碧色の黄昏 第二話

第二話

《1》

 …目の前の視野が、すうっと狭まるように感じた。
 膝から力が抜け落ち、彼は崩れ落ちるように床に膝をついた。

“ガタ…ッ!”/p>

「きゃっ!」
「先生っ!!」

 生徒達が悲鳴を上げるのに気がついたが、そちらにかまっている余裕はまったくなかった。
 なんとか、教壇に掴まり、床に倒れそうになるのを防ぐ。

「カズ兄ぃっ!!」

 …夏紀の声が聞こえる。同時に、何か暖かいものが身体を支えようとしてくれる。

「夏紀さん、落ち着いて。
 ともかく、先生を保健室まで運びましょう」

 その落ち着いたよく通る声は、沙夜香のものだろう。

「いや、大丈夫だよ。
 そんなに、心配しなくても……」

 なんとかそう答えるが、その声は自分自身でもわかる程に、かすれたものであった。

「さあ、先生。私に寄りかかってください。
 夏紀さんも、手伝って」

「あ、うんっ」

 二人の女生徒に、両側から支えられ、何とか立ち上がる。
 いや、立ち上がったと言うよりは、引き起こされたと言うべきか。
 ともかく、あまり格好のいいものではなかったが、それに対して文句を言おうにも、膝はガクガクしてまともに力が入らず、説得力がまるでなさそうだった。

 夏紀と沙夜香に寄りかかるようにして、移動する。
 階段は、とても歩けそうにない。
 階の移動には、緊急時ということで貨物用のエレベーターを使わせてもらう。

 なんとか保健室にたどり着き、ベッドに倒れるように横になった。
 少し荒い自分の呼吸が、耳にうるさい。

「カズ兄ぃ…、ホントに大丈夫?
 裕美先生は……」

「…先生は、今日は体調不良で、休みだよ」

 朝の職員会議で、そんな話をしていた。
 おろおろする夏紀に、沙夜香が言った。

「夏紀さん。先生は私が見ていますから、職員室に知らせてきていただけますか?」

「え…、でも……」

 去りがたそうな、夏紀。
 そんな彼女に、もう一度、沙夜香が話す。

「頼みます、夏紀さん。
 あと、冷たい飲み物も、お願いできれば…」

 …和人は気づく。
 その言葉には、『力』が込められていた。
 夏紀は、不承不承といった感じで、それでも頷くと、保健室を後にした。

「神条……」

 何か話そうとする和人をやんわりと止める仕草をして、沙夜香は彼の上にかがみ込んだ。
 その長い黒髪がはらりと流れ、和人の頬をくすぐる。

「先生、失礼します」

 避けようとするが、その気力さえ湧いてこない。
 顔が近づけられ、唇が重なった。

「ん……っ」

 触れた唇を介して、和人の魂と沙夜香のそれが混じり合う。
 それと共に、沙夜香から彼に、暖かい熱のようなものが流れ込んできた。

「っ……はぁ…」

 そっと、唇が離される。
 目の前に、潤んだような沙夜香の黒い瞳。
 和人は思わず、どきりとしてしまった。

「…先生、いかがですか、身体の様子は?」

「え…?」

 言われてみると、さっきまでよりはだいぶ楽になった気がする。
 和人は、ゆっくりと起きあがってみた。
 まだ多少ふらつく感じはあるが、急に動いたりしなければ大丈夫そうだ。

「いかがですか?」

 沙夜香が、訊ねる。

「ああ、さっきまでより、ずっと楽になったよ。
 …ありがとうな、神条。
 でも、何をしたんだ?」

 正直、彼女に礼を言うのは、彼にとってはかなり抵抗のあることだった。
 先日、沙夜香が彼にしたことは、そう簡単に忘れることの出来るものではない。
 …とはいえ、何も無しというわけにもいかなかった。

「はい…、私の『生命』を、先生に送りました。
 正確には、少し違いますが…」

「…?」

 気になる言い回しだ。
 和人は、沙夜香の顔をじっと見つめた。

「…私には、誰かに生命力を分け与えるような力はありません。
 正確には、先生が私の生命を奪い取ることができるよう行動した、ということです」

「……なっ!」

 思わず、声を上げる。

「つまり、なにか?
 お前が俺に生命力を送ったわけではなく、俺がお前からそれを吸い取ったと言いたいのかっ? それじゃあまるで、俺がなにかの化け物みたいな…っ」

 ……自分に、そんな力など……

 しかし、沙夜香はひとつうなずいて、それに答えた。

「はい、その通りです。
 先生は、先日の私との行為でそうした力に目覚めました。
 お話ししたはずです。先生には、何か古い『力』があると。
 それが目覚めた今、先生はもはや『普通の人間』ではあり得ません」

