『監禁』
2012年人身売買組織COSはある密告により世間の目にさらされた。
それに伴い自ら犯罪に荷担したと思われる国は証拠隠滅に奔走した。
この時、売買された女性達は例外無く抹殺される運命にあった。
もちろんCOSにおいて『89』と呼ばれた日本人女性も。
【2013年12月26日PM6時10分】
この異国の地を訪れてから何年経ったのだろうか。
ここが何処の国なのかは今だに分からない。
しかしそんな事はどうでも良い。
奴隷の私がそんな事を知る必要は無いのだ。
私は『マスター』と呼んでいるご主人様の事だけを考えていれば良いのだ。
チリン!チリン!チリン!
ベルが鳴っている。
これはご主人様が私を必要としている時鳴らされるベルの音だ。
急いでご主人様の居る部屋へと向かう。
そして分厚い木製のドアを二回叩きご主人様の声を待った。
『マサコ!』
ご主人様の声がドアの向こう側から聞こえる。
『マサコ』というのはご主人様が私の為につけてくださった名前だ。
「イエス!」
私は静かな口調で返事をする。
ご主人様と私は『イエス』『ノー』『マサコ』『マスター』でしか会話をした事がない。
これで十分足りるからだ。
そんな事だからご主人様は私がこの国の言葉を全く知らないと思っている。
しかし実際のところ今では少しだけなら聞く事も話す事も出来る。
重厚な造りのドアが静かに開く。
そこには憔悴しきった表情のご主人様がいた。
目が異常に腫れ頬はかなり痩けてしまっている。
悩み苦しんだ跡がはっきり分かる。
『マサコすまない!お前を生かしておくわけにはいかなくなった』
ご主人様の身体は小刻みに震えている。
ひょっとすれば私も震えているかもしれない。
しかし言葉が分からないふりをしてただひたすら微笑むしかない。
『すまない!すまない!すまない!すまない!・・・・・・』
ご主人様はうなだれ何度も同じ言葉を繰り返し謝っている。
頭を上げた時はかなりの時間が経っていた。
ご主人様が私の目を見つめている。
その表情から何かを決断したという事が分かる。
そして口が開き一言一言たしかめるようにしっかりした口調で言った。
『シルラ エッジ バグ アンド セロ』
その瞬間言葉は私の全身を支配する。
不思議な事に死への恐怖は全く消えてしまった。
今ご主人様に殺される事は私の運命なんだという強い思いが頭の中に浮かんできたのだ。
――私は死ぬんだ
遠くなる意識の中でご主人様愛用のP7と呼ばれる拳銃の銃口が見えた。
その先には私の心の中にいつも居たあの御方の姿がはっきりと見える。
――幻でも良い。まさかまた会えるなんて
なんて幸せな気分なんだろう。
私は幻に向かいもう一度にっこり微笑んだ。
『あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ』
ご主人様が叫び声をあげている。
その声はなぜか遠くに聞こえる。
私は目をつぶりペンダントを強く握りしめた。
パンッ!
そして銃は火をふいた。
【11年前、2002年12月26日AM7時30分】
ジリリリリリリリリリ・・・・・・・・・
目覚まし時計のけたたましい金属音でその日は最悪の目覚めを迎えた。
動悸は全く治まりそうになく思考は混乱している。
「はぁはぁはぁはぁ・・・・・・・・」
苦しさのあまり開かれた口からは涎が糸を引いて地面に流れ落ちている。
身体中が焼けるように熱くかなり気分が悪い。
「私・・・・・・・私・・・・・・・・・」
ようやく出た言葉はそれだけだった。
何も考えられずただその場でもがき苦しむ事しか出来ないのだ。
チッチッチッチッチッ・・・・・・
秒針が動く度に出てくる単調な音が四方八方から聞こえてくる。
――いったい私に何があったのだろう? なぜこんなに気分が悪いのだろう?
