第一章 深夜の怪人
世の中は不況だ不況だと騒がれているのだが、それでもここ成城の屋敷町ではそんな影響はまるで見られなかった。ここは比較的新しい住宅街で、華族という人はあまり見かけないが、産業や商業で大きくのし上がった人々が大勢暮らしていた。特に戦争で財を成した人が多かった。日本は早々に大陸から手を引いたのだが、そのために戦争に巻き込まれずに助かったのだ。そして、戦時中から戦後にかけて物資の中間貿易などで大きく経済を発展させることが出来たのだ。だが、戦争の影響はかなり尾を引き輸出が頭打ちになり、流石に産業界には冷たい風が吹き始めていた。それでもかなりの蓄えを持つ人種にとっては、ほんの一時の停滞に過ぎぬように見えていた。
しかし、この成城の街に、今、不況とは別の不安がはびこっていた。
その不安とは、仮面王と名乗る謎の怪人のことだった。
仮面王は犯罪者だった。変装の名人でどんな人物にでもなりすますことが出来た。そして、主に美術品などを狙い、必ず予告状を出してから犯行に及んだ。一滴の血も流さずに。
この成城でも、すでに幾つかの家が被害に遭っていた。
そして、ある初夏の夜、今度は仁科という大手の美術商が狙われたのだ。若い頃、大陸で商売をしていた仁科というその人物は、日本に引き上げて来る時、かなり珍しい美術品なども持って帰って来ていた。その内の三つの観音像を、仮面王は狙ったのだ。
予告状が届くと、仁科氏はすぐに警察に連絡した。直ちに所管の警察から松平警部が到着した。
「今度こそ絶対捕まえてやります」
松平警部は、妙齢の美しい女性だった。だが、仮面王の名を耳にする度に、美しい顔を歪めて怒りの表情を露わにしていた。ムリも無い。今まで幾度もしてやられているのだ。聞いた話では、松平警部はキャリア組の一人で、その中でもエリート中のエリートだったらしい。仮面王さえいなければ、とっくに警視になっていたとさえ、言われている女性だった。少し前までは、いつ警視になるのだろうと噂されていたものだった。だが、代わって、今、囁かれていることは、いつ警部補に降格されるのだろうということだった。
仁科氏の家族は、美しく上品な婦人と、母親譲りの美しさと歳相応の可愛いらしさを併せ持った女学校に通う令嬢、それに、愛人ではないかと噂されている美人秘書と二人のメイドだった。しかし屋敷は部屋数だけでも二十を超える大規模なものなので、警部は使っていない部屋には鍵をかけるように要請し、鍵は仁科氏が一つ、スペアを警部が一つ持つことになった。
仮面王は順繰りに一つずつ狙うと予告していた。松平警部は十重二十重に警官隊を囲ませたのだが、一つめの像は、まんまと盗まれてしまった。予告のあった深夜十二時に金色の仮面を被り黒マントに身を包んだ仮面王が邸内に出現し、警官隊は追い回すうちに見失ってしまった。最後は二階にある令嬢の部屋に立てこもったように見えたのだが、警官隊が突入してみるてと、麻酔を嗅がされた令嬢が気を失っているだけだった。警官隊は懸命に捜索したのだが、令嬢の部屋に麻酔を染み込ませた布が落ちているのを見つけた他、その外の茂みの中に仮面とマントを発見しただけで、曲者の姿を捉えることはとうとう出来なかった。令嬢の部屋に曲者が飛び込んだ時、すぐに窓の下にも警官が配置されたのだが、その警官は曲者を見ていなかった。にもかかわらず、マントと仮面は茂みの中に隠されていた。昼間、そこを点検した時には何も無かったと言うのに。そして、その間に、観音像は消え失せていた。
「これ以上は盗ませません!」
警部は怒りの形相も露わに確約したが、仁科氏はアテにはしていなかった。それよりも仁科氏は知人の紹介で、ある探偵に相談するつもりでいた。段原竜という変わった名前の探偵で、本来は冒険家なのだそうだ。しかし、日本へ戻ってきている間に幾つかの事件を解決し、すっかり探偵づいてしまってとうとう麻布に事務所を構えてしまったのだという。
