(2)渦中へ
まるで蘭子の足跡をなぞるように、1台のランクルが高速を北上していた。
運転しているのは川瀬、助手席には木之下が座っている。
そして美咲はセカンドシートに独りでゆっくりと腰掛けながら、愛用のPCで蘭子のレポートを閲覧していた。
「チーフもうすぐ出口ですけど、どちらに向かいましょうか?」
川瀬がミラー越しに美咲に問い掛ける。
美咲はしかし視線もあげずに答えた。
「先ずはマンションよ。以前の事案で確保していた所がまだ契約期間内だわ。ケチくさいことを考える女ならそこを使う可能性があるのよね」
美咲の念頭にはもう蘭子が同じ組織に属するという意識は全くなかった。
完全に敵視しているその胸の内を隠そうともしていない。
「はぁ・・・了解っす。じゃ、済みませんが住所を読み上げて貰えます?」
川瀬のリクエストにレポートをスクロールさせて美咲が読み上げると、それを木之下がカーナビに入力していった。
そして、3人を乗せた車は、引き寄せられるように事件の渦中へと向かって行ったのだった。
*
「なんて言うか・・・これで仕舞いってことか?」
マンションの駐車場に足を踏み入れた川瀬はそこに知らされていたナンバーのセラを見つけ、木之下と顔を見合わせた。
「うん、確かに資料にあったヤツだ。間違いない」
つまり蘭子はこのマンションに居るということだ。
あとは今回の指令に基づき、蘭子へ退去命令を行いここを引き払うことで全ては終了となる・・・筈である。
2人の視線は後ろで腕組みをしている美咲へと向いた。
すると美咲はその視線を不機嫌そうに跳ね返して口を開いた。
「何だ、お前達。まさかこれで任務完了とでも思ってるんじゃないでしょうねっ」
正面からそう言われると、「はい、そう思ってます」とも答えづらい。
無言で再び顔を見合わせる。
するとイライラと足を踏みならしていた美咲はクルッと踵を返すと、人差し指だけで2人を呼びつけた。
そして車に乗り込むなりいきなり罵倒したのだった。
「お前達っ、そもそも何で蘭子が連絡を入れないかを考えているのっ!」
虚をつかれた2人はそれに答えられない。
すると嵩にかかって美咲は語気を強めた。
「何の問題も無ければ、私たちに指令は下らないっ!仮にもSクラスだよっ、甘く見るんじゃないっ」
「そ・・・それじゃ、何か連絡できない理由があると・・・」
「当然っ!それを掴まないであの女に退去命令したって聞く訳ないだろっ」
美咲は当たり前とばかりに決めつける。
けれど、これこそ全くの出鱈目だった。
まず当人に直接定期連絡を促すのが第一義の指令である。
蘭子は別に任務中に連絡を絶った訳ではないのだ。
4室長からの指令書が効力を発揮するのは、だから蘭子がその申し入れを拒否したときだけなのである。
そして美咲が選んだのは、この極めて常識的な手順をすっ飛ばすことができる程度にボンクラな2人なのだった。
案の定、木之下達は見合わせていた顔を美咲に向けるとガクガクと頷いた。
「そ、そうでしたっ。申し訳ありません」
「蘭子さんの動向を探る必要があるってことっすねっ」
焦ったような表情の2人を、美咲は内心を悟られぬよう睨みつけた。
「動向調査は私がする。お前達はここで出入りする者全てを記録しておきなさい。あとですぐに検索できるようにちゃんとキーワードを入れるのよっ」
淀みなく命令を与えれば、何の疑問も抱かずにその仕事を始める男達だ。
美咲には何とも都合の良い部下であった。
そして美咲自身はというと、愛用のショルダーを取り出し簡単に変装するとマンションへと向かったのだった。
オートロックすら無い年代物のマンションには出入りに問題はない。
ガス会社の名刺を懐に、蘭子の部屋へと向かう。
しかし無論、そのままドアの呼び出しを鳴らしたりはしない。