少しだけはっきりしてきた意識の中で私は必死に考える。
そう言えば以前もこんなに気分の悪い目覚めを迎えた事があった。
あれはたしか私がまだ小学校の時、大好きだったおばあちゃんが長い闘病生活の末、永遠の眠りについた翌日だ。
両親は『弥生はおばちゃん子だったからね』と言い強く抱きしめてくれた。
だけどあの時私に涙は無かった。
即座に死を現実の物として受け入れる事が出来ず実感が湧いてこなかったのだ。
悲しみが襲ってきたのは眠りにつく頃だった。
いろんな思いが走馬燈のように頭の中を駆けめぐり何時間も私を苦しめた。
あの時、思い出は全て悲しみに変わっていた。
ピピッ!ピピッ!ピピッ!ピピッ!・・・・・・
今度は違う目覚まし時計から電子音が鳴り響く。
即座に二つの目覚まし時計の上についているボタンを押しスイッチを切った。
「ここはいったい?」
少しだけ意識が回復してきた私は部屋の中を見回す。
広さは八畳程だろうか、天井に備え付けられている照明は蛍光灯自体が古いのか少し薄暗さを感じさせる。
床は飾り気のないござがしかれ隅には洋式の便器が向きだしに置かれている。
小さな窓が一つあり壁一面には奇妙な文字と擦り傷があちらこちらについている。
しかしこの部屋の中で一番奇妙な物と言えば合計八個もある目覚まし時計だろう。
時間を示す針は全ての時計が異なった所を指している。
ジリリリリリリリリリリリリ・・・・・・・・・・・
また目覚まし時計から金属音が鳴りだす。
今度の物は上にボタンがついていない。
少し迷った末後ろについているカバーを外し電池を取り出した。
頭の中は完全に混乱している。
その時ドアが開かれ一人の男性が入ってきた。
頭髪は一昔前のサラリーマン風に七三で分けられ白のカッターシャツの首元にはやや太めのネクタイが巻かれている。
銀縁の眼鏡の底から光る鋭い目と口元をいびつに歪まし作られた薄ら笑いは私に嫌悪感を抱かせた。
「気分はどうですか?」
男はそう言いながら私の頬に手を伸ばす。
その手が触れた瞬間再びむかつきを覚え思わずその手を振り払う。
男は一瞬驚いたような表情を見せるがすぐにまた薄ら笑いを浮かべた。
「怖がらなくても良いですよ。 私はあなたの味方です」
「味方?」
いったいこの男は何者だろうか。
そして今私はどういう状態に置かれているのだろうか。
そんな私の疑問を見透かしているように男は話し始める。
「私はここでは『セロ』と呼ばれています。 あなたの名前もすぐにつけられる事になりますから安心してください」
そう言った後に笑った口からは煙草のヤニで汚れきった歯をのぞかせ私を一層不快な気分に陥れる。
そんな私に構う事なく『セロ』と名乗る男は話し続ける。
「今年はあなたにとって最高のクリスマスになりましたね。 この日を境にあなたは変わるのです。 本当の自分を見つけるのです」
何を言っているのか意味は全く理解出来ないがどうやら私はかなり危ない状況にいるらしい。
反射的に立ち上がり『助けて』と叫んだ。
しかしどういうわけか足腰に全く力が入らずすぐに床に崩れ落ちた。
「なぜ?」
そんな私の言葉を背にしながらセロはドアを開け部屋から姿を消してしまった。
「なぜなの?なぜなの?なぜなの?なぜなの?・・・・・・・・」
何でこんな目に合わなければいけないのだろうか?
私が何をしたというのか?