だが、探偵は所用で九州へ出かけていた。戻り次第、仁科氏を訊ねてくれることになっていた。二つめの観音像を盗むと予告した日までは、まだあと一週間はあった。それで仁科氏は事態を楽観視していた。幾つもの難事件を解決してきたという探偵が来てくれれば、仮面王なぞ怖くはない。
だが、事件は予告一週間前のその晩から起こった。
まず、夜の十一時頃に、メイドの千寿子が窓の外に仮面王を見たと騒ぎ立てたのだ。念のため窓の外を調べると「あと七日」と書かれた紙が落ちていた。
翌日の晩には、夜の十二時頃になって夫人がやはり窓の外に何者かを見たと話し、調べると今度は「あと六日」と書かれた紙が発見された。
その翌日には、夜の十二時近くに秘書が邸内で廊下を走り去る仮面王を目撃し、その後に「あと五日」と書かれた紙が残されていた。
その翌日には、夜十一時頃になって令嬢が自分の部屋のドアを開けると、中から怪人が飛び出して来て走り去った。令嬢の机の上には「あと四日」と書かれた紙が置かれていた。
そして、その翌日のことだった。夜の十一時を過ぎて、若いながらもどこか気丈な一面のある加奈子というメイドが、邸内で見張りについている刑事たちのためにコーヒーの用意をしている時に、不意に廊下に人の気配を感じたのだ。このコーヒーは、二人のメイドが一緒に支度をすることになっていたのだが、千寿子の方が姿を見せず、お湯を湧かしながらも加奈子は年上の朋輩を気にしていた。一つには、それで気配に気づいたのだろう。若い娘にありがちな茶目っ気を持ち合わせていた加奈子は、遅れてきた先輩格のメイドを驚かせてやろうと忍び足で廊下に出て、逆に自分が驚くことになってしまった。そこには金色の仮面を被った黒衣の人物が、壁に何かを貼り付けていたのだ。良く見ると「あと三日」と書かれた紙だった。
その人物は加奈子に見られていることなど気づかずに、リビングの脇を通って二階の階段を悠々と上り始めた。その階段のすぐ向こうには、刑事たちの詰めている部屋がある。加奈子は咄嗟に叫んでいた。
「仮面王です!階段を上っています!」
刑事たちが飛び出して来るのと、怪人が階段を駆け上がるのと、ほぼ同時だった。
「待てっ!」
刑事たちが二階へ駆け上がった時には、どこかでバタンとドアの締まる音が聞こえて来ただけだった。
「どの部屋だ?」
二階にもかなりの部屋があったが、今はメイドや秘書の寝室や令嬢の部屋を除けば鍵がかけられている。
その時だった。悲鳴が聞こえて来た。令嬢の声だった。続いてガラスが割れる音がした。刑事たちが部屋に飛び込むと、窓が割れており、青い顔をした令嬢が外を指さしていた。外を見下ろすと、ガラスの破片と椅子が落ちているのが見えた。先日のことがあって以来、窓にはもう一つ鍵を取り付け、むやみに開けられないようにしてあった。それで脱出のために怪人は椅子で窓を壊したようだった。
令嬢とメイドの加奈子から松平警部が詳しい話を訊こうとした時だった。それまでどこかに姿の消えていたメイドの千寿子がやって来て、来客を告げた。
「段原探偵のお使いの方とか」
こんな時間なので怪しみながらも一同が迎えてみると、令嬢やメイドの加奈子と同じくらいの年頃の少女だった。すうっと伸びた艶やかな黒髪に丸く大きな瞳の持ち主で、なかなか可愛いらしい容貌をしている。
「わたしは段原探偵の一番弟子で、助手をしております小林芳枝と言います」
少女は、はきはきとした声で自己紹介をした。だが、到底こんな時間に出歩くには不自然で、警官たちは警戒心を強めた。
「段原竜という探偵の名前は聞いて知っている。だが、相手が仮面王では素人の出る幕は無いのではないかな」
応対した陣内という年輩の男性警部補が、懐疑的な表情と口調でつっけんどんに言った。だが、松平警部はそれを押しとどめた。
