第4話『思惑』
立花七海は保健室にいた。
男の忠実な奴隷となった彼女は、養護教諭の仕事をこなしながら、男に差し出すための獲物が来るのを静かに待っていた。
「失礼します」
3時限の始業チャイムが鳴るころ、そう言って保健室に入ってきたのは多少斜の入った茶髪の学園生。
養護教諭としての仮面を被りつつ、学園生を快く迎え入れる七海。
「いらっしゃい、どうしたの?」
まずは学園生の名前と用件を伺う。
学園生の名は天王寺澪。ここのところ気分が優れず、しばらくベッドを借りるために訪れたのだと言う。
「身体の感じはどうなの?」
「うーん、ちょっと頭がぼーっとしてるかなあ」
「どれどれ……」
そう言って七海は澪の頭を両手で抱えて、自分の額を澪の額に当てる。
澪は七海のしぐさに一瞬どきりとした。
「きゃん!」
「うーん、熱はすこしあるかなあ……」
澪の上げた声を気にすることなく、七海は脈を取ったりして澪の様子を観察する一方、女の目で身体を値踏みする。
「こりゃ、精神的な疲れが出てるだけかな? 試験間近だからってちょっと気張りすぎじゃない?」
「そういえばそうかも……」
「家でもしっかりとお休みを取りなさいよ。体壊しちゃ元も子もないんだから」
「は~い」
見かけによらずなかなか素直ないい子のようである。
まずはこの子を獲物にしよう……そう考えた七海は、しばし思案した末にこう切り出した。
「ベッドで休ませるのもいいけど、精神的にリラックスできなきゃあまり効果ないしねえ……そうだ、先生がリラックスできる方法教えてあげようか?」
「本当ですか?」
「こう見えても大学は心理学専攻でいろんなリラックス法を勉強してたのよ。」
これは事実。実際七海は心理療法の腕を見込まれてこの学園の養護教諭になったようなものである。今年着任したばかりなので世話をした学園生は多くないが、それでも彼女は学園内で評判になりつつあった。
「へえ~、じゃあ期待しちゃおうかなあ……」
「期待してもらっちゃってもいいけど、人によっては効果が薄い、というのも一応覚えておいてね」
「は~い」
どうやら澪はこちらを完全に信頼してくれたようだ。七海にとっては好都合な展開だ。
「それじゃあ、まずは目を瞑ってリラックスしましょう。大きく吸って……吐いて……吸って……吐いて……」
その言葉のとおり大きく深呼吸する澪。
「そうそう、それからだんだんゆっくり、静かに呼吸するの……はい、吸って…………吐いて………………吸って……………………吐いて…………………………」
七海の声にあわせ、だんだんと息をするペースがゆっくりとなってくる。
「そう吸って……吐いて……息を一回吐くごとに身体の力が抜けてくる……肩も……腕も……足も……力がだんだんと抜けてくる……」
息を吐くたび、澪の肩が心持ち下がり気味になってくる。
「ほーら、力がどんどん抜けてくる……抜けてくると気持ちよくなる……頭の中も白くなってくる……気持ちよくなってくる……」
澪の身体が、呼吸にあわせ前後に揺れはじめる。呼吸が深くなるにつれその揺れはだんだん大きくなる。
「身体が揺れてきた……あなたは海の上にいる……海に身をゆだねるともっと気持ちよくなる……右に……左に……前に……後ろに……揺れる……揺れる……」
声にあわせるかのように右にも左にも揺れる澪の身体。それを見て七海は澪の後ろに回る。
「それじゃあ、私が『はい』って声をかけると、あなたの身体は背中から海の中に沈んでいく……でも大丈夫、怖くないわ……はいっ!」
少し大きな声と共に後ろに倒れゆく澪。それを抱きかかえる七海。
澪の顔をのぞき見る。すっかりリラックスしたいい寝顔である。
七海の心理療法の中でもっとも得意とするのがこの催眠術。その上、今の彼女には男に授けられた『力』がある。催眠術をかける中でその『力』を上乗せすれば、普通の人間はまず抵抗できずに術中に陥るだろう。
七海は抱きかかえつつ澪を起こして一度目を覚まさせる……といっても、催眠術は解かない。従って澪は催眠状態のまま、虚ろな瞳で前を見つめる。
「聞こえる?」
「ハイ……」
「じゃあ、これからあなたは先生の言うことにはちゃんと従うこと。逆らうのはダメ、疑問に思ってもダメ……従わないと気分がとっても悪くなるわ……そんなのいやでしょ?」
