(25)封印
コンコン・・・
部屋の扉がノックされた。
既に時計の針は深夜0時を指そうとしている時刻だ。
無論、部屋の明かりは落とされ、微かに枕もとのランプだけが淡い光を灯している。
最上階に位置するこの部屋の住人は、しかしその音に上体をゆっくりと起こした。
眠っていた形跡はない。
それに扉に向けた表情には訝しんでいる様子もなかった。
むしろ期待と・・・そして微かな怖れがその視線に現れていた。
「は・・・い」
緊張にすこし痰が絡んだような声で応える。
するとその声に反応するように、小さな音を立てて扉が開いた。
扉の向うに立つ人物が、瞳に映る。
その途端、微かな不安を湛えていた表情に、弾けるような笑みが広がっていった。
まるで明りが灯るように・・・
そんな怜を、“きつね”くんは不思議な感動とともに見詰めていた。
*
「さっ、今度は伏せだよ~・・・伏せっ!う~ん、いいね。段々反応が良くなってきたよ。おいでっ、ご褒美だよ~。はいっ、そこでチンチンして」
その日“きつね”くんは自宅で寛ぎながら、“犬”の躾で遊んでいた。
「あうっ、あう、あう」
ソファに腰掛けた“きつね”くんの前で、その“犬”は両手を胸の前に添え、両足でしゃがんだ姿勢のまま嬉しそうに舌を出しながら、身体を上下に揺すっていた。
紛れも無く“きつね”くんのペットである。
しかし普通の犬よりかなり大型であることと、体毛が極端に薄いこと、そして乳房がプルンプルンと震えるほど大きいことだけが、少しだけ他の犬と違っていた。
けれども“きつね”くんは、ほんの少しだけ他の犬と違っているからといって、その“犬”を差別したりしなかった。
普通の犬同様、ちゃんと首輪をし、四つん這いで部屋の中を散歩させた。
部屋の隅には大型犬用のトイレ・トレィもちゃんと用意し、衛生にも気を使っていた。
そして必要最低限の躾も欠かさなかった。
飼主としてのモラルは充分に心得ているのだった。
今も“きつね”くんは上手に命令をこなせたペットにご褒美を与えていた。
もっともその犬が前足を上手に使って“きつね”くんのズボンとパンツを下ろし、出てきたペニスをパクッと咥えたところを見ると、餌の嗜好も多少変わっている品種と言えそうなのであるが・・・。
諒子達を無事出荷した“きつね”くんは、そのままDMCの冬休みに突入していた。
色々ハプニングもあり、まだまだ後を引いているが、とりあえず一段落っていったところだった。
張り詰めていた神経を休めるように、“きつね”くんはここ数日、ペットとノンビリと過ごしていた。
そしてソファで大股を開き、ペットの犬『絵理』の口をじっくりと堪能しているとき、つけっ放しのテレビのニュースが“きつね”くんの耳に聞こえてきたのだった。
『今年もクリスマス商戦がピークを迎えております。このデパートでも今日のイブの日をターゲットに盛大にクリスマス・セールを開催しています・・・』
(そうか・・・今日はクリスマス・イブだったっけ・・・)
ボンヤリと天井に視線を向けながら舌触りを堪能していた“きつね”くんは、そこでひとつの約束を思い出したのだった。
『一度だけで良いんです。あのっ・・・お見舞いに来てもらえませんか。できれば・・・あのぉ、ク、クリスマスの日に』
ヤクザをも一睨みで震え上がらせるような怜が、おずおずと、そして必死の思いで口にした言葉・・・
少し考えるような顔をしたのは、“きつね”くんの照れ隠しだった。
「手術は何の問題も無く終了。あとは回復を待つのみ・・・って言ってたよな」
“きつね”くんは“くらうん”の言葉を呟いていた。
その言葉に『絵理』犬は不思議そうに“きつね”くんを見上げた。
そんなペットの頭を優しく撫でると、“きつね”くんはゆっくりと腰を引いた。
「さてっ、今日はもう良いや。『絵理』犬、今日はもう小屋にお帰り」
「あう~っ、くぅ~ん」
“きつね”くんの言葉に『絵理』犬はそんなふうに鳴き声を上げ未練がましく見上げていたが、その“きつね”くんがさっさとクローゼットに消えていくと、仕方なさそうに玄関へ四つん這いで移動していったのだった。
