おやぢ 忠犬

忠犬

 薄暗い家畜小屋のような部屋。
 それが、彼の生息する場所だった。
 あと何年かすれば、彼が生まれてから半世紀が過ぎたことになる。
 普通の人間には、この部屋の様子は想像がつかないだろう……というか、想像したくないに違いない。
 みごとなまでに不規則に散らかった得体のしれない本や、使用済みのティッシュ(何につかったのか……)、手垢で汚れきった美少女フィギュア。
 もちろん、その中には食べ残したままほったらかしになった食い物もあり、生ごみ特有の異臭を放ってたりする。
 さらにこの部屋の特徴として、昆虫の生態を観察するにはうってつけだった。
 てかてかと油のよくのった茶羽の昆虫が、この部屋を繁殖の場としていたからだ。
 ほとんどの一般市民は、この部屋のドアを開けたとたんにすぐに扉を閉めて、永遠に封印を施したいと願うだろう。あるいわ記憶の中から抹消してしまおうと試みるだろう。
 刑務所に入れられることなどまるで歯牙にもとめない凶悪な犯罪者だとて、この部屋に閉じ込めるぞといえば、己が行為をその場で悔いあたらめるであろう。
 彼はそんな場所を、最高に居心地の良い棲家として生息していた。
 名を田所便三(たどころべんぞう)という。
 もうだいぶ薄くなってきた頭。体は不健康そうにやせほそり、目ばかりギロギロと輝かせている。
 輝いてるってったって、もちろん狂人のそれにちかい異様な光。明らかに何かに取り付かれてる、そんな輝きだった。
 この部屋と同じくらい……あるいはそれ以上に普通でないことは明らかだろう。
 まぁ、便三にとってはそんなのはどーだっていいことだったのだけれど。
 で、便三は今昼間っから雨戸を締め切り、暗くした部屋の中でパソコンを扱っていた。
 モニターの中には、明らかにデジカメで隠し撮りしたらしい女性の写真が映し出されている。
 その写真にはそれぞれ撮影場所と、その女性のくわしいプロフィールがつけられていて、完全なデータベース化されているようだった。
「ちっ、最近のメスどもときたらどうにも質が落ちてやがる」
 にがにがしく便三がいった。
 でも、モニターに映し出された女性達は、誰もがそれぞれに美しく美女という括りに間違いなく分別されるに違いない。
 一体彼女らの何が気に食わないのだろうか?
「見てくればかりに気ぃ配りやがって、いい男と見れば見境なく股開きやがる。こんな連中落としても、ちぃ~っとも面白くねぇぜ。……だいいち、おれさまの美学に反するもんなぁ。なぁ、せんせーよぅ、あんたもそう思うだろう?」
 そういって便三が自分の足元を見下ろす。
 そこには白衣を着た鋭利な美貌を持った美女がいた。
 白衣の下は裸身。
 その格好のまま、彼女は便三の一物を咥え込み両手で袋やさおを刺激して懸命に奉仕している。
 鋭利な美貌にはとろけてしまいそうなくらいはっきりと歓喜の表情が浮かんでいて、その行為そのものがあきらかに彼女にとっては快感を感じさせていることは明らかだった。
「うう、ううううっう。うん、ううう、うん」
 白衣の美女が答える。
 まともに口の中に収まりきれないほど巨大な一物を咥えたままで。
「なにいってるか、わかんねぇぜ。おいせんせーよ、しゃべるときくらい俺様のものをはなさねぇか」
 とうぜんである。
 すると、白衣の美女はゆっくりと未練いっぱいに一物を口からはきだす。
「ご主人さまぁ。おゆるしくださいぃ」
 鋭利さを秘めた美貌が泣き崩れそうなくらい、なさけない表情になっている。
「ちっ。おこってねぇよ。そんなことより、俺様の質問に答えねぇかよ」
 ちょっと苛立ってみせたけど、便三の表情には明らかに満足そうな笑みが浮かんでいた。
「はい、ご主人さま。……ご主人さまの思うようにされるのが一番かと……。でも、ご主人さま以外にご主人さまのご命令がないかぎり体を開くような女など、ご主人さまにはふさわしくないかと……」
 それを聞いた便三は、今度はあからさまに哄笑をはなつ。
「くくっ……。そういうてめぇはどうなんだよ? 確か外科医の結城とかいったよなぁ? 婚約してたんだろ? 当然そいつとやりまくってたんだろうがよ?」
 そう便三が言ったときだった。
「う、う、うぁぁぁぁぁっ!!!」
 白衣を着た美女は、頭を抱えて身を捩りはじめる。
 頭を汚い床にこすりつけ、美しい裸体を白衣の下でおしげもなくさらしたまま、床の上で身悶える。
