、私の意識は遠のいていった。

* * *

3.久美×千晶

「おいっ、どうしたんだっ!大丈夫かっ、きみっ!」

 私の体をゆすぶって誰か叫んでる……。
 この声は……。

「おっ、気が付いたのか?」
「……あ、ハルくん」

 目を開けると、ハルくんが私の体を抱え起こして心配そうに覗き込んでいた。

「えっ!?」

 ハルくんが驚いた顔を見せる。

「どうしたの、ハルくん?」
「どうして……きみがその呼び方を……」

 あ、そうか。
 私、今、千晶さんの体を借りてるんだわ……。

 千晶さんが、ハルくん、て呼んだから驚いてるのね。
 だって、彼のことをハルくんって呼ぶのは私だけなんですもの。
 他のみんなは、マサとか、マーくんとか呼んでるし、だいいち、普通は名前の後ろの方を取って呼んだりしないものね。

「さっき彼女、千晶さんが言ったことは全部本当なのよ、ハルくん」
「まさか……久美なのか?」
「信じられない?それもそうよね。……ねぇ、私が働いていたレストランにたまたまハルくんが来て、それからハルくんったら店に通い詰めて猛烈にアタックしてきたよね」
「なっ?そんな……?」
「去年のクリスマス、ベイブリッジの夜景を見に行ったら他にもカップルが沢山いたよね。あまりにも人がいっぱいいて、ハルくんがなんかすごい慌てていたから、なんだろう、て思ったら、人のいない物陰に連れていって、指輪を取りだして結婚しようって……。私が、クリスマスにベイブリッジでプロポーズ?格好つけすぎだよ、って笑ったら、ハルくん拗ねちゃって。でも、私が、うん、結婚しようって言ったら、すごく嬉しそうだった……」
「おまえ……本当に久美なのか?」
「それは、さっき彼女が言った通りよ。私は、幽霊になってしまって、ひょんなことから千晶さんに出会って、今は彼女の体を貸してもらってるの」

 本当は、無理矢理借りちゃったんだけど。
 許してね、千晶さん。

 ……千晶さん?

 そういえば、千晶さんの声が聞こえない。
 私は千晶さんの中にいても自由に彼女と話すことができたのに。
 でも、彼女がいるのは確かに感じる。
 気を失ったのかな?私が無茶したから?
 後で謝っておかないと……。

「とても信じられないけど、今しゃべっているのが久美っていうのは本当みたいだな」
「……うん」
「とにかく、ここではなんだし、部屋に上がらないか」
「……うん」

 ハルくんに手を引かれて私は立ち上がる。
 無茶をしすぎたのか、まだ体が少しふらつく。
 そんな私を彼がそっと支えてくれる。

 最後にここを歩いて通ったのは事故の前の日よね。
 幽霊になってからは壁をすり抜けて出入りしてたから。

 まだ、あれから2週間も経ってないというのにすごく懐かしく感じる。

 そのまま、私は彼に体を支えられながらゆっくりと歩き出した。

 ハルくんの部屋の中は3日前と変わっていなかった。
 いや、私が幽霊になってから全然変わってない。
 生活をしている匂いが全くしない。

「3日前と同じだ……」
「3日前?」
「うん。ハルくんには私が見えなかったと思うけど、私、あの事故の日からずっとここにいたんだよ。ずっとふさぎ込んでいるハルくんの姿を見ていられなくて、3日前にここを出て、なんとかしたいって、どうにかして私のことをハルくんに伝えたいって。そう思ってたら千晶さんに出会ったの」
「そうだったのか……」
「ほら、ゴミもほとんど増えてない。……ちゃんと食べないと、体壊しちゃうよ」
「そんなこと言っても、おまえにあんなことがあって……俺、目の前が真っ暗になって……何もする気が起きなくて……」
「だからって!それでハルくんが体を壊して私が喜ぶと思うの!?」
「……久美」
「毎日、膝を抱えてうずくまってるハルくんを見てるの、すごく辛くて、悲しかったんだからね!」

 話しているうちに感情が高ぶってきて、視界が歪んでくる。

 ああ……私、泣いてるんだ。

 幽霊の時は、どんなに悲しくても泣くことすらできなかったのに、こうやって千晶さんの体を借りて泣くことができる。
 ぼろぼろと涙を流しながら、私は千晶さんに感謝していた。
 彼女と出会えたから、こうして泣くこともできるし、ハルくんに私の思いを伝えることができるんだ。

「でも俺、おまえが事故に遭ったって聞いて、病院に駆け付けたときにはあんなことになっていて……。もう、悲しいってことすらわからないくらいにどん底にたたき落とされて……」

 そう言うハルくんの目からも涙が溢れて出してきていた。

「ごめん……ごめんね、ハルくん」

 ハルくんの胸に顔を押しつけて、私は泣きじゃくっていた。
 そんな私を、ハルくんがそっと抱きしめてくれる。

「ごめんね、こんなことになって、本当にごめんね……」
「……久美」

 その言葉を伝えたかった。
 自分が死んでしまってから、ずっとハルくんに謝りたかった。
 ハルくんを残して先に行っちゃってごめんね、って。

 それさえ言うことができたら成仏できるかもと思ってたのに。
 やっぱり、こんなハルくんを残していけない……。

 そんな思いを抱きながら、私はハルくんの胸に顔を埋めて泣き続けていた。

 そうやって、ふたりでどのくらい泣いていただろうか……。

「……そろそろ、千晶さんに体を返してあげなきゃ。もう遅いし、この子にあまり迷惑かけられないよ」

 私は、顔を上げるとハルくんから体を離す。

「……そうか」

 ハルくんは、ひとことそう答えるだけ。
 なんだか、重苦しい空気が私たちを包んでいた。

「なあ……久美」
「なに?ハルくん?」
「また、こうして会えるのか?」
「うーん、それは千晶さんにも聞いてみないと。今の私は彼女の好意でこうしていられるんだし、私だけが決めるわけにはいかないわよ」
「そうか……そうだよな」
「それに、私だっていつまでこの世にいられるかわからないし……」
「そうか……」
「できたら、また会いたいとは思うけど。でも、もし、もう会うことができなくても忘れないで、ハルくんがいつまでもくよくよしてるのなんか、私は望んでないんだから」
「……ああ」
「じゃあ、私はそろそろ行くね」

 そう言って私は目を閉じる。
 そして、さっき千晶さんの体を借りたときとは反対に、体から私の意識を引っ込めるようにイメージする。

 本当に大丈夫かな、千晶さん?

