ドールメイカー・カンパニー2 (12)

(12)小さな亀裂(後編)

 ドタドタ、ドドドドドドドッ!

 先ほどの“あらいぐま”の再現のように“きつね”くんも廊下を全速力で駆け抜け社長室の扉に飛びついた。
 しかし鍵のかかった扉はあっさりと軽量級の“きつね”くんを跳ね返したのだった。

「ってぇ~・・・なんで閉まってんだよぉ!」

 ぶつけたおでこを撫でながら、“きつね”くんは怒鳴った。

「大丈夫ですかぁ?ご主人様ぁ」

 あまりに慌てていたため怜にも気付かなかった“きつね”くんだったが、助け起こされ漸くその存在に気付いた。
 会社の廊下で素っ裸の二人がしゃがみ込んでいる奇妙な光景だったが、そんな事を気にしている余裕は“きつね”くんには無かった。
 怜の顔を見るなり叫んだ。

「怜!ブチ破れっ!」

 まるで正太郎少年のように扉を指差す“きつね”くん。
 そしてそれに呼応する鉄人“怜”。

「はっ」

 軽い気合と共に簡単にドアがぶち抜かれた。
 “きつね”くんは怜に労いの言葉も掛けずに一目散に部屋の中に飛び込んだ。

 中を見渡す。

 しかし人影が無い。
 “きつね”くんの眉が訝しげに寄せられた。
 いつのまにか怜が寄り添うように立っている。
 そして机の陰を指して“きつね”くんに言った。

「あそこ・・・です」

 怜の指の先に、僅かに背広の裾が見えている。

「ちょっと“くらうん”さんっ!ふざけないでっ」

 “きつね”くんは珍しく真剣な表情で“くらうん”に詰め寄った。

「あ、いや、あのですねぇ・・・あれ?“きつね”くん。どうしたんです、その格好・・・」

 “くらうん”は目を丸くして“きつね”くんを見たが、“きつね”くんはそんなこと眼中に無かった。

「“くらうん”さん!契約書はっ?!契約書っ!」

「へっ?契約書って・・・どの?」

「諒子のですよっ!」

「あぁ・・・それなら机の上に有ると思いますよ」

 “きつね”くんは“くらうん”の言葉が終わらないうちから机に飛びつき資料をかき回した。
 そして見つけた契約書を貪るように読み出した。
 背中が緊張に強張っている。
 それを心配そうに見つめる怜。
 しかし・・・資料を最後まで読み通し、そしてもう一度丁寧に目を通し終えてようやく“きつね”くんは緊張を解いた。

「ふへ~~・・・」

 脱力のあまり“きつね”くんは机の前にしゃがみ込んでしまった。
 するとすかさず怜が後ろから抱き上げ、お姫様(?)抱っこでソファまで連れて行ってくれた。
 そして何か命令される前から“きつね”くんの股間に顔を埋め諒子のバージンの血を付けたペニスをペロペロと舐めて清め始めた。
 心から忠誠を誓った怜ならではの気働きである。

「いったいどうしたんですか?」

 ようやく落ち着いた“きつね”くんに“くらうん”が声を掛けた。
 その問いに怜の頭を撫でながら“きつね”くんは答えた。

「いや、もう、ほんっとビビリましたよ。知ってました?諒子って処女だったんですよぉ」

 “きつね”くんの言葉に“くらうん”も目を剥いた。

「それは・・また・・いや、ホントですか」

「ホントなんですよぉ。妙にきっついなぁって思ってグイッて入れたら、ビチィって音がして抜いてみたら、も血がべっとり」

「そうですかぁ・・・ま役得って訳ですよね。ん?でもそれじゃあ、一体何を慌てていたんですか」

 その問いに“きつね”くんはちょっと肩を竦めて言った。

「だってあの美貌ですよ、あのスタイルなんですよぉ。も絶対に仕様書に“バージンをとっておく事”って要求が上がっていると思いましたモン。マジで真っ青になりましたよ」

それを聞いて“くらうん”も納得のいった表情になった。

「あぁ、そういう事だったのですか。云われてみれば確かにそれは考えられますね。これからはもう少し慎重にして、役得ばかりに血道を上げないようにした方が良いでしょうね」

