(24)潜伏と雌伏
懐かしい場所だった・・・
昔、二人で歩いたことがある道だった。
『そうだったよね?』
『ええ。そうね』
その低めの落ち着いた声も耳に残っている。
そっと手を伸ばせば、暖かい掌の感触もハッキリと感じられた。
『なぁ・・・』
『なに?』
問い掛ければ応えるのに何故かその声は悲しげだった。
『どうしたんだ・・・なにかあったのか?』
『・・・えぇ。わたし忘れ物しちゃったみたい』
長い黒髪の向うでいったいどんな表情が動いているのか・・・それが気になった。
『忘れ物って・・・?』
訊いた声が何故か震えていた。
その声に応えるように長い髪の女が振り返った。
『これよ・・・これを何処かに忘れてきちゃったの』
そういう女には顔が無かった・・・・
「うわぁぁぁああああああああああああああああっっっ!!!」
しっかりした作りのシティホテルだったが、それでも隣の部屋から文句が来そうな大声で男は夢から目を覚ましたのだった。
ベッドの上で飛び起き、寝汗でじっとりと湿ったパジャマの袖で顔を拭うその男の名は秦野隆、かつて“ぱんだ”と呼ばれていた男だった。
「まただ・・・畜生っ・・・」
秦野は目の下に隈の浮かんだ顔でそう呟いた。
あの日、“とら”の手から辛くも逃げ切った秦野は、意外に運転が上手いウェイトレス・・・名を遠藤香というが、その彼女の運転で1時間ほど闇雲に車を走らせたのだった。
道路に叩きつけられたショックで満足に腰を伸ばすことすらできなかった秦野には、その逃亡手段しか残されていなかったからだ。
しかしナンバーを知られた車にいつまでも乗っている訳にはいかない。
秦野は頃合を見て偶々目に付いたレンタカー店に乗り付け、地味な国産のセダンに乗り換えさせたのだった。
駅の地下駐車場にそれまで乗っていた車を乗り捨てたのは、単なるカムフラージュである。
こうして安全な移動手段を得た2人は、人目を避けてラブホテルの宿泊を繰り返し、マインド・サーカスの追っ手から身を隠したのだった。
そしてようやく普通に歩けるようになった秦野が、香をつれてここ東京へ向ったのは、それから3日後のことなのである。
持っていた鞄はあの逃亡劇で喫茶店に置き去りになっていた。
しかしポケットに直接入れておいた財布には銀行のカードも入っていたため、とりあえず金の心配は無かった。
この4年間で溜めた数千万の預金が手付かずで残っているのだ。
そして・・・2人が東京に潜伏してから4日が過ぎていた。
今は品川駅の目の前にあるホテルに夫婦として宿泊をしている。
ラブホテルを転々としていた最初の数日はハリネズミのように緊張していた秦野だったが、それも東京の雑踏に紛れるうちに次第に落ち着きを取り戻してきていた。
けれども緊張感が薄れるのと反比例するように、秦野の中にどす黒い怒りが湧き上がって来たのだった。
4年もの間、只管下働きをしてきた“ぱんだ”をあっさりと切ったマインド・サーカスの非情さ。
ちょっとした悪戯をまるで反逆者のように扱う理不尽さ。
そしてようやく自分独りで作ったドールを横取りする横暴さ。
秦野はついに自分のしてきた事を見詰めなおす視点を持ち得なかった。
秦野にとっては、経験した全ての行為が納得できない裏切りに感じられた。
そして何よりショックだったのは、“とら”の暗示に嵌り、自分のドールの顔すら思い出せなくなってしまっていたことだった。
東京のホテルに落ち着き改めて怜の顔を思い出そうとして、それがどうしても叶わない事に気付いた時、秦野は地の底が抜けたようなショックを受けた。
そして、その時になって初めて唯一持っていた怜の写真が喫茶店に置き去りにした鞄に入れてあったことを思い出し、頭を抱え半狂乱になった。
「なっ!何故だぁあああっ!何故そこまでするっ!!どうして記憶まで奪うんだっ!!怜っ!怜、怜、怜っ!!俺が作り上げたのにっ!俺のドールなのにっ!あぁぁぁ・・・・どうして・・・どうしてなんだぁぁぁあああああっ!!」
部屋の備品を投げ飛ばし、椅子を蹴り上げ、ベッドを叩いた。
大声を上げ、床を転げまわり、頭を柱に叩きつけた。