 ずっと彼女の声が聞こえないから、私は少し不安になる。
 
 お願い、戻ってきて……。

 ……あ。
 
 何かが心の片隅で動き始めるような気がした。
 それが、次第に膨らんでいく。
 私の意識を押しのけていくそれは、きっと千晶さんの意識だ。
 そのまま、目の前が真っ暗になっていく……。

「おい、久美……久美?」

 久美?久美って?
 あ、そうか、私、久美さんに体を……。

 気が付くと、私は高野さんに抱きかかえられていた。

「……あ、高野さん」
「え?きみは?」
「最初に会ったときに挨拶しましたよね。浅野千晶です」
「あ、そうだったね。じゃあ……元に戻ったのかい?」
「ええ。……高野さん、久美さんとお話しして、私の言ったことが本当だってわかってもらえましたか?」
「ああ。きみの中にいたのは間違いなく久美だった。……さっきはごめん。きみの言うことを信じてあげなくて」
「気にしないでください。信じられない方が当たり前だと思いますよ。私だってまだ自分に起こったことが信じられないんですもの」
「……ありがとう。きみのおかげで久美と話をすることができた。本当にありがとう」

 そう言った高野さんの寂しそうな笑顔に、また胸がきゅっと締めつけられそうになる。

「それじゃ、今日はもう遅いし、私はそろそろ帰りますね」
「あ、じゃあ、送っていくよ。それか、タクシー代出すから、車を拾えるところまで……」

 私が立ち上がると、高野さんも慌てて立ち上がった。

「いえ、大丈夫ですよ。私の家、ここから歩いて15分くらいなんです」
「でも、この辺りの路地は暗いし、こんな夜中に女の子をひとりで歩かせるわけはいかないよ。せめて、明るい通りまで送るから」

 そう言うと、彼はコートを拾い上げる。

 結局、高野さんは私のワンルームマンションが見えるところまで送ってくれた。

「本当にここまでで大丈夫ですから。私の家、あのマンションですし」
「そうか。あの、浅野さん……今日は本当にありがとう」
「いいんですよ」
「それと、あの……」
「なんですか、高野さん?」
「いや……」

 高野さんは、何か言いかけて、途中で飲み込むみたいに言い淀んでいる。

「……きっと、また会いに行きますよ、久美さんと一緒に」
「え?」
「久美さんと高野さんが話できるように、私、また会いに行きますから心配しないでください」

 私を見つめている高野さんの驚いた表情に、クスリと笑って私は頭を下げる。

「それでは、今日はここで失礼しますね。おやすみなさい、高野さん」
「あ…ああ、おやすみ……」

 そのまま、私は自分のマンションへと小走りで駆けていく。

「ねえ、いるんでしょ、久美さん?」

 エレベーターに乗ると、私は小声で訊ねる。
 別に他に人はいないけど、夜中だし、だからって大きな声で話すのはへンな人みたいだよね。

「ねえ、久美さん?」
(うん)

 久美さんの済まなさそうな返事が聞こえた。

(ごめんなさいね、千晶さん。あの……体は何ともない?)
「もうー、久美さんったら無茶しすぎよ。あんなにいきなり私の体奪って、びっくりしたじゃない」
(ごめんなさい、本当にごめんなさい)
「……また、高野さんに会いに行きましょうね」
(え?)
「だって、また会いたいんでしょ?久美さんも高野さんも、このまま終われないんでしょ?」
(千晶さん、あなた、まさか?)
「久美さんに体を貸していた間、別に私は寝ていたわけじゃないのよ。なんか、狭いところに閉じ込められているみたいな感じで、久美さんみたいに自由に話すことはできないけど、久美さんの見ているものも私には見えてたし、久美さんの感じてることは私も感じてたの」
(そうだったの?)
「うん。それにその間、久美さんの高野さんへの想いがいっぱい流れ込んできて……あんなの知っちゃったら、ふたりのこと放っておくことできないじゃない」
(……千晶さん)
「高野さんって、いい人ね」
(……うん)
「だから、また高野さんに会いに行きましょう」
(ありがとう、千晶さん)

 久美さんの声は、少し震えているように思えた。
 なんだか、心がじんわりしてきて、涙が溢れてくる。

 でも、これは私の気持ちじゃない。
 久美さんの気持ちが流れ込んできてるんだ。

「もう、久美さんったら、泣き虫なんだから」
(うん、ごめんね。さっきも私、ずっと泣いてて、千晶さんの服、涙でぐしょぐしょにしちゃって……)
「バカ……。いいのよ、そんなこと……」

 後から後から涙が溢れてきて、泣きたいのは久美さんなのか私なのかわからなくなる。

 でも、久美さんを高野さんに会わせてあげて本当に良かった。

 心の底からそう思っている私がいた。

* * *

4.千晶、久美、そして……

「あっ、お帰りなさい、高野さん!」
「えっ、浅野さん?」

 仕事から帰ってくる高野さんをマンションの前で待っていた私は、その姿を見つけて手を振る。
 初めて久美さんを高野さんと会わせてあげた日から3日後のことだった。

 高野さんの姿を見ただけで、私の中で久美さんがはしゃいでいるのがわかる。
 久美さんの感情が流れ込んできて、私までこんなに胸がドキドキ弾んで、それにちょっと甘酸っぱいような切ない気持ちでいっぱいになってくる。

「本当にまた来てくれたんだ?」
「ええ、約束しましたから、高野さんにも、そして、久美さんにも」
「ありがとう、浅野さん……。さあ、上がって、外は寒いから」

 そう言うと、高野さんは遠慮がちに私の肩に手を当てて中に入るよう促す。

 ……そうよね、私の中に久美さんがいても、体は私の体だもんね。

 高野さんは久美さんの彼氏で、本当なら私とはなんの関係もない。
 だから、私にはすごく気を遣ってくれてるのがわかる。
 その、控えめな態度が、嬉しいような、少し悲しいような気がした。
 

「あの、もし良かったら高野さんの携帯のメールアドレス教えてもらえませんか?」
「え?」
「だって、いつもこうやってマンションの前で帰りを待つわけにもいかないですし、連絡先くらいは聞いておこうかなと思って」
「でも、俺のアドレスだったら久美に聞いたらいいのに」
「あ、そうか!」

 そうよね、婚約者なんだから当然久美さんは高野さんのアドレス知ってるわよね。

 頭の中で、クスクス笑う久美さんの声が響く。

「もうっ、久美さんったら笑わないでよ」
(ごめんごめん。でも、なんだか千晶さん可愛らしくって)
「もうーっ!」
(だって、千晶さんったら馬鹿正直にマンションの前でハルくんが帰ってくるの待ってるし、それにアドレス教えてって、女子高生みたい)
「あーっ、久美さんってば私のことバカにしてるでしょ!」
(ごめんなさい……うふふっ!)

「……ちょっと、浅野さん?今、ひょっとして久美と話をしてるのかい?」

 少し驚いた様子で、私と久美さんの会話に高野さんが割り込んでくる。
 もっとも、高野さんには私が独り言を言っているようにしか見えなかったんだろうけど。

「ええ、そうですけど」
「じゃあ、きみたちはいつでも話ができるっていうのか?」
「あー、久美さんに私の体を貸しているときは、私は何も話すことはできないんですよ。でも、こうやって自分の体を私が使っているときは、久美さんとは普通に話ができるんです。とはいっても、久美さんの声は頭の中に直接響くような感じで、他の人には聞こえないんですけどね」
「ふーん、じゃあ、きみがそうしているときも、久美には僕たちの話は聞こえているんだね」
「はい。……じゃあ、私、そろそろ久美さんと交替しますね」
「うん、すまない、浅野さん」
「いえ、いいんです。……私の方こそごめんなさい、高野さん」
「え?」
「私、久美さんの心を呼び出すことはできても、姿は……私のままですから。私、幽霊の時の久美さんの姿を見てますけど、私と久美さんってあまり似てませんよね。久美さんは大人の女性って感じがするけど、久美さんに比べたら私なんか子供っぽくて……。本当は、高野さんも、あの姿をした久美さんと会いたいですよね……」
(千晶さん……)

 さっきから、ずっとそのことが気になっていた。
 だって、久美さんに私の体を貸すことはできても、それはやっぱり私の体だから。きっと見た目は久美さんとは全然違う。
 高野さんは、どんな気持ちで私の姿をした久美さんと話をしてるんだろう?
 やっぱり、あの姿をした久美さんと会いたいんじゃないだろうか……。