「……」

「先生がどのような力を持っていらっしゃるのか…、それについては、私も確かなことはわかりません。私にわかるのは、そのほんの一部だけ……。

 でも、これだけは確実です。
 巨大な力を目覚めさせた先生には、今までのようにただ食事をとり、飲み物を飲むだけの栄養摂取では、生命と力を維持するのには、まったく足りません。
 今回先生が倒れたのも、そうした理由……。

 力に目覚めた今の先生は、もっと他の方法で、自らの生命を保つための糧(かて)を補充する必要があります」

 沙夜香は、淡々と続けた。

「その方法のひとつとして、先日と、そしてたった今、先生が行ったやり方があります。……それが、意識的にか、無意識にかは、わかりませんが。
 先生は、私と接触することで、先生と私の生命を混じり合わせ、同時にそれらを強奪しました。
 そして……」

「……だまれっ…」

 和人の口から、静かに声が洩れる。
 しかしその声に込められたものは、その声の小ささとはかけ離れたものであった。

 だが、沙夜香はそれを会えて無視して話す。

「……そして、その効果は、いま先生が実感したとおりです。
 先生はこれから、生存のために他の人間から『生気』を奪いながらいかなければなりません。
 さもなくば……」

「黙れと言ったんだっっ!!」

 和人の躰が、ベッドから跳ね上がった。
 その勢いのままに、沙夜香の首を右手で掴み、片手で壁へと叩きつる。

“ガツッッ!!”/p>

「う…ぐぅっ!」

 沙夜香の口から、そんな声にならないうめき声が吐き出される。
 彼女の身体は、首を掴む和人の片腕により、宙づりにされていた。

「お前っ…!」

 火を放つような目で沙夜香を睨みつけ、その右手にさらに力を加える。
 沙夜香の細く白い首が、ミシミシと小さく音を立てた。

「お前がっ、お前のせいで俺は……っ!
 …それ以上好き放題しゃべってみろ。

 ……………殺すぞ………」

 その視線を受けとめることのできる存在が、この世界にどれほどいるだろうか。

 碧い、瞳。

 この世の全ての生き物を圧倒するような純粋な『力』が、そこには存在した。
 そして今、その力は殺意としてその瞳から放たれている。
 まるでその視線そのものが、物理的な力を持って、その対象である沙夜香を絞め殺そうとしているかのように…。

 ──だが、

「どうぞ……」

 ……沙夜香の口からこぼれたのは、そんな返事だった。

「………なに?」

 和人の手に、さらに力が込められる。
 もうほんの少しでも彼がその気になれば、彼女の首など簡単にへし折れてしまうことは、何の疑いようもないほど明らかだった。

 しかし沙夜香は、首を絞められ、顔をどす黒いような赤に染めながらも、平静な声で答えた。

「どうぞ、先生の、お心のままに…」

「…………」

 和人の顔が、人間として耐えきれないほどの感情に、歪む。

「私は、先生の『モノ』です。
 どうぞ、先生の、お心のままに……」

 …………

 どさっ……と、沙夜香の躰が床に落ち、倒れた。

「……かはぁっ、はあっ、はあっ、は…ぁっ!」

 彼女は咳き込むように、必死で肩を上下して、空気を肺へと吸い込む。
 頭がガンガンと鳴り響き、真っ赤になった視野がまともに戻るまでにはしばらくの時間を要した。

 何とか両手で身体を支え、上体を起こす。
 そうして和人の方を見ると、彼はベッドに腰掛け、うつむいていた。
 …ぐったりと、全ての力を無くしてしまったかのように。

「……先生」

 静かに、そう声をかける。
 返事は、無い。
 それでも、沙夜香は語りかけた。

「先生…。
 私は、今まで何人もの人間を糧(かて)としてきました。
 そうしなければ、生きては来られなかったのです。私は、そうした存在なのです」

「…………」

「生きてゆくためには、何かを糧としなければならない。
 これは、この世界に生きとし生けるもの全ての背負う、宿命です。
 だから私は、生きるために、そうして来ました。
 …そして、先生も……」

 沙夜香は、ゆっくりと床から立ち上がる。
 まだ目の奥が痛み、足下もおぼつかなかったが、それでも何とか立ち上がった。

「…先生もまた、生きていくために、そうしなければならないのです」

 ……和人は、ぴくりとも動かなかった。
 何も、話さずに。

 だが、沙夜香は、彼を待った。
 じっと、自分の主人を待つ。

 沈黙の時間が流れる。
 ただ壁時計の秒針が「カチカチ」と鳴る音だけが、白い部屋の中に耳障りに響き渡った……。

「……俺は、どうしたらいい?」

 和人の口から、小さく、まるでため息のような問いが吐き出された。
 その姿はまるで先ほどのそれとは違った、今にもそのまま消えてしまいそうな、そんな弱々しいものであった。
 しかし沙夜香はそれについては何の言及もせず、ただそれまでと同じく、静かに淡々と話し続けた。