玄関脇には脱いだままの下着や服が散らかっている。
『絵理』犬は鼻をクンクンいわせてそこから下着や服を順番に咥えては、器用に身につけていった。
そしてすべてを身に付け終わったとき、『絵理』犬は二本足で立っていた。
そしてそんな自分を不思議そうに見下ろしていたのだった。
「支度できた?」
奥から“きつね”くんがやって来た。
ラフなスエットの上下から、セータにジーンズの格好に着替えている。
そしてキョトンと“きつね”くんを見詰めている『絵理』犬の格好を軽くチェックした。
一応服は着終わっているのだが、スカートの背からシャツがはみ出していたり、ファスナが上まであがっていなかったり、靴下が下がったままだったり・・・
“きつね”くんはそんな『絵理』犬の格好を手早く直してあげてから、その額に片手を当てて落ち着いた声で語りかけたのだった。
「『絵理』犬・・・君は人なの?それとも犬なの」
「くぅ~ん・・・わ・・わたっす・・わ・・・いぬ・・・」
舌足らずな声が『絵理』犬の口から漏れた。
「そうだね、『絵理』犬。君は僕のペットの犬だね。でもね、今から僕の魔法で君を人間にしてあげる。君が憧れていた人間の生活をさせてあげるよ」
“きつね”くんはそう言って優しく『絵理』犬の頭を撫でた。
すると『絵理』犬の瞳が大きく見開かれる。そして舌をだらっと出すと、身体を上下に揺らしながら腰をプルプルと振り出した。
かなり嬉しいみたいだった。
“きつね”くんは『絵理』犬のそんな様子を目を細めて見詰めた。
「じゃ、いくよ。よく聞いて。『絵理』犬、『絵理』犬、人間になぁれ~、人間になって『絵理』になれ~」
“きつね”くんは歌うようなリズムをつけて『絵理』犬にそう言うと、その身体をクルンと一回転させた。
はずみでスカートがふわっと広がる。
慌ててそれを手で抑えた絵理は自分が人間になっていることにその時気付いた。
「うっ・・・嬉しいっ!私、人間になってるっ」
絵理は玄関に嵌め込まれている鏡に自分を映して、目を輝かせている。
そんな絵理に“きつね”くんは語り掛けた。
「絵理、よかったね。君はこれからしばらく人間界で暮らしていくんだから、家族も用意しておいたよ。すぐ隣のうちだ。君のことを奥さんだと思っている男がいる。しばらくは2人で仲良く暮らしていること」
「はいっ!ありがとうございます、飼主さまっ!私っ、上手く演技して、絶対犬だってばれないようにしますからね」
絵理はそう言うと、満面に笑みを浮べて“きつね”くんの手を握った。
「うん。そうだね、しばらく人間生活を満喫しておいで。またそのうち迎えに行くからさ」
“きつね”くんはそう言って、絵理に手を振って送り出したのだった。
「さてっと、犬の次は、狼の相手だね。しばらくぶりだから、大分濃厚なサービスでも期待できるかな」
玄関の扉を閉めると“きつね”くんはそう言って、鏡を覗き込みニンマリを微笑んだのだった。
しかし・・・
丁度その時だった。
“きつね”くんの携帯がメロディを奏で始めたのだった。
しかもその旋律は・・・、『こぎつね』
“きつね”くんは両方の眉を上げて、携帯に見入ったのだった。
「うっそぉ~っ!仕事かよっ」
今回の仕事はイレギュラー続きで、正直こんな事態も想定していたが、しかし現実に呼び出しを喰らうとやはりショックだった。
「はぁ~~いぃぃぃ・・・“きつね”くんでぇすぅ」
思いっきり気の抜けた返事で、“きつね”くんは通話ボタンを押した。
「おや、“きつね”くん。随分とへこたれてますね」
相手は案の定“くらうん”だった。
「そりゃぁ、冬休みに入って1週間もしないのに呼び出されたらこんな返事もしたくなりますよぉ」
“きつね”くんは溜息混じりにそういった。
「おやおや。お気の毒に。で、誰に呼び出されたんですか」
「誰って・・・“くらうん”さんでしょっ」
しれっとした“くらうん”の言い方に“きつね”くんはちょっと声を荒げた。
