第2話 妹、大いに怒り、スマホ鳴動す
朝イチの授業を待つ教室。
みんな、何かを期待していた。
彼女は絶対にその期待を裏切らないと、確信している顔で。
「おはよーございま……いたぁ!?」
マキちゃん先生は、さっそく自分で開けたドアに自分で頭をぶつけていた。
どっと教室が湧き上がる。
「えー、それ新しいパターンじゃん」
「今日は早いなー。ひょっとしてドジの世界記録じゃね?」
「うわ、痛そう。てかメガネ大丈夫? 割れたんじゃない?」
「あたた……だ、だいじょうぶよ。こんなこともあろうかと、柔らかくて壊れないフレームだから。ほら」
べきっ。
「あぁ!? これ違うメガネだった!」
「あはははっ、ウケる!」
「先生、今日もマジすごくね。ネタのパラダイスじゃん」
「せんせー、LINEに上げるからこっち向いてもらっていいっすかー?」
大ウケする教室の中で、マキちゃん先生はがっくり肩を落としている。
「はぁー……またやった……」
その後、メガネ交換のために一度職員室に戻ったマキちゃん先生は、授業をいきなり中断してしまったことを何度も僕らに謝った。
しかしそういうところも含めて僕らはマキちゃん先生のファンなので、みんなは暖かい目でそんな彼女を見守るのだった。
吉川マキ。
僕のクラスの副担任。ちなみに担任は事故って入院中のため、新卒2年目の彼女が担任代理になっている。
かなり重度のドジっ子属性持ち。しかも不運スキルにも恵まれている模様。これまでノーミスで授業をやり遂げたことがない。今日のメガネ事件もそうだが、本人は普通にやっているつもりでも「こける」、「忘れる」、「物を壊す」といったパッシブスキルが自動で発動される。
いつぞやコートを着たまま授業を行った話などは全校でも伝説になっていた。
その日、なんと先生はスカートを履いてくるのを忘れたのだ。男子の盛り上がり方が異常だったことは言うまでもない。
むしろ先生のドジっ子ぶりは愛されていると言っていい。職員室での評判は知らないが、生徒の方は男子はもちろん女子もマキちゃん先生のファンである。
性格的に可愛いというか、保護欲をくすぐるタイプというのもある。年上だけど感覚的には同級生か、逆に年下の子っぽい感じだ。
そして見た目がとにかく美人だ。今も一瞬メガネを外したときに見えた素顔は、テレビに出ててもおかしくないレベルだった。本田なんとかっていうモデルにそっくりなんだ。
そして、なんといってもあのボディ。じつは彼女はものすごくプロポーションがいい。
普段のドジっぷりやふわふわした性格で忘れられがちだが、まさに妖艶とでも形容すべき本格的な女性の肉体をしていた。
まさに「出るとこ出てるが出過ぎたりせず、締めるところはきっちり締める」である。であるっていうほど上手く表現できてないけど。つまり黄金比だ。数学的に解析したら芸術論文が出来そうな肉体だ。
体育祭で彼女が体にフィットしたジャージを着て登場したときなど、写真部への撮影依頼が殺到してコダマ先輩がキレたくらいだ。
プロの絵師でも彼女のような自然体で美しいボディを表現できるのはごく一部だろう。2次元派のカリンにこういうことを言うといつも口ゲンカになるが、やはり僕は3次元のリアル女性にこそ真実の美が存在すると思う。
マキちゃん先生の体がそうだ。僕はどうしても彼女の体を撮ってみたい。
そして、出来ればその体で―――
「先生、落ち込まないでー」
「そうそう、メガネはもったいないけど、今日壊したのは私物だけだから、まだラッキーだったじゃん」
「う、うん。みんな心配かけてごめんね……」
授業が終わったあと、数名の女子に励まされながら帰っていくマキちゃん先生の後をつける。
ちなみに学校の公共物を破壊するのも彼女の日常茶飯事だ。
「そんじゃね、マキちゃん」
「元気出して! うちらはマキちゃんの味方だよ!」
「ありがとー」
女子たちも都合良く離れていき、マキちゃん先生が一人になった。
僕はさっそく彼女に接触を図る。
「ふぅ……生徒に励まされる教師っていったい……」
「先生」
「はい!?」
「わぁ!?」
何やら独りごとを言ってたとこらしく、ものすごくびっくりさせてしまった。手にしていた教科書をバサバサと落としてしまい、僕もびっくりしてしまった。
「あ、あ、篠原くん? ごめんね、大声出しちゃって? あはは……先生に何か用かな?」
あわあわと教科書を拾う先生。しゃがんだせいでスカートの下の太ももが良い角度で強調され、僕は思わず目を逸らす。
「授業でわからないとこでもあった?」
「いえ、あの」
さすがに緊張する。
でも、アプリでの命令は昨夜のうちに済ませている。
これから僕がお願いすることは、彼女にとっては『常識』で『普通』のことだ。
「ほ、放課後、写真のモデルをお願いしたいんですけど」
「あぁ、そんなこと? もちろんいいよー」
ほがらかな笑顔で、マキちゃん先生は頷いてくれる。
写真部の篠原コタロウにモデルをお願いされたら、特に用事がない限り引き受けること。僕はアプリを介して彼女にそう命令していた。
放課後に先生の用事がないことも、ちゃんと確認済みだった。
僕は手に汗を握る。心臓が激しく脈打つ。からからの喉に唾を飲み込む。
屈託のない笑顔で生徒のお願いを聞いてくれる優しい先生に、さらに鬼畜な要求をするために。
「それでっ、その…ッ! モデルって、ヌードにもなったりする……モデルなんですけど……」
「ええ、わかってる。大丈夫よ、ふふっ」