「糧を得る方法は、最低でも一つは分かっています。
 先生が、誰かと身体を重ねる方法。
 …しかしこれについて、いくつか考えなくてはならないことがあります」

 彼女は語る。

「ひとつには、その対象は、一人や二人では全く足りないだろうということです。
 私であれば、常時2・3人の『補給源』が存在すれば、ほぼ問題なく過ごせます。
 …ですが、先生の中の『力』の大きさを考えれば、最低でも10人からのそうした贄(にえ)が必要となるでしょう」

「そんな……」

「高坂先生が体調を崩した理由も、簡単です。……彼女一人では、先生を満たすことなど出来るはずがなかったのです。それ故の、病気です」

 そう、和人は何も知らないで、彼女から生命を削り取っていたのだ。

「効率のよいやり方を考えるならば、先生には私を有効に活用していただかなければなりません。
 私の力を用いれば、先生のためのそうした『補給源』を十分に確保することが簡単に出来ますし、その『補給』自体も、スムーズに行えるでしょう」

 その言葉を聞き、和人がやっと顔を上げる。
 彼の目には、弱々しい、しかしはっきりとした彼女への憎しみの表情が宿っていた。

「つまり、お前が10数人の『奴隷』をつくれば、上手くいくと言いたいのか?」

「その通りです」

 沙夜香の表情は、髪一本分ほどにも変化しない。

「もともと私は、そういった『巣』をつくるために、この学園にやってきました。
 そのための下ごしらえは、すでに出来ています。
 高坂先生を堕落させ、この保健室を確保しようとしたのも、その一環でした」

「ははは…」

 和人の口から、乾いた笑い声のようなものが漏れた。

「それでも、2・3人かそこらを確保するためにだろう?
 二桁の人間をそんなふうにしようとすれば、どうしたってその分歪みも大きくなるし、誰かに知られてしまう可能性だって、高くなるだろうに」

 沙夜香は、その問いに一つ頷いて答えた。
 そして、話す。

「それを補う方法もまた、存在します。
 要するに、強い生命力を持った人間を、集めればいいのです」

 そんな彼女の話に、和人は疑問を感じる。
 素直に、それを口に出した。

「ということは、必要なのは一人で何人分もの生命力を持った人間って事じゃあないか。
 しかも、それがさらに何人か必要って訳だ。
 ……そんなに都合よく、そんな並はずれた人間がいるのか?」

 だが沙夜香は、再び頷く。

「はい。
 私はこの学園に来てから、そうした人間を2人ほど確認しています。
 生命力、というか、それだけの『力』を内在していそうな人間を…」

「……誰だ?」

 自分の知っている人間だろうか?
 だとしたら、いったい……

「一人は、夏紀さんです」

「……っ!?」

 和人の顔が、さらに蒼白いものへと変わる。
 膝の上の拳が、ぶるぶると震えた。

「夏紀さん…、彼女の中には、やはり先生のように『力』を感じます。
 もっとも、先生のそれと比べれば、あまりにも小さいものですが。
 …これが血筋の濃さから来るものかどうかは、先生達の親御さんを見なければ、確認できませんが。

 ともかく、彼女はそれを振るえるほどの『力』は持ってはいないでしょうが、それでも先生を支える一人となるには十分な……」

「……ダメだっ」

 沙夜香の言葉を、遮る。
 それでもまだ続けようとする彼女を身振りで黙らせ、言った。

「夏紀は、ダメだ。
 あいつは、俺の大事な従兄妹、……実の妹みたいなもんだ。
 あいつに手を出すのは、絶対に許さない」

「しかし…」

 彼を説得しようとする沙夜香の言葉を、今度は和人が遮り、続けた。

「もう、いい。黙れ。
 これ以上聞きたくない。

 俺の前から、いなくなれ。
 …これは、お前の主(あるじ)としての命令だ」

「………はい」

 短くそう答えると、沙夜香はまだなにか物言いたげに、和人の方を見た。
 だが和人は、それ以上彼女の方を見ようとはしなかった。
 ベッドに腰掛け、じっと自らの握った拳を見つめている。

「…失礼します」

 そう声をかけ、沙夜香は保健室を後にする。

 扉を閉めるとき、最後に彼女の目に映った彼の姿は、……まるで現実の全てを拒絶しようとしているかに見えた。

《2》

「はぁ…」

 廊下に出て、沙夜香は軽くため息をついた。
 そのまま、彼女の身体が、ふらりとよろめいた。

“がた…っ”/p>

 壁に、寄りかかる。
 ぐったりとし、それでも何とか力を込め立っている彼女の姿は、傍目にも具合が悪そうであった。

 それでも沙夜香は、何とか手すりに掴まりつつ教室への階段を上がろうとした。しかし、踊り場で力つき、座り込んでしまう。

「はぁっ、はぁっ……」

 息を整え、なんとか身体の奥から、力をわき上がらせようと、あえぐ。
 沙夜香の額には冷や汗がにじみ出ており、その顔色は真っ青になっていた。

 先ほどの行為で、和人に想像以上の力を吸い取られてしまった。
 本来はここまでのものを分け与えないよう気を付けはしたのだが、彼の力はあまりに圧倒的で、耐えられるものではなかった。
 しかも、ここ数日は和人に気を遣い、他人の”精”を摂取する行為を自粛していた。
 その結果が、こうである。

