マイナス×マイナス プロローグ

「狂ってる?」

 彼女は、首をかしげながら聞き返す。

――ああ、俺は、狂っている。

「なんで?」
 
 首をかしげたまま再度聞く。

――確定事項で改変不可能。世界が正なら、俺は負、世界が負なら、俺が正。

「――アハハ、そうだね。プラスとマイナスか…うまいこというね~」

彼女は笑う。そのフレーズが気に入ったらしく口の中で何度か唱えてはニコニコしている。

「でも、それって狂ってるの?」

――世界と…周りと違うってことは、狂ってるってことさ。

「じゃあ、世界が狂ってるんじゃない?」

――さあ、どうかな?両方が狂ってるのかもしれないよ。

「う―――――ん、よく分かんなくなってきた」

 彼女は、頭を抱え込んで唸っている。

「まあ、どっちが狂ってるのかは置いといて!」

 意外に諦めはいいらしい。

「キミと私は同じってことだよ!」

――……同じ?

「そ、あたしもマイナス」

 そして、一呼吸あけて彼女は言い放った。

「ねえ、じゃあさ…キミと私――つまりマイナスとマイナスが合わさったらどうなると思う?」

【プロローグ】

『今日も会社か~、めんどくさいなぁ~』

――……ん………………。

『給料日まであと十日、昼飯は牛丼だな』
『あ~、頭痛い、昨日飲みすぎなきゃよかったわ』

――…が……聞こえる…………。

『一時間目から水泳って最悪~、今日はアノ日です、って言ってさぼろっかな』
『今日天気予報じゃ雨って言ってたけど傘忘れちゃった。帰りに振ってたらママに迎えにきてもらおーっと』
『三島電化が脱税で書類送検、ってそんなの記事にすんなよな』

――……声…が聞こえる……。

『あー、暑苦しい。この親父あっち行きなさいよね!』
『携帯の電池が一つしかない。充電してくりゃよかった』
『う~、トイレ、トイレ、早く着いて~』
『新しい電子レンジ買わなくちゃ、ポイントどんくらい溜まってたっけ』
『……眠い、ねむい、ネムイ』

――そうか、俺は寝てるのか…それで……。

『やっぱり内中クンの演技はサイコ―ね。来週も見なくちゃ♪』
『おっ、もう次の駅か』
『電車の中で化粧すんなよな、してもしなくても変わんないような顔してんのによ』
『だいたい、二日で済ますなんてのが無理なんだよ』

「…………………」

 ふと、肩に重さを感じて目を覚ます。隣を見ると仕事で疲れているのか、四十代後半くらいのサラリーマンが俺によっかかって寝ている。

「ちっ」

 そのサラリーマンの間抜けな寝顔をみてるうちに無性に腹が立ってきて、俺は舌打ちを一つするとサラリーマンの体を押し戻す。
 
 俺自身、寝起きだったこともあり思っていた以上に力が入ってしまったがよっぽど疲れているのかサラリーマンはまったく起きる気配をみせない。

 少し感心。

 外を見てみると降りる駅まであと数駅だった。もう一度寝るには中途半端なのでつり革広告でも眺めて時間をつぶす事にする。

『食べて痩せる!!簡単ダイエット!』

 デーン、と鮮やかな色で書かれた売り文句。購買意欲を引き立てる。
 
 ……食べて痩せるなんてどうするのだろう。食べるって言ってもまずいダイエット食だったらあんまりおいしくはないよな。おいしくない物を食べてダイエットしても嬉しくない気がするし……

「あんたなに触ってんのよ!!」

 突然の大声。
 
 あまりの大声に普段は他人に無関心な人々も何事かと声の方を向く。

 俺もそれにならい声のほうに目を向ける。

 ……痴漢かな?
 
