付章(その③)
4.倉田(その②)
倉田が離婚したのは3年前だった。離婚にさしたる理由はない。妻の晴代とは実業団の現役サッカー選手時代に結婚したのだが、倉田の体重が増えるのに比例して感情がすれ違いを始め、結局、3年前に結婚を解消した。子供がいなかった事、晴代が友人と共同で始めたインテリアデザインの店が軌道に乗り始めた事、つまり「離婚するのに障害がない」というのが唯一の原因の離婚だった。
40になる前から悪化していた糖尿病のせいで倉田は実質的に夜の能力を失っていて離婚の何年も前から晴代とはそうした関係がなかった。「女を抱く」という事への興味がここ数年大幅に減退していた。
勿論、若くて綺麗な女性を眺めるのは今でも楽しいし、魅力的な女性を見たら触れてみたいという願望も無いわけではなかったが、ただ、切実に「女を抱きたい」という意欲はもう何年も湧いてこない。
だが、その倉田が昨日、名古屋で香保里を見てゾクッと来たのだ。何年か前に忘れていた背筋を走る快感だった。
そもそも47歳という香保里の年を聞いて思い出したのは、ほぼ同年輩の晴代のことだった。晴代は客観的には決して魅力のない女ではなかったと思うが、その晴代に対しての性的な関心を覚えなくなっていた倉田なので、今回の名古屋行きに関しての興味はテープの信憑性の確認と真実であった場合の警告のみにあった。信一が10年前に操った香保里という47歳の女に対してはささやかな好奇心以上のモノは持っていなかった。
ただ香保里を見て倉田の関心が微妙に代わってきている。年齢から勝手に想像していたのと異なり清潔感あふれる女性だった。穏やかに微笑みながら部屋に入ってきた香保里を見て「綺麗だ」と感じると同時に倉田は信一に対して明確な嫉妬を覚えたのだ。
帰りの新幹線の中で缶ビールを空けている倉田の眼が暗い車窓に映して見ていたのは香保里の姿だった。香保里はソファーに座っている。名古屋の立花医師の家のソファーだ。柿色の着物を着ている。背筋を伸ばして姿勢が良い。両手は軽く太腿の上に置かれている。ただ表情は虚ろだ。何も見ていないようだ。倉田は手を伸ばして着物の袖から出た細い手首を掴む。抵抗無く持ち上がる香保里の手。その手をそっと脇に下ろす。倉田は香保里の前にしゃがんで香保里の顔を見上げる。香保里の視線は倉田の頭の上を素通りして中空に固定されている。倉田は着物の裾に手をかけそっとめくり上げる・・・。
居眠りした倉田の手からビールの空缶が転げ落ちた。
木曜日、朝、10:30。倉田はホテル・アルフォンヌのスイートの応接スペースでルームサービスの朝食を取っていた。向かいでは青井美佐子がビデオカメラのチェックをしている。
「倉田さん、本当にいいんですか」
「朝飯かい?食えよ。アルフォンヌのルームサービスなんて自腹ではナカナカ食えない」
「違いますよ。テーブルマスターの了解もとらずにここまで取材進めちゃって大丈夫なんですか」
「しょうがないだろう。あのテープがモノホンかどうかの確証がとれてねえんだから。モノホンだってんだったらテーブルマスターだろうが編集長だろうが同席させるけど、ひょっとしたらただの茶番かも知れないんだぜ」
結局、昨日の名古屋行きでは「東信一」の残した痕跡を確認することは出来なかった。
もう一人、行方を捜していたのは野杖医師だ。金沢から東京に戻ってきて勤務した病院には既にいなかった。神奈川県の私立中学校の校医になっている事をやっと掴んで、今朝、朝から電話で連絡を取ったのだが、週刊誌記者だと名乗った途端、用件さえ伝えない内に会話を拒絶された。倉田は電話口に向かい苦し紛れに「てんかん小僧」と呼びかけてみたが、「失礼します」の声とともに静かに受話器を置かれただけだった。キイワードの痕跡は、・・・少なくとも「てんかん小僧」の痕跡は、残されていなかった。
この状態でみどりと対峙しなくてはならない。
「当たり」か「外れ」か・・・。
5.柿崎(その②)
柿崎は高嶋美紀のマンションの駐車場脇の電柱の陰に隠れていた。ここなら管理人に見とがめられることもない。
確かめてやる。美紀があいつの変な能力によって・・・何て言うのか、言いなりの木偶・・・奴隷?うん、性奴隷になっていることを確認してやる。
駐車場は柿崎が立っている歩道よりも1m位高い。石垣の上のフェンスと植え込みによって遮られているが、ほんの5m程の距離にある美紀の紺色のアウディがよく見える。今日一日、いや何日でも粘ってみせる。
そんなに待つ必要はなかった。マンション脇の出入り口から美紀が出てきた。10:30、出勤時間なのだろう。紺色のパンツに白いシャツ。腕にジャケット、薄手のコート、大きな黒いバッグをまとめて抱えている。
と、その後ろから男が一人現れた。サングラスをかけ顎髭を蓄えた細身の男だ。びっこをひいている。東信一・・・。電信柱の脇で柿崎は気持ちを引き締めた。こいつか・・・?
