幻市 付章(その②)

付章(その②)

 木曜日の11:00。ホテル・アルフォンヌのスイートでランチオンインタビュー。・・・OK。

 倉田は受話器を置いた。今日は火曜日。明日一日準備に使える。倉田は早速メモを出して水曜日一日を使ってできる事を検討し始めた。

 文字起こしは今晩で出来るだろう。そうしたら、まず名古屋か。再婚した信一の叔母の香保里にあたってみよう。会えるか、会えたとして今回の話をどう伝えるか?
 10年前の「てんかん小僧」は活きているか?

2.盗聴者K(柿崎)

 柿崎は腹を立てていた。

 チクショー、騙し取られた・・・。勿論、タナボタで入手した情報であり、テープだ・・決して柿崎の汗と涙の成果というものではないが、それでも騙し取られたという悔しさが消えない。
 そもそも柿崎に盗聴の趣味があったわけではない。今回このとんでもないテープを入手したというのはバイト中の偶然だ。

 柿崎は北九州の私立大学の経済学部を一昨年に卒業し上京してきた。就職難という事もあり九州では碌な就職先に引っかからなかった。公認会計士を目指すという事で御茶ノ水にある司法試験やCPA試験を目指すための予備校に通う目的で上京していたのだ。勿論、生活費のほとんどは仕送りに頼っている。来年受からなかったら故郷に戻って家業の印刷屋を継ぐという条件だ。受験勉強への熱意も冷めかけ、まあ、このままだと印刷屋になりそうな気配だけどそれはそれでよいと感じ始めていた。

 ここ一年ばかり国道246号沿いにある大型家具店で配送のアルバイトをやっている。彼は品番がDB00~HB99台までの小型家具が担当で、東京西南部一帯が彼の受け持ちだ。小型家具の大部分は宅急便で配送されるが「組立て渡し」の指示があるものは彼の担当になる。一人で軽のバン一台をまかされている。職責はもうアルバイトとはいえない。予備校には滅多に行かなくなって半年も経つ。CPA受験も半ばは諦めている。気楽なアルバイト生活が身についてきてしまっているのだ。

 そんなある日、インターネットで受注した事を示す青い印刷の伝票がついたスウェーデン製のチェストベンチが彼のところに回ってきた。彼の担当する商品の中では一番大きい部類に入るだろう。伝票の「組立て渡し」の欄に〆が入っている。配送日時指定で配送先は九品仏のマンションだ。

 彼は配送指定の朝9:30に九品仏に向かった。4階建ての瀟洒なマンションだ。この規模のマンションでこれだけ立派なエントランス、管理人常駐ではかなりの管理費になるだろう。このチェストベンチの購入者はかなりの金持ちのようだ。

 配送日時指定であるにもかかわらず相手は留守だった。「組立て渡し」なので管理事務所に預けるわけにもいかない。事務所に預ける「不在時配送連絡票」を書き込んでいて突然気がついたのだ。

お届け先: 高嶋美紀 様

「ねえ、管理人さん。この高嶋美紀さんって?」

「ああ、あの高嶋美紀さんだよ」

「うわあ、嘘ぉっ、ラッキー」

 その日の内に配送指定時刻に留守をしていた事の詫びの電話が会社に入り翌日再度配達に向かう事になった。

 TBC放送の高島美紀はさっぱりした物言いで好感度ナンバーワンのアナウンサーだ。当初バラエティで人気を上げた後、最近ではウィークデイの「日刊ニュースコミュニケーション」でアシスタントアナを務めている。柿崎自身はファンというほどのものではないが彼女の明るい笑顔と派手過ぎない物腰に好感を持っており、その為に硬派の報道番組である「日刊ニュースコミュニケーション」を毎日見ている位だ。

 翌朝に配送に行くと高嶋美紀本人が迎え入れてくれた。

「昨日はごめんなさい」

 夜の番組担当という事もあり出勤時間は遅めのようだ。トレーニングウェアの上下でスッピン、髪は後ろに束ねただけのラフな格好だ。160cm位だろうか、テレビで見るよりも小柄に見える。美人ではあるが、あたりまえの事だがごく普通の女性だ。決して絶世の美女の映画俳優というわけではない。でも柿崎はテレビと同じ笑顔を浮かべているこの女性にテレビで見ていた時以上の好感を持った。