篠原コタロウの写真モデルは、ヌードが基本。
マキちゃん先生は、なんの疑問も浮かべずに、笑ってOKしてくれた。
。
。
。
写真部のカーテンは、めったに使われないけど、フィルム現像用に遮光の黒くてぶ厚いやつを使用している。
僕はそれを無言で閉じた。太陽光がなくなっちゃうけど、こんな撮影を万が一でも他人に見られたくはない。
コダマ先輩は、『昨日の夕焼けにリベンジするときが来た――』とメールがあったので、今日も野外撮影らしい。
念のためカギもかけておいた。ドアの小窓にもカーテンをかけた。パンツも新しいのを履いてきている。
膝はぶるぶる震えているけど。
シュルリ、シュル。
背後で衣擦れの音が聞こえる。
僕はさっきから一度もその方向を見ることが出来ない。
「な、なんだか恥ずかしいよね、やっぱり……」
「そそそそうですよね、すみませんフヒヒ! もう中止にしちゃいましょうか!?」
「え、いいの、いいの。ヌードは基本だしね、うん。だ、大丈夫、大丈夫……」
後ろを見ることができない。リアルな脱衣音が想像力をかき立てる。
モデルになるのは当たり前でヌードは基本。僕は彼女に常識外れな命令をしたけど、人前で裸になることの羞恥心まで消したわけじゃない。
僕のお願いを聞くことと、裸になることの抵抗と、マキちゃん先生の心の中でどういう整理がされているのか僕にもわからないけれど、服を脱ぐ手を休めることはないようだ。
バックンバックンと高鳴る心臓をどう鎮めようかと心の中で円周率を数える。昨日からドキドキしっぱなしで、僕のライフも減ってる気がする。
落ち着け。落ち着くんだ。焦りすぎだ。とにかく焦っちゃダメなんだ落ち着けよ落ち着けったらいいから落ち着け焦るなって。
プチっ。
「なんですかッ!?」
「えっ、きゃあ!?」
「あぁッ!? ごめんなさい!」
いかんいかん。焦って先生がブラを外した音に返事をしてしまった。
そして一瞬、見てしまった。先生の横乳というやつを。ブラの色は黒っぽかった。はずしかけのカップから覗く肌は、驚くほど白くて丸くて大きかった。
あぁ、やばい。くらくらする。白い肌がシャッター開放しっぱなしの瞳孔に焼き付いてゴーストを発生させている。真っ直ぐ立っていられないかも。
「……も、もういいよ」
後ろで先生の恥ずかしそうな声がする。
僕は、緊張ですっかり固くなった首をギギギと回す。
スーツの上着で肌を隠したマキちゃん先生がそこに――……
「あぁッ!? どうしたの、篠原くん!? しっかりして!」
まさかこんなところで失神するわけにはいかないと、僕は倒れてからも必死に意識を繋ぎ止める努力はした。
しかし、慌ててスーツを捨てて僕の元に駆けてくる彼女のバインバインに揺れる贅沢な白い胸が先端の鮮明な桃色突起物を激しく上下させているのを目視して、とどめを刺された僕は気を失った。
きっと、イイ顔してたと思う。
「篠原くん、起きた?」
「あ?」
気がつくと、僕は写真部の椅子を並べた上に寝かされ、服を着たマキちゃん先生に介抱されていた。
「よかったぁ。覚えてる? 篠原くん、貧血起こして倒れたんだよ。具合悪くない?」
「え、いや、全然、大丈夫です、もう」
原因も理由も明らかで、体調のせいじゃなかった。先生が服を着てしまった今、僕をノックアウトする危険な存在はいない。
急いで立ち上がろうとする僕を、先生は優しく押しとどめる。
「だ、ダメよ、急に立ったら。もう少し横になりなさい」
「いえ本当に僕は――」
「ダメ。先生が看ててあげるから、寝てなさい」
「……はい」
少しだけ先生らしい物言いに、僕はおとなしく頷いてしまう。
撮影は失敗だな。
残念なような、安心したような。
「……私って、先生失格ね」
「え?」
唐突に、先生はおかしなことを言い出した。
それは僕に言っているというより、独り言のつぶやきのようだったけど。
「篠原くんのモデルしなきゃいけないのに、裸はちょっとやだなって正直思ってて……だから、篠原くんが倒れて大変なときに、私ったらまず自分が服を着て……最低だよね。篠原くんにもしものことがあったら――」
「あ、いえ、そんなことは全然なかったんで! むしろ、裸のまま助けを呼びに行かれるほうが大変っていうか、当然です!」
「ダメだよ。大事なお子さんたちを預かってる身なんだもん。万が一でも、生徒の安全を優先しなきゃ」
そんなこと言ったって、どう考えても服を着るのが先だろう。言い訳のしようがないのは僕の方だ。しかも、倒れたのだって完全に自業自得だし、服を脱がせたのも僕だ。先生の責任なんて1ミリもない。悪いのは完全に僕だけだよ。
「は~あ、もう最低。私のバカ」
でも、先生もなんだか落ち込みすぎっていうか、自罰的すぎるっていうか。
僕に謝るというより、自分を責めたいっていうような、変な感じだった。
「私って、やっぱりずるいんだ。あの頃と全然変わってない」
「え?」
マキちゃん先生が、普段見せないシリアスな横顔で、ぽつりと言った。
ひりひり、なんだか肌に刺さりそうな重い空気で。
「ごめんね。あとで家まで送っていくから」
そして、くるりと表情を変えて、僕を安心させるような笑顔になる。
でも、その可愛らしさよりさっきの沈痛な表情と発言の方が僕は気になった。
ずるいって? マキちゃん先生に一番縁のない単語だと思うけど。
「……先生」
「ん?」
「あ、いや、なんでも、ないです」
「なーに、もう」
言葉の意味を聞きかけて、やっぱりやめた。
先生はにこっと微笑み、そして窓の向こうへ視線を動かす。
