早百合編
1
朝のショートホームルーム開始の直前を狙って、俺は教室のドアを開けた。
時間が時間だけに、ざっとみたところ40人のクラスメートはほぼ揃っているようだ。
クラスメートたちは、おそらく先生がきたのと勘違いしたのだろう。ドアの音に反応して多くの者がこちらに視線をなげかける。
椅子に座っている者、体をひねって後ろの席と話していた者、立ち歩いている者、本を手にしている者、窓から通りを眺めていた者、いずれも俺の姿を確認した途端、すっと目をそらした。まるで、教室のドアが自動ドアで、何かの拍子に誤作動して開いてしまった、といった雰囲気だ。
俺は自分の巨体を揺すりながら教室の中へ入り、窓際の後ろから2番目の席へと向かう。一週間ぶりの登校にも関わらず、誰も俺に話しかけようとしない。こちらに目を向けようともしない。
歩いている途中、俺の腹が女子の机とぶつかった。ぶつけられた席の女子はその時友達と話していたが、俺の方を振り返りもせず、会話を続けたまま机のずれを直した。
俺が自分の席につくとほぼ同時に、チャイムが鳴る。出歩いていた生徒たちも一斉にそれぞれの席につき、それを待ちかまえていたかのように担任の先生が入ってきた。
一分の隙もなくスーツを着こなす初老の男性教師は、通勤中に見かけた老夫婦の話などを1分ほどした後、出席を取り始める。俺の番にまわってきた時、担任の先生は出席簿に張り付かせていた視線を少しだけ外し、俺の方を半秒ほどちらっと見て、また元に戻した。一週間ぶりに登校した俺に対する反応は、それで終わりだった。
人間が人間を抑圧する、あるいは敵意を示す時、その方法はどんな場合でも4通りに分類されるという。身体的暴力、精神的暴力、性的暴力、ネグレクトの4つだ。
身体的暴力と精神的暴力は、それぞれ読んで字のごとく、肉体や精神に直接危害を加えることであり、性的暴力とはレイプに代表されるように、相手の意思を無視して性的な行為を強要することである。ネグレクトとは最近、児童虐待に関連して一般にもよく知られるようになったものだ。ぴったりする訳が日本語にないが、強いていうと『放置』というような意味になる。児童虐待の例で言えば、食事を摂らせない、学校に行かせない、風呂に入れないなど、前の3つと違って消極的な危害の加え方となる。
現在の俺のこの状況、精神的暴力とネグレクトの間あたりに位置するだろうか。基本的に私立の進学校ということで、中学校時代のように暴力を振るってくる奴はいないし、露骨に俺を嫌うそぶりをする奴もいない。学校のイメージ悪化を恐れて教師達がその点にはかなり神経質になっているし、クラスメートたちも下手に俺をいじって自分の経歴に傷をつけたくないからだ。
しかしやはり俺に対して敵意を持っていることには違いないので、こういう『問題にならない程度に俺の存在を無視する』という暗黙の協定がだいたい1年の3学期頃にはじまった。そしてそのまま、クラス替えがあったにも関わらず学年をまたいで続いている。
一方俺の方はといえば、身体的暴力に比べて精神的暴力やネグレクトはまだ耐えられるので、文句も言わずこの状況を受け入れている。
教師の側も、これが最も安定した状況と見ているようた。なので学年ぐるみで俺を透明人間にしたてあげていることに気づいていても、問題にしたりしない。むしろ担任の先生みたいにそれに参加しているくらいだ。
ただし。
俺は声や態度に出して主張することは決してないが、この状況を好ましいと思っているわけではない。
断じてない。
ただ、仕方ない、どうしようもないと思っているだけだ。
さて、授業はいつも通り進んだ。
俺は先生の話を聞きながら、ほとんどの時間をノートの書き込みに費やす。別に板書を写したり先生の発言の要旨をメモしているわけではない。そんなものは必要無い。後回しになってた、精神干渉機のインターフェイス改良案を練っているのだ。
授業なら、別に聞き流す程度でもついていける。授業に出ていなかった一週間分の遅れは、40分の電車通学中、ざっと教科書を眺めて取り返したので問題無い。
もちろん先生の多くは、俺が授業中、しばしば教科とはなんの関係も無いことをノートしていることに気づいている。が、俺は透明人間なので注意されない。そもそも質問に当てられない。いったいどこまでやったら無視できなくなるか、ちょっと試したい気もする。本を読むとか、ノートパソコンを持ち込むとか。まあ波風立てる必要も度胸も無いのでやらないが……。
「倉内」
うおっ!?
俺は名前を呼ばれて反射的に立ち上がり、思わず先生の顔を見てしまう。
ああ、そうか。この数学の先生は日付でその日に指す生徒を決める人だった。ちょうど今日は俺が当たる日付だったわけだ。
改良案作りが『いいところ』だったので、うっかりどこをやるのか聞き逃してしまった。先生は一瞬俺と目を合わせたがすぐに視線を外してしまう。あ~、この先生、『授業を聞いていないやつの質問には答えない』がポリシーなんだよな。かといって、教えてくれる友達はいないし……。
俺は黒板に目を移した。(1)から(3)までの番号と、与式が記されている。前に出て解くのか、それなら大丈夫だ。俺は慌てて教科書を見る……154ページの3番だな。
すでに黒板には、俺以外の2人が出てきて、(1)と(2)の問題を解いていた。俺は太った体をゆすりながら前に出て、答えを書いた。すぐ解ける問題で助かった。答えは12.6-4iと。
俺は手を打ち合わせて、指についたチョークを払い落とすと、自分の席に向かう。
「倉内」
と、呼び止められ、俺は先生の方を振り向いた。先生は少し引きつった顔をしながら、黒板の俺の解答欄を指す。
「途中式を書け」
途中式?
途中式、途中式、ああ、なるほど、途中式か。
俺は黒板に舞い戻ってチョークをとり、そこで止まった。
……途中式か。
難問だな。
俺は15秒も考えた末、ようやく途中式を書き始めた。公校の授業は時々面倒くさい。見た瞬間に解ける問題の途中式を書けと言われると、どうしても戸惑ってしまう。
さて、そんなちょっとしたアクシデントもありつつ昼休みとなった。
規則通り先生が退室するのを待ってから、教室の3分の1ほどが席を離れ、教室を出る。おそらく学食組だろう。
学校を舞台とした本を読むと、よくチャイムが鳴るのも待たずに学食へ全力疾走するシーンが出てくるが、この学校にそれは無い。
理由としては、第1に校則が厳格で廊下を走ることが許されないこと。第2に食堂が広く、メニューも充分な量が用意されているためにそもそも急ぐ理由が無いことがあげられる。
これは横幅が広く、運動神経の鈍い俺にとっては悪くない環境だ。もし学食ダッシュのある高校だったら、俺はあちこち小突き回されたあげく毎日素うどんを食うか、コンビニ弁当で食欲を満たす毎日になってただろう。
俺は学生カバンから財布を取り出して、学食へ向かった。
学食は、校内に2カ所あり、1つは南校舎の1階にある『第1食堂』、和食と中華のメニューが充実していて、いい米を使っていると生徒にも評判だ。もう1カ所は北校舎と第1体育館の間にある平屋の建物全部がそうで、名前は『校内レストラン・シュルス』。こちらは洋食が中心で、ケーキ等のデザートの種類が豊富だ。
さて……最近、徹夜の連続で体に悪いことばかりしてるからな。ヘルシーな和食にするか。俺はあちこちのクラスから出てくる生徒たちの流れに乗ろうとしてうまくいかず、立ち止まったり人を避けたりしながら、1食へ向かった。
1食で焼魚定食を頼んだ俺は、トレイを抱えて席を探した。窓際の、光が当たる暖かそうな六人掛けの席が目に止まり、そこに向かう。
そのテーブルには先客として2人、女生徒がいた。が、俺が席に座って十秒も経たないうちに、まるで「今日は食欲が無いの」といった表情で2人とも席を立ち、食器返却口へ向かっていった。で、それ以降、陽当たりの関係でいつも誰かしら座るはずのこの人気のテーブルに、誰一人として寄りつかない。
ここまで露骨だといっそすがすがしい……なんて思えるほど俺は達観していない。俺はテーブルの上にある醤油を取り、ほうれん草のおひたしに乱暴にかけた。箸で大雑把に掴んで口の中に詰め込む。あ、味付け台無し。
「倉内くん、そんなにお醤油かけると、体によくないよ。せっかく治ったんだからいたわらなきゃ」
ふてくされて下を向きながら、もぐもぐほうれん草を頬張っていた俺は、思わず口の中のものを噛むのも忘れて顔を上げた。
いつの間にか俺の正面に、クラスメートの長瀬早百合が座っている。
吸い込まれそうに黒く大きな瞳が、こちらを見つめ、優しい曲線の眉、いい形の鼻、慎ましげな唇。清潔な、肩まである黒い髪が晩秋の日差しに照らされて美しくウェーブし、貞淑さを旨とするはずの制服を押し上げる豊かなバスト、しみ一つ、傷一つないきめの細かい両手は、第1食堂オリジナルメニュー『五彩がゆ』を乗せたトレイにそっと添えられている。
「お、もご……」
俺はしゃべろうとして、口の中にほうれん草が詰まっていることに気づき、ろくに噛まずに飲み込んだ。が、結局彼女の言葉に答えるには妙に間が空いてしまい、なんだかうまく返答できず、「う、うん」などと我ながらよくわからないことを小声で言う。
暖房が入り、陽光に照らされているとはいえ11月。そんな気候を無視して全身から汗が噴き出す。まるで鏡の小部屋に入れられたガマだ。
普通の女子なら気持ち悪く思うであろう俺の反応に、長瀬はふっと微笑みを浮かべた。口元を緩め、両目を柔らかく細める優しい笑顔。俺の心臓がトランポリン遊びをはじめた。
「ここ、陽当たりいいよね。わたしもこの席好きなんだ」