男が美紀に声をかける。美紀が立ち止まり振り返ると首を傾げた。男が笑い美紀がじゃれるように男を撲つまねをする。仲がよい。暗示によるモノとは到底思えない。
美紀が運転をするのだろう。小走りでクルマに駆け寄るとバッグの中からキーを取り出しリモコンでロックを解除する。もう柿崎の目の前だ。
柿崎が飛び出した。石垣の上に跳び乗ると駐車場との間を遮るネットフェンスにしがみつく。ガチャンというフェンスの大きく揺れる音に美紀が驚いたように顔を上げる。
「高嶋美紀さん」
柿崎が呼びかける。美紀がびっくりしながらも訝しげな眼でフェンスにとりついた柿崎を見る。男が柿崎に気づきびっこをひきながら駆け寄ってくる。
柿崎が美紀の目を見つめながら声をかける。
「てんかん野郎」
美紀はキョトンとしている。聞こえなかったか?慌てて、今度はもっと大きな声で、叫ぶように、
「てんかん野郎、てんかん野郎だ」
ダメだ。美紀は気持ち悪そうな表情をすると後ろから駆け寄ってくる男を振り返る。男と柿崎の目が合った。男の顔が醜くゆがむ。口が大きく開く。その瞬間、柿崎はフェンスから吹き飛ばされて意識を失った。
「な、何かしら今の人」
突然、フェンスから消えた柿崎を眼で捜しながら美紀が信一にすがりつく。
「何だろう、君のファンかなあ。」
身をすくめている美紀の肩を優しく抱くと信一は美紀の耳に何事かささやきかけた。美紀の瞳から表情が消える。信一は険しい表情でフェンスを睨みつけた。
フェンスから1メートル程下の歩道に落ちて意識を失っている柿崎に誰かが声をかけているのが聞こえる。
6.倉田(その③)
美佐子には「茶番かも知れない」とは言ったものの倉田はテープの信憑性に確信に近い物を持っていた。きっと、みどりで確認できる。
信一はまだこちらの動きを知らない。パスワードが漏れたことを知らない。盗聴されたことを知らないのだから・・・。絶対に気づかれてはいけない。彼女達が危険だ。
ノックの音。美佐子が顔を上げる。倉田の表情を確認してからドアに向かう。
みどり姫の登場だ。美佐子が後ろに連なっているがまるで姫と侍女だ。美佐子も決して醜い娘ではない。むしろ可愛い部類に入るだろう。小柄で太りじしだが愛らしい笑顔は誰からも好かれる。しかしみどりは別物だった。決して着飾っているわけではない。むしろ、みどりの方がカジュアルな服装だ。クルマできたのだろう、この季節にしては薄着だ。ベージュのタイトスカートにアーミーグリーンのシャツジャケットの襟を立ててきている。流行からは一歩外した独自のファッション。決して派手ではないのにさりげなく自分だけの世界を演出している。別世界に住む異質で美しい種族。美佐子もそれを感じるのだろう、ほぼ同い年のみどりの後ろに自然と付き従うような体勢になる。
「ここ、執筆するのに時々使ってるの。便利でしょう?」
雑誌記者は記事を書くのにホテルをとったりしない。しかも都心の五ツ星のスイート。ツインのベッドルームと豪華な応接セットを持ったリビングが続き部屋になっている。
みどりがまるで自分の家のリビングのような様子でソファーに腰を下ろす。
「忙しいだろうに悪いね。これがカメラの美佐」
「青井美佐子です。今日はヨロシクお願いします」
みどりがニッコリ笑って会釈する。
「何か飲み物でもとるかい?」
「ええ、ありがとう。そうしたらローズヒップのお茶を・・・」
「エッ?ローズヒッ・・・・?」
倉田の頭の中で「ローズヒップ」が勝手に「薔薇尻」と翻訳されている。・・・薔薇尻ぃ?