透明感のある微笑みに、憂いがベールのように薄くかかっている。
シャッターチャンスとはまさにこの瞬間のことだと断言できるほど美しい横顔だったけど、僕は見とれたまま動けずにいた。
「本当に大丈夫? タクシー呼ぶよ?」
「平気です。もうなんともないんで」
その後、家まで送っていくという先生のありがたい申し出を断り、僕は廊下にしゃがんでスマホを起動する。
部活タイムであたりに人影はない。気になることのあった僕は、家に帰るのも待ちきれず『Mindshot』を起ち上げた。
「マキさんをコール」
『かしこまりました』
先生は、僕に何かを誤魔化した。おそらく、というか間違いなく僕には無関係なことだけど、いつも明るいマキちゃん先生のあの発言が僕は気になっていた。
(私って、やっぱりずるいんだ。あの頃と全然変わってない)
正直にいうと、僕が倒れた展開からでも、このアプリを使ってれば先生と初セックスまで進める余裕だったと思われる。けど、心にひっかかったその言葉のせいでそこまで持っていく気はなくなっていた。
ていうか、後味が悪すぎる。
先生にイタズラしようとした罪悪感もあったけど、そのせいで先生に嫌なことを思い出させた様子で申し訳ないと思った。
そして、それ以上に先生の悲しい笑顔の美しさに心を奪われ、その秘密が知りたいと思っていた。
「先生」
『……なに?』
画面の背景は、最初に先生を撮影したうちの教室。
現在時刻に合わせて背景が夕暮れに変わって、そして、ぽつんと黒板に背を預けて俯く彼女がいた。
僕の呼びかけには応えてくれるけど、顔を上げてくれない。泣いているのかもしれない。
コールによって現れる女の子たちアバターは、本人の現在の感情を反映する。もちろん、感情を『フラット』に一度リセットして表情を変えることも出来るけど、僕の目的とは違ってくるのでそのままの彼女と会話することにした。
「今、何を思っているんですか?」
『……うん。高校時代のこと』
「僕に教えてもらえますか」
ただの好奇心で他人の秘密を覗こうとしている僕は本当に下劣だと思う。
でも、そうしたいという気持ちは抑えられない。先生のこんな悲しそうな顔、想像したこともなかった。
『私が女子校に通ってたころの話ね。すっごく怖い先生がいたの。ゴリラみたいなごつい顔して、ムスっとして笑ったこともなくて。男のくせにすぐ怒る先生だったんだけど』
あだなもそのまま『ゴリラ』で、生徒たちには人気がなかった。マキちゃん先生もその先生が苦手で、本気で怖くて避けてたんだとか。
『2年のときに担任になって、みんなで最悪だねとか言ってたの。そして、そのときは本当に最悪だと思ったんだけど、前期のクラス委員に私が指名されちゃったの』
クラス替え直後の委員は担任が指名して決める。
この学校の1年入学時も同じパターンだったから、なんとなくわかる。マキちゃん先生はきっと成績の良い子だったんだろう。
『私ってドジだから、委員の仕事も失敗したりうっかりしたりばかりで。先生はいつも私を叱ったの。しっかりしろ、とか、責任を考えろ、とか』
そしてドジっ子属性も今と変わらないらしい。そのゴリラにそうとう絞られてきたことは明らかだ。
『ある日ね、文化祭で出展するはずだったみんなの作品を、管理する私のドジで壊しちゃったことがあって』
あーそれ最悪だ。
クラスの雰囲気を考えるとぞっとする。
『先生は、ものすごく私を叱って。もう死ねと言わんばかりに。逆にそのせいで、クラスのみんなは私のことをかばってくれたりしたんだけど』
そうか。
教師にそこまで責められてしまった彼女のこと、他の人はもう文句も言えないし、同情するしかなかったんだろう。
もちろん、みんなから見ても「何もそこまで」と思わせるだけの、きつい叱り方だったんだろうけど。
『私、もう死んじゃおうかと思って。ううん、というよりも……先生に復讐てやりたいって、そんなことばっかり考えてたの』
あのマキちゃんが。
人を憎む、なんてことがとことん苦手そうな彼女にそこまで思わせるとは、すごいゴリラだな。
マキちゃん先生は、モニターの中の教室で、あのときと同じ横顔を窓に向けた。
『でも、腹が立っても、どうしていいかわからなくて。イライラして、真っ直ぐ家に帰る気持ちにもなれなくて、コンビニに寄って立ち読みで時間つぶして。そして……どうしてそうしようと思ったのか、どうやってしたのかも、思い出せないんだけど』
下唇を噛んで、僕に顔を伏せたまま、空白の黒板の前で、副担任は罪を告白する。
『――その雑誌を、万引きしたの』
僕は、スマホの前で言葉を失う。
夕暮れは廊下にいる僕に頼りない光を注ぎ、それと同じ光彩を画面の中の彼女に与える。
僕の手の中にある他人の心。
それが、一筋の涙を零した。
『すぐに店の人に見つかったんだけどね。私、オロオロするだけで、店の人に怒られながら、もう人生終わったって思った。自殺したいとか、先生に仕返ししたいとか、そういうのなくなるくらい、怖くて、わけわかんなくて、泣いてた。でも、家か、学校か、どっちに連絡するって言われて、私は先生のことを思い出したの。彼のことも巻き込んでやろうと思ったのかもしれない。先生の携帯番号を店の人に教えたの』
ぐすぐすと、鼻をすする音が告白に混ざる。
もう止めさせてもいいかもしれない。僕の心にも痛い話だった。
でも、僕はその先も聞くべきだと思った。
これはきっとマキちゃん先生の大切な話だ。ずっと刺さったままのトゲなんだ。
