ドールメイカー・カンパニー3 第2幕(1)

(1)サルベージ

 白神は目の前で繰り広げられる実験の進行を静かに見守っていた。

 マジックミラー越しに見える部屋は、実験室というより保健室といった方が近い内装である。
 そして白い清潔そうなシーツが敷かれた堅そうなベッドに被験者である女が腰掛けていた。
 更に女に向かい合うように白衣の男が背もたれもない丸い簡素な椅子に腰掛け、ゆったりしたペースで女に語りかけている。
 これが催眠術師だった。

「如何です?先ほどの統計値で効果は実証されてますが、実際の様子を見るのもまた違ったインパクトがあるものでしょ」

 白神の背後から自慢げな男の声が掛かる。
 しかし白神は振り向きもせずに、その催眠術者の姿を見つめていた。

 初老のその男はこの世界では知られた催眠術者なのである。
 テレビなどへの露出こそ多くはないのだが、催眠技能に関する著作も多く、また実際に催眠誘導を行った経験についても群を抜いていた。
 そして今その男の前に腰掛けている被験者は、その男のアシスタントとして既に10年も協力している女だった。
 ラポールは完全に出来上がっている。
 そして後催眠暗示も既に刷り込み済みだった筈なのである。
 けれど今、白神の目の前でその催眠術師は途方に暮れた表情で首を左右に小さく振っていたのだ。
『どうでしょうか?もう一度試行されますか?』

 背後の男がマイクに語りかけると、その声が目の前の部屋から響いてくる。
 すると中にいる催眠術者は、天井に据え付けられたスピーカを見上げて言葉を返した。

『いや、もうやめときましょう。無理です。佐々木さんに催眠誘導はできませんでした。これが結論です』

「今の実験が抗催眠試薬のうち阻害薬の効果を示しています。北野先生にはもうずいぶん協力していただいているんですが、従来の薬ではとても太刀打ちできませんでした。それが第3世代になって漸くお見せできるレベルに到達したということです」

 先ほど白神の背後から声を掛けた男である。
 スーツの上に白衣を着込み、如何にも自信家の学者然とした雰囲気を漂わせている。
 今は人当たりのいい笑顔だが、研究室では暴君なのだろうと白神には容易に想像できた。
 もっともそうでなければ最先端の研究などできる訳がないというのも白神の認識である。
 実験終了後、白神はその研究主任、雪野を引き連れ応接室に移動していた。

「興味深い実験でしたね。確かにあの催眠術者のレベルには十分な効果を挙げているように見えます」

 コーヒーを片手に資料に目を落としながら、白神は言った。
 しかしそれは単なる感想であり、雪野が期待していたような賛辞とはほど遠いものだった。

「“あの催眠術者のレベル”と仰いましたか?しかしですね、北野先生は最高レベルのっ」
「一般には・・・ですね?」

 雪野の言葉を白神は遮る。
 そして言葉を飲み込んだ雪野は、すぐに言わんとすることを理解した。

「別に北野先生のレベルでなければ阻害薬の効果が表れないという訳ではないです。理論に間違いはないんです。単に、ウチの協力者の中に北野先生以上の人がいないというだけですよっ」

 プライドを傷つけられた口調で雪野は捲し立てる。
 無論、そのことは白神にも判っていた。
 現状ではこれ以上の実験は望めないだろう。
 しかし、それでは実戦に投入する訳にはいかない。
 相手は『マインド・サーカス』なる異能集団なのである。
 もしも通用しなければ、白神達の組織に回復不可能なダメージを与えかねない。
 抗催眠試薬のうち覚醒薬については蘭子の暗示を解除できたという実績が全てを物語っている。
 漸く実戦レベルになってきたという思いが白神の胸にもあった。
 そして、そこに来たのが新たに阻害薬を完成したとの報である。
 白神は大いなる期待を持って、こうしてデモンストレーションに足を運んだのだ。
 この二つが本当に効力を発揮するのであれば、これ以上ない強力な武器となる。

 けれど実験を見たところ、正直まだ覚醒薬と同じレベルに達しているとは思えなかった。
 魅力は大いにあるのだが、時期尚早というのが結論である。

「雪野さんの研究開発はウチにとって大きな価値をもっています。大変期待しているんですよ。ただ臨床実験はまだ続ける必要が有るでしょう。催眠導入にはいろんなパターンがありますから、なにも北野先生をクリアしたからそれでお仕舞いということでもないでしょう。先ずはしっかりと足下を固めてですね・・・」