 “くらうん”はそう言って、最後にちょっと意地悪そうな顔をした。

「あれ?そうなんですか?」

 しかしすっかり立ち直った“きつね”くんは、そんな“くらうん”の挑発にニッコリと笑って答えた。

「じゃあ、とりあえず今から怜で抜いておく事にしようかなぁ。そろそろ“くらうん”さんの番だったんだけどさ」

「えっ、えっ、えっ?もう僕の番だったんですか?“あらいぐま”くんはもうお終いなんですか」

 途端に表情を緩めて“くらうん”が“きつね”くんに向き直る。

「だと思うんですけどね。ねぇ、“あらいぐま”さんっ!もお良いんですよねぇ?」

 “きつね”くんは、壊れた扉の陰からそ~っと外に忍び足で出ようとしている“あらいぐま”に大きな声を掛けた。
 すると“あらいぐま”は、“びくぅ”っと動きを止め、引きつった笑顔で“きつね”くんに向き直った。

「お・・・オレは・・・もう良いや。ははは・・・も満腹ですよ。“くらうん”さん、良ければ使っちゃって」

 なんとか笑顔で居られたのはそこまでだった。
 “きつね”くんの股間に顔を埋めている怜がチラッと“あらいぐま”の顔に視線を向けた途端、一瞬にして顔が強張り、背を扉に押し当ててジワジワと後退をし始めたのだった。
 その様子を見て、“きつね”くんは堪え切れずに吹き出してしまった。

「あはははっ!“あらいぐま”さんっ、もう大丈夫ですってぇ。怜には噛み付かないように言っときますからぁ」

 “きつね”くんは手をヒラヒラと振って、“あらいぐま”を呼びとめた。
 しかし“あらいぐま”は、“その手に乗るもんかぁ”といった表情で“きつね”くんを睨み付けた。

「うるせぇ、“きつね”っ。冗談じゃねぇや。もう俺は二度とその女には近づかねぇんだっ!」

「ま~た、また。“あらいぐま”さんらしくないことを。ほ~ら、こんなに美味しそうなのにぃ」

 “きつね”くんは、そう言うとしゃがんでいた怜を引き上げ自分の膝に乗せると、大きく足を開かせ指で怜の媚肉を左右に広げて見せた。
 思わず視線を奪われる“あらいぐま”。
 しかし強烈に色っぽい流し目にも係わらず、怜の視線に晒された途端、“あらいぐま”は“ひぃっ”という声と共に後ろに跳び下がってしまった。

「あららら~・・・ちょっと強烈すぎちゃったかなぁ。トラウマになっちゃった?」

 “きつね”くんはちょっと済まなそうな表情で怜の視線を遮り“あらいぐま”に訊いた。
 すると“あらいぐま”も眉毛を八の時にした情けない顔つきになってため息を吐いた。

「何なんだよ、ったくよ~。お前この女にいったい何したんだよぉ。マジで生きた気がしなかったぜ」

「わぁ~・・・ゴメンナサイ。前に“ぱんだ”さんから引き継いだ時にね、ちょっと調教の都合で怜が無意識に掛けていた心理抑制を外したんですよ。それで最高のパフォーマンスが出るようにチューニングしたのが、さっきの“Bモード”だったんですけどね」