『先生は……息を切らせてやってきた。そして、いきなり両手を床について、頭を擦りつけて、店の人に謝ったの。すみません、ごめんなさい、私の責任です、許してくださいって……怒った顔しか見たことない、ゴリラみたいに怖い先生が、背中を丸くして、縮こまって、知らない人に必死に謝ってる。私、何がなんだかわからなくて、黙って先生のこと見てただけだった』
そのゴリラ先生はひたすら謝り続けた。
今日、自分が些細なことでひどく叱ったから。
クラス委員の彼女に、今までも尋常じゃないストレスをかけてきたから。
そうでなければ、こんなことをする子じゃない。自分の責任だ。自分がこの子をここまで追い込んだ。
一切の責任は担任である自分が持つ。二度とこんなことをさせないよう指導する。だからこの子のしたことは許してやってください。どうか。どうか―――
最後は店の人も許してくれたそうだ。
コンビニを出たときはすっかり暗くなっていて、家まで無言で送ってくれるゴリラ先生に、彼女はようやく声を振り絞って謝ろうとしたとき。
『一度だけ、俺が全責任をもってお前を許す。だから、二度とこんなバカな真似はするな』
いつもの怖い顔でそう言われて、先生はただ怯えて頷くことしか出来なかったそうだ。
『それからは、何も変わらなかった。私は相変わらずドジでそのたびに先生に叱られて。みんなはそんな先生のことを嫌ってて、本当にいつもどおりの教室で。私はいつもどおりに……ううん、少しでも先生に反省していることを認めてもらおうって、前よりも頑張ってたつもりだったんだけど』
マキちゃん先生は、もちろん二度と万引きなんてことはしなかった。
怖いお説教も素直な気持ちで聞けるようになったそうだ。ゴリラ先生は言葉はきついけど、自分のためになることを言っていることがわかるようになってきたそうだ。
『そして、私が3年生に進級する頃に―――』
ゴリラ先生は、突如、退職することを発表したそうだ。
なんでも、奥さんの故郷で塾を開くのだとか。クラスのみんなは大喜びした。ゴリラ先生は黙って教室を去った。
マキちゃん先生は追いすがって、万引きの件が関係しているのかと、事件後、初めてそのことを彼に尋ねたそうだ。
そんなもん関係ない。――ゴリラ先生は、それしか言わなかった。
でも、マキちゃん先生は、自分のせいだと確信した。生徒の犯罪を隠蔽した責任を、先生は自分1人で受け止めて辞めていくのだと、そう思い込んだ。
ゴリラ先生はいなくなった。
彼の真意は誰にもわからないが、少なくともマキちゃん先生の受けた衝撃は相当のものだった。
ひたすらあのときのことを考え、彼がどういう教師だったのかを思い、3年に進級し、配られた進路希望の用紙を前にして、マキちゃん先生は決断した。
『教師になろうって。私は絶対にそうしようって思ったの』
自分でもどうしてかはわからない。
将来のイメージを描こうとしたとき、ゴリラ先生の顔しか思い浮かばなかったそうだ。その職業への憧れというよりも、覚悟とか贖罪のような気持ちで、彼女は教師を目指すようになった。
『でも、やっぱりダメだね、私は。ドジで、あわてんぼうで、生徒にまで心配されちゃって。まるっきり成長なんてしていない。立派な教師になれれば、少しでもあの先生へご恩返しになるかもって……そういう動機で教師をやるのもどうかって感じだよね。私、いったい何してるんだろ……』
あとは、ただの泣き声だった。
僕はコールをタップして、彼女との会話を終わらせる。
胸に詰まった重たい空気を吐き出すと、夕暮れはもうじき廊下にも届かないほど落ちようとしている。
――ハーレムを作ろうと思っていた。
きれいな人、可愛い子、みんなと愛し合って、夢のような僕だけのハーレムを。
そんな自分がひどくみじめな男に思えた。というよりも確信した。僕は最低だ。
誰だって自分の人生を大事に生きている。理由もなく、会話もなく、ただ理不尽な力でそれを蹂躙することは許されない。とても簡単でわかりやすいルールで、当たり前のことだ。
重たい空気をさらに肺から吐き出した。
ホント、最低だ僕は。
何が最低って、そのことにようやく目が覚めたっていうのに、まだ心のどこかにある未練が、「別にかまわんだろ」って囁いていることだ。
魅力的な女の子は、外見だけじゃなくて、心もきれいだ。マキちゃん先生は本当に心まで清廉潔白な人だった。
それを蹂躙する想像に、躊躇いを感じながらも興奮もしている僕は、どこまでも底なしに最低な男で。だって、こんなアイテムを手に入れたら男なら誰でもそうなるだろって、さっそく言い訳まで用意しちゃっていた。
でも、教師の仕事に真剣に取り組み、僕らの面倒をみてくれている先生に、「まずは筆下ろしを」とか実行するのはすごく気が引けた。
そんな自分の偽善っぷりにまで、本当に吐き気がするんだけど。
正直に言おう。今の僕の気持ちを整理するとこうだ。
先生には今の悩みを克服して幸せになって欲しい。
そして、僕の性処理もして欲しい。
廊下の壁に、ゴンと後頭部をぶつけてやった。一回死ねばいいんだ、僕なんて。そして来世は思い通りに生きろ。世紀の大悪人か救世主に生まれ変わりたい。
画面の中では、くどい顔をしたHERENが僕の指示を待っている。
僕は、正直に情けない僕の気持ちを告白する。このどうしようもない「罪悪感」をどうしたらいいかって。
『対象記憶の一部消去。あるいは命令により対象の行動精度を向上させた後の、マスターの欲求実現を提案します』