俺は必死で何か気の利いたことを返そうとした。が、このせっぱ詰まった時に限って脳が過負荷でオーバーヒートしたか、何一つ思い浮かばない。それどころか声帯の筋肉まで一緒になって休暇に突入したらしく、しゃべるどころか呼吸もままならない始末。
俺は空気が粘土になったみたいに青ざめながら、飲み込むように息を吸い、喉の奥の小骨を吐き出すようにようやく言葉を紡いだ。
「あったかく、て、いいよ、ね」
俺の言葉を聞いて、長瀬は「そうだね」と相づちを打ち、微笑みながら五彩がゆを食べはじめた。
その後、俺はなんとか会話をしようとしたが、話題が一つとして思い浮かばず、そのうち長瀬は食べ終わってしまった。こっちはいつもの大食漢ぶりはどこへやら、料理が冷めるのをじっと睨んでいただけだ。
長瀬は去り際に、
「やっぱり病み上がりだから、食欲無いんだね。お大事にね」
と言って去っていった。
気がつけば、次の授業まであと10分だった。俺は大急ぎで焼魚定食をかっこみながら、はやいところ心理数学の研究を完成させなければと、思いを新たにしていた。
何しろ、俺が心理数学を極めようとやっきになっているのは……実のところ、あの長瀬早百合のためなのだ。
長瀬早百合を俺のものにする。
より具体的に言えば、長瀬と恋人同士になり、ゆくゆくは結婚する。
俺みたいな絵に描いたような不細工が彼女とそうなるには、心理数学という現実原則を半ば超越する反則技が必要だ。
実は、これまでの感情制御の技術でも、それができないことはない。が、その前にどうしてもやらなければならないと、自分に課していることがあるのだ。
2
一週間経った。
問題点は整理されたが、相変わらず進展は無い。
親父の命令通り学校には欠かさず行っているとはいえ、家にいる間は基本的にずっと研究している。学校にいる間も、休み時間や通学時間はもちろん、授業中も考え続けているのだが、どうにもならない。
実は、ひっかかっているのは1つの問題に集約される。
たとえば、ある精神現象を分析し、理論を築き、公式を作り上げる。数学的に、これしか存在し得ないという方程式だ。
ところが、方程式に代入してみた理論上の値と、実際に計測器で計った値とが、最大で数百倍も違っている。にも関わらずいくら検算しても間違いが見つからない。
仕方ないので別のやり方でやってみる。導き出された方程式は寸分違わず同じである。仕方がないのでそこは後回しにして別の方面から研究を進める。しばらく順調に進んだかと思うと、どうしてもその公式が必要な場面にでくわす。
データが足りないのかと、自分の脳波やマンションの住人、果ては計測器を学校に持ち込んでクラスメートのものまでとってきたが、解決にはならなかった。
進退窮まった俺は、危険を承知でストロー教授へ相談を持ちかけた。心理数学の生みの親である。
心理数学について真面目に研究しているのは世界で俺と教授の2人だけと言っても過言ではあるまい。なぜなら、極めて高度かつ厳密な数学を使っているというのに、学会にはまるで受け入れてもらえず、教授はトンデモ学者扱いされているからだ。
ストロー教授には悪いが、心理数学が理解されないというのも無理は無い。俺も心理数学に興味を持ってから八十冊ほど心理学関係の本を読んでみたが、数学と心理学──特に実際に人間を目の前にして援助を行う臨床心理学──は水と油だ。
数学は何よりも論理的厳密さが要求される。どのくらい厳密かというと、「作った時と計る時に長さが同じという保証が無い」という理由で、長さを計るのに物差しを使わないのである。1億分の1ミリの誤差も許さないのが数学の世界だ。
一方、臨床心理学は「心」という目に見えないものを扱う学問だ。その理論の大半は経験と仮説によって成り立っている。フロイト、ユングなど超大物の理論すら、仮定の上に仮定を積み重ねたものに過ぎない。
数学者から見れば、心理学なんて豆腐で作った塀よりも頼りない、学問に分類するのもばかばかしい分野だろう。一方心理畑の人間から見れば、数学は頭の中だけで数字と図形をひねくりまわす、現実離れしたパズルに過ぎない。
そもそもこの2つを合体させようというストロー教授の考え自体がそうとうクレイジーといえよう。俺は、教授を世界で数少ない尊敬できる頭脳の持ち主だと考えているが、それはこの、魚とトカゲを交尾させてカエルをつくろうというような狂気じみた考えを実現させてしまったからだ。
俺は、2年生になったばかりの頃に教授のことを知り、はじめて自分と同じかそれ以上の知力の持ち主と会った。すぐにメールを出し、以降心理数学についてマン・ツー・マンで指導を受けている。
実際に会ったことは無いが、メールの文面から見るにストロー教授はかなり神経質な様子だ。自分の理論が受け入れられないことで相当ストレスを受けているらしい。
よほど孤独なのか、ここ最近では、俺のことを息子とまで呼びはじめた。光栄なことだとは思うが、教授にいくら請われても俺の写真を送らなくてよかったとも思う。
それはさておき、教授はかなり厳格な学問の徒であり、心理数学の秘めた危険性に非常に気を使っている。悪くすれば世界を滅ぼしうる学問であり、そこまで行かなくても人間の人格を簡単に破壊することができる。だから絶対の安全性を確保するまでは、決して人体実験など行ってはいけないと、何度も何度も言われてきた。
しかし俺はその禁を破った。
俺が奈緒ちゃんや三橋さんにいったい何をしたかを知れば、教授は怒り狂うだろう。
実のところ、心理数学に関する俺の研究は、すでに教授よりもだいぶ進んでいる。複数の相手に実践し、大量のデータを手中に収めているのだから、進まない方がおかしい。
逆に言えば、現在の俺の研究は、人体実験を基礎にできあがっているわけだ。ストロー教授への質問では、いくつか重要な部分を『あくまで仮説』としているが、人体実験について気づかれる可能性もある。
内心俺はかなりビビっていた。研究はこっちの方が進んでいるとはいえ、教授の頭脳は俺にとって必要だ。それに、俺の唯一のメール相手を失う結果になりかねない。
俺の不安をよそに、教授からの返答メールは、要約すれば以下のようなものだった。
『極めて興味深く、また難解な問題である。残念ながら、私にもすぐには解法が思いつかない。しかしそれ以前に、君の仮説は大胆かつ飛躍しすぎているように思える。この問題にこだわりすぎるのは、時間の無駄ではないか』
恐れていたことは無事回避されたが、なんの解決にもなっておらず、俺はほっとする反面失望を禁じ得なかった。メールにあった近況によれば、教授の方も人体実験抜きではもはやどうにも立ちゆかないところまできているらしい。しかしそういう学問倫理についてはかなり頑固な人だから、よほどのことが無い限りポリシーを貫くだろう。ということは、今後に渡ってストロー教授の方面からは解決はしそうにないということだ。
現在俺は、数学的に何か別のアプローチはないかと、アメリカとヨーロッパから最新の論文を取り寄せて読んでいるところである。ほとんど関係無いと思われるのもあるが、何がヒントになるかわからない世界だ。手当たり次第に取り寄せているため、結構量が多く、俺は学校にも持ち込んでいた。
昼休み、『シュルス』で昼食をとってきた俺は自分の席に戻り、途中だった論文読みを再開する。
が、5分ほどでため息をつきながらファイルを閉じ、窓の外に目を向けた。
空は一面に汚れた雲が敷き詰められ、雨の降る気配こそないものの、俺の心を写したようでぐったりする。
たかが数週間研究が思うようにならないからといって、ここまで鬱になることもないだろう、そう思うこともある。がしかし、なまじ知力だけは挫折を知らない人生を送ってきただけにショックもでかい。
それに、タイムリミットも迫っている。長瀬と一緒のクラスであるうちに、研究の目処をつけたいのだ。もうすぐ冬休みが近い。となれば、実質残りは短い三学期のみだ……。
俺は雲を眺めていると気分が暗くなるだけだと悟り、教室内に目を移した。自然と、目が長瀬を捜してしまう。彼女は教室のほぼ真ん中に位置する自分の席で、何か楽しそうに話している。相手は友人の女子生徒2人、それに男の俺から見ても美形でスマートな男子生徒1人。くそ、やっぱり世の中見た目か。心理数学極めるより、ダイエットと整形の道を選んだ方がはやいかなあ……。
俺はそんなことを思いつつも、ついつい長瀬たちの会話を盗み聞きしてしまう。
「……のは、マヤが…………する場面で……ドラマの……」
「あれはCGでも…………ただ絵がちょっと……」
よくわからないが、ドラマだか漫画だかの話みたいだ。俺はテレビはまったく見ないし、漫画も小学校で卒業したので何のことやらよくわからない。
しかし長瀬の声は聞いているだけで、何かこう、ささくれ立ったものが滑らかになる。俺は目を閉じて長瀬の声に集中した。そうすると、不思議に彼女の声だけは一字一句逃さずはっきりと聞こえる。
「ほら、ウエイターに張り付いて、影みたいにウエイターの真似をそっくりやる場面があったじゃない。で、完全にトレースするかと思えばちょっと違ったことをしてみたり、あの場面大好きなの」
! ! !! !? ! !!!? !!!!!
俺の脳を巨大な稲妻が直撃した。荒れ狂う電光が脳細胞の一つ一つを灼きながら猛烈に駆け巡り、思考のあちこちに巣くっていた癌細胞を残らず打ち壊し、破砕し、根こそぎ焼き尽くした。
俺の全身が、極寒のただ中に裸で放り出されたように激しく震えだし、逆に全身の細胞は高熱を発しはじめる。
これは、これは、これは! これは!! これは果たして偶然という言葉で片づけられるものなのか? これこそまさに、運命としか言いようがない!