『なぜ?』と何回も自分に問いかける。
答えは全く出てこない。
ジリリリリリリリリリリリリリリリリリリ・・・・・・・・
ピピッ!ピピッ!ピピッ!ピピッ!・・・・・・・
ピッ!ピッ!ピッ!ピッ!ピッ!・・・・・・・・
その時四方八方で目覚まし時計が鳴り出した。
このままでは気が狂いそうになる。
力の入らない下半身を引きずって一個一個電池を抜き出しては床に投げつけた。
「出して!私をここから出して・・・・・・・・・・」
悔しさのあらわれだろうか。
それとも絶望感から来ているのだろうか私の目からはいつしか涙が溢れ出ている。
「助けてお父さん・・・お母さん・・・・・・」
その言葉が無意味と分かっていても言わずにはいられない。
「ひろし!」
その時脳裏に様々な光景が浮かんできた。
気味の悪い微笑みを浮かべながら『最高のクリスマス』と言っているセロの姿やクリスマスで賑わっている街の中を暗く沈んだ表情で歩く私の姿。
それに怪しげなビルと絵。
ほとんど光が入らない部屋。
奇妙な音楽。
薄れる意識。
そして無表情な男。
「私は・・・・・私は・・・・・・・」
そう!あの日私は全てを捨てたくてあの男に抱かれたのだ。
両親も日常も、そしてどうしても忘れる事が出来なかったひろしの事も全部消し去りたかった。
それにつけこみあの男は私の身体をひたすらむさぼったのだ。
そして私は歓喜の声を上げそれに応えたのだ。
「どうしてあんな事を・・・・・・・・・・・」
後悔の念と共に苦味のきつい胃液が這い上がってくる。
喉が焼けるように痛い。
咳と涙がいつまでも止まらない。
――汚い!汚い!汚い!汚い!汚い!・・・・
間違いなくあの男の体内から出た物が今身体中を駆けめぐっている。
私はあの時たしかにそうなるように望んだのだ。
『欲しい』と嘆願した。
もはや時は戻せない。
ガチャッ!
ドアノブを回す音により私は現実に戻される。
ゆっくりと音をたてずに入って来たのはやはりセロである。
右手にはミルクが入っているガラスのコップ左手には小さめのクロワッサンがのっている小皿が握られている。
それを私の目の前に丁寧に置き食べるように勧めた。
すぐさま私はセロを睨みつけ無我夢中で叫んだ。
「いったい私に何をしたの! こんな事は許されないわ」
まるで私の言葉を聞いていないかのようにセロは相変わらず気味の悪い笑みを浮かべている。
「とにかく私を帰しなさいよ!帰しなさい!帰して!」
次第にその叫びは涙声になり最後は『帰して』と繰り返すのみとなった。
「可哀想に!全て思い出されたようですね」
セロは他人事のようにそう言うと私の頬をつたる涙を右手人差し指と中指でぬぐう。
「あっ!」
途端に背筋の辺り一面悪寒が走った。
セロはそんな私を見ながら少し長めの舌に二本の指を擦りつけている。
「名前のとおりあの男はバグでした。力を得た者は時として周りが見えなくなるものですね」
どうやらあの無表情な男はバグと呼ばれているらしい。
どうやらセロはあの男を軽蔑しているらしい。
「でも安心してください。あの男には我々がきっちり罰を与えておきましたよ」
――罰とはなんだろう? それに我々という事は他にも誰か居るのだろうか?
セロの眼光は更に鋭さを増し続けている。
「大切な大和撫子に手を出したのですから当然です」
「大和撫子?」
セロは私にそうだと言わんばかりにゆっくりと頷き話しを続けた。
「あなたの力で失われた日本女性の価値を取り戻すのです」
「言っている意味が全然分からないわ」
セロの顔に再び笑みが浮かぶ。
「大丈夫です!安心してください。今年中には立派な大和撫子となりご主人様に仕えられる様になれますよ」
軽い目眩に襲われ身体は小刻みに震えだした。
そんな私を見てセロはますます気味の悪い笑みを浮かべている。
「私はあなたの味方です」
そう言い残しセロは部屋を出て行った。
後にはクロワッサンとミルクだけが残されていた。
【2002年12月26日PM3時15分】
足腰の痺れはまだ残るものの気分は、だいぶん落ち着いて来た。