 実は高嶋美紀の家に配送に向かうという事で朝出がけに思いついて持ってきたものがある。盗聴器だ。

 「組立て渡し」というのは分解された状態で配送された商品を顧客の家で組みあげるサービスだ。当然、家に入る場合が多い。玄関で組み立てる場合もあるが今回のチェストベンチは組み上げたらかなりの大きさになる。恐らく居間か寝室、最終的に使用される場所での組立てになるだろう。

 高嶋美紀のマンションの居間あるいは寝室。ナカナカ侵入できるものではない、こんなチャンスを除いては・・・。

 盗聴器は持っていた。去年、東京に出てきている同窓の連中があつまってスキーツアーを企画した時、一緒に行く事になった女性グループの部屋にイタズラで盗聴器を仕掛けてみようということになったのだ。その時は結局使わなかったのだが用意された盗聴器は、現在、柿崎の手元にあった。

 イタズラ程度の目的なのでオモチャのような物である。出力も小さいし電池式だ。盗聴源のそばにいて飛ばされた電波をFMラジオで聴き取る。大きさは名刺大、厚みは5mm位だ。最近の盗聴器でもっと高性能なものがあるのは知っていたが、まあ、本格的に盗聴行為に走るのはナントナク柿崎としてもそこまで腹が座っているわけでもない・・・ついでに使うには丁度の代物だった。これを持って来たのだ。

 分解されて箱に入っているチェストベンチを運び込んだのは居間兼食堂の20畳くらいの部屋だった。指定されたテレビ脇のスペースで梱包を解きながら、まだしかし柿崎は盗聴器を仕掛けると決めていたわけでもない。頭の中ではいろいろ思い描いても実生活では善良な市民だった自分が盗聴器を仕掛けることによってイタズラの世界から犯罪の世界に一歩踏み出してしまうような気がして、まだ決心がつかなかった。

 やはりせっかく持ってきた道具をセットしようと決めたのはベンチを組み上げて梱包材料を片付けているときだ。脇のテレビ台の裏にスイッチを入れた盗聴器をそっと貼り付けた。

 ご苦労様と労ってくれる高嶋美紀の顔も正視できずにそそくさと部屋を後にした。軽バンの運転席に戻ってラジオのスイッチを入れて首尾を確認しようとして気がついた。このバンにはFMがなかった。

 翌日は模擬テストと配送のバイトで時間がなくて、結局美紀の部屋の前に戻ったのは翌々日の土曜日だった。その間に二度「ニュースコミュニケーション」で高嶋美紀を見た。明るい笑顔が魅力的だ。キャスターのテーブルの下に見える斜めにそろえた形のいい脚がきれいだ。彼女が家でどのような音を立てるのか、電話でもしてくれたらいい。何か独り言でも言ってくれたらいいと柿崎は盗聴の成果を空想しながら美紀の容姿を楽しんだ。まあ、女の一人住まい、たいした音は拾えそうもない。駄目でもともとだからと空想が必要以上に膨張するのを自粛する。

 土曜日、FM電波をピックアップできる唯一の媒体である大きなカセットデッキを抱えて電車を乗り継いで美紀のマンションの前まで来ると柿崎は歩道脇のグリーンベルトの雑草の上に座りスイッチを入れた。でかいラジカセは植え込みの中におき目立たないようにした。80年代ではあるまいし今時こんなでかいラジカセをアウトドアで、しかもヘッドフォンで聞く奴はいない。

 しかし何も聞こえない。

 ひょっとすると遠すぎるのかもしれない。電池がもうなくなってしまったのか?