 言葉を選びながら話す白神を、雪野はしかし遮った。

「蘭子を試させてくださいっ」

 そして睨みつけるように体を乗り出して再び繰り返した。

「蘭子を私の実験に参加させてくださいっ。覚醒薬の時だって白神さんは信じていませんでしたよねっ?あの遠藤香を実験に参加させられたのも、たまたまウチにツテがあって直接本人の了解を得られたからでしょっ!でも成功したじゃないですかっ、蘭子の大失敗を報告させられたでしょっ!もう少し信頼してくださいよっ」

 雪野は顔を紅潮させて白神に詰め寄った。
 そして白神はそんな相手をじっと見詰め返していた。

 この抗催眠試薬と蘭子の催眠を改めて天秤に掛けたとき、果たしてどちらが優勢なのだろうかと考えながら。

 脳裏に浮かぶのはあの『魔眼』である。
 直属の上司である白神は、その魔力とも言うべき力を見せつけられている。
 過去に掛けた暗示を解くのとは訳が違うのだ。
 今の白神には結果はもう予想がつく気がした。
 だから、敢えて白神はこの段階の試薬に蘭子をぶつけようとは思わなかったのだ。

「残念ながら蘭子は長期休暇中だ」
「連絡くらいつくでしょっ」
「いや・・・それが、そうでもない」
「そ・・・そうでもない?」

 白神の意外な答えに雪野はとまどった。
 この組織に居て、連絡がとれないなどという事態が発生するとは考えても居なかった。
 休暇であろうがなかろうか、そんなことは関係ないのだ。

「ど、どういう事です?失踪?」
「いや、少しばかり臍を曲げてるだけだと思うが・・・。定期連絡が無いんでね」

 白神のその言葉で雪野は漸く事態を悟った。

「はっ、ふて腐れて雲隠れですか?ったく、仕事をいったい何だと思っているんだかっ!」

 吐き捨てるように呟いた雪野は、もう一度白神に向き直った。

「お願いしますっ、蘭子をこの実験に参加させてください。ほんの・・そう、ほんの1時間でいいっ。勿論、白神さんの手は煩わせません。もし、許可願えるのなら、我々で蘭子をサルベージしますよ。その上で第4室に出頭させますからっ」
「君らで?人手はあるのかい?」

 意外な申し出に思わず白神は聞き返してしまった。
 ここは第2室の管理下の研究施設であり、配置される要員は殆どが研究者なのだ。
 実働部隊も無論いないことは無いだろうが、外部の索敵に割ける要員がいるとも思えなかった。
 けれど白神のその問いを都合よく『許可』の意味にとった雪野は、ニンマリと微笑み、ゆっくりと頷いたのだ。

「居りますとも。それもすこぶる優秀な『準A』クラスのエージェントがね」

 そして白神が言葉を挟む前に、テーブルのインターホンを取り館内へ呼び出しを掛ける。
 するとまるで扉の外で待機していたようなタイミングでドアがノックされたのだった。

「お呼びでしょうか、雪野主任?」

 入ってきたのは、1人の女性だった。
 均整のとれた体つきであり決して華奢ではないのだが、警務上がりの猛者を予想していた白神は肩すかしをくらったような印象をもった。
 姿勢良く敬礼した後、2人に近づいてくる。
 ショートカットの髪に秀でた額、そしてメタルフレームの眼鏡越しにジッと見詰める瞳が特徴の理知的な女性だった。

「ウチのホープですよ。前回の試験で準A資格を取得しています」

 雪野主任はその女をそう紹介した。

「初めまして。雪野美咲といいます。主人がお世話になっております」

 女はそういって白神に深くお辞儀をする。
 白神はそれで漸くこのエージェントが、研究主任の雪野の妻であることを知った。

「あぁ、奥様ですか。初めまして、白神です。思い出しましたよ、今期の試験で昇格した4名のうち最年少の方ですよね」

 白神は右手を差し出して笑顔を向けた。
 美咲はその手を軽く握ると、小さく微笑んだ。

「ホントは昨年受けてもよかったのですけど、上の方でまだチャレンジしてる人が居ましたのでお譲りしたんですの」

 色白で綺麗な顔立ちをしているのに、その言葉には強烈な自負が伺える。
 白神をまっすぐに見据える視線も全く揺るがない。
 プライドの固まりのような女なのだろう。

「それで、何かお仕事でしょうか?」

 美咲は夫と白神を交互に見ながら訊く。
 そしてそれに答えたのは、夫の方だった。

「蘭子を知ってるな?サルベージしてきてもらいたい。先ずはウチに連れてくるんだ。実験終了後、4室に送り届ける」

 簡潔な言葉に、美咲は小さく頷いた。

「“蘭子”って、あの催眠術師ですよね?北野センセは休暇でも取られるのかしら」
「いや、他のパターンも実験に取り入れた方が良いって白神さんからアドバイスがあってね」
「ふ~ん、それはごもっともですわね。でもサルベージっていうのは?また何か失敗をやらかしちゃったの、あの人」

