増殖- 7日目(前編) -
「ちょっと、美理ってば。あたしの話、聞いてんの?」
綺麗な顔を思いっきりしかめてそういったのは、鈴原彩(すずはら あや)。
陽春女学園の二年生である。
「きいてるよ~。……なんとなくだけどさぁ」
いい加減の見本のような返事をしたのは、倉本美理(くらもと みり)。
彼女もまた、陽春学園の二年生である。
「聞いてたって? じゃあ、なんて言ったか答えてごらんなさいよ!」
彩は、ちょっとばっかしむきになっている。
あんまり無視されるのは、好きなほうではないらしい。
「……あんま、昔のことにこだわるのってよくないよぅ……」
美理は答える替わりに、そんなことをいっている。
「……あなたね……ほんとは、聞いてなかったんでしょ?」
ジト目で美理を見ながら、彩がたずねると。
「だからぁ、聞いてたって。ただ、覚えてないだけでさぁ……」
とのたまわってくれた。
「あのね。そういうのは普通、聞いてないっていうのよ!」
まったくの正論だった。
ただあいにくなことに、言った相手が美理である。
「へぇ~? なるほど、なるほど」
なんか、適当にナットクしてみせたあと、
「んじゃ、そういうことで……」
いきなり締めた。
「だから、勝手に終わらせないでよ!」
彩は断固として抗議する。
「なんで? 話を聞いてなかったってことでしょう?」
だから、終わったといいたいらしい。
「だから、どうしてそうなるのよ? ……ったく」
いろいろいってやりたいこともあったけど、ぐぐっとこらえる。
さすがに半年近くもの間、学園寮でルームメイトをやっていればそれなりに付き合い方も覚えるというものだ。
「最近、学校で変ったことないかって聞いてるの! となりのクラスとかにさ、急に人が変ったみたいになった娘とかいるでしょ?」
もう一度同じことをたずねる。
「へぇ? そうなんだ?」
初めて知ったっていう感じの答えに。
「……もういいわ。あなたに聞いたあたしがバカだったわ」
そう言って、彩はためいきをついた。
「そうそう。彩ちゃんがバカなのっ」
なんだかうれしいそうに、美理がいった。
パフッ!
枕が美理の顔面に直撃する。
彩は、結果を確認せずに部屋をでる。
中で「ひっどお~い!」とかいって騒いでた。
それを聞いた彩は、ちょっとだけ気が晴れた。
学園寮は学園の西側にある、小高い丘の上に位置している。
だから、下の階からでも夕暮れの校舎を見渡すことができた。上の階ならもっと見晴らしがいい。
でも、今の彩にはそんな眺めのいい光景も目に入らない。
考えごとをしていたからだ。
だから、景色だけでなく前方に外を眺めて佇んでいた人物も目に入らなかったりする。
当然のことながらぶつかった。
ぶつかってひっくりかえった。
ドンッ!