その代わりにドアの横のメータボックスを堂々と開き、検針するふりをして中に小さなペットボトルの蓋程度の大きさの物体を貼り付けたのだった。
その物体からは細いケーブルが延びており、やはり小さな箱に繋がっている。
美咲はその箱のスイッチをオンにすると、それで全て完了とばかりにメータボックスを閉めその場を後にしたのだった。
「さぁて、どんな状況かしら?」
そのまま1階に下りた美咲は、ランクルには戻らず反対側に抜け小さな公園のベンチに腰を下ろした。
そしてショルダーからイヤホンを取り出すと、それを左耳に入れ漏れてくる音を探ったのだった。
美咲が仕掛けたのはコンクリートマイクというものである。
これを貼り付ければ、室内の音は明瞭に聞き取ることができる。
それをトランスミッタで飛ばしてここで聞いているのだった。
ボリュームを最大に上げると遠くで微かにテレビの音が聞こえた。
けれど仕掛けたマイクの感度はこんなモノではない。
おそらく他の部屋の音を拾っているのだろう。
「つまり・・・不在ってことね」
10分程念入りに聞き耳を立てた美咲はそう呟くと、やっとイヤホンを外した。
続いて携帯を取り出し木之下に見張りの状況を確認する。
「どぉ?不審人物の出入りはあった?」
「あ、チーフッ。いえっ、特に異常はありません。主婦らしき人物が3人と、あと子供が2人出ました。今のところそれだけです」
「そぉ。蘭子は不在だからそのまま監視を続けなさい。帰宅したらすぐに連絡よ」
美咲はそれだけを命令すると、携帯をしまった。
そして近くの喫茶店へ足を運ぶと、独りゆっくりと昼食を取ったのだった。
トランスミッタの電波の届く範囲なので帰宅すればイヤホンの音ですぐに判るのだ。
だから手下の2人だけに監視を任せておけるのである。
そして美咲が標的の動きを捉えたのは、ちょうど食事を終え紅茶を味わっている時だった。
耳に入れっぱなしのイヤホンから不意にドアを解錠する音が響いてきたのだ。
物凄い大音量に、美咲は顔を顰め急いでボリュームをおとす。
間違いなく蘭子の部屋の扉が開いたのである。
(おかしいっ、木之下の連絡が無いじゃないっ)
思わず眉間に皺を寄せて美咲は音に集中した。
するとヒールのカツカツという音に続いて、微かな溜息とドアを閉める乱暴な音が聞こえる。
これだけで美咲には女が入室したことが判った。
(蘭子なのかっ?)
疑念が美咲の視線をきつくする。
音はその間も途切れず続いていた。
靴を脱ぎ廊下を移動する足音、そして何かの電子音。
『ゼロ・・件デス』の合成音。
おそらく留守電の確認なのだろう。
しかし、それまで無言だった人物が、その合成音を聞いた途端、遂に口を開いたのだった。
『あぁ~ぁっ!んもう、ホンッと愚図なんだからっ』
苛立たしげなその口調、声質。
けれど、それを聞いた途端、美咲の表情から一気に険が取れた。
これこそ、忘れもしない、あの蘭子の肉声そのものなのだった。
(いたっ!遂に居やがったっ)
美咲は喫茶店のテーブルの下で小さくガッツポーズをした。
*
コーヒーのいい香りが部屋に漂う。
電話が鳴ったのは、蘭子がちょうどドリップパックにお湯を注ぎ終わった時だった。
「はい」
ツーコール目が終わる前に受話器を取った。
『おや、お帰りでしたか』
少し嗄れた男の声が蘭子の耳に届く。
それだけで相手の表情まで浮かんできて、蘭子は顔を顰めた。
「ってことは、連絡を入れてくれてたんですね。失礼しました」
受話器を肩と首で保持し空いた手でコーヒーをかき混ぜながら蘭子は言った。
『いえ、お気になさらずに。それより、手筈の方は如何でしょうか。オヤジが結果を知りたくてうずうずしてるんですよ』
男は困ったような口調でそう切り出したが、無論そんなヤワなタイプではない。
単に蘭子の出方を窺っているのだ。
「そぉねぇ・・・そろそろ、大丈夫かもしれないわねぇ」