長瀬の言葉をきっかけに、あれほど困難だった問題が解決されたのだ! 長瀬のための研究が、長瀬の言葉によって劇的に進行する。俺は生まれて初めて、運命を実感した。
俺は体中のあらゆる器官から発せられる猛烈なエネルギーを感じた。ただ無為に座っていると、このエネルギーが行き場を失って暴発しそうだ。
今、今、今すぐにでもこのアイデアを検証しなければ、俺は破裂してしまう。
机の横に下げたカバンをひっつかんだ。教科書や筆記用具が机に入ったままだが、それを鞄にしまう手間も惜しい。
立ち上がり、大股で教室を横断する。いつも俺のことをいないものとして見ていたクラスメートたちの視線を感じるがどうでもいい。
廊下に出た俺は、数歩その調子で歩いていたがどうにも我慢できず、校則を破って走り出した。ぶくぶくに太った俺が自分から走り出すなど、一体何年ぶりだろう。
階段を転がり落ちるように駆け下り、下駄箱で靴を履き替える間ももどかしく、俺はそのまま汗だくになりながら校門を出た。教師に会ったら呼び止められただろうか? しかし幸いにも、教員にも用務員にも出会わなかった。
校門前の大通りを、俺は学校にほど近い駅に向かってひた走る。
日頃の運動不足と肥満体がうらめしい。早くも息がきれ、足下がふらふらとうまく動かない。
100キロの荷重に、膝の関節とふくらはぎ・腿の筋肉、それにアキレス腱が猛烈な抗議をする。
涎が垂れるのも構わず口を一杯に開いて酸素を取り込むが、それでも間に合わず気管がヒューヒューと悲鳴をあげる。
突然の急な運動で脇腹が激しい怒りを痛みの形でぶつけてくる。
それでも止まらない。
俺は走ろうと考えているのではない。期待と、熱と、数字と、記号とが頭蓋骨の中でパンパンに膨らんでいてほとんど意味のある意識は無く、俺の自我を超えた強大なものが俺を動かしている。
ようやく駅にたどりついた俺は定期入れを改札に叩きつけ、ホームに入った。そこには、俺のことを待っていたかのように電車が停まっており、ホームには祝福するかのような発車のオルゴール。足をもつれさせながら車内にかけこめば、それと同時にドアが閉まってガクンと列車が動きだす。
バーを両手で握りしめて体を支え、俺は犬のように舌を出しながら激しく呼吸を繰り返した。急に運動をやめたせいか、あるいは閃きの熱がまだ残っているのか、真夏みたいに猛烈に熱い。心臓の鼓動が、体の内側で大太鼓を乱打しているようだ。雨に濡れたみたいに全身汗びっしょりの俺に、車内アナウンスが聞こえてきた。
特急だ。俺の降りる駅まで停車駅わずか1つの最速の電車だ。
どうも勢いに乗ってる時の俺は、自分でも怖いくらいに運がいい。本当に、神とか運命とかを信じる気になってきた。
3
帰宅した俺は、これまでとったデータのうち怪しそうな部分を片っ端から調査してみた。
そして、22時間に渡る不眠不休の調査の結果、俺のひらめきが正しかったことが証明されたのである。
要するに、ある数値に伴って別の数値が変化していたのだ。しかしその変化がまったく同じだったため、本来2つあった変数を1つにしてしまったのである。ごく限られた条件で、2つの変数はほんのわずかな、変化の違いを見せる。しかし測定器の誤差の範囲内だったために気づかなかった。注意深い統計的検定を行うと、『影』が浮き出してくるのである。
理論と実測値にあまりにも差があったために、何か巨大な間違いがあるものと思いこんでいたが、実際はごく小さな変化がバタフライ効果で巨大な影響を及ぼしていたのだ。しかも、そういう『影の変数』が5つもあった。
研究は雪崩をうったように進んだ。言ってみれば、『影の変数』問題が俺の研究をダムのようにせき止めていたわけである。限界まであがっていた水位は、戒めを解かれると同時に怒濤となって流れ下り、堤防を紙のようにうち破った。
またも登校しない日々が続いたが、そう何度も同じ間違いはしない。俺はあらかじめ、親父の側近であり、俺と親父の連絡係も勤めてくれている増田さんに連絡をしておいた。今回、俺を研究に駆り立てているのは焦りではなく、期待と好奇心である。前回よりは、心に余裕があるのだ。
『どうしてもやらなければならないことがあり、学校に行っている余裕がないんです』
俺はそう言った。
半日後、増田さんから再び連絡があった。
『お父様から満夫様への伝言をお伝えします。「一週間を期限に、不登校を許可する。お前が必要だと思うことをやればいい」です』
増田さんはそこでいったん言葉を切り、驚いたことに優しげな声で言った。
『お父様は、満夫様がご自分から何かを為そうとされていることを、喜んでおられるように思われます』
俺は、増田さんは感情も表情も無い、ロボットみたいな人だと思っていたのだが、その声には暖かな血が通っているように聞こえた。
それからの間、俺は一日のうち20時間ほどをパソコンに張り付いて、数学と全身全霊を込めて戯れる日々を送った。
空腹による腹の苦しさが限界に来た時に、ジャンクフードやスナック菓子をモニタを睨みながら食べる。
眠気が長い苦闘の末ついに意識をうち負かした時に、気絶するように眠る。
日に二度のシャワーこそ欠かさなかったものの、起きている時、心理数学について考えていない時間は1分もなかったと断言できる。
そして5日目の朝、俺の研究はようやくある程度納得できる区切りを迎え、俺は16時間の眠りについたのである。
さて、うっかりするとそのままベッドと一体化してしまうような眠りから覚めた俺は、一風呂浴びたあと、研究の成果をパソコンに組みこむ。
いよいよ実験だ。
今回の研究の成果は、主に2つ。
感覚の制御と、複数同時精神干渉である。
まず感覚の制御は、自分が最初の実験台だ。
痛覚をカットして、指を針で刺す。味覚に干渉して『塩辛い』を『甘い』に変える。聴覚を制御し、何も聞こえないようにする。視覚をいじって景色をモノトーンにする。平衡感覚を狂わせて、まっすぐ立っているのに傾いているような気分にさせる。いずれも成功だ。
まだごく単純な操作しかできないが、いずれは思うがままの幻覚を見せたりすることも可能となろう。もっとも、俺の『目的』のためにはこの程度で充分。
では次に他人を操作してみよう。
俺は毎度おなじみのリュックにA4のノートパソコンをつっこみ、コントローラーであるPDAを片手に勇んで外に出た。ああ、よく考えてみたら外に出ること自体5日ぶりくらいだな。長い間、部屋にこもりっきりになってたせいで、冬のか弱い日差しですらクラクラくる。
俺は、とりあえず出会った相手には誰でもいいから試してやろうとエレベータを降り、1階のロビーまでやってきた。
と、自動ドアが見えるところまで歩いてきて、慌てて柱の陰に身を潜める。
向こうから、ひどく可愛らしいものが2つも近づいてきたからだ。
キラキラと光るツインテールの金髪と、ふわりと風をはらむ艶やかな黒髪が、並んで自動ドアを開けた。
奈緒ちゃんと……誰だろう。手をつないで、赤いランドセルを背負っているところを見ると友達か。奈緒ちゃんの天真爛漫な可愛らしさとは微妙におもむきを変える、大人しく可憐そうな少女だ。お人形さんのような、という表現がぴったりくる。
名札をつけているのだが、パソコンとのにらめっこが日課の俺の視力ではよくわからない。
とその時、俺の脳裏に一連のアイデアが閃いた。思わず知らず、口元に笑みがこぼれる。近くに鏡がなくてよかった。たぶん俺自身ですら引いてしまうような、だらしのない下品な笑顔を浮かべていることだろう。
俺はPDAを素早く操作。奈緒ちゃんとその連れの精神に干渉し、『嫌悪感』をゼロに固定。続いて、他人に対する好感度も最高にして固定。今確かめてみたところ、奈緒ちゃんと黒髪の少女はお互いに、俺の干渉前から好感度がMAXに近かった。やはり親友同士のようだ。
精神干渉は『影の変数』問題で悩んでいた時、インターフェイスを大幅に改良したせいで、実にスムーズに進んだ。最初に奈緒ちゃんに近づいた時の焦りを思い出し、俺は思わず苦笑してしまう。
一通り準備が終わると、俺はPDAをズボンのポケットに押し込んで、物陰から姿を現した。
「奈緒ちゃん!」
俺の声に、奈緒ちゃんは金髪のツインテールを揺らしながらこちらを振り向き、満面の笑顔で「満夫お兄ちゃん!」と応えた。いつ見ても、彼女のエンジェル・スマイルにはドキっとさせられる。
奈緒ちゃんは不思議そうな顔をしている彼女の友達の方を向き、俺を紹介する。
「香苗ちゃん、この人、満夫お兄ちゃんていって、同じマンションに住んでいるの。とっても優しくて、この前遊んでもらったんだよ」