「す、すみませんご主人さまぁぁぁ! ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
 のたうちながら彼女が口にしていたのはそんな言葉だった。
 記憶。
 罪悪感。
 嫌悪感。
 それが、今彼女の心を襲っていた。
 彼女にとってそれは死によってすらあがなうことのできない罪。
「くくっ。まったくたまらねぇよなぁ! 最初は自分(てめぇ)の婚約者を忘れることなんて死んでもできないなんてほざいてたのによぅ。今じゃそのざまだからなぁ」
 便三は椅子から降りて、床の上でのたうちまわる美女の頭を両手で抱える。
 すると、彼女の動きがぴたりと止まり、その視線は便三の気色の悪い顔から離せなくなってしまう。
「なぁ、こたえろや。結城ってヤローのこたぁどう思ってんだぁ?」
 その質問に対して、白衣を着た美女はさっきほどではないにしても、それでもあきらかにその美貌に苦悶の表情を浮かべていた。
「も、もうしわけありません! おゆるしください、ご主人さまぁ! あの男は敵です。ご主人さまに捧げるべきこの体を汚した憎むべき男です!」
 彼女の表情には今度は憎しみの表情が浮かんでいた。
 だけど彼女は気づいているのか。
 婚約者との関係は便三と出会う以前のものだ。それも、無理やりであるはずもなく、相思相愛……便三の言葉を信じるならば、命をかけてというくらいのものだったはず。
 だから彼女の向けた憎しみは、はっきりいっていいがかり以外のなにものでもない。
「くっくっくっ。てめぇはおもしれーよ。……まぁ、俺様がそうしたんだけどなぁ」
 楽しそうに笑っていた便三だったが。
 バチッ!
 突然その頬を殴り飛ばすと。
「なにぼけっとしてやがる! とっとと俺様に奉仕しねぇかよぅ!」
 吐きすてるようにそういった。
 これもまた、いいがかりである。
「ああ、おゆるしくださいご主人さまぁ!」
 白衣の美女は、そのいいがかりを当然のこととしてうけとめていた。
 これはもう、忠誠心というより盲従に近い。
 彼女にとって便三の言葉はどのように理不尽なものであっても絶対なのだ。
 そして、便三の行為はすべてが正義そのものだった。
「うっうっううう!」
 便三の言葉どうりにご奉仕をはじめながら、必死に許しを請うているようだった。
「てめぇ、医者のくせに頭わりぃなぁ。咥えながらしゃべるんじゃねぇって言ったばかりじゃねぇかよ。……おい、口をはなすんじゃねぇよ。わかった、ゆるしてやるからよ尻をだせや」
 便三がそういうと、彼女の表情に劇的な変化がおとずれた。
 それまでの苦悶や悲しそうな表情がうそのように消え去って、変わりに至福の喜びに包まれた表情に変わる。
 涙があふれだし、鼻水や涎までしたたらせている。
 もちろん彼女の一番厭らしい部分からも、淫水が小便と大差ないくらい大量にふきだしている。
 それが、便三の言葉だけでもたらされた変化だった。
「あ、ありがとうございますぅ、ご主人さまぁ! ありがとうございますぅ! ありがとうございますぅ! ありがとうございますぅ! ………………」
 なんどもなんども感極まったようにお礼をいいながら、便三に向けて尻を突き出し誘うように振りまくる。
 もう、一刻もはやく便三の一物で貫いてほしい。
 言葉にはしなくても、あふれかえる厭らしい蜜でべとべとになった尻が雄弁にそう訴えていた。
 バチッ!
「あ、うんっ!」
 便三が遠慮することなく平手で尻をたたくと、女は美しい顔をより一層の歓喜にゆがませて声をあげる。
「ちったぁ静かにしねぇかよ! 俺様のものをぶち込みにくいじゃねぇかよ!」
 そういうと、便三が再度たっぷりと張りのある尻に平手を見舞う。
 バチイィィッッッ!
 さっきの倍くらい音が響き……。
「ひゃうううっ!!!」
 白衣を纏った美しい女は、倍以上のよがり声をあげた。
「一人でよがってんじゃねぇぞこらぁ!」
 はげしくののしる便三。
 そして、その巨大過ぎるいちもつを一気にぶち込み。
「おら、おら、おらぁ!」
 激しくつきまくった。
「うんっ、うんっ、うあんっ!」
 美女は快楽に浸りきり、便三の罵る声ですら悦びとなる。
「どうだぁ、俺様のものはよぅ!」
 パンパンと激しく腰を打ちつける便三。
「俺様のものは、てめぇにとってなんなんだぁ? いえよ、てめぇにとってなんなんだよぅ!」
「ちんぽさまですぅ! わたしのご主人さまですぅ!」
 パンパンパン!