 ザーッという空電音が聞こえるだけだ。留守か?今日は「ニューコミ」の放映はない日だが出勤しない事を確認したわけではない。留守かもしれない。柿崎はなんとなく苦笑いをした。思いつめてやった行為でもない。聞こえなければ聞こえないですっぱりと諦められる。自分の金で買った盗聴器でもないので惜しくもなかった。まぁ、世の中そんな物だね・・・と立ち上がりかけた時にヘッドフォンから音が聞こえた。

 ガタンという小さな音。何かを落としたか、ぶつかったかのような音。雑音がひどくてはっきりとは判らないが人がいる気配が・・・。いや、気のせいか、もう何も聞こえない。柿崎はもう一度座り直すと音に神経を集中した。

 座りなおした柿崎の目の前を一台のアウディが通り過ぎ、マンションの駐車場に入っていく。その運転席にいるのは・・・あっ、高嶋美紀。

 外出していたのか、どうりで何も聞こえないはずだ。さっきの音はやはり気のせいか?しばらくして雑音の中に玄関のドアがしまる音を確かに捉えた。・・・聞こえる。高嶋美紀が帰宅してドアを閉めた音だ。さっきまでの醒めた気分とは反対に妙にワクワクドキドキした。

 その柿崎の耳に突然会話が飛び込んできた。

「あっ、あなた・・・」

「やあ、元気だった?」

 あきらかに慌てたような美紀の声。男の声が応える。誰だ、こいつは。部屋に誰がいたんだ。盗聴している柿崎に緊張がはしる。

「どうやって入ったの?」

 美紀の声は詰問口調だ。だが、明らかに知り合いに対する口調だ。

「ねえ、どうやって入ったの」

 柿崎もどうやって入ったのか知りたかったが男は答えない。

「せっかくこうして再会したのに美紀から最初に聞かされる言葉が、そんな言葉だとは思っていなかった。」

 男の声・・・。

「・・・いっちゃん」

 いっちゃん?誰だ?

「立ってないで君も座れよ。そんなに2本の脚を誇示しなくてもいい。君の脚が綺麗なのはよく覚えている。例え僕の脚が2本あったところで勝負にはならなかった」

「いっちゃん、待って。こんなのイヤ。ちゃんとした場所でちゃんと話しましょう。私のいない間に部屋に勝手・・・」

「連絡は何回もしたっ」

 男の大きな声が美紀の言葉をさえぎる。

 こりゃ・・・こりゃあ、面白い事になってきたぞ。大変な場面に遭遇したのかもしれない。柿崎は興奮した。そしてふと気がついた。興味本位でやってきたので録音の用意をしていない。テープがない。柿崎は慌ててヘッドフォンを毟り取ると、途中で見つけたコンビニに向かいダッシュした。

 柿崎は頭が痛くなりそうだった。ザーッという空電音の中の会話を聞き出して1時間半が経つ。意味が十分に取れないところがあるが男が独白で自分の生い立ちを語っている。男の生い立ちには興味がない。美紀はなぜ一言も発しないんだ。さっきテープを買ってきてセットしてから男の声しか聞こえない。雑音もありよく意味がわからない。男には中学時代から婦女暴行の経歴があったらしい・・・そんな内容の会話だ。これから美紀が暴行されるのだろうか?

 柿崎はヘッドフォンを植え込みの中に投げ込み、しばらく「耳休め」をする事にした。録音しているのだから後で確認すればよい。ついでにテープを交換する。2連のダブルカセットだからこれで後3時間は録音できる。

 さっきコンビニで買ってきた紙パックのコーヒー牛乳と菓子パンの包みを開けると柿崎は遅い昼食を取り始めた。

 美紀が陵辱されている場面が頭の中に浮かぶ。カメラはないのだからせめて良い声で泣いてね・・・というのは妄想だ。そんな事にはならないだろうという前提で柿崎は頭の中で空想を転がして楽しんだ。

