12. 黒と白
「終っちゃったんだ」
恵は辺りを見回しながら、深く、悲しげなため息を漏らした。
「恵!どうしてここに?..何故...お前は俺のことを.....」
恵は、訳も分らず捲し立てる影一の頬をゆっくりと撫で、髪を鋤き上げた。
「おにいちゃん。私ね、おにいちゃんを助けようと思って...」
「しかし、お前、何故..ここを..知っている筈は...」
「私ね、おにいちゃんと同じなんだって。”力を与えられた者”なんだって」
声も出せない程驚いている影一に向って、恵は話し始めた。
「あれは一週間程前だったわ。おにいちゃんと会えなくなって、寂しくて、おにいちゃんと初めて会った公園に行ってみたの...。明け方のあの公園のベンチに座ってずっとおにいちゃんの事考えてたわ。
しばらくすると朝日が目に射込む程に強くなって..目を細めて港の方を見てたらね、その光が女の人の形になって私に話しかけてきたんだ。
私..いつの間にか眠って夢を見てるんだと思ったんだけど、”その人”はおにいちゃんの事知ってるみたいだったからじっと聞いてたの..。
そしたら”その人”は..”人々を救いなさい”って..”天野影一を止めなさい”って言うの...。
訳わかんなかったけど、”その人”が私のおでこに触れるとお兄ちゃんのいろんな姿が映って見えたわ。
......おにいちゃん、女の人に酷いことしてた...」
影一はいたたまれない気持で、思わず恵の視線を逸らしていた。
「私、そんなの信じられなくて、でも時々感じるおにいちゃんの冷たさを思い出して、もう何も考えたくないって、そう思って家まで走ったの...」
「それで?」
「それから何度か、朝の光と一緒に”その人”は出てきて、私に言うの”天野影一を止めなさい”って..。”それができるのは貴方だけだ”って..。
でも私は本当の事を知るのが怖くて..おにいちゃんに嫌われるのが怖くて...動けなかったわ...。
そしたら今朝、”今日が最後の日です。もう間に合わないかもしれないけど、彼を救いたいのなら行きなさい。”って..。
私、まだ怖かったけど..来たの..。やっと..ここに..。
こんなに酷い事になってるなんて...私が..もっと..早く.....私はおにいちゃんを止める為に、人を救うために選ばれたんだって...その為に私の目に”その人”の力を少し宿してくれたんだって」
「すると俺がお前と出会ったのも、そいつ踊らされてたってのか?...俺の気持も、お前の言葉も全部嘘だったのか?」
責める様な口調で詰め寄る影一に、少し驚いた素振りを見せたが、恵はより強く話し続ける。
「判らない!私の気持は私の物だった、そう思ってた。おにいちゃんを好きな気持は私の心から生れた..って思ってた。でも、もう、今は判らない...」
「いつかホテルに行ったのも、あの時の涙も..そいつの策略か?お前のどんな力で俺を止められたって言うんだ?」
影一はだれに向かっているのか解らない怒りを感じてはいたが、もう感情を隠すのは無意味だと悟っていた。
「それもよく分からないけど、今まで他の人はみんな..怖い人達でも..私が見つめると急に優しくなったわ。今まで気にしてなかったけどそれが、私の力なら...もっと早く、全てを知って、力をちゃんと使えてたら...無理やりにでも、お兄ちゃんを止めてたわ...」
「いつからだ?」
「何?」
「その力に気付いたのはいつだ?」
「5年前よ」
(やはり、俺と同じ...”あいつ”を監視してるって言ってた、天使側か?...結局俺たち二人は、いやここに居る女達も、あいつらの手の上で踊らされて、汚されるだけの存在だったのか?)