「私ですか?いいえ、別に呼び出したりしませんよ。ちょっとした報告がありましたので電話したんですけどねぇ」
その“くらうん”の声に“きつね”くんの表情がパッと明るくなった。
どうやらこの寒い中、出掛けなくて済みそうなのだ。
「じつはですねぇ・・・」
一転して上機嫌になった“きつね”くんは、“くらうん”の話に耳を傾けていたのだったが、やがてその内容が明らかになるにしたがって、目が真ん丸になっていった。
「へっ?お払い箱ぉ・・・?」
“きつね”くんは携帯を耳にあてたまま、珍しく言葉が出て来なかった。
「えぇ、そうです。ついさっきクライアントから正式な通知が有りましたから」
「それって・・・やっぱ、俺の所為っすか?・・・怜が・・・戻されるなんて」
予想もしていなかった事態に、“きつね”くんの声が沈んだ。
「いえいえ。そういう訳じゃぁありませんよ。あの事件はキッカケでは有りましたが、どちらかと言うと私のミスです」
“くらうん”は淡々と続けた。
「前にもお話しましたが、あの怜のクライアントって少しけち臭い男なんですよ。今回の件も怜の入院は別に構わないが、およそ1ヶ月ものあいだ対応できないなら当然違約金の還付があって然るべきだと、そう言ってきたんですよ。私のほうは、なんとか回復後の対応日数を調整して埋め合わせにしたかったんですが、なかなか譲らなくって。それで仕方なく私の方で代案を出したんですよ」
“きつね”くんは、なにやら良く判らない話になってきたなぁと思いながら聞いていた。
「でね、結局怜のいない間は代わりの者を派遣して埋め合わせ、怜が復帰後は更に日数を調整して迷惑分を相殺することにしたんです」
「ふぅん。そうっすか、ま、良いんじゃないんですか、相手が納得したんなら。で、誰が代打を引き受けたんですか」
何気ない“きつね”くんの問い掛けに、“くらうん”はちょっとキマリ悪そうに答えた。
「それがですね・・・たまたまこの時期、暇そうだったんで、あの・・・立花さんをあてがったんですよぉ」
“くらうん”のその答えに、“きつね”くんは一瞬誰のことか判らなかった。
「立花?えっとぉ、立花って・・・。えっ!!それって、立花課長ぉ?“ぶーこ”のことぉ」
“きつね”くんは思わず携帯をマジマジと見詰めてしまった。
「“ぶーこ”?あぁ・・・そう呼んでましたね、貴方達は。そうです。その立花課長ですよ」
「でも・・・ドールじゃないじゃん」
“きつね”くんは尤もな疑問を口にした。
「えぇ、ま、そうなんですけどねぇ。ただ、今ちょうど手持ちのドールをきらしてまして・・・。とりあえず1、2ヶ月の代打だし、週1くらいのペースですからね。ちょっとした息抜きって思って、“くま”さんに軽~くお願いしたんですよ。ところが・・・」
“くらうん”の話を要約すると、こういうことだった。
“くま”の即席暗示で神田孝一郎の別宅へ通うよう指示された立花智子課長は、最初のうちは難なくドールの役割をこなしていたのだった。孝一郎も怜とは全く違ったタイプの熟女が新鮮だったようで何の文句も無かった。
しかし昨日になってちょっとしたハプニングが起きたのだった。
夕方、指定された時間に別宅を訪れた立花課長だったが、この日はまだ孝一郎が戻っていなかったのだ。
それで、仕方なく渡されていた鍵で先に部屋に入ったのだが、手持ち無沙汰だった立花課長は、孝一郎が帰宅するまでの間、気を利かせて部屋の片付けを始めたのだった。
根が几帳面な経理の鬼は、雑然とした部屋に我慢できなかったのである。
そして机の中の書類を整理していた時に、発見してしまったのだった・・・孝一郎の裏帳簿を。
元々DMCの裏帳簿係としてヘッドハンティングされて来た立花課長のこと、一目でその内容を理解した。
そして帰宅した孝一郎にドールとして身体の奉仕をしながら、ついその帳簿のことを口にしてしまったのだった。
「も、びっくりですよ。昨日の晩に急に私のところに電話を掛けてきたと思うと、『この女を俺にくれっ。怜はもう要らんっ!トレードを希望するっ』て」
