(3)美咲の誤算(前編)
早々と夜の帳が降りた冬の街を、いつもどおりの騒音をまき散らしながらその電車は走り抜けていく。
夕方のラッシュで混み合うこの電車に、美咲は独りで乗り込んでいた。
けれど地味なコートを纏ったその姿は、疲れたOLそのものである。
電車の揺れに合わせて無気力に体をふらつかせている。
だから美咲の体が左隣の男に寄り掛かった時、その男のコートに小さな器具が滑り込んだ事に気付いた者はいなかった。
超小型の無線盗聴器はこうして美咲の手から、男へと移動したのである。
*
昼間の盗聴で、美咲は今晩何かの作戦が実行されることを知った。
『催眠のプロ』に対し蘭子が罠にはめ、その協力者が尾行をするという手筈らしい。
案の定、夕方になると蘭子は変装した姿で出掛けていった。
ランクルからその様子を監視していた美咲達は、それを確認すると易々と尾行を行ったのだった。
巧みな変装ではあったが、昼間美咲に看破された風貌のままであり、これでは間違えようがない。
そして美咲達は、繁華街の小さな喫茶店で男と話をする現場を遂に突き止めたのだった。
今、美咲が尾行しているのはその相手の男なのである。
(こいつが催眠のプロとかいう奴、つまりマインド・サーカスの関係者ってことね)
電車の窓に映る隣の男の表情をチラリと見て美咲はある意味感心した。
まるで凡庸が服を着ているような男なのである。
蘭子との密会を目にしなければ、美咲といえどこの男が凶悪な催眠術集団のメンバーだとは思いもしないだろう。
けれど、喫茶店で蘭子が一瞬だけ見せた本気の表情は、この男が間違いなくターゲットであることを告げていた。
隠しカメラを通して見た光景であるにも拘わらず、美咲は思わず蘭子の目に吸い込まれるような気がしたのだ。
「これが『魔眼』・・・」
呟いた自らの声で我に返った美咲は、すぐに屈辱で顔を上気させる。
「魔女めっ!いい気になってるがいいわっ!絶対に這いつくばらせてやるからねっ」
明かりを落としたランクルの車内で小型モニタの光に照らされながら、美咲は豹のように目を光らせていた。
結局、その後蘭子と男は15分程で店を出て、そして分かれた。
蘭子はタクシー乗り場へ向かい、男は駅へと上がっていく。
美咲達は無論、男の後をつけた。
蘭子のアジトは判っているのだ。
ここはマインド・サーカスの手がかりを掴む最大のチャンスなのである。
美咲は流れるような足取りで、雑踏に紛れようとする男を追った。
けれど、普段尾行するときより若干その距離をとっている。
そして視線はターゲットの男だけでなく、その近辺も忙しく動き回っていた。
すると男がJRの改札の前を通り過ぎ私鉄の駅ビルに吸い込まれる僅かな区間で、美咲の表情が動いた。
自分たち以外で男を尾行している者を見つけ出したのである。
2名だ。
鍛えてありそうな精悍な体格を真面目そうな背広で包んでいたが、どこか崩れたような印象は拭いきれていない。
(マル暴さん達ね?恐れ入ったわ、蘭子の奴っ。こんな奴らを引き入れていたなんて)
自分のことは差し置いて、他人の職業倫理違反には敏感な美咲であった。
「木之下、川瀬っ・・・私の前方2時と11時の方向に居る。1人ずつ」
美咲は襟に口を近づけて小さく囁く。
すると美咲の後方を離れて歩いていた2人のイヤホンにその声が届いた。
2人の視線がすぐに目指す男達を捉える。
「改札でいいッスか?」
木之下と違い、元々警務隊上がりの川瀬はこの辺の訓練は受けている。
「タイミング次第ね、合図するわ」
問う川瀬に美咲は短く答えた。
そして答えと同時に耳からイヤホンを抜き、そのまま小走りに駆け出したのである。
すぐに尾行していた男達を追い抜き、そしてターゲットの男までも抜き去る。
そして一番に自動改札を抜けたのだった。
続いてターゲットもすぐに改札を抜ける。
美咲は時刻表を見上げながらそのターゲットが通り過ぎるのを待った。
正面のホームには電車がゆっくりと入ってくるところである。
(いいタイミングなんだけどな・・・)
内心、美咲はそう呟いていた。