「最高のチューニング?なんだいそりゃ?」

「ですから、怜の飛び抜けた動体視力や反射神経、それに筋力やバランス感覚が100%発揮されるってわけです。それと・・・」

 そこで“きつね”くんはちょっと言いにくいように言葉を一旦切った。

「まだ有るのかよ」

 “あらいぐま”は半ば感心、半ば呆れた表情で言った。

「えぇ・・・。あと、対人攻撃に対する抑制も・・・・」

 “きつね”くんは語尾を濁したのだが、“あらいぐま”の顔つきは変わった。

「おい、おい、おいっ!何だってぇ?お前、対人攻撃の抑制も取っ払っちまったのかぁ!そんなバケモノを俺に差し向けたって訳かぁ?!」

 “あらいぐま”は目を剥いて、“きつね”くんに食って掛かった。

「で、で、でも、でもでもっ、怜にはチャンと鼻血が出る程度って言っておいたんですよぉ」

 “きつね”くんは両手をブンブン振って“あらいぐま”を遮った。
 それを聞いて“あらいぐま”も少し納得したことが有った。
 怜の尋常じゃない殺気の割に、意外なほど食らったダメージが少ないのだ。

 (ま、あながち出鱈目じゃぁなさそうだな・・・)

 “あらいぐま”は“きつね”くんの釈明を一応信用したが、しかしそれで腹の虫が収まる訳ではなかった。

「はっ!とにかくさっきの女医の話は無しだからなっ」

 そう言って“あらいぐま”はプイッと横を向いた。
 しかし、反対に今まで低姿勢だった“きつね”くんは、その言葉にホッペタを膨らました。

「え~?!ズルイっすよぉ。約束したじゃないですかぁ」

「うるせぇ。俺のナイーブなハートを傷つけた罰だ。後で写真やるからオナニーでもしてなっ」

 “あらいぐま”は取り付く島もない様子で、腕を組んで言い放った。

「え~っ、だって元々は“あらいぐま”さんがリクエストしたんじゃないですかぁ。最初は従順だったのにぃ」

「バカヤロ。モノには限度ってものが有るだろうがっ。何が悲しゅうて死神にセックス挑まにゃならんねん」

 “あらいぐま”にピシャッと言われて旗色が悪くなった“きつね”くんは、横目で“あらいぐま”の背中をチラッと見てから、膝の上に乗せている怜に言った。

「あ~ぁ、ちゃんと約束したのにさ。怜、これってちょっとヒドイと思わない?」

 すると怜は猫のようにキラキラと光る目で“きつね”くんを見上げてニッコリと笑った。
 一方“あらいぐま”は反対に一瞬で背中を強張らせた。

「ひっ・・・卑怯者ぉ~」

 そんな“あらいぐま”のリアクションに、“きつね”くんは目を細めてニッと笑った。

「だからぁ~、勿論このままで女医さんを抱かせろとは言いませんよ。ちゃあんと“あらいぐま”さんの穴を用意してまっせ」

 “きつね”くんは何処の方言だか判らない言い回しで、上機嫌に立ち上がった。

「お待たせしました、“くらうん”さん。怜のお口を存分に使ってください。“あらいぐま”さんはこのままこの穴を使っちゃってください」

 “きつね”くんはそう言うと怜の顔を“くらうん”の股間に埋めさせ、真っ白い尻だけを“あらいぐま”に向けて差し出した。
 これならば怜の視線にビビル事も無い。
 更に“きつね”くんの手で怜の媚肉は大きく広げられ、しっとりと湿った器官を部屋の明かりに晒された。
 もう、『いつでもどうぞ』といった状況である。
 “あらいぐま”の視線も熱を帯びてくる。
 しかし・・・暫らく凝視していた“あらいぐま”は似合わない溜息を吐いて視線を逸らした。