「うん……それは、あの姿の久美と会いたくない、って言ったら嘘になるだろうね。でも、久美が死んでしまって、もう会って話をすることもできないと思っていたのに、浅野さんのおかげでこうやって久美と話をすることができるんだから、もうそれで充分だよ。きみには本当に感謝してる」
「高野さん……」

 高野さんが、そっと私の頭を撫でて優しく微笑んだ。

「死んだはずの久美と話ができるだけでも夢みたい話なのに、それ以上のことを望んだらバチが当たるよ。それに、なんて言ったらいいのかな。久美は久美で、浅野さんは浅野さんだ。きみにはきみのいいところもあるんだよ。な、久美もそう思うだろ?」

 私の中の久美さんに語りかけるように、高野さんは私の目を見つめてゆっくりと言う。

(うん、そうね。ハルくんの言うとおりだわ、千晶さん)
「ありがとうございます、高野さん、久美さん……じゃあ、久美さんに代わりますね。いい、久美さん?」
(……うん)

 私は目を閉じて心を落ち着ける。
 久美さんが出て来やすいように、なるべく何も考えないようにして。

「……ううっ!」

 私の中でなにかが膨らんでいっぱいになっていく。
 クラクラと目眩がして、吐き気がするような違和感。

 やっぱり、心構えはしていてもこの気持ち悪さは変わらないのね……。

 次第に視界が歪んでいき、意識が遠のいていく。
 そして、私は久美さんに体を明け渡す。

 あれから、私は何度も高野さんと会った。
 というか、久美さんと高野さんを会わせてあげた。

 高野さんの仕事が休みで私もバイトがない日は、まる1日久美さんに体を貸してあげて、代理デートみたいなことをさせてあげることもあった。

 そんな時、いっつも高野さんは、「浅野さんに何かプレゼントしてあげようよ」って言って、服とかアクセサリーとか買ってくれた。
 久美さんも、「そうよね、もう私には必要がないものだけど、千晶さんにはまだまだいるものね」とか言って、体を貸している間は私が口出しできないのをいいことに、率先して私へのプレゼントを見立てていた。

 体を返してもらった後で、「こんなことしてもらったら悪いよ」って言うと、久美さんったら、「いいのよ、それは私たちから千晶さんへの感謝の気持ちなんだから」だって。

 ……ていうか、お金出してるのは久美さんじゃなくて高野さんじゃない。

 でも、実際、久美さんの洋服選びのセンスはすごかった。
 きっと、私なら買わないという服なのに、着てみるとちゃんと私に合ってるし、がらっとイメージが変わって大人びた印象になるような服を選んでたりする。
 こういう時は、さすが大人の女性は違うなぁ、と感心させられる。
 そういえば、いくらいっつも私の中で一緒に生活しているからとはいえ、ちゃんと私の服のサイズを把握してるとことかもさすがだと思う。

 そうやって、何度も会っているうちに、高野さんもだいぶ元気になったみたい。
 初めて会ったときはあんなにやつれていた顔もだいぶ血色が良くなって、寂しそうな顔よりも笑顔の方が多くなった。
 それを久美さんがすごく嬉しく思っているのは私にも伝わってくるし、私も嬉しいと感じる。

 

 そんな、私と久美さんと高野さんの不思議な関係を続けているうちに、季節はすっかり春になった。

 その日、私は高野さんの家でご飯を作る約束をして、スーパーで買い出しの真っ最中だった。
 もっとも、料理をするのは久美さんなんだけど。

(ええっと、きっとハルくんのところには調味料もろくにないはずだから、いろいろ買わないといけないわよ)
「ていうか、何作るつもりなんですか?」

 近くの人に聞こえないように、ひそひそ声で久美さんに尋ねる。
 最近では、少しくらい人がいる場所でも怪しまれないように小声で独り言を言うのもだいぶ上手くなったと思う。
 いや、そんな特技を身につけてもなんの自慢にもならないんだけど。

(クリームシチューをね。ハルくんの大好物なの)
「へえ……じゃあ、まずはルウを買わなくちゃいけませんね」
(なに言ってるのよ!ルウは牛乳と小麦粉とバターでちゃんとベシャメルソースを作るのに決まってるじゃない!)
「……あのー、私、料理って全然得意じゃないですからね」
(大丈夫!作るのは私がちゃんとやるから!)
「そうしてもらうとありがたいです。……ええっと、まず牛乳とバターですね。小麦粉は……」
(ちょっと待って!生クリームも買っておいて。これひとつで出来上がりのコクが全然違うのよ)
「はい……生クリーム、と」
(じゃあ、次は玉ねぎ、人参、ジャガイモ、彩りが欲しいからブロッコリーと、後は鶏肉ね)
「……結構買い込むんですね」
(あ、お金は後でハルくんに請求しておくわね)
「いえ、別にそういうつもりで言ったんじゃないんですけどね。それに、高野さんにはいろいろと買ってもらってますし、これくらいいですよ」
(いいから貰っておきなさいって、千晶ちゃんもバイトしながら学校行ってるんだから、そういうのは社会人にどんと任せておきなさいよ)
「……いえ、別に私そこまで苦学生じゃないんですけどね」

 何かと私に気を遣う久美さんに、思わず苦笑してしまう。

 そういえば、いつからだろう?
 久美さんが私のことを千晶さん、じゃなくて千晶ちゃん、て呼ぶようになったのは。
 まあ、別に嫌じゃないし、むしろ嬉しかったりするんだけど。

 久美さんと、そんな他愛もないおしゃべりをしているうちに買い出しも済んだ。
 スーパーの外に出ると、もう夕方だというのに、辺りには春の生暖かい空気が充満していた。

「すっかり暖かくなりましたよねー。久美さんと初めて会った日はあんなに寒かったのに……」
(そうね……て、幽霊だったから寒さは感じてないんだけどね。でも、こんなに長いつき合いになるなんて思わなかったわ)
「そうですよねー」
(ごめんなさいね、千晶ちゃん。こんなに長い間迷惑かけちゃって。もう、思い残すこともほとんどないし、私もそろそろ成仏しないとね……)
「なに言ってるんですか。私は全然かまわないですよ」
(ありがとう。でも、いつまでもこのままってわけにはいかないでしょ)
「それは、そうですけど……」
(それに、このままこの世に留まっていたら、私、悪い霊になってしまって本当に千晶ちゃんに取り憑いちゃうかもしれないし)
「そうなんですか!?」
(わからないわよ。私だって幽霊のことがわかってないんですもの)
「もう、驚かさないでくださいよ。久美さんがそんなことするはずないじゃないですか。さあ、早く高野さんの家に行きましょう」
(そうね……)

 夕暮れ時の道を、私は久美さんと無駄口をたたき合いながら高野さんのマンションへと歩いて行ったのだった。

「おっ、ひょっとして今日はクリームシチューか?」

 ハルくんの部屋に来て、いつものように千晶ちゃんに体を貸してもらってからキッチンで料理を始めると、ハルくんが鼻をひくひくさせながら入ってきた。

「あら、もうわかったの?」
「ああ、これだけバターの香りが部屋いっぱいに充満してるからね。久しぶりだな、久美の作ったシチューは」
「あ、そうだ、ハルくん。後でレシート渡すから千晶ちゃんにお金払ってあげてね。この買い出しの分、この子が払ったんだからね」
「うん、わかった」
「この子は、一人暮らしでバイトしながら頑張って学校行ってるんだから、ただでさえ私たちのことで迷惑かけてるのに、余計な負担はさせたくないでしょ」
「ああ……なんかおまえ、彼女の保護者みたいだな」
「だって、可愛いじゃない、この子。私はいつも一緒にいるからよくわかるの。真面目で優しいし、いつも一生懸命だし……。こんな妹がいたらいいなって、そんな風に思ったりもするし」

 本当に、ずっと見てるからよくわかる。
 この子が、毎日どれだけ頑張っているのかも。
 そして、私やハルくんにどれだけ気を遣ってくれてるのかも。

 もし私がいなくなっても、千晶ちゃんにならハルくんを任せられる。

 それは、何度も彼女に言おうとして、結局言えなかった言葉。
 だって、それは私の身勝手だもの。
 彼女には彼女の人生があるんだから。

 ……でも、ハルくんには。
 私がいなくなったら、ハルくんにはどんな人生が待ってるんだろう?