「それって・・・もしかして、ドールっていうよりは・・・」
“きつね”くんは、まるで頭痛でもしているように顔を歪めて言った。
「そ。裏金庫を任せられる大番頭を見つけたってことです。ま、立花課長ほどの手腕を持つ人はなかなかいませんからねぇ。神田さんの興奮も判りますけどね」
“くらうん”も会社経営者として裏帳簿の難しさを心得ているので、孝一郎の気持ちが判るのだろう。
「でも・・・ウチは大丈夫なんですか、“ぶーこ”が居なくて」
「いや、そりゃ勿論大打撃ですよ。それで断わることを前提に、今朝一応立花課長と私ら経営陣とで調整をしたんですよ。ところが、女史曰く『あんなの眠ってても管理できるわ』って、も自信満々なんですよ。ま、そういう事なら、クライアントも望んでいることですから、立花課長には週1日の出張扱いで神田さんのドール兼大番頭としての仕事を続けて貰おうという事にしました」
“くらうん”は淡々と説明を終えた。
「それで・・・怜がお払い箱って訳ですか」
“きつね”くんの声には、知らず戸惑いと憤りが滲んでいた。
「まあ、“きつね”くんがせっかく心血を注いで完成させたドールですからね。たった3ヶ月でチェンジっていうのに納得いかないでしょうが、これもお仕事ですよ。何事もお客様第一でいきませんとね」
“くらうん”は軽く諌めるように言った。
「えっ?あぁ・・・そうっすね。確かに俺の努力はもう金に換算されて受け取ってるんだから、文句を言う筋合いじゃないですね。済みませんでした」
“きつね”くんはそう言って、あっさりと引き下がった。
プロとしての自覚は持っているのだ。
「それで・・・怜はどうするんですか、こういった場合」
代わりに“きつね”くんは、このちょっとイレギュラなシチュエーションの対応を訊いた。
「今回に限らず普通クライアントから戻されたドールには、2つの選択肢があります。ひとつは記憶を封印して元の生活に戻すというものと、もうひとつは下取り市場に流すというものです」
“くらうん”は教師のように丁寧に答えた。
「下取りっすか。どれくらいになるんです?」
「新品の半額、つまり1千万です。人気が有る場合は競りになることもありますよ。怜さんが出れば間違いなく競りでしょう。もし出れば・・・ですが」
“くらうん”は最後にちょっと気になる言い方をした。
無論“きつね”くんは、すぐにその微妙なニュアンスに反応した。
「『もし出れば』?どういうことです?出さないんですか?」
「えぇ。残念ながら、彼女の場合は駄目です」
“くらうん”はあっさりと言った。
「彼女の場合、ちょっとお仕事の方面が優秀過ぎるっていうか、目立ち過ぎなんですよ。彼女を競りにかけると、おそらく“ドールとしての怜”ではなく、“女刑事としての怜”に価値を見出す人が出てきちゃいそうなんです。でも・・・これは拙いんですよね。ウチのお得意さんには今回のように警察官僚もいれば、反対に警察を目の敵にしてる人もいましてね、そういった反警察の人に“女刑事、怜”を売ってしまうと、警察側のお客様のご迷惑になってしまうんですよ」
「あぁ、なるほど。今回はクライアントが警察官僚だったから、怜をドールに出来たんだ」
「そういうことです」
“くらうん”は深く頷いた。
「って言うことは、怜は記憶を封印して、元の生活に戻すしかないんだ・・・」
“きつね”くんは、独り言を呟くように言った。
「ふふふっ。残念そうですね、“きつね”くん。手塩にかけたドールを封印してしまうのは、やっぱり気が進まないようですね」
電話の向うで“くらうん”がチェシャ猫のようにニヤついている様子が目に浮かぶようだった。
「いえ。ルールには従うだけです。キッチリと封印しますよ」
“きつね”くんは努めてクールに言い切った。
しかしその言葉を待っていたように、“くらうん”は言葉を続けた。
「あぁ・・・そうそう、ひとつ忘れてました。もうひとつだけ、選択肢がありましたよ。ふふふ」