ポテッ……。
「いったぁ~! どこに目をつけ……」
条件反射で言いかけて、彩のセリフが滞る。
「だいじょうぶか?」
目の前には意外とほっそりとした手が差し伸べられていた。
170センチに達する長身と、中性的なイメージを持った美貌。
剣道部主将を務める陽春学園3年生、四条燕(しじょう つばめ)。
全校の女子生徒のあこがれ的な存在。
2月14日には、無数のチョコレートが届けられていた。
「い、いゃあ……どうもごめんなさい、ごめんなさい! まったく、あたしったら、どこに目をつけてるんだか……。ほんとに、ほんとにごめんなさい!」
彩は、ペコペコと頭を下げる。
とっても卑屈な態度だった。
燕にあこがれているわけではなく、学園屈指の実力者の機嫌をそこねるのが怖かったのだ。
弱い者にはいくらでもエラソーに、強いものにはいくらでも卑屈になれる少女。
それが鈴原彩という少女。
もっとも彩は、自分のことを『機を見るに敏』なのだと称しているが、卑屈なことにはかわりがない。
「まぁ、そんなにあやまらなくても……」
助け起こした燕は、ちょっと困惑した表情を浮かべていた。
それも当然だろう。
勝手にぶつかってきて、勝手にひっくりかえって、勝手にあやまっているのだ。
それに対する燕の被害はゼロ。困惑するのが当然だろう。
「あっ、ゆるしてくださいます? いやぁ、センパイってなんてお心の広い方なんでしょ! 彩、かんげきです!」
ペコペコと、執拗なまでに頭をさげながら彩が大げさなお礼をする。
「とにかく気にしなくていいから。じゃあ、あたしはこれで……」
へたをすれば、このまま土下座なんてされかねない勢いである。
はっきりいって彩は、燕にとってかなり苦手な後輩であった。
彩から逃げるように、その場を後にする。
いつも思うことなのだけど、自分にチョコレートとかくれたくなる気持ちがいまいち理解できない。
中にはラブレターをくれたりする娘もいる。
女同士で……などということではない。
理解できないのは、どうしてそこまで他人に依存できるのかっていうこと。
自分を鍛え、自分をしっかりと見つめていれば、他人に僅かでも依存する必要などないはずだ。
それが燕の持論であった。
ただその思いは燕の胸中にあり、他人に語ったりしたことはない。
女学園という特殊な環境においては、むしろ自分のような人間のほうが異端なのだということくらいはわかっていたから。
だからといって他の少女達の気持ちが理解できるかどうかは、また別の話であった。
剣道を始めたのも、誰に頼らず自分の足でたってゆきたい。
そういった思いからだった。
幸いなことに天賦の才能があったらしく、大会とかではそれなりの成績をおさめることができ、主将をつとめている。
活躍するたびに騒がれるが、それが本意なわけではない。
あくまで自分をみつめ、自分自身に打ち勝つための手段に、燕は剣道を選んだのだ。
他人との勝ち負けなど、燕にとっては正直二の次なのである。
自分を律し自分の足できちんと立っていれば、勝敗がどうあれその結果に心が惑わされることなどないはずである。
心と肉体が健全であれば、迷いなどとは無縁でいられる。
それが、燕の持論であった。
ただ、世の中にはそれとは対照的な考え方を持った人間いる。
勝負こそがすべて。
この世の中には勝者と敗者しかおらず、他人との関係をすべてそれで判断しようとする人間である。
燕のクラスメイトである、紫藤薊(しどう あざみ)がそういう人間であった。
「あら? ずいぶんと早くお帰りになられてたのですね? 剣道部って、ずいぶんお暇なのかしら?」
薊が燕とは対照的な女らしい美貌に、艶やかな微笑みを浮かべて嫌味をいってきた。
燕が玄関に向かう途中で、でくわしたのである。
「長時間やればいいというものではないからな」
それにも、燕は生真面目にこたえる。
でも、そういう態度が薊にとって癇に障るところだった。
「やっぱり天才さまにとっては、努力なんてする必要はないってことなのでしょうね?」
なおも嫌味が続く。
でも、
「ようは、効率の問題だろう? もっとも効果をあげられる練習ができれば、それだけ強くなれる」
燕は、あっさりとそう言い切った。
まるで動じる様子もなく。
正直いって、ここら辺りが薊にとってむかつくところなのだ。
幼い頃から他人と比較され、学力でも武道でもトップになることを義務付けられてきた。