暗示で束縛されている香が呆然と立ち尽くす横で、その狂乱は続いた。秦野がすっかり疲れきり、額から血を流したままベッドに倒れこむまで・・・
そしてそれ以来、秦野は眠りにつく度にあの悪夢を見るようになったのだった。
たった一人の女のために全てを失ったドール・メイカーは、今、その女すら失おうとしていた。
午前2時を指す枕もとのデジタル時計の微かな明りが、暗闇のなかで肩を震わせている男を浮かび上がらせていた。
(もう二度と・・・お前にっ、会えないのか・・・・怜)
そう思うと幾ら歯を食いしばっても、秦野は涙を止められなかった。
顔は思い出せなくても、その衝撃的な美しさへの感動だけは胸の内に鮮明に残っていた。
それだけに失った痛みは心を切り裂いた。
そしてそれだけに、怜を今独り占めしている男への怒りは、嫉妬は、身を焼き尽くすほどの高温となり、もう秦野自身にも止める事は出来なくなっていた。
脳裏にあの日自分を投げ飛ばした男の顔が浮かぶ。
「きつねぇ~っ!貴様だけは許さねぇ。お前だけは・・・・お前だけはっ、絶対に破滅させてやるっ!!あの会社から追い出してやる・・・抹殺してやるっ!必ずだ、必ずだっ、必ずだぁぁぁああああああっ!!」
頬を伝わる涙と汗をグイッと袖でふき取った秦野は、暗闇の中で真っ赤な目を剥き、見える筈の無い男の顔を睨んだのだった。
ピピピピピ・・・・
翌朝7時。
秦野の暗示で夜中の狂乱にも目を覚まさなかった香は、その音でゆっくりと目を覚ました。
セットしておいたデジタル時計の目覚ましを腕を伸ばして止める。
そしてのろのろとベッドの上で上体を起こしたのだった。
昨夜も秦野へ性の奉仕を命じられ、そのまま眠りに落とされたため、薄い毛布がずり下がるとそこには裸の乳房が揺れていた。
しかし香はそんな事は気にも留めず、視線をゆっくりと巡らせると主(あるじ)である秦野の姿を捜した。
窓際の椅子に腰を下ろし、昨夜から一睡もせずにその妄執を実現するプランを練っていた秦野は、充血し濁った目で香のその視線を受け止めた。
偶然めぐり合い、万一のために必要最小限の暗示を与えただけのキッカケにも拘わらず、今の香は信じられないほど素直に、そして深く催眠暗示にかかっていた。
こんな素材はマインド・サーカスで経験したどんなドール達の中にも居なかった。
まるで自分の腕が一気に上達したかのように錯覚してしまうほどの出来栄えだった。
香は秦野と視線が合うと、トロンとした目付きのまま嬉しそうに微笑んだ。
「おはようございます・・・ご主人様」
秦野はしかし、それには応えず、まるで違うことを口にした。
「香・・・お前、あの喫茶店でバイトしてたんだよな。常連客で栄国学園の生徒は居ねぇか?男でも女でもいい」
すると香は、相変わらずトロンとした表情のままそれに応えた。
「います・・・3年の女子で・・・2人・・・2年の男子で1人・・・あと1年生も・・2人女子が・・・」
その答えを聞いて、秦野の口元が笑みの形に歪んだ。
「そうか・・・へへへ・・・やはりな。お前、なかなか役に立つじゃねぇか」
秦野はそう言うと独り頷いた。
そして怪訝な表情でその様子を見詰めている香に、秦野は続けたのだった。
「帰るぜ、あの町に・・・・あの学校に」
*
その日、喫茶「サ・モン」のマスターは唯一の客である親子連れにケーキと紅茶、そしてオレンジ・ジュースを自ら運んだ後、カウンターの中に戻り丁寧にグラスの曇りを取っていた。
師走ということも有り、普段よりは客の回転も速めなのだが、平日の午前中のこの時間は、やはり客足は少なく閑散としている。
しかしあと30分もすれば、早めの昼食タイムを取ったサラリーマン達で賑わい始めるのだ。
すると途端に手が足りなくなる。
いつもはバイトのウェイトレスが1人いるのだが、もう1年も続いたその娘がどういう訳かここ1週間以上も連絡が取れなくなっていた。
(あ~ぁ・・・やっぱり新しい娘、雇わなきゃ駄目かなぁ)
割と真面目で愛想もよく、それにここの仕事をすっかり把握していた娘だったため、多少の無断欠勤ではクビにしたくなかったのだが、そろそろ限界だった。