「イヤ……」
「大丈夫、ちゃんと言うこと聞いたら気分は悪くならない……それどころかとっても気持ちよくなるから……ね?」
「ハイ……」
「じゃあ、まずは質問から……」
七海は澪から一通りの情報……家族構成・友人関係・放課後や休日の過ごし方・性体験や男性経験の有無など……を聞き出し、それからいくつかの暗示を植え込んだあとで、催眠状態から解放する。
「どう?」
「あ……なんだか身体が軽くなった感じです……」
「そう、それはよかった……まあ、念のためにこの時間が終わるぐらいまではベッドで寝ていた方がいいかもね」
「は~い」
そう言って、保健室備え付けのベッドに潜り込む澪。
七海は内心でほくそ笑んでいた。
澪には、適度な期間をあけてもう一度精神的不調を訴えて保健室に来るように、という暗示を与えてある。目を付けた学園生数人に対してこうした催眠術を何度もかけ、ころあいを見て男に献上する……これが七海の立てたプランだ。
そのころ、立花七海の住むマンションの最上階……そこはマンションのオーナー・白河未沙希の部屋。
両親を早くに亡くし、資産家の祖父に育てられた彼女だったが、その祖父も他界したため、残された財産と土地で独身女性向けの賃貸マンションを建築、その家賃収入で若くして悠々自適の生活を送っている。
そんな彼女の日課は街の散歩。本日もまた散歩に出るべく玄関のドアを開ける。
そこには見知らぬ男が立っていた。
「こんにちは、お嬢さん」
「あなた……どうやってここに……」
未沙希は困惑していた。正面玄関にオートロックを使ったこのマンションで、部外者が侵入することなどそうそう出来ないはずなのに……住人の誰かが入れたのだろうか、それともここの防犯システムに不備が……
「何故も何も、わたしはあなたのご主人様ですよ、ここにいて何の不思議がありましょう?」
「ふざけないでください、一体何の用ですか?」
あまりにふざけた言動ながら、その中に得体の知れない不気味さを感じる未沙希。それでも高圧的な態度に憤りを感じて気丈に聞き返す。
「大事な奴隷を可愛がりに来たのですよ」
「誰が奴隷ですか、警察を呼びますよ!」
「怒鳴ると、おしとやかな顔が台無しになりますよ」
「いい加減にしてくださ……ア……」
なおも詰め寄ろうとした未沙希の目に男の瞳が映る。とたん未沙希の顔から怒りの表情が消えた。
男は未沙希に質問する。
「一つ聞く、お前は俺の何だ?」
「ワタクシハ、アナタノドレイデス……」
よどみのない平坦な声で答える未沙希。
男は玄関に一歩足を踏み入れる。
「お前を、俺の奴隷にふさわしい女にしてやろう……」
「ハイ、ヨロシクオネガイシマス……」
未沙希は無表情のまま男を迎え入れる。
「さて……お前には粗相をしたお仕置きをせねばなるまい」
「ハイ、オネガイシマス……ソソウヲシタワタクシニバツヲオアタエクダサイ……」
未沙希はそう言ってお尻を男に向けて差し出す。スカートもパンストもパンティもすべて脱ぎ捨てている。
男は何も言わずに未沙希の尻を叩き始める。そこには一切の容赦も加減もない。
あっという間に未沙希の尻は真っ赤に腫れ上がる。なお容赦なく叩く男。
未沙希は……恍惚とした表情を浮かべている。叩かれる行為そのものに感じているのか、あるいは男にお仕置きされるというシチュエーションに興奮を覚えたのか……顔は上気し、秘部からは愛液が滴り落ちている。
「お仕置きされているのに感じているのか……お前は立派なマゾ奴隷だな」
「ハイ……ミサキハタタカレテカンジルまぞドレイデス……」
「どうやらお前には、痛みをご褒美にしてやるほうが似合いそうだな……」
そう言うと男は尻を叩くのをやめる。
未沙希は尻をもじもじと動かす。
「アア……」
「そう急くな。お前に命令を出してやる。それをちゃんとこなせたら褒美としてもっと痛いことをしてやる」
「アア……」
「おやおや、もう興奮しているのか。それとも待てないのか……いやらしい奴だ」
ほくそえむ男。
「なあに、簡単なことだ……お前はここの管理人で、正面玄関と部屋の鍵をある程度管理できるはずだな?」
「ハイ……」
「今日からこのマンションは、この俺が支配する。その証として、俺がこのマンションの鍵を完全にコントロールする。お前は俺が命じたとおりに鍵を開け閉めするんだ」