自分の中で信じられる物が全て、音を立てて崩れていく。
「ね、おにいちゃん?”あの人”は言ってたわ。まだ間に合うって...おにいちゃんが力を貸してくれたら闇の力を消し去る事が出来るかもしれないって..。もう地上には居られなくなるけど、人々を救う事だってできるわ。そこでもっと力を付ければここの人達も助ける事が出来るかもしれない...」
「何!どうやって?」
影一の勢いに恵が思わずたじろいだ。
「あ、あの...闇の力で精気を取られた人は死んじゃった訳じゃなくて、ずっと魂を無くしたまま生き続けるんだって..。
それは...可哀想な生き方だけど..死なないって事は、いつか直す事が出来るかもしれないじゃない。
その答えはきっと上にあると思うの。だから、おにいちゃん。私と一緒に行こ!上に行って、ここの女の人や外の人達の為に出来るだけの事をやってみようよ」
影一は諦めていた現実の中で、僅かに射し込む希望の光を感じ、高揚する気持ちを抑えられなかった。しかし、それと同時に大きな後ろめたさも感じていた。
「お前、俺を許すってのか?...こんな事をした俺を受け入れるって言うのか?」
「おにいちゃんもこの人達と同じよ。闇に取り込まれた被害者なのよ。...本当のおにいちゃんを私は知ってる..私にしか解らない本当の心...ね、行こう!早く見つかるといいね」
茜が影一の手を取り、いつもの強引さで腕を引っ張った。
...その時、部屋の奥から ガタッ という音が響き、二人は振り返る。
(!?ここに人が?..入れる訳は無い.....。まさか?”あいつ”が戻って来た?)
体を緊張させながら部屋の奥の薄闇を見つめていると、扉の隙間から、うつろな瞳がこちらを覗いているのを見つけた。
「誰だ!」
するとその中から、ふらついた足取りのあゆみが、片足を引きずりながら歩いて来る。
「こしゅしんさま..やっと、みつけた、わたしの、こしゅしんさま....わたし、もっと、おせわをしないと..もっと、おしおきして、もらわないと、りっぱな、めすいぬになれない、から...」
よく聞き取れない言葉を呟きながら、主人の目を真っすぐ見つめて歩いて来るあゆみ。
彼女の目にはそれ以外..恵や、周りに転がる同胞達でさえ目に入っていない様子だった。
何が起こったのか判らず、しかし本当に彼女であってくれたら、と願いつつ影一はゆっくりと彼女の方へと歩き出す。
「あゆみ。本当にあゆみなのか?お前儀式には出なかったのか?」
「ああ、こしゅしんさま、わたし、ねむって、しまって、もうひわけ、ありません、でした。おねかい..おこらないれ....」
3日前の影一の調教で壊れてしまったあゆみは、どうやら今まで意識を失っていたようだ。
精神も肉体もぼろぼろになりながらも、主人の寵愛のみを求めて館を彷徨い、探し求めていたらしい
(....壊したのは..俺だ。こいつをただ動いているだけの牝犬にしたのは..ただ闇に媚びる為だけだった。自分を変える為に生贄にしたのだ。...こんな俺が”あいつ”とどう違うというのか?)
それでも尚すり寄り、主人の腰にしがみつき股間に頬摺りしながら、上目使いにつぶやき続けるあゆみ。
「こしゅしんさま?..もっと、いっぱい、して。いたいこと、とか、きもちいい、こと、とか。なんれも、あたし、うれしい、いっしょ、けんめに、なんでも、やりまふ....」
影一はしゃがみ込み、力一杯にあゆみを抱きしめた。
そしてその感触を噛みしめる様に頬を擦り合わせた後、ゆっくりと頭を振返らせた。
「...恵...すまない。俺にはまだ出来る事が残っていたようだ」
後ろでその様子を悲しげな瞳で見つめていた恵だったが、影一の表情から堅い決意を読取ると、無理矢理笑顔を作りだし、言った。
「うん、そうだね。その人にはおにいちゃんが必要だよ。大丈夫、ここの人達の事、まかしといて。きっと元の姿に戻してあげる」
「すまない、恵。いつか、きっと....」
その先の言葉を繋ぐことは、自分には許されていないように思えて...ただ視線を返すのみの影一であった。
「じゃあ、おにいちゃん元気でね」
「お前もな。こいつらの事、よろしく頼む」
「うん。大丈夫。それよりおにいちゃん、これからはどんどん闇の力が強くなるわ。もう取り込まれないでね」
「ああ、解ってる。もうお前は居ないんだからな」
恵はふいにぶらさがるようにして影一の首に飛びつくと、一瞬の口吻を交わし、光の中へ駈けだして行った。
「あゆみ、二人っきりになっちまったな」
影一はあゆみの頭を抱寄せると、優しく語り掛ける。
「あゆみ、こしゅしんさまがいれは、なんにも、いりません。すっと、こほうしできる。すっと、はなれません」
「ああ、お前は俺の物だ。ずっと離さない...」
どこかの都会の外れ。
闇と光の間に佇むその館には、今日も妖しい男女の嬌声が響いている。
< 第一部 完 >