「けっ! 男のものならよう、誰でもいいんじゃねぇのかよう?」
「いやです! ご主人さまのちんぽさまだけですぅ! あたしが、お仕えるするのはご主人さまのちんぽさまだけなんですぅぅぅ!!!」
「信じ、られねぇなぁ? じゃぁ、俺様以外のやつにこんなことされたら、どうすんだよぅ?」
 パンパンパン! パンパンパン!
 さらに激しく突き上げると、
「うぁうぅぅぅ!!!」
 顔中をぐちゃぐちゃに歪ませながら何かを答えようとするけど、言葉を発することができなくなってしまう。
「ええ? どうなんだよぅ?」
 すこし、便三が腰の動きをゆるめるとなんとか快楽にひたったよがり声の間から、答えをかえす。
「ううっ。こ、殺しますぅ。かならずそいつを殺します!」
 その答えを聞いた便三は、再び腰の動きを激しくしながら。
「ふん、まぁいいが俺様に迷惑かけるんじゃねぇぞ、こらぁ!」
 あくまで便三は自分勝手な男だった。
「じゃあ、俺様はいくぜぇ!」
 そういうと、便三の腰の動きがさらに速度を増す。
 パパパパパパハンッ!!!!!
「うあぁぁぁぁぁぁっっっんッ!!!!!」
「うっ!」
 二人は同時にイッた。
 ただ、白衣の美女は完全に失神して意識を失っていたが、便三のほうはあんまり変化が見当たらない。
「こいつもいい加減あきちまったなぁ。とりあえずこいつの記憶を封じて送り返すか……」
 便三は汚れきったベッドの上で意識を失っている美女を見下ろしながら、冷たく言い放つ。
 その汚れきった瞳に映っているのは、白衣を着た美しい女などではなかった。

………………

 その日、結城総合病院ではとんでもないさわぎになっていた。
 3ヶ月にも及んでその姿をくらませていた天才メッサーが突然帰ってきたからだ。
 伊集院舞華(いじゅういんまいか)。
 不出世の天才、29歳の若さで伝説となったメッサー。
 彼女の行う手術は芸術(アート)といわれ、数え切れないくらいの奇跡を起こしてきた。
 彼女が執刀しなければ命を落とした人間は、とても二桁ではおさまるまい。
 ベッド数が千を越えるとはいっても、一般の民間病院に過ぎない結城総合病院にいること自体がとんでもないことだと思われていた。
 彼女を必要とし、彼女を心底ほっしている病院は世界中にいくらもあったからだ。こんなところで終わるには、あまりにおしい才能だと誰もがそう考えた。
 それでもなを彼女がこの病院に留まっているわけはただひとつ、この病院の跡取で内科部長を務めている一人の男のため。
 結城晶吾(ゆうきしょうご)という婚約者のためだった。
 二人は大学時代に出会い、十年にも及ぶ交際の後に半年前にようやく婚約を発表した。
 誰もがいつになったら……という思いを抱いてきただけに、二人を知る人たちは等しく誰もが祝福をした。
 じきに結城晶吾の代になったとき、この病院は更なる名声と発展とをとげると誰もがそう信じた。
 なのに……。
 舞華の突然の失踪。
 誘拐だと騒がれた。でも本人からの連絡がそれを否定し、警察沙汰になることはなかった。
 けれど、その間舞華は自分の失踪の理由に触れることはなかった。
 だから、やはり彼女の失踪の理由はなぞのままだったのだ。
 それが今日戻ってきた。
 なぜ?
 何のために?
 そして一体舞華はなにを考えているのか?