そう言って、“くらうん”は意地悪そうにそこで言葉を切った。
思わず耳をそば立てていた“きつね”くんは、その“間”に苛ついた。
すっかり“くらうん”のペースに嵌ってしまっている。
「ちょっと、なんスかぁ、いったい・・・」
そして待ちきれずに“きつね”くんが思わず文句を言いかけると、まるでそのタイミングを待っていたかのように“くらうん”は口を開いたのだった。
「あなたですよ、“きつね”くん。貴方が買っても良いんですよ。貴方の個人ドールに如何ですかねぇ。社員割引で更に半額の500万で良いんですよ」
「お、俺っすかぁ」
“きつね”くんはそう呟くと、ビックリしたような表情で携帯を見詰めたのだった。
*
「ご主人様!有難うございますっ!ホントに来て頂けたんですね」
怜はもどかしげにベッドから足を下ろしながら、“きつね”くんに言った。
一方“きつね”くんは、それまで入院はおろか知人の見舞いにも行った事が無かったため、怜の病室を物珍しげに眺めながら足を踏み入れた。
「へぇ・・・、意外と広いんだ病室って」
怜の病室は、ベッドこそ移動可能なように出来ている機能的なものだったが、見舞い客用なのかソファとテーブルがちゃんと用意されていて、ちょっとしたホテル並みだった。
そしてそのテーブルの上や窓際の棚の上には、びっしりと花瓶が並び色とりどりの花が咲き乱れていた。
花屋か、ここは・・・
見舞いで訪れた友人や同僚達は皆そう言いながら、でも自分が持ってきた花もしっかりと花瓶に挿して帰っていったのだった。
怜は、そうやって部屋をキョロキョロと見回している“きつね”くんをじっと見詰めていたが、もうそれだけで胸が一杯になった。
今日の“きつね”くんは、DMCで見かける時のようなラフな格好ではなく、仕立ての良さそうなスーツ姿で、右手にはカシミアのコートを掛けていた。
まるで、デートでもするように・・・
(私のお見舞いの為に、こんな格好をしてくれたというの?ご主人様・・・)
そう思うと、不覚にも怜は目頭が熱くなった。
しかし、怜はそれを反射的に隠した。
昔から人に涙を見せるのは抵抗があった。そして、それがご主人様であればなおさらだった。
瞬きをして目を乾かし、何が違うことを話して気持ちを切り替えようとした。
しかし、そう思って怜が口を開く前に、“きつね”くんが喋りだした。
「すっごい花の量だね。みんなお見舞い客が持ってきたの?」
「えっ、はい、そうです」
「ふぅ~ん・・・。ふふふ、でも、みんな、まだまだだね。僕なんか、きっとこんなことだろうと思ってさ、こっちを買ってきたんだ」
“きつね”くんはそう言うと、片手に持っていた袋をテーブルに置き、中から“それ”を取り出したのだった。
しかし、怜はそれを見て目を丸くした。
「それって・・・鉢植え・・・ですね」
「うん、そうっ。花束を買おうと思って今日花屋に行ったら、こればっかし売っててさ。なんか葉っぱみたいな変な花だったから多分セールで売ってたんだと思うけど。で、ちょっと考えたら、花瓶が有るか判らないじゃない、病院て。だからこれ丁度良いなって」
“きつね”くんは、得意そうに鉢植えのポインセチアを抱えながらそう言った。
怜はそんな“きつね”くんの表情をマジマジと見詰め、そしてプッと噴き出してしまった。
「あれ?なになに?何か変だった?」
“きつね”くんはきょとんとした顔で苦しそうに笑いを堪えている怜を見た。
「いっ、いいえっ。ぷっ!くくくっ・・・。あ、あのっ、嬉しいですっ。ホントにっ」
怜は、片手で口を押さえながら、ベッドからヒョイッと立ち上がると、そんな“きつね”くんへ向った。
まだ左足に巻かれた包帯は取れていない。無論痛みもある。
しかし怜はその程度のことはまるで意に介さずに足を運んだ。
そして不思議そうな顔で鉢を抱えている“きつね”くんの手にそっと自分の手を重ねた。
「有難うございます。私の宝物です」
そう言って真っ直ぐな曇りの無い視線で見詰める怜・・・
“きつね”くんは、不意に胸の内に細波が立つのを感じた。