「はい、ローズヒップティですね。倉田さんは何か?」
美佐子が笑いながら受け答えている。
「何だ?そのローズヒップってのは?」
「やだなぁ、倉田さん、ハーブティの種類ですよ。・・・週刊誌記者は何でも経験。同じのいただきますか?」
「い、いや、俺は普通のコーヒーでいい」
胸ポケットのタバコに手を伸ばしかけ、ふと気づいて手を止めた。みどりが本の中で密閉された空間でタバコを吸う人間のことをボロクソにけなしていたのを思い出したのだ。眼があってみどりが微笑む。
「いいですよ。倉田さん」
「いや、ヤメとくよ」
暫く雑談が弾む。倉田はサッカー選手上がりという事もありサッカー界の動きについては詳しい。みどりもセリエAについては詳しい。お互い知識を披露し合うようなサッカー談義に花が咲く。窓際に銀幕のレフ板を吊し終わった美佐子が倉田の肩口から写真を撮る。写真の角にインタビュアーの後ろ姿を映し込んでみどりの絵を斜め前から押さえようとしているのだろう。
ハーブティとコーヒーが届く。美佐子は自分の分は頼まなかったようだ。カメラマンという役回りをキッチリと演じている、いいぞ。
ローズヒップティの縦長のグラスを両手で支えながら口にするみどりの姿を美佐子がカメラで狙っている。倉田はそっと美佐子に合図を送った。美佐子がフィルムを代える振りをしながら壁際に近づく。隠したビデオカメラのスイッチを、今、入れたはずだ。
さあ、勝負だ。
7.柿崎(その③)
柿崎は眼を覚ました。白い天井、周りを見回そうとして腰に激痛が走る。
「ツッ、ウッ」
呻いた柿崎に看護婦の一人が気づく。
「あっ、気がついた?・・・今、点滴しますから動かないでね」
病院だ。白いカーテンのせいで横は見えないが、広い診察室の片隅の細身のベッドに寝かされているらしい。多分、柿崎以外の患者の治療を継続しているのだろう、ガヤガヤとした雰囲気だ。腕に針が刺さる痛みで我に返る。
「ここは?」
「等々力中央病院、あなたは救急車で運び込まれたのよ。道で倒れてたんですって。覚えてる?」
柿崎の返事も待たずに看護婦が忙しそうに立ち去る。そうだ、高嶋美紀・・・。思い出した。東信一の恐ろしい形相・・・恐らくあの時「波動砲」を撃たれたんだろう。「波動砲」・・・・でも高嶋美紀に「てんかん野郎」は効かなかった。ひょっとしたらキーワードを変え・・・その瞬間、柿崎は「あっ」と大きな声を出した。「野郎」じゃない・・・「小僧」だ。「てんかん小僧」だ・・・しまった。
「さあ、どうした?」
柿崎の視界に白衣を着た男が入ってくる。医者だろう。
「君が救急車で運び込まれたのが10時52分。今が11時8分だ・・・倒れた状況を覚えているかね?」
柿崎が首を振る。医者が首を傾げる。住所、氏名を聞かれ答える。
「どこか痛いところは?」
「腰が・・・」
「打撲したようだね。倒れた瞬間の目撃者はいないんだが、どうも君が塀から落ちたようだと助けてくれた人がいっている。落ちたときに打ったんだろう」
「頭を打った形跡はない。血圧は正常。毛細血管を確認した範囲では若干、貧血の気味があるが心配は無さそう。心拍も正常。・・・よく倒れるのかね?」
柿崎は又、首を振る。
「一度、精密検査をしてもらった方がいいかも知れない。取りあえず貧血対応として注射して置くけど点滴終わったら帰っても良いよ」
柿崎は腰をさすりながら病院を出た。フェンスにしがみついて「てんかん野郎」と叫んでいたところは見られていないようだ。見られていたら警察へ連絡されていたかも知れない。
恐ろしい・・・「波動砲」の恐ろしさ。ナントカしなくては・・・。やはり警察・・・。しかし証拠のテープはもう柿崎の手元にはない。やはり証拠を掴まなくては・・・。
高嶋美紀に関しては、もう警戒されてしまっただろう。近づくのは危険だ。
平沢みどり・・・。