 菓子パンの袋とコーヒー牛乳のパックを力任せに丸めると道端に投げ捨てる。突然、柿崎は怒鳴りつけられて飛び上がった。

「こらっ、貴様、どこにゴミを捨ててるんだ」

 いけね、マンションの管理人だ。

「あっ、すいません。すぐ拾いますから・・・。」

「拾わんでいい。俺が拾っとく。それよりもお前一時間以上もここに座って何をやってるんだ」

「エッ?・・・いや、天気がいいもんで・・・」

「天気がいいとこんな街道沿い車道脇の植え込みで日向ぼっこをするのか、貴様は」

 まずい、柿崎は長時間粘って盗聴する気などなかったので言い訳のひとつも考えていなかった。

「いいじゃないですか。アンタの土地じゃあるまいし座っていようが寝ていようがとやかく言われる筋合いはないでしょう?なんか迷惑をかけた?」

 管理人の横柄な態度につい口答えする。

「十分に迷惑だ。このマンションは有名人も多い。先日も警察からストーカーまがいの行為をする人間がいたらすぐに連絡してくれと言ってきた。すぐに電話しても良かったんだが一応警告はしてやろうと思ってな。ありがたく思え。・・・ともかく誰の追っかけか知らんがすぐに消えろ。3分以内に消えなければ警察に電話する。2度と来るな」

 柿崎はムッとしたが、正直なところ形勢はあまり良くない。彼がやっているのは第三者から見れば明らかなストーカー行為だ。警察はまずい。僕は盗聴を趣味にしているような奴じゃない・・・と主張したところで恐らく空しいだけだろう。

 一時撤収。幸い、管理人は植え込みの中に置いてあるカセットデッキには気がついていないようだ。暗くなってから回収にきても大丈夫そうだ。

 そうやって手に入れたテープだった。
 夕刻、人目を盗んでカセットデッキを回収に行った。上手い具合に管理人にも見とがめられずにデッキを回収することが出来たのだが、何という事だ、デッキの電池が途中で切れてしまっていた。ただでさえ録音状況がよくないのに一層雑音が激しくなっている。

(ザー)美紀ちゃん、君に話し(ザー)ろうか。(ザー)僕が君と(ザー)んでいたことがあったこと(ザー)の祖父の家に引き取られたのは中学2年の時だ(ザー)まだ生きてた。母が死んで暫く(ザー)の母親は小学校(ザー)臓の発作で死んだ。元々あまり身体の丈夫でな(ザー)た翌朝に僕が眼を覚ま(ザー)・・・・・・・

 喜び勇んで聞いてみたのだが、これは堪らないと柿崎はすぐに音を上げてしまった。ともかく雑音がひどい。耳を澄ませば話していることは聞こえるのだが話の流れを追うのには大変な努力が必要だった。

 翌日の日曜を潰して柿崎が理解できたのは

①部屋にいるのは東伸一と高嶋美紀であること
②高嶋美紀は自由を奪われ軟禁状態にあること
③東伸一は(信じられない事ではあるが)催眠術のようなモノで他人を自由にする力があること
④東伸一は過去にその力を使って多くの陵辱を繰り返してきたこと
⑤最近もその力を使ってルポライターの平沢みどり(こりゃ美人だ)を操っていること
⑥録音が切れた後、どうも巨人の篠原捕手が来たらしいこと
⑦そして「てんかん小僧」というパスワード

 といったちょっと信じられない内容だった。

 何だ、こりゃ。柿崎は頭を抱えた。軽いHな好奇心がとんでもないモノをひっかけちまった。それとも誰かに担がれてるのか。何かテレビ番組か何かを間違えて拾っちゃったんじゃないか?・・・・ともかく柿崎は面倒なことはまっぴらだった。でも高嶋美紀があの東伸一って言う奴に・・・・。

 警察はマズイ。

 テレビ局へ投書。信じて貰えるかどうか。あのテープは丹念に文字起こしをしなくては音声証拠としては価値がないほど雑音が多い。柿崎自身は自分の眼で高嶋美紀がマンションに入っていくのを見たから内容の突拍子さはともかく、あの会話が高嶋美紀と男(東信一)の間で交わされたことに疑いを持たないが、初めてあのテープを聴いて高嶋美紀の声も入っていないあのテープを本物と信じて貰えるだろうか。

 後に「エルドラド」の倉田が簡単な裏付け調査である程度の信憑性を確認できたことを思うと柿崎のこの心配は杞憂だったのかも知れないが、この時点では柿崎はテープの内容に関しての心配よりもテープを信じて貰えるかどうかの心配が先行していた。