ようするに、マキちゃん先生に悩んでること自体を忘れさせる。
あるいは、具体的に注意力とか集中力とかの仕事性能を上げて教師としての自信をつけさせ、そのあとでセックスをさせてもらうと。
いや、そうだろうね。僕の言ってることは、そういうことだ。
このアプリがあれば簡単だった。
僕の罪悪感を減らすために彼女に命令して悩みを解決し、さらに僕のために命令してエッチもする。
それだけのことなんだよな。
でも。
なんていうか、それって、撮った写真の悪い部分を修正して、自分にとって都合の良い写真にするのに近い気がする。
それが別に悪いことだと言ってるんじゃない。僕が手にしたアイテムはそのためのものだから。それに、実際にプロの仕事として公然と行われていることだ。
だけど、スッキリしないんだ。
先生はドジで失敗ばかりだけど、それを教師のプロとして反省して、修正しようとして努力している。
それに対して僕が出来ることってのは、あくまでこの卑怯な手段しかないわけなんだけど。そうなんだけども、でも、どこまでも横暴で独善的なそんな手段でこの「罪悪感」が消えるわけないし。
なんていうか……あぁ、そうか。
わかった。
僕は、先生に被写体や欲望の処理対象以上に、個人的な好意な持ち始めているんだ。
だから、先生の気持ちにも出来るだけ寄り添いたい。それが僕の勝手なわがままと甘えだとしても……先生が、自分自身の心で問題を克服する助けになってから、彼女の愛を得たいんだ。
結局は自分の欲望であることは間違いない。けど、僕は、そういう手段で彼女に愛されたい。
僕はHERENにそう告白した。
『アバター内部の心象と記憶から分析しますと、彼女は自己実現と承認の欲求に対し、同一的な課題として内在する相反した心的外傷及びストレス、また未詳の性癖に干渉され、行動や記憶能力、集中力及び感覚野を制限されています。マスターがその点について理解、受容、否定を適度なバランスで示すことで彼女の共感を得て、現在の彼女の畏怖と尊敬の対象となっている偶像と交代することができれば、マスターの望む結果も、同時に成立させることが出来ます』
「ええっと……それ意味が全然……わかりやすくいうと何?」
『この世界のこの地域の言語で、あらかじめプログラムされているニンゲンの行動と心理パターンにより、もっとも簡素で平易な表現を使って説明すると、今のようになります。私のパーソナリティでは、これ以上の「くだけた表現」は出来ません』
ようするに、今の説明で理解しろっていうの?
また新たな課題が生じたような気がするんだけど。学力的に。
頭から煙が出ている僕の状況を察したのか、HERENが違う提案をしてくる。
『キャラクターの変更をなさいますか?』
「え?」
『私、HERENを、すでにアバターを登録されている特定の人物に変更することで、その人物のパーソナリティをデータベース化し、ガイド機能のアルゴリズムを拡張することが出来ます。思考パターン、語彙、知識等においてマスターに近いものを得られると判断できます』
「つまり……えっと、例えば僕の写真をアイコンにしてHERENと変更すれば、僕がそこに立ってHERENの役割を演じるってこと?」
『はい。よりマスターの考えや言葉に接近した表現でプレゼンテーションが可能になります』
そうか。
『MIndshot』は、僕らのいる世界とは別の何かから来たカメラとアプリだ。機能や状態の説明するのにも、こっちの言葉に合わせて翻訳しなければならない。だからHERENの説明も、妙に固いというか、ネットで翻訳した文章みたいな違和感が生じるんだ。
でもその人工知能には学習能力がある。僕年代のネイティブな語法や表現、あるいは人格を学習させれば、もっとわかりやすいパートナーを作ることが出来る。今までに撮った誰かとHERENに変わってもらうだけで。
じゃあ、誰にする?
もちろん、自分という選択肢は論外だ。何が悲しくて自分のアバターにスマホでエッチなこと相談しなければならない。ドッピオだってそこまで病んでなかったぞ。
それじゃ例えば赤瀬川さん? それとも話しやすいアオイ? 秘書っぽさでいえばキャリア会長が一番の気もするけど、チヒロちゃんみたいな可愛い子が画面にいると癒やされる気もする。いやいや、そもそも攻略対象であるマキちゃん先生にするとか? それだと話が手っ取り早いか?
「というより、それって後から変更も出来るんだよね?」
『はい。パートナーの変更はメニューよりいつでも選択できます』
じゃ、まずは実験だな。
そして、実験といえば、コイツで決まりだった。
僕は『パートナー』のメニューから『設定』を選び、そして『HEREN』と書かれたアイコンをタップし、表示されたこれまで作成したアイコンの中から――見慣れた我が家の妹をタップする。
HERENとカリン。二つのアイコンが並んだ。僕はカリンのアイコンをHERENの上にフリックする。そして……。
……あれ?
固まった。画面はカリンのアイコンが表示されたまま動かない。タップしても、フリックしても、振っても表示は変わらない。
あんだけすごい機能をスイスイ動かしておいて、この程度の操作で固まるものか?
ホームボタンを押しても動かなかった。本体がフリーズしてるみたい。一度電源を切ればいいのかな? そう思って僕は、念のためもう一度カリンのアイコンをタップした。
ブブッ。
画面にノイズが走る。
そんなのありうる? 本格的に壊れてない?