次いで俺の方を向き直る。
「満夫お兄ちゃん、この子は香苗ちゃんていって、わたしの友達なんです」
ああ、そういえば、香苗っていう友達がいるとか言ってたが、この子がそうか。片や金髪碧眼の美少女、片や幼い大和撫子、これほど絵になるカップルもそうはいないだろう。
香苗ちゃんは両手を前で組み、少しおずおずしながらペコリと頭を下げた。
「香苗です。はじめまして」
一方俺の方も、慣れない笑顔を精一杯浮かべて「よろしく」と言う。
さて、早速本題に移るか。
「奈緒ちゃん、また僕の家に遊びにこないかい?」
前回同様、快諾してくれるかと思いきや、奈緒ちゃんは眉を寄せて首をかしげた。
「さそってくれてうれしいです。でも、今日は香苗ちゃんとわたしの家で遊ぶ約束をしてるから……」
俺は間髪入れずに言う。
「なら香苗ちゃんもくればいいじゃないか」
奈緒ちゃんはさっと香苗ちゃんと目を見交わした。本当に仲のいい友達同士なのだろう、言葉を交えることもなく、お互いにうなずきあった。2人は完璧なシンクロで俺に頭を下げ、見事なユニゾンで言った。
「「おじゃまします」」
複数同時精神干渉、実験の第一段階は成功だろう。
首尾よく家に2人の東西の美少女を連れ込んだ俺は(家を出る前に掃除しておいてよかった。きれい好きで助かった)、2人をテレビとテーブルのあるダイニングに案内。俺はジュースや菓子を用意するためにキッチンへと向かう。
ジュースくらいしか入ってない冷蔵庫を覗いていると、ダイニングの開けたままのドアから会話が漏れ聞こえてくる。
「奈緒ちゃん奈緒ちゃん、おっきいパソコンがあるよ」
「あれはね、満夫お兄ちゃんが作ったんだって」
線の細い声で言う香苗ちゃんに、奈緒ちゃんが少し得意げな声で答える。
「えっ、パソコンを自分でつくったの? すごいね」
「すごいねー」
まあ作ったといっても単なる自作パソコンだがね。
しかし美少女2人が俺の噂、しかも好意的なやつをしているなんぞ生まれてこの方初めてだな。
まあ概ね状況は順調……のはずだが、俺はちょっと困ったことに気がついた。
せっかくの美少女2人、どうせなら2人まとめていろいろ楽しみたいところだが……。
実は部屋を出る前、4発も抜いてきてしまったので全然勃たないのだ。
何しろ5日間も溜まっていたし、その時使った、浴室で奈緒ちゃんと遊んだ時に隠し撮りしていたビデオが想像以上によく撮れていたのだ。俺もまだ公校2年生だしこの手のことは歯止めが効かない。
奈緒ちゃんたちに出会うなんてまるで予想の外だったとはいえ、惜しいことをした。通りがかりの買い物帰りのおばさんとかを実験相手にするつもりだったからなあ……。
しかも、外に出たついでに食事を摂ろうと思っていたのでひどく空腹だ。加えて、5日間の強行軍が俺の体力を相当奪い取っていて、16時間の睡眠を持ってしても回復しきっていない。そのため、奈緒ちゃんや香苗ちゃんにいたずらする気力がどうも起きない。誘った時は、部屋に連れ込んでしまえばそのシチュエーションに興奮してくるかと思ったのだが……まあいいか。
ここは、2人の『友情を深める』ことに注力するとしよう。
俺はジュースを3つのコップに注ぎ終わると、ポケットに突っ込んでおいたPDAを取り出した。思わずニヤっと笑みがこぼれてしまう。流しの銀色の表面に映った俺の顔は、そうとうに不健全だった。
さて、それでは実験第二弾だ。
俺はPDAを操り、まず奈緒ちゃんの香苗ちゃんに対する、『愛情』を大幅にアップさせた。本来異性に対してのみ抱くよう心理的な制限がかかっているが、これを取り外す。一瞬にして、奈緒ちゃんは真性のレズビアンになったというわけだ。さらに感覚を操作し、まだ未発達の性感を300パーセントにする。次いで、香苗ちゃんにも同様の操作をする。
俺はPDAをポケットに戻すと、戸棚から平皿を出し、小さなチョコを山に盛る。それとアップルジュースを注いだコップを3つ、トレイに乗せて奈緒ちゃんたちのもとへ戻った。
隣同士に座る奈緒ちゃんと香苗ちゃんに対し、俺はテーブルを挟んで対面に座った。
「さあ、おかしをどうぞ」
「「ありがとうございます」」
またもユニゾンで答える2人。奈緒ちゃんはペコっと頭を下げるとチョコが盛られた皿に手を伸ばし、香苗ちゃんはややうつむき加減のまま両手でコップを掴んで、くいっと一口だけ飲んだ。
俺たちはジュースで口を湿らし、いくつかのチョコをつまみながらたわいもない雑談を数分交わす。
さて、そろそろはじめるか。
「そういえば、最近、女の子同士でもキスするってきいたけど、2人はそういうことやってるの?」
おお、我ながら自然な感じで切り出せた。難問を解決したからか、奈緒ちゃんや三橋さんとの経験からか、度胸がついたようだ。
俺の質問に、香苗ちゃんは顔を赤くしてうつむき、奈緒ちゃんは少しもじもじしながら答えた。
「やってませんよー。ふざけてそういうことする人もいるってわたしも聞きましたけど」
「でも2人はお互いのこと好きなんでしょ?」
間髪入れぬ俺の言葉に、奈緒ちゃんと香苗ちゃんは、2人とも顔を真っ赤にすると、横目で互いの顔をそっと盗み見るようにした。一瞬目があって、すぐに背ける。
「奈緒ちゃんは、香苗ちゃんこと好きなのかい?」
一瞬ビクっと体を震わせた後、奈緒ちゃんはぎゅうっと拳を握って目を閉じ、叫ぶように言った。
「す、好きです!」
その言葉を聞いて、香苗ちゃんが両手を両足に挟むようにして体をくねらせ、嬉しさと恥ずかしさの入り交じった可愛らしい仕草と表情をする。
「じゃあ香苗ちゃんは?」
香苗ちゃんは少しうつむいた後、消え入りそうな声で、「好きです」と言った。
そのまま2人は黙り込んでしまう。
「2人はキスしたことないって言ったけど、じゃあキスしたくないのかな?」
またもしばしの沈黙。俺が焦れてさらに言葉を重ねようとした時、奈緒ちゃんがごく小さな声で言った。
「……したいです」
「香苗ちゃんの方は?」
彼女は言葉にこそしなかったが、こくっとうなずいた。
そして、俺がうながすまでもなく、2人は顔を寄せ合う。同じように瞼をぎゅっと閉じ、唇を固く結んで、体中を木製の人形みたいに固くしていた。
照明の明かりを反射する2つの瑞々しい唇が、ついに触れた。そのまま、時が止まったかのように美少女たちはじっと動かない。その緊張感が、はたから見てる俺にまで感染して、思わず息を止めてしまう。
唐突に、唇が離れた。2人がほとんど同時に、息を止めきれなくなったのだ。
奈緒ちゃんも香苗ちゃんも、興奮と酸欠のせいで顔を赤くしながら深い呼吸を繰り返している。
幼い胸を上下させながら、2人はなおも見つめ合っていて、自分から仕掛けたこととはいえ、俺は蚊帳の外でちょっと疎外感。
「2人とも、ファースト・キスだったの?」
奈緒ちゃんと香苗ちゃんは、お互いを見つめ合いながらうなずいた。両者の視線は張り付いたように相手から離れない。
しかし愛情値を高めるとここまで行くものか……。さて、どこまでエスカレートできるか、徐々に試していこう。
「それじゃあ今度は、もう一歩進んで、舌を入れるキスをしてみよっか」
そういうと、香苗ちゃんがこっちを振り返った。つぶらな瞳が大きく見開かれている。
「舌って……ベロのことですよね。そ、そんなことするキスってあるんですか?」
声に動揺の色が激しい香苗ちゃんに対し、奈緒ちゃんは
「うん。わたし、そういうのマンガで見たことある……」
香苗ちゃんは「ひゃぁ~」と小さな声を漏らしながら、両手で顔を覆ってしまった。今時の女の子にしてはウブな仕草に、俺は思わず微笑んでしまう。
一方奈緒ちゃんは真剣な目で香苗ちゃんをじっと見つめると、がしっと両手で香苗ちゃんの両手首を掴んだ。ドキッと顔をあげる香苗ちゃん。奈緒ちゃんは、顔を覆っていた香苗ちゃんの手を開くと、ゆっくり顔を近づけていく。
香苗ちゃんはしかし、舌を入れるキスという想像もしていなかった行為に圧倒されているのか、思わず顔を引く。さっきから嫌悪感はゼロで固定してあるから、嫌がっているわけではない。おそらく恐怖と緊張のせいだろう。PDAがリアルタイムで表示しているはずの香苗ちゃんの精神状態を見れば興味深いデータが得られるかもしれないが、そんなものはあとでログを見ればいい。俺の目はその光景に吸い付けられていた。
頭を後ろにやりすぎて、香苗ちゃんはバランスを崩して倒れこむ。彼女の背中が、絨毯に当たる重い音がした。奈緒ちゃんがそこに覆い被さっていく。ええい対面に座っているこの位置では、テーブルが邪魔で見えん!