するとその願いを聞き届けたように、ターゲットが足を速め美咲を追い抜いたのだった。
これで決まりである。
美咲は背伸びをするように片手を大きくあげてから、電車へとダッシュした。
無論、尾行しているヤクザ達も足を速める。
けれど自動改札が目前に来たところで、2人は足を止めざるをえなかった。
前に割り込むように駆け込んできた男達が揃ってアラームを鳴らし扉を閉ざしてしまったのだ。
そして訝しそうに何度も感知器にカードを押し当てている。
二つしかない自動改札を堰き止められ、尾行していた男達はいきなり切れた。
「退けっ、馬鹿野郎がっ!」
2人揃って、前の男の襟首を掴み思いっきり後ろに引っ張ったのである。
右のレーンは細身の男で一溜まりもなく後方へよろけた。
しかしバランスを取ろうとして上げた肘が、なんとその引っ張った男の顔面に炸裂したのだった。
頑丈そうな鼻っ柱から鼻血を吹き出しながら男は仰け反る。
そして、その隣のレーンでは同じように前の男の襟首を引っ張ったその手をグッと掴まれ、ごつい体格の男が振り返ってにらみ返していた。
「何すんだっ、テメェはよぉっ!!」
「何だとっ、コラァッ!」
平穏な夕方のラッシュ時に、いきなり凄惨な怒鳴り声が改札を凍り付かせる。
そして一瞬の間の後、その場で大乱闘が始まったのだった。
ホームに並んでいた乗客達は、電車に乗り込む足を一瞬止めて背後のこの騒動を振り返る。
けれど美咲は素知らぬ顔でその間をすり抜けると電車に乗り込み、そしてターゲットの男のすぐ横でつり革に手を掛けたのだった。
すぐに電車は発車する。
ゆっくりと流れ始めるホームの光景を眺めながら、美咲はしかし何の表情も浮かべていない。
部下達の頑張りで敵の尾行を引き離せたのだが、美咲の基準からすれば「当たり前」の一言なのである。
常に減点法でしか評価を行わない美咲の面目躍如であった。
*
電車が止まると同時に大勢の乗客がドアへ移動する。
美咲のターゲットもその人波に押されながら車外へ降り立った。
しかし再び乗り込む気配は無く、そのまま階段を下り改札口へと向かっていく。
それを確認すると、美咲はその背後を堂々とつけていった。
ここは郊外の閑静な住宅街の中にある小綺麗な駅である。
男は駅前のロータリで雨足を確認するように空を見上げた。
その横顔を盗み見た美咲は、しかし怪訝な表情となる。
なにか酷く戸惑ったような、そんな表情を男が浮かべていたのだ。
まるで、突然自分のいる場所が判らなくなったような、そんな心細げな様子だった。
尾行していた美咲まで不安になる。
けれど暫く思案していたと思うと、やがて小さく頭を振って傘を取り出し歩き始めた。
ようやく行き先を思い出したとでも言うように、その足取りから迷いは消えている。
そして美咲もホッとしたようにその後ろ姿を見送ると、鞄から傘を取り出しその後に付いていったのだった。
歩道の人通りはあまり多くなかったので、美咲にとっては雨は幸いなのである。
傘をさしていれば顔を見られることもないし、何より雨音で足音も目立たない。
つかず離れず美咲は男の後をつけた。
そして15分程歩いたところで遂に目的の場所に辿り着いたのである。
男は一つのマンションに吸い込まれていったのだった。
「道案内、ご苦労様」
美咲はもう一度小さく微笑むとそう呟く。
けれどふと視界に入った男の横顔に、またも違和感を感じた。
マンションを見上げるその表情は、何か不安げな様子に見えたのである。
「何かしら・・・少し、様子を見た方がいいかしら」
順調すぎる尾行にも美咲は気を緩めてはいない。
マンションのエントランスが見える場所に立つと、携帯を取り出した。
けれどその電源はOFFにしたままである。
そしてイヤホンをした耳にその携帯を押し当て、まるで通話中であるようなふりをしながら、さっき仕掛けた盗聴器の音に耳を傾けたのだった。
男の足音がはっきりと聞こえる。
そして立ち止まった気配の後、暫くするとポーンという音が聞こえた。
エレベータの到着だろう。
中に乗り込む音まではクリアに拾えたが、直ぐにノイズだけになる。