(これが・・・これが怜の本当の怖さか・・・。あの“ぱんだ”を狂わせた、女そのものの魔力なのか)
男であれば誰しも引き寄せられてしまう・・・まるでローレライの歌のような磁力が、今最大の力で“きつね”くんを絡め取ろうとしていた。
そして“きつね”くんは、そんな怜の無意識の媚態を静かな視線で受け止めていた。
二人の視線が宙で絡み合う。
しかし、“きつね”くんは小さく微笑むとその磁場からするりと抜け出した。
そして怜の手にポインセチアを預けると、自然に視線を外して窓辺へ歩み寄った。
冬の雲ひとつ無い夜空に満月が煌々と光を放っていた。
カーテンを開けその月を見詰める“きつね”くんの横顔を、怜は見詰めた。
若く張りのある頬に月の光が降り注ぎ、神秘的な視線は何処か遠くを見ていた。
口もとには先ほどの笑みの名残りがあり、優しく閉じられている。
しかし・・・
不意に怜の背に冷たい波動が走り抜けた。
(なにか・・・何か言おうとしている。なにか・・・とても辛いことを)
それは、予感などではなかった。
そんな不確かな、曖昧なものでは決してなかった。
怜の胸に宿ったそれは、まるで拳銃の弾を打ち込まれたような、間違いようの無い現実感そのものだった。
「怜・・・」
外を見ながら“きつね”くんは口を開いた。
しかし怜は咄嗟に視線を外した。
そしてわざと受け取った鉢植えを音を立てテーブルへ置き、綺麗なラッピングを外し始めた。
「もう~っ、“きつね”さまっ。やっぱりちょっと覚えていた方がいいですわ。病院に鉢植えって厳禁なんですよ。はら、病室に『根付く』ってとられて縁起がわるいんですからっ」
“きつね”くんは怜のその言葉に振り返り、まるで拒絶するように背を見せている怜を静かに見詰めた。
「あっ、そうそう、“きつね”さま、何か飲まれますよね?コーヒーをお入れしましょうか、紅茶が良いかしら。ふふふっ、病院には内緒だけどお酒も少しなら有るんですよ」
そう言って備え付けの冷蔵庫へ行こうとする背中に“きつね”くんは再び声を掛けた。
「怜・・・」
静かなその声に、怜の背中がピクンと反応する。
しかし、それでも怜は振り向かなかった。
「お・・・お腹が空かれてるなら・・・ケ、ケーキも」
語尾を震わせながらもそう言い掛ける怜に“きつね”くんはゆっくりと近づきそして後から怜の肩に手を添えた。
「怜」
三度(みたび)“きつね”くんの声が掛かる。
しかし怜は頭(かぶり)をふった。
「なにも・・・何も言わないで・・・ください。何も・・・聞きたくない」
まるで幼子のように震えながら、でも精一杯の拒絶を表した怜の背中・・・
再び“きつね”くんの胸に先ほどの細波が湧き上がる。
しかし、自らのなかで疾うに出ている結論をここで変えるような“きつね”くんではなかった。
小さくひとつ息を吐くと、口を開いた。
「怜。今夜、君を解放する・・・。君の記憶を封印する」
*
「えっ・・・。本気ですか?」
“くらうん”の驚いた声が携帯から聞こえて来た。
「ええ。本気ですよ。怜は開放です。俺は買い取りません」
“きつね”くんは結論を繰り返した。
“くらうん”が連絡してきてから3時間後のことだった。
「そう・・・なんですかぁ。なんだかちょっと勿体無いような・・・」
その言葉どおり“くらうん”は未練たっぷりな口調でそう言った。
“きつね”くんが買い取れば、“くらうん”もまたご相伴に預かることもあると踏んでいたのだろう。
「と言われましても・・・俺にも色々都合がありまして。今はまだ・・・」
“きつね”くんのこの答えに、“くらうん”はパッと光明を見つけたような声を出した。
「おやっ?100%買わないって訳じゃあないんですね」
“くらうん”のその嬉しそうな声に、携帯を耳に当てたまま“きつね”くんは苦笑した。
「えぇ、そうっすね。100%じゃあ無いっすけど。・・・でも、ま普通有り得ないと思うし」
“きつね”くんはそう言って語尾を濁した。