俺がテーブルに手をついて乗り出すように様子をうかがうと、2人はすでに口付けを初めていた。
上になった奈緒ちゃんの舌が、下になった香苗ちゃんの口の入り口でちろちろとうごめいている。口を半開きにした香苗ちゃんは、こころもち前につきだした舌の先端で香苗ちゃんの愛撫を受け止めていた。
一瞬奈緒ちゃんが口を離し、感極まった調子で「甘い……」とつぶやく。うんでもそれはきっと、直前に食べてたチョコの味だな。
2人ともさきほどのような緊張感はほどなく消え去り、やがて受け身だった香苗ちゃんの方も積極的に奈緒ちゃんの口の中を味わうようになってきた。
「ん……」
「……はぁ……」
時折聞こえるため息まじりの息遣い。次第に2人の体は密着しはじめる。奈緒ちゃんは、絨毯と香苗ちゃんの背中の間に手を差し入れ、香苗ちゃんの方もそれに答えて奈緒ちゃんの背中に手を回す。
だんだんと舌の動かし方が激しくなり、くちゅっぴちゃっという水音が聞こえるようになった。2人は顔の角度を変えながら、お互いの唾液を真剣に、かつ恍惚に満ちた表情で味わっている。奈緒ちゃんのきらびやかな金髪と、香苗ちゃんの晴天の夜を思わせる黒髪がまじりあい、芸術的な模様を絨毯に描いていた。
そのまま放っておいたら、1時間でも2時間でも続けていたかもしれない。
俺は2人だけの世界に没頭しているのを、敢えて邪魔しないよう足音をしのばせて机を回った。奈緒ちゃんの後ろに膝をつき、上着の裾に手をかける。
キスを続ける奈緒ちゃんの耳にそっと顔を近づけてささやく。
「抱き合うのに服は邪魔じゃないかな」
よほど香苗ちゃんとのディープキスに集中しているらしく、反応は無い。しかし俺は裾を徐々にめくりあげていった。奈緒ちゃんは上に3枚着ていたが、それをまとめてたくしあげる。
奈緒ちゃんの白く美しい背中の肌が一気に露出する。2度目、いや隠し撮りしたビデオを含めればもう何度目にもなるはずだが、思わず心臓が高鳴り、息を飲んでしまう。
たくしあげられた服が口元まできたところで、キスを邪魔された奈緒ちゃんが「……うんっ……」という抗議とも了承ともとれる曖昧な声をあげたが、すぐに香苗ちゃんを抱いていた手を抜き、俺が上着を抜き取りやすいようにバンザイした。
服が脱げると、半身を起こしながら手早くブラを脱ぐ。
「香苗ちゃんも脱ごうね」
興奮を抑えきれず、声が震えている。俺は香苗ちゃんの上着に手をかけ、同じくバンザイする香苗ちゃんから服を抜き取った。
抜き取った服を横に置いて、ふと振り返ると、なんと奈緒ちゃんはすでにスカートとパンツ、靴下を脱ぎ終え、全裸になっていた。
む、靴下は脱がなくていいのに。
などと俺が思っていると、俺が手を出すまでもなく、奈緒ちゃんは香苗ちゃんのスカートとパンツを下ろしにかかっている香苗ちゃんも、自ら腰をあげてそれを手伝った。
香苗ちゃんは、ブラをしていなかった。奈緒ちゃんの胸も発展途上だが、香苗ちゃんの胸は仰向けに寝てるせいもあるだろうが、さらに小さく、心持ち乳首の周りが盛り上がっている程度。しかしその未成熟から成熟へと一歩踏み出した姿がなんとも可憐かつエロチックだ。
その上、そこに熱い視線を注ぐもう1人の美少女も一糸まとわぬ全裸とくる。
奈緒ちゃんの肌が雪のような白さ故に、どこか冷たさやガラスのような壊れ易さを感じてしまうのに比べ、香苗ちゃんの肌は溶かしたバターのように柔軟で暖かみに富んでいる。どんな素敵な味がするのか、思わず舐めてみたい衝動に駆られる。
奈緒ちゃんも同じことを思ったのか、再び友人に覆い被さった彼女はまっさきに、鳩尾の辺りへと口づけし、舌を這わせた。
唇を肌に密着させ、舌でその表面を味わいながら、奈緒ちゃんは香苗ちゃんの肌を上がっていく。唾液の後が、鳩尾から左の鎖骨、右の鎖骨、喉元、顎と伝ったあと、再び唇へと到達し、ディープキスを再開する。
肌と肌が触れ合っているのが気持ちいいのだろう、2人は抱き合いながら微妙に体をくねらせ、あちこちをこすり合わせる。
俺は再び奈緒ちゃんの耳に口を寄せて囁いた。
「お風呂で奈緒ちゃんがされたことを思い出してごらん。同じことをして、香苗ちゃんを気持ちよくしてあげなよ」
奈緒ちゃんはこっちを振り向くと、くすくすと笑った。香苗ちゃんは口づけを中断された上に、俺と奈緒ちゃんが何をしようとしているのかわからず、ぼんやりと宙を見つめている。
奈緒ちゃんは香苗ちゃんに覆い被さった状態から、膝を少し曲げてずりずりと上半身をさげていく。奈緒ちゃんの頭が香苗ちゃんの胸まできた時、奈緒ちゃんはまるで果実を食べるように、香苗ちゃんの乳首をぱくっとくわえた。
「ひゃああっ!」
と意外に大きな声を出す香苗ちゃん。
「奈緒ちゃんっ! 奈緒ちゃん何してるのっ!?」
奈緒ちゃんはニコニコしながら、いったん口を離し、
「香苗ちゃん、こうされると気持ちよくない?」
と言って再び吸い付く。俺が前に彼女にしたことをよく覚えているらしく、舌で乳輪や乳首を思う存分弄んでいるようだ。
「ひうぅ……なんか、変な感じだよう。奈緒ちゃん、あんまり、あっああっ、あっ、強く、あう、だめ、きゃあっ」
本来ならくすぐったいだけかもしれないが、芽生えを待っている性感を俺が強引に成長させているため、香苗ちゃんは絨毯を掴み、イヤイヤをしながら快楽に耐えている。
奈緒ちゃんはというと、ようやく片方の乳首を解放したかと重うと、すぐさまもう片方に取りかかった。ビクンビクンと震える香苗ちゃんの体を抱きしめながら同性の胸を貪るその表情は、自分自身は愛撫を受けていないにも関わらず年齢不相応の愛欲に染まっている。
奈緒ちゃんは口で乳首を攻めつつ、さらに手を伸ばして香苗ちゃんの股間をさすりはじめた。飾り毛のないスリットに奈緒ちゃんの指が到達した途端、香苗ちゃんが悲鳴を上げる。
「奈緒ちゃん、そんなとこだめだよ! そこは大切なところだからあんまりいじっちゃいけないってお母さんが言ああああああっ!」
奈緒ちゃんは、電流を流されているかのように震えている香苗ちゃんの体に、頬ずりをするようにしながら、さらにくだっていく。暴れ回る香苗ちゃんの両足を自分の体で押さえつけ、股間に頭をつっこむような体勢に。その状態で両手を駆使して香苗ちゃんの未熟な性器をいじりまわした。
「いや、いや、やめてよ、えっ何これ、やだ、なんか怖い、こわ、ああああああああああああああっ!!」
ついに香苗ちゃんの全身が緊張し、一瞬の間をおいて、炎の前の氷が溶けるように急速に脱力した。手足をぐったりとさせる中、薄い胸が大きく上下し、激しく呼吸を繰り返している。
む~、よく考えたら、ビデオとかでなく生で女性がイくのを見るのは、これが初めてだな。性感を通常よりはるかに強化しているとはいえ、なんというか壮絶なもんだ。
と、奈緒ちゃんが影を落とした顔でこちらをじっと見ている。
「あの、香苗ちゃんどうしちゃったのかな……」
俺は奈緒ちゃんの金色の頭をなでながら、未知の反応を前に怯えている少女の不安を取り除くため、極力優しい声色を作って言う。
「簡単に言えばね、空気を入れすぎた風船が破裂するみたいに、香苗ちゃんは気持ちよくなりすぎてそれが爆発しちゃったんだよ」
と、奈緒ちゃんの表情がますます暗くなった。いかん、比喩表現の選択を間違った。
「か、香苗ちゃん破裂しちゃったんですか? 大丈夫なんですか?」
「大丈夫、ぜんぜん問題ないよ。嘘だと思ったら香苗ちゃんにきいてごらん」
奈緒ちゃんはおそるおそるといった感じで香苗ちゃんの顔に近づいた。
香苗ちゃんは焦点の合わない目で宙を見るともなく見ている。顔の筋肉はすっかり緩み、口元からつうっと唾液の後が走っていた。
「香苗ちゃん、大丈夫? しっかりして」
「奈……緒…………ちゃん。わたし……なんだかよくわからないけど、でも、気持ち悪かったり痛かったりじゃなくて……むしろ気持ちいいが、ものすごく大きくて……」
うわごとのようにつぶやくその瞳に、次第に光が戻ってきた。そして頭を起こし、目を閉じる。奈緒ちゃんはそれに応えて、ちゅっとキスをした。
すかさず、俺は口を開く。
「ね、香苗ちゃんも気持ちよかったっていってるでしょ。もっと香苗ちゃんを破裂させてあげようね。次は……」
と、俺は香苗ちゃんに聞こえないよう、奈緒ちゃんの形のいい耳元に口を近づけ囁いた。
奈緒ちゃんは俺の言葉に一瞬びっくりしてこっちを振り向きいたが、すぐに目をキラキラさせ、悪戯っぽい表情になった。香苗ちゃんが無事だとわかって、責め気が湧いてきたのだろう。奈緒ちゃん、どうやら愛らしい顔をしているくせに、レズの関係ではタチの素質があるようだ。
俺は立ち上がって手を伸ばし、本棚に常備してあるウェットティッシュを数枚抜き取った。
その間に、奈緒ちゃんはなおもぐったりとしたままの香苗ちゃんを、えいっとばかりにうつ伏せにひっくり返す。
奈緒ちゃんはそれが終わると、俺に向かって右手の人差し指を差し出した。俺はそこにウェットティッシュを重ねて、人差し指を覆うように巻き付ける。
「奈緒ちゃん、ゆっくりね」
「はい」
俺はさらに、思いついてポケットからPDAを取り出す。素早く操作し、ゼロで固定しておいた香苗ちゃんの『嫌悪感』を、通常の50パーセントほどに設定する。香苗ちゃんには悪いが、見ている側としては多少嫌がってくれた方が楽しめる。さらに、肛門周りの性感も3倍に。すでに全身の性感を3倍にあげておいたから、これで9倍だ。
奈緒ちゃんの方へ目を向けると、彼女は自分の親友のお尻を左手で撫でまわしている。と、そのやわらかく、蒙古斑の消えきっていないお尻を軽く掴むと、ぐいっと肉を左に寄せた。香苗ちゃんのお尻の谷間から、可愛らしく慎ましいアヌスがちらりと顔をのぞかせる。
奈緒ちゃんはそこに、ウェットティッシュを巻き付けた人差し指を当て、ずぶりと中に差し込んだ。
「え?」
その途端、うつぶせにぐったりと横たわっていた香苗ちゃんの体が、はじかれたように動いた。
「奈緒ちゃん何をしてるのっ!?」
質問というよりは抗議の色が強い言葉を無視し、奈緒ちゃんはさらに指を進める。第1関節までが侵入した。
「い、いやあああああああああああああああああああああああああああっ!!!!」
とてつもない大音声が、俺の部屋に響いた。
鼓膜がビリビリと震え、俺は思わず両手で耳を押さえる。とてもこんな幼く小さな体から発せられた声とは思えない。となりの部屋に聞こえてないだろうな?