 ともかく面倒なことはイヤだった。でもある程度説明しないと信用して貰えない・・・という状況で思いあまって「週間エルドラド」の編集部に電話をしたのだった。

 そしてまんまとテープを騙し取られている。
 倉田の方は騙し取ったつもりはなかったがテープは借りないと何にも出来ない。返すための住所を教えろと言っても盗聴者Kは答えない。しょうがなくポケットマネーの3万円をK、柿崎に渡したのだった。

 柿崎は悔しかった。テープを手放した後で思い起こせば大変な価値のあるモノのような気がしてきた。

 高嶋美紀だ。
 もう一度高嶋美紀のマンションに行って、そうだ、「てんかん小僧」と呼びかけてみるんだ。

3.医師 立花洋三

 立花は静岡駅で「こだま」に乗り込むと珍しく缶ビールを買い込んだ。プルリングを引きながら自然に顔がほころぶ。

 年明けに予定されている学会報告の事前検討会が浜松で行われたのだが、そこで立花が発表した「小児性糖尿病の発現事例から見る遺伝と環境」という論文が非常に高い評価を受けたのだ。

 しかも昨晩の打ち上げパーティの席上で彼の傍に寄ってきた学部長が立花が推薦している研究員の博士号の内定を耳打ちしてくれるというおまけがついた。

 最近は非常についている。
 7年前に金沢から名古屋に移り名古屋の近郊で小児科を開業した。金沢では内科の医師として農協系の病院の勤務医をしていたのだが名古屋に来るにあたって出身大学で医師をやっている友人に相談して小児科にしたのだ。

 開業した場所が良かった。名古屋市営の大規模団地が新たに建設された地域でバブルの最後の尾っぽに引っかかった格好かもしれない。その団地は入居にあたって所得制限があり、賃貸で間取りの余り大きくない集合団地で20棟もまとめて建っている。

 所得制限があるので収入が上がると退去していく家族が多い。そこに又、新しい若い家族が入る。間取りも大きくないので子供が中学生くらいになると皆、もっと広いところを求めて転居する。結果としていつも若い夫婦が入居して回転している。小児科医にとっては願ったりの環境だった。

 少子化の流れで経営がつらくなる小児科が多い中で立花小児科はいつも繁盛していた。最近では出身校の医局から常時2人の研修医を受け入れている。一方で立花自身は週に1回、大学で講座を受け持っている。将に順風満帆だった。

 「あげまん」・・・立花は妻の香保里のことを思い浮かべた。香保里とは10年前に結婚した。立花が42歳、香保里が37歳の時だ。香保里も立花も再婚だった。立花は死別だが妻の香保里は離婚だった。長男を事故で失ったことが原因といっているが、やはり早すぎた結婚というのが最大の原因だろうと立花は考えていた。香保利には真純という当時で18になる娘がいたのだ。真純は高校を卒業してすぐに北海道の大学に進み、そのままコロラドに留学したのでほとんど一年の内、数日間ずつしか一緒に住んだことはない。

 香保里と結婚してから何もかもがうまくいっていた。つくづく「あげまん」とは良く言ったモノだ。

 香保里ももう47か・・・立花は自分の妻の微笑んだ顔を思い出して心が温まるのを感じた。結婚したときにもう37歳、決して若かったわけではないがそれから10年、全然年をとっていないような気がする。俺はすっかり髪が白くなっちまってるのに・・・。香保里には何の不満もない。むしろちょっと無理をしている面があるのではないかと思うほど良くできた女房だ。

 唯一、不満があるとすればセックス。香保里は当初から非常にオーソドックスなセックスを好み、いや、むしろちょっとでも変わった事をするのを嫌った。更に最近はベッドをともにするのを嫌がるようになってきた。立花はまだまだ女の魅力が十分にある香保里の容姿を思い出した。・・・それだけが不満だった。

 名古屋駅についたのは3時半、医院に戻れば十分に一仕事できる時間ではあったが、ビールを口にした事もありまっすぐ帰宅する事にした。

 医院に電話をかけて留守番を任せている飯田医師を呼ぶ。

「飯田です、院長、お疲れ様です。如何でした?」

「ああ、なんとかな。又、ゆっくり話をするよ。ところで迷惑かけたな。何かあるか?何もなければ今日は帰りたいのだが」

「お疲れでしょう。そうして下さい。明日までに留守中の所見をまとめておきます。明日ごらんいただければ十分です。・・・ああ、それと吉住さんが先生にって・・・代わります」