 棘のある言葉を無遠慮に口にして、美咲は夫に訊く。
 そして経緯を聞かされると、軽く肩を竦めて頷いた。

「そういうことですの。了解いたしました。雪野美咲、催眠術師“蘭子”のサルベージ任務に就きます」

 踵をカツンとぶつけ美咲は白神に再び敬礼する。
 なし崩し的に話を進められた白神は、しかし結局この2人に任すことにした。
 現在のレベルの阻害薬で蘭子に対抗できるとは思っていないが、それでも明白にその結果を示さなければこの2人は納得しないだろう。
 覚醒薬の時と同様、その屈辱感をバネにして貰った方が研究の進み方が違うだろうというのが白神の読みなのである。
 そして美咲に答礼しながら、白神はこの気の強い女エージェントを面白そうに観察した。
 蘭子がSクラス・エージェントであることを知っていながら、わざと『催眠術師』とだけ呼んでいるのだ。
 夫の商売敵である『蘭子』は、美咲にとってもかなり気に入らない存在のようだった。
 見たところ年齢も蘭子とさほど違わないようだし、それでいて片やSクラスとして名を轟かせている。
 美咲のようなタイプには我慢できない状況なのだろう。

「蘭子の立ち回り先について、何かお心当たりはございますかっ?」

 白神のその視線の意味に感づいたように、美咲は少しだけ気色ばんで語気を強めた。

「えっ、あぁ・・・そうですね、たぶん前回の作戦に関連してると思うのですが」

 少し慌てたように白神は口にする。

「前回・・というと、例の大失敗したあの事案ですね?判りました。そのお考えが当たっているならすぐに見つけ出せると思いますわ。もっとも、素直に同行して貰えるかはあやしいモンですけどね」
 美咲はツンと顔を背けてそう言った。
 しかし白神もその意見には全面的に賛成だった。

「確かにそのとおりでしょう。あれもかなり意地っ張りですから、ごねるようなら私に連絡をください」
「あら、ご心配は無用です。一旦引き受けたからには最後まで私が責任を負いますので。ちゃんと四室まで連行・・あ、いえ、お連れいたしますわ」

 美咲はそう言って婉然と笑った。

「さぁて、上手いこと運んだじゃないか」

 自らの研究室に引き揚げた雪野は、どっかりと椅子に腰を下ろすと美咲にニヤッと笑いかけた。
 この研究所は第2室の管理となっていたが、雪野の研究費は白神の第4室が殆どを占めていた。
 今日の実験は、だからメインスポンサーへのデモンストレーションなのだった。
 十分にリラックスして臨んだつもりだったが、それでも白神が辞去すると体から力が抜けた。

「ホント、上出来だわ。なんせ、あの蘭子をサルベージするチャンスが来るなんてねっ」

 腰に手を当てて雪野を見下ろしながら、美咲は口の端を上げた。
 サルベージとは即ち任務の正常遂行が困難な場合に、その担当者の強制収容を行うことを指す。
 今回の場合、任務遂行途中ではないのだが、定期連絡を怠り4室長に居場所を通知しなかったことが収容理由だった。
 この指示が下った場合、収容される者の意志は考慮されない。
 サルベージに向かう者が全ての意志決定を行うことができるのである。
 つまり準Aクラスの美咲が、Sクラスの蘭子に命令できるのだ。

 無論、あの蘭子がそれで素直に収容されるとは考えられない。
 寧ろ格下の美咲に命令されて、益々意固地になるだろう。
 しかし、それこそが美咲の狙い所でもあった。
 正当な権限の下に蘭子をねじ伏せることができるチャンスなのである。

「自信ありって顔だね?」

 雪野は美咲の表情を満足げに見返す。

「貴方の試薬次第よ。あの女の催眠さえ無効化できれば私に負ける要因は無いんだから。作戦立案も実行力も、悪いけど比べものにもならないわっ」

 白神の睨んだとおり、強烈な自負である。
 しかしそれは何も美咲に限ったことでは無かった。

「だったら、もうゲーム・オーバと同じだな。残念ながら俺の覚醒薬は実証済みだ。それに阻害薬にしても理論どおりの性質を備えている。この二つが有ればもうあの女の催眠など何の役にもたたねぇっ。二度と俺の前で嘗めた口は利かせねぇっ」