エレベータのドアが閉まり電波が届きにくくなっているのだ。
超小型なだけに、このへんは仕方ない。
美咲はしかしまるで慌てることなく、ゆっくりと数を数えていた。
すると9まで数えたところで不意に音が蘇る。
ドアが開いた証拠である。
つまり、エレベータに乗り9カウントで着いた階が目的地だった。
男の靴音が再びクリアに響きだす。
美咲は抜け目なく男の歩数をカウントした。
そしてその靴音が途切れた時、美咲の目がすっと細くなった。
(やっと到着なのね・・・)
ドアの呼出チャイムが響かせた明るい電子音を聞きながら美咲はそう確信していた。
*
リーン・・・ローン・・・
テレビすら点けていない暗い部屋にそのチャイムが響いた。
その音で美紀はだるそうに体を起こす。
体が鉛のように重かった。
「・・・お姉ちゃん?」
デジタル時計の光を見上げ美紀は訝しそうに呟く。
しかし姉の帰宅する時間には少し早かった。
それに諒子ならチャイムを鳴らしたりしない。
美紀は壁に片手をついてゆっくりと玄関へと向かった。
「こんばんわっ。あれ?どうしたの美紀ちゃん、なんか具合が悪そうだね」
ドアチェーンの長さ分だけ開いた扉の間からサラリーマン風の男が顔を覗かせて言った。
しかし美紀はその言葉に何の反応も示さない。
ボンヤリした視線を男の顔に据えたまま、無言で見詰めている。
「あれぇ?もしかして、僕のこと忘れちゃった?」
男は見かけよりずっと若い口調で美紀に訊く。
すると美紀はやっと言葉が脳に到達したとでもいうように、ゆっくりと頭を振った。
「高田・・・さん、ですよね。ここに引っ越してきた時にお世話をしていただいた・・・」
まるで消えてしまいそうなか細い声である。
「そうそう、その高田ですよぉ。でも、どうしたの?なんか別人みたいだよ、この間とは」
「すみません・・・ちょっと・・・あの・・・具合がわるくて」
美紀は口を利くのもつらそうに答えた。
そして一旦ドアを閉じると、ドア・チェーンを外して高田と名乗る男を迎え入れた。
「あの・・・どういったご用件・・・でしょうか」
「ゴメンね、突然押しかけちゃって。実はさ、ちょっと降りる駅間違えちゃってここの駅に出ちゃったんだよね。で、ちょっと美紀ちゃん達のこと思い出したんで・・・来ちゃった。一応僕が紹介した物件だから、その後どうかなぁって」
高田は明るい声でそう言うと、玄関の照明のスイッチに指を伸ばした。
美紀は明かりも点けずに突っ立っているのだ。
けれど、高田のその指がスイッチに触れる前に、美紀の鋭い声がそれを遮った。
「やめてっ!」
「え?」
それまでの生気のない美紀からは想像も出来ない激しい声である。
高田は感電したように指を引っ込めた。
「あ・・ご、ごめんなさい・・・」
唖然とする高田に美紀は再び幽霊のように生気をなくした声に戻って詫びた。
高田は二呼吸ほど間をとって言葉を待ったが、それっきり美紀は押し黙る。
どうやら理由を説明する気はないらしい。
「いや、・・・そのぅ・・ま、良いんだけどね。明かりなんかさ」
高田は無理に言葉を引っ張り出し、場を取り繕うとするが、そんな努力にも美紀は無反応である。
そしてそんな相手の様子をチラッと見た高田は、溜息を隠すと話題を変えて言葉を続けた。
「えぇっと・・・そう、お姉さんは居ます?ちょっと暮らしっぷりの様子でもお聞きしたいなぁ、なんて・・」
「居ませんっ」
高田が全てを言い終わる前に、美紀は言葉を被せるように答えた。
それはちょうど、明かりを点けさせなかった時と同じような強い口調だった。
「姉は・・・まだ戻ってません」
「あぁ・・・そうなんだ。そう・・・居ないか」
高田は本当にがっかりしたような口調でそう呟く。
「すみません・・・あの、私・・・少し具合が悪いので」
そして残念そうに玄関で腕組みしている高田に美紀は蚊の泣くような声で言った。
「えっ、あぁ、そうみたいですね。判りました、ご免なさいね、突然お邪魔しちゃって。今日は僕帰ります。お姉さんに宜しくお伝えください」
高田は礼儀正しく頭を下げると「おだいじに」といって美紀の前から姿を消した。