 吉住というのは古手の看護婦で婦長のような役をさせている。

「院長先生、お疲れ様です」

「ああ、ご苦労だったね。・・・で、何だい?」

「さっきから週刊誌の記者の方が待合室に・・・」

「雑誌記者?・・・何の用だろう?何か言ってたかい?」

「イエ、先生に直接って・・・」

「気持ち悪いな。・・・今日はもう戻らないって伝えてもらえないか」

「はい。・・・ただ、実はさっきからそういう風に言っているんですが、大変重要な事なので自宅を教えてくれとうるさくて。・・・もし今日お目にかかれなかった場合、先生に迷惑をかけてしまう可能性があるって・・・」

 先生に迷惑をかける?・・・まるで脅しではないか。立花は上機嫌に水をかけられたような気がして不愉快になった。

「ちょっと代わりなさい」

 どういうつもりなのか・・・つまらないスキャンダルには巻き込まれない自信がある。受けてやろうじゃないか。立花は携帯電話を持ち替えて身構えた。

「あ、先生ですか。私、修学社出版の・・・」

「君っ、一体全体どういうつもりなんだっ」

 立花はいきなり大きな声を上げた。回りの通行人が驚いて立花を振り返る。

 相手は、思いの外、腰が低い。突然の来訪を詫びた上で、現在取材中の記事に関して反響次第では立花に迷惑がかかる可能性があるので、至急に会って話がしたいという。自宅を調べている余裕がなかったので失礼と知りながら医院の方を訪問した・・・という事だった。

「その記事というのは一体・・・?」

「・・・電話では・・・」

 医院に戻るという立花に自宅の方がよいと記者が言う。

「自宅は困る。」

「奥様に関連することなので・・・」

「家内に・・・?」

 立花は不安になった。

「家内だと・・・?・・・どういうことだ。」

「いえ、大昔のことです。東香保里・・・相沢香保里さん時代の・・・」

 立花は沈黙した。たっぷりと3分間の沈黙の後、記者に自宅を教える。クルマを飛ばせば記者より先に家に着ける。

 香保里は留守だった。立花が医院にも寄らず夕刻に帰ってくるとは思ってもいない。そういえばお花の会があるといっていた。食事は済ませてくるのだろう。立花は訳もなく安心した。

 数分経たずして記者が到着した。ドアを開けるとスーツの着こなしのだらしない巨体の男が立っている。妙に腰の低い自己紹介が気になる。

 3人がけのソファーの真ん中に大きな体を小さくするようにして座った記者・・・倉田は持ってきた書類を申し訳なさそうに差し出した。

「?」

「ちょっと眼を通して頂けますか?」

 立花が原稿を受け取る。A4サイズの紙にワープロで打ってある。30枚ほどもあるだろうか?しかも裏表だ。訳を問いただそうとした立花は原稿の中にある「金沢」という漢字に眼をとめた。思わず読み始める。

 一人語り風の文体で書かれた小説だ。金沢のN山の中腹にある精神病院・・・Y病院のことはよく知っている。一時期、内科の出張診療で週に一度通っていたこともある。・・・実在の病院が舞台のようだ。

 ・・・東?・・・香保里は病院では相沢で通していたが戸籍上の名字は東だ。舞台だけじゃない、登場人物も実在の人物・・・それも自分の・・・妻。

 ギブアップ。「親子丼」の場面まで来て立花はギブアップした。何なんだ、この小説は。

「一体どういうつもりなんですか、この小説は」

 立花は努めて冷静に質問した。立花の様子を見つめていた倉田の顔に「?」が浮かぶ。

「誰が書いた小説ですか?あまり上手な小説とは思えないが・・・。まさか、お宅の出版社は、こんな実在の人物名を使ったポルノまがいのモノを掲載するわけではないでしょうね」