頭も先程よりは幾分すっきりしていて正常に働かす事が出来る。
――どうやら私は売春目的でここに拉致されセロと名乗る男はそれを今年中に実現するつもりなんだわ
今考えなければいけないのは『どうしてこんな目に合うのか』ではなく『どうすればこの危機から抜け出す事が出来るか』なのだ。
この部屋に一つしかないドアは見た目以上に丈夫な物で私の力ではびくともしなかった。
この部屋から逃げ出す方法はただ一つ。
今はその時を待つしかないのだ。
「おや!食事をとらないのは良いことじゃないですね」
セロはそう言うと私の目の前に置かれたコップを手に持ちミルクを一気に飲みだした。
「せめて水分だけでも取らないとね」
セロは私に言いたい事があるといわんばかりに唇周辺についたミルクを長い舌で左上から右回りにゆっくりとなめている。
「怖がらなくても良いですよ。何回も言っているように私はあなたの味方です」
「味方と言うなら私を解放してちょうだい」
セロは人差し指を立てるとゆっくりと左右に降り『ノー』という意思表示をした。
「私をこれからどうするつもり」
私の問いかけにセロは悪びれる事なく平然とした表情のまま答える。
「来年早々に或る島で大規模な人身売買がおこなわれます。あなたにはそこで出品される大事な商品になってもらいます」
ある程度は想像していたがあまりの衝撃に一瞬身体が硬直する。
「日本女性の商品価値を高める為にあなたにはきっちり教育させていただきます」
何を言っていいか分からない。
思考は完全に麻痺状態になっている。
「もちろん私一人では無理なので他にも教育係がつく事になります」
「教育係?」
「そうです!あなたを正しい道へと導く者達の事です。先ずは『エッジ』という者を紹介しましょう」
この部屋の外がどうなっているか分からないがセロの他に最低でもまだ一人は仲間が居るという事になる。
「もうすぐすれば『エッジ』の顔を見る事が出来ますよ」
何がおかしのか分からないがセロは『くっくっくっ』という嫌らしい笑い声をあげている。
そして耳元で息を吹きかけながら囁いた。
「私はあなたの味方ですよ」
【2002年12月26日PM4時00分】
『エッジ』と名乗る男が私の前に現れたのはセロがこの部屋を出ていってすぐの事だ。
彼はスキンヘッドを光らしながら私に罵声を浴びせ続けている。
「お前は生きていく価値のない人間だ。周りの人間もみんなお前の事が大嫌いと言ってたぞ」
はっきり言って単純な挑発だ。
決して乗ってはいけない。
今は我慢するしかないのだ。
「みんなお前が消えて喜んでたぞ」
そんな筈があるわけない。
私が急に消えて今頃みんは凄く心配しているだろう。
「お前は、しゃべれねえのか! 馬鹿か!それとも俺なんか相手出来ねえのか!何様のつもりだ!そんな事だからお前は嫌われるんだ!」
男の罵声は途切れる事がない。
「俺も生きていく価値のないお前なんか相手したくないんだ。本当にツイてねえや」
『ツキが無いのは私の方だ』と心の中で叫ぶ。
男は感情を高ぶらせ爪をしきりに噛んではあちらこちらに吐き出している。
「それにしてもムカツク女だな!俺はお前みたいなクズが一番嫌いなんだ!死ぬ事も出来ねえクズ女が!」
『クズなのはこの男だ!この男は獣だ!』と、自分に言い聞かす。
「セロが居なかったらすぐにでも俺がぶち殺しているところだ!」
何と勝手な事を言っているのだろうか。
たしかにこの男は凄みはある。
正直怖いくらいだ。
しかし言っている事は根拠の無い事ばかり。
大きな声で吠える事しか能のない男なのだ。
――聞こえない!聞こえない!こいつの言っている事なんか全然聞こえない
何度もその言葉を自分に言い聞かす。
「お前は最低だ!最低だ!価値のないクズだ!」
容赦ない罵声はどこまでも続いていく。
【2002年12月26日PM6時30分】
いったい何時間エッジは私を罵倒し続けただろうか。
無視を続けてはいたが体力はかなり消費してしまった。
昨晩から何も口にせずこのような部屋に閉じこめられ体力的精神的の両方において激しく疲労している。