「ハイ……」
「俺の許可なしに住人を正面玄関から外に出すな。それから住人の部屋を絶対に閉めさせるな。基本事項はこれだけだ。あとは俺が追って指示を出す」
「ハイ、ワカリマシタ……」
未沙希は恍惚とした虚ろな瞳を男に向ける。
(まずはここからだ……たっぷりと弄んでやろう、この街の人間どもを……)
放課後……風間由紀は真田家の前に立っていた。
本日から試験前に入るため、部活動はとりあえずお休み。そんな時携帯に影美からのメールが届いたのだ。
話があるから、放課後に真田家まで来ること……由紀にとって影美の命令は絶対だから、一も二もなく馳せ参じた次第である。
この家を訪れるのはあの日以来のこと。自然、由紀の心臓は高鳴るばかり。
おそるおそると呼び鈴に手を伸ばそうとすると……その脇から一本の腕が伸びてきて、由紀と同時に呼び鈴のボタンを押していた。
由紀はその腕を目で追って呼び鈴を鳴らした主を見る。
「く、工藤さん……?」
「こんにちわ、風間さん」
小さく驚きの声を上げる由紀に対し、あゆみはいつもの無表情な声で挨拶する。
思わず顔を見合わせる二人。ドアの向こうから声と共に誰かが駆けてくる足音が聞こえる。
顔を見せたのは美影のほうだった。
「お待たせ……あら、二人一緒に来たの?」
「いえ、今ここでたまたま会っただけで……」
「まあいいわ、とりあえず二人ともおあがりなさいな」
「おじゃましま~す!」
「……おじゃまします」
そう挨拶して二人は真田家の敷居をまたぐ。
由紀は緊張でカチンコチンになっていた。
初めてこの家に上がったあのときでさえ、ここまで緊張することはなかった。今誰かから背中を叩かれたら心臓が口から飛び出してしまうかも……そんなことさえ考えていた。
横目であゆみの様子を見る……表情はいつもと変わらない。もっとも由紀自身、あゆみの能面のような表情が崩れた場面を見たことがないから、その表情から何を考えているのかを推察することはできなかった。
そう言えば、どうして彼女はここに来たのだろうか……由紀は思い切って聞いてみる事にした。
「工藤さん、どうしてここに?」
「会長に呼び出されて……」
「そうなんだ……」
そういえば工藤さんは執行部書記だったわよね、会長の美影先輩とは執行部で結構親しくしているんだろうか……由紀は美影とあゆみの関係をそんな風に想像していた。
「風間さんは?」
「わたしは、影美先輩に呼び出されて……」
「影美先輩とはうまく付き合っていらっしゃいますか?」
「いや、その、あの……」
そんな切り返され方をされるとは考えておらず、顔を赤くしてあたふたする由紀。
こう言っては何だが、あゆみがそういうことに関心を持っているとは思わなかったのだ。
二人でそんな会話をしていると、美影がジュースを持ってリビングに入ってくる。
「二人とも緊張しないで……まずはジュースでもどうぞ」
差し出されたジュースに手を付ける二人。
「もうちょっと待っててね。影美が夕飯の買出し出てるから、話はそれから」
無言でうなずく二人。
同時刻……
「ああ、もうこんな時間だ……タイムサービスが始まりそうだからって待ってたのがまずかった……由紀ちゃんもあゆみちゃんもそろそろ家に来てる頃かなあ……」
影美は、夕飯の買出しを終え、家路を急いでいた。
公園のど真ん中に来る頃……気配を感じた影美は、その場に立ち止まってその辺りに声をかける。
「ついて来てるんだろ……隠れてないで出てこいよ」
その声にあわせ、影美の背後から人影が現れる。
「あたしの後をつけていれば由紀ちゃんに会えるとでも思ったのかい、永瀬真澄さん?」
「いいや、今日はお前に用があってつけてきた」
「あたしに?」
振り返る影美の前に永瀬真澄がいた。ポニーテールにセーラー服、右手には竹刀……屋上で出会ったときと寸分変わらぬ姿だ。
真澄は言葉を継ぐ。
「お前……一体『何物』だ?」
「真田影美だけど?」
とりあえずとぼけてみる影美。
「その名前はとりあえず覚えておこう」
意外な切り返され方に少し拍子抜けな影美。ただ、雰囲気的にこれ以上の冗談は通じそうにない。
「……改めて問う。真田影美、お前は一体『何物』だ?」
「あんたの想像通りで間違いはないと思うけど。だからつけてきたんでしょ?」