そのための努力を厭うことはなかったし、またそのことを疑問に感じたこともなかった。そうすることが当然であり、他人との競争に勝ちつづけることこそが自分にとって唯一絶対の正義であると思っていた。
なのに、なのにである。
じぶんの目の前に、四条燕という女が現れた。
なんの気概もてらいもなく、燕は平然として自分と肩を並べていた。
学力では、ほんのすれすれで学年一位をキープしてはいるが、わずかでも気を許せばあっさりと逆転してしまうであろう。
それくらい微妙な差であり、教科別に見てみれば負けることもある。
ただなぜか、燕が国語を苦手にしているために、今まで逆転されずにすんでいたのである。
薊がむかつくのは、そういう状況でありながら、燕はただの一度もくやしがったりしたことがないということだ。
そんな行為は薊の価値観を根底から否定するものであり、とても認められるものではない。
それを認めてしまったら、今まで薊がつみあげてきたものが一瞬でなくなってしまいそうだった。
そうならないためには、薊としては打つ手はひとつしかない。
自分が燕のライバルであるということを認めさせること。
自分に対して、敵意をむき出しにして競わせる気にさせること。
そうなってこそ、今までの自分のアイデティティが守られるというものだ。
問題なのは現在にいたるまで、いまだにその目論見が成功していないということだった。
どれほど嫌味を言おうが、まるで応える様子がない。
薊に対して敵意を向ける様子もなれれば、厭うようすも見せようとはしない。
いまいましいことに、負けること事態がたいしたことではない、とそう本気で思っているらしいのだ。
まったく、ほんとうにいまいましい女である。
「せいぜい効率的な練習をなさってくださいませ。もっとも、効率的なお勉強では、このわたくしに勝てないようですけど?」
などと、嫌味のひとつくらいいいたくもなる。
でも、
「まったく、そのとうりだな」
軽く肩をすくめて燕は、そんなセリフをしれっとしていった。
嫌味が空回りする。
結局、より気分が悪くなるのは薊のほうだった。
薊はやけどしそうなくらい敵意に満ちた視線を燕に向けると、それ以上ひとことも話さずその場から立ち去る。
まったく、ほんとになんてむかつく女なのだろう!
薊の心には、どす黒い感情がうずまいている。
あの女に思い知らせることができるのなら、魂だって引き換えにしてやるものを!
「いけません……」
自室に向かうために、廊下を歩いていると突然声をかけられた。
見ると夕焼けの差し込む廊下に、幻想さすら漂う美少女が立っている。
自分自身誰からみても、間違いなく美少女といえる美しさを持っていると思っていた。
その認識は正しく、誰からみても薊は美少女であり、年降れば間違いなく絶世の美女となるだろうことは確実だった。
でも、その美少女……波代葉月(なみしろ はづき)は違う。
人間くささがまるで感じられない。
葉月が年をとったときの姿など、およそ想像できない。
妖精じみた感じと表現すべきだろうか?
現実味がまるで薄いのだ。
目の前にいても、手で触れることの出来る存在に思えない。
だからといって印象が薄いというわけではない。
少なくとも、美しさという点においては間違いなく人々の記憶に強烈な印象を刻み付けるだろう。
でも、それ以外はひどく希薄で捕らえどころがなかった。
だから薊から見た葉月は、学園内で最も得体の知れない女だった。
「負の感情に身をまかせないで下さい……」
美し過ぎる顔を薊に向けて、葉月が何か言っている。
「あなた、いきなり現れて何をおっしゃりたいの?」
薊の声がとがっている。
今、あまり気分がよろしくないのだ。
わけのわからない世迷いごとに、付き合あってられる気分ではない。
「………………」
葉月は何かを訴えたいような表情で、薊の顔をじっと見たまま答えない。
その視線に、薊は不安なものを感じてしまう。
「話す気がないのなら、わたくしはいきますわ」
そういい残して薊が立ち去ろうとしたときだ。
「お気をつけてください。……闇は、すぐそばまできています」
背後からそう声をかけられた。
「あ、あなたね。なんのつもりか知らないけど、言いたいことがあるのなら……」
後ろを振り返ると、そこにはもう葉月の姿はなかった。
「ったく、なんですの? あの女……」
得体の知れない薄気味悪さを感じる。
どうせ、なにかのトリックを使っているのだろうが、そんなことをしてまでなにをしようというのだろう?