 本当はハルくんとずっと一緒にいたい。
 それが無理なら、せめて……。

「ねえ、できあがるまでもう少しかかるから、ハルくんは先にお風呂に入ってて」

 なんだろう?
 なんか、もやもやした複雑な気持ち。
 自分でも、何をどうしたいのかよくわからない……。

 そんな気持ちをごまかすように、私はハルくんに向けて笑顔を作ってみせる。

「んー、わかった」

 暢気に返事をして、キッチンから出ていくハルくんの後ろ姿を見て、私はハッと気づいた。

 もしかして、これが私の最後の心残り?
 でも、それは……。

 私は、頭を軽く振って気分を切り替えようとする。

 そんなの、とても言えない……。
 最後に、ハルくんに抱かれたいなんて。
 そんなこと……。

「ふうー、食った食った。ごちそうさま、久美」

 食器を洗い終えてリビングに戻ると、ハルくんはすっかりくつろいでいる様子だった。

「やっぱり、久美の料理は最高だな」
「ありがとう。でも、そんなこと言うと千晶ちゃんが傷つくわよ、料理が苦手なんだから」
「あ、そうか。俺との話は彼女も聞こえるんだったっけ。ごめん、浅野さん」

 ハルくんが、私に向かって手を合わせる。
 正確には、私の中の千晶ちゃんにだけど。

 今、千晶ちゃんがどんな気持ちでいるのか私にはわからない。
 彼女は、私の気持ちがいっぱい入り込んでくるって言うけど、私の方に千晶ちゃんの気持ちが流れ込んでくることはない。
 彼女と一緒になって、もう随分経つけど、そのへんの仕組みはどうなってるのかよくわからない。
 でも、千晶ちゃんのことをほとんど感じないせいで、気持ちが高ぶったときなんかは、これが自分の体だと錯覚しそうになってしまう。

「で、今日は何時くらいまでいられるんだ?」
「そうね、明日は千晶ちゃんお休みだから、今日はゆっくりできると思うけど」
「なんだ、そんなことまで把握してるのか?」
「それはね、この子が教えてくれるの。学校行って、バイト行って、その合間を縫って私たちが会えるようにって、ちゃんとスケジュール管理してくれてるんだから」
「へえ、そうなのか……」
「だから言ったでしょ、いい子だって」
「そうだな……。ありがとう、浅野さん」

 私が隣に腰掛けると、ハルくんは私の頭を優しく抱いて、千晶ちゃんにそっと礼を言う。

 ……本当にありがとう、千晶ちゃん。

 私は、千晶ちゃんがこの間言っていたことを思い出していた。

「ねえ、久美さん」
(なに、千晶ちゃん?)
「今度、高野さんのところで晩ご飯作ってあげることになってるでしょ」
(ええ)
「私、その次の日も完全フリーにしたから、久美さんは高野さんとゆっくり過ごしてね」
(千晶ちゃん……)
「久美さん、私の体を借りて高野さんと会っていても、いつも話してるだけでしょ」
(え?)
「あのさ……私の体だからって、そんなに遠慮しなくていいからね。私……あの……キスぐらいだったら大丈夫だから……」

 ためらいがちに口ごもりながらそう言った千晶ちゃんの口調。
 恥ずかしそうに体をもじもじさせているのが私にもわかるのが微笑ましかった。

「でも……やっぱり私の体だから、久美さんも高野さんも嬉しくないよね……そんなの……」
(……ううん、そんなことないわ。ありがとう、千晶ちゃん)
「うん……」

 ハルくんの腕に抱かれながらあの時の千晶ちゃんの言葉を思い出すと、つい頬が緩んでしまう。

 やっぱり千晶ちゃんは可愛らしくて、とてもいい子だわ。
 この子に出会えて、本当に良かったと思う。

 トクン、トクン、トクン……。

 ハルくんに体を預けていると、その鼓動の音が伝わってくる。

 ……あっ、やだ、私。

 そうやってハルくんの温もりに包まれていると、胸がドキドキと高鳴ってきて、さっき抑え込んだ思いが甦ってくる。
 もう一度……もう一度だけハルくんに抱かれたい……。
 そうしたら、もうこの世に思い残すことはないから……。

 だめ、そんなのだめよ。
 この体は私の体じゃなくて千晶ちゃんの体なんだから。

 ……でも、キスくらいなら。

 その時の私は、千晶ちゃんが言ってくれたことに甘えていた。
 ハルくんとセックスするのはさすがにためらわれるけど、キスならいいかな、と。

 いや、せめてキスくらいはしたかった。

「ねえ、ハルくん……」
「ん?なんだ、久美?」
「ね、キスしようよ」
「おい、おまえ……」

 少し驚いたようなハルくんの顔。
 そうよね、ハルくんの目に映ってるのは千晶ちゃんの姿なんだもの。

 でも、私にはハルくんしか見えない。
 私が死ぬ前に、いつもキスしていた時と同じくらいの距離にハルくんの顔がある。

「うん、わかってる。でもね、千晶ちゃんもキスくらいならしてもいいって言ってくれたの」
「だからって……」
「そう遠くないうちにきっと、私は本当にいなくなってしまう……。その前に、せめてもう一度ハルくんとキスしたいの」
「久美……」
「だから、お願い……」

 じっと見つめていると、ひとつ頷いてハルくんが私をぐっと抱き寄せた。
 すぐ目の前にハルくんの顔がきて、私は目を瞑る。

 ハルくんが小さな声で、「ごめんね、浅野さん」と言うのが聞こえた、次の瞬間……。

「ん……」

 唇に、ハルくんの唇が当たった。
 その、柔らかい感触も、鼻をくすぐるハルくんの匂いも、涙が出そうなくらいに懐かしい。

 私は自分からハルくんの頭を抱きかかえて、舌を絡めていっていた。

「んむ、むふ……あふ……」

 ハルくんの舌と私の舌が絡み合って、くすぐったいような暖かくて柔らかい感覚。
 何もかも、生きていたときと一緒。
 とても人の体を借りているとは思えない。
 間違いなく、これは私自身の感覚……。

「んん……んっ!?んっふ!」

 あっ、ああっ!
 今っ、アソコがびくびくって!
 それに、心臓がバクバクなって、体がすごく熱くなってきてる!

 私、キスだけで感じちゃってる!?
 せめてキスしたら少しは吹っ切れると思ったのに。
 だめっ、これ以上感じちゃったら、本当にしたくなっちゃう!

 でも、キスするのを止められない。
 頭ではこれ以上はダメだってわかっていても、気持ちが止めてくれない!

 いけないことだと思えば思うほど、かえってその気持ちが大きくなっていく。
 最後の心残りなんだから、どうしてもハルくんとセックスしたいっていう気持ちが広がっていく。

「んっ、んむっ、んぐっ、むふうっ!」

 私、積極的に舌を絡めて、熱烈にキスしてる……。

 あんっ!