 おそらくこの病院の人間は、全員がそれを知りたいと願っているはずだ。
 もちろん舞華をこの世でもっとも愛し、舞華のことは彼女自身よりもよく知っている、とそう自負してきた結城晶吾がもっともそれを望んでいるはずだ。
 なのに晶吾は舞華を目の前にしながら、なにも言い出すことができないでいた。
 それは確かに舞華だった。
 人目を圧倒的な吸引力で引きつけずにはおけないくらいの美貌。強烈な意思を感じさせる瞳。
 舞華を特徴付けるものは確かにそこにあった。
 でも、晶吾に向けられる視線にはつい3ヶ月前までには確かにあったものが、完全に失われていた。
 彼を見つめる瞳には優しさが満ちていて、言葉はなくても彼に対する愛情がいつでもそこには感じられた。
 その口元にはいつも柔らかい微笑みが浮かび、彼女の内なる優しさを見るものすべてに感じさせていた。
 でも今は違う。
 晶吾を見つめる瞳には愛情などかけらも感じられない。
 その口元に浮かぶのは冷笑。
 冷ややかに、他者を見下すものが浮かべる嘲笑の笑み。
 確かに舞華は帰ってきた。
 でもそれは、別人となって。
 晶吾にはそうとしか思えなかった。
 だから、声をかけることがためらわれたのだ。
 そのことを確認するのが怖かったから。
 でも、結局彼は重苦しい沈黙に耐え切れなくなってしまう。
「舞華……」
 恐る恐るといった感じで話しかける晶吾。
「一体今まで何処に……?」
 婚約者が発する質問としては、当然過ぎるくらい当然の質問だった。
 それに対する舞華の返答は、
「いちいち覚えてなんかないわ、そんなこと。……それより、わたしの名前をなれなれしく呼ばないで! 汚らわしい!」
 という苛烈なものだった。
「い、一体どうしたんだ? 舞華……」
 驚く晶吾に対して舞華は。
「ふん、自分の胸にきいてみなさい。あなたがわたしにしたことを、ね」
 冷ややかにそう告げる。
「…………?」
 でも、あいにくと晶吾には思い当たることなんかまるでなかった。
 少なくとも3ヶ月前に突然失踪する直前までは、なんの問題もなかったはずだ。
 二人の間で交わされるプライベートな会話の大部分は結婚式のための打ち合わせがほとんどであり、それ以外は仕事に関連するものばかりだった。
 でもそういうことは、10年近く続けられてきたことであり、少なくとも晶吾にとっては問題となるようなこととはどうしても思えなかった。
 だから、
「すまない舞華、教えてくれないか? 僕にはどうしても理由が思いつかない」
 晶吾は素直にそうたずねる。
 舞華に対して意地をはったり見栄をはったりすることは、10年ほど前からやめていた。
 天才を相手に凡人が見栄を張ってもむなしいだけだ。
 すくなくとも晶吾はそう思っている。
 それに晶吾にとって最大のプライドといえば、伊集院舞華という稀代の天才メッサーが自分という男を愛してくれたのだということだった。
「ふん、やはりあなたにはわからないのね。自分がどれほど罪深いあやまちを犯したのか!」
 それまで冷ややかだった舞華の表情に変化があらわれた。
 それは晶吾にとって一生見たくないと思っていた表情。
 怒りと憎しみ……晶吾に対するあからさまな憎悪。
「な、なぜ? なんで僕をそんな目で見る? 舞華! たのむから教えてくれ!」
 もうわけがわからなかった。
 それこそ神にでもすがりたい。
「あなたが汚したから……」
 つぶやくように舞華が言った。
 でも声が震えている。それがうれしいからなどではないことなど、容易に理解できる。
 が、それ以上はわからない。だから、聞くしかなかった。
 たとえそれが、晶吾にとって耐えがたい苦痛をともなう答えであろうとも……。
「……汚した? ……なにを?」
「わからないか? やはり……すくいがたい……あなた……。教えてあげるわ、あなたの犯した罪を。あなたがどんなに愚かなことをなしたのかを」
 晶吾に向けられた言葉。それは、晶吾にとって物理的に圧迫感すら感じられるものだった。
「……たのむ……」
 つぶやくように、小さくそう答えるのがやっとだった。
 無論、舞華はそんな言葉など歯牙にもとめない。
「あなたは、わたしの体を汚した。それがあなたの罪。けして許されることのない咎(とが)。わたしのご主人さまに捧げられたこの肉体はあなたによって汚されていた。すべてを、あの方に捧げなくてはならなかったのに、すでにあなたの肉体によって汚されていたわ。……だから、あなたを憎む。あなたの罪が消えないように、あなたへの憎しみは永遠に消えることはないでしょう!」
 その言葉を聞いて、晶吾は愕然とした。
 それはとてつもなく理不尽なセリフ。
 でも、それ以上に晶吾にとっては衝撃的なセリフでもあった。
 憎む?
 ……なぜ?
 肉体を汚した?
 ……愛し合っていたはずなのに?
 罪?
 ……愛し合うことが?
 ……それとも自分が愛したことが?
 ご主人さま?
 ……それは一体何者なのか?