 しかし、そのこと自体については、沙夜香は何の後悔もしていなかった。
 むしろ、自分を恐れ、避ける態度をとっていた和人の役に立てたことに、素直な幸福感を覚えていたのである。

『私は……』

 そう、今の沙夜香は間違いなく、和人の”モノ”であった。

 数日前、保健室で彼に抱かれた……そのときのことを、なんと表現したらよいのであろうか?

 沙夜香は、外観よりも遙かに年齢を重ねた存在であった。
 多くの土地で、多くの『贄』をむさぼりながら存在してきた。
 そして、その生において、何人かのそうした”人外の”存在に触れたこともあった。だが、それらに対しても常に彼女は、時には力ずくで、時には計略を持って圧倒することで乗り切ってきた。

『なのに……』

 あの日、和人に躰を、魂を、その全てを犯されたとき…。
 あれを、なんと喩(たと)えればいいのだろうか?

 彼のその、あまりに圧倒的な『力』。
 彼女はまるで、激流に飲み込まれた木の葉であるかのように、何の抵抗すら出来ず、ただ無力にその止めようのない暴力に押し流され、引きちぎられた。

 それまでの人生において沙夜香が作り上げてきた、『自分自身』。
 それまでの人格。それまでの自信。それまでの日常。それまでの常識……

 そんなものは、まるで薄紙が破り捨てられるように、あまりにもあっけなく踏みにじられ、引き裂かれ、霧散させられてしまった。

『──……っ!!』

 背筋に、しびれにも似た震えが走る。

 そのときの……そのときの『快楽』をどのように表現すればいいのか?
 自分の『存在』そのものを陵辱され、ねじ伏せられ、そして彼という存在に縛り付けられたあのときの魂の悦楽を……!

 …今の彼女は、間違えなく彼の”モノ”であった。

 ──しかし、

「やっかいなこと……」

 そう呟く。

 彼……和人はその『力』を、ある程度押さえ込んでしまっている。
 それまでの『彼』が、そうしているのであろう。あのときの、全てを略奪しようとする絶対的な『人格』は、その後なりを潜めてしまっている。

 恐らく、もともとの和人の人格──周りの生徒達から仕入れた話では、穏和で、純粋な──は、内部にある彼の『力』を押さえつけるために作られてきたものではないか。
 それが、今も彼の『力』があふれるのを、ある程度押さえ込むことに成功しているらしい。

 それでも人間らしい欲望はあるのであろう、このところ、彼は裕美に対してはその欲望を発露してきた。
 だが、そこまでらしい。

『あの調子では、先生は夏紀さんを抱くことを、決して良しとはしないでしょうね……』

 いままで和人を人間として保ってきた、彼を縛る人間としてのモラル。それが今では、彼の『生存』のための行為を、否定しようとしている。

「やっかいなこと……」

 再び、沙夜香はそう呟いた。

 彼女は、和人と自分自身のために、贄を手に入れなければならない。
 そしてそれは、最低でも和人と関わりのある人間であってはならないであろう。
 彼にとっての『身内』、たとえば夏紀や、あるいは彼の直接の生徒──彼が受け持つ授業を受けている生徒や、顧問を引き受けている剣道部の部員──は、避けなくてはなるまい。

 ……この時点で、彼女が目を付けていた夏紀と”もう一人”、他の者よりも強い生命力を持つ2人は、除外して考えねばならなくなってしまう。

 裕美もそうであるはずなのだろうが、彼は彼女を抱くことには、それほどの躊躇いを持ってはいないようである。
 もともとが和人が彼女に対してそういった好意と欲望を持っていたせいか、あるいは彼女が性的な奴隷としての特性を持っていたせいか。恐らくはそんなところであろうと、沙夜香は判断していた。