 アソコのあたりがじんじんと熱くなって、全身に広がっていく。
 この体が、私の気持ちにこんなに素直に反応してる。
 まるで、自分の体みたいに。

 そうだわ……今は、この体は私の体なのよ……。

 高熱が出たみたいに頭がぼんやりして、そんな錯覚に陥りそうになる。

「んふうう……ねえ、ハルくん、私を抱いて」
「なっ!?久美っ、おまえ!」
「お願い、ハルくん!」
「おまえ、自分がなに言ってるのかわかってるのか?」
「どうして?私、こんなにハルくんとセックスしたいのに?」
「少し落ち着けよ、久美!おまえの体はっ」
「ううん!これは私!私の体なの!」

 だって、私の気持ちに合わせてこんなに体が火照って、こんなにアソコが疼いてる。
 本当に私の体みたいに。

 それは私だって頭の片隅では、この体は千晶ちゃんのものなんだからそんなことしたら駄目だってわかってる。

 でも、もう止まらない……。

「おいっ、久美!……うわっ!」

 ガタンと音を立てて私とハルくんは椅子から転げ落ちた。
 床に転がったハルくんの上にのし掛かるようにして、私はさらに迫る。

「ねえっ、お願い!これだけが最後の心残りなの!だから、私を抱いて、ハルくん!このままだと、私、おかしくなりそうなの!」

 ハルくんとセックスしたい、ハルくんとセックスしたい、ハルくんとセックスしたい……。

 そんなどろどした欲求で私の中がいっぱいになっていく。
 気持ちの暴走を、自分で止められない。
 自分の中でどす黒いものが渦巻いてるような気がして、このままだと本当におかしくなりそう。

 今まで、こんなこと感じたことなかったのに。
 私が幽霊だから?
 思い残したことが気になって、そのことで頭がいっぱいになって抑えられない。

 このままだと、本当に私……。

(それに、このままこの世に留まっていたら、私、悪い霊になってしまって本当に千晶ちゃんに取り憑いちゃうかもしれないし)

 さっき、冗談めかして千晶ちゃんに言った言葉がふっと頭をよぎった。

 このままだと、本当に気持ちが暴走して千晶ちゃんを乗っ取ってしまうかもしれない。

 そうならないためには、今、ここで心残りをなくしてしまうしか……。

 そんなの、自分勝手な言い草なのはわかってる。
 でも、もう私にはどうしようもないの。

「お願いっ、ハルくん!このままだと私、本当におかしくなって千晶ちゃんに取り憑いてしまうかもしれないの!だから、だからっ!」

 そう言いながら、ハルくんのズボンをずり下げると、出てきたそれをぎゅっと握る。
 そんなこと、生きていた時にもしたことはなかったのに。

 その時の私は、もう半分くらいおかしくなっていたのかもしれない。
 私の頭の中にあったのは、ハルくんとセックスしたいという思いだけ。

「ちょっ、ちょっと待てっ!」
「どうして!?私っ、こんなにハルくんとしたいのに!」
「落ち着いてよく考えろっ!」
「そんなこと言って、ハルくんのここだってこんなになってるじゃないの!」

 私の手の中で、ハルくんのそれが固くなってドクンドクンって脈打っていた。
 そうして握っているだけで、その熱が私の理性を奪っていくように思える。

 なんで!?どうして止めるの、ハルくん!?

 後ずさろうとするハルくんに、私は必死で追いすがる。

「私、本当にどうにかなりそうなの!」
「おまえ、いったいどうしたんだよ、久美!」
「欲しいの!私、ハルくんのが欲しくて、もうどうしようもないの!」
「でも、おまえのその体は浅野さんの体なんだぞ!」
「違うっ!今は私なの!この体は私のものなの!」
「久美!」

 ハルくんの咎めるような、驚いたような表情が、少しだけ私の気持ちを醒めさせた。

 その時の私は、どんな顔をしていたんだろう……。
 もしかしたら、鬼の形相だったのかもしれない。
 やっぱり、この体じゃだめなんだ……。

「だから、少し落ち着けよ、久美……」
「ハルくん……」
「おまえの体は、浅野さんの体なんだよ」
「……ハルくん」

 ハルくんの言葉に、私はしゅんとして俯く。

 でも、それも一瞬のことだった。

 すぐにまた、どろっとした欲望が頭をもたげてきた。
 どうしてもハルくんとセックスをしたいという思いで頭の中がいっぱいになってきて、抑えようとすると苦しくなってきて本当にどうにかなりそうななる。

「わかってる……。私だってこの体が千晶ちゃんのもので、本当はこんなことしたらいけないのはわかってるわ。……でも、どうしようもないの。ハルくんとセックスがしたくて、そのことで頭がいっぱいで、私の中で、もやもやしたどす黒いものが渦巻いてるの」

 息苦しさと切なさ、悲しさをぐちゃぐちゃに混ぜたような気持ちで押しつぶされそうになって、目からぼろぼろと涙がこぼれてくる。

「でも、ダメなの。この気持ちを抑えようとすると苦しくて、壊れてしまいそうで……自分ではもうどうしようもないの……」

 涙を流して訴える私をじっと見つめていたハルくんが、ひとつ大きなため息をついた。

「それは、俺だっておまえが彼女に取り憑くのなんか望んでないさ」

 なんて悲しそうな顔をしてるの、ハルくん……。

「本当にそうするしかないのか?」

 その言葉に、私は黙ったまま頷く。

「こんなことになってしまって、本当にごめんな、浅野さん……」

 まだ涙を流している私の頭を優しく抱くと、私の中の千晶ちゃんに語りかけるように静かに囁いた。

 そして、立ち上がるとハルくんはテレビの横の棚の抽出を引く。

 あの棚はたしか……。

「彼女には、どう言って謝ればいいのかわからないけど……こんなことになってしまった責任は俺も負うから、せめて、これくらいはしてやったらどうなんだ?」

 そう言って棚から取りだしたのは、コンドームだった。
 そうだった……結婚することが決まるまでは、ハルくんとする時にはいつも使ってた。

「うん……ごめん、ハルくん……」

 わずかに残っていた理性が、私にその言葉を言わせた。

 でも、自分でも情けないくらいに嬉しさの方が先に立っている。
 本当は、謝らなきゃいけない相手はハルくんじゃなくて千晶ちゃんなのに、そんなことすらどうでもいいくらいにハルくんとセックスできる喜びが溢れてくる。

「謝るんなら後で浅野さんに謝るんだよ。謝って済むもんじゃないけど、俺も一緒に謝るから」

 そう言いながら、ハルくんはコンドームを着ける。
 私には、それを待つのももどかしかった。
 さっきから、ハルくんのそれが欲しくて欲しくて、アソコが疼きっぱなしだった。