本当に、理解しがたい。
葉月のことは、それ以上考えるのはやめて、自室に帰ることにする。
早くシャワーを浴びたい。
大会が間近に迫っていた。
その分練習は、普段よりかなりハードなものとなっている。
体に纏わりつく汗を、早く洗い流したかった。
それに匂いも気になるところだし……。
薊はドアを開けようとして、カギがあいていることに気が付いた。
朝でるときには、きちんとカギはあけてある。
毎朝、意識してカギをかけるようにしているから間違いはない。
そのうえ、薊にはルームメイトが割り当てられていなかった。
ということは、誰かが勝手にカギをあけたっていうことだ。
中に入ると物音が聞こえた。
浴室のほうから。
大胆にも侵入者は、シャワーを浴びているらしい。
浴室に行って、無造作に扉を開ける。
ザッパーン!!!
派手なみずしぶきが、浴室全体にとびちった。
絶妙なタイミングでドアを開けた薊も、ずぶずぶになってしまう。
「これは一体、なにごとですの!?」
文句をいってやろうと、薊が浴槽をみると中でプカプカ浮いている少女がいた。
「ま、まさか……」
あせる薊。
「だ、だいじょうぶ!?」
あわてて浴槽からすっぱだかの少女をひきずりだす。
完全に気を失っていた。
一体ここで何があったのか?
幸いにも、薊はその少女のことを知っていた。
一学年に在籍している、御神つばさ(みかみ つばさ)である。
となりが彼女の部屋だった。
とっても可愛くって元気なのはいいのだけど、少々元気が暴走しがちな少女だった。
となりではしゃいでうるさかったので、静かにするよう注意をしに行ったのは一度や二度のことではない。
でも、そのときなぜか妙になつかれてしまった。
ことあるごとに、薊にまとわりついてくるのである。
さすがに不法侵入したあげくに、風呂場で溺れかけたことはなかったのだけど……。
一体何があったのだろうか?
とりあえず、気が付くのを待って聞いてみることにする。
バスタオルにつばさをくるんで、ベッドに運ぶ。
ベッドに寝かせたとたんだった。
ビョン!
って感じでつばさが飛び起きた。
「いったあぁ~~~っ! いたい、いたい、いたいいいぃぃぃっ~~~!!!」
頭を抱えて部屋中を駆け回る。
せっかく巻いたタオルを落として、すっぱだかでだ。
たぶん引っかかるものが普通の少女よりかなり少ないから、そのぶんおちやすいのだろう。
ぜへぜへと息を切らした頃、ようやくつばさは停止する。
「ふぁ~~~っ。いたかったよぅ~~~」
頭をなでなでしながら、つばさが言った。
「あっれ~? なんで、せんぱいがいるの?」
不思議そうな顔をして、つばさが言った。
「ったく……。ここは、わたくしの部屋ですわ。わたくしが居るのは、当然のことです」
薊がそう言ってやると、つばさはつばさなりの反論をはじめる。
「え~っ? だって、カギかかってなかったもん!」
だから、ここはつばさの部屋だといいたいらしい。
「なんで、カギがかかってなかったら、あなたの部屋なんです?」
薊の質問に、
「あのね、がしゃがしゃパッっていうのが、つばさの部屋なの。がしゃがしゃガッチャっていうのがセンパイのへやなの!」
そういって、すっぱだかなのに、あんまり男の子と見分けがつかないような胸をはってつばさが答える。
薊はちょっと考えた。
がしゃがしゃパッと、がしゃがしゃガッチャの違いについてだ。
そして、辿りついた結論。
「まさか場所じゃなくて、ドアが開くかどうかで、自分の部屋かどうか判断していたんですの?」
ちょっと信じられないようなことなのだけど、一応聞いてみる……。
「へへっ。つばさが考えたんだ、すごいでしょ、センパイ!」
つばさが自慢した。
確かにある意味すごいことではある。
でも、そうなるとひとつ深刻な問題が存在していることになる。
それは、カギを開けて薊の部屋に侵入した人物は他にいる、ということ。
とりあえず、自分の持ち物を調べてみる。
どこにも、何かを取られたような形跡はなかった。
分からない。
何もとられてないのなら、一体侵入者の目的は何だったのだろう?