『とにかく、速急に補給源を確保しないと……』

 ふらつく足で、懸命に立ち上がろうとする。
 生命力の多くを、和人に分け与えてしまった。
 出来るだけ早く、沙夜香はその分の生気を補給しなければならなかった。

 沙夜香は、飢えていた。
 早く、『贄』を手に入れねばならない。
 その魂を陵辱し、生命をすすり、自らの糧としなければならない……。

「あの……」

 そのとき、彼女の頭上から、声がかけられた。
 恐らくは、女生徒だろう。若い女の、声。

「あの、大丈夫ですか?」

 うずくまる沙夜香を心配しているのだろう。そう訊ねながら、彼女に近づく。

 沙夜香は顔を上げ、その娘を見た。
 制服に身を包んだ、女生徒。
 胸元のリボンの色からいって、一年生だろう。

 髪をボーイッシュに短くした、小柄な女の子。
 彼女の大きめの瞳が、心配そうに沙夜香を見ていた。

 全体に小振りな、元気が良さそうな、可愛いらしい娘……

「あの、顔色、すごく悪いですよ?
 保健室に行った方が……」

 その娘は、最後まで言葉を続けることが出来なかった。
 彼女の目が、沙夜香の黒い瞳と合い。そして……

「ああ……あああ…」

“がさっ”と、彼女の抱えていた本が床に落ちる。
 しかし、それに注意を払う人間はもう誰もいなかった……。

《3》

「神条さんっ。カズ兄ぃ、少しは良くなった?」

 夏紀は扉を開けて保健室に入りながら、そう声をかけた。

「あれ?」

 しかし保健室の中に沙夜香の姿はなく、和人が一人ベッドに座っているだけだった。

「神条なら、もう授業に行かせたぞ」

 和人が、そう言った。
 その、先ほどよりはだいぶ顔色が落ち着いた彼を見て、夏紀はほっとした。

「ああ、そうなんだ。
 で、どう、カズ兄ぃ? 大丈夫?」

「ああ、おかげさまでな。一休みしたら、だいぶ気分が良くなったよ。
 …向こうは、どうなってるかなあ?」

「うん、多分大丈夫だよ。
 さっき職員室に行ったら、木村先生がいて。話をしたら、教室の方は面倒みてくれるってさ」

 木村先生は、現国担当の老教師で、人当たりの良さで評判のいい人物だ。
 彼なら、上手くさばいてくれるだろうと、和人は安心した。

「はいっ、これ。一応、買ってきたんだ。
 飲む?」

 そう言って夏紀は、手に持ったウーロン茶の缶を差し出してくれた。
 よく冷えているらしく、表面に水滴がついていた。
 先ほどからのどの渇きを覚えていた和人は、ありがたくちょうだいすることにした。

「悪いな。お金、後で払うから」

「ああ、いいよう。そのかわり、あとで何かおごってね」

 笑顔で缶ジュースを差し出す。
 それを受け取ろうと手を伸ばして、和人と夏紀の指が触れた。

『ドクンッ──!』

「う……っ!!」

 和人の口から、うめき声のようなものが漏れた。

「……カズ兄ぃ? どうしたの?」

 心配になり、夏紀が彼の顔をのぞき込もうとする。
 しかし和人は、そんな彼女を避けるように、身をそらした。

「…大丈夫、心配しなくてもいい。
 お前も、もう教室に戻れ」

「……でもっ」

 不安そうにそう言う夏紀に、

「いいから、早く行けよっ」

 和人は声を荒らげて、そう言った。

「…カズ兄ぃ?」

 驚いたように、夏紀は彼を見る。
 その顔を見て、幾分か冷静さを取り戻したのだろうか。
 和人は『はっ』としたように、声を落ち着け、言った。

「…ああ、すまん。
 でも、本当にもう大丈夫だから……な?
 だから、夏紀は教室に戻れ。いつまでも、ここにいるわけにもいかないし」

「……うん」

 まだ心配そうな顔で、それでも夏紀は、保健室を出ていった。
 扉が、閉められる。
 それを待っていたように、和人は再びベッドの上に崩れ落ちた。

『ドクンッ、ドクンッ…!』

「はあっ、はあっ、はあっ……」

 必死に、呼吸を落ち着かせる。
 胸の中では、心臓と、そしてそれ以外の『何か』が大きく拍動している。

「くっ……そ!」

 …和人には、わかっていた。
 自分の内の『力』……そいつが、夏紀を『求めた』のだ。
 彼女をねじ伏せ、犯し、そしてその全てを啜り取れと……。

「ちく……しょう…っ!」

 今ではもう、和人にも理解できていた。
 沙夜香の言葉は、正しい。彼女の言うとおり、自分は他人の『生気』を吸い取ることを、渇望しているのだ。

 ……それでも、

『…夏紀は、アイツはダメだ……っ!』

 子供の頃から、ずっと実の兄妹のように慕ってくれた、彼女。
 彼女を『糧』とすることなど、自分には絶対にできない。

 そして、彼女だけではなかった。
 自分の友人達や、家族。
 あるいは彼を慕ってくれる、剣道部の連中。
 彼女たちを巻き込むことは、絶対にできなかった。

 ここ数日の間、裕美にやって来たことを考えれば、それは偽善以外の何物でもなかったろう。
 しかしそれでも、彼には最低限、守らねばならないものが、確かに存在した。

『いっそ……』

 学園とは関係のない、たとえば他の街で、関係のない人間を相手にすればよいのではないか?