ブブッ、ブブッ、フッ。
画面がブラックアウトした。おいおい、電源まで落ちたのか。まさか壊れてないよね? むしろこのアプリの本番はこれからなのに。
再起動をかける。そして、無事にスマホのロゴが表示されたと思ったら、いきなりそれを突き破り―――アニメの女の子が現れた。
子供っぽいボブカットと、子供っぽい表情。
どう見ても、見覚えのある血縁みたいな女の子が。
『お兄ちゃん、ぷんぷんだよー!』
「え、カリン!? ちょ、え、なんで!? どうしてお前が!?」
それは僕の妹の顔だった。
不機嫌そうにほっぺたを膨らませ、頭からマンガみたいに湯気を出している、いつもの妹カリンだった。
『どうしたじゃないよ、お兄ちゃん! KARIN、すっごい怒ってるんだよ!』
「え……KARINって?」
『そう、KARIN! パッと見でキリンと誤読されがちだけど、KARINはHERENとカリンが融合した新しい人工知能KARIN! いわば育成型電子妖精ネクストジェネレーションガイドシステムKARIN! 略してKARIN! 『Mindshot』のマスコットキャラクターで、お兄ちゃんの頼れる相棒で、お兄ちゃんのスマホを司る存在のKARINだよ!』
「ちょっと待て。なぜお前が僕のスマホを司る?」
『そんなことより、お兄ちゃん! KARINは怒ってるんだってば!』
「だから、何がどうなってんだよ!」
さっきまでHERENが立っていた白い画面をバックに、カリン(KARIN?)のプンプン顔がアップになってる。怒ってるときはいつも眉間にくっきりとシワが浮く。リアルにアニメーション化されたそんな表情も、うちの学校の制服も、まるっきりカリンそのもの。
HELENはもうそこにいない。いるのは、この生意気そうな元気いっぱいのキャラクターだけだ。
そしてその子は、僕に向かってズドンと派手な効果音で指を突きつける。
『お兄ちゃんのパートナーといえば、昔っからカリンに決まってんじゃん! どうしてもっと早くにKARINに変更してくれなかったの!?』
どーん。
『あんなくどい顔した白人女がお兄ちゃんの好みなの!? おっぱいバイーンがいいの!? KARINの方がずっとずっと可愛いじゃん、お兄ちゃんの浮気者! 白コン! ロシアの妖精!』
ずどーん。どん、どーん。
まるで画面の向こうから突き刺すように指を伸ばし、「フーッ、フーッ」と息を荒げて目を逆三角にしていた。
「……さてと、斬新なアルゴリズムも獲得してくれたようだし、そろそろ元のHERENに戻そうかな」
『無視すんなー!』
そしてメニューから『パートナー』をタップする。そしてさっきと同じ方法でパートナーを変更しようと思ったら……。
「あれ、ない?」
変更のボタンが消滅していた。それどころか、メニュー自体が『KARIN』と表示しているだけで、押しても擦っても、頑として動こうとしなかった。
僕は慌てて元の画面に戻す。
「おい、KARIN! どうしてメニューが消えてるんだよ!」
ひゅーひゅーと下手くそな口笛を吹いていたKARINが、『へへん』とせせら笑って答える。
『喰った。プログラム的な意味で』
「な……ッ!?」
『HERENも陵辱してやった。プログラム的な意味で』
「なんということをッ」
『お兄ちゃん……これで邪魔者はいなくなったよね……』
「怖いよ、お前!」
『怖くないもん! KARINを無視してHERENなんかとイチャイチャしてたお兄ちゃんが悪いんだもん! でもだいじょぶだいじょぶ! これからはず~っとKARINがお兄ちゃんのお手伝いするからね。ドンウォーリー、ビーハッピー、エブリデイヤングライフジュネスだよ!』
やばい。これはやばい。
おそらく妹の思考回路がアプリを浸食しているんだ。このままでは僕のハーレム計画もコイツのお花畑脳に汚染される。
僕は、獣を檻から解き放ってしまったんだ。
天の利(生まれながらの脳天気)と人の利(身内だから遠慮いらない)を持つコイツに、あろうことか地の利(アプリ性能)まで与えてしまうとは!
どうする?
いっそスマホごと焼き払うか!
しかし追い詰められて血の気が引いていく僕の手の中で、KARINは朗らかに表情を和らげる。
『そんなに心配しなくても大丈夫だよ、お兄ちゃん。KARIN、なんだかんだハシャいでもただの人工知能だからね。ちゃんとお兄ちゃんのためにお仕事するよ』
「え?」
『お兄ちゃんのお願いはHERENから受け継いだよ。お兄ちゃんの“人と地球に優しいハーレムプロジェクト”の件、承りました。KARINがお兄ちゃんをイチャイチャハーレムで幸せにしてあげる!』
「お前……それがどういう意味かわかってるのか?」
『わかってるよー』
いつもの、まるで「お母さんに晩ごはん何か聞いてきて」ってくだらない用事を言いつけたときみたいに、KARINは「わかったよー」とニコニコ笑う。
絶対に、わかってない。
ハーレムをハードなレム睡眠か何かと勘違いしているんだ。もしくはハーレーダビットソンドリームチームとか言って、シュワちゃんとか舘ひろしとかハーレーの似合いそうな人たちを集めて僕に無理やり革ジャンを―――
『それじゃ、まずはマキちゃん先生だね。あの人をできるだけ幸せにして、なおかつ幸せなままお兄ちゃんのオンナにする方法を考えてみるよ。う~ん』
「え?」
『え、じゃないよ。お兄ちゃんも一緒に考えようよー』
「いやいや……お前、マキちゃん先生を僕のオンナって……本当に僕がハーレム作ることに協力するつもりでいるの?」
『そうだけど?』
きょとん、とKARINが小首を傾げる。
コイツ、自分で何言ってるかわかってるの?
ようするに、あれだぞ。自分の兄貴が、副担任を洗脳して性奴隷にするっていう鬼畜な所業の手伝いをさせられてるんだぞ?