「やめてやめてやめてやめてええええええええええぇぇぇぇ!!」
両手が塞がっている奈緒ちゃんは耳をふさぐこともできず、顔をしかめている。が、やめる気はまったくないようで、さらに指を押し込んでいる。だいぶ抵抗が強くてうまく入らないようで、ぐりぐりと回したりしていた。
「だめだよ奈緒ちゃんっ! そんなとこいじっちゃだめっ!」
「でも香苗ちゃん、気持ちよくないの?」
さっきまでの大声での抗議が嘘のように、突然黙ってしまう香苗ちゃん。それに気をよくしたか、奈緒ちゃんはもう片方の手で香苗ちゃんの性器を愛撫しだす。無毛の割れ目をいじるその手つきが妙に手慣れている感じだ。
やっぱり自慰の経験あるな、奈緒ちゃんは……。
前後からの攻撃に、香苗ちゃんは「あっ、あっ、あうぅぅぅぅ」と弱々しい悲鳴をあげつつ、時々「でも」とか「だめ」とか小さな声で抗議を続けている。
通常の50パーセントでこの拒否感、よほどお尻の快楽に対して抵抗感があるようだが、外見通り大和撫子としての慎み深さの現れか、それとも何かそうなるような経験があるのかな? アナルオナニーを親にみつかってひどく叱られたとか……。それは妄想の行き過ぎだけど、清純を絵に描いたような美少女にそんな経験があったと想像すると、結構興奮するね。
俺がそんなことを思っていると、香苗ちゃんはいつの間にか声をあげなくなっていた。奈緒ちゃんの責めはむしろ激しくなる一方だというのに。
不思議に思って彼女の表情をのぞいてみると、一生懸命歯を食いしばって耐えているようだ。手が絨毯のがしっと掴み、顔を押しつけている。そんなに強く押しつけると、おでこに絨毯の跡が残っちゃうぞ。
香苗ちゃんの努力に反して、その瑞々しい体は陸に打ち上げられた魚みたいにはね回っている。
「あ、ちょっとほぐれてきたかな……」
奈緒ちゃんのつぶやきにそっちの方を見る。奈緒ちゃんはゆっくりと手首に力を入れて、指を押し込んだ。ずるっと第二関節の少し先まで香苗ちゃんの体内に潜り込む。
その途端。
「ああああああああああああああああああああああああああっ!!!!」
これまでで最大の絶叫。背骨が折れるんじゃないかと心配になるほど体を反らせた香苗ちゃんは、脳に直接パンチを食らったかと錯覚するほどの声をあげた。
そして、唐突に、気絶するかのようにくたりと脱力する。
とそこに、折り重なるようにして奈緒ちゃんも体を預けた。どうやら、香苗ちゃんにつられて奈緒ちゃん自身も達してしまったらしい。
その後、起き上がれる程度に回復した2人は服を着て、俺の家を出ていった。来たときよりも一層仲むつまじい様子で、人によってはそこに友情以上のものを感じ取ってしまうかもしれない。
俺が操作した2人の精神状態はほとんど元に戻しておいたが、同性愛については10パーセントほど残しておいた。後で2人が、なぜあんなことをしたのか深刻に悩まないように、だ。
そういや、あれだけ凄いものをビデオに撮ってなかったのはちょっと惜しいかな。ま、突発的なことだったからしょうがない。必要とあらばまた呼べばいいことだし。
ともあれ、実験は全て成功だ。明日にでもいよいよ最終目標、長瀬早百合の獲得へと動くこととしよう。
4
状況は悪くない。というか、長瀬と並んで歩くなんてこれまでの人生の中で、間違いなく最高のひとときのはずだ。
にも関わらず、俺は混乱の極みにあった。
長瀬の、俺に対する好感度をあげるのは問題なく成功した。次に長瀬を俺の部屋に誘わなければいけないわけだが、これが残る中で最後の難関だった。こっちから行くにせよ、精神干渉機により長瀬の欲求不満とアグレッションをうまくいじって向こうから来させるにせよ、クラスメートの見ている前で俺と長瀬が接触するのはまずい。
妙な噂がたつかもしれず、これをなるべく避けたいのである。なぜなら、この場合の妙な噂というのは、俺が長瀬の弱みを握って操っているとか、そういうものになるのがまず間違いないからだ。まあよく考えると半分は合ってるのだが……。
そこで、俺は前に盗み聞きしていた長瀬のケータイのアドレスにメールを送り、待ち合わせ場所と時刻を知らせた。そしてこの件については一切他言無用と念を押しておいた。
で、首尾よく俺と早百合は、俺の家の最寄り駅にて落ち合えたわけである。
駅の一角、あまり人の来ないところに連れ込んで、ここなら知り合いはいないので何も心配いらないと、気持ちの準備をする俺。失敗はありえないとわかっていても、一世一代の正念場。震える声と足をおさえつけて俺は言う。
「俺、長瀬さんのこと好きなんだけど」
すると長瀬は、首まで真っ赤にすると、緊張と微笑みの入り交じった顔でゆっくりうなずき
「う、うん。うれしい……」
と言った。
で、その後10分間会話ゼロ。
もう、マンションの入り口まで来てるんだが、どうしよう?
俺は今の今まで、恋人関係というのはどっちかが告白して相手がそれを受け入れれば成立するものだと思いこんでいたのだが、恋人となる手続きは終わったはずなのに、一向に俺と長瀬が恋人同士になったという気がしない。
まあいきなりは無理にしても、恋人同士らしいことをすればそういう気分になってくるかなとも思った。
しかし、そもそも恋人らしい行動ってどんなことをするんだ?
一緒に買い物とか映画とかが浮かんだが、特に今買いたいものなど無いし、映画も今何をやっているかわからない。
手っ取り早いのは会話だが、恋人同士がするべき会話の内容というのがさっぱり思い浮かばない。数学やパソコンの話は恋人同士らしくないよなあ。
気が焦るあまり汗まで出てきたが、頭は熱に冒されてまるで動かず、俺たちはエレベーターに乗ってしまった。
「ねえ倉内くん……ひょっとして、倉内くんの家に向かっているの?」
「え? ああ、うん、そう、そうだよ」
そういえば、目的地がどこか伝えてたかったな。我ながら相当に混乱している。
「へえ~、倉内くん、こういうところに住んでるんだ。おしゃれなマンションだね」
「え? そ、うかな」
駄目だ駄目だ駄目だ。
せっかく長瀬が話しかけてきているのになんだこの返答は。精神干渉の効果でどんないい加減なことを言おうと長瀬の俺への好意が変わるわけではないが、俺は長瀬と自然かつ情感のある交流をしたいのであって、ダッチワイフ相手に受け答えしているのでは意味がないのだ。
エレベーターが止まり、俺たちは並んで廊下を歩き出す。部屋の前までくると、長瀬が表札を見上げて言った。
「あれ、もしかして一人で暮らしてるの?」
「う? うん、まあ」
「ひゃ~、偉いね。高校生で一人暮らしなんて。ご両親理解あるんだ」
「そうかな」
なんだか、だんだんいたたまれなくなってきた。
ショーウインドウの中のごちそうを見るだけというのも辛いが、実物が目の前にあるのにも関わらずほんのひとかけらずつしか食べられないというのはさらにみじめだ。
玄関で靴を脱ぎつつ、どうしようかと思った時、ふと思いついた。
俺の精神に干渉すればどうだ?