 気持ちが高ぶりすぎてもつれる指でショーツを脱いでいく。

 本当に、この体は私の気持ちに正直だった。
 ショーツは全体がぐっしょりと濡れて冷たくなっていた。

「早く……ねえ、ハルくん……」
「ああ……。浅野さん、本当にごめん……」

 そう言って、ハルくんは複雑な表情をする。
 でも、私にはもうハルくんのそれしか見えない。

「んんっ、んんんっ……」

 ハルくんのももに跨るようにして私たちは抱き合う。
 そして、中腰になると生きている時にハルくんとセックスしてた感覚で、私はそれをアソコの中に導いていく。

「うううっ!くううううっ!!」

 すると、ぶつっという鈍い抵抗感に続いて、ズキッと鋭い痛みが走った。

「久美?」
「……っ!な、なんでもないのっ!」

 ひょっとして、初めてだったの?
 ごめんね、千晶ちゃん……。

 その痛みで、これが彼女の初めてだったんだと瞬間的にわかった。

 千晶ちゃんに申し訳ないという思いが頭をよぎる。
 でも、そう思ったのが私に残っていた最後の理性だった。

「んっ、あああっ!ハルくんっ!」

 ハルくんにしがみついて腰を沈めると、私の中がハルくんのでいっぱいになっていく。
 アソコの中にいっぱいにハルくんのが入ってる。
 理屈じゃない、心が、私の魂が覚えている、この、満ち足りた感じ。

「ああっ、イイっ、イイよっ、ハルくん!」

 ハルくんので満たされている快感に、私は夢中になって腰を動かし始める。
 私ってこんなにいやらしかったのかと、自分でも思うくらいに。
 まだ、少し痛みは感じるけど、今はそれよりも快感の方がずっと大きい。

「ああっ、すごいっ、もっと、もっと突いて!ああっ、そこっ!」

 なんか、最後にセックスしたときよりもハルくんのが大きく感じる。
 息苦しいくらいに私の中がハルくんでいっぱいなってる。
 この体のアソコが、私の体よりも小さいのかな?
 すごくきつくて、でも、それがかえって中でいっぱいに擦れてすごく気持ちいい。

「あんっ!すごくイイのっ!」
「くっ、久美っ!」

 ハルくんの腕が私をぐっと抱きしめた。
 私もハルくんを強く抱き返すと、奥の方まで、ずんっ、て入ってきて頭の中が真っ白になる。

「ああっ、嬉しいっ!」

 私、ハルくんとセックスしてる……最愛の人を体いっぱいに感じてる……。
 これが……これが欲しかったの。
 嬉しくて、幸せで、もう、体を動かすのを止められない。

「ハルくん!ハルくん!」
「久美!」
「ああっ!私の中っ、ハルくんでいっぱいになって!あああっ!奥にっ、奥に当たってる!」

 腰を動かすたびに、私の中いっぱいのハルくんの先っぽがごつんごつんと奥に、子宮の入り口に当たってる。
 息が詰まるくらいに気持ちよくて、奥を叩かれるたびに目の前で光が弾ける。

「あんっ、ああっ!すごいっ!すごすぎてっ、止まらないっ!あっ、あんっ、あんっ、ああっ、ああんっ!」

 ハルくんにしがみついて、弾けたように動かす腰の動きがどんどん早くなっていく。
 快感を感じる回路が擦り切れてショートしてるみたい。
 さっきから頭の中でパチパチと火花が散ってる。

「ああっ!来るっ、すごいの来るっ!私っ、もうイクっ!、イっちゃうっ!」

 神経を焼き切るくらいのすごい快感がこみ上げてきて、全身がぶるぶる震えてる。
 アソコがきゅってハルくんのを締めつけてるのが自分でもわかった。

「ああっ、もうだめっ!私っ、イっちゃううううううっ!んっ、はぐぐっ……!」

 目の前が白く弾けて、私はハルくんにしがみつくとその首筋を甘噛みする。
 絶頂して大きな声が出そうになるのを、ハルくんの首筋を噛んで抑える、イってしまった時のいつもの癖が、ごく自然に出てきてしまった。

 時々強く噛みすぎて赤く内出血してしまって、ハルくんは嫌がってたけど。

「はぐぐぐっ……んむっ、んぐぐぐ……」

 ハルくんにしがみついたままの体がビクビク震えてる。
 頭の中がほわんとして、夢の中にいるみたい。

 でも……。

「んくっ、ふうううう……もっと、ねえ、もっと……」

 強ばっていた体が緩むと、また私は腰を動かし始める。

 こんなのじゃ物足りない。思い残しは晴れない。
 もっとハルくんと繋がっていたい。もっといっぱいハルくんを感じていたい。
 
「んっ、ああっ、もっと、もっとハルくんを感じさせて……もっと気持ちよくさせて。……あっ、ああんっ!」

 イったばかりでうまく体が動いてくれないけど、私の中でハルくんのが膨らんできて、すぐにまた快感がこみ上げてくる。

「ああっ、イイっ!ハルくんっ、大好きだよっ、ハルくん!」

 私は、ハルくんの名前を呼びながら、無我夢中で腰を振り続けた。

「んん……?」

 あれ、今日はちょっと寒いかな……?

 そうか、私、裸で寝てるから寒いんだ。

「むにゃ……ん……」

 私は、寝ぼけたままで毛布を引っ張り上げる。

 ……て、ん?
 私ったら、なんで裸で寝てるの?

 ……あれ?
 誰かが頭をさすってる。
 ええっと、誰?

 目を開けると、高野さんが微笑みながらこっちを見ていた。

「おはよう、久美」
「……え?高野さん?」
「え?……あっ、浅野さん!?」

 驚いたように高野さんの目がまん丸になった。

 ええっと……私、昨日、久美さんに体を貸してあげて、久美さんが高野さんにご飯を作ってあげて、その後……。

「あっ、あああああーっ!」

 思わず大きな声をあげて、ガバッと私は起きあがる。

「あ、浅野さん!?」
「やっ、ひゃああああっ!」

 裸なのが丸見えなのに気づいて、私は慌てて毛布で身体を覆った。

「やだっ、もうっ!ひどいよ久美さん!私、初めてだったのにーっ!」

 そう言って久美さんをなじる私。

 きっと、今の私、顔が真っ赤になってるんだろうな……。

(ごめんなさい、ごめんなさい、千晶ちゃん)

 申し訳なさそうな、本当に申し訳なさそうな久美さんの声が聞こえてきた。

「もうっ、ごめんじゃないよー!そりゃ、キスくらいはしてもいいって言ったけど、そんな、せ、セックスなんてっ!」
(ごめんなさい、本当にごめんなさい……)

 昨日のことを責める私の言葉に、久美さんはただ謝るばかり。

「あ、あの……浅野さん。ごめん、僕が悪いんだ。本当にごめん」

 一方的に久美さんをなじる私の言葉に状況を察したのか、高野さんが申し訳なさそうに割り込んできた。

「いーえっ、高野さんは悪くないです!あれはどう見ても久美さんが悪い!」
(本当に、昨日の私、どうにかしてたの。どうしても自分を抑えられなくて……)
「そーですよっ!昨日の久美さん、ホントに変でしたよ!私だって寝てたわけじゃないからわかってるもん!久美さんの見てることも、感じてることも私も一緒に感じてたんだからね!あんなっ……あ、あんな……」

 しまった、墓穴だ。
 私も一緒に感じてた昨日のことを思い出してしまった。
 ものすごく顔が熱くなってパニックになる。

 だって、あんなに幸せで、あんなに気持ちよくて……。

「……?ちょっと、浅野さん?」
「ひえええっ!あっ、いえっ、なんでもないんです!きゃあっ!」

 目の前で手を振られて我に返った私は、高野さんの顔を見て思わず後ずさり、そのままベッドから落ちてしまった。

「ちょっと、大丈夫!?」
「あっ、いえっ!大丈夫です大丈夫です!」

 毛布で体を隠したまま、私は床に脱ぎ散らかしてあった自分の服を手に取る。

「わっ、私っ、服着てきますねっ!」

 そう言って立ち上がると、バスルームの方に駆け込んでいく。

 結局、その後は高野さんの顔をまともに見ることもできなかった。
 服を着ると、私はそのままそそくさと高野さんの部屋を後にしたのだった。

 自分の部屋に帰ってから、私はベッドの上で膝を抱えて悶々としていた。
 帰る道々、アソコからズキッて鈍い痛みがして、ああ、私、やっちゃったんだなって思い知らされた。

 もう、幽霊に体を乗っ取られて初めてをなくしちゃうなんて、そんなのってある!?
 ホントにひどいよ……。
 あ、でも別に高野さんが嫌だっていうんじゃなくて。
 そうじゃなくて……やっぱり初めては私が決めた時に、私の決めた人としたかったな……。

 久美さんに聞こえないように、胸の内でひとりごちる。

 それに、さっきから何も言ってこないけど、久美さんの申し訳ない気持ちがひしひしと伝わってきてるから、なんだかこれ以上怒るのも可哀想だった。

 ……本当に、昨日の久美さんはおかしかった。

 あの時の久美さんの気持ちは、私にもいっぱいに伝わってきてたからわかる。

 そんなに高野さんのことを好きだったの?
 あれが、人を本気で愛するってことなの?