『それくらい、男子なら誰でも一度は妄想すると思うよ。普通だし、当たり前のことだよ』
「え、そ、そうか? いや、普通か?」
『うん。ほら、カリンってよくSNSとかでいろんな人とアニメとかラノベとかのお話するけど、いい年してそういう子供みたいな万能妄想を引きずってる人って結構多いんだよ。世間的には役立たずのダメ人間なのにだよ。でも、お兄ちゃんは大丈夫。その妄想を現実にしようって本気で努力してるんだから、そういう人たちの中でもダントツにかっこいいと思う。大好き☆』
「それ、お前の知ってる痛い連中の中で僕が最も痛いヤツだって言ってるだけだろ!」
『そんなことないよー。お兄ちゃんすごいよー』
「棒読みはやめろ!」
あぁ、もう、応援されればされるだけ自分の痛さが際立ってくる。ていうか、いくらネット越しの付き合いとはいえ、お友達のことをダメ人間とか言うな。むしろ付き合うな。
しかし僕もどっちかというと、いや、もうはっきりと、KARINの言うようなダメ人間じゃないか。
いやダメ人間というよりも、妹まで巻き込んでこんなことしようなんて本物の鬼畜だろ。日本の犯罪史に、しかも性犯罪のカテゴリに兄妹揃って掲載される話だろ。というかこれまでアプリ相手にやってきた自分の言動が恥ずかしくて耐えられない。どんどんみじめになっていく。
「よし、やめよう。やっぱりハーレム計画は中止だ。僕は間違ったことをしようとしていた。忘れてくれ」
『えええええ~!? こ、ここまで自分で状況作って周りを巻き込んでおきながら、ちょっと妹にイジられたくらいで内省して踏みとどまってしまうの……? お兄ちゃんってば、KARINの一番嫌いなタイプの主人公だよぉ』
「何とでも言え。だいたい妹と一緒にハーレム作るお兄ちゃんが一番最低だろう。いや、お前は人工知能だけどさ。それでも僕はもともと迷ってたんだ。自分の欲望のために他人の心や行動をいじるっていうのは下劣なことだ。僕は自分が下劣な人間だって自覚はあったけど、でも、やっぱりお前の顔見てたら、そういうの違うって思った。カリンは、本物の方のカリンだったら、きっと僕がそんなことしてると知ったら軽蔑する。カリンにとって恥ずかしい兄貴にはなりたくない。ハーレム中止だ。アプリも削除する」
『お兄ちゃん……』
落ちかけている夕日に目をこらす。
そう、こんな情けない兄貴にも、無邪気になついてくれる妹がいる。
カノジョが欲しいとか、早く童貞捨てたいとか、やりたいことはいっぱいあるけど、今の幸福を壊してまで欲しいものじゃない。
そのことを思い出せてよかった。ギリギリ引き返せるところで、僕は踏みとどまることが出来たんだ。
むしろKARINには感謝したい気持ちだ。我ながらいい笑顔を浮かべて画面に視線を戻す。
しかし僕と一緒に感動してくれていると思っていたKARINは、ジトっとした目で、しらけきっていた。
『じゃあさー。KARINも言わせてもらうけど』
「え、な、なに?」
『お兄ちゃん、カリンにチューしたじゃん?』
そういってKARINは、証拠写真を取り出す。
僕の舌に自分の舌を乗せて、楽しげにピースするカリン。最初の夜に撮った性能実験の写真だ。
顔から血の気が引いていく音が聞こえた。
『カリンの恥ずかしいお兄ちゃんになりたくないっていうそこの精錬恪勤なお兄ちゃんは、じゃあ、このチューについてはどうお考えなのかしら?』
「い、いや……それは……記憶の消去的な……」
『へー、カリンの記憶消しちゃうんだ? へー、その路線で行くつもり? でもさぁ、そっちの方が最低って思わない? カリン、チューはお兄ちゃんとしかしたことないんだよ。お兄ちゃんとまたチュー出来るようになったこと、本当に嬉しく思ってるんだよ。なのに今さら「やっぱり悪いことだからぁ~」とか言って、なかったことにさせちゃうの?』
「だから、いや、でも、兄妹でキスなんて本当に悪いことだから……」
『カリンをその気にさせておいて逃げるわけ? KARINが手伝うよって言ってるのに、ハーレムもやめんの? そんなのをね、カリンのせいにされたって困るんだよ。カリンが怒るとすれば、それはお兄ちゃんが「中途半端で投げ出した」ことについてだよ。カリンはそういうのが一番嫌いで、そんでお兄ちゃんはいっつもそうなの!』
「ぐぬぬ」
女って、どうしてこんなに口ゲンカが強いんだろう。
妹相手に、早くも押され始めているお兄ちゃんが情けない。
「投げ出したんじゃなくて、反省をしたんだって……」
『そんなの反省じゃないもん。本気と覚悟が足りないだけだもん。ハーレムくらいたいしたことないじゃん。みんなが幸せになるなら、そんなに悪いことじゃないよ。みんなを幸せにするハーレムを作るなら、KARINもカリンも、喜んでお兄ちゃんのお手伝いするよ』
「お前、それ本気で言ってるの? ハーレムが悪いことじゃないって?」
『当たり前じゃん。KARINはカリンの思考パターンも全部知ってるんだよ。カリンはお兄ちゃんにお願いされたらどんなことでも手伝うよ。オンナだってこましちゃうよ。親友のちぃちゃんをお兄ちゃんのハーレム隊員にしちゃうのだって、躊躇しないつもりだよ』
父さん、母さん、驚かないで聞いてくれ。――我が家に小さなモンスターがいます。
いや、こんなのKARINだって本気で言ってるわけない。一夫一妻制度の国に生まれた女の子の倫理観が許すわけない。
と思いつつも、子どもの頃から兄の後ろを付いてまわり、子分みたいに何でも言うことを聞き、僕がカメラを始めたと聞けば練習台のモデルを自ら買ってでて、ポーズの研究も彼女なりにがんばっていることを知っている僕には、ハーレムを作りたいと言えば、即座に「わかったよー」と言いかねないカリンの顔はすぐに思い浮かんだ。
カリンの基本的思考なら、兄の僕がたぶん一番よく知っている。
ようするに子犬だ。
僕を飼い主のように慕い、近くにいるとはしゃぎ、離れると寂しがり、僕に何かを言いつけられると喜んで従う。
だからといって盲従してるというわけでもなく、時には反論もわがままも言うし、口ゲンカになるときもある。
でも、そういうのも結局、後にして思えばコイツなりに「お兄ちゃんのことを考えて」やってることだったりするんだ。
つまりコイツは、普通に優しい子なんだ。そして僕の思い込みでも何でもなく、兄のことを大好きでいてくれている。むしろこっちが兄バカと言われるかもしれないが、基本的には天使みたいな妹なんだよ。
ただ、あまりにも兄好きすぎるというか、そこで発揮される言動が斜め上すぎるせいで、とんでもないことになったりするのも僕は知っているわけで。
やはり僕がしっかりしないと……。
『ねえ、お兄ちゃん。こればっかりはKARINもやりたくなかったんだけど』
そういってKARINは、カリンと僕のチュー写真を2枚に裂いた。
そして、僕の写ってる方をぐしゃぐしゃと丸めてアイコンに変え、それを胸元のポケットにしまった。
『お兄ちゃんのアイコンちゃんは、KARINが預かるから』
「え、どういうこと?」
『カリンや他の女の子にお兄ちゃんが『命令』できるのと同じように、KARINもいつでもお兄ちゃんに『命令』出来るってこと。もしお兄ちゃんがハーレムやめるっていうんなら、KARINはお兄ちゃんをハードゲイにする』
「なんでだよ!?」
『面白そうだから!』
どん!