「はぁ・・・」
グラスに吐き掛ける息も、半分溜息だった。
するとその時、店の扉が開きカウベルが柔らかな音を立てた。
ファミレスではないので客は勝手に席につく。
マスターは遣り掛けのグラス拭きを優先した。
そしてそれを手早く済ませ、背後に置いてあるメニューを取り振り向いた途端、目の前に佇んでいる女に気がついた。
高価そうな毛皮のコートを纏ったその女は、深い泉のような落ち着いた瞳とキラキラと悪戯げな色を浮べた瞳が同居したような不思議な雰囲気を醸し出していた。
年齢は・・・25から30歳くらいか。
しっとりしたナチュラルウェーブの黒髪が印象的な不思議な美女だった。
「あ・・・失礼しました。いらっしゃいませ」
マスターは一瞬その瞳に見入られたように息を止めたが、すぐに職業的な落ち着いた声でそう言った。
「こちらの席で宜しいのでしょうか?」
他の席が空いているのにカウンター席にくる客は珍しいのでマスターは念のためそう尋ねた。
しかしその女は軽く頭を振ってから言った。
「香ちゃん・・・来てないのかしら?」
その問いにマスターは軽く眉を上げて応えた。
「あぁ・・遠藤さんの御知り合いですか。彼女、今日は来てないんですよ」
「昨日も居なかったって聞きましたけど」
女の意外な言葉に、マスターは小さく肩を竦めた。
「えぇ。実はそうなんです。ここ1週間くらい連絡が取れなくて」
「あら・・・やっぱり。1週間ですか?最後に出てきたのはいつですか」
女の何気ない問いに、マスターはカレンダーも見ずに言った。
「先週の火曜日です」
「あら?じゃ、水曜日にはもう居なかったんですか」
じっと女の視線がマスターの顔に注がれる。
再び先ほどのキラキラと光る視線が復活した。
しかしマスターの顔には何の反応も現れなかった。
「えぇ、そうです」
マスターは、ごく普通の表情で頷いただけだったのだ。
しかし、マスターを見ていた女の表情は違った。
マスターのその答えに、まるで宝物を発見したかのように目を輝かせたのだった。
「そうですか・・・判りました」
そしてその女は妖しく光る目を一瞬マスターに当てたあと、そのまま踵を返した。
(なんだ・・・お客さんじゃなかったのか)
マスターは残念そうにメニューをもった腕を下ろした。
しかしそのタイミングで女の去っていく足音のリズムが止まった。
怪訝そうに再び視線を上げたマスターは、その場でクルッと振り返ったその女の瞳に吸い込まれそうな感じがした。
ほんの一瞬でまるで深い泉のような落ち着いた柔らかな瞳に変えた女は、そしてゆっくりと口を開いた。
「ここのお店・・・何時までかしら」
「はっ・・・8時・・・ですけど」
マスターは我知らず痰が絡んだような声でそう答えていた。
「そう・・・ありがと」
女はニンマリと微笑んだ顔でそれだけ言うと、今度こそ本当に踵を返して出て行った。
マスターは自分の手からメニューが滑り落ち床で音を立てるまで、まるで魂を抜かれたようにその女の後姿の残像を追いかけていた。
店を出た女の目の前には、黒塗りのストレッチ・リムジンが横付けされていた。
そして女が店を出るタイミングで助手席のドアが開くと、中から地味なスーツにサングラスを掛けた男が流れるような動作で出てきた。
180センチを超える体躯と広い肩幅は無言で周りを圧倒していたが、店から出てきた女はそんな男を見ることも無かった。
男が空けたドアから優雅に乗車し足を組む。
女が口を開いたのは、先ほどの男が再び助手席に乗り込んでからだった。
「出しなさい」
その一言で車は静かに動き出した。
乗車している男と同様にリムジンの圧倒的な存在感は後続の車を当り前のように止めさせ、その中をスムーズに進んでいったのだった。
「蘭子さま・・・如何でしたでしょうか」
質問をしたのはドライバーの男だった。
助手席の男を驚くほど似かよった雰囲気だ。
その問いに女、蘭子は初めて笑顔を見せた。
「ふふ・・・面白かったわ。あそこのマスター、香は水曜日には出勤していなかったなんて言ってたわ」