 以前の公開実験で蘭子に笑いものにされた屈辱を蘇らせ、雪野は顔を紅潮させて断言した。
 美咲はそんな夫を頼もしそうに見詰める。
 牙のない負け犬のような男は、美咲のもっとも嫌悪するタイプである。
 蘭子に負けっ放しで尻尾を巻くようなら離婚だと内心思っていたのだ。
 しかし雪野はあの公開実験の日から、狂気に駆られたように研究に没頭した。
 己の受けた屈辱は必ず晴らすとばかりに、只管試薬の開発にのめり込んだのだ。
 そして遂にその薬が完成したという。
 美咲は夫の顔を両手で挟み上を向かせると、そっとくちづけした。

「楽しみだわ。催眠が通用しないと悟った時にあの女がどんな表情をするのか」
「ふふふっ、ビデオにでも撮っておいて貰いたいモンだな」
「あら、大丈夫よ。貴方の前で土下座させて何度でもその表情を繰り返させてやるから」
「おいおい、一応アレでもSクラスなんだぜ?手加減してやれよ」
「心配ないわ。催眠の通用しない蘭子なんか単なる役立たずなんだから。すぐにクラスレスにまで堕としてやるから」

 美咲は氷のように冷たい視線を脳裏の蘭子にあてて断言した。

「待ち遠しいよ」
「待っててね、すぐに行動に移るから。モタモタしてると蘭子が4室長に連絡してくるといけないしね」
「頼むよ。で、チームはどうするんだ?規定では2人指名できるんだろ」

 自分の膝の上に美咲を座らせて雪野は訊いた。

「別にいらないわ。私1人で十分よ」
「1人?駄目ダメッ。準A以上はチームリーダの責務も負うんだろっ、ちゃんとチームで遂行して成果を挙げないと、評価されないんだぜ。Aクラス入りは実績が一番重要らしいぜ」

 上昇志向の強い雪野はちゃんと妻のためのリサーチも行っていたのだ。
 無論、美咲もそれは知っていたのだろう。
 顔をしかめて肩を竦めた。

「ホント、面倒くさい仕組みよね。でもしょうがないわ、取りあえず弾除け代わりに役立たずを2人ほど調達してみるわ」
「役立たず?なんで?使える奴をキープしといた方が後々便利だろ?」

 不思議そうに訊く雪野に美咲は小声で返した。

「ダメよ、このチャンスに蘭子の弱点を掴んどくつもりなんだから。目端の利かないボンクラがいいのよっ」
「あぁ、そう言うこと。なるほどねぇ・・・じゃ、そのリクエストにぴったりな男を1人しってるから推薦しようか」

 雪野はニヤッと笑みを浮かべそう言った。
 そして美咲を降ろすと椅子をクルッと回転させ背後に向き直り、6列並んだ棚の一番奥で薬品の整理をしている男に声を掛けたのだった。

「おいっ、木之下っ!ちょっとこいっ」
「はっ、はいっ、主任っ!!ちょっと、おまちっ・・うわぁっ!」

 雪野の声にその男は弾かれたように立ち上がった。
 けれど、やや高めのその声に続いて、ガラス瓶の砕け散る音が研究室内に響いたのだった。
 立ち上がった拍子に手に持った整理中の薬品瓶を落っことしてしまったのである。

「木之下ぁ~っ!テメェ、またヤッたのかぁっ!!」

 思いっきり苛ついた声で雪野が怒鳴る。

「すっ、済みませんっ、急に呼ばれたんで・・・」

 消え入るような声で男が言い訳をした。
 けれどその情けない口調が、美咲の嫌悪感を煽った。

「ちょっと、木之下クンッ!キミねぇ、何つまんない言い訳してる訳っ!あんまりウチの人に迷惑掛けないでよねっ」

 上司でもないのに、美咲は容赦なく木之下を叱責する。
 その居丈高な口調に、木之下は益々萎縮して首を竦めていた。

「で、どお?あの男。リクエストにピッタリだろ?」

 背後の美咲を振り返り、雪野は小声で言った。

「そうね。確かにこれ以上ないくらいボンクラだし、弾除けに使っても全然惜しくないしね」
「っていうか、是非とも弾除けに使って貰いたいね。もう少し程度の良いのが補充されるかもしれないし」

 2人はそう囁き合うと、揃ってガラスの後片付けをしている木之下に顔を向けた。

「おいっ、木之下っ!いいからまず来いっ!お前にとっておきの仕事だっ」

 そして箒とちり取りを持ったまま慌ててやって来た木之下に美咲は何の感情も込めずに言った。

「木之下くん、たった今からキミを私のチームに加えます。私のことをチーフと呼びなさい。外勤ですから手続きをしておくこと。書類を揃えて5時に私の部屋に来なさい。宜しい?」
「は?・・・えぇと・・・私が奥さんのチームって?」