そこまで考えたとき、さっきの疑問がふと頭をよぎる。
つばさは風呂場で何をやっていたのだろう?
どうして、浴槽でおぼれかけたのだろうか?
とりあえず、聞いてみることにする。
薊は、白黒はっきりとさせずにはおけない性格だった。
「あなた、お風呂場で何をやってたの?」
との質問に、
「とびこみのレンシュー」
いたって簡潔に答えてくれた。
なんだって、風呂場でという疑問は残るがこれ以上追求するのはやめておくことにする。
世の中には触れないほうがいいということも、存在するのだ。
ましてや、目の前に地雷原が広がっているのがわかっている場合なおさらだ。
性格的にはひっかかるけど、だからといって地雷を踏んであるくような趣味はない。
それに、本当に気にしなくてはならないことは他にあった。
今のつばさの答えで、自分の部屋のカギを勝手に開けた人物とつばさの間になんの繋がりもないことははっきりした。
だとすれば、なおさら気になる。
誰が何の目的で侵入したのか……。
取ることが目的でないとすると、置いていった……。
盗聴器、盗撮用カメラ……でも、それだとカギを開けっ放しで部屋をでていった理由がわからない。
侵入者があったことがわかっては、そもそも目的がはたせないだろう。
では、他に何か変わったことは……。
「そういえば……さっきから何か聞こえてない?」
最初、気のせいかと思った。次は耳鳴りかと思った。
でも本当に聞こえているのかどうか確信できない。
それくらい小さくかすかな音。
つばさが薊の質問に元気良く答える。
「みみなりぃ~~~」
その答えではっきりした。
今聞こえているこれは、耳鳴りや幻聴のたぐいではない。
本当に聞こえているのだ。
では、一体どこから聞こえてくるのだろう?
侵入者となにか繋がりがあるのだろうか?
疑問はつきない。
「あっれぇ~。つばさたてないよぅ!」
突然、パタッとつばさが倒れた。
両手を突いて起き上がることはできるみたいだった。
でも、そこから立ち上がろうとしたら、すぐにまたパタッと倒れてしまう。
「裸のままで、何をふざけているのです?」
薊は落ちていたバスタオルを拾うと、つばさの体にかけてやろうとした。
すると……。
パタッ。
薊もまた、倒れてしまう。
両足に体重を移し、立ち上がろうとした。
するといきなりバランスを失って、今度は後ろにゴロンと倒れる。
「な、なんで……ですの?」
思わず、そんな言葉が薊の口から漏れてしまう。
両手をついて四足の状態なら、きちんと体を支えることができた。
でも、そこから先がどうしてもできない。
両手を床から放すと倒れてしまう。
何度やってみても同じだった。
理由がわからない。
まるで立ち方を忘れてしまったかのようだ。
だから今度は机につかまって立とうとした。
できない。
つかまることが、どうしてもできない。
薊は、自分の手を見た。
なぜなのか?
何かにつかまれば立つことができる。それはわかる。
でも、どうすればつかむことができるのかがわからなくなっていた。
それだけではなかった。
いったんは拾ったバスタオルが、手の中からすり抜けてしまう。
床の上にわだかまったそれを、再び拾い上げることができない。
わからないのだ。
どうすればバスタオルを手でつかむことができるのか……。
薊は、何かをつかむということができなくなっている。
立って歩くこともできない。
このまま四つんばいで、獣みたいに歩くことならできるだろう。
でも、そんな行為は薊のプライドが許さなかった。
だからといって、このままではどうしょうもない。
どうしよう……どうすればいい……?