「ほう。そうでしたか。なぜそんな嘘をついたのでしょうか」
しかし蘭子はルームミラー越しにドライバーを妖しげな笑みで見詰めて言った。
「ううん・・・あのマスター嘘なんか吐いてなかった。私の目は欺けないわ」
「では・・・勘違いを?」
助手席の男が後にチラッと視線を走らせて言った。
「違うわ。それにしては反応が早すぎだわ。たぶん・・・あの男は・・・“そう信じ込まされていた”のよ」
そう言って蘭子はニッと笑った。
「“信じ込まされていた”・・・って、それはまさか・・」
「うふふふ。ホント・・・“まさか”よね。でもね・・・私の勘が囁くの。探し物を見つけたって。ついに私、巡り合ったのじゃないかしら・・・あの『マインド・サーカス』の痕跡に!」
そう言って蘭子は嬉しそうに喉を鳴らして笑い声を上げた。
「では・・・今後、どうされるのでしょうか」
助手席の男はそう問い掛けた。
「そうね・・・慎重にしないとすぐに尻尾を切られちゃいそうだから、今夜は私が訪問するわ」
「畏まりました。では準備は我々にお任せください。全てが整ったところでご連絡をお入れします」
「お願いね。あのお店8時までって言ってたから。10時頃までには準備しといてね、あんまり夜更かししたくないの」
女はそれだけ言うと口を閉ざし、神秘的な眼差しを窓の外に向けたのだった。
通り過ぎる冬の町並みをその瞳に映しながら、しかし女のその視線は何か別のものを見詰めていた。
*
2学期の終業式まであと数日を残した学校は、もう完全に冬休み気分の生徒たちで溢れかえっていた。
そして無論、そんな生徒たちを諌めている教師達も内心はやはり冬休みを控えて浮き立つ心を抱えていたのだった。
その所為だったのか・・・あるいはその巧妙な手口の所為だったのか・・・あるいはその両方なのか。
一見穏やかに過ぎていく学校生活の中で、密かに・・・そして着実に・・・汚染が広がっていたのだった。
始めは1人の女生徒が馴染みの喫茶店のウェイトレスにばったりと出くわしたのがキッカケだった。
「あら・・・あなた、たしか美和さん・・・でしょ」
地元の本屋で立ち読みをしていた高嶋美和は後ろからそう声を掛けられ、ビックリして振り向いた。
「あ・・・」
確かに知った顔が自分を見詰めているのだが、咄嗟に名前が浮かばなかった。
そんな美和の様子を察知したように、相手の女はニコッと笑って言った。
「いらっしゃいませ・・・メニューをどうぞっ」
「あっ、『サ・モン』の香さんっ!わっ、ごめんなさい、ウェイトレスの制服着てないから一瞬誰かと思っちゃった」
「ふふふ・・・こんにちは。美和さんってここが地元なの?」
香の優しげな口調と巧みな話術で美和は忽ち警戒心を解いて、楽しげにお喋りを始めたのだった。
しかし美和は気付いていなかった・・・学校を出てからずっとその後を着けていた二人組みの男女に。そして男の方は、美和が立ち読みを始めると近くの喫茶店に入っていったことに。
そして香にさり気なく誘導され、美和もまたその喫茶店のドアを潜っていったのだった。
やがて1時間後・・・別々に入っていった男女は、そのドアから出てきた時には3人組となっていたのだった。
そしてその3人は再び駅の方へと歩いていった・・・
その晩、美和が自宅に帰りついたのは夜7時を過ぎていた。
友達とカラオケに行っていたの・・・
美和は親に訊かれると何の迷いも無くそう答えていたのだった。
「先生っ・・・あの・・・ちょっとご相談があるのですが」
翌日、6時限目の授業を終え出て行く担任の教師を廊下で捕まえ美和はそう切り出していた。
「なんだ、高嶋。相談って」
教師は怪訝な表情で言った。
「あの・・・ここではちょっと」
美和は周りを見渡して小さな声で言う。
「あぁ・・・じゃ、生徒指導室にでも行くか?」
「す・・・済みませんが・・・あの・・・学校の外でお願いできませんか」
女生徒のこの申し出に担任の教師は少し困惑したが、小さく溜息を吐くと言った。
「う~ん・・・ま、良いか」
「ありがとうございます。ほんと助かります。じゃ、あの今から良いですか」