 電車、しかも満員の中で起きる騒動なんてたかが知れている。スリか痴漢だ。この女性の声から推測するに今回は痴漢だろう。

 毎朝満員電車に乗ると痴漢騒動なんてものはあまり珍しくなくなる。月に一、二回は必ず起きるからだ。

 まあ、その気持ちも分からなくはない。だいたい普通の人でもこんな密閉され押し詰められた状態で魅力的な女性と密着したら、その気はなくとも痴漢したくなるものだ。

 でも、今回は普通の痴漢と少し違うみたいだな。俺は、聞こえるもう一つの声から推測した。

 声の聞こえたほうを見ると、スーツをビシッと着こなし髪を後ろでまとめた気の強そうな女性が、みるからに不審そうなサラリーマンの手首をつかんでいた。

 手首をつかまれてるのが痴漢だろう。

「あんたなに、私のからだ触ってんのよ!どうゆうこと!」

 かなりの剣幕で男のほうに迫る。

 そのあまりの剣幕に周りの人達は口を挟めずただこのやりとりを見守るしかない。まあ、口を挟むような人なんて元々いないけど、

 電車は規則的なリズムを刻むだけだ。

「なっ、なんですか?」

 おどおどした声でサラリーマンが言う。

「なんですかじゃないわよ!あんた私の体触ったでしょ!最低!最悪!」
 
 一方的にまくしたてていく女性。

 周りにいた女子高生達――たぶん俺の通ってる高校だと思われる――も男のほうを不審そうな目で見て、なにやらひそひそしゃべっている。

「……ち、痴漢なんてしてませんよ。間違いじゃないですか?」

 いきなり痴漢よばわれされたことに慌てて反論する男。しかし、気が強い方ではないのだろう声が震えてしまっている。

 そして、それは結果として女性を逆上させてしまう。

「はあ?ふざけんじゃないわよ!人の体触っといて、態度がそれ!?呆れちゃう!むしろ、感心しちゃうよ!!」

 綺麗なキャリハウーマンと見るからに動揺しているサラリーマンじゃあ傍から見ていてもどっちが嘘をついているかわかる。まあ、俺は例外だが……

「大体ね!まわりにあんた以外男がいないじゃないのよ!」

 周りを見回す周辺の人々。

 たしかに見てみると偶然なのか朝の通勤ラッシュの時間帯には珍しく彼女の周りにはサラリーマンがいない。

「ほら、あんた以外いないじゃない」

「で、でも」

 動揺して声がうまくでなくなっているサラリーマン。

とそこへ「おまえなんだろ!この痴漢野郎!」近くで話を聞いていた精悍そうな若者が人を押しのけてきてサラリーマンの肩を掴む。

 いつの時代にもいる正義感溢れる青年なのか、被害にあった女性が綺麗だったのでいいところを見せようという魂胆なのかどっちか分からないが、少なくとも周りにいる人には好感を与えているようでまわりからその青年を応援するような声が聞こえる。

「こいつ警察に突き出してやる!」

 青年の登場に驚き茫然としていた男は警察という言葉で現実に戻り助けを求めようと周りを見渡す、が周りはすでに男を冷たい目で見ている。孤立無援といった感じだ。

 プシュー

 ちょうど駅に着き男がいる方のドアが開く。

「……俺じゃ……ない……」

 恐怖からだろうか、そう言いながら男は、手を振り払い、開いたドアから一目散に逃げ出してしまった。

「あっ!待て、このやろう!」

 突然の事だったので手を掴んでいた青年は、一瞬追いかけるのが遅れてしまい、追いかけたようとしたときには、すでにドアが閉まっていた。

「くそっ、逃がしたか……大丈夫ですか?」

 逃げた男の行方を目で追いながら女性を気遣う青年。

 俺はといえば、男が逃げた事に少し安心していた。あの男の様子だとあのままここにいたら痴漢の犯人として捕まっていただろう。

「ええ、大丈夫……」

 女性と青年がなにやら話している。

 騒動が終わり、車内はいつもの喧噪を取り戻したためよく聞こえないが、たいした事は話していないだろう。

「やっぱり、乗ってきたときから気持ちがわるかったのよね」
「ほんと、目付きが怪しかったもんね」

 俺の横に座っている女子高生が話しているのが聞こえてくる。

 外見だけで判断するのは別に彼女たちに限ったことではないが、今日の俺はそんな事にも少し苛立っていた。

「……それじゃあ」

 そう言って降りていく、さっきの女性。

 俺は自分でも気付かないうちにかなり怒っていたのかもしれない。いや、諦めか。

 まだ目的の駅ではないのに、気付いたら俺はその女性を追って開いたドアから駅のホームに降りていた。

 ホームを探すと電車から降りる人のなかに、改札へのエスカレーターに乗る彼女の姿を見つけることができた。

 すぐに彼女のあとを追ってエスカレーターに乗り改札の手前で彼女に追い付く。

 俺は、一つ深呼吸をすると自分の意図がばれないように気を付けながら話し掛ける

「あのー、すいません」

 彼女は、後ろから呼び掛ける俺の声に気付かないのか立ち止まらずに歩いている。

「すいません」

 俺は、彼女の前に回り込み再度声をかける。

 目の前にいきなり知らない高校生が現れたので一瞬驚いた顔をするが「ん?なにかしら?」すぐに笑顔を作り返事をしてくる。

 こういうタイプは要注意だ。

 普通の人は、いきなり知らない人が現れたら不審そうにじろじろと観察して、なにかしら情報を得ようとするのだが、彼女はそれをしない。いや、してる事を相手に悟られないようにしているというべきか……。

『なに?このガキは?』

 ほら、やっぱり。

 俺の経験からするとたいていこういう人で一番多いのは警察関係の人だが、彼女は警察関係ではないだろう。警察だったらあんな面倒な事はしないで自分で痴漢を捕まえてるはずだからな。

 じゃあ、なんだ?