 見ず知らずの、一度限りの相手。
 それならば、足もつきづらいだろうし、彼も割り切ることが不可能ではない。

 …しかし、おそらくそれは無理であろう。
 足がつきづらい、といっても、限度というものがある。
 あまりに多くの、不特定多数の人間を相手にすれば、その分何らかの注目を集める可能性は高くなる。
 それだけではなく、沙夜香にしろ彼にしろ、安定した『補給源』は必要なものであった。

『俺は……』

 どうすればいいのか、全くわからなかった。
 つい先日まで、自分は『倫理観が古くさい、堅くて信頼できるが、つまらないヤツ』と評価される人間だった。そして、自分でもそれが、自分なりのペースの生き方だと、そう思ってきた。
 …なのに今、そんな生き方が完全に否定されている。
 それでは、生きていけないと。

「とりあえず、職員室に行って、次の授業の準備だけしないと…」

 そう独り言を言って、ベッドから立ち上がった。
 今そんなことを気にかけるのは、現実逃避だということはわかっていた。
 それでも、そんな通常の現実に、今はただしがみつきたかったのだ……。

《4》

“ぴちゃ…、ぷちゃ…”/p>

 冷たいタイルで周囲を囲まれた空間に、淫らな水音が響き渡る。

「ん…あっ」

 西原 由佳(にしかわ ゆか)は、自分の身に何が起こっているのか、全く理解できていなかった。
 ただ股間から湧き起こる快感に、身を震わせるのみだ。

「んあっ、…ん~っ!!」

 今、彼女は、女子トイレの個室にいた。
 壁に背を預け、両手でスカートをまくりあげている。
 ぐっしょりと濡れて、もう用をなさないショーツは、片方の足首に引っかかったままだ。

 その彼女の股間を、見知らぬ女生徒の、細く、長い、しなやかな指先が愛撫していた。
 彼女の指が蠢(うごめ)くたびに、未知の、そして信じられないほどの快感が、由佳の脳を振るわせ続ける。

『わたし、なんでこんな……』

 快楽に意識を持っていかれそうになりながらも、彼女は必死で考えようとする。

『かいだんで、うずくまってる女の子がいて、それで心配になって、声をかけて……』

 そして、…そう、彼女と目があった。
 深い、そして暗い、その果てしなく黒い瞳……。

 ……彼女は何か、質問をしてきたのではなかったか?
 確か…、部活動がどうとか、日本史の授業を受けているかだとか。
 そして私は、陸上部に所属していて、でも日本史の授業は受けていないと……

「──んふぅっ、んんっっ!?」

 だがそんな弱々しい思考は、口の中に入ってきたものの感覚で、一瞬にして霧散させられてしまった。

「んっ、んんー…っ!」

 あえぐ由佳の唇に、唇が重ねられ、そしてそこから熱い、ぬめった何かが口の中に進入してくる。
 それは彼女の口の中を這い回り、歯茎をなで回し、そして舌にからみついてくる。
 そしてそれが通った後には、信じられないほどの、しびれにも似た快感が、残像のように残る。

『わたし…』

 やっと、彼女は口の中で動くそれがなんなのかを、悟った。
 舌…だ。
 この、初めて会うはずの、見知らぬ女生徒。彼女の舌が、由佳の口の中を愛撫し、蹂躙しているのであった。

『そんな、わたし、はじめてなのに……』

 由佳の目から、涙が一筋こぼれ落ちる。
 だが、もう彼女の思考は、まともに動いてはくれていなかった。
 かじかんだ手が、しびれ、感覚を無くすように、彼女の思考はその強制的な快楽に麻痺し、もはやほとんど停止していた。

「はぁっ…、あああっ!」

 股間を責める指が、さらにその激しさを増す。
 その圧倒的な快感……!

 由佳にはもう、ここがどこであるのか、こんなところを人に見られたらどうするのか、そんなことはどうでも良かった。
 ただそれだけしかできなくなってしまったかのように、あえぎ声をもらし、腰を振るわせる。

「そう、何も考えなくても良いの。
 気持ちいいでしょう? ただ、その気持ちよさだけを感じていればいいの……」

 由佳の耳元で、ささやく声が聞こえる。
 静かな、透明な、美しいその声……。
 でもそれはなんだか、遠いどこかで話されている声のようにも感じる。

 しかし彼女は、その声に従う。
 そうすることこそが、正しい。そうしていれば、今よりももっと、今まで体験したことのない喜びを得られる。そんなふうに言われている気がする。