 訳が判らずまごつく木之下の頬が激しく鳴った。

「チーフと呼びなさいって言ったでしょ?同じ事を2度言わせないこと」

 そしてそれ以上付き合うのも馬鹿らしいとばかりに、美咲は無言で踵を返した。
 途方に暮れる木之下は、代わりに雪野に視線を向けたがこちらも完全に無視して書類に視線を落としている。
 事情がさっぱり判らない木之下は、両手に掃除道具を握りしめながら、美咲の出て行ったドアと雪野を交互に眺めるしかなかった。

「き、木之下泰行っ、は、入りますっ」

 ドアを2度ノックして木之下は扉を開けた。
 すると執務机の向こうに座っている美咲と、その前に直立不動で立っている男の背中が見えた。

「書類」

 冷たい声が単語だけで命令する。
 木之下は両手でその資料を差し出した。

「お前、ノロすぎ。時間を守れとこの男に説教していたのに、それより遅れてくるって一体何っ?」
 手渡された資料を捲り判子を押しながら、美咲はギロッと木之下を見上げた。

「あっ、はい、あのですね、資料は準備できてたんですが、あの後、雪野主任が別件の会議に出てしまわれたので承認印が・・」

 おどおどした口調で説明する木之下を、しかし美咲は書類で机を叩いて遮った。

「言い訳をするなっ!この世界、結果だけが全てだっ!1秒の遅れが仲間を殺すことにもなるんだよっ!肝に銘じなさいっ」

 雷が落ちるような迫力である。
 木之下は感電したように飛び退くと、顔に汗を浮かべてガクガクと頷いた。
 いつの間にか横の男と並んで直立不動となっている。

「川瀬っ」
「はっ!」
「木之下っ」
「は、はいっ」

 書類を手にゆっくりと立ち上がった美咲に2人は緊張した声で答えた。

「手続きは完了した。お前達の上司はたった今から私だ。他に命令系統はないことを理解しなさい」
「はっ!」

 川瀬と呼ばれた男は慣れた口調で敬礼して答えた。
 木之下は横目でその様子を見て真似をするように小声で答えた。

「はぃ・・・」

 そんな木之下を美咲は侮蔑するようにチラッとだけ見て、そして無視するように言葉を続けた。

「外勤は知ってのとおり危険を伴う仕事ですが、実績を積むにはこれが最短です。あなた達クラスレスにも将来の展望を開くチャンスですので精一杯努力し、成功をつかみ取りなさい。宜しい?」

 美咲は自分の言葉が2人に浸透したかを確認するようにその目を覗き込む。
 そして短く間をとった後、話を続けた。

「私、雪野美咲チームの任務を説明します。今回の任務は、これ・・・」

 美咲はそう言ってハード・バインダに挟まれた一枚の指令書を晒した。

『指令書:4室属S04の強制収容』

「え・・S・・・Sクラスの強制収容っ!」

 川瀬が声を上げた。
 目が丸くなっている。
 その表情を見て美咲はニンマリと微笑んでいた。
 訳が判らずポカンとしているのは木之下だけだった。

「そう、『4室属S04』さんをサルベージするのが今回の任務です。どぉ、やり甲斐があるでしょ?」

 平然とした口調の美咲に川瀬は堪らず質問した。

「あ、あの・・・誰なんでしょうか。そのSクラスは」
「あぁ、この人?Sクラスといっても別に実力が有る訳じゃないんでそんなに有名じゃないのよね。知ってるかしら?・・・『蘭子』っていう人よ」

 美咲が言った途端、今度は川瀬だけでなく木之下まで目が飛び出しそうに両目を見開いた。

「ら・・・蘭子って・・・まさか、あの『魔眼の蘭子』っすかっ」
「さぁ・・?何そのマンガみたいなあだ名は。知らないわ私は。とにかくこの人は4室長への定期連絡を取れない状況にあるようですから、私たちでサルベージし第4室へ送り届けるのが任務という訳です。つまらない畏怖は無用よ。Sクラスといってもこの人はフロックのようなものだし。だからあなた達クラスレスにチャンスをあげようとしているのよ」

 美咲は上機嫌にそう言った。
 けれど、木之下も、そして川瀬も、まるで疫病神をみるように美咲を見詰めていた。

 (なんで・・・いったいどうして、こんな事になっちまったんだ)

 晴天の霹靂のようなこの移動と任務に、木之下は悪夢をみているような気がしていた。

< つづく >

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