ようやく痺れは取れてきたが鉛のように身体が重い。
「エッジの事は気に入りましたか?」
そう言いながらセロはエッジと入れ替わるようにして部屋に入ってきた。
私が睨み付けても平然としたままだ。
「おや?気に入らなかったみたいですね。それは残念です。でもそれはあなたが心を閉ざしているからです」
この男は自分の言っている事が分かっているのだろうか。
こんな馬鹿な話しはない。
完全にこの男は狂っている。
「もっと心を開きなさい。自分自身を知る事を恐れてはいけません。あなたは一人じゃないですよ。いつでも私がついてます」
セロはそう言いながら私の髪を上から下へ何回も撫でている。
この男が触れていると思うだけで本当は身体中悪寒が走る。
しかし拒否すればこういった類の人間は何をするか分からない。
今下手に逆らってはいけない。
私には耐えてチャンスを待つしかない。
「み・・・・水!」
しばらく水分をとっていないので正直なところ喉が渇ききっている。
無意識のうちに『水』と口にするのも仕方のない事だ。
出来ればこんな男に『水をください』なんて言いたくないが身体の欲求には勝てない。
「水がどうかしましたか?」
セロが口元をいびつに歪まし笑っている。
私の弱気な姿を余程見たかったのだろう。
「喉が渇いて死にそう。お願いだから水を」
セロは『分かった』と言う代わりに私の右頬を長めの舌で走らせている。
私は必死に耐える。
『絶対無事に帰るんだ』その思いだけが今の私を支える物なのだ。
セロが水を持ってきたのはそれから一分も経たなかった。
相変わらず薄気味悪い笑みを浮かべている彼の左手には古びた水筒、右手には大きめのガラス製のコップが握られている。
どうやらコップいっぱいに水が入っているらしく少し傾けるだけでかなりの量が床にしたたり落ちる。
「私はあなたの味方ですよ。 さぁ!これで喉の渇きを癒しなさい」
セロが何を言おうが今の私には関係無い。
コップを彼の手から少し強引にひったくると一気に身体に流し込んだ。
ゴクゴクゴクゴク
今まで水がこんなに美味しい物だとは思わなかった。
こんなに大事な物だとは全く考えてなかった。
全て飲み終えしばし放心状態になった。
そんな私にセロは近づき耳元で再び囁いた。
「もう一度言います。 今あなたの味方は世界中で私だけです」
水筒を私の目の前に置きもう一度私の頬を下から上に下を走らした。
その瞬間私は凄まじい程の疲労と眠気に襲われた。
「おやおや!少し安心したのかな? でもまだまだ寝るには早いですよ」
セロは私の髪をなでると再びいびつな笑みを浮かべ立ち上がった。
「あなたに眠りはまだまだ訪れません」
そう言い残しセロが部屋を出て行った。
私はそれを見届けると静かに瞼を閉じた。
しかし彼の言うとおり私にはまだ眠りを得る事は出来なかった。
なぜならセロが部屋を出ていってからすぐにエッジが現れ大声で私を罵倒し始めたからだ。
「このクズ野郎が!みんなお前の事が嫌いと言ってたぞ。本当に見ているだけで吐き気がする」
正直疲れ果てた今の私の身体には彼の言葉はかなり厳しい。
その言葉のほとんどは全く馬鹿げた物なのだが時折思い当たる事もあり揺さぶられる。
「なんだその目は? くりぬいてやろうか!」
エッジが脅しをかけてくる。
しかし彼がそれを実行する事は絶対にないだろう。
いくら鈍い私でもようやく理解出来た事がある。
彼等にとって私は商品なのだ。
よって傷をつけるなんてとんでもない事。
げんにこの粗暴なエッジも私に暴言を吐き攻めてくるが時折胸ぐらを掴む程度で手は絶対にあげてこない。
肉体は傷つけず精神を崩壊させるのが彼等の目的なのだ。
「死に方も知らねえのか!この馬鹿女!」
語気を強めるエッジに向かい笑みを見せる。
「なっ!」
私の意外な行動にエッジは一瞬たじろぐ。
――今だ!この隙を逃してはいけない。
私はすばやく床に転がっていたグラスを手にとると剥き出しにされた便器の元に走りそれを叩きつけた。
ガッシャン!