俺はちょっと待つよう長瀬に言うと、ポケットからPDAを取り出して操作。緊張を除去し、積極性を上げ……。
今まで体中のあちこちに入っていた冷たい針金が、猛火の前の氷のように、あっという間に消えていく。
ふーむ、やはり自分の精神をいじるのは恐怖心があって避けてきたが、もっと早く、こうしていればよかったかもしれないな。
麻薬どころか酒・煙草の類をやったことすらない俺だが、覚醒剤を服用するとこんな気分になるのかもしれない。もっともこっちは副作用無しだ。
「倉内くん?」
と、長瀬の声。
「ああ、ごめん。今行くよ」
俺は素早くPDAを操作。長瀬の性欲・性感を増強し、さらに痛覚を10分の1で固定する。ま、痛覚は完全に消すと、かえって危険だからな。
俺は全ての準備を終えると、玄関のところで待っていた長瀬のところへ戻った。
さてと、要するに、だ。行動療法の視点に立てばいいってことだ。
すなわち、動けば気分なんてあとからついてくる。
「こっちだ」
俺は長瀬の手をとった。
しっとりと温かく、おどろくほど柔らかい。男の手と同じ素材とはとても思えない。
「あ……」
長瀬は俺と手をつないだ瞬間声を漏らしたが、ふりほどこうとはしなかった。それどころか、逆に握り返してくる。
ああ、緊張を下げすぎた。この状況でまったくドキドキしないのは味気ない。でもまあ、ゆっくりと胸の奥からワクワクした嬉しさがわいてきて、すごく気分がいい。
俺はそのまま彼女を寝室に連れ込んだ。我ながら実に直接的な行動だな。精神干渉がなかったらここまでくるのにどれだけの時間をかけただろうな。
「男の人の部屋って、もっと散らかってるものだと思ってたけど……むしろ私の部屋よりきれいなぐらいね……」
ベッドと洋服ダンス、時計にヒーターしかない寝室を見まわして、半ば唖然と、半ば残念そうに長瀬が言った。
まあ俺みたいな体型からは普通、汚い部屋を想像するよな。
しかし男に寝室に連れ込まれたことに対する反応がそれってのもどうかと思うが、ウブなんだか、ずれてるんだか、覚悟してるんだか、それとも慣れっこなんだか。……最後のはないと信じたい。
まあいい。俺はどこか汚れてるところはないかと探しているらしい長瀬にそっと近づいた。
「掃除してあげようかと思ったんだけど、これじゃあ」
「長瀬」
「え?」
俺の声に、長瀬がこちらを振り向く。俺はすかさず右手で彼女の腰を抱き寄せ、左手で肩を掴み、彼女の健康的な唇に自分の厚い唇を押しつけた。
目を見開く長瀬。抱き寄せた体が、一瞬強張るのが伝わってくる。
しかし彼女はすぐに目を閉じると、力を抜いて俺によりかかるように体重をあずけてきた。
長瀬がどうかは知らないが、本当のところ、俺にとってはこれがファーストキス。緊張感ゼロ固定のせいで、想像していた激しい動悸は無い。その代わり、すべすべとした唇の感触が、これまで体の奥底でくすぶっていた情欲に火をつける。
俺は長瀬の体をいっそう強く抱きしめると、彼女の唇を割って舌を入れる。
長瀬は最初、戸惑うように歯を閉ざしていたが、すぐに意図を察したのか、口を少し大きく開けて、俺の舌を受け入れた。
探るように長瀬の口の中で、舌をうごめかせると、長瀬もそれに合わせて、俺の舌を撫でるように自分の舌を動かしている。彼女の口の中はどこもぬるぬるとしながら柔らかく、味の無いゼリーを舌で弄んでいるようだ。
おそらく1分ほどそうしていただろうか。
キスを続ける誘惑も強かったが、その先に進みたい欲求に我慢できず、俺は唇を離した。
長瀬は余韻を楽しむかのように目を閉じていたが、やがて瞼を開くと、こちらを非難と微笑みの入り交じった顔で見る。
「倉内くん、キスするならするって言ってよ。私、はじめてだったんだから、心の準備が……」
恥ずかしそうに視線をそらせる長瀬。口づけの最中から、俺の股間はもう制服のズボンを破らんばかりに膨張していたわけだが、その台詞と表情にもう我慢ができなくなった。
俺は右手で上の制服のボタンをむしりとるように外しながら、左手で彼女の手を引っ張ってベッドの上に座らせた。
一番上の制服を脱ぎ、さらにYシャツのボタンを外しながら、にじりよるようにして彼女を押し倒す。
長瀬の長く艶やかな髪が、ぱっとシーツの上に広がった。
「長瀬、最後までいっていいか?」
仰向けになった長瀬は、こくりと唾を飲み込むと。目を閉じて自分も制服のボタンを外しはじめる。俺への好感度最大に加え、性欲・性感の強化のせいで長瀬もそうとう積極的になっているようだ。
しかしよく見れば、ボタンを外すその指がぶるぶると震えているのがわかる。
Yシャツを脱ぎ捨てた俺は、その下に二枚着ている下着を床にたたきつけるようにする。いまだかつてないほどのスピードでベルトを外し、トランクスごとズボンをおろした。解放された俺のペニスが、バネ仕掛けのおもちゃのように跳ね上がり、俺の太った腹にペチンと緊張感の無い音を立ててぶつかる。
すでにスカーフと制服の上を脱ぎ、シャツを脱ぎにかかっていた長瀬がそれを見て、「きゃ」と小さく声をあげて反射的に顔を背ける。しかし顔を背けたまま、横目で盗み見るようなその視線は、俺の股間に釘付けになっていた。
全裸になった俺は、長瀬の横に寝そべる。一人用とはいえ、横幅の広い俺用に大きいサイズのベッドだから、長瀬が押し出されて落ちる心配は無い。
本当は上から覆い被さりたいところだが、さすがに俺の体重でそれをやると長瀬が潰れてしまう。
長瀬もこちらの方に横向きになり、2人で並んで寝る体勢になった。
上からボタンを外していく長瀬に対し、俺は下からボタンを外していく。すると長瀬は、ボタン外しは俺に任せてスカートを脱ぐ。
前が開いたシャツを脱ぎ、下着姿になる長瀬。上下ともわずかにピンク色に染め上げられたシンプルなものだ。
はにかみながら、長瀬はブラを隠すように両手を胸の前で交差させた。さすがに三橋さんほどではないが、充分に豊かなバストがかえって強調されてしまう。
「く、倉内くん、電気消さない? あんまり明るいと……」
申し訳なさそうに言う長瀬の言葉を最後まで聞かずに、俺は枕元に置いてあるリモコンで電気を消した。ふっと視界の多くが闇に飲み込まれる。が、完全に暗くはならない。2重にあるカーテンのうち、内側の薄い方しか閉めていないので、夕日の残り日がわずかに入ってきているからだ。
薄闇の中に、クリームのような長瀬の肌がうっすらと浮き上がった。長瀬が寝そべったまま、上下の下着を外すのがなんとなく見えた。
俺はどうにも我慢ができず、ずりずりと体を長瀬の方へと寄せ、抱きしめた。驚くほど柔らかい。しかし、たとえば奈緒ちゃんとは違い、強く抱きしめてもそれに耐え、応え返してくる強い芯が肌の奥の方に感じられる。俺は彼女をさらに強く抱きしめた。長瀬も俺に手足を絡め、抱きついてくる。
滑らかで温かい肌が、俺の体に絡みつくようだ。俺の方の感覚はいじってないのに、体の表面全てが性感帯になったみたいで、こうして抱き合ってるだけで気が遠くなるほど気持ちがいい。
完全に勃起している肉棒がときどき長瀬の柔らかい太股に当たり、うっかりするとそれだけで発射してしまいそうだ。
「ん……」
今度は長瀬の方から顔を寄せてくる。俺はそれに応えて口づけし、舌を絡めた。
近くで見ると、長瀬の頬が紅潮しているのがわかる。貪るように行うディープキス。その合間の息継ぎが熱い。
オレは長瀬の唾液を味わいながら、少し体を離し、背中に回していた手を前に持ってくる。
両手で長瀬の胸をぎゅっと掴むと、心地よい反発が返ってきた。俺が舌を入れている口の奥から、「ううんっ」といううめき声とあえぎ声の中間のようなくぐもった吐息。
握りこむ度に元の整った形に戻ろうとする弾力、とろけそうでとろけない感触に、俺は夢中になって長瀬の乳房を弄んだ。
キスを続けたままなので、次第に長瀬の呼吸が荒くなってくるのがわかる。
ついに彼女は、俺の舌をふりほどくように顎をそらした。
「ああっああっ、倉内くんっ! 胸が、胸が気持ちいいよっ」
目をぎゅっと閉じ、快楽に耐えている様が俺の興奮を誘う。普段の純粋そうな表情からは想像もつかない、とろけきった表情。こんな顔を見せられて欲情しないやつは男じゃない。
しかし、彼女があえぎだしたのは耳に心地いいとして、これでは唇にキスし辛い。
とにかく全身で長瀬を味わいたい俺は、口寂しくなって、彼女の首筋に、噛みつくようにキスした。
「ひゃあっ」
とそこも感じるらしく、声をあげる長瀬。俺は吸血鬼みたいに肌を吸い、続いて高名な彫刻家の手によるとしか思えない完全な鎖骨に唇を這わせた。
右手はそのまま胸を愛撫し続け、左手は再び長瀬の背に回す。
唇はそのままだんだんと舌に下って行き、いましがた俺の手が思う存分揉んでいた胸の膨らみにたどり着く。
山のすそ野をかけあがるように、舌を這わせながら乳首に到着し、俺はそのピンク色のかわいくもいやらしい突起を音を立てて吸った。
「やだっ、ああ、あっ、倉内くん、それ、気持ちよすぎるよぉぉぉ」
あまりに気持ち良すぎるのか、体が震えている。あえぎ声も涙声が混じりはじめた。
自分が長瀬を気持ちよくさせているということを知って、俺は単に性的な快感だけでなく、もっと柔らかな心地よさが胸に溢れてきた。
と、ふと横目で見ると、俺の右手に長瀬の乳房がぐにゃりと変形させられている。夢中で気づかなかったが、三橋さんの時の経験から言ってこれはちょっと力を入れすぎかもしれない。
冷水とまではいかないまでも、沸騰しきってゴボゴボ泡だってる俺の脳に、責任という沸騰石が放り込まれた。
痛覚をほとんど無くしているから長瀬は痛がらないのだ。仮に少しの痛みを感じても、増幅された快楽に押し流されてそれどころではないのだろう。だから俺の方で加減しなければならない。
俺は胸を乱暴に陵辱するのをやめ、表面をさするような愛撫に切り替えた。長瀬が、ふうぅ────っと長いため息をつく。
自分を取り戻せる程度に快楽が収まったらしく、長瀬はニコニコと微笑みながら再び俺にキスをねだってきた。もちろん俺は答えてやる。
今まで口づけをする時はかならず目を閉じていた長瀬だったが、回数を重ねてだいぶ大胆になってきたらしく、唾液を交換する間にこちらを見つめてくる。女性とこんな近くで見つめ合うなんてことがなかったので、俺の中になんだか気恥ずかしさが出てきてしまうくらいだ。しかもその瞳がとろんと性欲に染まっており、俺のペニスを刺激する。