そして美紀はドアが閉じる金属音でやっと視線を上げると、自動人形のように扉に鍵を掛けそのままもとの闇の中に戻っていったのだった。
唯一そこだけが安心できる居場所であるとでも言うように・・・
けれど、美紀のそのささやかな安息は長くは続かなかった。
ここに越してきて以来誰も訪れるものは無かったというのに、今夜に限りまたも呼出しチャイムが鳴ったのである。
高田が帰ってからまだ10分しか経っていない。
1度目は無視した美紀だったが、2度、3度と重ねて鳴らされると、再び重い体を起こして玄関へと足を向けるしかなかった。
「こんばんわ。えぇと、美紀さんですよね?私、ミサキといいます。高田チーフから来るように言われてたんですけど。チーフまだいらっしゃいます?」
先ほど外したドア・チェーンを掛け忘れていたので、美紀は無防備に扉を開けてしまった。
すると目の前に愛想よく微笑みを浮かべた女が立っていたのだ。
整った顔つきは理知的で眼鏡がよく似合っている。
黙っていればきつい印象を与えかねないが、優しげな口調と笑顔がそれをカバーしていた。
女もそれを十分に承知してるように微笑みを絶やさない。
けれど、酷くボンヤリしていた筈の美紀の表情が、その女の顔を見るうちにみるみる変わっていった。
まるで夜道で痴漢にあったように表情を強ばらせている。
「あら?どうされました?」
怪訝そうに女は訊いたが、美紀が予想外に素早くドアを閉めようとしたその瞬間、靴先をその隙間に突っ込み強引に押し入ってきたのだった。
「ちょっと貴女、危ないでしょっ!せっかく助けに来てあげたっていうのにっ」
女は押し入った途端、それまでの愛想の良い雰囲気を脱ぎ捨て居丈高に言った。
「誰っ、あ、貴女は誰ですかっ!帰ってくださいっ。警察を呼びますよっ」
「あ~らぁ、警察呼んで良いのかしら?きっと『禁止』されてると思うんだけどなぁ」
「な、何ですかっ、それっ!なに訳の判んないことを・・」
「じゃ、掛けてみなさいよ」
言いかける美紀に女は懐から携帯電話を取り出し、投げ渡した。
反射的にそれを受け取った美紀は、ほんの一瞬確かめるように視線を携帯に向ける。
そしてその僅かな時間を待っていたように、女の掌に隠された小さなスプレーから無色無臭のガスが美紀の顔に向けて吹き付けられたのだった。
ほんの一呼吸・・・
たったそれだけで美紀の体から力が抜け、そのまま三和土に崩れるように倒れた。
強力な昏睡ガス、「ノックアウト・スプレー」である。
「ったく生意気なガキねっ。せっかく催眠から解き放ってあげようとしてるのに抵抗するんじゃないわよっ」
倒れた美紀の顔を覗き込みながら、女は、美咲はそう言ったのだった。
高田と名乗る男が外に出てきたのは、美咲の予想よりだいぶ早かったのだ。
まだ木之下達はこの場所に戻ってきていない。
(ったく、愚図どもがっ!)
男が駅の方向ではなく大通りへと足を向けたのを見て、美咲はそう毒づいた。
案の定、男は通りかかったタクシーを呼び止め何処かへと消えてしまったのだ。
ランクルが無い以上、美咲はそれを見送るしかなかった。
「ちょっとっ、今どこっ?!」
美咲は不機嫌を隠さずに携帯で木之下を詰る。
「えぇと、岩下町の交差点を過ぎた所っす。あと15分くらいで到着ですっ」
「15分っ!遅いよっ、馬鹿っ!」
美咲は早足でマンションに戻りながら言った。
「あたしは今から侵入するっ!お前達は待機しなさいっ」
「えぇっと・・・、あ、はいっ。それで・・・そうだ、時間はっ?突入時間を・・」
「1時間だっ!それくらい覚えときなさいっ、規定値だろっ」
本来部下の到着を待って行うべき作戦だが、美咲は敢えて単独行動に出た。
理由は2つ。
ひとつはレポートにあった剣豪の姉の帰宅とバッティングしたくなかったから。
そしてもう一つは、この侵入が全くサルベージ案件と関連していないためであった。
いくらボンクラとはいえ、自分の暴走に気付かれるリスクは避けたかったのだ。
(愚図で役立たずだけど、『使いよう』ってとこね・・・)
美咲は内心でそう呟きながら、このマンションに駆け込んだのだった。