「だめだ・・・やっぱ止めとく」

「え~~っ?!なんでぇ?」

 “きつね”くんが驚きの声を上げる。
 それに対し“あらいぐま”の応えは簡潔だった。

「立たねぇんだ・・・」

「へ?」

 驚きに“きつね”くんの視線が“あらいぐま”の股間に向けられる。
 しかしそこにはいつもの膨らみが欠けていた。

「うっそ~っ」

 精力の塊のような“あらいぐま”からよもやこんなフレーズを聞こうとは・・・
 “きつね”くんは、今度こそ本当に申し訳なさそうな表情になった。

「うわぁ~・・・。ごめんなさい、“あらいぐま”さん。本当に申し訳無いッス。マジでトラウマっちゃったんですかねぇ」

「いや・・・ま、そんなに深刻って訳じゃあ無いけどさ。まだちょっとさっきの印象が強すぎてさ」

 “きつね”くんが真剣に謝りだしたので、“あらいぐま”もちょっとフォローする。
 しかし“きつね”くんは、その場で腕を組んで、“う~ん”と考え込んでしまった。

「おいおいっ、そんなに深刻じゃ・・・」

 “あらいぐま”がそう言いかけた時、“きつね”くんは不意に目を開けると明るく手をポンと叩いた。

「そうだっ!怜の代わりに妹を進呈しますよっ」

「あ?妹ぉ?誰だ、それ」

「だからぁ諒子の妹、・・・え~と美紀っていったかな?」

「お前さんのターゲットかい?写真ある?」

 “あらいぐま”も意外と乗り気だ。

「えぇ。さっきの契約書に有ります。・・・っとぉ、あ、これこれ」

 “きつね”くんは先ほどの契約書をパラパラとめくり、石田姉妹の写真を“あらいぐま”に見せた。

「おぉ~~っ!すっげえ美人じゃん。お前相変わらず良い引きしてんなぁ。映美、怜ときて次はこれかいっ」

 “あらいぐま”は先ほどの枯れた表情を一瞬でふっとばし、目をギラギラさせて写真に見入った。
 鼻息まで荒くなっている。
 股間は・・・準備OKみたいだった。

「こいつら幾つ?」

「諒子が25で、美紀が17」

「くぅ~・・・たまんねぇなぁ、このお姉ちゃんの方!で、何、このお姉ちゃん、処女だったんだってぇ?」

「そうなんだけどね・・・。ね、“あらいぐま”さんっ、妹の方だからねっ」

 “きつね”くんはちょっと不安になって言った。
 実は“あらいぐま”も“きつね”くん同様年上好みなのだった。

「え~っ、ガキかよっ」

「何贅沢言ってんですか。こんな美人の高校生、中々居ないよ」

 “きつね”くんは仕様書を折り返して美紀の写真だけを“あらいぐま”に見せるようにしながら言った。

「そりゃまぁ、否定はしないけどね。でもさっ、このお姉ちゃんの生意気そうな表情見ろよっ。メチャクチャ勝気そうじゃん。ほんと、美人さだけで言ったら、も怜なんて目じゃ・・・」

 “あらいぐま”は“きつね”くんの手から仕様書を奪い取ると、諒子の写真を引っ張り出し興奮してまくし立てた。しかし、つい怜の名前を出してしまった途端、レーザビームのような視線を視界の隅に浴びてしまい、“あらいぐま”一瞬で固まった。

「い・・・いぇ・・・あ、貴女様に敵う美貌など・・・この世に存在しません・・・です、はいっ」

 怜は“くらうん”の股間にネットリと舌を這わせながら、股間に直接響くような流し目で“あらいぐま”を見つめた。
 もう殆ど“あらいぐま”は怜の下僕状態だった。

「“あらいぐま”さん・・・ここは妹にしといたほうが・・・無難だよ」

 2人の様子を観察していた“きつね”くんはわざとらしい小声で“あらいぐま”に言った。

「そっ・・・そうだな。頼むわっ。そっちを見繕ってくれ」

「了解!じゃ、あと3時間くらい待ってもらえる?」

「3時間ね・・・。OK。じゃ、俺ちょっとメシ食ってくるわ。その後は・・・我が息子のリハビリを兼ねて社員寮にでも行ってるよ。多分・・・愛子か玲子んとこに居るから、連絡入れて」