長瀬の視線にとうとう我慢ができなくなり、俺は横向きに抱き合っていた長瀬の体を持ち上げ、自分の出っ張った腹の上に乗せた。
両手で彼女の腿を、体の両側で抱えるようにする。すると、長瀬もこちらの意図を察したらしく、俺の胸に手をついて上体を起こし、騎乗位の体勢になった。
「長瀬……」
「……倉内くん、いいよ」
自分でも恥ずかしくなるようなやりとり。
薄明かりの中、俺と長瀬はお互い位置合わせに協力しつつ、交わった。
「うう」
「あっ……」
先端が入ったところで、俺はペニスを包み込む、感触に声を上げてしまった。オナニーどころか、三橋さんのフェラすら上回る強烈な刺激。
長瀬も同じらしく、眉を寄せて甘い色の吐息を漏らし、動きが硬直している。
わずかな小休止のあと、長瀬は一気に腰をおろした。
「あああああああああああああああああああああああああっ!!!」
俺が今まで聞いた中で、一番気持ちの良さそうな悲鳴が寝室にこだまする。俺はというと、射精しないように歯を食いしばって声もでない。
ばさっと顔になにかかかった。俺の胸に顔を押しつけてきた、長瀬の髪の毛だ。間をおかず、長瀬が顔を寄せて俺に口づけをし、舌を積極的に入れてくる。
とろとろと舌を伝ってくる長瀬の唾液を飲み下しながら、俺は我を忘れて腰を突き上げた。上に乗った長瀬もそれに合わせて体を動かす。
とうとう限界が来て、俺は長瀬の中に射精した。股間から、この世のものとは思えない快楽をまき散らす電撃が走り、全身の神経を溶かしながら俺の心臓と脳を直撃する。
何分も続いたかと錯覚するほど長い射精が終わった。
俺は発射直後の独特の疲労感に襲われ、ぐったりと脱力する。
と、長瀬がふっと唇を話し、つぶやくように言った。
「ああ……満夫くんのが……熱いよ……」
その淫猥な表情、声色に、俺のペニスが自分でもびっくりするほど素早く回復する。
「あ……」
体内で大きくなったのを感じたのだろう。長瀬が艶のある喜びの声を漏らす。
俺たちは再びピストン運動を再開した。
さすがに一回出すと、こっちには余裕がある。それに比べて長瀬の方はだいぶ追いつめられているようだ。
「あ、あ、あん、ああっ、はぁあ、あああっ、ん、んあっ」
あえぎ声も、次第にせっぱ詰まってくる。俺は長瀬をイかせたい一心で腰を上下させる。我ながらバリエーションに乏しくて情けないが、それ以外よく知らないのだからしょうがない。
「ああ、倉内くんっ、倉内くんっ!!」
長瀬が俺の名前を叫んだ。
その途端、ただでさえきつかった締め付けが一層強くなり、俺の上で揺さぶられていた長瀬の体が硬直する。
一瞬、世界の全てが静止した。
長く熱い凍結の後、長瀬は気絶するように全身から力を抜き、俺の肩口の辺りに顔を埋めた。
「あ、やっぱり出血してるね。ほとんど痛くなかったから大丈夫だと思ってたんだけど」
服を着た長瀬は、股の辺りのシーツが朱に染まっているのを見て言った。
「そうなんだ。初めての時は痛いってよくきくけどね」
と、俺はとぼけて無難な返事。
「全然痛くないってわけじゃなかったよ。私と倉内くん、そういう相性がいいのかな」
と、長瀬は少しはにかんで言った。
心理数学の真髄を垣間見て、長瀬を自分のものにすると決意した瞬間、俺は1つの誓いをたてた。一生を俺の個人的欲求で左右する以上、俺は長瀬を苦痛から守るのに全力を尽くす、と。
これはただ単に、心理数学によって痛覚を消すということに止まらず、長瀬に向けられるあらゆる悪意、あらゆる危害を排除するということだ。
破瓜の痛みを消し去ったのは、その最初である。
これは、奈緒ちゃんや三橋さんのように、一時的に操るのではなく、生涯に渡って意志をコントロールする長瀬への、俺の責任の取り方だ。
そんなものは俺の自己満足に過ぎないとか、それで他人の一生を勝手にすることの罪は消えないという意見もあるだろう。
だが一つだけ断言できる。
俺以上に、長瀬に幸せを感じさせることができる奴はいない。
それが心理数学による偽りの幸せであったとしてもだ。
エピローグ
冬休みがはじまり、初めて女と過ごすクリスマス。
俺と早百合はごく軽めに暖房をきかせた寝室で、激しく交わっていた。
ベッドの上で犬猫のように四つん這いに……いや、両腕はたたまれて、顔がシーツに押しつけられているから四つん這いじゃないな。膝だけ立てて尻を高くかかげ、うつ伏せになっている早百合。俺は彼女の腰を掴み、欲望のおもむくまま腰を前後している。
だいたい、後背位とか騎乗位とか、俺の体重が彼女に負担にならないような体位ですることにしているのだ。
「ああっ、あっ、あう、うんっ、み、満夫くん、満夫くんっ、満夫くんっ!」
俺の名を連呼するのは絶頂が近い証拠。で、俺の方も、普段貞淑を絵に描いたような早百合の乱れた声をきくと、その度に体温と心拍と腰の振りが1割ずつあがっていく。
「早百合! っぅあ」
「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~っ!」
俺が早百合の中に射精する。早百合も同時に達したらしく、シーツを破らんばかりに強く噛みしめて快感に耐えていた。
最初の頃、達するのを同時にするのがうまくいかなかったが、回数を重ねるに連れて早百合の性感をどの程度に設定すればうまくいくのかわかってきた。やっぱりどっちか片方が先にイってしまうよりこっちの方がいい。普通の恋人同士はこの辺でいろいろ苦労するんだろうがな。
俺たちはしばらくその体勢のまま、お互いに言葉も交わさず余韻に浸っていた。
と、何か俺の急に膝の力が抜けてしまう。
いかん、今日4回目でバランスが。
「うお」
「あうっ」
そのままぐしゃっと、俺は早百合を後ろから押しつぶしてしまった。連続した性交と絶頂の余韻でうまく動かない体。あたふたしながら、俺は大慌てで早百合の上からどいた。
セックスの最中、相手にボディプレスをかけるなんてまったくこの体重は洒落にならん。
実は似たようなことはこれまでにも何度かあったのだが、こればっかりは心理数学でなんとかなる問題ではないので閉口している。
「すまん早百合、大丈夫か?」
彼女の顔ののぞき込む俺に、早百合は小首を傾げながら上半身を起こす。
心配する俺の言葉に応えず、ぎゅっと抱きついてきた。
「お、おい?」
「う~ん、やっぱり、満夫くんちょっと痩せたかな」
「はぁ?」
早百合はなおもぎゅっぎゅっと俺を抱きしめたり、二の腕や腿のあたりを揉んだりしている。
「さっき押しつぶされた時ね、なんだか前に比べてちょっと軽く感じたの」
ふーむ、あまり自覚は無いが。基本的に俺は体重計恐怖症なのでここ何ヶ月も体重計には乗ってないからなあ。
「満夫くん、まだする?」
微笑みながらきいてくる早百合。その優しげな明るい笑みに、いやらしい雰囲気が無いのが不思議だ。お互いに全裸で抱き合ってるってのに。
「いやさすがに無理無理」
「じゃあシャワーを浴びるついでに体重計ってみない?」
心理数学の威力については絶対の自信を持っている俺だが、それにも関わらず胸の奥に黒く重い霧が吹き出てくるのを感じた。
「早百合、俺が太っているのは嫌か」
これまで十数年に渡って俺の劣等感を形成し続けてきたこの肥満。ことによるとそれは、心理数学による精神干渉すらはねのけて、相手に嫌悪感を与えているのでは……。
「私は満夫くんが太っていようと痩せていようと構わないわ。でも、痩せていたほうが、満夫くんが私を気遣うことも少なくなるよね」
俺の心肺を満たしつつあった黒い霧。それが、早百合という太陽によって一撃で消え去った。早百合と一緒にいるということは、どんな時も暖かく柔らかな日差しの下を歩いていくのと同じことだ。
俺たちは一度軽いキスをするとベッドから立ち上がり、手をつないで浴室へと向かった。
この手をつなぐという奴が最初、実にうまくいかなかったものだが、今では見ないでも手を伸ばせば自然につなげるようにまでなった。恋人がいるという実感は、セックスの最中ではなくこういう瞬間にこそ感じるものだ。
脱衣所にきた俺は、本当にひさしぶりに体重計に乗ってみる。
デジタルの数字は……92。
「おおっ」
思わず声を出して驚いてしまった。体重が2ケタになるなんて何年ぶりだ?
ああ、そうか。
そもそも俺の肥満の原因は、第1にストレスを食べることでしか解消できないこと。第2にジャンクフードやスナック菓子に極端に偏った食生活がある。
しかし、早百合を手に入れて以来ストレスなどほとんど感じない生活だ。心理数学の方はもちろん進めているが、多少研究に行き詰まっても、早百合がなぐさめてくれるのでストレスは溜まらない。
またほとんど1日おきくらいの割合で早百合が手料理を作りにやってきて、しかもその際、次の日の分まで多目に作ってくれるので食事のバランスもいい。
なるほどこれでは痩せない方がおかしいかもしれない。
俺は体重計を降りて、脱衣所備え付けの洗面所の鏡を見てみる。
む。心なしか、顔も痩せてる気がするな。
これは豚ってよりは……猪ってとこか?
なおも俺は鏡に映った自分の顔を観察する。
いや、痩せた影響ってよりは、なんというか、表情に自信があるせいかもしれないな。
男の価値は外見で決まる。
どんなに他の要素が優れていても、外見が駄目な奴はその時点で敗者だ。
つい1ヶ月前までそう思っていた。
しかし今、俺は真実を知っている。
自分という存在を最大限発揮して生きれば、価値なんか後からいくらでもついてくるのだ。
< 終 >
あとがき
ぎゃぁぁぁぁぁ書いても書いても全然終わらん! 優先度の低いエピソードは描写してないのにいくら書いてもちっとも……!
というわけで、量も日程も予定を大幅に超えて第三話「早百合編」のお披露目となりました。その分、全2話と比べて倍の長さです! 長けりゃいいってもんじゃありませんが。
以前までは、「これぐらいの内容ならこれぐらいの量」というのがなんとなくわかったものですが、最近その予測を大幅に超越するようになりました。これはいいんだか悪いんだか。
まあそれはさておき、実は純愛ものだった「数学する豚」(あー、今通して読み返すと、どれもこれも引っ張るほどの伏線じゃなかったな……)、本編で完結です。えらく読者を待たせてしまいましたが、「途中で投げ出さない」という最低限の義務は果たせたかな。それでは。