「さぁて・・・、ふふふっ、先ずは犠牲者を正気に戻さないとね。こっちの味方にできればもう奴ら(マインド・サーカス)の首根っこを抑えたようなものだわ」
美紀を奥の居間に運びソファに寝かした美咲は、自分の鞄を開け小さなアンプル状のモノを取り出しながら言った。
そして美紀の口を開けさせると、そのアンプルをねじ切り中の少量の液体を垂らしたのだった。
「良い娘ね・・・さぁ口を閉じるのよ」
即効性のこの試薬はもう1分もすれば完全に効果を発揮する。
だから美咲はタイミングを見計らって新たなスプレーを取り出した。
気付け薬である。
そしてそれを美紀の顔に向け、ワンプッシュした。
するとまるで気絶しているように反応の無かった美紀の表情に忽ち生気が蘇った。
そして一瞬苦悶の表情を浮かべた次の瞬間、パッと目を見開いたのである。
「お目覚めね、ご気分は如何かしら?」
美咲は美紀の顔を覗き込みながら訊いた。
美紀はその言葉に視線を美咲に向けたが、直ぐに顔を強ばらせた。
先ほどの記憶が蘇ったのだろう。
「なっ・・何ッ!なんですっ、貴女はっ!」
「私?さっき教えてあげたでしょ、美咲っていう名前。大丈夫よ、貴女の味方だから」
美咲は混乱する美紀に、顔を近づけ安心するよう優しく言う。
けれど美紀は反射的にその顔をひっぱたいていた。
「たっ!!なっ、何すんのよっ」
予想外に素早い美紀の動きについて行けずもろに頬を張られた美咲は、準Aのプライドを傷つけられ、怒りの形相で睨みつける。
けれど美紀はその一瞬の隙をついて、ソファからすり抜けるように立ち上がっていた。
「貴女いったい誰っ!なんでウチに上がり込んでいるのよっ、あたしに何をしたのっ!」
さっきの盗聴の時にはまるで病人のように弱々しい声だったのに、今の美紀はまるで野生の山猫のように敵意をむき出して美咲を睨みつけていた。
「あんたを正気に戻しに来てあげたのよっ!自分の名前を思い出してみなさいよっ、岩下美紀じゃないわよねっ!あんたの名字は何っ!!」
美咲は表札に出ていた名前を口にした。
たとえマインド・サーカスの犠牲者であっても生意気なガキに美咲は優しく接する気はなかった。
決定的な事に気付かせて、一気に自分の立場を認識させようとしたのだ。
しかし美咲の指摘に愕然とする筈の相手は、何故か眉を顰め不思議そうに美咲を見返していた。
「あ・・・貴女・・・ホント、何言ってるのっ?いきなりやって来て・・・名字?岩下に決まってるじゃないっ」
美紀はそう口にすると、その時何かに思い至ったように一歩さがった。
その表情は哀れみと恐怖が半々に混じっている。
そしてその表情の意図するところは、美咲にもストレートに伝わっていた。
「ちょっと・・・何よ、その目はっ!あんた、ま、まだ気付かないのっ!あんたは岩下じゃなくて、石田でしょっ!石田美紀っ」
大声で怒鳴りながら近づく美咲の合わせるように、美紀はゆっくりと後退した。
そして美咲を目で牽制しながら、ゆっくりと言った。
「えぇ・・・そうね・・・そうだわ、私、石田です・・・石田美紀よ・・・ありがとう、気付かせてくれて」
そのセリフこそ美咲の求めたモノだったが、その口調は正反対だった。
まるで狂人を宥めるようなその口調、その物腰・・・
美咲の頭にカッと血が上った。
「ちょっとあんたっ、待ちなさいよっ!この私に向かって・・あっっ!」
捲し立てようとした美咲はその時不意に気付いた。
美紀がゆっくりと後退しながら何処に近づこうとしているかを・・・
美咲はいきなりダッシュすると美紀に飛びかかった。
反射的に飛び退く美紀だったが、何故がタイミングが遅れた。
その瞬間だけ、美紀の注意が背後に逸れていたのだ。
「このガキッ!」
美紀の腰にタックルした美咲はそのまま押し倒すと流れるような動きで関節を極めた。
この辺の体術はさすがに準Aクラスと言うべきだろう。
運動神経では美咲にひけをとる美紀ではなかったが、こうしたテクニックは訓練していない者にはどうしようもなかった。
「いっ、痛いっ!」
叫びとともに美紀の手から何かがすり抜けた。