柿崎は友人で芸能人の裏情報を集めたホームページをインターネット上で運営してる奴がいたのを思い出した。確か芸能人の個人データを集めていたはずだ。平沢みどりの自宅が判るかも知れない。
東信一は「てんかん野郎」からどこまで察したろうか?平沢みどりにつながる情報が漏れている事がバレただろうか。柿崎は腰を押さえながら足を速めた。
8.倉田(その④)
数頁を読み進んだところで、みどりが目を上げ倉田の顔を盗み見る。美佐子がその表情を捉えスチルカメラのシャッターを切った。みどりがテーブルにコピーを投げ捨てた。
「写真やめて。どういうつもり?これ。・・・倉田さんがコラム掲載用の写真を撮りたいって言うから都合をつけたのに・・・。突然、ポルノ小説を読ませてその写真を撮るだなんて。・・・何かの悪い冗談?」
みどりの眉が怒りのために震えている。
「しかも、この小説、ヘタクソ。・・・到底、読むに耐えないわ」
「ゴメン。怒るのはゴモットモ。・・・だけど実はこれは小説じゃぁない。後でタネは明かすけど先ずは全部読んでみてくれ。・・・決して君を侮辱するためにこんな事をやっているわけじゃない。写真もやめる」
数秒間倉田を睨んでいたみどりが渋々とコピーに手を伸ばし読み始める。
ふと、みどりの目が止まり倉田をいぶかしそうに見る。
「・・・美紀って、・・・あの?」
倉田がうなずく。読み進む。
「シンイチ・・・東くん・・・?まさか」
少なくともみどりが東信一と接触していたのは事実のようだ。「東くん」という呼び方がそれを物語っていた。
みどりがコピーを投げ出した。
「ばからしい、もう、やめるわ。付き合いきれない。・・・まさかこの文章を東信一が自分で書いて発表するって言うんじゃないでしょうね。・・・有名人の名前を使って書いたポルノ小説・・・インターネットのWEB小説ではよくあるわよね?・・・それともまさか倉田さん、これ、本気にしてるんじゃ?」
みどりが苦笑を口元に浮かべる。倉田は笑わない。
「冗談よして・・・」
「さっきも言ったようにこれは小説じゃない。まあ、最後まで読んでみてくれ。最後の方に君の名前も出てくる」
もう一度抗議しようとしたみどりだが、自分の名前も出てくると聞いて、しようがなさそうにもう一度コピーを手に取りイヤそうな顔をしながら読み始める。完全に斜め読みだ。
みどりがチラッと目を上げた。どうやら自分の名前が出てきたらしい。もう一度、原稿に眼を投げかけた後、机の上にそれを静かに置いた。
「どうやら・・・残念だけど、東君がこの文章に関与しているのは事実のようね。私の服装はキッチリと書き込まれているわ。」
みどりが信一を訪ねた時の描写のことを言っているのだろう。
「必要なら私から東君に話をするわ。エルドラドも馬鹿なことを考えるのは止しなさい、こんな駄文載せたら恥をかくわよ。編集長は知ってるの?」
みどりは早くも帰り支度を始めた。
「倉チャン、コラムの話はもう無しよ、いいわね」
「みどりさん、何度も言うようにこれは小説じゃない。編集部に持ち込まれた盗聴テープを文字起こししたモノなんだ。状況から見てテープには作為はない。」
「いい加減にして。じゃあ、倉チャン、あなた本当に東君が私に『げっぷのような波動砲を撃って』私を意のままにしたと言うの?・・・大丈夫?倉チャン、疲れてるのじゃない?」
みどりは呆れ果てたという表情でバッグを掴んで立ち上がった。
「みどりさんっ」
「もうやめてっ、帰るわ。そのご丁寧にマジックで塗りつぶしてあるキーワードを唱えてみたら?そしたらアナタの言うことを聴くかも知れなくてよ」
ドアに向かって2~3歩進み振り返る。バッグを片手に掴んだまま腰に手を当てる。仁王立ちだ。タイトスカートの前面がピンと張る。ソファの倉田をキッと睨む。
「ともかく、万が一にもその文章を本当に・・・」
「最後通告」をしようとするみどりに向かって、倉田が声をかける。
「てんかん小僧」
みどりが凍り付く。
キーワードを告げた倉田も凍り付いた。