「いや・・・今日は職員会議が少し有るから。4時過ぎかな」
「あ、はい。わかりました。それじゃ、『蟻巣』って喫茶店知ってます?私、4時頃にそこで待ってますから」
「ん?あぁ校門の前の道を東にいったところだよな。わかった」
そう言って担任の男は片手を上げて職員室に帰っていった。
ホンの小さなこの相談事は、しかしやがて小さな連鎖となってこの学校の権力の階梯を急速に登っていったのだった。
この翌日には、この担任から学年主任へ。
さらに翌日には、学年主任から教頭に。
そして、その更に翌日には教頭から校長へ。
しかし、この相談事は不思議なことにいつも『蟻巣』という喫茶店の一番奥にあるボックス席で語られていたのだった。
そして、話の途中からいつも1人の男がやってきて、その相談相手に紹介されていたのだ。
こうして美和という女生徒が香に出会ってから僅か4日にして、栄国学園の校長にその男は辿り着いたのだった。
「なるほどね・・・石田諒子っていうのはこんな女だったのか」
校長から教職員の資料一式のコピーを受け取った秦野は、その中身を捲りながら呟いた。
無論、一度は自分が暗示を与えたターゲットだ。顔は知っている筈なのだが、一度消された記憶は完璧で、全くの初見のような気がした。
教職員の集合写真の中に立っているだけなのだが、まるでそこだけスポットライトが当たっているように見ている秦野の目を釘付けにした。
念のため秦野は石田諒子の出勤状況を校長に確認したのだが、案の定今週に入ってから欠勤しているようだった。
(ま、当然だな。納期は先週末だった筈だ。これほどの女だ、納品されたら暫らくは一日中オモチャにされるのが当り前だ)
秦野はそこまでは十分に予想していたため小さく頷いただけだったが、問題はクライアントを探し出すことだった。
ターゲットの動静は職場で聞けばすぐに判るのだが、さて、クライアントとなると簡単には行かないのだ通常だ。
非合法であることはクライアントが一番良く知っている事なので、当然ながら皆まわりに知られないように十分に注意をしている。
そういったクライアントのカムフラージュを1枚1枚剥し、その正体を突き止めることが秦野の復讐の第1歩なのだった。
地味で根気のいる作業だったが、全てを失った代わりに時間だけは十分にある秦野はこの仕事をやり通す覚悟は十分に出来ていた。
しかし・・・状況は秦野が思いもしない様相を呈していた。
何気なく訊いた秦野に校長はあっさりと答えたのだった。
「あぁ、石田先生はですね・・・今は、黒岩理事長のご自宅に居ますよ」
「えっ?」
秦野は思わず飲んでいたコーヒーを咽かえりそうになった。
「な・・・なんだ、それ。さっきは確か病欠って言ってなかったか?」
その問いに校長はあっさりと頷いた。
「えぇ、そうですね。一応そういう理由で受理してます。でも本当は違います。あの二人は黒岩理事長・・・いえ、正確には黒岩健志くんの自宅に居ます」
秦野は呆気に取られて校長の顔を凝視した。
催眠暗示で取り込んである校長は、嘘をつける状況には無かった。
混乱した秦野は校長に話の続きを促した。
「黒岩家はこの都市のボスなんですよ。ウチの学校も黒岩理事長の余技で開校されたんですが、その一人息子の健志くんが今、3年に在学してます」
校長は淡々と今までの経緯を話し始めた。
この学校は開校当初から黒岩閥を構成するためのスクリーニング機関だったこと。
優秀な若者は金銭的にも、生活も、そして女をあてがう事までして自分の陣営に取り込んでいき、無論、その間にしっかりと弱みも掴み、あらゆる分野に浸透したその人材を飴と鞭でコントロールしているのだった。
そして次期当主である健志の入学は、この学校にとってみれば、そのスクリーニング機能が十分に発揮されているかを試験されているようなものだったのだ。
それは無論健志当人の預かり知らぬことだったのだが、巨大な黒岩権力を恐れる教師達は最初から健志の背後に黒岩剛のその意思を見ていたのだった。