 こうして騒動は終結し、“あらいぐま”は股間を膨らまして食事に出かけた。
 “くらうん”は2人の会話など何処吹く風で、怜の口をたっぷりと堪能していた。
 そして、“きつね”くん自身もようやく安心して諒子の媚肉を味わえると、スキップするような軽い足取りで部屋を出て行ったのであった。
 しかし・・・

『諒子っ!フリーズ、マインドォ!』

 なにも考えられない頭で呆然と椅子に崩れ落ちていた“ぱんだ”の耳に、突然乱暴に扉が開く音と供に“きつね”くんの大声が飛び込んできた。
 そして、先ほどの“あらいぐま”の再現のように喧しい足音が駆け抜けていった。

 (“きつね”くん?・・・居たんだ)

 “ぱんだ”は無意識に扉を開け、引き寄せられるように廊下の奥に視線を向けた。
 そこには丁度社長室の扉に弾き飛ばされた“きつね”くんと、それを介抱する怜の姿があった。
 当り前のように命令する“きつね”くんと、躊躇いも無く従う怜・・・
 何気ない口調と表情・・・しかし“ぱんだ”の目にはそこに自分では決して築きえなかった強いラポールで結びついた2人の姿に見えた。

 (怜・・・)

 扉の陰から盗み見るようにしている自分が急に意識され、“ぱんだ”は耐えられずに視線を外した。そして無意識に反対方向に顔を向ける。
 すると半分開いたままの10号室の扉が目に飛び込んできた。
 同時に先ほどの“きつね”くんのセリフが蘇る。

 (サスペンド・ワード・・・だったよな、さっきの)

 そう考えている“ぱんだ”の耳に“きつね”くん達が社長室になだれ込む音が聞こえて来た。
 目の前に誘惑するように口を開けた扉・・・。
 “ぱんだ”の喉仏が音をたてた。

 扉の中に滑り込んだ“ぱんだ”は、目の前に広がる光景に一瞬目を奪われた。
 自分の部屋と全く同じ作り、それどころか整理整頓といった点を比較すれば雲泥の差といって良い惨状であるのだが、ベッドに横たわる人を一目見るなりそんな些細な事など意識から消し飛んでしまったのだ。
 まるで自身が光を放っているかのように真っ白い肌を輝かせて諒子が眠っていた。
 再び“ぱんだ”の喉仏がゴクリと音をたてる。

 (死んでいる?・・・に、人形なのかっ?)

 “ぱんだ”がそう感じるほど、今の諒子に生物としての汚わい感が無かった。
 透き通るような、妖精のような現実離れした“美”そのものに感じられた。
 戸口に佇んだままそんな諒子を凝視していた“ぱんだ”は、やがて引き寄せられるようにベッドに歩み寄った。
 そして真上から諒子の全身を見下ろしていたが、徐々にその黒瞳に写る現実に“ぱんだ”の精神が押し潰されそうになり身体がぶるぶると震えだした。

 (こ・・・これが・・・『基礎』だと云うのかっ!これが“きつね”の・・・・本当の実力なのかっ!)

 “ぱんだ”は己の催眠深度とは余りに違いすぎる“きつね”くんの力を今初めて知った。
 完成したドールでは注文ごとに要求にバラツキがあり一概に比較は難しいのだが、基礎レベルにおいてはその差は歴然とする。
 基礎レベルの規程は『記憶支配できること』だけである。その点をクリアしているという点では“ぱんだ”と“きつね”くんに違いは無かった。
 しかし・・・現実に目の前で意識を固定されている諒子の姿は、ほぼ死人と等しいようなレベルになっていた。
 1分間に数回の呼吸と、それに呼応した鼓動、僅かに開いた瞼の間からは虚ろな黒瞳が見上げている。
 思わず伸ばした指先が触れた肌はひんやりとして体温を感じさせなかった。

 サスペンド・・・全ての生活反応を極限まで低下させ、肉体及び精神活動を一時停止状態にさせること

 ここにその字義どおりの、お手本のようなドールが居た。

 (何なんだ・・・なんで・・・いったいどうやったらこんな風に仕上げられるんだっ!)