真澄を見据えて言う影美。その言葉を受け、静かに竹刀を正眼に構える真澄。
「やはりそうか……ならば、お前を逃すわけには行かない」
「戦わないってわけにはいかない? あたしとしてはあんた達に迷惑をかけるつもりは……」
「『あやかし』の戯言に傾ける耳などない!」
「やっぱしそう来たか……ったく、『守護者協会』の杓子定規な対応にはうんざりするよ」
「!?」
影美が何気なく発した一言に過敏に反応する真澄。
「『どうして知っている!?』……って顔ね。あんたたちが『あやかし』の事を知っているなら、あたしらが『護り人』や『守護者協会』のことを知っててもおかしくないでしょ?」
「『護り人』の存在を知る『あやかし』か……ますますもって見逃すわけにはいかないな」
目を瞑り、自らの『力』を竹刀に注ぎ込む真澄。
「あらら、もう臨戦態勢。仕方ないか……でもその前にこの手の荷物を避難させるぐらいは許してよね」
説得不能と判断した影美は、近くのベンチまで移動して、両手の買い物袋を置く。
「言っておくけど、あんたたちに黙ってやられるほどあたしゃ大人しくないわよ!」
真澄に歩み寄りながらカチューシャを左手でゆっくりと外す影美。
その瞬間、真澄は影美の瞳に吸い込まれそうな感覚を味わう。それを振り払うため頭を大きく左右に振り、もう一度影美と正対する。
「さすが『護り人』ね、と褒めておくわ……あたしの『力』をまともに受けて正気を保っていられるんだから」
「これだけの力を隠し持ってたのか……だが、相手にとって不足なし!」
竹刀を八双に構え直す真澄。
「永瀬真澄……参る!」
その掛け声と共に影美に向かって突進する。
「八双で突進……って、示現流のつもり?」
そんな声に答えることなく、鋭い踏み込みから第一撃を繰り出す真澄。
それを左に躱す影美。反撃に右の拳を脇腹に打ち込もうとするが、視界の右端に竹刀が来るのを察知してとっさに右手で竹刀をブロックする。
その瞬間、灼けるような痛みが右手に走る。
「つっ!」
真澄から離れるよう二、三歩バックステップを踏む影美。
「我が剣に触れてその程度とは……やはり侮れないな」
「まさかあの体勢から横薙ぎとは、やってくれるわね」
再び対峙する両者。緊迫の度合いが一気に高まる。
「!? なに……この感覚……」
「どうされましたか、風間さん?」
「ううん、何でもない……」
あゆみにはそう答えていたが、由紀の心の中は落ち着かない。
一瞬、由紀の意識が飛びそうになる。それはすぐ収まったが、入れ替わりにえもいわれぬ不安が由紀の心の中に広がっていく。大事な何かが無くなりそうな……そんな不吉な予感が由紀の心をよぎる。無くすことに恐怖を感じるのか、体が身震いを起こす。
それに気づいた美影が由紀のそばに行き、その手を握る。
「……美影先輩?」
「大丈夫、心配は要らないわ……どうしても不安だったら、私がずっとそばにいてあげる。影美の代わりにはならないかもしれないけどね……」
「美影先輩……」
美影の手から暖かい感覚が伝わってくる。それと同時に由紀の身震いも止まる。
それは、影美のそばにいるときと同じ、安心して身を任せていられる穏やかな居心地……見た目や性格は違っても、やはり双子の姉妹なんだな……由紀はそう思った。
由紀が落ち着いてきたのを見て取った美影は、影美の危機に思いを馳せる。
(……影美、あまり無茶しないで。『力』の影響が由紀ちゃんにも出はじめてるわよ……)
(分かっているけど、そうそう気の抜ける相手じゃないんだよ、万一の時はフォローよろしく)
「何を考え事しているか!」
吠える真澄。思考を一時中断して再び戦闘に集中する影美。
真澄は最初の一撃必殺を狙った攻撃から連続攻撃へと切り替えた。一撃の威力は低いが、連続で当てればダメージは小さくないし、相手に反撃の暇を与えさせない効果もある。
対して影美は真澄の攻撃を避け続ける。まだ一度も真澄に対して攻撃していない。
(このままじゃ埒があかない……長引かせるとなにかと面倒だな……)
影美は真澄の攻撃を避けながら、少しあせりを感じていた。
なおも繰り出される連続攻撃を、紙一重で避け続ける影美だったが、一瞬体勢を崩してしまう。
その隙を見逃さず大上段から竹刀を振り下ろす真澄。
(とった!)