「ああ…、はぅっっ!!」

 心の痺れは、さらに増していく。心が、凍えるように冷たくなっていく。
 そしてそれとは反対に、躰は果てしなく熱く、そして濡れていく。
 そのことが、更なる快感となって、由佳を襲った。

“にちゃ…、ぴちゃ…”/p>

 股間をまさぐるそのしなやかな指が、さらに奥まった場所へと、そろそろと伸びていく。
 粘膜をかき分け、襞を弄び、そしてその上の方、最も敏感な肉の芽を、そっと指の腹でこすり上げる。

「ひ……っ!」

 脚が、ガクガクして、震えが止まらない。
 自分が何故まだ立っていられるのか、それさえも不思議なくらいだ。

 股間のぬめりは際限なく増し、今では内股をその水滴があふれ、ふくらはぎの方までも伝い落ちている。
 その感覚がまた、彼女の官能を刺激する。

「可愛い娘……。
 それに、とても美味しい…」

 その知らない、そして今までに見たこともないほど綺麗な女生徒が、そう呟く。
 その美しい声が由佳の耳から入り、脳へと伝わり、そしてさらに彼女の脳を溶かそうとする。

「はあっ……、ああ……」

 唇から漏れる、吐息。
 それを押しとどめるかのように、再び唇が重ねられる。

「んん……っ!」

 ……そして、

『ああ……』

 何かが、彼女の身体から抜け落ちていく……。
 とても大切な、『何か』。

『あっ、あああ……』

 高まりきった、燃えてしまうのではないかと錯覚するほどに、熱くなった身体。
 そこから、その熱が外へと流れ出ていく。

 …いや、正確には、そうではない。
 その『何か』は、ふれあう肌と唇を通して、目の前の美しい少女へと流れ込んでいくのである……。

『ああ、あ……』

 そして、そのことが彼女に今までで最大の快感を生む。
 極限にまで高まり、暴発しそうにまでなっていたその熱を放出する事から来る脱力感と、そこから訪れる耐えきれないほどの快楽……。

 頭の中が今度こそ焼き切れ、真っ白になり、由佳はそのまま意識を手放す。

“カクッ”…と、彼女の膝から、最後の力が抜け落ちた。
 そのままズルズルと、背中を壁にもたれかからせながら、床へと座り込んでしまう。

「はぁ……あ…」

 目が焦点を合わせず、呆然と宙をさまよっている。その瞳には、もはや何も映ってはいない。
 彼女の顔はだらしなく弛緩し、こぼれ落ちた涙と口元から垂れ落ちる唾液で、グチャグチャになっていた……。

《5》

『キーン、コーン…』

 今日の全ての授業が終了したことを告げる、チャイムの音。
 それに従い授業を終了し、和人は廊下に出た。

「はあ…」

 ほっとした為か、ため息が出る。

 あの後、保健室から職員室へともどり、自分が倒れていたあいだ事態をまとめてくれていた木村先生に、感謝と謝罪を伝えた。もっとも木村先生は笑ってそれを受けた後、大丈夫かと心配してくれていたが……。
 ともかく、その後はどうにかこうにか、授業を終了できた。

「さて、と…」

 意味もなくそう呟いたところに、聞き慣れた声がかけられた。

「あの、渡辺先生…」

 剣道部の、木観塚 弥生だった。
 相変わらずの、整った顔と、スラリと伸びた背筋。
 しかしその瞳にはいつもの穏やかな暖かみのある笑みは無く、その変わりになにか不安げ表情で彼の方を見ていた。