蘭子はまるで評論家のような口調で軽く返す。
すると相手の声が変わった。
『えっ・・・ってことは成功した?』
「あら?何かしら、その不審気な口調は」
蘭子はからかうように言う。
『あっ、いえ、申し訳ありません。勿論、蘭子さんの腕は承知してますよ。ただ相手も只者じゃないッスから』
語尾の乱れに動揺が現れている。
それだけで相手の自分への評価が判り、蘭子はもう一度顔を顰めた。
「社長さんには『お待たせしました』と伝えて貰ってかまわないわ。私の方は準備出来てるんですからっ」
切り口上で蘭子は伝える。
『あっ、はい。いいッスか?ちょっとお待ちください』
相手の男はその言葉に覿面に反応した。
受話器を手で押さえて向こうの音を遮る。
傍の誰かと相談しているのだろう。
コーヒーを一口飲み待っていると、やがて男の声が戻ってきた。
『済みません、お待たせしました。一つ、確認なんですが、あの野郎はもう計画どおり動けるんですね?』
「そう言ったはずよっ?」
『あ、いぇ、お気を悪くされませんように。ちょっと上から云われたんですが、出来れば捕獲作戦の前にですね、敵のアジトを確認しておきたいんですよ。で、あの野郎が使えるんならそれを聞いておいて貰えないか・・・と』
探るような声を出す男に、蘭子は簡潔に答えた。
「アジト?それは無理よ。前に教えてあげたでしょ、物事には段階があるの。奴らの組織にとってアジトは生命線の一つよ。それを謳わすのは半端な事じゃ出来ないわ」
『でも時間を掛けりゃ可能ッスよね』
「勿論よ。でもね、貴方達は忘れてるようだけど、彼らも催眠のプロなのよ。時間を掛ければそれだけ発見される危険も増える。判る?もしもあの男に後催眠を仕掛けてることがばれたら、その途端奴らは消えるわ。私の前からだけでなく、貴方達の前からもね」
『う~ん・・・』
専門家の言葉に、電話の男は黙り込む。
そしてそのまま、また受話器を押さえたようである。
けれど再び再開されると、男はもう一つ提案をした。
『それじゃですねぇ、例のあの男、蘭子さんのターゲットの男、いますよね。あの男のヤサを謳わせて貰えます?それくらいなら出来ますよねぇ』
「あん?どういう事かしら、それって。もしかしたら貴方達、私の催眠の掛かり方を確かめようとしてる訳?」
蘭子は片方の眉を上げて受話器を睨みつけた。
『えっ?いや、違いますよ。捕獲作戦のあとの取引で駒を使うでしょ、その保険ですよ』
「ふぅ~ん・・・、そぉなの」
白々しい言い訳だが、一応スジは通っている。
追求しても時間を無駄にするだけだ。
「いいわ。それじゃ、その望みだけは聞いてあげる。でも直接謳わせるのはそれでも少し厄介なのよ。だから男を直接その場所に行くよう仕込んであげる。あとは貴方達で勝手に尾行でもして確かめなさい」
蘭子は溜息混じりにそう言った。
『尾行ッスね?判りました、その案で行きましょう』
男は素直に蘭子の申し出を受けた。
「それで?いつにする訳?」
『すぐにでも。尾行の要員くらいならいつでも用意できます』
「すぐ・・・ねぇ」
蘭子は一瞬天井に視線を向けてから、言葉を続けた。
「私の方もいつでも出来るわ。でもね、さっきも言ったけど奴らもプロなんだからあんまり何度も呼び出すのは拙いのよ。出来ればこの回でケリをつけたい。お判り?あの男との3度目の対面を今日行うなら、もうその時に最後の暗示も埋め込むわよ」
『最後の暗示ってこたぁ・・・』
「計画の開始よ。後は貴方達次第。準備出来たら出来るだけ速やかに行動を起こすこと。安全を見ると1週間以内ってとこなんだから」
蘭子の口から気負いもなくその言葉が滑り出た。
『そう・・・計画の開始・・・ッスね。はい、いいですよ。ウチの方も粗方準備は整ってるんですよ。後はオヤジの腹次第でして』