青井美佐子もカメラを持ったまま凍り付いた。
静寂。
みどりの左手からバッグが落ちる。みどりの姿勢は変わらず身じろぎもしない。倉田が大きく息を吐き出した。確信に近いモノを持って口にしたキーワードだったが、いざ本当に静止してしまったみどりをみると・・・うまく唾液が飲み込めない。眼をしばたく。
倉田がそっと立ち上がりみどりに近づく。みどりはまるでウルトラマンのフィギュアのような姿勢で凍り付いている。シャツジャケットの胸が静かに呼吸にあわせて上下する。視線はソファの倉田が座っていた位置を睨んだままだ。
みどりの大きな瞳の前に手の平をかざして上下に動かしてみる。みどりの瞳は動かない。先ほどしゃべりかけた言葉を発した形のまま唇を少し開いている。下の歯と舌が少し見えている。倉田はみどりの腕にそっと触れた。反応はない。
本当だった。あの録音は確かに真実を話した物なのだ。身中にわき起こる興奮を静めるために倉田はもう一度大きく息をついた。
「美佐っ。ビデオだ」
口を開いて茫然と立ちすくんでいた美佐子が慌てて隠してあったビデオカメラを取りに行く。
倉田はがしゃがんでみどりの足元に落ちている黒い革のバッグに手を伸ばす。倉田の目の前にストッキングに包まれたみどりの形の良い足がある。バッグを拾いながら倉田はそっと手の甲をみどりの足に触れさせた。
美佐子からカメラを受け取った倉田がみどりの正面に立ち近距離で顔を捉える。右手でカメラを構え左の手の平をみどりの顔の前で上下させる。何も映していない瞳をズームする。
一歩下がると全身像を丹念にビデオで撮影する。正面からグルリと背中に回り、又、正面に戻る。
左手でビデオを操作しながら右手でみどりの左の手首をつまむ。手首の内側の滑らかな感触を感じながら持ち上げてみる。倉田が手を離してもみどりの軽く握られた手は宙に浮いている。もう少し持ち上げて顔の横に止めてみる。招き猫のようなポーズになる。反対の手も同じ形にする。
両足をタイトスカートの幅一杯に開き腕を鉄腕アトムのように構えたみどりの姿を倉田が舐めるようにビデオに収める。
「美佐、今のところパソコンに落としてくれ。今のところだけでいい。」
美佐子がカメラを受け取る。倉田はみどりの背中を押し歩かそうとするが上手くいかない。信一の独白を思い出す。みどりの耳元に顔を寄せる。みどりの香りが匂い立つ。糖尿のせいで長いこと反応することを忘れていた倉田の分身が久し振りに身じろぎをし、倉田もブルッと身震いをした。そっと囁く。
「ソファーに戻ろう。そして座るんだ」
背中を軽く押しながら誘導してやる。みどりの体温が掌に気持ちよい。みどりが鉄腕アトムの腕のまま、ゆっくりと歩く。
「美佐っ、早くセットしろ」
ポカンと口を開けて様子を見ていた美佐子が慌てて作業に戻る。
「1、2、3、ハイ」
みどりがハッと瞬きをする。姿勢良くソファに浅く腰掛けているみどりがチラッと周りを見回しながら突然しゃべり始めた。
「掲載するつもりなら・・・」
自分でも思いがけない声の大きさだったのだろう。目をパチクリさせ、もう一度、声のトーンを落として言い直す。
「ともかく、万が一にもその文章を本当に掲載するつもりなら一度ちゃんと話をさせて、こんなだまし討ちみたいな・・・」
しゃべりながら周りを見回し、だんだん声が小さくなる。
「やり方じゃなく・・・ど、どういう事?・・・・あなた、私に何かした?・・・あなた」
倉田は答えない。
「わ、私・・・今・・・倉チャン、どういう事」
「君がキーワードを使って見せろって言うから使ってみた」
みどりがポカンとした顔をし、そして笑い出した。
「やめてよ、ふざけないで・・・倉チャン」
笑い方が心なしか心細げだ。倉田は笑わない。ちょっと悲しげな顔をして見せた。
「ふざけてなんかいない。さっきから一度も」
膝の上に置いていたノートパソコンのアプリケーションを作動させると画面をみどりに向けて机の上に置く。