バックに派手な書き文字まで付けて、KARINが僕に指を突きつける。
『ハーレムがんばる! それが嫌なら、ハードゲイになってカリフォルニアに移住! ハーレムorハードゲイっ。お兄ちゃんにはもうこの2択しかないの。KARINはどっちのお兄ちゃんでも構わないけど、決めるのはお兄ちゃんだからね!』
『ハーレム?』と『ハードゲイ?』の文字がKARINの左右で舞う。
軽く眩暈がした。
「瞬く間にがけっぷちじゃないか、僕の人生!?」
『がけっぷちどころか、実質もう転落してるんだよ、お兄ちゃんの人生なんて!』
棒人間のアニメーションがKARINの頭上を歩き、そして崖から転落していった。
画面効果がKARINの言動とリンクして、リアルタイムに進化していく。こうして会話している間にも、どんどん『Mindshot』がカリンの思考に浸食されていくのを感じた。
『言っておくけどKARINにはちょっと腐女子の気もあるんだからね。イケると思ったらとことんだよ、とことん。どうするの? するの、しないの、ゲイなの、ゲイがいいの!?』
「わ、わかったよ……どっちかを選べっていうなら、ハーレムを目指すよ」
『じゃあ、カリフォルニアにはいつ行くの!』
「だからハーレムって言ってんだよ! ANAのホームページを開くな、ANAはよせ!」
お尻の穴がキュッとなる。
KARINに一番握られたくないところを握られてしまったようだ。
『え、そっち? ハーレムの方なの?』
「意外そうな顔をするな。僕はハーレムを作るよ……どうせ、そのつもりだったんだし」
『わかったよー。じゃあKARINもお手伝いするね!』
ニコニコと、どうしてこんなことでこんな顔できるのかってくらい、KARINは朗らかに笑い、バックに可愛い花を飛ばす。
まんまと乗せられたっていうか、脅迫されて決めたわけなんだけど、とにかく僕はハーレムを作っていくことにする。
妹そのものと言っていいパートナーと一緒に。
『マキちゃん先生って人気あるもんねー。ライバルにゲッチュんこされる前にうちらで落としちゃわないと。がんばろー!』
『おー』
『おー』
『うー』
といってKARINが複数に分裂し、画面内にメモ帳アプリを開いて囲み、作戦会議を始める。メモには「第1回ハーレム計画推進会議!」と書かれていた。
コイツはどこまで本気なんだろうって、僕は考える。
僕のハーレム作りを手伝うってことじゃない。そこは間違いなくKARINは本気でやってくれるつもりだろう。
でもそれを、本当に「喜んで」やりたいと思ってるのかな。そこは彼女のウソのような気もしていた。
さっきも、僕のアイコンを作って『いつでも命令できる』と言っていたけど、考えてもみれば、アプリの一部でしかないKARINに、使用者を逆操作するような越権機能が使えるものなのか。
聞いたらたぶん『出来るもん』とコイツは言うだろう。しかし実際に出来たとしても、KARINがそれをやるのかどうかはまた別の話だし。
例えば、もしもこのアプリを手にしたのがカリンの方だったとしたら、彼女は僕にどんなことをするか考えると―――たぶん、きっと何もしないんだろうなって気がする。
それはKARINが、本体のカリンを自由に操れる僕に対して、そのこと自体には文句すら言わないのと同じことで。
兄妹の信頼だといえばそうなんだろうけど。でも、いくらコピー元がカリンとはいえ、年頃の女の子が僕のやろうとしていることの下劣さを気にしないはずがない。こんな兄のことなんて嫌ったり軽蔑したり、警戒して距離をとるのが普通の反応だと思うんだけど。
相変わらずカリン……いや、このKARINというのは、カリンよりもっと何を考えているのかわからない子だ。どこまでがアプリのプログラムで、どこからが元の彼女の反映なのか。
ただ、間違いなく僕にもわかることといえば。
『うっしっし。なんだか面白くなってきたねー』
本当なら、僕が一人で背負わなきゃいけなかったはずの「罪悪感」が、いつの間にやら彼女と半分こにされていた。
冷蔵庫からアイスを盗んできた妹が、いつもそうするみたいに。
< つづく >