 でも、あんなのって……。

 あの時の久美さん、高野さんのことでいっぱいになってた。
 高野さんとセックスがしたいって、高野さんをいっぱいに感じたいって。
 それだけじゃない。
 ものすごくエッチな、いやらしい気持ちでいっぱいなってた。
 なんか、どろどろして、じっとりとした気持ち。
 あの時の久美さんの気持ちが、今も私の中にもこびりついているみたい。

 ずっと、いやらしいことをしていたい、気持ちいいことを感じていたい。
 ……高野さんと。

 私まで、そんな気持ちにさせられてしまうみたいだった。
 本当は、今も少しそんな気持ちが残っている。

「……んっ!」

 やだ……アソコが沁みるみたいにずきずき痛む。
 アソコに血が集中してるみたいに熱い。

 昨日、間違いなく私のここに高野さんのが入ってたのよね。
 あの、熱くて、苦しいくらいに私の中がいっぱいになって、頭のてっぺんまで突き抜けるような快感……。

「んんっ!」

 アソコが、ひくひく痙攣してる。
 やだ、私ったら……。

 私はこんないやらしい女の子じゃないもん!
 こんないやらしいこと考えてるのも、久美さんのせいなんだから!

 ……でも。

 久美さんが高野さんとセックスしていた時の、あのすごく幸せな感じ。
 それに、すごく気持ちよかった……。
 好きな人とセックスするのがあんなに幸せなことだなんて想像もしてなかった。
 あの時、久美さんが私の体を使って高野さんとセックスしていた時、間違いなく私も気持ちよく感じていたし、いっぱいに幸せを感じていた。

 それは、こんな形で初めてを失ったのはショックだけど、初めてがあんなに幸せで気持ちのいいセックスだったんだし……。

 その時、携帯が鳴ってメールの着信を知らせた。

 ……高野さんからだ。

 そのメールには短く、『本当にごめん。謝って済むことじゃないけど、せめて、せめて久美のことは許してあげてくれないかな』とだけ書いてあった。

 高野さん……。

 そのメールを見てるだけで、胸が締めつけられる。

 違う、この気持ちは久美さんの気持ちなんだから。
 そのはずなのに……。
 わからない……この気持ちが久美さんのものなのか、自分のものなのかわからなくなってくる……。

 でも、それだけに久美さんの気持ちが痛いほどにわかる……。

 あ、そうか……そうだったんだ。

 私は携帯で素速くメールを打つ。
 もちろん、高野さん宛てに。

 そして、大きく深呼吸して心を落ち着けると久美さんに話しかけた。

「ねえ、久美さん」
(……なに、千晶ちゃん)

 心なしか、久美さんの声は少し怯えているみたいだった。

「もう怒らないから、そんなにびくびくしないで、久美さん」
(……え?)
「本当にあれが、久美さんの最後の思い残しだったんだよね」
(千晶ちゃん?)
「久美さん、本当に高野さんのことが好きだったんだよね。それが、こんなことになって、自分が事故で高野さんを残して先に行っちゃって、それが心残りで幽霊になっちゃったんだよね。だから、自分の思いを高野さんに伝えて、高野さんが元気になるまで一緒にいてあげたかったんだよね」
(……)

 久美さんからの返事はない。
 でも、私に流れ込んでくる、辛くて切ない思いで久美さんの気持ちはわかる。

「あんな形で突然自分が死んじゃって、もう、高野さんと話をすることもできなくなって、本当に悲しくて悔しかったんだよね」

 話しているうちに、私の目から涙が溢れ出してくる。
 でも、それは久美さんが泣きそうだからじゃない。
 これは間違いなく私の涙だ。

「でも、久美さんの思い残しはそれだけじゃなかったんだよね。もう一度、生きていた時みたいに高野さんと愛し合いたかったんだよね」
(千晶ちゃん……)
「久美さんは、もう一度だけ、高野さんと、その……セックスしたかったんだよね」
(だけど……それは……)
「私、その役目を引き受けたんだから、とことんふたりにつき合ってあげないといけなかったんだよね」
(そんな……千晶ちゃん……)

 そんなに済まなさそうにしないで、久美さん。
 私の胸まで痛んでくるから。

 私は、ぐいっと涙を拭うと、できるだけ明るく言う。

「だから、もう一度高野さんに会いに行こう」
(え?)
「さっきは私がパニックになってて、ちゃんと高野さんと話すことができなかったから。ね?」
(で、でも……)
「私、これからもう一度伺いますって高野さんにメールしちゃったもん」
(いっ、いつの間に!?)
「ふふんっ、私の超速メール送信を馬鹿にしないでよね。さっ、行こう、久美さん」

 そう言って立ち上がると、私は身支度を整える。

「すみません、何度もお邪魔してしまって」

 また、高野さんの部屋に上がらせてもらって、向かい合わせで座る。
 でも、やっぱり恥ずかしくて、まだ高野さんの顔をまともに見ることができない。

「……あの、どうしたのかな?」

 高野さんの声も少しうわずっている気がする。

「さっきは私、パニックになってたから、あんな感じで帰ってしまって。でも、少し落ち着いたら、久美さんと高野さんに話をさせてあげた方がいいかなって思って」
「え?」
「だって、久美さんはいつまでこの世にいられるかわからないんですもの。私、できるだけふたりを一緒にいさせてあげたいんです」
「浅野さん……」
「だから、久美さんと代わりますね」
「ちょっと待った!浅野さん!」
「え?どうしたんですか?」

 久美さんに体を貸そうとした私を止めた鋭い口調に、思わず顔を上げる。
 高野さんは、ものすごく真剣な顔をしていた。

「その前に、僕からも浅野さんにちゃんと謝っておかないと」
「ああ、そのことならいいんです」
「ええっ?」
「だって、あれは私も悪いんです。久美さんと高野さんは婚約してたんだから、あのくらいのことはあるって覚悟してなくちゃいけなかったんです」
「でも……」
(千晶ちゃん……)
「それに、私が久美さんの願いを叶えることを引き受けたんだから、最後までやりとげないと。だから、こんなことでへそを曲げて投げ出すわけにはいかないじゃないですか。私は、久美さんと高野さんの気が済むまでつき合わないといけないと思うんです」

(……もう充分よ、千晶ちゃん)