みどりがパソコンの画面を見つめている。大きな瞳が瞬きもしない。両手が上がり鼻と口を包む。悲鳴を上げてしまうのを押さえるかのように。
録画は繰り返し再生されているはずだ。倉田はみどりの様子を黙って観察している。みどりが自分の両肩を抱くように身をすくめ画面から目を逸らした。震えている。倉田はパソコンの向きを変えると再生を停止した。画面の中のみどりの大きな瞳が倉田を見つめている。
「みどりさん」
みどりは答えない。身をすくめて震えている。倉田は数分間待った。
「みどりさん。・・・・大丈夫か?・・・ちょっと乱暴だったと思う。・・・大丈夫か?」
みどりの返事を待つ。たっぷり3分間経ってみどりが顔を上げた。
「大丈夫じゃないわ」
声がしゃがれている。
「私の記憶は何?・・・私の記憶にある東君との会話は何なの?イエ、会話だけじゃないわ・・・ねえ、倉チャン・・・何なの、これは」
みどりの声が大きくなる。今見たビデオから色々なことを察したようだ。
「みどりさん、落ち着いて・・・」
みどりの息が荒い。又、両肩を抱いて震える。
「みどりさん」
「ちょっと考えさせて・・・私、混乱して・・・催眠術なの?・・・あぁ、駄目」
泣き声になる。救いを求めるように倉田の顔を見上げる。
「大丈夫。もう、大丈夫なんだ」
「駄目、駄目よ。・・・頭が混乱してて考えられない。」
そりゃ無理もない。よく耐えてる方だ。倉田は内心感心した。
「倉チャン、ちょっと冷静に考えてみたいの・・・。悪いけど、その原稿、貸してくれる?」
「どうするつもり?」
「ちょっと一人になって考えてみたいの。・・・それ、持ち帰ってちゃんと読んでみるわ」
「この部屋を使えばいい」
「ううん、無理。・・・ちょっと冷静になれるように・・・頭を冷やしてみるわ」
「駄目だ、みどりさん、それは危険だ。信一が君の家に戻ってくるかも知れない。君には抵抗力はないんだ・・・ここにいた方がいい」
「ありがとう、倉チャン」
みどりが、又、肩を抱く姿勢に戻り真剣な表情で机の表面を見つめている。
唇が震える。みどりが突然立ち上がった。バッグを掴む。
「ごめんなさい、倉チャン・・・。やっぱり帰るわ。・・・考えれば考えるほど頭が・・・。私、きっと半狂乱になるわ。そんなところ誰にも見られたくない」
みどりがドアに向かう。
「待ってくれ、みどりさん。イケナイ、表に出ちゃ駄目だ」
みどりは一瞬立ち止まりかけたが、小さな声で「ごめんなさい」とつぶやくとドアのノブに手をかけた。
「み、みどり・・・・」
名前を呼ばれた時点でキーワードの発動を感じたのだろう。ノブに手をかけたまま、みどりがサッと振り返り何かを言おうとした。
「てんかん小僧」
美佐子が後ろで息をのむのが判った。何かを言いかけて口を開いたまま、みどりが固まる。倉田が歩み寄った。
ノブを掴んだみどりの手をノブから引き離す。強い握力を予想していたのだが簡単に手が離れた。指は曲がりノブを掴んだ形をそのまま残している。
倉田は腕をみどりの脇の下に差し込むとみどりを抱きしめるようにしながら耳元で囁いた。
「眠ろう。身体の力を抜いて眠るんだ」
みどりの顔から表情が消える。薄い瞼が大きな瞳をかくす。膝を割るようにして身体が崩れ落ち倉田の腕にぶら下がる。
みどりの両の乳房の柔らかい圧力を腹に感じながらみどりの身体を揺すり上げ抱き上げた。筋肉が発達したスケート選手だ、見かけよりも重い。よろけそうになるのを美佐子に悟られないようにしながらソファに運ぶ。あごをしゃくって美佐子にドアの前に落ちているバッグを指し示す。美佐子がバッグを拾いに向かうのを確認しながらみどりをソファに下ろして座らせる。