「なにか用かしら?」再度、聞いてくる。

「少し、話があるんだけど」

 言ってから、失敗したと思った。これじゃあ、俺がナンパをしているみたいじゃないか。

「………………」

 微妙な顔をして俺を眺める女性。

「はぁ」呆れたように息を吐いた後、言う「あのねぇ、最近の若い人の事はよく分かんないんだけどさぁ、こうやってナンパをするわけ?」

 やっぱり誤解されてしまった。

「いや、ナンパじゃなくて……」

「じゃあ、なんなの?私急いでんだけど」

 明らかに苛立っている女性。俺もできれば話し掛けたくなかったよ。

 どう言い出すべきか?呼び止めることに考えがいってしまってそこまで及ばなかった。

「なんもないの?それなら話し掛けてこないでよね」

「あ~あ、朝からついてないわよ。痴漢に遭うし、ナンパされるし……」

 背中を向けながらぶつぶつ文句を言う女性。

 たとえ、彼女にその気はなかったとしても結果的にその言葉はスイッチになってしまった。

「おい」

 今の一言で決心が付いた。少し懲らしめる事にしよう。とは言ったものの、こてんぱんにする気はない。少しでいい。

「なに?まだあるの?」

 今度は、明らかに不満そうな顔を表に出してこちらを向く

「痴漢にあったって?」

「はぁ?」

「いま、自分で言ってたでしょ。痴漢に遭ったってさ」

 言いながらさりげなく改札口の方を見ると、駅員が俺たちを見ていた。

 改札口の横で揉めてるのだから気になって当たり前か、早めに切り上げるか。

「そんなの何で言わなきゃいけないのよ……ええ、確かにさっき電車の中で痴漢に遭ったわよ。それがどうかした?」

「具体的にはどんな風に?」

 駅員の方を向いたまま聞く。

「な、なんでそんな事あんたに言わなきゃいけないわけ?なにあんた警察かなんか?」

 注意深く観察していなければ分からなかったが、痴漢の事を聞いたとき彼女は一瞬動揺した。

「別に、ただ知りたいだけ」

 本当は、こうやって話してるうちに彼女がぼろを出すと踏んだからだ。

 このたぐいの駆け引きは負けたことがない。本当はもう少し焦らしたいとこだが、駅員がこちらに話しかけようとしているので話を終わらすことにする。

「何を知りたいのよ」

「それは……」

 少しためて、俺は小声で彼女にだけ聞こえるように言う。

「なんで痴漢騒動なんてやったかって事」

「っ!」

 息をのむ彼女、俺はその声を背中で聞きつつホームに向かって歩き出した。

 ま、こんなもんだろう。

 電車がない時間帯なのか二、三人しかいないエスカレーターに乗りながら俺は考える。

 まあ何にせよ。少しは彼女もショックをうけただろう。絶対にばれないと思っていたことがただの高校生にばれてしまったのだからな。

 それにしても、痴漢と思われた男も男だよな。堂々としてればいいのに変におどおどするから余計怪しいとおもわれるんだ。

 でも、逃げるとは思わなかった。逃げたら自分が犯人ですって言ってるようなもんじゃないか。

「ちょっと待ちなさいよ!」

 ダンダン、エスカレーターを下ってくる音がする。

 彼女が追ってきたか。

「なに?まだ言いたいことがあるの?」

 ホームにおり、振り返りながら彼女に言う。

 さっきは、落ち着いて見てなかったけど落ち着いて見ると彼女はなかなかの美人だった。ただ、スーツを着ているせいか少しきついイメージがある。

「あんた、このまま帰れると思ってんの?あたしに恥かかせといて」

「はぁ、恥って……」

 面白いことを言い出す。

 予想以上に彼女がムキになっているので面白くなり俺はからかう事にした。

 どうせ次の電車がくるまで時間があるしな。それにもう会う事もないので大丈夫だろう。

「車が故障して機嫌が悪いからって、あれはやりすぎじゃない?」

 俺の言葉に彼女は息をのんだ。

『な、なんでこいつがそんなこと知ってんのよ』

「さぁ、なんででしょう」

 彼女は何かに気付いたようで俺を怯えた目で見る。

『まさか、ストーカー?』

「なにいってんのストーカーじゃないよ」

 ちょっとショックだったりする。今度からは気を付けよう。

 そこで彼女は重大なことに気付いたようだ。

『あたし、さっきから喋ってない』

 うん、うん

『じゃあ、なんでこいつはあたしの考えてることがわかるのよ!!』

「さあ、なんででしょう?自分で考えな」

 その言葉を残すと、彼女がすべてを理解する前にタイミング良くホームに入ってきた電車に乗りこむ。

 いつもは、ばれたら面倒なのでこんなこと絶対にしないが、彼女には二度と会うことないし、彼女にとっても、いい薬になっただろう。

 それにしてもストーカーはひどいな、ストーカーに間違われたりナンパだと思われたりさんざんだ、とひととおり考えたところでふと重大なことに気付く。

 今何時だっけ?

 それから俺が駅から学校まで全速力で走ったことは言うまでもない

< つづく >

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