グラスは見事に砕け破片が散乱する。
その中で一番大きい物を少し血が滲んだ右手で素早く拾い上げた。
「な、何のつもりだ?」
私の身体には痺れがまだ残っていると思っていたのだろう。
彼はあきらかに動揺している。
「そんな物でどうするつもりだ? この馬鹿女め! 俺がそんな物を恐れると思っているのか!」
眠気と疲れが襲ってきている私の身体は既に限界である。
しかしここが勝負時なのだ。
わめき吠えるエッジを睨み付けながら最後の気力をふりしぼり大声で叫んだ。
「近づかないで! それ以上近づいたら」
鋭角に尖った破片の切っ先を頬にあてる。
「あんた達の大事な商品に傷がつく事になるわよ」
思わずエッジが一歩退く。
「や、やれるもんならやってみろ」
声はうわずり顔の表情は引きつっている。
私に万一傷つくような事があればあの無表情のバグという男が受けたような仕打ちがこのエッジにもおそらく与えられるのだろう。
ドアを背にしながら左手でノブを回してみる。
やはり鍵はかかっていない。
カチャッという音が鳴った後簡単にドアが開いた。
「あんた達に利用されるぐらいなら死んだ方がましよ」
そう言い残し部屋を出るとドアを閉めすぐに鍵をかけた。
ドンドンドン
エッジは部屋の中からドアを思いっ切り叩き大きな音をたてている。
私はそれにはかまわず辺りを見回す。
いったいこの建物は元々なんだったのだろうか。
コンクリートで作られた長い廊下はかなり古ぼけており天井の白色蛍光灯点滅を繰り返している。
いくつものドアがあるが人がいるのかどうかは分からない。
底知れぬ恐怖感と緊迫感が私を襲う。
おそらくいつもなら足が竦んでその場にうずくまる事しか出来ないだろう。
しかし今の私には脅えている時間などない。
なんとしてもここを脱出するのだ。
覚悟を決め一か八か右に振り向き全速力で駆けだした。
ガターン!
途中いくつかのドアが開く音が聞こえたが追いかけてくる気配はない。
――逃げなければ!逃げなければ!
私はただひたすらこの薄暗い廊下を走る。
おそらく実際の時間にすればそんなに長くないはずだがかなりの長時間に感じられる。
やがて私の目の前にエレベーターが現れた。
エレベーターの表示を見て分かった事だがどうやらこの建物は6階まであるらしくここはその4階にあたるのだ。
二つあるエレベーターのボタンを両方押してみるが不運な事に両方共一階にあったらしくそこからゆっくり上がってきている。
ガターン!
その時大きな音をさせエレベーターの向こう正面にあるドアが開かれた。
中から出てきたのは不運な事にセロだ。
顔にはいつもの嫌味な笑みはなく目の鋭さに恐怖をおぼえる。
「何をしているんですか?」
静かだが凄みのある口調でセロは私に問いかけ近づいてきた。
彼の開けたドアの隙間からは虚ろな目で天井を見上げ何かをつぶやいている女性の姿が見える。
「近づかないで! それ以上近づいたらこの顔に傷をつけるわよ」
エッジの時と同じようにグラスの破片を頬にあてる。
「私本気よ!」
セロに負けじと睨みをきかし言い放った。
チン!
その時ようやくエレベーターの到着する音が私の背後で鳴った。
私はセロを睨み続け牽制する。
そしてゆっくりとエレベーターの開かれたドアへと後退していった。
――神様お願い!
信仰心の厚くない私だがこういう時はやはり居るか居ないか分からない神に頼ってしまう。
『とにかく助かりたい。ここから逃げだしたい』その為なら私は何にでも頼るだろう。
しかし次の瞬間その願いはもろくも崩れていった。
セロの顔に再び嫌味な笑みが戻ったのを見てとりあわてて後ろを振り返ったが間に合わなかったのだ。
私の手首はすでに男性の強烈な力で握りしめられグラスの破片は床に落とされていた。
「離して!」
そう叫ぶが当然離すわけがない。
その男は左目を潰されてはいるが以前と変わらぬ無表情な顔で私を見つめている。
「また私と楽しい事をしますか?」
耳元で響くバグの声と共に全身の力が抜け意識は遠のいていった。
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