勝利を確信する真澄。
「……なっ!?」
だが、一瞬の後に驚愕の声を上げたのは真澄の方だった。
渾身の力を込めたはずの攻撃を、影美が左手一本で止めてしまったのだ。
互いの『力』が竹刀を握った影美の左手でスパークする。
動揺する真澄。その隙を逃さず、影美の右の手刀が真澄の竹刀を捉え、真っ二つにする。
「!?」
「あんたの得物は折らせてもらったよ……まだやる気かい?」
「……くっ!!」
影美の方を向いたまま数歩後ずさったあと、くるりと反転して逃げ出す真澄。
真澄が見えなくなる頃を見計らって再びカチューシャを付ける影美。
「ふう、何とか退いてくれたか……実践的な駆け引きが上手くなくて助かった」
一瞬体勢を崩した瞬間、影美はとっさの判断で真澄の竹刀を受け止め、叩き折ることを決めた。
それは、真澄の性格から推察して、こういう状況になれば上段から渾身の力を込めてとどめを刺しに行くだろうと読んだからである。
竹刀を叩き折ることにしたのは、実力差があるように見せることで、相手の戦意を削ぐため。影美にすれば真澄に怪我をさせるのは本意ではないし、下手に手の内を見せたくもないから、これで大人しく退いてくれるならそれに越したことはない。
無論、その読みが外れていれば大けがを負いかねないところだが、元々体勢を崩したところで大けがを覚悟していたのだから、影美としては分の悪くない賭である。
果たして狙い通り、竹刀を折られた真澄は素直に身を引いてくれた。
だが、しばらくすればまた自分たちを攻撃しに来るに違いない。この程度で大人しくなるような連中でないことは、影美自身が一番よく分かっていることである。
いつかは『守護者協会』の連中と全面戦争に突入するのだろうか……その前に和解できればいいんだけど……影美は漠然とそんな事を考えていた。
左手の時計を見る……さっきの戦いでさらに時間を食ってしまったようだ。状況は美影が把握しているから大丈夫だろうが、二人を待たせるのは気が引ける。
「さてと、みんなを心配させないうちに帰らんとな……」
影美はベンチに置いた買い物袋を手に、家路に着く。
由紀は、美影に握られた手をそっと離す。
「……美影先輩、ありがとうございます。もう落ち着きましたから大丈夫です」
「そう、よかった……影美もどうやら大丈夫そうだしね」
「?」
「ううん、こっちの話……」
思わず口をついて出た独り言をごまかす美影。
しばしの沈黙の後、由紀の口が開く。
「美影先輩……ひとつ質問、いいですか?」
「なに?」
「……『あやかし』って何か、ご存知ですか?」
「どうしたの、いきなり?」
「いえ、昨日ある人に言われたことが、なんとなく気になって……影美先輩、それを知っていて隠しているような気がするんですよね……」
ひょっとして、この子もなんとなく感づきはじめたのだろうか……そう思いながら、美影は答える。
「……知っているわ、私も、影美もね。今日あなたを呼んだのは、その話をするためなんだから」
< 続く >