そして、台風の目となった健志は、この環境の中で次第に権力の甘い汁の味を覚え、新たな支配者として脱皮していったのだった。
「彼は、健志くんは、なんと自分の担任の新妻を自分の妾にしてしまったのですよっ」
感情を抑えることなく校長は心情を吐露した。
「本人は誰にも気付かれていないつもりだったみたいですが、校内であんなに頻繁に、あからさまに自分用の個室に清水先生を引っ張り込んでいては気付かれない筈もないです。私を始め校内の主だった管理職クラスの教師達には公然の秘密となっていました。本気で気付いていないのは、夫であるその担任教師本人くらいのものですね」
校長の話は尚も続いた。
「そしてその清水先生が妊娠したのが5月末頃でした。父親が誰なのか・・・当時、私らの間では少し話題になりましたよ、はははは。あ、申し訳ありません・・少し話題がずれましたね。ま、そういう訳で清水先生は産休になるわけですが、その代理教師の選考をしたのが、あの黒岩健志くん、本人でした。清水先生という前例が有るものですから、我々はすぐに彼が何をしたいのかは判りました。勿論、異を唱えることなど考えもしません。全て彼の希望どおりに運び、そして採用されたのが石田先生でした」
校長はそこで話を切り、コーヒーで喉を湿らせた。
「正直、あの先生を見たときは、さすがに健志君が羨ましかったですね。でも、実際に赴任してきて教鞭を取ることになると、彼の計画は悉く頓挫してしまったのです。石田先生の内に秘めた気迫というのは、ちょっと凄まじいものが有りましてね、黒岩理事長とは違った意味でちょっと我々では太刀打ちできませんでした。無論、健志君もです。私たちは健志君が焦れていく様子をハラハラしながら見守っていたのですが・・・そんな中で2つの事件が起きてしまいました。一つは健志君のカンニング事件、そしてもう一つが剣道での大怪我でした。どちらも健志君の気の緩みでしかないのですが・・・でもどうやらこれで黒岩の権力を本気にさせてしまったみたいでした。なにせ大怪我させたのは石田先生の妹なんですから」
校長は言葉を切って秦野の顔を見詰めた。
「なるほど・・・言わんとするところは大体判ったよ。たしかにその黒岩健志・・・っていうガキが噛んでそうだな。ただ、それで石田諒子が今そこに居るかどうかなんて判らんだろ?」
秦野は当り前の疑問を口にした。
しかし校長はちょっと肩を竦めて言った。
「いえ、間違い有りませんよ。なんせ電話で直接聞きましたからね」
その言葉に秦野は再び目を剥いた。
「なんだって?本人が連絡してきたのかっ」
「えぇ。まぁ・・・そうです。最初は石田先生自身が電話をして来たんですよ。ただその理由が『風邪が酷いので年内は休暇にしたい、妹も一緒に』なんていう事だったんで、さっきの黒岩君の件もあり私は渋っていたんですよ。ただ電話口の呼吸も荒かったので、ま、ホントに体調も悪いんだろうなって思ってましたけどね。でも、驚いた事に私が中々許可を与えないでいると、いきなり電話の相手が代わったんですよっ!判りますよね、健志君でした。電話口の向うで『あっ・・』っていう声が聞こえたかと思うと、いきなり健志君が話し出したんです。『校長、黒岩です。実は、石田先生がたは怪我した僕の面倒を暫らく看たいって言ってウチに看病に来てるんですよ。ご迷惑とは思いますが少し配慮をお願いできませんか』なんて言ってきました。私はホントにビックリしてしまいましたが、でもすぐに納得しました。ついに黒岩の権力が動いたんだろうなって。確信はありますよ。だって上機嫌な健志君の声の後から聞こえていたのが、小さくすすり泣く女の声と、パンパンとリズミカルに繰り返される音でしたからね」
校長はその時を思い出したように、小鼻を膨らませて言った。
秦野は、しかしそんな校長の顔などもう見ていなかった。
話を聞いているうちにあるアイディアが浮かんできたのだ。
(こいつぁ使える・・・この方法なら確実に“きつね”を誘き出せる・・・くっくっくっ、なんて好都合な展開なんだっ!俺の復讐に天が味方してるぜ・・・あの泥棒狐に思い知らせてやるっ!)