そして硬い音とともに電話の子機が外線ランプを灯しながら床に転がったのだった。
「はっ、離してっ!何するのよっ」
「煩いっ!自分の名前を思い出しなさいよっ」
「いっ、岩下って言ってるでしょっ!」
「だから違うって教えたでしょっ」
「判ったわっ!もうっ、石田よっ、石田でいいから、離してよっ」
美咲はその言葉を聞いて忌々しそうに首を振る。
このままでは埒が明かなかった。
「くそっ!この馬鹿ガキッ」
美咲はそう捨てゼリフを吐くと、もう一度ノックアウトスプレーを使用したのだった。
「ったくっ、何なんだっ!このガキ、いったいどうなってるって言うんだっ」
床に伏した美紀を見下ろしながら美咲は罵倒する。
夫の開発した最新の抗催眠試薬がまるで効かないのだ。
こんな結果だけはまるで予想していなかった。
あの蘭子の催眠でさえ打ち破ったと聞いていた薬なのである。
しかし、信じ難くても現実は現実。
そして美咲は自分がかなり拙い立場に立たされている事に気付いた。
美紀が正気に戻っていれば、自分は味方だと説得も出来る。
しかし今のままでは、逆に敵に自分たちの存在を教えてしまっているだけなのだ。
これからマインド・サーカスに攻勢を掛けようと言うタイミングなのである。
その前に敵に自分たちの存在を知られてしまうのは、あまりにも大きなマイナスである。
最悪、姿を消されてしまうかもしれない。
蘭子の失態を追求するあまり、美咲は自分の方が大きな失態を演じてしまっていた。
「拙い・・・拙いわ。このガキをここには置いておけない。敵に知られる前に連れ出さないと・・・」
美咲は慌てて携帯を開いた。
けれどメモリの選択をして通話ボタンを押すその直前で、美咲は小さな音を耳にしたのだった。
ドアに鍵を差し込む微かな物音を・・・
美咲は咄嗟に美紀の体をソファの足下に転がした。
「あら・・・どうも、お邪魔しております」
すぐに居間に現れた諒子に、美咲はソファから腰をあげると振り返って挨拶した。
「えぇと・・どちら様かしら」
「はい、どうも、初めまして。私、夕日生命の雪野と申します」
美咲はそう言うと懐から小道具の名刺を取り出し諒子に両手で差し出した。
「保険の外交の方ですのね?」
名刺に視線を落として諒子は訊く。
「はい。この度は妹さんにお話を聞いて頂いていたところなんです」
「そうですか。それで美紀は?」
「ちょっと外されてます。おトイレ・・かしら」
美咲はそう言って奥の扉を指さした。
諒子の視線はその先を追いかけている。
しかし一瞬視線が逸れたこのタイミングこそ、美咲が狙っていた罠だった。
名刺ケースをポケットに戻したその手で三度(みたび)ノックアウト・スプレーを取り出す。
そして奥に顔を向けている諒子の横顔に向けて、そのスプレーを押し込んだのだった。
・・・いや、美咲は押したつもりになっていたのだが・・・
しかし崩れ落ちる筈の相手は、何事もなく振り向くと氷のような視線を美咲に向けたまま微動だにしない。
代わりに美咲自身の膝がガクンと崩れた。
(何・・・何なの・・・これ)
訳が判らず混乱した状態のまま美咲は床に崩れそして失神した。
そして諒子は、その美咲の鳩尾に食い込んでいる特殊警棒を無造作に拾い上げたのだった。
このマンションはマインド・サーカスの用意した隠れ家である。
事情を知らぬ保険の外交員が訪れ、そして部屋に上がり込むという事などあり得なかった。
しかも何か魂胆があることなど美咲の顔を見れば諒子の目にも一目で判った。
それを美紀が気付かぬ筈はないのだ。
「美紀っ!」
ソファの向こうに倒れている妹を発見するとすぐにその首に手を当て脈を診る。
しかしそれが規則正しい脈動を伝えている事に気付くと、ホッと胸を撫で下ろした。
そして改めて美咲振り返り見下ろすと、大きな溜息を吐いたのだった。
「拙いわねぇ・・・」
しかしすぐに表情を変えると、嬉しそうに呟いた。
「緊急事態ってことよねっ。ってことは、あの人を呼んで良いんじゃないっ!」
そして胸の前で一度手を打ち鳴らすと、いそいそと携帯を取り出し、何処かへコールしたのだった。
< つづく >