「はぁ。何だか良く判りませんが、でもとりあえず了解しました。それじゃぁ怜にはクロージングの処置をお願いしますね。あと、判ってるとは思いますが、中途半端は駄目ですよ。しっかりと閉めといて下さいね。こういったところが緩いと、我々の首を締める事になりますからね」
“くらうん”は気持ちを切り替えるように少し事務的な口調になってそう言った。
「えぇ。判ってますって。緩いと、意味ないし・・・。今晩ちょっと行って、クローズしときます」
「ん?何です、『意味ない』って?」
“きつね”くんの何気ないセリフに“くらうん”が問い掛けた。
「いえ、別に。字義どおりの意味です。ま、キッチリ閉めますから安心してください」
“きつね”くんはこう言って携帯を閉じたのだった。
*
病室の中は静まり返っていた。
“きつね”くんの言葉が怜の耳に届いた瞬間から、室内の時が止まった。
まるで人形にされてしまったかのように、ふたりの影は動かなかった。
しかし・・・
いったいどれくらいの時間が経ったのだろうか。
やがてひとつの影がゆっくりと動き出し、後を振り向いたのだった。
「聞けません。・・・それだけは」
怜は小さく微笑みながらそう口にした。
「どんな事でもします。ご主人様のご命令なら、人を殺したっていい。友達も、仲間も、恩人も・・・みんな裏切ります。私の身体が壊れる事だって、全然構わない。何も後悔しません。・・・死んだって・・・良いんです」
怜は静かに、囁くようにそう口にした。
「でも・・・ご主人様を忘れることだけは・・・聞けません。それだけは・・・絶対に」
“きつね”くんの施した暗示ではなく、築き上げたラポールが怜にそう言わせていた。
磐石に築き上げただけに、その牙城を切り崩すのは例え“きつね”くん自身であっても容易いことではなかった。
しかし、“きつね”くんは表情を変えなかった。
「怜、これはもう決まったことなんだ。僕のドールは、僕の言葉に従えばいい」
あえて突き放すように“きつね”くんは言い切った。
その感情を込めない言葉に、怜の胸は切り裂かれた。
唇を噛んで見上げるその瞳から、涙がゆっくりと頬を伝っていった。
「殺して・・・いただけませんか、ご主人様。・・・心が死ぬ前に」
その言葉、そしてその視線・・・
“きつね”くんは、自らの心理防御を突き破られる経験を今月だけで2度もすることになった。
しかし、“きつね”くんは逃げなかった。
逃げずに心を切り裂かれる痛みを、まるで噛みしめるように味わっていた。
まるで、怜にはそれだけの価値があるとでもいうように・・・
そして、“きつね”くんは続けた。怜の頬に手を添え、流れ落ちる涙を指で受け止めながら・・・
「嫌いなんだ。女々しい奴って・・・」
「女々しいですか・・・私・・・」
怜は生まれてから一度も言われたことが無いことを言われ、戸惑った。
「あぁ。も、女のエッセンスの凝縮って感じ。全く俺の趣味じゃないね」
“きつね”くんの口から酷い言葉がポンポンと飛び出した。
しかし怜は、何故か違和感を感じていた。
まるで“きつね”くんが言いたい事が他に有るように思えた。
(何ですか、ご主人様・・・いったい何を、仰りたいんですか)
怜に拒絶の言葉を浴びせながら、“きつね”くんは酷くもどかしい表情をしていた。
「全く期待はずれだよっ。こんな怜だったら最初から欲しくなかったさっ」
(『こんな怜なら・・・』、こんな私・・・って?涙を流したり、ご主人様に縋ったり?これはご主人様が私に期待してたことじゃないんだわ。期待されていた事、『最初』は私に期待してたことって・・・)
その時、怜の脳裏に最初の出会いのシーンが蘇った。
『貴っ様も、こいつの仲間か~っ!!』
DMCの廊下で燃え上がるような怒りを“きつね”くんに叩きつけていたあの情景が、そしてあの憤怒が蘇った。
あの時の自分にあり今の自分が無くしていたもの・・・それは
怜の目が見開かれた。
理解したのだ・・・“きつね”くんが求めていたものを。
そして今、自分が何をしなければいけないかを。