暗い瞳に地獄の関門が口を開けたような血生臭い歓喜を湛えて、秦野は静かに微笑んだ。
その表情に催眠暗示で秦野の全てを受け入れている筈の校長の顔が僅かに強張った。
急に痰が絡んだように喉が不快になる。
そんな校長に秦野は新たな問いを口にしたのだった。
「校長、その女房を寝取られた間抜けの名前はなんていったかな?」
*
痙攣していた・・・
ベッドの上で体重100キロは有ろうかという巨体が波うっている。
頑丈だけが取柄のようなベッドがミシミシと音をたてて軋んでいた。
男は完全に白目を剥き、口からは泡を吹き、クビを左右にメチャメチャに振りながら、その全身を使って身悶えていた。
その傍らに一人の女が佇んでいる。
まるで闇に溶け込んだような黒一色の出で立ち、しかし顔だけは逆に雪のように真っ白で、まるで闇夜に浮かぶ月のように見るものの視線を自然にそこへ向けさせていた。
女は、目の前で狂ったように身体を痙攣させている男をじっと見詰めている。
男の苦悶など何の興味もないように、ただ只管男の口の動きだけに注目していたのだ。
しかし・・・すでに男がこんな状態になってからもう10分を過ぎようとしていた。
時折、男の口が何かを言うように微かに動こうとする。
その度に女の視線に光が灯るのだが、それも男の痙攣がぶり返すたびに消えていった。
「蘭子様・・・そろそろこの男、限界です」
闇の中からその声だけが響いた。
途端に女、蘭子の表情に悔しげな色が浮かぶ。
しかし次の瞬間には、ふぅっと肩と視線から力が抜け、組んでいた腕を振り解いた。
「OK・・・。判ってるわよ、そんなことっ!」
蘭子はそう言って闇に言葉を返すと、男の傍らに膝をついた。
そして男の耳に口を近づけ小さな言葉を囁いた。
2度・・・そして3度
すると男の体から憑き物が落ちたように痙攣が収まっていった。
蘭子はそれでも男の額に手を当て、何度も繰り返すように秘密の言葉を囁いていったのだった。
やがて男は完全に脱力し、小さな寝息をたてて眠りに落ちていった。
蘭子は男の様子をそこまで確認してから、ようやく立ち上がりゆっくりと伸びをしたのだった。
「あ~ぁあっ!んもう、頑固ねっ、あと一息なのにっ」
蘭子はそう言ってプンとむくれた。
ちょうどそのタイミングで部屋に明りが灯った。
途端に今までの神秘的な雰囲気が拭い去られ、代わりにネタの割れた手品のような白けた雰囲気となっていた。
「さすがは『マインド・サーカス』っといったところですか?蘭子様」
昼間のリムジンの運転手は、今はサングラスを取り素顔を晒して言った。
「はんっ!どうってこと無いわよっ。こんなの普通。この男壊しちゃって良いんなら幾らでも聞き出せるんだけどね。それじゃ、相手に私の存在を宣伝してるみたいじゃない。だからヤメタのっ」
蘭子にそう言われて、ついでに睨まれた男は、その堂々たる体格に不似合いなほど慌てて視線を避けた。
「も・・・申し訳ありません。素人のくせに見当はずれのことを口にしてしまいました」
蘭子は、しかしそんな男の弁解には耳も貸さずにプイッと横を向いた。
「あとはお願いね。私は先に帰るわ・・・もう、こんな夜更かしさせてっ!覚えてなさい、マインド・サーカス」
前半を運転手に向けて言い、後半は完全に独り言になった呟きを残して蘭子はさっさと出て行った。
しかし、独りマンションの廊下を歩く蘭子の表情は悔しげだった。
せっかく手に入れた大事な駒だが、こちらの思うとおりに動かなければ意味は無いのだ。
「仕方ない・・・地味だけど、一応手を打っておくしかないか」
白い呼気とともに、蘭子から小さな呟きが漏れたのだった。
*
京子を巻き込み、諒子をさえ飲み込んだ運命の渦は、今や完全にマインド・サーカスを、そして“きつね”くんをその渦の中心に捉えていた。
そして秦野や蘭子のようにその渦に引き寄せられる者もいれば、逆に気まぐれな渦に弾き飛ばされ運命を変えられようとしている者も、また・・・・・いるのだった。
< つづく >