「小説ではないのですよ」

 倉田が立花に簡単に事の概略を説明した。

「はは、まさかそんな荒唐無稽な・・・。あなた方、担がれてるんですよ、その青年に。いや、ひょっとしたら、東信一に」

 立花はほとんど没交渉になっている東信一という妻の甥を思いだした。香保里と結婚したときに挨拶をした。マラソンのテレビ中継で香保里が一生懸命応援していたのも知っている。確か祝いの電話をかけていたはずだ。

「家内が帰ってきたら確認します。東君とは、多分、今でも連絡は取っているはずだ。何か知っているかも知れない。」

「東信一氏をご存じなんですか?」

「いや私は、昔、一度挨拶したことがあるだけだが、マラソンの・・・あっ、彼は事故で片足を・・・」

 倉田がうなずく。迂闊だった。立花は東信一の事故で香保里が大騒ぎしていた事を思い出した。

「確か、家内は見舞いにも行っているはずだが」

「いつ頃ですか?」

「夏のかかり位だったかな」

 立花の興味の外だったので記憶も曖昧だ。

「ただ、その小説は別の問題だ。東君が関与しているかどうかもわからんが、ともかく家内には相談してみる。・・・大体そんなモノをどういう切り口で掲載するつもりなんだ。ましてや実在の人間の・・・」

「名前は変えます」

「そ、そういう問題じゃないだろう。まさか君は、その間抜けなポルノを実際にあったことと思っているんじゃないだろうな」

「実はそうなんです」

「馬鹿な・・・ありえない。医学的に考えてもあり得ない」

「それを確認したいと思っています。奥様に関しては10年前の・・・」

 その時玄関で音がした。香保里が帰ってきたのだ。倉田が立花の表情を窺う。

「ただいま・・・あ、あらっ、ゴメンナサイ、お客様?」

 応接を覗いた着物姿の香保里が慌てる。倉田が中腰で会釈をする。立花が紹介しようともしないので香保里も会釈だけで訝しそうな顔をしながら引っ込んだ。

「綺麗な方ですね。」

 立花は不機嫌な顔で答えない。

「金沢の農協病院で立花先生の居場所を調べたんですよ。その時、給食室の叔母さん連中が奥様の事を『若い頃の八千草薫のように綺麗だ』って言ってたんですよ。ちょっと私は『八千草薫』じゃピンと来なかったんですけど、お会いして判りました。私は若い頃の八千草薫ってのは知らんのですが八千草薫を若くしたような・・・っていうのはピッタリだ」

 立花は不機嫌な顔で答えない。

「奥さんに確認させて貰えませんか」

「馬鹿な・・・何を言っているんだ、君は。家内にこんないかがわしいモノを見せられるか、馬鹿な事を言うな」

 ドアが開く。香保里が盆に茶をのせて笑顔で入ってくる。お花の会に着ていったのだろう、柿色の地に濃淡の緑の柄の散った着物を着ている。結い上げた髪が少しほつれている。

「お茶も出しませんで・・・」

 立花は倉田が一瞬のうちに香保里の全身を舐めるように見つめたのを感じた。

「君は向こうに行ってろっ」

 立花が大きな声を出し、香保里が立ちすくむ。何か事情があることを察したようだ。慌てて盆を持ったまま部屋を出る。

「先生、さっきの話が本当かどうか見極める簡単な方法があるんです」

 不機嫌な顔のまま立花が倉田を見つめる。

「もう、お気づきでしょう。『てんかん小僧』です」

 押し出すように倉田を家から追い出した後、立花は香保里のいる居間に行かずに応接間に戻るとソファーに腰を下ろして腕を組んだ。

 香保里が茶を持って入ってきた。不機嫌そうな立花を見ると黙ってテーブルに茶を置く。立花の顔を覗き込むようにして黒目をクルッと回して微笑んだ。香保里の「ご機嫌うかがい」のポーズだ。立花はしかめっ面をしてみせる。香保里は「ヤレヤレ」といった表情を浮かべて部屋を出ていく。

 何を馬鹿なことを考えているんだ、俺は。立花はしかめ面のまま香保里の後ろ姿を目で追いながら荒い息をついた。あんなものはデタラメに決まっている。あんな事があるわけがない。自分に言い聞かせる。

「てんかん小僧」・・・か。

< 付章(その③)に続く >

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