(でも、出来るのかっ、そんなことをこの私がっ)
正直なところ、怜は全く自信が無かった。
けれども、それがご主人様が求めているものであれば、もう道はそれしかなかった。
そして、腹は決まった。
怜に向けて罵詈雑言を投げつけている“きつね”くんに向って、怜はキッと見詰め返したのだった。
「女々しいですって?この私をっ!」
燃えるような瞳が復活していた。
その突然の変化を、“きつね”くんはまるで奇蹟を見るように見詰めていた。
(もう、後には引けない・・・。必ず、突破してみせる。それを待っていてくれるんですよね、ご主人様っ)
怜は胸の内でそう呟くと、まるで射抜くような視線で“きつね”くんを見返したのだった。
「怜・・・僕に、反抗するのか」
“きつね”くんは厳しい視線で怜を見据えた。
しかし、厳しくはあっても、もどかしさは消えていた。
「聞けないものは、聞けない。引けないものは、引けない」
怜は言い切った。
最早迷いは無かった。
ふたりの視線は再び宙で交わった。
しかしそれは先ほどの甘い視線の交流ではなかった。
“気”と“気”がぶつかる激しい、けれどもとても懐かしい、魂の対峙だった。
そしてそんな怜を相手に、“きつね”くんは不意に微笑んだ。
ニッと片頬で笑顔を作ったのだ。
「生意気だね、この僕を相手に。でも・・・怜らしいけど」
そして笑みを隠すように一瞬俯いた後、“きつね”くんはある提案をしたのだった。
静かな病室に”きつね”くんの声だけが、まるで波の調べのように漂いそして消えていった。
そして怜は、その言葉の一つ一つをまるで宝物のようにその胸に刻みつけていったのだった。
「どお?」
語り終わった“きつね”くんは、まるでお茶でも誘うように気軽に問い掛けた。
そして、それに怜も答えた、まるで挨拶でも返すように。
「お受けいたしますわ、“きつね”さま」
しかし、その口調とは裏腹に、怜の視線はまるで“きつね”くんを居抜くように真っ直ぐに当てられていた。
狼の誇りを湛えた熱い視線を蘇らせて・・・
そんな怜をじっと見詰め返していた“きつね”くんは、やがて片手を胸に当てると深々と一礼をしたのだった。
*
その夜、怜はふと目を覚ました。
何か・・・ノックの音がしたような気がしたのだった。
ベッドの上で上体を起こし、視線をドアに当てた。
しかし人の気配は無かった。
(夢・・・かな)
怜は軽く息を吐くとそのままもう一度布団に潜り込もうとした。
しかし掛け布団を引っ張り上げる左手に何気なく当てた視線が、何か違和感を感じた。
掌で一瞬、何かがキラリと反射した気がしたのだ。
「ん?」
怜は改めて左手の掌を見詰めた。
しかし、もうそこには何も無かった。
(おかしいなぁ。何だろう・・・なにか数字のような形に光って見えたんだけど)
訝しげな表情の怜は無意識に片手を頬にあて、そして今度こそ本当に驚いた顔でその掌を見詰めたのだった。
指先に感じた湿り気・・・
「何っ・・・私っ、どうしたって言うの。どうして私、泣いてるのよっ」
月の光に照らされた指先は、間違いなく濡れていた。
怜は慌てて袖で涙を拭った。
「何よ、どうして涙が出てる訳?薬の副作用かしら」
自分の胸の内を探っても、泣けるようなネタは何もなかった。
「まいるなぁ。『夜中に泣けちゃってぇ』なんて言ったら、先生に大笑いされちゃうわ。ましてウチの同僚達に知られでもしたら、向こう10年くらいネタにされちゃうわね」
怜はその様子を想像して、ぷっと吹き出した。
そして今度こそ違和感に邪魔されることなく布団にもぐりこんだのだった。
間もなく健康そうな寝息が聞こえてきた。
月明りに照らされた室内で、怜は意外なほど無垢な寝顔で眠りについたのだった。
しかし、怜は決して気付くことは無かった。
その左手がきゅっと握り締められ、そして右手はその左手を守るように添えられていることに。
それはまるで掌に大切な宝物を握り締めているようだった。
絶対に無くしたくない、大切な大切な宝物を・・・
< つづく >