倉田はみどりの身体を殊更に機械的に扱った。この美しい身体を自由に出来る喜び・・・邪念に負けたら駄目だ。倉田はこのとびきりの特ダネを完成させるためには少しでも後ろめたいことをやったら駄目だということを記者の感性で感じていた。ましてや美佐が見ている。邪念を捨てろ。・・・と、自分に言い聞かせながらも、バッグを拾いに行った美佐子の視線を自分の背中で遮っていることを確認すると、みどりの乳房を軽く握ってみる。暖かい弾力、又、倉田の分身が、ホンノささやかにだが、反応する。
「さて・・・」
倉田は大きく息をついた。倉田の横にはみどりがソファの背に身体を預けて眠っている。首が仰け反って喉のラインが美しい。向かいには美佐子が指示を待つように座っている。ハリキリ娘の美佐子もさすがに今日は飲まれてしまっているようだ。
「テープは・・・、テープは本物だということが証明された訳だ」
「これからどうするんですか?倉田さん」
「ああ・・・そうだな」
倉田も頭のシンがくたびれている。まだ、正午だ。今日は長い一日になりそうだ。
「まず、編集長に連絡を取るぞ」
「はい」
「世紀の特ダネっていう奴になるぞ」
美佐子の瞳が輝く。新米とは言え記者だ。
早速、編集長に連絡を取る。出張中の真木坂を携帯で捕まえる。帰京は夜になるという。
「それじゃあ、ご自宅に伺います」
「倉田ぁ、特ダネって何なんだ」
「いや、多分、電話じゃ信じて貰えそうもないんで・・・何時頃伺えばよろしいですか?」
「9時頃かな。まあ、楽しみにしてるよ」
電話を切る。
「9時に真木坂さんのウチに行くぞ。オマエも証人だ。いいな?・・・テープと原稿とビデオを持っていこう。」
美佐子が眠っているみどりに視線を走らせる。
「うん、まあ、これは持って行かんでもいいだろう」
と、倉田がみどりの肩を軽く揺する。みどりのことを「これ」と呼んだ瞬間、又、倉田の分身が微かに反応した。
「夜まで眠らせて置くんですか」
「そうだな・・・さて、どうするか。眼を覚まさせたら、又、パニックを起こすかも知れないしな。大体、記事にすることの協力を得られそうもない。」
「倉田さん、暗示で協力させたらどうですか?」
倉田がギョッとした顔で美佐子の顔を見る。
「テープで東信一が言っていることが本当ならできそうです」
「ああ、でも人道的な問題が残るな。取材道徳に悖る面は否めない」
倉田の逡巡は美佐子にも判る。記者の良心の問題ではない、違法取材が行われた時点でどんな特ダネも価値を失う。今回は出発点が盗聴と言うだけで既に当落線上にある。
「テープによれば記憶の改変も可能みたいだな」
「忘れさせることも可能なようです」
倉田は悩んだ揚げ句、美佐子の案に乗ることにした。みどりの協力を取り付けるという取材上の最大の難関をクリアできる。・・・という点よりも「みどりに暗示をかける」という点に強烈な興味が湧いている。
まず、第一。さっきのパニックを忘れさせ、気持ちを落ち着かせる。
次に、この事態を乗り越えるには倉田達の取材に協力することが必要という思いを植え込む。
更に、眼を覚ました後、協力を要請されたことには従う。
あっ、そうだ。キーワードも切り替えて置いた方がよい。もう一度、波動砲を使われたら同じだが、やはり我々が確保したみどりには我々の鍵をかけなくてはいけない。
その上で東信一との関わりについて全てを思い出してもらい、今日の午後を使って文章にさせよう。真実の記録と作られた記憶の齟齬を確認するんだ。幸い、パソコンもあるから打たせればいい。
「美佐、俺はみどりの家に行って来る。オマエはみどりの作業の監視だ。表には出すな。外部との連絡も駄目だ。お前がキーワードを使うことも禁止だ。俺達がみどりを操っていると言うことを絶対にみどりに感づかせたらいけない」
「みどりさんの家?ああ、彼女の家族ですね。母親と妹でしたっけ、やはりキーワードを埋め込まれて・・・?」
「多分な。それを確認してくる」
「キーワードを埋め込まれていたら、ここに保護するんですか」