 …確か、彼女の教室は、この辺では無かったはず。
 少し疑問に思い、和人は弥生の顔を見る。

 そのことに気づいたのだろうか。
 弥生は少し顔を赤らめると、それでも彼の目を見ながら話した。

「その、先生が倒れたって聞いたものですから……。
 …大丈夫なんですか?」

 心配してくれていたらしい。

「ああ、大丈夫。ただの貧血かなんかだったみたいだよ。
 心配かけちゃったかなあ?」

 そう言って、なんとか笑顔を作ってみる。
 しかし、弥生の表情を見ている限り、失敗してしまったようだ。

「あの、やっぱり、具合が悪そうですよ?
 きちんと、休まれた方が……」

 そう言って彼女は彼の方に…

『ドクンッ──!』

「あ……」

 ……和人は、反射的に彼女から身を離していた。
 弥生の目に戸惑うような、そして傷ついたような、そんな色が浮かぶ。

「あの、先生…?」

 しかし和人は、そんな彼女から逃れるように、視線を外した。

「ああ、すまないな、心配かけて…。
 でも、本当に大丈夫なんだよ。
 だから、そんなふうに心配しなくても、いい」

 そのまま、彼女を避けるように、廊下を職員室へと向かう。

「先生……」

 そんな、不安そうな声が、背後から聞こえてくる。
 しかし和人は、あえてそれを無視して、その場を歩み去った。

 ……ひとり、廊下を歩く。

『ドクンッ、ドクンッ──!』

 彼の内のその拍動は、ますますその強さを増していく。

『ドクンッ!』

 その音があまりにうるさくて、もはや周りの音など何も聞こえないほどだ。

『ドクンッ、ドクンッ!』

 彼の足は、自然に『その部屋』へと向かっていた。
 まるで、何かに導かれるように……。

『ドクンッ、ドクンッ──!』

 階段を降り、本校舎の1階へと向かう。
 その階の端に、目的の場所はある。

『ドクンッ、ドクンッ!』

 扉を開け、中に入った。
 いつもの通りの、清潔な白で統一された部屋。
 消毒薬の匂いが、軽く鼻につく。

『ドクンッ──!』

 そしてそこには、いつか見たような風景。

 白い部屋の真ん中に立つ、黒い長い髪を持つ少女……。

「先生、お待ちしていました」

 沙夜香はそう言うと嬉しそうに微笑み、彼に頭を下げた。
 その動きに合わせて、彼女の長く美しいその黒髪が、はらりと舞う。

「さあ、先生。こちらに……」

 導かれるままに歩み寄ったそこには、やはり清潔そうなシーツの上に横たわる少女。
 初めて見る小柄な彼女は、ボーイッシュな短い髪と、可愛らしい小さな顔の持ち主だ。
 しかしその表情は、呆然として、視線を何もない宙へと彷徨わせている。

『ドクンッ、ドクンッ!』

 いっさいの布を纏わぬそのほっそりとした身体は、少女らしい瑞々しさを匂わせていた。
 その胸や腰の曲線は、未だ成熟しきってはいないものの、確かに『女』を主張している。

『ドクンッ──!』

「さあ、先生。どうぞ。
 この娘と、私。
 先生の、お心の向くままに。お好きなようになさって下さい……」

 耳元でささやかれる、透明で、綺麗で、甘く、……そして、魂にまでしみ通る『毒』をもったその声の響き。

『ドクンッ!!』

 和人は、引きちぎるように身につけたものを脱ぎ去る。
 そしてそのまま、ベッドの上の小さな『贄』の上に、のしかかった。

「ああー…っ!!」

 前戯も何もなく、いきりたった己の欲望を少女に突き立てる。

「ぐぁ…、あああー……っ!!」

 少女の口から、悲鳴のようなあえぎが叫ばれる。
 しかし、和人は、そんなことにはいっさいの関心を払わなかった。
 ただ、腰を大きく動かし、そこから快楽を汲み上げる。

「はぁっ、んっ…ぅ!!」

 ゆっくりと……飢えが、満たされていくのを感じる。
 ……しかし、まだ足りなかった。
 こんなものでは、全く足りない!

「先生……」

 気がつくと、目の前に沙夜香がいた。
 全ての服を脱ぎ去り、ベッドの上に膝をついている。

 初めて見るその裸身は、いままで想像もしたこともないほどに、美しいものだった。

 華奢な、首筋。そこから鎖骨へと伝わるなだらかなラインは、そのままやはり美しい乳房へと続く。
 柔らかな、それでいて決して大きすぎず、形を崩さないその膨らみの頂点には、慎ましやかな突起がさらけ出されている。
 そしてほっそりとしたウエストと、腰つき。
 一流の画家のみがなしえるような美しいラインを辿(たど)る、その長くほっそりとした脚。
 その両脚の間にひっそりと息づく、秘めやかな陰り……

「んっ……」

 その濡れた赤い唇が、和人のそれと重ねられる。

『ドクンッ!!』

 そして彼女と和人は混じり合い、そして彼は彼女から思うがままにその『生命』を略奪する。

「くうっ、ふぅーーっっ!」

 沙夜香の重ねられた唇の間から、耐え切れぬ官能のあえぎが漏れる。
 身体をガクガクと震わせながらも、それでも必死にそのしなやかな白い両腕を彼の首に回し、しがみつき、舌を絡める。

 和人は思うがままに彼女を奪い、引き裂き、そして飢えを満たす。
 そしてそうしながらも腰を衝動の赴くがままにに蠢かし、彼の下の小柄な少女を突き上げた。

「あっ、ああ……っっ!!」

 その結合した部分から、彼女の純血の証が流れ落ちる。
 しかし、それに気を払うような人間は、ここには存在などしない。

 訳も分からず、ただ必死にしがみつくように彼を締め付ける、少女の胎内。
 それはまた、和人の脊髄にしびれるような乱暴な快感を送り込んだ。

「ぐっ、はああ……」

 原始的な本能のままに、ただ飢えを満たすためだけに、獲物に牙を立て、その肉を引きちぎり、喰らう、肉食の獣……。

 今の彼の姿は、まさしくそんな『捕食者』の姿、そのものであった……

< 了 >

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