 わからない。
 いや、わかりたくないのかも知れない。
「ご、ご主人様って……僕のことはもう……」
 つぶやくように言った晶吾の言葉。
 それは聞かれることを想定した言葉ではなかった。でも舞華ききとがめる。
「あなた何様だと思っているの? ご主人様と比べるなどおこがましい! わたしがご主人様のものになった以上あなたのことをどうにか思ってるはずなどないでしょう? あなたに感じるのは憎しみだけ」
 舞華はこれ以上ないっていうくらい、きっぱりと言い放つ。
「せ、せめてそのご主人様というのが何者なのか、教えてくれないか?」
 もちろんそんなことなど、望んでいるわけではなかった。
 でも、それくらいは知る権利はある。
 そして、知らなくてはならない義務もあるはずだった。
 その質問は舞華に思いもかけない影響をおよぼすことになった。
「ご主人様……。誰……?」
 舞華は衝撃を受けていた。
 その衝撃は圧倒的なものだった。
 憎むべき男、結城晶吾が目の前にいるのにそのことすら失念してしまうほどの。
 思い出せない。
 ご主人様の顔が、姿が、声が……。
 無論、名前も。
 何処に住んでいて、どういうことを話してくださったのか、まるで思い出すことができなくなっていた。
 なにより……そう、自分自身の命などよりも遥かに大切なかたなのに……。
 まるで自分自身の存在そのものが失われたような気がした。
 でも、唯一覚えていることがあった。
 それは……。
「うっ、あんっ!」
 声が漏れる。
 甘く甘美で淫靡な声。
 ビシッと極めたスーツの上から白く長く美しい指が淫らに蠢き、自分の胸を刺激している。
 体中に走る甘美な刺激。
 晶吾が声もなくそのありさまを見ていたが、舞華は気にしない。
 この快感は唯一この体に刻みつけられた記憶。手放せるわけがない。
 だから、その行動はもっと過激に、もっと淫らになっいくしかなかった。
「ご主人さまぁ! ご主人様ぁ、うっん!」
 両目からは涙があふれ続けている。
 失った、あまりに大切なものをその涙で埋めようとでもするかのように。
 右手はスーツのボタンをはずし、その中に突っ込まれている。
 左手はタイトスカートをめくりあげ、その中をまさぐりだす。
 ご主人様と叫びながら、派手なよがり声をあげている。
 痴態だった。
 舞華のそんな姿を見たことなど、いままでなかった。付き合い始めて10年近く。でも、彼女のそんな姿などみたことなかった。
 なにを言っていいのか、どういう反応を示していいのか思いつかない。
 でも、このまま黙ってみているのは耐えがたかった。
 だから、
「舞華……」
 その名を呼びながら近づき、その体に触れてしまった。
 ベキッ!
 派手な音がした。
 その音は部屋中に響いた。
 その音源は本来ならありえない角度に折れ曲がっていた。
 それは、舞華の体に触れた腕。
 晶吾は信じられないといった表情でそれをみつめる。
「わたしに触れるな! あの方に迷惑がかかってはいけないからそれ以上はしないが、こんどは命の保証はしない!」
 舞華はそう言い放つと、また自分の体をまさぐりはじめる。
 今度はさっき以上の淫らさで。
 遠慮なく服をはだけ、パンティすら脱ぎ捨て、立ったまま大きく股を開いて蜜の溢れる陰部をぐちゃぐちゃとかき回す。
「う、う、う」
 強烈な痛みにうめきがら、晶吾はその様をながめていることしかできなかった。

………………

「クックック……。たまんねぇなぁ、じつに面白れぇ展開じゃねぇかよ。これだから、人の女を雌犬にするのはやめられねぇよなぁ。こりゃあ、後で俺様のものをたっぷりとぶち込んでやらねぇとなぁ。この病院で色々とたのしめそうだしよう、看護婦だけでもけっこう俺様の雌犬にふさわしい女がいたからなぁ。せいぜい舞華は働いてもらわねぇとならねぇよなぁ」
 液晶モニターをながめながらそんなセリフを便三がもらす。
 舞華は忘れているが、盗撮用のカメラと盗聴器を持たせている。それで、最初から一部始終を見ていたのだ。
 こんな楽しい見世物を便三が見逃すはずがなかった。もちろんその様子はパソコンできちんと記録してある。
 これをどう使うかはゆっくりと考えることにして、とりあえず貴重なコレクションがまた一つ増えた。
 これからのことを考えたら、笑いが止まらない。
「クックックッ。安心しなよ、結城さんよぅ。結婚はさせてやるよ。その女も抱かせてやるぜぇ。この病院を手にいれるためになぁ。そうなりゃぁ、この病院で好き勝手できるからなぁ」
 便三は濁りきった瞳をかがやかせて、しばらくたのしそうに笑っていた。

< つづく >

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