「段原探偵は、仮面王についてどこまで知っているのだ?」
すると小林少女は、にっこりとして答える。
「はい、最初の事件からです」
「最初?最初だと?」
不意をつかれた警部は懸命に記憶を掘り起こす。
「ええと・・・三谷家のスタースピネル・・・いや、その前に岩崎家にあったロダンのクロッキー数点・・・」
「東京国際技術大学の研究室から盗まれた洗脳装置の試作機です」
「洗脳装置だと?」
「はい」
少女は平然と答える。松平警部は何事か考え込んだ様子だったが、陣内警部補は吐き捨てるような調子で、
「ばかばかしい!あれは軍部の命令で開発が中止になった代物だろう!」
「はい、でも試作機はすでに出来上がって・・・」
「くだらん!仮面王は美術品にしか興味が無い筈だ!」
「いえ、盗んでいますよ。そして、これは大事なことなのです。至極、重要なことだと先生もおっしゃられていました」
少女は、何が面白いのかニコニコして話す。警部補は苦虫を噛みつぶしたような表情になったが、警部の方は、ハッとした顔になる。
「段原探偵が・・・?」
「はい、そうです」
警部は、ふたたび何事か考え込みかけたが、それを邪魔したのは警部補だった。
「くだらん!よしんば、ヤツがその装置を盗んでいたとしても、今はそんなことには関係無い。ヤツの神出鬼没の理由がわかるわけでもあるまいし・・・大体、我々はそのことだけで手一杯なんだ。今夜もまたヤツはいつの間にか邸内に出現し、消えてしまった。その理由を解くことが、今、最も重要なことなんだ」
少女は、心中ひそかにため息をついた。
だから、わたしが今、話したことにその手がかりがあると言うのに・・・やはり先生の言われた通り、警察では全然ダメだわ・・・
結局、段原探偵の助手だというその少女は、その晩は警官たちと一緒に仁科邸に泊まることになった。バスや地下鉄や都電は一晩中動いてはいるものの、こんな少女を一人で帰すわけにはいかないという警察側の考慮と、それからこれはもっぱら松平警部の考えなのだが、この少女が何をするか見てみたいという警察の思惑も働いていた。
その知らせが家人にもたらされた時、夫人は就寝中だった。夢を見ていた。淫らな夢だった。この一ヶ月、夫人は淫夢ばかり見ていた。だが、それで悩むことはしていなかった。治療の成果が出ているのだと、夫人は思っていた。
夫人がストレスに苛まれてカウンセリングを受けたのは、ちょうど一ヶ月ほど前のことだった。自分でも意識していない欲求不満が溜まっているのだと言われ、最新の治療を施された。何かの装置に座らせられ、目覚めた時はスッキリしていた。それからだった。しばしば強い性衝動を感じるようになったのは。装置の効果だと言われ、そこで堪えたりせずに思う存分オナニーをして欲求を解消するようにと、カウンセラーには言われた。それからは一日に一回、多い時には数回、夫人はオナニーをしていた。最後は決まって意識を失った。そして、すっきりとした気分で目覚めるのだ。
ただ、若干の不安があった。いつもオナニーをする時は裸か下着姿だった。それなのに、先日目覚めた時は、部屋着をまとっていた。いつ、服を着たのだろう・・・?
しかし、そんな不安も次にオナニーをしてすっきりしてしまえば、何でもなくなるのだ。
それにしても、これほどオナニーばかりしていてなおも淫らな夢を見るとは、わたくしはよくよく欲望の強い女だったらしい・・・
夫人は、夢の中でそう思っていた。
翌日、怪人は姿を見せず、ただ夜中の十二時近くになってリビングの壁に「あと二日」と書かれた紙が貼られていた。
その翌日には、何と玄関の表に「あと一日」と書かれた紙が貼られているのを、十二時頃に表の見回りから戻った刑事たちが発見した。
その間も、小林という少女はずっと泊まり込んだまま、何をするでもなく、ただ事態の推移を眺めているだけだった。
< 第二章につづく >