「え?久美さん?」

 久美さんの口調が、いつもとは違った。

「え?ええっ!?これは!?」

 私の体がぼんやりと青白い光に包まれて、私は驚きの声をあげた。

「本当はもう行かなくちゃいけないってずっと思ってた。本当なら、あのまま死んでしまって、もう二度とハルくんに会うことも話すこともできなかったはずなのに、こうやってハルくんと一緒の時間を過ごすことができて、私の思いを伝えることができたんだから」

 私の口が勝手に動く。
 久美さんに体を貸しているときとは違う。
 私の意識ははっきりしてるし、体の感覚もちゃんとある。
 まるで、私の体を私と久美さんとふたりで同時に使っているみたい。

「それだけでも夢みたいなことなのに、私のわがままで、最後の思い残しまで強引に晴らしてしまって……。千晶ちゃんには本当にひどいことをしたのに、それでも千晶ちゃんは許してくれた。だから、もう充分」
「そんなっ、久美さん!」

 私の言葉もちゃんと出る。
 ひとりで会話してるのはいつもやっていたことだけど、こうやってふたりの言葉が声に出ると不思議な感じがする。

「ううん。千晶ちゃんにはいくら感謝してもしきれないのに、私には何もお礼ができない。それどころか、千晶ちゃんの大切なところに傷まで付けてしまって……」
「そんなのいいからっ!全然気にしてないって言ったら嘘になるけど、私は……大丈夫だから……」
「本当にごめんね。私には謝ることしかできなくて」
「そんなことないよ……」
「私にできるのは、千晶ちゃんを自由にしてあげることだけだから」
「だから、そんなことないって!私も久美さんと一緒にいて楽しいこともいっぱいあったんだから!」
「でも、いつまでも千晶ちゃんに迷惑をかけるわけにはいかないわ。ね、ハルくんもそう思うでしょ」
「うん、そうだな、久美」

 そう言って高野さんが私に向けている視線。

 やだ、高野さんったら、なんて柔らかくて暖かい表情で私を見てるの?

「ちょっと、久美さんも高野さんもなに言ってるの!?」
「もう、私がいなくなっても大丈夫よね、ハルくん?」
「ああ……」
「良かった。これで、本当に思い残すなく成仏することができるわ」
「ちょっと、久美さん!」
「ちゃんと聞いて、千晶ちゃん。私は、本当はここにいちゃいけないの。いつまでも千晶ちゃんの中にいたらいけないのよ」
「でも、でもっ!」

 私に流れ込んでくる、久美さんの気持ち。
 なんて、なんて落ち着いて安らかな気持ちなの……。
 久美さん、本当に行っちゃうつもりなんだ。

「千晶ちゃんのおかげで、私はこんなに安らかな気持ちで行くことができる。本当に、あなたに会えて良かった」
「ううっ、久美さん、そんな……うううっ!」

 私の目から、ボロボロと涙がこぼれ落ちる。

「泣かないで、千晶ちゃん。あなたが泣いたら私も行くのが辛くなるじゃない」
「だったら!」
「これ以上私があなたの中にいたら、本当に悪いことが起きるかもしれない。だから、私は行かなくちゃいけないの」
「そんな、そんなっ!」
「あなたのおかげで何も思い残すことはないの。千晶ちゃんはいいことをしたんだから、胸を張って、笑顔で見送ってちょうだい」
「うっ、ううっ!」
「じゃあ、そろそろ行くね、ハルくん」
「ああ」

 そっと、高野さんの腕が私を、いや、久美さんを抱いた。

「私がいなくても、幸せになって欲しい。それが、私の最後の願い」
「うううっ、久美さん!」
「ああ……もう……本当にさよならね、ハルくん、千晶ちゃん……」
「ああ。さよなら、久美……」
「久美さんっ!」

 私を包んでいた青白い光が、ひときわ強くなった。

「……さようなら、私の大切な人」

 その言葉を最後に、私の周りの光が、ふっ、と消え失せた。
 それと一緒に、私の中の久美さんの気配も。

「うううっ、ひくっ、そんなっ、やっぱりひどいよ、久美さん。こんないきなり行っちゃうなんて!」
「これで良かったんだよ、浅野さん。きみには本当に感謝してる。ありがとう」

 いつまでもしゃくり上げて泣いている私を抱いたまま、高野さんが慰めてくれる。
 本当は高野さんが一番悲しいはずなのに、高野さんも泣きたいはずなのに。
 そう思ったら、涙が止まらない。

 それに、高野さんの腕に抱かれていると、なんでこんなに胸が締めつけられるんだろう?
 この気持ちは、久美さんの気持ちのはずだったのに。
 もう、久美さんはいないっていうのに……。

 ああ……私、やっぱり……この人のことが好きなんだ。

「うっく!ううっ、ひくっ、うああああ!」

 いつまでも泣きやまない私を、高野さんはずっと優しく抱きしめてくれていた。

* * *

5.雅治

 俺の部屋で久美が成仏してから、もう1週間経った。

 やっぱり少し落ち込んだけど、久美が事故に遭った時に比べたら全然ましだ。
 あの子の、浅野さんのおかげで久美とまた会うことができて、久美と一緒に過ごす時間を持てたから。
 今から考えると、心の整理をするためのロスタイムをもらったような気がする。

 それは、久美がいなくなって寂しいけど、立ち直ろうという元気も湧いてくる。

 いつまでもくよくよしていたら、久美に叱られてしまうよな……。
 それに、あの子に申し訳がないじゃないか。

 本当に、浅野さんには感謝してる。
 久美との、貴重な時間を過ごさせてくれたことに。
 もう少し、久美と一緒にいたかったという思いは今でもある。

 だけど、最後に久美が言ったとおりだ。

 彼女に、いつまでも迷惑をかけるわけにはいかない。
 あの子にはあの子の人生があるはずなんだから。

 だから、携帯から彼女のアドレスも消去した。

 ……これでいいんだよな、久美。

 ん?あれは?

「……浅野さん?」

 俺のマンションの入り口に、包みを提げた浅野さんが立っていた。

「あ、お帰りなさい、高野さん」
「どうしたの?」
「これ……クリームシチューです。あの時、久美さんが作るのを私も見てたから、見よう見真似で自分で作ってみたんです。でも、私は料理は得意じゃないから、久美さんみたいに上手く作れてないかもしれないですけど」

 そう言って、浅野さんは持っていた包みを掲げた。

「浅野さん……」
「私は久美さんとは全然違うし、私じゃ、久美さんの代わりにはならないかもしれないけど……」

 浅野さんはそう言って寂しそうに笑う。

「浅野さん……?」

 ハルくんったら、なにボサッと突っ立ってるのよ!

 久美にポンと背中を押された。
 そんな気がした。

「あっ……」

 思わず一歩踏み出して、彼女の真っ正面に立って向かい合う。

「高野さん……」
「とりあえず、上がろうか?」
「はい……」

 浅野さんの肩に手をかけると、ビクッと小さく震える。
 まるで、少し怯えているみたいに。

 よく考えたら、久美なしで彼女と会うのはこれが初めてだ。
 なんか、妙に気恥ずかしくて、お互い動きがぎこちない。

 その時、強い風が吹いて、彼女がよろめいた。

「きゃあ!」
「浅野さんっ!」

 その腕を掴んで引き寄せると、そのまま抱き寄せる形になった。

「大丈夫?」
「はい」

 俺の胸に抱かれる格好になって、浅野さんは小さく頷く。

 耳元で、吹きつける風がひゅうっと音を立てていた。

 私に遠慮しなくていいから、ハルくんも千晶ちゃんも幸せになってね。

 久美の声が、そう言っているような気がした。

< 終 >

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