悩む薊。
でも本当は、結論ならとうにでているのだけれど……。
助けを呼ぶのだ。
B級映画に登場する頭の悪そうなヒロインのごとく、大声で助けをもとめるのだ。
問題なのは、そのさい自分のプライドに、多大なダメージをこうむるであろうことだ。
もし仮に助けにきたのが四条燕で、今の自分のこんな姿をみられたなら二度と立ち直れないかもしれない。
それくらいなら、このまま死んだ方がマシなくらいだ。
だから迷った。
今のところ選択肢は他にない。
なのに、どうしてもその選択をすることができなかった。
このときの逡巡が、薊のこれからの人生を決定することになってしまうのだけど……。
ただ、こんな状況下でも悩むことのない少女もいた。
なんだか楽しそうに、四足のまま部屋の中ではしゃぎ回っている。
ベッドの上に飛び上がったり、床の上をずざざざーーーってすべってみたり……。
どうみても、今の状況を十分に満喫しているようにしか思えない。
薊の深刻な悩みなんて、まるでおかまいなしだ。
ひとこと言ってやろうと口を開くと。
「ヲン、ヲンヲンヲンッ!」
(うるさいですわ!)
口をついて出た声はそれだった。
「ヲンヲンッ?」
(なんですの?)
おかしい……。
「ヲンッ!」
(つばささん!)
呼びかける声も……。
「みゃう?」
つばさが答える。
やはり、つばさの答えもおかしい。
「みゃああうっ? みゃあ!」
何かいいたいらしい。
あいにくと、その言葉の意味は理解不可能だった。
「ヲヲヲン? ヲンッ?」
(どういうことですの? いったい?)
薊がたちあがる。
もちろん、四足で。
歩いてみると、自分で思っていたよりも遥かに楽に歩くことができる。
立って歩くよりよっぽど自然な感じがして、怖くなった。
本当に、自分が獣になってしまったような気がして……。
落としてしまったバスタオルを拾う。
手で掴むことができないから、口に咥えた。
まるで抵抗なく、すんなりと自然に咥えることができた。
そのことに薊は、強烈なショックをうけてしまう。
でも、今はそんなことを気にしていられない。
このままでは、なにか恐ろしいことが起きてしまう。
そんな予感にとらわれる。
逃げ出すのだ、ここを。
たぶん、この部屋には何かしかけがしてある。
じぶんが、そしてつばさがこういうふうになってしまったのは、おそらくそのせいだろう。
どんなしかけかは想像もつかないが、確信はしている。
さいわい、隣のつばさの部屋のカギは開いているはずである。
本人がそう言っているのだ、まず間違いはないだろう。
とにかく今はすぐにでも、この部屋を離れなくては……。
そして、屈辱的な姿を見られる前につばさの部屋に身を隠す。
幸運なことにつばさの同居人である隣室の霧島亜衣(きりしま あい)は、一週間前の授業中倒れて以来戻っていない。
だから、隣室にいけばゆっくりと考える時間もできるはず。
なんとかつばさにタオルをかる。
「みゃ~~~っ!」
っていうつばさの抗議を無視して、廊下に押し出す。
それからすぐに、とんでもない困難に出くわすことになった。
ドアの内側は取っ手、でも外測はノブ。
丸いのである。
ドアに這がることはなんとかできた。
とても不安定ですぐにも倒れそうな気がしたけど、なんとかなった。
でも、回さなくてはならなかった。
物をつかめなくなった手で、丸いドアノブをひねらなくてはならない。
その作業は困難を極めた。
しかもその後、ドアを引っ張らなくてはならないのだ。
そんなことなど、それこそ不可能に近い……いや、絶望的であるというべきだろうか?
でも、不可能だろうがなんだろうが、どうにかしなくてはならない。
それも、一刻も早く。
誰かが来る前に、誰かに見つかるまでに。
ノブを一生懸命ひっかく。ノブはカタカタと音を立てただけで、まったく回らない。
なんどやってもうまくいかない。
このやり方では無理だった。
だから、噛み付いた。
手を使うよりは、数倍やりやすく感じた。
それでも、回すことはできなかった。
急速にあせりはつのる。
でも、あせればあせるほどうまくいかない。
涙が流れていた。ノブが濡れる。
ただドアを開けるだけだ。
いつもは無意識にやっていた行為。
それが、今は……。
なんとみじめなのだろう。
なんと……。
< つづく >