 “ぱんだ”は自分の仕事を振り返った。しかし、過去一番巧く掛けられたドールでも、精々熟睡している程度のものだった。
 単純な、基本中の基本のような暗示である。マインド・サーカスの面々であれば一人の例外も無くやってのけるものだ。しかし、それだけに“ぱんだ”にも諒子の催眠の深さ、その凄さが実感できた。

 (ずるい・・・ずるいぞ、“きつね”・・・お前ばかり・・・どうして上手く行くんだっ!)

 ショックで呆然となった“ぱんだ”の脳裏に弾けたのは、こんな鮮烈な嫉妬だった。

 (俺の怜を・・・丹精込めた俺のドールを横取りしてっ!その上、今度はこんな上等な人形までっ!不公平だっ!!)

 いつの間にか“ぱんだ”の耳にキーンという金属質な耳鳴りが鳴り響いていた。
 そしてその音に押されるように、一見優しげなその瞳に粘ついた嫉妬と重い狂気がゆっくりと広がっていった。

 (偶然だ・・・こんなの・・・偶然に決まってるっ!)

 認めたくない現実から唯一目を逸らす方法・・・“ぱんだ”の精神は安直にそこに向った。

 (駄目だよ・・・“きつね”くん・・・催眠は、君が考えるほど簡単なモノじゃないんだ・・・偶然上手くいっているからって思い上がっちゃ駄目さ。・・・だから、僕が教えてあげるよ・・・先輩として・・・仕事の厳しさってヤツをサ)

 “ぱんだ”の口の端が僅かに持ち上がった。
 そして先ほどから続いている耳鳴りは更に強くなり、“ぱんだ”自身の心の何処かで上がっている必死の叫びを完全に消し去ってしまっていた。
 その瞳に漲る暗い意思に、既に躊躇いは無かった。

「諒子・・・・・・メルト・マインド」

 規程で決められたとおりのフレーズが“ぱんだ”の口から滑り出る。
 すると忽ち目の前の諒子にめざましい変化が生じた。
 一瞬感電したように身体が痙攣し仰け反ったかと思うと、すぐに肺一杯に空気を吸い込み、そして次の瞬間にはまるで人形のように横たわっていた諒子に生き生きとした精気が蘇ってきたのだ。
 その余りの鮮やかな変化に思わず目を奪われる“ぱんだ”。
 その呆然とした表情の“ぱんだ”に対し、諒子はとろんとした視線を向けて微笑んだ。
 その無垢な表情の中に“きつね”くんの催眠の影を見た“ぱんだ”には、もう一片の迷いも無かった。

「諒子・・・さあ・・・良くお聞き・・・僕の声だけを・・・」

 ドールメイカー“ぱんだ”の闇の声が静かに毀れだしていった。
 そして僅か5分にも満たない“ぱんだ”の暗示は、しかし“きつね”くんの催眠レベルで諒子の中に刷り込まれていったのだった。

 いったい何が刷り込まれて行ったのか・・・それはこの部屋に居る2人を除いて知る者は居なかった。

 そして“ぱんだ”が全ての後始末を終え自室に引き返してから5分ほどしてから、ようやく“きつね”くんは現れたのだった。
 しかし元通りフリーズされてしまっていた状態の諒子に何の疑念も抱かずに跳び付いて行った。

「諒子ちゃ~~んっ!お・ま・た・せっ!メルトォ、マインッ」

 そして解除ワードと供に諒子の乳房に顔を埋めた“きつね”くんは、杞憂で慌てた時間を取り戻すかのように諒子の肉体を堪能していった。

 さしもの“きつね”くんでさえ、極上な諒子の肉体に魅了され、仕掛けられた爆弾に気付くすべは無かったのだった。

< つづく >

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