「いや、家族は放置する。家族全員が消えたことに信一が気がついたらマズイ。みどりは、もう休暇でイタリアに発ったという記憶を植え込んで置くんだ。・・・ともかく我々の対応が決まるまで信一に知られないようにしなくちゃいけない。俺達がみどりを確保していることも、キーワードを知っていることも絶対に奴に知られたらいけない。上手くいくかどうかわからんがナントカやって来る」
倉田はみどりに対しての暗示の手順と最適な言い回しを頭の中で整理した。何とかいけそうだ。
「よし、ルームサービスで昼食を頼んでくれ。昼飯が届く前に暗示作業を終わらせてみせる」
「倉田さん、さっき食べたばかりじゃないですか?・・・彼女、何を食べるかしら?」
「オマエが注文した物がおいしそうに見えるように暗示するよ」
9.美佐子
みどりが真剣な表情でパソコンに向かっている。みどりが信一に興味を持ったきっかけから出会い、交際までを思い出しながらまとめているのだ。美佐子はみどりの向かいに座ってみどりの作業を見つめている。倉田は編集部との打ち合わせという名目で部屋を出ていった。みどりの母親には「修学社出版の倉田という記者が行くので取材に応じてやってくれ」という電話をみどりがかけた。勿論、強い暗示のもとで。電話をかけた記憶も消去してある。
倉田の暗示が効いている。眼を覚ましたみどりは落ち着きを取り戻していた。彼女はパニックを起こしたことも二度目の「てんかん小僧」も覚えていない。取材への協力を要請し信一との関係を出会いまで遡ってまとめてくれと頼むと逡巡しながらも了解した。事件解決にはそれが必要と感じたのだろう。
昼食は取らなかった。「おいしそうに感じる」暗示は生きていたのだが、倉田が食欲を感じる暗示をかけ忘れたのだ。
「おいしそうね・・・・でも、やめておくわ。食欲がないの」
倉田と美佐子が食事をしている間、みどりはもう一度原稿を読み直し、自分の映ったビデオを見た。倉田が二人分を食べた。みどりが「だから太るんですよ」と悪態をつく。
「青井さんて仰ったかしら」
ワープロを叩いていたみどりが突然美佐子に話しかけた。
「はい、美佐って呼んで下さい。・・・何か?」
「おいくつなの?」
「24歳です」
「私より二つ下・・・」
「はい」
「私の記憶は操作されているのかしら、やっぱり・・・」
「わかりません。でも多分・・・」
信一による記憶操作は確かだろう。実は倉田達によっても操作されているのだ。しかも美佐子の発案によって・・・。美佐子はバレたかと一瞬ドキッとした。
「自分の記憶が本物じゃないなんて・・・解る?この恐怖」
「そんな映画ありましたね。アーノルド・シュワルツェネッガー主演で・・・トータル・リコールでしたっけ。・・・あ、ごめんなさい」
みどりが悲しそうに微笑む。
「そうよね。普通は映画か小説の中のお話よね」
みどりの悲しそうな微笑みを見て美佐子は突然背筋にゾクゾクッとしたモノを感じた。後ろめたさ?・・・いいえ、違う。私は今、快感を感じている。この、どういう基準で比べても私より優れている人に対して優越感を持てる立場にいることに私は快感を覚えている。
みどりは、又、作業に戻っている。
美佐子がみどりを見つめる。私はこの人に対して何でも出来る。何をしてもこの人は拒否できない。何をしても「消しゴム」で消せる。もう一度背筋を、今度は本物の快感が走る。
< 付章(その④)に続く >
≪読者の皆さん≫
さて、キーワードを使うチャンスを持った登場人物が5人になりました。信一、倉田、柿崎、美佐子、立花です。それぞれがみどり、みどりの母、妹、香保里、高嶋美紀にせまります。信一以外は自分でキーワードを埋め込む力はありません。しかしキーワードとそれが誰に埋め込まれたかを知っています。あなたがそういう立場に置かれたらどうしますか。即、陵辱ですか?
仮にそれがあなたの愛する人だったら、
あるいは肉親だったら、
会社の同僚だったら、
親友の奥さんだったら、
さて、どうしますか?
是非、あなたの対応を教えて下さい。