「あら、そうでしたの。ご免なさいね、お待たせしちゃって。それじゃOKなのね?最終暗示」
『はい。そうしてください』
電話の相手の男もまた気負いもなくそう言った。
こうして、事件はいよいよ動き出す気配を見せ始めたのだった。
*
エンジンを切ったランクルの車内から川瀬がジッと通りを見詰めていると、目の前のフロントグラスに小さな水滴が落ちてきた。
「やべぇなぁ、降ってきちまったよ」
思わずぼやきが漏れる。
マンションに出入りする人物の隠し撮りをしながら見張っているのだが、傘をさされては話にならない。
助手席の木之下も空を見上げて無言で頷いた。
昼食のハンバーガを不味そうに頬張りながら、顔を顰めている。
美咲のことだから、「雨が降っていたので撮影できませんでした」などという言い訳で許して貰える筈がないのだ。
おそらく1人は車外に出て、反対側から撮影をさせられることになるのだろう。
2人がウンザリした表情で目を見合わせていると、突然後部ドアが開き、冷たい風とともにその美咲が乗り込んできたのだった。
「ちょっと、お前達っ!一体何を見張ってるのっ!蘭子はもうとっくに部屋に帰っているのよっ」
いきなりの叱責に2人は揃って首を竦める。
けれど、川瀬は戸惑ったように美咲を振り返って反論した。
「いやっ、でもここ通ってないッスよ。出入りしたのはまだ8人だけです。うち子供が2人、男が2人、後は女が4人ですけどどれも蘭子さんじゃないです」
「さっき私が電話したときには、主婦が3人って言ってたわね、木之下っ」
美咲はいきなり木之下に鋭い視線を向ける。
「えっ、あ、はいっ。そうです、3人って・・・」
ビックリした木之下が慌てて答えると、美咲は最後まで聞かずに川瀬に言った。
「4人目の女って30分くらい前にマンションに入っていったんだろっ」
「あぁ・・・そうッス。でも違いますよ、あの女は40代・・・か、もしかしたら50くらいの中年ですよ」
「写真見せなさいっ」
そして差し出されたメモリをひったくるように奪い取りPCで再生させる。
するとそこには確かに40代後半と覚しき中年の女性が映っていたのだ。
「ほら、言ったとおりでしょ、ここを通ったのは・・」
「蘭子だよ。この女」
川瀬の言葉を遮って美咲は断定した。
「よく覚えておくのね、クラスレスの諸君っ。顔を漫然と暗記しても無駄なのよ、目の位置、鼻の形、そしてね耳の形を覚えるんだよっ」
「そ・・・それじゃ変装・・・」
「当たり前だろっ!そのくらい予想しときなさいっ」
美咲はピシャッと言い切る。
木之下と川瀬はその言葉でもう一度首を竦めるしかなかった。
けれど、てっきり説教が始まるのかと思えば、そうでは無かった。
美咲は写真を目にニンマリと微笑んでいたのだ。
(間違いないっ。さっきの録音データとこの写真で十分に証拠になるわね。蘭子は間違いなく服務違反を犯しているっ。勝手にマインド・サーカスにちょっかいを出そうとしているんだ)
これこそが美咲が狙っていたスキャンダルなのである。
夫を馬鹿にした高慢女をただで済まそうとは思っていなかった。
抗催眠試薬が上層部に認められれば蘭子の価値は激減する。
しかしそれでSクラスを放逐されるかは定かではないのだ。
対外的にはまだ効果的な使い方が有るからである。
しかし、ここで服務規定違反が明らかになった場合、それを庇うだけのアドバンテージはもう蘭子にはないのだ。
(降格・・・間違いなしね。ってことは、本来のスキルのない蘭子はBクラス以下、つまり私の下位クラスになるってワケじゃないっ!)
美咲は瞳を輝かす。
(いい気味だわっ。そうだっ、もしそうなったら主人の研究室の実験協力者にスカウトしてやるわっ!自分の無力さを一生後悔させてやるっ)
そして、そんな思いを胸に写真に見入る美咲を、2人の男は圧倒されたように見詰めていたのだった。
< つづく >